ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

西澤潤一氏の教育論(3)

2008年02月09日 | 教育・文化

たしかに、西澤氏が論じられているように、南原繁氏や彼を継承した矢内原忠雄氏を総長に戴いたこの東大法学部は、その後丸山眞男氏やその後の奥平康弘氏や樋口陽一氏らに代表される「進歩的文化人」民主主義者たちの「神なき民主主義」と「国家論なき民主主義」の本拠地となった。しかしその民主主義論の主張は、国民の野放図な欲望の解放とともに、国家意識なき国民の「ユダヤ化」の一つの原因ともなった。(東大法学部出身の「官僚」たちの国家意識を見よ。)

これらの問題は奥平康弘氏らの現行「日本国憲法」擁護論とも関係するが、今はここでは論じることはできない。もちろん、半導体の理学者である西澤潤一氏にはこれ以上の論考を期待できないのだろうけれども、東大法学部の民主主義論者に対して直感的に氏自身なりの見識を示されているのだと思う。

西澤氏が指摘するように、このような「進歩的文化人」たちは理想主義者であり人類愛論者であるかもしれない。ただそこに問題があるとすれば、その理想に対する夢想のゆえに、冷厳な国際政治の現実や人間の本性が見えなくなっていることである。その結果として、国際政治の中で日本国のとるべき進路を冷厳に判断できない。理想と現実を峻別できないでいる。この点でより現実的な判断をもっているのは、むしろ、西尾幹二氏や櫻井よしこ氏らのいわゆる「保守派」の人たちではないだろうか。最近になってかっての「進歩的文化人」たちの言論の世論における後退と衰微はやむを得ないのではないだろうか。もちろん、それをもって日本国の「右傾化」を危惧する人々には今も事欠かない。

しかし、いずれにせよ、この産経新聞の「正論」の論客の中で、教育改革の問題を論じた識者の中に、国家意識の回復と倫理道徳の根幹としての「民主主義教育」を取り上げたものは誰もいない。それほどに多くの日本国民にとって、戦前の日本の「国家主義」のその帰結と「戦後民主主義」の醜悪な現実とその実態にこりごりと言うことなのかもしれない。

しかし、事実として日本社会の「正常化」を――それは、西澤氏があげられているように、国家の防衛を他国任せにするとか、拉致問題を解決する意志も能力もない主権国家としてのゆがみであるが、――実現するためには、真実の民主主義を、いわば、イギリス・プロテスタンティズムに起源をもつ「古い民主主義」に国家の倫理道徳の教育的根拠を求める以外にないと思う。

それにもかかわらず、今日の教育改革の論議で、識者と呼ばれる人たちがそのことに誰も触れることがないのは、それだけ日本国民の民主主義に対する問題意識のなさやその自覚の水準を示すことになっているのではないだろうか。

この「正論」の識者たちが主張する徳育教育や道徳の教科化と、私の主張する道徳の時間における「民主主義教育の徹底」と異なる大きな点は、民主主義教育では、国民各個人の内心の価値観にはまず足を踏み入れないことである。それらは各個人の良心の自由に任せる。民主主義教育ではそういった内容の問題には立ち入らない。しかし、家庭や学校や企業やさらには国家などに規定されるルールについては徹底的に厳守させる。民主主義教育とは、いわばそうした社会的なルールを厳格に守らせるための形式を充実させることである。そしてさらに今に必要なことは、国民の自由の権利を保障し、その実現のために必要不可欠な国家についての自覚を、兵役の義務に代表されるような普遍的な義務意識を民主主義教育を介して回復してゆくことである。こうした根本の問題の解決なくして、教育問題や年金問題といった特殊な問題についても解決の糸口を見出すのはなかなか困難なのではなかろうか。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 西澤潤一氏の教育論(2) | トップ | 国家の選択――マルクス主義か... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

教育・文化」カテゴリの最新記事