marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(198回目)脱線Ⅱ キリスト教神学生の方へ K・ヤスパースのこと

2016-12-10 07:56:42 | 日記
これ以上、書くとコンプレイン(苦情)どころか石を投げ付けられそうだな・・・
◆こどもたちの教育では、今更ながら、”自分の考えをまとめて意見を言うこと”などの方針が、国から打ち出されたようですね。小さなお子さんを持つ親御さん、特にお母さんはよほど、”しっかりした芯”を腹に持って子供たちに接しないといけないなと思っているの。特に自分の言葉で考えさせるという「言葉」。親というのは当たり前だが人生を先に生きているから経験からああだこうだと子供たちの言葉に先んじて指示してしまいがちなのね。そこはぐっとこらえて、子供自身に考えさせる言葉を持たせること。ここに忍耐ありだ。そういう意味で、聖書は思考の訓練にもなるし、歴史的見方もできるし、第一に自分が地上に生を受けた意味合いを考えさせられるものになっている、それは一生涯続き、天上へのガイドともなっているという訳です。さて、この日記は、哲学・思想にも登録しているので・・・K・ヤスパースのこと。
◆一昔、”聖書の暗号”という本があり、その関連の本もよく読まれたようです。他の方が本当か?と調べた続編もいろいろ出てましたので興味あられる方は読まれてください。旧約聖書の原典、ヘブル語も文字の並びがある規則性で一連の象徴的な、ある事件、歴史、あるいは名前などが一つところに集まって表れていることが分かったというものでした。ですから、ある調べたい事件なりを言葉にしてそのプログラムに入れると、関連する言葉が、ある文字列に(スキップコードと言われるらしい)規則正しく、その言葉の周辺に(たとえば申命記●章△節~◇節に)現れるというもの。僕はヘブル語ができないけれど、著されている文字の並び旧約聖書の一部に規則正しく文字に斜め、縦、横に○で文字が囲まれて出てきている関連する言葉が表示されていると、へぇ~と思ったものだ。その筋の専門家の方はおそらく決してこういう本は読むことを推薦しないでしょうけれど。この話は、脱線のさらに脱線ということになりますので・・・。神は活きて、働いておられるぞとこの方面から話すとリアルなのですがコンプレインどころではなくなりますので気をとりなおして元へ・・・
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◇K・ヤスパース(1883~1969)は神への飛躍が超越者からの暗号を解読することによって可能であると説く。しかし、その超越者がどのような超越者か明らかにされていない。ただ、超越者というだけである。ヤスパースにとってはキリスト教で言う人格神というのも超越者からの一つの暗号であり、神の子イエス・キリストというのも暗号である。それゆえそれらの暗号を解読することによって、超越者からのメッセージが分かるというのである。しからばその解読には何か方法があるかというと、各自それぞれにその暗号に立ち向かう以外に方法はない。したがってその解読の結果によっては数限りない超越者があることになるのである。おそらくその数限りない超越者も、いわばひとつの統一的な超越者(包越者)の暗号と言うことになるのであろうが、とにかく歴史的に地域的に数限りない宗教が存在するのもその故であり、突き詰めて言えば、その暗号解読を志す人の数だけ宗教があるということになるであろう。暗号の種類もまた無数にあるわけである。ただ、解読にたけた人物(例えば預言者、教祖)によって、彼らが受け取った暗号とその解読を中心に、ある特殊な宗教が集団的に形成されることは周知のことであろう。
解読に無関心な人には超越者などないといってよい。そのように解読に無関心な人々から今日の機械と技術と大衆の時代は生まれて来たのであって、人間は個性を失って経済の奴隷となり、精神は全く手段化されて自己というものは無くなってしまっている。そこには生命の喜びなど毛頭なく、あらゆる種類のたまゆらの娯楽があるのみである。
◇それゆえわれわれはまず、超越者からの暗号がどこにどのような形で表れているか、その暗号は何を意味し何を指しているか、を知らなければならないのである
。でなければ人類の前途は暗澹あたるもの、とヤスパースはいう。ニーチェによって予言された時代が既に来ているのである。
◇だが、といって、われわれはいわゆる既成宗教に頼ることはできない。なぜならそこには間接的な暗号解読があるのみであるからである。暗号の解読は各人直接でなければならない。でなければ、それは現代の社会にはもはや通用しないのである。間接的な場合には教団が生まれて、教団こそが唯一の拠り所となる。それは一時代前までは有用であり有益であった。しかし、それが人類に貢献する時代は終わったのである。キリスト教といえども例外ではない。彼らがこの現実の宗教に無関心な、魂を失った機械と技術と大衆の世界を救うことは不可能である。それはおそらくニーチェのいうごとくであろう。われわれは各人が一人ひとり根源的な超越者からの解読者でなければならない、とヤスパースはいうのである。(「西洋思想史上のキリスト教」小嶋 潤:1992年初版 刀水書房 p314)・・・ Ω   










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