楠木正虎(くすのきまさとら)[1/2]
〔現代かなづかい〕くすのきまさとら
※記事量多いので二回に分けての投稿です。
※下線部は信長公記以外の記事によります。
長安。河内守、入道して長諳、式部法印。
信長・秀吉の右筆。
書を飯尾常房に学び、世尊寺流の当代一流の
書家であった。始め大饗長左衛門といい、
楠木正義の子孫と称し、信長のとりなしで
正親町天皇に願って正成ら楠木氏の朝敵の
勅免を受け、正虎も楠木氏を称し従四位上・
河内守に任ぜられた。
1575年7月上京・下京の衆が信長のために
妙顕寺で能を興行。そこで能を観る。
1580年8月信長は佐久間信盛・信栄父子に対し、
大坂で十九条にわたる折檻状を書き
上げ、楠木正虎・宮内卿法印・中野
重吉を使いとして送り、国外退去を
命ずる。始め高野山まで下るも許されず、
熊野の奥に逐電する。
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長安。河内守、入道して長諳、式部法印。
信長・秀吉の右筆。
書を飯尾常房に学び、世尊寺流の当代一流の
書家であった。始め大饗長左衛門といい、
楠木正義の子孫と称し、信長のとりなしで
正親町天皇に願って正成ら楠木氏の朝敵の
勅免を受け、正虎も楠木氏を称し従四位上・
河内守に任ぜられた。
1575年7月上京・下京の衆が信長のために
妙顕寺で能を興行。そこで能を観る。
1580年8月信長は佐久間信盛・信栄父子に対し、
大坂で十九条にわたる折檻状を書き
上げ、楠木正虎・宮内卿法印・中野
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