日本語は論理的でないとよく言われるが,理科系としては日常的に実感するところである.僕の認識では今のところ,その原因はおもに次の三点によっている.すなわち,
(I) 関係代名詞を持たないために,形容句と被形容句の関係が不明瞭である.
(II) あいまいな表現が多い.
(III) 話者がかってな表現を作ることができる.つまり定義なしに言葉を使ってしまう.
の三点である.それぞれについて以下に詳述しよう.
(I) 関係代名詞を持たないために,形容句と被形容句の関係が不明瞭である.これは,有名な「背の高い鈴木さんの妹」とかに代表されるものである.だがこれは「あれ,背の高いのはだれ?」と疑問が生じるだけまだいい.もうちょっと入り組んでいるものとしてたとえば,
「日本人にいちばん多い病気」
という文章がある.これは一意的でない.考えられうる意味としては,次のものがある.すなわち,
(i) 日本人がかかる病気のなかで一番多いもの.たとえば,ガンや心臓病を指すのだろう.
(ii) ある病気が存在して,その患者数の最大部分を日本人が占めている.
(iii) 「日本人にいちばん多い」は「病気」の一般的説明である.すなわち,病気そのものが日本人に多い.
これらは,正確に記述しようと思うととても長くなったりして不格好である.まして(iii)は,さらに一意的でない危険性すら持っているが,くどくなるので省略.
(II) あいまいな表現が多い.そもそも断定的な物言いを好まない日本語だから,とかくこの問題にはよく直面する.たとえば,数学の文脈上でも,
「・・を,次のように定める.」
と書くことがあるが,この「次のように」はもちろん「次の様に」の意味で,後続する定義そのものでなく,「そのようなもの」とするといっているにすぎない.僕は日ごろ苦し紛れに「次のとおり」と書くようにしている.
(III) 話者がかってな表現を作ることができる.日本語は聞き手との取り決めなしに,適当な言葉どうしを組み合わせて話すことができるというとんでもない特性がある.それがたとえ論理的に破綻していようとも,通じ合った気がしてしまうフシギな言語なのである.そうでなければ,「巌になるさざれ石(「君が代・考 ―非収束関数としての「さざれ石」―」/2010-11-24)」を国の頂点に戴くことなんかできない.
それはともかく,厄介な表現としてすぐに思いつくものとして,「AとBは何倍ちがう」という表現がある.これは差と比が完全に混同されていて,ほんらい理科系の人間から発せられるべき表現ではない.たとえば,A=2,B=4としても,これらの比は1:2ともいえるし,2:4ともいえる.さらに4.5:9.0でもいいし,x:2x(実数xは任意)としてもよい.それら二数の差はまちまちであり,かってに「・・倍ちがう」と言ってみたところで数学的意味はまったくない.実数xが任意である以上その差もあらゆる値をとることができる.
中学のころ理科の問題集に,「自動車の速度が2倍になると,衝突事故の規模は何倍ちがうか」という設問があって,僕はこのイビツな日本語にこのとき初めてぶつかった.僕は気になって解けなくなり出版社に問い合わせたら,先方すぐさま謝罪して曰く,「事故の規模ではなく正しくは衝撃の大きさでした」.笑いそうになりながらも丁寧に説明したらやっと分かってくれたようだったが,そのご問題が修正されたのかまでは確認していない.
文章そのものが意味の正当性に優先して成り立つという,非科学的な一例である.
南山大学では,論文を書くための日本語講座が理科系の必修科目としてあった.それでもまともに日本語を操れない学生は多数いたが,そのすべてが彼らのせいというわけではないことは,教える側にもじゅうぶん分かっていることだった.
(I) 関係代名詞を持たないために,形容句と被形容句の関係が不明瞭である.
(II) あいまいな表現が多い.
(III) 話者がかってな表現を作ることができる.つまり定義なしに言葉を使ってしまう.
の三点である.それぞれについて以下に詳述しよう.
(I) 関係代名詞を持たないために,形容句と被形容句の関係が不明瞭である.これは,有名な「背の高い鈴木さんの妹」とかに代表されるものである.だがこれは「あれ,背の高いのはだれ?」と疑問が生じるだけまだいい.もうちょっと入り組んでいるものとしてたとえば,
「日本人にいちばん多い病気」
という文章がある.これは一意的でない.考えられうる意味としては,次のものがある.すなわち,
(i) 日本人がかかる病気のなかで一番多いもの.たとえば,ガンや心臓病を指すのだろう.
(ii) ある病気が存在して,その患者数の最大部分を日本人が占めている.
(iii) 「日本人にいちばん多い」は「病気」の一般的説明である.すなわち,病気そのものが日本人に多い.
これらは,正確に記述しようと思うととても長くなったりして不格好である.まして(iii)は,さらに一意的でない危険性すら持っているが,くどくなるので省略.
(II) あいまいな表現が多い.そもそも断定的な物言いを好まない日本語だから,とかくこの問題にはよく直面する.たとえば,数学の文脈上でも,
「・・を,次のように定める.」
と書くことがあるが,この「次のように」はもちろん「次の様に」の意味で,後続する定義そのものでなく,「そのようなもの」とするといっているにすぎない.僕は日ごろ苦し紛れに「次のとおり」と書くようにしている.
(III) 話者がかってな表現を作ることができる.日本語は聞き手との取り決めなしに,適当な言葉どうしを組み合わせて話すことができるというとんでもない特性がある.それがたとえ論理的に破綻していようとも,通じ合った気がしてしまうフシギな言語なのである.そうでなければ,「巌になるさざれ石(「君が代・考 ―非収束関数としての「さざれ石」―」/2010-11-24)」を国の頂点に戴くことなんかできない.
それはともかく,厄介な表現としてすぐに思いつくものとして,「AとBは何倍ちがう」という表現がある.これは差と比が完全に混同されていて,ほんらい理科系の人間から発せられるべき表現ではない.たとえば,A=2,B=4としても,これらの比は1:2ともいえるし,2:4ともいえる.さらに4.5:9.0でもいいし,x:2x(実数xは任意)としてもよい.それら二数の差はまちまちであり,かってに「・・倍ちがう」と言ってみたところで数学的意味はまったくない.実数xが任意である以上その差もあらゆる値をとることができる.
中学のころ理科の問題集に,「自動車の速度が2倍になると,衝突事故の規模は何倍ちがうか」という設問があって,僕はこのイビツな日本語にこのとき初めてぶつかった.僕は気になって解けなくなり出版社に問い合わせたら,先方すぐさま謝罪して曰く,「事故の規模ではなく正しくは衝撃の大きさでした」.笑いそうになりながらも丁寧に説明したらやっと分かってくれたようだったが,そのご問題が修正されたのかまでは確認していない.
文章そのものが意味の正当性に優先して成り立つという,非科学的な一例である.
南山大学では,論文を書くための日本語講座が理科系の必修科目としてあった.それでもまともに日本語を操れない学生は多数いたが,そのすべてが彼らのせいというわけではないことは,教える側にもじゅうぶん分かっていることだった.
せめて理系を名乗るのなら、数値でデータ化してくださいな。それが出来ない事柄に対して、断定口調で言うのなら、それこそ理系と名乗るのは烏滸がましい。
日本語が非論理的なのではなく、人が非論理的に使っているか、非論理的であっても日常では不都合ない程度に意味が通じているのでしょう。
日常生活ではいろいろと省略しがちですよね。
やっぱり日常生活の会話にも厳密性を求めたらストレス溜まりそうですね・・・
仮に英語が厳密で論理的な言語なら、英→日翻訳ソフトがあれほどダメダメなはずはありません。
また詩(歌)を非論理の例として引いていますが、たとえばサザンオールスターズ(桑田佳祐氏)の歌詞で日本語の論理性をうんぬんするのはナンセンスです(氏の歌詞から日本語のもつ表現の豊かさ、芸術性を論じる人はいますけど)。
あまり論理的なアプローチとは思えません。
おっしゃる通りと思います.「さざれ石」の件はいちいち検証するのも馬鹿馬鹿しく思いますが,たとえばヨーロッパ語なんかには翻訳困難でしょう.英語では単に「grow」と訳されるようですが,やはり表現として馴染まないように思います.
>>丸山智久様
論理学や集合論などにおいて日本語はもはや使い物にならないほど致命的です.
>>t_j様
日本語とその話者とは互いに従属な関係にありますから,犯罪とナイフの例は当たらないように思います.僕は日常用の日本語があって,それとは別に論文用の日本語があって,という考え方をしませんので,ふだんから必要最低限の論理性は持ちたいと思うほうです.
>>tk様
もちろん僕も論理性のみで自然言語が成り立つとは思っていませんし,そのような言語があってほしいとも思いません.詩句の論理性について仰ることはわかりますが,それが国歌となっているとなれば話のレベルが異なるでしょう.
>>名無し様
古い歌ですからしかたない部分もあるでしょう.それを現代の感覚から非科学的であると認定することに問題があるとは思いません.
分かりますよね?「書き方」と「読み替え」は別問題です。
あなたが認識を改めるべきだ。
――あなたは「自身の能力による問題」を「言語の問題」に転嫁しているに過ぎない。
作曲を学んでいるなら論理と叙述の勉強もやりなさい。
どうもよくわかりません。
『「キミガヨ」は小石が岩に変化して苔が生えるまで続く』
という文章をただ英語に訳せばいいだけの話なのではないでしょうか。
「君が代」の歌詞は翻訳不能などということは議論するまでもないことですよね。
私のコメントの趣旨は「君が代の歌詞は論理的に破綻しているとは思わない」というものだったのですが、
それに対して、「当時の考え方は現代では非科学的だと言える」と返信したということは、
「さざれ石」の記事の趣旨は
「このような非科学的な記述があるうたは国歌にふさわしくない」
ということだったのでしょうか。