marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その4)安吾は本当に津世子に接吻したのか? 後半閲覧注意!

2022-08-05 17:16:22 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

書き損じの原稿を散らかし、丸眼鏡をかけて飯台の前で煩悶している安吾の写真を見たとき、僕の心情としてあいそうにない、とよくも読まないでいたが、矢田津世子との関連で関心持ってから、彼の” 堕落論 ”の文庫本は、当時のいろいろな文学者の生き様や彼自身の文学者たちへの思いを知る上でも、それは無論、安吾の評論からなのだが、とても面白かった。むしろ相いれないどころか、僕の心情にぴったりという思いで読んでしまった。

彼は自分のことを三文文士と語っているが、ブログにイモリなどの爬虫類のアイコンを使っている僕などは、お釈迦さんが蓮の上に瞑想されているときも、その蓮の花を植えさせ土台の水面下の泥もなければ、蓮自体も育たんし花も咲かんだろう、というような思いになるんだな。で、水や陸上にも知りたいと両あいまって実在する・・・つまりは高尚なる理想者は、最も現実主義者でもある、ということを目指しているのだな  こんな僕でも一応は。

新潟の彼の文学館にも、片思いだった矢田津世子からの葉書や手紙などの痕跡は、まったく無いようだから、大変な片思いだったようだが、先に紹介した安吾の日記に31歳の時に彼女に接吻をしたらしき表現があって、その時、彼女はフリーズ(固まった)ような記事があったが、これは本当だったのか、その時、津世子は、男という生き物は見た目に酔い行動を起こす本当に困った生き物だな、と冷静に考えていたのではなかろうか。・・・で、それは本当だった、ということの暗示を ”教祖の文学 ー小林秀雄論ー” の中で語っている。

人が生きて、その現実、目の前にある美貌たる異性に正直に反応する、それが生きて正直な雄という生き物の性ではないか、人生は一度、時は戻らない。・・・この生きている肉感的欲求のエモーショナルな部分への応答が、つまり、それが”堕落論”という引かれる文庫本の表題でもあるのだろうが。先に述べたその部分は次のようになっている。(ここで教祖と言っているのは、小林秀雄のこと)

「・・・だから坂口安吾という三文文士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主になろうとしたり五年間思いつめて接吻したら慌ててしまって絶好状をしたためて失恋したり、近頃はデカダンなどとますますもって何をやらかすかわかりゃしない。もとより鑑賞に堪えん。第一奴めが何をやりおったところで、そんなことは奴めの何ものでもない。こうおっしゃるにきまっている。奴めが何ものであるか。それは奴めの三文小説を読めばわかる。教祖に掛かっては三文文士の実相のごとき手玉にとってチョイと投げ捨てられ、惨また惨たるものだ。

ところが三文文士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、もっぱらその方に心がけがこもっていて、死後の名声のごとき、てんで問題にしていない。・・・・私は死後に愛読されたってそれは実にただタヨリない話に過ぎないですよ。死ねば私は終わる。私とともに我が文学も終わる。なぜなら私が終わるのですから。私はそれだけなんだ。」

・・・それにしても 「教祖の文学 ー小林秀雄論ー 」の項 は面白かった。

 名前に「津」と人の女性の名前を何人か知っているが、この漢字は、そもそも「湊」を著す感じであったろうと思う。「サンズイ」に「箒」を著す字であって、古来、この国に多くの海を渡ってきた実に多くの優秀な渡来人(帰化人)がどっと押し寄せて来ていて、それが今のこの日本の精神性の土台となっているという。津波という字は、まさにその通りで波が強襲してくる意味だからな。

古来帰化人とのDNAの混合が、秋田美人のルーツであるというのが僕の持論である。女性ばかりか、男性も実はそうなのではあるまいか。みんな都会で活躍するから不明になっているが、美形の男優の祖先をたどれば東北だったりする。僕の仕事務めの時も、工場にはそれなりの方もいたが、女子社員やパートにもきれいな方がおられたな。会社のパンフにもなったりの美人さんがおられたり、と・・・そういう方は早く当然と言えばいいのか、はやくお嫁ぎになられた。

世界におけるあの15世紀の大航海時代、このイタリヤの地図「東洋地図」には東の果て島国日本には、ミヤコとして京都、日本海のAGUTA(秋田)しか載っていなかったのだ。僕の住居の高台は、古来の大陸からの人々の窓口であった。すぐ裏にその遺跡がある。遣唐使や遣隋使などの数以上に多くの大陸からの船が往来していたのだ。歴史で公に習っていないだけなのだな。

で、安吾に接吻された時、フリーズ(固まって)してしまった津世子なのだったが、外見とは相反して(だから、雄<おす>という生き物は悲しい生きものなのだな、と思っていたかどうかは分からないが)作品は実に松本清張の黒い霧シリーズのフリーズするような内容の小説もあった。

キリスト教会の礼拝から始まる『反逆』という作品の最後の部分を簡単に紹介する。*****

〔あらすじ〕貧しさ故、主人公、お松は子どもらを道ずれに死のうとしたが、三人の子の内、一番上の子は死んだが下の二人、娘(兼)と息子(兄、欽二)は助けられ、三人共に教会に住むことになる。娘兼は道ずれの時、脳挫傷で知恵遅れとなっていた。欽二は工場勤めをしはじめ当時の共産主義的考えを持ったこともにじませる。以下、助けられてから教会に住み始め、三人の牧師が変わるがその実態を暴いて(あくまでこの小説の中の)出ていく、とう場面で終わる。*****

「狐だ!狐だ!狐だ!」 お松の足が襖を蹴開けた。

 小野牧師は、寝間着のまま布団の上にしょんぼり座っていた。

「牧師なんて狐だ。狸だ。みんないい加減の代物だ。神様なんて化け物だ。大騙りだ。私ァ十三年間この娘の上に奇跡の現れることを祈っていたんだ。ところがどうだ。神様は娘にどんなことをしてくれたんだ。娘は孕ませられて、それに下し薬まで飲ませられたんだ。娘は死にかかっている。私ァ、今になって始めて銀二の云ったことが解ってきた。あれは間違った事を云いやしない。尻尾がでるぞ。お前さんのそのでっかい尻尾を私ァちゃんと掴んでいるんだ。聖書の陰に隠れてお前さん達ァ悪事をやっている。安心して、したい放題のことをやっている。一番目の牧師ァ私達親子をダシに使って出世して行きァがった。二番目の奴ァ、始終寄付金や献金をごまかしてゐた。そいつァ女が好きで淫売を買うのが道楽だった。挙句の果てが他の妻君と一緒に駆け落ちだ。その次のお前さんはどうだ。私の娘に手を付けて、おまけに殺そうとしている。未だ知っているんだ。お前さんが伝道説教に身を入れる訳もな。お役人が後ろで焚きつけてゐるんじゃないか。知ってるんだ。知ってるんだ。金を掴ませられれば、神様なんて何でも引き受けるんだ。キリストなんて大嘘だ。役者だ。あの十字架が、十字架が皆の眼をまやかしてるんだ・・・」

 お松は駆け出した。

 会堂の中には青い月光が流れていた。

 祭壇の中央に受持かが金色の輪郭を見せてゐる。

 お松は椅子をかきのけて走った。

 幽霊のように、蒼白な牧師の顔が戸口に音なく現れた。

「お前さんはよくも私を騙してきたね。甘ったるい声で人の心へ毒を注射するのがお前さんの仕事なんだ。お前さんのつれて行ってくれた楽園にァ 狐や狸ばからいが往来しているじゃないか。私達ァ そいつに肉を喰われるだけだ。お前さんは詐欺師だ。詐欺師だ!」

 祭壇を睨んでいたお松の目が白く光った。彼女はその上に駆け登った。十字架をはがした。満身の力を集中して、それを踏みつけた。蹴った。叩きつけた。ガァン 鈍い金属音を発してそれはオルガンをしたたか打った。

 「あゝゝゝゝゝ」

 戸口の蒼い顔が低く唸って倒れた。

 「兼、さ、行くんだ兄さんのとこへ行こうよ。おっ母はな、これから一生懸命働いてお前を病院さ入れて眞人間にしてやるよ。さ、行こうな。兼坊・・・・」

 返事のない娘の細い軀を抱えて、星のまばらな空の下を、シャッキシャッキ歩いて行った。******(おわり)

◆矢田津世子の美貌から、どうしてこのような小説が書かれたか、当時の宗教性に関する否定があったのか、松本清張の黒い霧シリーズにも似たような小説があったけれど、ショッキング性を狙っていたのか、実際のスキャンダルを暴こうとしてのか、外見とその内なる心情はとんと分からない。女という生き物は謎である、とするで終えてしまっていいのかな。当時文学者は(今もそうであるが)キリスト教には誰もが触れた。善く解釈し、それを解消していた作家も多数いたのである。美人薄命というけれど、この作品を読んで、僕は美貌の持ち主、津世子が早く天に召された原因を見出したように思ったのだった。・・・



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