marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

どうして僕らは過去生を覚えていないのだろう:世界のベストセラーを読む(942回)

2021-12-24 11:00:00 | 日記

◆今日は2021年クリスマス・イブである。救い主の御降誕を心からお喜びしたいと思いますと、それで世界の教会でも万人の救済と呼ばれて嬉しいことなのだが、さらに聖書を読みましょうと薦められているのだが、先のこの聖書は異界の境界の入り口にたち、素直に入り込もうとする人々には心からお喜びなさるであろうが、サステナブルに人生をそれで進もうとするには、今一度、思考的に強靱になることを我らに迫ってくるように啓示されるようだ。それはそう簡単ではない。新約聖書の「約」は、契約の「約」で、それは神が与えたもうた神の独り子御子イエスが地上にお生まれになって、あからさまに我らが生きる実際の起こっていることを提示し、信ずる者は天上の世界に生まれ変わり、永遠に生きることを約束されておられるということの神との新しい契約であるということなのである。・・・と、ここまでは、教会でも話されるし、巷の本にも書かれていることではある。しかし、我らが生きている実際に起こっていることからして気がついていないのだというのがニコデモとの会話なのであった。これまでのブログで「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言い、地上で起こっている「霊」のことを風に例えて話してもイスラエル教師ニコデモはピンと来なかった。であれば、2000年以上も経過して今の僕らは、理解しようがないように思われる。◆僕らが聖書を読んで、この文章内容は良く分からなかったり、このイエスの言葉は常識から理不尽なのではありませんか、と思われている内容に、そこに留まらずに、なぜすっきり理解でないのだろうと思った時、僕らが普段気づいていない「霊的次元」から語られている「ことば」が入り込んでいるからなのであると、一応思ってみることは大いに助けになると思われる。そこで、紙面はつきなくなるからいずれ同じようなことを書くことがあろうが、表題の答えは、クリスマス・アドベント期間中に読まれる聖書の一連の記事を読んでみることから、理解できるように思われる。◆本屋で立ち読みで聖書で次の箇所を読んで欲しい。そのひとつ、ヨハネ1章19-34節で人々の問いに対して、洗礼者ヨハネが「自分はそうではない」とすべて否定しているのであったが、マタイ11章2-13節、ここでイエスは「洗礼者ヨハネは現れるエリアであった(これは旧約マラキ書3章23節に預言されていた)」と明言しているのである。これはどういうことだろう。ここに輪廻転生がある。人は、前世の霊を今生にふさわしくある肉体に転生するのである。前世は、今の人と同じとはならないからである。過去生は必要なしというか覚えていないのである。例外として、ときおり遠い離れたところに過去の記憶を持つ子供が生まれたりするというような話が聞かれるが、これもそういう意味からおかしくはない。風のように浮遊する霊、それは天上から救済派遣される霊、地上に思いを持って明確な天国に行かれなかった霊、更に堕天使となって人類を一人でも多く死に至らしめようとする悪魔の霊は、今生に生まれた肉なる人、生きてふさわしくあろうとする人にインカーネーションするのである。だから天上に行かれたイエスが、聖霊に繋がっていなさいと強く勧められているのは、倫理的にどうのこうのというより、パウロが手紙で述べたごとく「霊の法則」があるからなのだということになる。実際に生きていれば起こっていることなのだと。◆ここで、イエスの十字架の救済の意味が明らかとなる。イエスは、キリストとなって人類の救い主、彼を受け入れた者は永遠に生きるという変革が起こったということになる。肉体が滅んでも、霊として今の自分としての自覚意識が彼の意味を信じた者にははっきりあるのだから、それは天国への招待状でキリストという礼服をきることが出来るのだから、二度と地上の混乱の疲労する誰彼の霊には入り込みはしないで「永遠の世界」に生きることになるからである。母から生まれたもので地上で最も偉大な洗礼者ヨハネでさえ、天上にキリストを信じ入れた者に比べればもっとも小さなものとなろうと、キリストがいわれたのはそういう意味なのであろう。洗礼者ヨハネでさえキリストを信じて地上で浮遊霊のインカーネーションを受けないように基督を信じた者に比べれば、という意味なのだろう。「永遠の命」とは、誰彼でなくはっきり自己の意識を持つ霊なのであるから。

◆「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなた方に話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ伝:6章63節)・・・



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