marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その30)<1>『どうする家康』決して描かれない切支丹に対する考え方

2023-01-29 21:12:49 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 徳川家康ばかりではなく、本来、今では良い教えではないのかと思われるキリスト教が、どうしてこの国では、鎖国が行われ弾圧されて来たのか、という原因を本来は良く考えてみることだ。けれど、これは詳しく考えられたことがないし、大衆ドラマでは一面だけの捉え方だけであって真意は決して著されることがないだろう。

キリスト教国であるあの国のその名前、先に布教が行われていた国の名がフィリピンとなったのかを考えて見るといい。あの時代、その要因を鎖国をしたこの国の武将たちは聞き及んでいたのである。イエズス会は国に忠誠を誓い宣教騎士を自覚していたから、その成果として国の名前を自国の王の名にをに馴染んでつけたのである。フェリペⅡ世だったか。

宗教的なことについて外部からの強制は非常に根強い反発を人民の心に植え付けるものである。事実、その国はそれに反発する者らがイスラム教をもって徒党を組み、もともとの自国の人民のあり様の回復を維持しようと武装集団まで作ったのは周知のとおりである。

以前書いたことがあったか、30年以上も前になるだろうか、フィリピンを訪れたときに髑髏を机上に灯りのもとで銃をもって話し合いをしている絵柄の紙幣(お金)があって何だろうと不思議に思ったものだ。

遠藤周作の『沈黙』は良く調べられている小説だが、映画でも宣教師と信徒、そして取り締まりの役人、刑罰など大変な思いで布教していたこと。殉教者が多く出たことなど、あぁ、気の毒、本当に気の毒!の声は出るだろうが ”よい教え” がなぜ、迫害にあうのか。

実は、イエスという男がその真理を伝えんと十字架にかかったのだが、読者よ悟れ!、この時から今という現代までその障害は変わらず、存在してあることは、賢い方であるならばおおよそ推測できるものなのである。

天地が創世され人が創造されたその時から存在し、今も存在し、地上において争いが生じ、なをかつ万人に死があり、生涯を戦いとみなして生きる人々もいることを思い描くならば・・・。微に入り細を穿つ悪魔は存在する。

地上において必ず政治や経済がらみのいざこざがあって、それが昔は宣教と結びついてきたために(どのような宗教であっても、宗教を制するものは大衆の心を制すものであるから)国ごとひっくり返されるものであること、我々はそこに悪魔が潜むことを常に覚えておかなくてはいけないことを教えてくれるのではないか。

この国の些細な?事と言えば一向一揆(宗徒は浄土真宗)で家康も悩まされたものだ。よいものでも集団で完全なる自治が取られ、武装集団まで備えていたとすれば全国統治はできなくなる。

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人を創造せし天地創造の神は、へブル人アブラムを選んだ時、あなたの腰から天の空のごとく大いなる数の政治の為政者がおこるであろうと言われた。さらに、ヤコブには神はあなたの子孫は東や北や南や西に(つまり世界中に)広がっていくであろうと言われたのであった。それが、地球上で我々が学んでいる世界の歴史であるということになる。

神の言葉が世界にいきわたる時、命あるものに死があるように悪魔は存在するということをも教えてくれる。

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我々のこの地上における生存の拡張と束縛。宗教には背後に必ず絡みつく二つの顔、それは政治と経済である。

(※現代においてもまだ背後で生き抜いていたのかと思わせられた旧統一教会の原因も考えて見るといい。何が勝共連合なのだろうか。宗教団体がそもそもイデオロギー的に一つの言葉で決定して自己肯定是認すること自体がすでにそれは、宗教の体をなしていないだろう。ここも政治に背後で宗教が加担していた。その手段の悪用であろう。

近代的自我の形成もままならない、しかも政治の暗部を見せないようにするために学問においても、その方面の思考する言葉の育成をこの国では行わない、その記憶が僕にはない。高校3年の倫理くらいか。欧米の思考に触れたのは。高校の夏休み、夏目漱石の「心」を読んで感想を書けとう宿題に、それより「私の個人主義」を読ませた方が、どれほど個人の思考の自立が促されたことであろうと今でも思う。)

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政治と経済、実はこのやり方は、旧約時代に神の言葉の預言者と呼ばれる者らが、実際、その予見通りにならせんとして実は非常に優れた天才的政治家が、預言者として政治に入り込んで、あのバビロン捕囚からの帰還をなしたものらの思考なのである。天才的預言者は敵方に入り込み、敵国に貢献すべく政治を支配する官僚となっていた。この国でも古代、この国にたどり着いた彼ら部族がこの国に入り、天皇制度をつくり国の統一を進めたのである。

事実、神の言葉を与るものらは政の予見を幾多の情報をも得て、実際に背後で政治に介入して自らの方向性になるがごとく画策したのであるから。それが真に生きている神なのかどうかは真摯に誰にも(人)に依存することなく神と対峙しなくてはならない。

事後預言であろうとなかろうと文字として、そう神は申されていたと決定してしまえば、それは後代の人間にとっては実態を知り様がないからそれが歴史の事実であったとこととなるのである。古事記や日本書記。我々は学問づけられた権威に弱い。

人のための律法が人を束縛し差別する手段となってしまったこと、よく考えれば目的のための手段が手段を遵守することが目的となって、人を束縛することになってしまっているパリサイ人をイエスは痛烈に批判した。手段が目的に成り代わっていくときに大きな時代の変わり目の兆候が表れる。文字は人を殺し、霊は人を生かす、とパウロは言った。

どうも、国内ばかりに歴史では為政者の邪魔になるからと矮小化して考えるが、思想によって国つくりをしたという思考は、この国ではなかなか教えられない。当時は、隣国からの思想は多く流れてきていたが、政治を行う者らや僧侶など、文字に触れる機会が多いものに限られていた。古代、これを行ったのは蘇我氏や藤原氏や秦氏らであった。

家康の時代になり背後に悪魔がほくそ笑む政治につながりを持ち、宣教に姿を変え背後で政治的に介入していくように思われた宣教師、その背後の国からの軍隊に不条理を感じたのであった。今もそうではないのか。多くの優秀な国の行く末を予見する天海などの黒子がいたし、家康は古代からの書物を実に多く学んでいた人であったから、それらの時代が見えていたのである。

さて、宗教を制する者は大衆を制す。政治システムとしては儒教を取り入れたが、古代から黒子たちのDNA思想で背後で動いたその思いを知って学んでいた家康は、政権と争わない宗教であれば殆ど是認していたのである。

前々から読んでこられた方は、聖書における旧約の民、記憶を生き続けるDNAをもつ渡来して帰化して日本国になった人々、しかも時折、顔を出すが歴史上ではほとんどその姿を現さない古代において神人(ジニン)と呼ばれた呼ばれた人々(彼らは朝廷にそってはそのように言われたけれど、多くは、古来から僧侶や修験道者や神官になったり、いわゆる旧約時代ではレビ(司祭)=神と為政者の間を取り持つ彼ら)は、異国からのキリスト教をどう思ったのであろう。

結論から言えば、彼はやはり、秀吉らが体験して禁教としたその理由を、悪魔の思いが障害となる経験をまじかに体験したのからなのであったと思われる。そのいきさつは、人が生きているからには2023年の世界の情勢の思惑と何らかわることがないと思われる。

家康には、無論、外国からの貿易により国を富ませようという意図があったと同時に、直截その宗教のおおもとに乗り込んで真理とやらを知りたいと願っていたからなのであったのだが。

キリシタンはいつの時代も誤解により、あるいは悪魔の策略により弾圧をうけるものだと聖書にも述べられているごとく、しかし、宣教は命を懸けてまで行われて来たということを、人はどういう生き物なのか、というレベルにまで思考を広げて(視野を広げて)考えて見なければいけないだろう。

我々は、全知全能の神がおられ自分の似姿に創造した人を永遠の命に救済せんとした創造主の最高のシステムから漏れてしまうことになるだろうから。実際、家康が直接、異国に対等に向かおうと試み、太平洋まわりのでイスパニアを目指して船出させたのは慶長18年(1613年)のことであった。・・・続く