marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(199回目)ローマ人への手紙(第5章1節~11節)

2016-12-11 23:02:15 | 日記
アドベントの第3週目となりました。
◆パウロさんの論文とも言えるローマ人への手紙は、ユダヤ人への先理解の無い異邦人にはどのように受けとられていたのだろうといつも考えます。当時のローマには、離散して住み着いて生活をしていたユダヤ人たちが古来からの伝統を守りシナゴークという集会所で天地創造来の神のことを何より聖書(旧約にあたる)により熱心に研究されていたであろうから、ユダヤ人キリスト者がローマに起こされていると聞いて、パウロはそれに関与するギリシャ人などの異邦人への伝道を何ともきちんと理屈で、それは何と言ってもギリシャ哲学に対抗すべくという理由もあったかも知れませんが(否、僕はむしろ神はそのためにパウロをマケドニアに導いたと言えるでしょうけれど)そのため、パウロはますますしっかり異邦人への語り掛けをまず、先理解のあるユダヤ人キリスト者に向けて挑戦的に述べてきたということになります。
◇とすれば、日本の僕らは、イエスが旧約のすべてに渡って書かれていると述べられたその旧約も同時に学んで行かなければならないということになりますね。(・・・ですからとにかくキリスト者は聖書の勉強をしますね。注意は自己流にならないこと、ということで共同体のあり方、その交わりの仕方が問われる訓練がなされます。つまり、教会生活のこと。)
◆初めての方が、アブラハムさんが出てきたりしても、誰? という人がいるかもしれませんが、旧約の導入はパウロにとってはどうしても取り入れなければならない議論の焦点となる事柄なのでした。僕らはどうして、パウロが手紙の中で理屈めいた書き方をしているのか、はじめは不思議に思うところがあるかも知れませんが、聖書には膨大な文書の中から、よく突然に「こう書かれている」とかの言葉が表れますが、それほど、神の言葉として研究されて覚えられていたということなのですね。当時というより代々といった方がいいユダヤ人聖書学者の聖書釈義法(ミドラーシュと言われるらしい)を用いて、ユダヤ人キリスト者に訴えかけているのです。
これでくるなら、ローマのユダヤ人も黙っていられんというやり方をしてパウロは挑戦したのだね。しかも、アブラハムの信仰について行いよりも信仰による義が先行していたのであるから、ユダヤ人ばかりでなく信ずる全人類が・・・という具合に信仰義人を唱えたのだった。だから、聞くあなたらもユダヤ人、私もそうだ、だから「わたしたち(ユダヤ人)は・・・」と同調を求めて訴えているのである。パウロの結論を入れ込みながら・・・
◆その結論の挿入の一部でパウロらしい韻を踏んだ書き方で、僕などは気に入って覚えた箇所を書いて今回は閉じることにします。
(5:1)「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
(5:2)わたしたちは、さらに彼により、今立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
(5:3)それだけではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、
(5:4)忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。
(5:5)そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」・・・Ω 

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