marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(801回) 僕の好きなのは<『雨の木』を聴く女たち>

2021-02-10 17:59:38 | 小説

◆大江健三郎の中で僕が好きなのは<『雨の木』を聴く女たち>。まんま宗教性を暗示するというか、経典そのものを慕い暗示する主人公が出てくる内容だから。その他では、初期の作品やエッセイ。小説群の中途から、恣意的と思われる小説を書こうとする意欲を湧きたてるイメージの希求先が、当時の欧米の思想家や詩人や聖書などであったりするのはいいとしても、彼は、まったく普段の小説以外の書き物は読みやすいとしても、がぜん小説になると前頭葉がバリバリと働くのか、書かれた言葉自体、例えば主人公の名前でも、ストーリーの運び方でもだがその飛躍、あるいは体の一部性殖器がもろに出てくる(言葉で書かれる)などの部分は、どうしたものだろうと疲れてしまう。◆若くなければ読めない小説となってしまった。そして、書かれた彼を取り巻いていた世界の思想的動き、安部公房やサルトルなどの当時、流行った実存主義的実験小説めいたものを理解した人でないと、一般凡人には読むのは難しいかもしれないと今でも思う。彼は詩人だからだろう。小説に使われる言葉には、彼自身の飛躍した先行するイメージがあって、それで固定化されいきなり出てくる。かなり無機質に生き物である人の官能から引きはがされて、使用されると読む側の前頭葉は機敏に反応するが、内心イライラが起こり吐き気がするようにこの頃なってきた。こういう思考の恣意的実験を小説で行う時代は、もう来ないだろうと思う。それは「人とはいかなるものか」ということが、実際に様々な分野で研究され、医学(ゲノム編集)でも心理学でも、あるいはAIなどの人工知能などでも知ろうと思えば知ることができる時代になって来ているからである。◆しかも大切なこととして(宗教オタクの僕からすれば)小説の中でのか弱き人という生き物への恣意的思考実験はもう行われるべきではないだろうという一番の理由は、その歪が必ずどこかに生じてくるからである。その歪みは、彼の息子の光くんに現れたとみる。人の解体は必然、救済へと向かわざるを得ないのだ。人は蒔いた種は刈り取らねばならない、これは厳粛なる事実である。これを皆さんは笑えるか?



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