現代音楽と呼ばれる音楽のジャンルがある.制作され,世に出てから間もない音楽,要するに新しい音楽を指すが,どれくらい新しければそう呼べるのか,はっきり決まっているわけではない.また,音楽のスタイルとしても,おおむね西洋クラシック音楽の流儀を受け継いだ(その流儀を否定することも,継承の方法の一種だ)アーティスティックな前衛音楽を意味することが多いものの,それに留まらず,商業を目的に次々に生み出されるポピュラー音楽など,あらゆる「新曲」を総称するケースもある.そして,前者のグループに属する音楽は,とかく「デタラメにきこえる」とか,「メロディがなくて音楽らしくない」などと,その内容の難解さから,大多数のリスナーに拒絶されるようだ.たとえば,ノーノやシュトックハウゼンの曲を突然聴かされて,それを音楽だと思う人はほとんどいないだろう.
これには,創作サイドもしくは数少ない愛好家たちから,さまざまの反論があるようで,一つには,現代音楽を聴くにはいくらかのコツと慣れが必要であり,サウンドとしての美しさや驚きを体験すればいいのだという.言いたいことは分かるし,間違いではないと思う.だが,現代音楽は,聴き方が悪いからつまらないのだろうか.そして,彼らが擁護するとおり,そもそもそんなにすばらしい存在なのだろうか.ここで断っておけば,僕自身は現代音楽を聴くのが好きだし,細々と続ける作曲活動は,文字通り新しく音楽を作り出す営みだ.だがいっぽうで,新しい音楽というものは一般に,そのだいたいがつまらないということも,事実だと思うのである.
というのは,生み出されたばかりのものは玉石混交で,多くの人々と時間のなかを通過していくにつれて,その真価が分かってくるだろうからだ.どの時代もきっとそうだったのであり,それが面白ければ長く愛されるだろうし,つまらなければ忘れられていくということが,ずっと続いてきたのに違いないのである.これは,作曲者が手抜きをしているとか,その方法に問題があるというのではなく,音楽は多数の工程を積み重ねて得られる一種の「製品」であり,どんなに念入りに作り,一流のプレイヤーが演奏したとしても,不良品が混ざるのは避けられないことだからだ.統計学に信頼性理論という分野があって,あらゆる工業製品は新しいものほど故障しやすく,故障しなかったものだけが安定期に入り,やがて壊れることを確率的に説明しているのであるが,その文脈になぞらえれば,音楽とは著しく初期不良が多い製品だということになる.もちろん,これはポピュラーにも当てはまるだろうし,もっと話を広げれば,アート全般に言えることだ.
極端な言い方になるが,上述のように,それを聴くのにコツを要するような音楽は,やはりその時点で面白くないのである.幼いころCDで聴いて気に入り,僕がクラシックに入門するきっかけとなったストラヴィンスキーの『春の祭典』は,少し前まで現代音楽の一つとして数えられていた曲であるが,それは聴き手に何か事前の訓練を求める音楽だろうか.そうではなく,もっと単純に,身体に心に響いて楽しい,気持ちいいから好きなのである.それ以来,どうしてホールに出かけてまで,諸々の現代音楽を聴くかといえば,そうした出会いがあるかもしれないからだし,外れたときには,大いに文句を言う資格があるからだ.
現代音楽がつまらないという感想は,その意味では実に当たっているのであり,さらには,「良い現代音楽」に出会っていないだけなのかもしれないと,素朴に信じている.そして,良いものと悪いものが混在するからといって,新しい音楽を作り,聴くことはぜんぜん無意味ではないし,そのスリリングな現場にぜひとも立ち会っていたいというのが,現代音楽ファンとしての僕のモチヴェーションである.
外部リンク:
クラシック症候群(シンドローム)
http://yoshim.music.coocan.jp/~data/BOOKS/Columun/column06.html
これには,創作サイドもしくは数少ない愛好家たちから,さまざまの反論があるようで,一つには,現代音楽を聴くにはいくらかのコツと慣れが必要であり,サウンドとしての美しさや驚きを体験すればいいのだという.言いたいことは分かるし,間違いではないと思う.だが,現代音楽は,聴き方が悪いからつまらないのだろうか.そして,彼らが擁護するとおり,そもそもそんなにすばらしい存在なのだろうか.ここで断っておけば,僕自身は現代音楽を聴くのが好きだし,細々と続ける作曲活動は,文字通り新しく音楽を作り出す営みだ.だがいっぽうで,新しい音楽というものは一般に,そのだいたいがつまらないということも,事実だと思うのである.
というのは,生み出されたばかりのものは玉石混交で,多くの人々と時間のなかを通過していくにつれて,その真価が分かってくるだろうからだ.どの時代もきっとそうだったのであり,それが面白ければ長く愛されるだろうし,つまらなければ忘れられていくということが,ずっと続いてきたのに違いないのである.これは,作曲者が手抜きをしているとか,その方法に問題があるというのではなく,音楽は多数の工程を積み重ねて得られる一種の「製品」であり,どんなに念入りに作り,一流のプレイヤーが演奏したとしても,不良品が混ざるのは避けられないことだからだ.統計学に信頼性理論という分野があって,あらゆる工業製品は新しいものほど故障しやすく,故障しなかったものだけが安定期に入り,やがて壊れることを確率的に説明しているのであるが,その文脈になぞらえれば,音楽とは著しく初期不良が多い製品だということになる.もちろん,これはポピュラーにも当てはまるだろうし,もっと話を広げれば,アート全般に言えることだ.
極端な言い方になるが,上述のように,それを聴くのにコツを要するような音楽は,やはりその時点で面白くないのである.幼いころCDで聴いて気に入り,僕がクラシックに入門するきっかけとなったストラヴィンスキーの『春の祭典』は,少し前まで現代音楽の一つとして数えられていた曲であるが,それは聴き手に何か事前の訓練を求める音楽だろうか.そうではなく,もっと単純に,身体に心に響いて楽しい,気持ちいいから好きなのである.それ以来,どうしてホールに出かけてまで,諸々の現代音楽を聴くかといえば,そうした出会いがあるかもしれないからだし,外れたときには,大いに文句を言う資格があるからだ.
現代音楽がつまらないという感想は,その意味では実に当たっているのであり,さらには,「良い現代音楽」に出会っていないだけなのかもしれないと,素朴に信じている.そして,良いものと悪いものが混在するからといって,新しい音楽を作り,聴くことはぜんぜん無意味ではないし,そのスリリングな現場にぜひとも立ち会っていたいというのが,現代音楽ファンとしての僕のモチヴェーションである.
外部リンク:
クラシック症候群(シンドローム)
http://yoshim.music.coocan.jp/~data/BOOKS/Columun/column06.html
私は現代日本に生息し客観的には「現代音楽」のジャンルの作曲家にされているものです。
だが、そんな立派なものではありません。
何やら思いつめながら、時々気の向くままにいくつかの楽曲を書き散らしてまいりました。
だからこれを「現代音楽ですよ」といいつつ提出する勇気は本当はないのです。
ただ、だからこそ、現代音楽の長所もない代わりに短所もない、という感じは結構持たれるかもしれません。
現代音楽に関する客観的で思いやりある文章を書かれたあなた様がこれをどのように聞いていただけるか?これは現代音楽ではない/埒外である、と却下されるかもしれませんし、実に僭越ではありますが一応楽曲の存在はご報告させていただきたくコメント欄を利用させていただいたものです。