marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(542回) 肉体を動かすもの〔 再考 〕

2019-02-11 10:50:37 | 日記
掲題◆カルロス・ゴーンさんの言葉を書こうとしておりましたその前に今回はしばらくぶりのヲームアップのみとなってしまいました。

◆本当に昨年2018年は、あまりに世界的に大きな目に見えないであろうが僕にとっては大きなうねり(曲がり角)があって、夏頃からまったく頭が働かなくなった。一日中、立ちづくめ動きどうしの仕事、それはあえて僕が嫌にも思わず老化する体力維持の為にと僕自身が内心望んでいたことでもあったのだが、体力的に気力に追いつかなくなってきたことも一因であるかもしれないし、老化が進んだということなのだということかもしれないのだが、そればかりではないと感じているのだ。仕事の中でだからブログで書いた来た、工場で働いたフランスの女性哲学者、シモーヌ・ヴェーユやアルバート・カミュの「シーシュポスの神話」は忘れたことがない。

◆「感じている」と書いたが・・・とここで、いつも僕は、ブログの主旨のおおもとに戻っていくのだ。それは、誰でもが生きているということを自分の言葉では普段は改めて言葉にすることなどはないであろうところの自分の肉体からの影響なのだ。あるときは体調と呼ばれ、あるときはそれは気分と呼ばれ、実はそれは外部環境、内部の身体的状況、血流や血圧、神経系の作用やそれがホルモンバランスだったりといったような・・・。人という生き物としての基本の「肉体」に関する事柄なのである。

◆だからというか、そんなことは人それぞれでいちいち言われることでもないでしょうと普段誰でもが思うであろうことが、改めて次のように書かれて、自分の言葉で認識してその意味は何か、なぜ自然発生的な心情現象に過ぎないのにと思うことに対し言われねばならないか、ここでイエスがなぜ出てくるのか、と改めて思わされ、その意味を獲得したいと願ってきた者なのである。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
   これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。」(新約聖書「テサロニケ信徒への手紙一5章16-18節)

◆神が人を創造されたとあるのだから、この立場は人と神が逆転することはない。だから、人の位置は神のもとにあるのだから、世界の「宗教」というジャンルにも本来、聖書の神は入らないのである。

◆僕などは神岡伸一の書かれた「生物と無生物のあいだ」などに書かれたことをさまざまな現象に肉体と物質の意味を問うて見たくなるのである。それは、時折、思考に顔を出す。そして肉体ばかりでなく、生き物に霊を与える神の御心というような事柄にも不謹慎ながら頭を突っ込みたくなるのである。

◆上空数千メートルに寒冷低気圧があってなどと言い寒波が到来するといった天気予報で、実際明け方、まだ暗いうちに暴風雨がきてそれが猛烈な風雪になって建屋を揺るがし始めた時、寝ていてその音に起こされ目覚め始めた時の気分のいらつき(神経系の煩雑な乱れと言ったらいいか)が起こるのはなぜなのか? 東北の人は慣れているのだろうが、冬空のどんより暗い空のもと、神経的に鬱になるのは太陽の光を浴びて過ごしてきた人にとって肉体神経系に対する必然現象として起こるものなのだ。生き物は目には見えない環境にもその考え、気分にも多大な影響を与えるものなのであるということ。しかし、それには無論個人差がある、神経系に過敏な人、そうでない人など・・・。まして、先の言葉手紙は実際に肉体に危害が加えられるという迫害の中で書かれたものなのですね。

 それでも、「いつも喜んでいなさい」 と使徒パウロはテサロニケの信徒に勧めをなしているのです。・・・ Ω