経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

徳川合理主義、発見日本史(5)

2013-04-29 00:02:21 | Weblog
     徳川合理主義,発見日本史(5)

 徳川幕府が政治を主宰した江戸時代は古い教科書に書かれているのとは全く異なり、極めて合理的制度の時代であったといえます。それを政治経済そして思想などの諸面から考察してみましょう。
① 綱吉-吉宗-意次
 5代将軍徳川綱吉は、生類憐れみの令という悪法(?)のイメ-ジが先行して、犬公方と仇名され、暴君、わがまま将軍のように誤解されますが、実体は徳川幕府の転換期を乗り切った重要な将軍でした。彼の代になって江戸城の金蔵は底をつきます。財政難です。江戸初期の開墾、インフラ投資により庶民は豊かになりましたが、米遣い経済による武士層は流通経済の発展から取り残されて相対的に困窮します。幕府も同様です。そこで綱吉はまず幕府直轄領を治める代官制度を根本的に変えます。それまでは土地の有力者を代官にして農民との仲介役として年貢を取っていましたが、綱吉以後代官を中央政府からの直接派遣として、徴税を合理化し、中間搾取を排除します。この措置は同時に中央集権制の強化です。また貨幣を改鋳します。その際同じ一両小判でも含有される金の量を減らします。減らした分だけ幕府は金量を得するわけです。これを出目と言います。確かに悪鋳ではありますが、この措置は同時に流通貨幣量の増大策でもあります。インフレにはなりましたが、景気もよくなりました。綱吉政権のこの二つの政策は、それまで自然経済とでもいうべきものに任せていた、政治や経済に国家が積極的に介入することを意味します。一つの重要な転機です。綱吉政権で始めて首相という存在が確認されます。勝手係老中(経済専管大臣)の地位の設定です。経済に責任を持つ存在が首相の役目を務めます。政治の合理化です。同じ頃地球の反対側にあるイングランドではウオルポ-ルが現れて、第一大蔵卿となります。彼がイングランドの初代首相です。綱吉の生類憐れみの令が行なわれた背景には綱吉の文治政治があります。彼は動物そして人間の争闘が大嫌いでした。江戸の街中で犬が噛み合い、さらに捨て子が犬に食われる風景に綱吉は我慢できません。人間の争闘に関しても同様です。人間が切りあいして血を流すことを彼は嫌いました。浅野内匠頭 が殿中で刃傷沙汰を起こし、厳刑に処せられたのもこの綱吉の性向と文治主義によるところです。綱吉が47士を切腹させたのも同様です。綱吉のこの処置を積極的に支持したのが次項で述べる荻生徂徠です。ともに文治主義、政治の合理化という点では共通する事項です。
 八代将軍吉宗は、経済政策では前代の新井白石を踏襲し貨幣の中に含有される金銀量を増やしました。貨幣への信頼を取り戻すためです。同時にデフレになり武士も庶民も困窮します。吉宗は武士層の復興を念願としていましたから、米価の低下は困ります。かといって米価が上がると零細庶民が困窮します。江戸市中の米価安定と景気回復の両天秤に苦労した挙句の果てが元文の改鋳です。この時貨幣の中の金銀含有量を引き下げ、その事実を告知するとともに、発行される貨幣量を増加させました。この改鋳にはもう一つの面が含まれています。金銀比価を公定して金に対して実質的には少ない銀量をもって銀貨を発行することです。
 この政策は田沼意次の政権に持ち越されます。意次は明和5モンメ銀、さらに南リョウ二朱判という銀貨を発行し、実質の地金レイトが金銀で9対1のところを12対1で交換させます。このレイトで計りますと金貨で計算した貨幣量は4/3に増えます。この措置は同時に銀経済圏であった大阪の経済を首都である江戸の金経済圏に従属させ、同時に大阪の資本を江戸に吸収する事になります。すでにお解かりのこととは思いますが、この措置は金本位制であります。田沼政権は金本位制を強引に遂行する事により、流通貨幣量を増加させ、幕府財政を強化し、政治が経済に対して持つ統制力を強めました。これは1717年ニュ-トンにより提唱され不完全ながら設置されたイングランドの金本位制につぐ二番目のものになります。少し発想が跳びますが、倒幕と明治維新は江戸幕府により為された金本位制への、大阪及び西日本経済圏の逆襲ともいえます。事実明治政府は維新以後30年間銀本位制を採り続けました。なお意次の時代は蘭学が勃興した時代であり、蝦夷探検も盛んに行われました。意次という人は寛容な人で、他人の意見をよくいれ積極的にそれを実行しました。意次が浅間山の火山爆発で失脚しなければ、千島列島はおろか樺太からカムチャッカ半島まで日本の領土になっていたかも知れません。
② 徂徠-梅岩-尊徳
先項では政治経済の実践者に関して述べました。この項では経済政策の提案者、つまり広義の意味で経済学者といってもいい人の言説を紹介します。まず荻生徂徠。かれは政治経済現象を、朱子学が言うような自然に与えられ、自然に運動する存在としてとらえる態度を排し、政治は作られ変えられるもの、政治は人為であると断定しました。同時に都市を中心とする経済を旅宿の過程ととらえました。旅宿は人間が一定の人為的意図をもってするものです。この比喩は極めて正鵠を射ています。徂徠は、礼法は衆議の束として、衆議制を公認します。さらに百姓町人からの人材登用を強調し、身分制の実質的否定を唱えます。経済行為が円滑に遂行されるための民事法の制定と行政の文書化を提唱します。この提唱は吉宗政権による「お定書百か条」で答えられました。景気回復のために貨幣流通量の増大策を進言し、封建制度のアキレス腱ともいえる土地売買の禁止に反対し、土地の自由売買を提案します。この提案は資本主義の原理そのものです。これらの政策は150年後に明治政府で強力に実施されますが、徂徠は100年-200年先を見通していたことになります。
石田梅岩の思想の最大の眼目は、倹約即契約、という等式です。梅岩は倹約とは単に物金を惜しむことではない、肝心なことは契約を守って物金の円滑な流通を保証することが、真の倹約なのだと言います。こうして梅岩は流通経済を肯定します。のみならず町人は流通経済に積極的に参加して社会の利便を増大させているのだから、武士に劣らずむしろ武士よりもよく社会に貢献しているとして、身分制度を否定しました。さらに朱子学の性理を自性と置き換え、社会は不変の過程ではなく、成員各自が自らの自性でもて積極的に介入すべき過程なのだといいました。そして政治で重要な事は、食い食わせること、として財貨の循環を容認しました。
二宮尊徳は、仕法という民政建て直しの実践活動を進める中で、天禄として人間の欲望を肯定します。この欲望を実現し又一部は抑えるために推譲と分度つまり合意と衆議を勧めます。尊徳は農本主義者ではありますが、貨幣の経済に果す役割を熟知していました。ある地域が災害で荒廃しかけた時、彼は領主に、ともかく仕事を与えて雇用を増やし、そこに金を落せと勧めました。現在の経済学でいう有効需要の創造です。
私は徂徠、梅岩、尊徳という極めて個性のある三人の思想家を挙げました。彼らの考えに共通するものは、徂徠がはっきり提唱する、人為としての政治です。換言すればそれは社会契約説になります。その結果が衆議性です。次にはこの時代の衆議性について論じてみましょう。三人の思想が、西欧のホッブス、ロック、ヒュ-ム、スミス、マルサスなどの考え方の大部分を含んでいることは一目瞭然でしょう。18世紀の英国は合理主義の時代と言われました。日本も同様です。
③ 評定会議と郡中議定
 武士とは本来開発領主であり農民の上層部に属する連中でした。鎌倉時代ころから農民は宮座という集団に結集し事実上の自治組織を立ち上げていました。これを武士層に敷衍したものが鎌倉幕府の評定衆であり、それを保証する法典が貞永式目です。ちなみにこの式目は同時代のイングランドのマグナカルタに内容が酷似しています。江戸時代も同様です。将軍は絶対的権力者ではありますが、幕府政治は基本的には老中と若年寄による7-8名の閣僚の合議制で遂行されました。徳川家の前身は村の土豪つまり庄屋さんですから、日本の農村の自治の伝統を踏まえて形成されているのです。重要事項の決定は、この閣僚に寺社、町、勘定の三奉行と大目付、さらには目付と勘定吟味役、そしてもちろん将軍側近の側衆などが参加する評定会議で決められました。将軍が臨席することもあります。評定会議の成員は大きい規模では30名を超えます。この会議は衆議そのものです。なお幕府のみならず諸藩の政治も同様でした。家老と奉行層、目付、側近による合議制が藩政の基本でした。
 村、農民の世界ではどうでしょうか。18世紀中頃から中間農民層の発言力が増大します。彼らは伝統的に世襲されてきた村の指導層である庄屋名主にいろいろ注文をつけて意見をいうようになります。まず大事なことは年貢の額とその割り振りです。そして農事の遂行、村の治安の確保も重大な事項です。こうして農民は庄屋名主さらにその上に位する幕藩体制に対して自己の利害と権利を主張するようになりました。この事態がもめて紛争化した場合、村方騒動といいます。農民は一村だけで団結するのではなく、一郡さらに一国全体で団結し集会を開き、政治に注文をつけます。一郡でかかる行為が行なわれた場合、それを郡中議定と呼びます。農村の実体はこのようなものでした。農村自治の実行部隊が若者組に属する青年です。彼らの発言力は次第に高まり、結果として村内での休日はどんどん増えました。幕末の時点ではひと月のうち10日くらいの休日と祭礼があったとも言われます。当時の農村には衆議性に基づく自治制度が既に確固として存在しました。
④ 以上、徳川時代の政治経済、思想、衆議性(自治制)について簡単にその特徴を述べてみました。私達が習った日本史では、江戸時代と言えば、武士は切り捨て御免で威張っており、身分の格差は 著しく、農民はゴマのように搾られて年貢を搾取され、最低生活にあえぐ哀れな存在と思われてきましたが、近年続々発見される一次資料からの結論ではかなりあるいは全く違うイメ-ジが当時の社会に付与されつつあるようです。農民の一日のカロリ-摂取量は1700-1800カロリ-、摂取タンパク質量は70グラム前後と推定されています。幕末の長州藩で武士層全体の収入は農民層のそれの約2倍程度です。なお封建制度(フュ-ダリリズム)は民主制の原点です。土地と人格の間に契約を入れて関係を構築する封建制度をくぐってきた日本と西欧においてのみ民主制は展開されました。他の諸地域は未だに実質的には血縁関係を媒介とする部族性を脱していません。
⑤ 江戸時代の科学技術について一言します。数学では18世紀中葉には関孝和、建部賢弘などにより、事実上微積分や行列・行列式に関しての知見は為されていました。これは西欧におけるニュウ-トンやライプニッツとほぼ同時代の業績です。微積分と行列といいますと、無限と変換という高等数学の基本的営為です。自然科学の方では西欧が先行します。18世紀後半に起こる蘭学を通じて日本人はそれを学びました。ただし西欧の自然科学といっても、それは高踏的サロンの一種の出し物でしかありませんでした。自然科学が実際の生産技術と結びつくのは、19世紀後半にドイツを中心に電気化学工業の勃興し第三次産業革命が起こってからです。その頃には日本は開国していますから立場は西欧と同様になります。むしろ日本の方がより積極的に自然科学と工業技術を結びつけたとも言えます。その例証が東京帝大に工学部を作ったことです。当時つまり1985年の時点で、伝統と権威ある総合大学に職人の技術としかみなされなかった工学を正式の学問として設置したのは日本が嚆矢です。
 最期におもしろい併行現象を指摘してみましょう。シャンソンと演歌です。シャンソンはパリコミュ-ンに参加した女子達が歌った「さくらんぼうの実のなる時」が最初だといわれます。日本の演歌は川上乙矢が自由民権運動を支持して歌い広めた「おっぺけぺ-のぺっぽっぽ」が最初です。共に1870年代、当事者が時の政府に対して批判的だったところも共通しています。

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