経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝 松尾静麿

2021-05-16 20:48:49 | Weblog
経済人列伝 松尾静麿

 現在倒産に近い事態を引き起こし問題になっている日本航空を、専務取締役としてさらに第二代社長として立ち上げた松尾静麿の活躍録です。静麿は1903年(明治36年)佐賀県武雄市(現)に生まれました。次男坊です。家は代々の庄屋であり、父親は松尾建設という会社を経営し、土地のボスでした。静麿は生来手先が器用で、数学が得意でした。佐賀中学校入学、テニス選手として活躍し、四修で(5年間通学するところを4年でパス)卒業したと言いますから相当な秀才でしょう。佐賀高校から九州大学機械工学科に進みます。1928年(昭和3年)卒業します。前年に始まる金融恐慌で中小銀行はばたばた倒れ、資金繰りに窮した企業も倒産します。以後も金解禁、世界大不況と不景気は続きます。静麿も就職難に出会います。九州での就職を希望していたので、三井鉱山を受けます。落ちます。日本鋼管は見学した工場が汚いので蹴って、結局東京ガス電気工学という会社に入ります。ここで飛行機の設計を担当させられます。人生の方向はこうして決められました。
 不況が進行する中、自社の将来に不安を抱き、2年後航空局の検査官に転進します。この当時としては飛行機関係は成長産業です。また簡単に転進できたように書かれていますが、多分静麿が優秀だったからでもあるのでしょう。朝鮮で二箇所の飛行場に務めます。1937年(昭和12年)34歳、大阪飛行場長に大抜擢されます。若いので貫禄をつけるために口ひげをはやしたそうです。大阪に新飛行場を作る計画が持ち上がります。大阪飛行場建設資金募集委員会を作り幹事役として活躍します。目標500万円のところ1500万円も集まり、伊丹に民間用の、八尾に軍用の飛行場を作りました。残額は国に寄付します。土地の価格の安いころだったんですねえ。終戦時は航空局次長格勅任航空官でした。
 敗戦、航空局は解散させられます。GHQ(占領軍司令部)は日本に飛行機を持たせない方針でした。しかし米軍機の保安や管理、無線誘導などの仕事は必要です。航空局の代わりに航空保安部が作られ静麿はその部長になります。総員150名です。静麿は将来を期し、将来日本も民間航空ができると見通して、優秀な技術者を集中させ、専門家を確保します。GHQからはにらまれ、MPの尾行もつきました。昭和24年航空保安庁長官になります。将来の民間航空の発展を期して、外国の航空会社が資本提携をしかけてきますが、静麿はすべて拒否します。日本の空は日本人の手で、というのが彼の(彼のみならず大多数の)意見でした。
 GHQの、日本に飛行機を持たせない方針は徹底していました。戦前新興飛行機メ-カ-として活躍した中島飛行機は戦後富士重工業以下12社に解体され、飛行機製造とは全く関係のない、いわゆる平和産業に従事させられています。
 1951年(昭和26年)日本航空株式会社ができます。民間航空営業許可になったら、多くのグル-プが名乗りを挙げました。藤山愛一郎のグル-プ、パイロット集団のグル-プ、関西私鉄集団に東急コンツエルンのグル-プなどなどです。結局合同して、藤山愛一郎の統率下にまとまります。藤山が会長、日銀副総裁の柳田誠二郎が社長、静麿が専務取締役です。この中で飛行機の専門家は静麿だけです。資本金は1億円でした。当時役人が民間会社に転出するのは大変なこととかで、静麿の日航転出には時の首相吉田茂の承諾が必要でした。民間航空といっても占領下の日本ではまだ飛行機は持てません。ノ-スウェスト社の飛行機を乗務員ごとチャ-タ-して、翼に日の丸をつけて運航させました。
 昭和27年は出来事の多い年でした。4月木星号が墜落します。これを機に、日本航空整備株式会社が設立されます。(日航60%外資40%の出資、10年後に日本航空に合併)。この年日米講和条約が締結され、日本は占領軍下から解放されます。自前で飛行機を持ち、飛ばしてもいいことになりました。ダグラスDC-4型2機を購入し、自力で航空会社を運営します。日本の航空界は7年遅れていたことになります。
 昭和28年、日本航空株式会社法が成立し、日本航空は改組されます。政府と民間がともに10億円づつ出し合う半官半民の会社になりました。ちなみにアメリカを除けばどこの国も航空会社の経営には国家が強力に援助しています。ルフトハンザ(ドイツ)、アリタリア航空(イタリア)やオランダ航空などの資本金の半分以上が国費です。
 1954年(昭和29年)日航は始めて国際線を獲得します。東京-ホノルル-サンフランシスコ間の航空が可能になります。第一便乗客は5人、二便は1.5人(大人と子供)、第三便は12人でした。国際線は赤字が続きます。幸い国内線が活況だったのでそれで補填します。昭和34年(会社設立後8年)に始めて5%の配当が可能になりました。国際線が黒字になるのは昭和38年を待ってです。ちなみに客が飛行機を選ぶ基準は、安全、サ-ヴィス、発着時の精確さだそうです。
 1960年(昭和35年)ジェット機ダグラスDC8型を購入します。時代はジェット化します。ジェット機は速度も容量もプロペラ機の倍になります。総じて運航機能は4倍、その分運賃は切り下げられます。もっともジェット機の購入費は高いので、大人数でありまた長距離でないと、赤字になります。それだけリスクが高いのです。さらにSST(超音速旅客機、音速の2-3倍の速度)になるとなおさらです。飛行機がかくのごとく進歩すると、飛行場も大きくしなければなりません。後に成田や大阪湾に新飛行場ができました。この間静麿は32年副社長に、35年社長になっています。
 ジェット機の時代になると、航空は大規模化、長距離化が望まれます。そのためには世界一周可能な路線を獲得しなければなりません。交渉の末昭和40年日米航空協定が結ばれます。相互に首都圏に乗り入れることと、以遠権が交渉の眼目です。日航はニュ-ヨ-ク以西、ヨ-ロッパ(英国を含む)の以遠権を獲得して、世界一周航路を完成させます。こうなれば、例えば東南アジアや中東まで客を運び、そこから欧州に乗客を運び、さらにアメリカへ、日本へと、1機の飛行機を有効に動かせます。
 1941年日ソ航空協定が締結されます。東京-モスクワ間の首都圏相互乗り入れと、アエロフロ-トを日ソ共同でチャ-タ-して運営(可及的に早く日本機の乗り入れを図る前提で)することが決まります。モスクワ経由の航路はヨ-ロッパへの最短コ-スになります。この時点つまり1966年(昭和41年)、日航の総職員数は9000人でした。昭和26年日航発足時は150人でした。
 静麿はなによりも安全第一を心がけて経営しました。交通機関で事故が起こると大騒ぎになるのは常の事ですが、飛行機の場合は乗員の100%が死亡します。信用に影響し、それを取り返すには長い時間が必要です。機長は臆病者といわれる勇気を持て、少しでもおかしいと思ったらすぐ引き返せ、が静麿の方針でした。夜に電話がかかると、まず覚悟して電話にでたそうです。緊張を強いられる仕事ではあります。昭和41年の時点で日航の事故率は世界で最低でした。
 静麿という人は家庭第一主義に徹しました。中学校の同級生の妹と恋愛し無事結ばれています。家庭第一主義は社員にも要求しました。夫婦喧嘩でいらいらして操縦桿を握ると確かに判断も不安定になりましょう。
 (1966年昭和41年、松尾静麿63歳の時点での記録)
   
参考文献  空に生きる ダイヤモンド社

(付記)
 1980年代二つの大事故が起こります。浅間山に日航機が激突した事故と、同じく日航機が駿河湾に突っ込んだ事件です。後者の事件では機長は統合失調症と診断されています。機長は妄想に駆られて、故意に(?)海に突っ込んだようです。日光の信頼は薄らぎます。
 2000年代に入って日航の経営は急速に悪化します。原因は過剰投資、つまり経営規模を広げすぎて不採算路線を作りすぎた事と、人件費の高騰です。日航には複数の組合があり、極めて戦闘的な組合もありました。15年前くらいに聞いた話ですが、日本人パイロットの給料が高く、会社は米人パイロットを雇いたかったそうです。後者は前者の半分の給料で雇えたといいます。2010年1月会社更生法申請、受理、同年12月日本航空インタ-ナショナルに吸収合併。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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