『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:50-3織田信長朱印状 天正十年四月廿四日  <本能寺の変発生から家康公が逃げ延びるまでの出来事>

2023-02-26 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のま
まとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
【備考】
明智光秀の名前ですが、家臣としての名前は
惟任光秀ですが、逆臣となっては“明智光秀”
と表記します。

 前回の「信長公が本能寺に宿泊するまで」
から本能寺の変直後の家康公一行の脱出劇ま
での出来事をまとめました。

50-3織田信長朱印状 天正十年四月廿四日 
<本能寺の変発生から家康公が逃げ延びるま
での出来事>

・6月1日 明智光秀は、明智秀満・明智次右
衛門・藤田伝五・斎藤利三らを率い亀山城を
出立

三草越えで中国へ進軍したが、ここで引き返
し、老の山へ上り「山崎から摂津国を抜けて
出勢」とお触れを出す

明智勢は老の山を左へ下り、桂川を越え京へ
と向かう

・6月2日 明智の軍勢が本能寺にいる信長を
攻囲する。信長方は「町人の喧嘩か」と思っ
たが、軍勢は時の声をあげ鉄炮を打ち込んで
くる

信長、森(蘭丸)長定から「明智の手の者」
と聞き、「是非に及ばず」

正面御堂の番衆も攻め込まれ、御殿で信長と
一手になる
【厩で討ち死にの衆】
矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五
【討ち死にの中間衆】
藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・
小駒若・虎若・子息小虎若
【御殿で討ち死にの衆】
森(蘭丸)長定・森(力丸)長氏・森(坊丸)
長隆の三兄弟、小河愛平・高橋虎松・金森義
入・菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚
又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・今川弥二
郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田
亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原
鍋兄弟・針阿弥・平屋久助・大塚孫三・湯浅
甚介・小倉松千代

信長は初め弓を取り二~三腰矢を射たが、弓
の弦が切れ鑓で戦う。ひじに鑓きずを受け、
女房たちを逃がす

信長は、御殿に火が回ってくると御殿奥深く
入り、内側から納戸の戸を閉めて腹を切る

妙覚寺にいた織田信忠は、明智勢が本能寺を
攻囲した事を聞き妙覚寺を出て信長と一手に
なろうとする

村井貞勝父子がかけつけ、「本能寺はすでに
陥落し、御殿も焼け落ちた。敵はこちらに攻
めかかってくるはずなので、二条新御所のほ
うが良い構えであり、そちらに立て籠もった
ほうが良い」と進言する

信忠、二条新御所に入り、誠仁親王・若宮
(和仁王)を内裏へと退出させる。信忠はこ
こでの切腹を覚悟し、最後の戦いに立ち向か

【二条新御所で討ち死にした衆】
猪子高就・福富秀勝・野々村正成・篠川兵庫・
下石頼重・毛利良勝・赤座永兼・団忠直・坂
井越中・桜木伝七・逆川甚五郎・服部小藤太・
小沢六郎三郎・服部六兵衛・水野九蔵・山口
半四郎・塙伝三郎・斎藤新五・河野善四郎・
寺田善右衛門

明智勢は近くの近衛前久の御殿へあがり、屋
根から二条新御所に弓・鉄炮を打ち込む

敵が構えに乗り入り火を懸けると、信忠は
「死骸を縁の板を引きはがしその中に入れて
隠すよう」命じた上で切腹。鎌田新介が介錯
する
【本能寺の変で討ち死にした衆】
津田長利・津田勝長・津田勘七・津田九郎二
郎・津田小藤次・菅屋長頼・菅屋勝次郎・猪
子高就・村井貞勝・村井清次・村井貞成・服
部小藤太・永井新太郎・野々村正成・篠川兵
庫頭・下石頼重・下方弥三郎・春日源八郎・
団忠直・桜木伝七・寺田善右衛門・塙伝三郎・
種村彦次郎・毛利良勝・毛利岩・斎藤新五・
坂井越中・赤座永兼・桑原助六・桑原九蔵・
逆川甚五郎・山口小弁・河野善四郎・村瀬虎・
佐々清蔵・福富秀勝・小沢六郎三郎・土方次
郎兵衛・石田孫左衛門・宮田彦次郎・浅井清
蔵・高橋藤・小河源四郎・神戸二郎作・大脇
喜八・犬飼孫三・石黒彦三郎・越智小十郎・
平野新左衛門・平野勘右衛門・水野宗介・井
上又蔵・松野平介・飯尾毛介・賀藤辰・山口
半四郎・竹中彦八郎・河崎与介・村井宗信・
服部六兵衛・水野九蔵

明智光秀、信長父子を討ち果たし「落人がい
るはずなので、家々を探せ」と指示。京中大
騒動となる。

江州勢の上洛を防ぐために、勢田の山岡景隆・
景佐兄弟に「人質を出して同心せよ」と申し
送る

山岡兄弟は、信長への恩からこれを拒否し、
勢田の橋を焼き落とし、居城に火をかけた上
で山中へと引き退く

明智勢は仕方なく勢田の橋詰に要害をこしら
え軍勢を入れた上で、坂本城へ引き退く

<安土城方面>
同じ頃安土城に本能寺の情報が入る

美濃・尾張の人々は本国を目指して引き退く
*山崎秀家は安土城下の自邸に火をかけ、山
崎の居城へと引き退く

・6月3日 安土城の留守番をしていた蒲生賢
秀は子息賦秀を日野谷から呼び出し、城内の
上臈衆・御子たちを引き連れ、日野へと退出
していく
*安土城は木村次郎左衛門に預ける

・6月3日 佐々成政・柴田勝家、山本寺(さ
んぽんじ)景長を魚津城に攻陥

<徳川家康一行>
同じ頃、徳川家康一行・長谷川秀一は本能寺
の情報を堺で聞く

6月4日 徳川一行・長谷川は宇治田原越え
で退いていく
*穴山信君はここで一揆に殺害される

桑名から船に乗り熱田の湊へ

以上で“信長から細川藤孝への手紙”のカテゴ
リーはいったん完了です。吉川弘文館刊「永
青文庫叢書細川家文書中世編」には日付不明
の書簡もありますので、時期を見計らって現
代語訳をアップしていきたいと思います。

**純野のつぶやき**
「信長公記」の作者太田牛一は、二条新御所
で信忠が「(自分の)死骸を縁の板を引きは
がしその中に入れて隠すよう」命じた上で切
腹と書きましたが、実はこれが徳川の初期の
時代では書けなかった信長公の真の最期だと
したら・・考えただけでぞくぞくします!焼
け落ちた本能寺の縁の下に隠れていた信長公
は、ひじの鑓きずをかばいながら脚の強い馬
に乗り柴田勝家が待つ北陸の方面へ・・

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

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