marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(420回目)世の女たちよ・・・やっぱりそういうもんだと認めるの? 〔創世記第4章〕

2017-08-21 23:33:26 | 日記
 表題の呼びかけのような断定したもの言いは女性にとって失礼ではないだろうか。確かに「罪」を犯す前は、男と女、そして神までも「それ」と意識されるような、つまり人として、言葉での認識対象とすることなどしてなかった訳だから・・・。罪を犯して、神の元から恥を持って隠れることが出来るとそもそもが思い込んで身を隠したという行為が、すでに神の霊からも、そして隣人であるお互い同士、気心が知れない、心の中が見えない肉の人となって分断してしまっていることに本人は気がついていないことに読者は気がつくであろうと思う。さらに、お互い同士が、言い訳のなすり付けの対象となってしまっているのだ。
◆ここに於いて、アダムは命(エバ)という女を霊から切り離された(罪を犯した同罪人として)肉の快楽の対象としても、見ることが出来ることを知ったのだ。
 新約聖書において使徒パウロの独自の神学的論説は、信仰の父と言われたアブラハムは、選民族の風習となった割礼以前の神を信ずる信仰から、神がアブラハムの神を信じたことそのことを「義」とされたことを元に、神を信ずることは、割礼のない無割礼の異邦人にも信ずることによる「義」が与えられると説いた。「信仰義認」この展開は、彼の書いたローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙に詳しい。
◆ここで注意は、聖書には、特に旧約聖書には、僕らが今、読み、理解でき、それ相応の理由で納得できる「普遍的な律法」と当時の民族的慣習をも含む「民族的な律法」が書かれていることに注意しないといけないと思う。すべてがすべて、聖書は真理を語るとも、時代の制約の中で読み、解釈し生きている訳ですから、それは無論、今も言える訳で時代が進んでいるからといって、時代性を壊して意味のみ今風に組みとろうとしても無理がある、深い理解は到底できないということになる。
◆さて、割礼も創世記第17章10-14節に始めて出てきますが、このように契約はだんだん選民族特有の困難な事柄になっていくのだが、特に男子が、生殖器の包皮の部分を切り取れということが契約の印となるというような事は、体に傷をつけることと、しかも肉体のその部分に跡を残すということは、特に男子にとって(それは衛生面のことからであると言い訳がなされているが)、むしろ、神からすれば、アダムが初めての創造された人(男子)であることに、罪を犯してしまったそのことに、しかもその部分が、神にかわり、永遠の霊からも切り離された人、肉なる人を人同士が恣意的に行い産み出すことができる、その器官であることを体に刻みつけて残して忘れ得ぬようとされたと考えることができるのである。であるから、割礼は人間の誕生と神からの離反する人間の製造する人の部分であることを理解し、そのことを知っている人々の印となったのである。
◆女性に対しては、あ聖書はまりよく書かれていない。悪くも書いていないが、陰に於いて実に多くの役割を演じている。「聖書の中の女性たち」については、神学者 荒井 献の著作がある。ここで、それを書いていくと脇道に逸れていくが、いずれ、僕が考え込んでしまうのは、イエスがこの地上に誕生しなければ、今の女性はこれほど自由を謳歌できなかったのではないかと思うことだ。無論、まだまだ女性については制限があるような仕組みは変えていかねばならないだろうと僕は思う。
◆しかし、少なくとも自分の言葉で聖書を読む、命を与える永遠の言葉を自ら獲得する努力をしない限り、女性にとってはまだまだ遠い道のりであるという感がある。(・・・女性の哲学者はいるが、神学者というのを聞いたことが今のところ無いな・・・)
母親がユダヤ人であれば、子供は文句なくユダヤ人である。
・・・・ここで、復活した、最初にイエスに会ったのは、女性たちであったことは、何か印象的である。今でも信仰のある女性から産まれた男子は、信仰心が強いように思ってしまうのは僕だけなのか・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(419回目) だからおしゃべり女は嫌われるのか・・・ 〔創世記第4章〕

2017-08-20 08:00:00 | 日記
  もし、旧約聖書(ユダヤ教の人たちにはこれが「聖書」そのものですが)の第三章が、この地上の人において、女性が男性に於いて少し劣っていると見なされる原因となったとすれば、世の女性たちは、過去にではなく今このときに於いて、そのときの原因の解析と対策を考えなければいけないのではないだろうか。その要因、つまりどうして、聖書には、エバは伴侶者であるアダムとの会話より、サタンの化身であろう狡猾な蛇との会話が対等な会話の相手同士として記載されているのだろうか。
◆エバは、神がそういって禁じたという会話そのものが掲載されているが(創世記3:2)、直接、エバに語りかけたという記事はない。エバがアダムから取り出されて創造される以前、アダムが一人でいる時に直接、神がアダムに禁じた事なのであった。否、そうではなく書かれていないけれども、記事の通りエバにも神は直接、善悪の木の実を食べてはいけないと言われたのだ、とすれば、エバは神の直接の命令よりも、魅惑的な蛇の言葉を信じたということになる。まさに、「何ということをしたのか」(3:13)である。
◆女に向かって「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」(3:16)と言われたが、この記事からすれば、今の地上の人類の様々な問題、すべてのありとあらゆる地上の肉の欲を満たしたいという種は、このとき、つまり創造主の神に替わって支配したいという狡猾な蛇の思惑の欲求と、そうでなければ、人が産まれ創造主を求める心の指向性を自分の支配下に取って替わらせたいというサタンの思惑の欲求の種(起因となる根本原因)がこの事件で入り込んでしまったということなのである。
◆この神の霊を授け、命を与え、繁殖し続けるというこのシステムは一度、創造され働き続けると収束させるということが出来ないシステムなのであった。というより最高傑作のシステムだったから皆無にする、リセットするということは出来ないのであった。(とすれば、今の原発と似ていなくもないな・・・システムは完成、その入れ物の完成度をめざすこととその維持というところは、神と人類のありようと似ていなくもないなと思う。極めてもろく、いずれ遠い将来には解決がくる・・・いずれもこの地上に於いては死を迎える。)
◆この時から、蛇は天上界に帰れなくなって地上をうろつきまわる霊となった。創造主に対する嫉妬は、地上における神の最高傑作を破壊することである。イエスは、言われる「悪魔は、人殺しである」と。無論、その霊は、宿るところを求めて今もうろつきまわっているのである。この創造された世界に於いて、その最高傑作である神のかたちをした人の霊を自分の支配下に置き、人を殺すために猛烈に働いているのだと考えられる。
◆人は、その霊の器を持つから、その支配下になってしまわないように、神の霊とのつながりの障害となるべくすべての肉の思いを殺せと語る。これは、新約になり、イエスが人類の救済に来られた意味でもある。肉の思いをイエスの十字架につけよとパウロは語るのである。
聖書の言わんとすところは、一つである。個々人の永遠の命への帰還である。それは、キリスト教でいうところの「救われる」である。実際にこの不条理なこの肉体は、イエスの十字架を信ずることにより人間には為し得ないそのシステムのバージョンアップが全く新しいものに置き換わり過去のその汚染のシステムが消滅し、全く完全になるということ、そして救われるということなのである。
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 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従い得ないのです。肉の支配下にある者は神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなた方の内におられるならば、体は罪によって死んでいても”霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなた方の内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
(ローマの信徒への手紙第8章6~11節)
 ************************************************************  ・・・・ 続く 

息抜き:海風にあたりにサイクリング、ちょとそこまで

2017-08-19 18:00:57 | 日記
 毎年、夏の連休に行っていることですが、昨年と同様、今年も掲載します。昨年とほぼ同じ場所かな、そうこれは、春のブログにも掲載しましたので捜して見てください。昨年の使用のリコーのコンパクトデジカメを落として壊してしまい、これはその後、ハードオフから購入のニコンコンパクトデジカメで撮影しました。
◆僕のブログは、頭のボケ防止もかねて文字だらけですが、今の仕事が完全オフになったらいいカメラまじで購入して、詩的な写真を多く掲載したいなと思っています。
  ・・・・・2017年終戦記念日の晴れた日に・・・・ 

世界のベストセラーを読む(418回目) 「わたしは主によって男子を得た」とエバは言った  〔創世記第4章1節〕

2017-08-19 09:05:10 | 日記
 僕らは、宗教云々関係なくても、新しい命が誕生したときに、誰でも喜びを感ずるものである。(これは正規な結婚でのこと、ここではなにぶんすべてバージンの世界の事であるから、それ以降のいろいろなドラマは考えないことにしてください。)
◆そして、これは僕だけかもしれないのだが、「この地上に命を授かって、君もいろいろな人生をこれから歩んで行くのか・・・と頑張るんだよ、出来るだけのことはするからね。人生は、楽しいことばかりではないからね。」と・・・僕は思ってしまうのだ。
◆表題は旧約聖書創世記第4章1節のエバが神から離れてからの第一子が授かった時に言った言葉である。
 産むという行為に於いて改めて、エバはこの言葉を吐いたのだろう。聖書というのは感情的なあらわし方をしていないが、これ以上もない喜びにあふれていたに違いない。そして、この言葉は、心情的にそして肉体的には意識はされないが暗いシミ、汚点(罪を犯して神の霊から離れてしまうきっけを作ってしまった失敗)
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  (創世記3:13)主なる神は女に向かって言われた。
         「何ということをしたのか。」
          女は答えた。
         「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
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 を覆い隠す神の許しを伴ったものと彼女は、感じていたに違いないのだ。だから、これ以上に赦され命を授けてくださったことに喜びと感謝を伴った叫びだったに違いないのだ。
◆この言葉は、今の僕らも新しい命が誕生したときに誰でもが語っている思いなのではないだろうか。・・・
 そして、彼女のそれまでの神に対する言い訳ではない、自らの赦しを得ているという積極的なことばとなっているのである。このことからして、旧約においても子供が授かることは、女にとって神から祝福された者として名誉なことだった。以降学ぶ、アブラハムのサラとハガルの子供たちにおいてのやりとりのその女たちの心情が理解される。
◆エバは、神に対して「蛇がだました・・・」言った。しかし、だましたのだろうか。神は、「必ず死ぬ」と言ったはずなのに、人はその時点で生きているではないか。ここで、エバは、だましたという言葉を使っているが、その意味をただ、神からの叱責に対する自己弁護としてのみ使って言っているのだ。だまされたというその失敗のダメージは、肉体的には何も損傷を受けていない。ただ、神からの叱責に対してのみ心の恐れを持ったのだ、少なくともこの時点で。
◆しかし、確実に食べてはいけないと神から命じられた木の実を体内に入れたことによる罪の汚染は、そのとき以降、人が地上に生き続ける限り消えないものとなったのである。
 それが、カインとアベルの事件にもなっていくのである。・・・ 続く 

  

世界のベストセラーを読む(417回目)”知る”というこは世界のドラマの始まり”性的交渉”をいうのか 〔創世記第4章〕

2017-08-18 02:02:52 | 日記
 アダムは妻エバを知った。(創世記第4章1節)とある。それでカインが生まれた訳であるから、ここに於いては”知る”ということは生殖行為のことを言うのであろうが、それは、ほれ! 何分にも世界で初めての意図した生殖行為であるから、しかも、神から離れたが故に自分たちが裸であることが分かり、腰をイチジクの葉で覆った訳だから、人が意図して、自から(神=創造主のことはどうでも)この地上に勝手にとまではいかないにしろ(それにはまだ時間がかなり必要なのだが)、命(本来は神の霊を受けつつ生きるべく命)を持つ肉体を産むことができることを体験させられる訳だが、神の霊による最高傑作たる人が、自分たちもその人を産むという行為ができる、その身体に部位(生殖器のことネ・・・つまりこれが世界のドラマの始まりなのだな)を持っていることにかなり恐れを持ったのは、間違いないだろう。
◆今までは、何ら「恥」とも思わずしかし、人は人間(男と女)になってから、その重要な機能を働かす(つまりは結婚は神の偉大な神秘である=エフェソの信徒への手紙5:31-32)と言われるごとくに、実は「恥」などという基準も何もない訳であるから、(「恥」というのは他者がいて、比較の一般常識のような基準があってそう思うのであるから)、つまりこのすべてに於いてバージン世界のときはない訳だ。いずれ、4章17節にもカインは妻を知ったとあり身ごもったとあるから、生殖行為であろうけれど、ところでここのカインの”妻”とやらは、どこから現れたのか? である。
◆つまりこういうことになる。これは以前のブログにも少し書いたのですが、創世記第1章と第2章は、集められた編集前の資料が異なることしても、それでも一応ひと続きの話であると理解し読む人が解釈すると、人が神にかたどって創造されてから(この文言が神学界ではずっと問題になっている訳だが)、男と女に創造され、既に祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と言われているのだ。つまり、罪を犯す前には、自然のように祝福された生殖行為は自然に行われて、人は産まれていたということはおかしいことではないということになりますね。
◆資料が異なる創世記第2章4節以降としても、蛇が出てくる3章以前のアダムがエバ(命)と命名する以前の女の時には、2章24節で二人は一体となり、裸でも恥ずかしがらなかった(2:25)とあるから、蛇の化身の悪魔に誘惑されるまでは、自然に産めよ、増えよの行為は自然に行われ、平和に暮らしていたということ。つまり、このときの陣痛で苦しむということも罰のようには思わなくエデンの園で幸せに暮らしていたということだな。だから第三章の蛇が出てくるまでの間は、とても平和な時間が流れていたということだ。人も産まれていた。
◆では、「知る」という行為は、生殖行為としても、なぜ、わざわざここで「知った」とその行為を著しているのだろう。・・・それは、ここでこれを読んでいる「あなた」も想像できる、世界史の始まり、ドラマの始まりとなるすべての行為の始原となったからなのである。この想像は、この男と女がいる(ニューハーフとやらは別にして)世界において、今も性にまとわりつく良きにしろ悪しきにしろドラマを起こしているから想像できると思うが、つまりそのスタートとなることを、無論、それ以来、数え切れないほどの人が産まれては死んで来たわけであるから、そのことを、つまり罪を犯してしまった後の行為であるということを、自分たちが今まで自然に行い、闇を持った神の霊から離れたその行為の自らの肉の快楽のみとしても、分離できてしまうその行為の不安を、意識下に理解してしまう行為としての「知る」なのである。まさに、神の創造物の中の最高傑作を、自らの行為で、しかも罪の汚染されて取り返しが付かないが、そのためにエデンの園からの追放にもなった、それ以降の行為として自らも出来てしまうという不安の行為であることのまさに「知る」なのである。
◆従って、これ以降、肉欲的快楽を排他すべく、世界の多くの宗教は神の最高傑作であるその肉体を克服すべく、修行やら、鍛錬やらが取り込まれるようになったと推測することが出来る訳だ。しかし、完全なる回復は、まさに遺伝学的(急に現実話になるが)にも実際不可能であることは理解されるでしょう。で、どうする・・・ 続く