marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(81回目)

2016-08-07 18:20:31 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
今日もとても暑い。来年はM.Luterさんが宗教改革を起こして500年。人というのは、当時の苦労したその時の考えの原点まで推し進めて考えてみようなどとは、殆ど思わず、その最終意見がその人の得たるところと思い出た結論を上澄みのようにその人の考えと思うものである。何を言いたいか、ルターさんは良く、信仰第一、行いは伴わずとも不要ということを言ったと総括する人がいるけれど、決してそういう訳ではなく、信仰を第一にその基にして出てくる行いで無ければいけないよということは、著書「キリスト者の自由」で書いているところです。最後の方を良くよむべし。当時、あまりに馬鹿げたというか、どう考えても聖書はそんなことは言っていないと疑問を呈し、おまけに個人の血を流すような難行苦行もさっぱり救いに導かれたという気持ちにはならず、という訳で当時の教えと体制に反旗を翻したとういうことになる。ここで僕は思うのだが、イエスが死への道行きにも従順であったから、我等も自分の良心と組織体に従順であって・・・と聞こえる時があってこれを僕は分からなくなる時があるし、多くの人はそうだと思う。宗教の行き着くところの怖さというのは其処なのだと思う。オウム真理教や統一原理などという宗教は「我に従え」のまさにその教祖が現実にいる訳だ、しかし、イエスは今は見えない。イエスとの自分の言葉を求めていなければ、ルターさんも当時の体制に従順で宗教改革などは起きなかっただろうな。
◆自分の求めていることに対してイエスの言葉に立つとすれば、いつの時代も自己批判としてあることを感謝に思わねば戦うキリスト者とは言えないかもしれない。ルターも猛烈にイエスの言葉を一人ひとりのものにするため当時の宗教体制と戦った。カルヴァンもそう、以降、殆どの著名な伝道者は当時の人間の言葉に切り替えるイエスの言葉の真のありように常に霊を吹き込まれるべく戦ったのである。いまの牧師さんたちはどうなのか。
◆キリスト教を文化にもつ、神学は無論、哲学の多くは、その覚醒の言葉を常に持とうとしていた歴史がある訳でそれは当然、今も行われているわけです。エキュメニカル運動などがおこり、イエスを語るはなんでもオーケーというのは、結局、自分の腹を神として自己満足していると言えるかも知れないのだ。だから、結論、そちら(伝えるその道の人達の組織)に属するのみに終始し、それで良しとすることで終わるとすれば、少しおかしくはないかと疑問を呈したくなるのだ。イエスの十字架の意味から、その言葉の不可解からそれを解明しようと実に多くの言葉(考え)が人に委ねられてきたのだと僕は思う。だから、例えば、ニーチェがなぜあのような反キリストの著作を著したか、キィルケゴールがなぜ、当時のキリスト教会に反論したか、スピノザがすべての宗派から破門されたか・・・などなど 考えなければそれは井の中の蛙であって、それは楽であろうが世にイエスを証ししているとは僕にはどうしても思えないのだ。・・・Ω

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