ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

事故汚染米問題と日本の農業政策、あるいは霞ヶ関行政

2008年09月18日 | 政治・経済

 

汚染米の早期売却を指示 農水省、各地方事務所に(共同通信) - goo ニュース

 

三笠フーズという会社が、中国から輸入した事故・汚染米を、さまざまな企業や卸会社に転売したことが問題になっている。本来なら、この「事故米」なるのものは、食料品として消費者に供給されてはならなかったものである。転売先には病院や学校まで含まれ、給食や誕生祝いの赤飯にまで供されたという。また、その他にも焼酎や和菓子の原材料にも使われたらしい。このような事件に見られる、太平洋戦争敗戦以降の日本国民の道徳的な退廃は、国民の間に国家意識のほとんど失われてしまっていることとも無関係ではない。国家意識なくして真正の倫理もないからである。

日本において毎回繰り返される商品偽装・偽造の問題の一つではある。人間から悪の問題を切り離すことはできないとは言え、現在の日本にはあまりにもこうした不正問題が多すぎるのではなかろうか。人間性悪説に立って、犯罪を誘発することのないような行政の制度設計が望まれる。これらの偽装偽造犯罪は、個々人が魔にとらわれて偶然に起こす犯罪であると言うよりも、むしろ、本質は行政の構造問題であると考えた方が正しいと思う。

こうした一連の問題の根本に政府及び行政官庁の公正さとその管理能力の問題が存在しているからである。公務員が国民や消費者のサイドに立って、すくなくとも生産者と消費者の間の中立な審判者として監督管理するのではなく、生産者の側に立つことによってみずから利得をはかり公正であるべきルールを歪めている。

汚染米のみならず、教育の汚染もある。大分県の教育委員会を舞台とする贈収賄汚職の問題で、昨日逮捕された、県教育委員会の教育審議監、富松哲博容疑者などがその端的な例である。もっとも公正であるべき教職員の人事選考で、能力ある合格水準に達した教職志望者を排除して、校長や教頭らの子息や姻戚関係者に縁故で下駄を履かせて不正に合格させる。富松某らの「教育審議監」はいったい何を「監査」していたというのか。この問題もまた政治家の二世議員を輩出する同じ文化的土壌の上に開いた醜く腐った花である。

こうした問題はいずれも、政府や行政の管理行政能力に大きく関係しているように思われる。以前にもたびたび取り上げられたC型肝炎訴訟問題で、厚生労働省の役人たちがフィブリノゲン製剤を投与されC型肝炎を発症した患者のリストを隠匿していたことがあった。また、防衛省の守屋武昌前防衛次官が出入りの業者からゴルフ接待を受けていた。その構図はまったく同じである。公務員や官僚が「国家」や「公共」などの普遍的な利益のために私心なく働くという意識はとっくに失われ、本来の「官僚」の精神もない。地位と職権を自らの私的利害のために歪めるという構図のみが残されている。

政治家や高級公務員の定数を減らし、これらを名誉職として、公的な「Noble Oblige」の高貴な公的精神をもった者だけが従事できるようにならなければだめで、現在のように、私益をむさぼる政治家や官僚を国民が馬鹿にするようでは、誰も幸福になれず世界の笑いものになるだけだ。

今回の事故米・汚染米の問題では、「三笠フーズ」のような地方の零細企業だけが人身御供にさせられている。例によってマスコミも表面的な「小さな悪事」のみを大げさに取りあげることによって、本当の真実から、「根底にある大悪」から国民の目を逸らす役割を担っている。マスコミの無力と退廃もともに問題にしなければならないのではないだろうか。

今回の事故米・汚染米の問題の背景には、日本の農業行政の根幹的な問題がからんでいる。それは国内農業の国際競争力の強化や改革に取り組もうとせず、じり貧に陥りつつある現在の農政を糊塗し続けているという自民党政府の無為無策という現状がある。

日本政府は国内農業の保護を図るために、農産物の貿易自由化に背を向けて、国内米作農家の保護を優先するという名目で――それは自民党の農林関係族議員や農協の利害と一致しているのだが――そのために、ウルグアイ・ラウンドの交渉で一定量の米の輸入を義務づけられることになった。その結果として、外国との自由な競争によることなく、汚染米や事故米の温床となるような米を中国やベトナムその他の国から一定の割合で輸入せざるをえなくなっている。そのことこそが諸悪の根元なのに、その問題の根幹にほとんど誰も触れようとせず、枝葉末節の「三笠フーズ」という中小企業のバッシングに終始している。

もちろん、この会社の不正行為を見逃せるものではないが、一方で農林水産省は、400社にのぼるこの事故・汚染米の転売先企業を公表することによって自らの作為不作為の監督責任をカモフラージュしようとしているように見える。そうした表面的で現象的な事柄に眼を奪われて、誰もこの問題の根幹にある中央集権的な農業政策、監督官庁体制の問題を論じようとしない。

現在の中央官庁が行っているような中央集権的な北海道から九州沖縄に至る細々とした輸出入業務などの管理監督実務は、地方政府に本来任せるようにすべきだろう。そして地方政府の間で消費者、国民のために競争を行わせて、中央官庁としてはそこに不正取引が行われていないか、安全衛生上に問題がないかなど管理監督業務に徹するだけでよいのである。

「市民社会」と「国家」というそれぞれの空間を峻別し、原則として「市民社会」の自治の問題は「地方政府」に任せ、「中央政府」は国防、治安、司法など、真に普遍的で根幹的な問題にのみ関与して、政治と行政における「地方」と「国家」の役割分担を(東京も「地方」にすぎない)合理的かつスリムなものにして行く必要がある。それにしても国家のビジョンを明確に語れる政治的な指導者がなぜ現れないか。連邦国家を建設するくらいの改革がなければ、現代日本の抱える根元的な矛盾は解決されない。

今日のような情報や交通の発達している時代に、北海道から九州まで各都道府県の細かな輸出入の実務にまで口を挟み、また、そこから官僚としての利得をかすめようとするから、問題が頻発して絶えることがないのである。

現在の官僚行政から不正と無理無駄の非合理を排除して行くためにも、道州制の構築を全国民の当面の主要課題として行く必要がある。現在の農業や教育行政のように、遠く離れた東京から、大阪や九州の農業や教育にまで細々と容喙することによって利権を手放そうとしないから問題が起きるのである。現在の中央官僚が握っている権限を大胆に地方に移譲して、地方政府の自治能力の養成訓練を始めなければならない。まともな地方政府の建設がいそがれるのである。

またそれは単に農林水産省のみにとどまらない。厚生労働省、文部科学省、国土交通省などすべての省庁について言えることである。今日の日本の統治行政機構は明らかに至るところ制度疲労を来している。

とはいうものの、その一方で将来の地方政府の母胎ともなるべき、現行の都道府県行政の実態といえばどうか。大分県の教育委員会の教育審議監、富松某容疑者や大阪府の第三セクターの赤字や20億円にのぼる裏金問題に見るように、現在の霞ヶ関中央政府以上に惨憺たるものである。

 

 


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