『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:50-2織田信長朱印状 天正十年四月廿四日  <前回書状から信長公が本能寺に宿泊するまでの出来事>

2023-02-19 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。

 前回の「織田信長朱印状 天正十年四月廿
四日」から信長公が中国進発のために京都本
能寺に宿泊する時までの出来事を時系列でま
とめてみました。

50-2織田信長朱印状 天正十年四月廿四日 
<前回書状から信長公が本能寺に宿泊するま
での出来事>
・4月21日 信長、岐阜を出立し、当日中に
安土に到着
*近国から安土へ陣中見舞いの者で門前市を
なす

・5月7日 秀吉はすぐに高松城へ詰め寄り、
状況を見た上で水攻めを決定

・5月 神戸信孝、阿波へ進軍するため軍勢
を召集
 ↓
・5月11日 信孝、住吉へ参陣。四国へ渡海
の準備

・5月14日 徳川家康・穴山信君ら、信長の
呼び出しにより江州入り
 ↓
惟住長秀が番場に仮殿をたて、一宿の振舞い
を供する
 ↓
徳川家康一行、安土へ参着
 ↓
信長公から「宿所は大宝坊がよい」と指定が
あり、振舞いは惟任光秀に命ずる
*光秀は15~17日の三日間、家康一行を供
応する

・5月 信長公、秀吉の水攻め決定の件を聞
き「天の与ふる所なので、自ら動座して中国
の歴々を討ち果たし、九州まで一篇に平定す
る」と言い下す
 ↓
堀秀政を使いとして、秀吉に詳しく指示。
「惟任光秀・長岡忠興・池田恒興・塩河吉大
夫・高山重友・中川清秀は先陣として出陣す
るように」と命じ、各人に暇を下す

・5月19日 信長、安土惣見寺で幸若義重に
舞を舞わせ、徳川家康一行と観覧
 ↓
・5月20日 信長、「四座(観世・宝生・金
春・金剛)による猿楽は珍しくないので、丹
波猿楽の梅若家久に能をさせ、家康一行に辛
労を忘れさせるために見物させるよう」指示
*桟敷には、近衛前久・信長・家康・穴山信
君・楠正虎・長雲・宮内卿法印・二位法印
*芝居には、小姓衆・馬廻り衆・年寄り衆・
家康の家臣衆

まず幸若が舞いを舞う。一番「大織冠」二番
「田家」ですばらしいでき

能は翌日の予定であったが、まだ日が高かっ
たので、梅若が能を演ずることになる。が、
運悪く梅若の能の出来が悪く、信長は腹を立
て折檻する

信長は、菅屋長頼・長谷川秀一を使いとして、
楽屋にいた幸若に、「能の後で舞いを舞うの
は本式ではないが、信長の所望もありもう一
番演じ候え」と伝える。幸若は「和田酒盛」
を舞い、また優れた出来であったので、信長
の機嫌も直る
 ↓
*信長は森長定を使いとして、幸若に褒美と
して黄金10枚を下す
*梅若については、能の出来は悪かったが、
「黄金の出し惜しみをしていると思われるの
もどうか」と考え直し、よくよく言い含めた
上で金子10枚を下す

・5月20日信長は、惟住長秀・堀秀政・長谷川
秀一・菅屋長頼の4人に、家康一行への振舞い
の準備を命ずる

安土城中の江雲寺殿を座敷として、家康・穴
山信君・石河数正・酒井忠次・このほか家老
衆に食事を出し、信長自ら御前を据える
 ↓
食事が終わると、家康・お伴の衆上下残らず
安土の山へ召し寄せ、帷子を下す
 ↓
・5月21日 家康一行、信長の勧めにより、
京都・大坂・奈良・堺を見物するために上洛。
信長方からは、長谷川秀一が案内者として同

 ↓
「織田信澄・惟住長秀は大坂で家康公に振舞
いを行うように」と命じられ、両人大坂へと
参着する

・5月26日 惟任光秀、「中国へ出陣」と称
して坂本を出立し、丹波亀山城に参着

・5月27日 光秀、亀山から愛宕山へ参詣。
一泊参籠し、太郎坊の御前で二~三度くじを
引く

・5月28日 西坊で、西坊行祐・里村紹巴ら
を招き、連歌の会を興行百韵を神前に備え、
当日亀山城へ帰城

・5月29日 信長、上洛のため安土を出立
【安土城留守衆】
津田源十郎・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・
遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田
忠兵衛
【二の丸の番衆】
蒲生賢秀・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・
鳴海助右衛門・祖父江五郎右衛門・佐久間盛
明・蓑浦次郎右衛門・福田三河守・千福遠江
守・松本為足・丸毛長照・鵜飼・前波弥五郎・
山岡景佐

信長は、小姓衆二~三十人を召し連れて上洛
*今回あらかじめ「すぐに発向することにな
るので、出陣の準備をしておくこと。事が起
き次第出立すべきこと」とお触れを出してい
たので、有力武将のお伴はなかった

信長、本能寺へ宿泊

⇒次回、「本能寺の変から徳川家康一行の脱
出行」へと続きます。

**純野のつぶやき**
テレビドラマや歴史小説の大先生が織田信長
の物語を描く場合、
「明智光秀は徳川一行への料理の出来がよく
なく、信長公から激しくせっかんを受けた!」
ということになっていますが、信長公記をよ
く読むと、上記の通り、
・徳川一行が江州参着の折、信長公から「宿
 所は大宝坊がよい」と指定があり、振舞い
 は惟任光秀に命ずる
 *光秀は15~17日の三日間、家康一行を供
 応する
とありますから、信長の暗殺部隊であった惟
住(丹羽)五郎左衛門から離れることができ
て家康公一行も胸をなでおろしていたのでは
ないでしょうか。また、家康公の気の短さか
ら見て、いくらなんでも三日間まずい料理を
食わされて文句を言わないとは思えません。
饗応側の不始末があったら、もっと早くふる
まう主を変えていると思います。その後、
・信長は、惟住長秀・堀秀政・長谷川秀一・
 菅屋長頼の4人に、家康一行への振舞いの
 準備を命じており、ここで惟任光秀の名前
 は出て来ない
・その安土城内での振舞いの時、信長自身が
 御膳を据えた
・信長は、「織田信澄・惟住長秀は大坂で家
 康公に振舞いを行うように」と命じ、両人
 大坂へと参着する
となっています。ということで、
⇒信長公記では、安土城本殿での徳川一行へ
 の振舞いで、惟任光秀の名前は出てきませ
 ん。江州⇒安土城本殿⇒堺での振舞いは、
 基本的に織田家3トップの一人惟住長秀に
 任されていました。
☆また、信長自身が御膳を据えたということ
 は、家康が名前がまだ竹千代で、織田家に
 捕虜として匿われていたころからの幼馴染
 に対して、「毒はいれていないから安心し
 て食え!」と示すためだったものと思いま
 す。
どちらも、信長公の気配りの細かいところで
す。

以上

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

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