◆キィエルケゴールのあの時代、彼の手記から読めば、彼が求めるそれとは本来、キリスト教の示すものではなかったのか、というべきでなのではあるが、まったく彼は逆にそれが示されていない漫然とした杓子定規の形式に落ちいった当時のキリスト教界に反旗を翻しているのである。自分の至高価値の根を自分の中に見出す、などということは、あの破門されたスピノザという哲学者も求めていたものではあったように思うし、誰でも超越した何かを過去から現在、そして未来まで求め続けるであろうというものだ。◆それは、ユダヤ人の先祖伝来の長い伝統に基づいた聖書観に基づいた当時の教会の話ではなく、それを卒業したキリスト教の話では聴衆は殆ど「自分の根」が無かったのではあるまいか。だから、耳障りのよい言葉でもどこに十字架は立っているのか、と彼、キィエルケゴールは当時のキリスト教界に反旗を翻したのだ。そしてこれは、現在の教会にも言えることではないのか? 自分を捨て我に従えと言われたからと・・・でも、これは先祖を知って自分らの立ち位置を知っているユダヤ人に対して言われているのであって、その歴史の無い異邦人には根なし草になれ、と言っているようなものだ、それは不安を煽っているだけにすぎない。◆8月、日本でお盆と言われるこの時期、本来の仏教は葬式仏教ではないはず。釈迦はこの世で成仏しないと輪廻転生で霊の障害を生ずることより、皆が修行をしないといけないと言っているのが本来の教えなのである(阿含教)。これだと大衆に受けが悪い、よって大きなのりもとして受けがいいように大乗仏教がでてきた。如是我聞といって、釈迦がこういったのを聞いた、と無数のそれがまとめられそれが仏教と言われて来た。とんでもない、それは間違いなのである。◆自分が死んだらそういうことが起こるから多くの比丘(坊さん)は悩むであろうと釈迦が言っているくらいであるから。仏教学者も認知していることである。◆では聖書は対立する者か? 聖書は生きている者の神を信ずる。葬儀あれこれは述べられていない。次元の高いそれは全人類の救済を求めているものであのだから。いずこの国でもいずこの死者の葬られ方でも聖書は、死者の葬られ方を規定はしていない。どのような死に方、葬られ方でも生前にキリストを信じ信仰告白をし、生きるならよい。誰も拒まないし対立するものではない。真理はひとつ。高い次元での永遠の命である。自己宣言をすること、記録に残すことだ。アブラハム、イサク、ヤコブの神である、と言い、死んだ者のかみではなく、生きている者の神であると語られる。そのヤコブはエジプト式の葬儀、その子ヨセフもそうであったが、かの地でミイラになったのである。彼らは地上では天の故郷を目指して生きていたのであった。我らはこのことを忘れてはならない。不可能と思われたいたことが360年以上も経ち、実際、エジプト脱出でヨセフの遺骸を神の示された地に運んだのはあのモーセだったのである。
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