ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

日本の裁判の悲喜劇

2008年06月16日 | 教育・文化
最近の「せいろん談話室」で「この判決おかしい!」がテーマになっていた。以前に私も裁判官の判決のいくつかに疑問を感じて、それを文章にしていたことがある。その時の感想が今も有効であると思い、「せいろん談話室」にあらためて投稿して、その是非を問うてみた。(ハンドル名トンボ)
 
 
 

せいろん談話室に今回のようなテーマが取りあげられるのは、裁判における今日一般の判決内容や裁判制度、さらには裁判官そのものに国民が不信感を持っているからだろう。先にも裁判官によるストーカー行為がニュースになっていた。もちろん、裁判官も神ならぬ人間だから、そうした過失や悪行があったとしても論理的にはまったくおかしくはないのだけれども。
 

それよりも何よりも、最高裁で展開される判決にも奇妙な判決が認められる。とくに靖国神社裁判で「政教分離」をめぐる判決について問題を感じる。宗教や自由の問題について、判決の中に示されている歴史的な思想的な本質理解に欠陥を感じるときがある。とくに国家機関による宗教的行為かどうかについての判断で「目的効果基準」などという欠陥ある法律理論を、最高裁の裁判官がそのまま無批判に踏襲するような認識不足がある。そこには法律以前の裁判官の教養の水準に、哲学的な理解能力に問題があるように思える。
 

浅薄で哀れな哲学しか持ち得ない裁判官によって裁かれる日本国民は何より不幸である。残念ながら今日最新の流行の法学理論や刑罰理論は法律家ならぬ私には皆目わからない。しかし、古い苔むしたヘーゲルの法理論なら多少は聞きかじっている。問題は、現代法学が、ほんとうにヘーゲルの『法の哲学』における「フォイエルバッハの刑罰論」批判や「ベッカリアの死刑廃止論」批判を克服し得たのかどうかである。私はこのヘーゲルの批判は今日なお有効であると思う。(ヘーゲル『法の哲学』第99節、第100節など参考のこと)
 

日本の今日の法曹界の問題も小さくない。とくに弁護士の『利権団体化』や独占的ギルド化によって、彼らは法律の大衆化の方向に反対し、正確なわかりやすさに背を向けている。また、裁判官の専門集団化と純血化による意識の奇形化も心配である。ただ、検察だけは少しはまっとうな仕事をしているのかもしれない。
 

いずれにしても、裁判官の判決や弁護士などの問題の根源は、今日の大学、大学院における法学教育そのものの欠陥にある。すべては彼ら法律家の「法の哲学」の貧困に、さらには、法律家の『哲学』そのものの能力水準の低下による。国家と国民の哲学的教養の劣化こそが問題である。哲学的教養の水源であるべき大学、大学院が枯渇し始めているのである。

「国家指導者論」 http://anowl.exblog.jp/7671044/

国民の宗教的意識の改革や日本の大学、大学院における『哲学教育』の充実と深化に期待するしかないが、これは奇跡を願うようなものかもしれない。

 

 


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