ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

議論の仕方

2005年07月09日 | 教育・文化

 

先日、私のブログで「文明の質」というテーマで、小論を書いて投稿したところ、匿名の方から

<単なる偏見に基づくもので、名誉棄損にあたるものであり、何億人の感情を裏切るものであるため、やめる事をお勧めします。>

というコメントをいただいた。私の文章の内容が、数億人のイスラム教徒の名誉を毀損しているというご批判である。

私としては、諸宗教の事実を客観的に考察して、事実と思ったことを書いただけなので意外だった。確かに、一般的にパレスチナ人の生活水準は、イスラエル人より低いというのは事実であるとしても、それを聞かされる方は、何らかの屈辱を感じるかも知れない。その点で配慮が足りなかったかも知れない。

なるほど、私はイスラム諸国に旅行したことも、身近にイスラム教徒の知人がいるわけでもない。不特定多数のマスコミなどからえられる情報から、蓋然的に推測される論理的事実を書いただけである。それらの情報から得られる情報を、私が「客観的な事実」であると判断して、そこから推論して、その因果関係を、論理を推測して考察しただけである。

改めて、宗教批判のデリケートな問題であることを実感した。とくに、昨日もロンドンでテロ行為があったばかりである。ただ、この文書の中に書いたように、個人的に「イスラム教」を決して毛嫌いしているわけでもない。チャドルやスカーフも嫌っているわけではない。むしろ優雅だと思っている。大多数のイスラム教徒が信仰しているようなイスラム教には好意をもっているとさえ思う。私はイスラム教に偏見を持っているとは思はない。ただ、昨日ロンドンで「イスラム教徒」の名前を騙ったテロ事件が起きた。私が反対しているのは、そうした「テロ事件を肯定するイスラム教」である。

宗教を社会的な事実として考察したとき、私の小論で述べたような事実は該当しているのではあるまいか。もちろん、この匿名の方のように、それが、事実でないと判断し、反論なさるのは、自由である。私もまた、自分の判断を絶対的な結論として圧しつける考えはまったくない。これからも、私は一つの見解として──もちろん、私はそれを正しいと信じている──表明して行くに過ぎない。

また、万が一、私の考えに同意してくれる人がいるかも知れない。しかし、他者の同意の有無、賛否が問題ではない。あくまで、書かれている内容がどこまで論理的に正確で、どのレベルで論証されているか、今後とも、ただそれだけを問題にして行きたいと思う。実際の政治の世界は、民主主義は多数決で決定されるが、科学は、論理であり、論証であり、必然性の説明だけが命だからである。

私の文章のどの点が無責任だというのか、具体的な文脈を指摘して批判していただければありがたかったと思う。それが無いために、私はまだ、自分の考えを訂正する必要を感じないでいる。

 

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