marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(790回) 畏れおおくもキリスト教神学について

2021-02-01 12:57:23 | 思想・哲学

◆キリスト教神学にも進化がある。常に進歩している。そして、時代と学ぶ人に働きかける。したがって、一般化されることはそのわずかであり、固定化される内容はほとんどない。従ってイデオロギーや主義などになることは「本来」ない。しかし、そこから派生してくるイデオロギーや主義、さまざまな意見はパンドラの箱だ。けれどその原点は、すべて聖書である。僕ら人の雑なる言葉や意識はそのさわりに何とか触れるだけなのである。「本来ない」と書いたのは、被創造物の雑念を持つ人という生き物が、自らの言葉で神の言葉を自分の言葉として自己肯定するできるために非常に困難な、しかも時には危険なものとなる。・・・箱の蓋は開け放たれている。何らそれは、この世においてただ、自己肯定、自己逃避だけの内容となる危ないところがあるが、また、その理由は、神に対抗する悪魔と戦うための試練であり、訓練と呼ばれるためでもあるのだ。事実最終、信者はこの世の悪魔と戦う使命があるのです。◆さて、内村が、それを学んでも資格をとらないと語ったには、①当時の欧米からの神学は、すでに人の言葉での雑念、人の世の自己肯定理解が権威をもって、分派し主張を始めていたこと ②当然、それらの由緒、しきたり、組織の軌道の上に載ったものでありその教派のしきたりを引きずっていたと思われたこと ③その思惑に当てはめることが理解することであり、その知識は当時の人の霊的実在感を消失していたと考えられたこと ④第一、学ぶ者は唯一、霊的に体現しつつ人生で得とくすることがらであって、如何に学として定着されたものであっても、無論それは次元理解にはステップアップすることではあろうが、それは結局、人と言う肉なる次元の定義事項にすぎないから、坊主はそこに安住してしまい、本来の源の泉から、泥までも吸い上げてくると思われたことなどであった。霊なき神学は、あらゆる勉強の中で、最も無味乾燥にして、最も価値がないと、当時、アメリカで学んでいた内村は思ったのであった。・・・喧しい議論を、何故、プロテスタント神学は赦すのだろうか。「神の言葉は我らの中に住まう」それが理由である。・・・続く



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