経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人の為の政治思想史(9) 愚管抄

2014-07-08 02:50:00 | Weblog
(9)愚管抄
 「愚管抄」は慈円という僧侶により書かれました。慈円は藤原道長の嫡系の子孫で延暦寺座主大僧正という僧侶としては最高の地位まで上りつめた典型的な貴族僧侶です。彼は歌人としても有名です。慈円は保元の乱の少し前に生まれ、承久の変の結末を見て死去しています。この間保元平治の乱があり、平氏が台頭し、その平氏も壇ノ浦に亡び、鎌倉幕府が出現します。幕府の源氏将軍家も三代で絶え臣下である北条氏が実権を握り、これに反発した後鳥羽上皇が倒幕を企てて敗れ、天皇は廃位され三人の上皇が流されます。これらの事件はどれをとっても前代未聞のものでした。時代の基本的潮流は武士の台頭です。朝廷そして院は平氏や源氏という武家勢力と悪戦苦闘しました。平安時代400年を比較的のんびりと過ごしてきた公卿貴族にとってはこの時代は悪夢のようなものでまさに世の終わりに見えました。そういう状況にあって貴族の頂点にいる慈円は、いやそうじゃないんだ、時代は変化するものなのだ、その変化は治める者と治められる者の交互作用によって起こるのだ、として新しい武家政権を擁護し、武家政権の出現はちゃんとした道理に基づくものだと主張し、その統治を正統化しました。自分が属する階級が衰退してゆく事実を目前に見つつ、新たな時代を肯定し、生きる意味を慈円は承認しました。変化する時代そして権力を承認し肯定することは、その時代には生きる意味を肯定することでもあります。慈円は神武天皇から順徳天皇までの84代、彼の計算では約1600年にわたる日本の歴史を語ります。歴史を振り返りつつ彼は彼が生きる現在を肯定します。愚管抄はカタカナで書かれています。文字を読めない、厳密に言えば漢文を読めない、下々の民衆にも読めるように書かれています。この本は民衆教化の本でもあります。
 慈円が新しい時代を承認するための論理は顕冥の道理です。顕は表に見えるもの、冥は裏に潜みうごめくものを意味します。より具体的には顕とは表から見える政治制度であり、冥とはその下あるいわ背後にあって顕を動かす何物かです。慈円は顕である制度を時代順に三つ設定します。律令制と摂関政治と武家政治です。この顕に対し同じく時代順に三つの冥を対置します。仏教と後見(うしろみ、摂関政治)と武士民衆です。彼は日本の政治制度は、仏教、後見、民衆を視野に入れることにより、それらの力と対立協同しつつ自らを変化させていったと説きます。仏教、後見そして民衆はある意味で政治制度と対立します。政治と仏教は聖俗の関係にあります。政治と後見は公私の関係にあります。政治と民衆は上下の関係にあります。政治は対立する三つの要因を自らの中に取り入れて自らを変化させると、慈円は考えました。
仏教は政治に対して、統治される者が正統とみなして自ら従う統治する権力の正統性カリスマ性、を与えました。後見制は政治制度の中に婚姻制度を取り込み、権力行使を柔らかなものにし、安定させました。後見制は婚姻という個人的関係で政治を動かすことです。政治の中に婚姻という要素を組み込むことにより、政治は個人(統治される者)とより柔らかくそして直接に対峙できます。統治する者は統治される者に対して私の夫であり妻でもあります。統治される者は統治する者に対して私の夫であり妻でもあります。政治に婚姻つまり性愛を対置させ導入する事により、政治は民衆をより寛容に包みこむことができます。慈円は政治制度における後見制の確立を画期的現象と捉えました。それは自らが属する階級の歴史的意義の肯定でもあります。後見制摂関政治は首位と次位の間の婚姻同盟です。後見制は私的な要因を含む柔らかい機構です。後見制は、パパママボク、を単位とする統治機構です。ここで家産というものが出現します。こうして統治は世俗的なものに変容してゆきます。その結果が、ご恩と奉公、という統治様式です。
政治と性の対置が後見制を出現させます。その延長上に統治の世俗化、ご恩と奉公、土地私有と軍役奉仕の交換の関係が成り立ちます。この関係における両者、つまり統治するものとされる者は基本的に対等です。統治される者つまり民衆がより柔らかく政治よって抱きかかえられます。民衆とは武士階層のことです。武士とは本来土地の開拓者であり農場の経営者です。自衛のために武器を携帯するので武士とよばれました。武士は農民であり、武士は農民層から出現しました。武士と農民の関係は密接でまた曖昧です。少なくとも慈円のような上級貴族からみれば武士は農民、民衆一般でした。こうして慈円は新しい武家政権を承認しました。後見制つまり政治への性愛の導入という事跡があったから、家産を媒介とする権力様式である武家政権は肯定されます。この武家政権から正式の衆議機関が生まれます。衆議とはみんなで論議して決めることですから、西欧の言葉を使えば民主制です。日本という国は西欧の歴史とは別個に民主制を形成します。
 慈円は院政を嫌いました。院政は摂関政治と武家政権の間に介在しますが摂関政治ほど柔らかくなく、独裁的で無責任でした。父親である上皇と子である天皇はいつも衝突します。慈円は院政を嫌い、後鳥羽上皇が引き起こした承久の変に対して極めて批判的でした。
 慈円の政治思想における功績は武家政権の承認にあります。武家政権の承認とは時代の変化の肯定です。それは歴史の中で生きる意味の肯定です。難しい言葉で言えば歴史の弁証です。ヘ-ゲルに先立つこと600年前に慈円は弁証法という論理を創造しました。同時に彼は民衆の政治参加を政治思想の中に導入しました。
 慈円は政治を動かす道理として、仏教、後見、民衆という三つの要因を設定しました。特に後見制の意義を強調し、その延長上に統治の世俗性を認め、武家つまり民衆の政治参加を容認しました。この考え方は広い意味において民主性です。そして慈円は政治の変化の論理を、政治現象は論理に従って動くということを明確に解き明かしました。

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