marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その28)記憶の民の帰化、シナリオの開示を!『どうする家康!』

2023-01-11 12:24:37 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ※暦応(りゃくおう)と言えば、南北朝時代であり北朝は使用した元号とある。八郎潟に近い町村の道端や寺院には多くの石碑が多数ある。

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彼らが現れるのは、深夜2時ころ。いろいろ語る、身体(頭脳)に同期してくるのでうるさい雑音とはならない。静かに聞こえる。シナリオの開示と言ってもNHKの大河ドラマのシナリオではない。少し、後半、不思議なことを述べる。

我々の今まであなたに話して来たストーリーをかいつまんで言うと、こういうことになるだろう。あなたが昔から関心があって大陸から渡来し帰化して優秀な人々。それを迎える先代の住人および帰化人。後発の前者であれば弥生人と呼ばれる人々だろうし、後者であれば縄文人ということになるだろうが、いずれその境界は明確なものではないが、時代として大きな変革があったことは確かだろう。

14000年から16000年ほども続いたと言われる縄文時代に忽然と文字が現れ、とういうか先代の多々の言葉や文字が秘密裏に隠され(といってもそんなことも多くはこの島国の全体像も理解していない多くの先住人であったのだからまったくそんなことも分からんかっただろうが)さらには時勢を都合よく歴史として文字をしたため記録にしはじめた当の先代からのDNAをもっていた人々が、まさにそれぞれが持っていた攻撃性を利用し自己肯定化に走り出したのは、朝廷に使われ地方豪族の平定にあやかり、自らの去勢を張って自らの主張をここに自覚しはじめたことから、今あなたらが習う時代区分のうねりが始まった訳だ。

しかし、忘れないで欲しいのは、その歴史の背後で昔から多くの黒子がいたということを。彼らの役目は天上のシナリを実行すべく実際に見えぬ形で、あるいは人そのものに同期しつつ役割を果たしてきたのである。無論、今のあなたにも!それらは、まったくその人に同期し続ける者もあれば、出たり入ったりしている。注意は、実に多数いるということである。天上界からのもの、過去界からのもの、不慮の死でこの世に再生を願う者、実に多数である。願わくば、あなたが身体を振り回す悪い霊に取りつかぬよう!

さて、あなたは渡来したかの地から何世代に渡り、途中、移動の中で国々を興し、歴史を造り、時代経過のなかでようやく日本と言うこの島国にたどり着いた(その時、日本という名前すらなかったのだが)人々にかの地で、この地球を創造し国の歴史、人の歴史をプロデゥースする創造者、および活動する黒子たちのDNAが、世代にわたりどのように経過していったかを知りたがってきたわけだ。

しかし、彼らの祖先はそれを経験して知っていたのだのだが、この国に来て喜んだのは何だと思う。あぁ、まさに太陽の昇る国を目指して先祖たちが東を目指した国がここにあったとう感激だったのだ。太陽が昇る東の端てとなった先には海があり修行する地となった山々があり、それから流れる水の清さだった、と言えば驚かれるだろうか。太陽の光と清い水!その国への到達が彼らの祖国で言われてきたの行くべき地と言われ続けてきたところであった。

あなたは見たことがあるだろう。昔の神々の絵には髪の毛を頭の両側にリボンのように結んでいるのを。山の修行僧が同じく宝冠と言って手ぬぐいをかぶり頭の両側にリボンのように垂れ下がらせているのを。

さて、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿13人』も終わり、次は『どうする家康』・・・今回、述べたいことはこうだ。昔、この島国に訪れ、帰化し、今では殆ど日本人となったあなた達の国の黒子達。260年間も続いた徳川政権。家康は、これらの歴史を知らなったと思うかな。否、知っていたのだよ。彼らのDNAはこの国に広がって先祖以来、受け継がれ続いてきていたのであるから。

過去には、天地創造の先祖の歴史を持ってきた彼ら(失われた10部族と呼ばれた来た)は、旅の途中で彼らが古来から言い伝え続けてきた『救い主』の誕生を旅の途中で聞き及ぶ。この地にたどり着き、あるものはその心情を”我よみがえる”と蘇我と自らの姓にした。彼には先を見通せる天性の才能を持った者がいた(厩戸皇子)。

あるものは、時勢に合わせ、この国の統一に決して表に出ず、彼をサポートする。あの中国を統一に加担したまさにその名、秦氏である。聖徳太子のブレーンは秦河勝(はたのかわかつ)であった。

彼は、紀元前に自国が争いに敗れ離散し東に向かった一団だったからな、途中で先祖以来言われ続けてきた救い主の誕生を聞き及んだという訳だ。東に向かったキリスト教徒は、ネストリウスキリスト教徒であった。無論、それよりも彼らには伝達が早く。

そもそもシルクロードなどの長路は同じ規範の基に繋がるものであろう。それが異なれば道は途切れる。絹(シルク)織物、機織りは秦氏の秦から来ているのは知られた通り、そしてあなたの国も今の皇后が蚕を飼う理由が分かるだろう。秦氏はキリスト教徒となっていたのである。

あなたの国は、いつ『日本』と呼ばれるようになったか知っているかい? 西暦689年、浄御原令(きよみはらりょう)で決められたと言われる。まだ、天皇家のごたごたがない時だね。そこには秦大津父と呼ばれる方がおられた。秦一族は実に多くの技能集団、芸能集団であった。ネットでも見ることができる。

だから、少しひも解くと我々のこの国がこの一族の恩恵にあずかってきたことが実に多くあることが理解される。琵琶湖の東には大陸から多くの渡来人が来ていたことは、今でもその地に行くと聞くことができるだろう。

古来、八幡神社は、秦氏の創設したものである。あなたの東北の地の山奥にもこの社(やしろ)や村や土地の名前になっているのは、いかに民衆に浸透していたかだね。明治期に多大にゆがめられてしまったその神学意味があるが、まともにこの思いに帰ろうとすればあなたの国は決して亡びることはないだろう。

それで『家康』とどういう繋がりが出てくるのかと言えば、聖書が世界の未来の預言も書かれているようにに遠い過去の未来?から来てその役割を与えられている者は未来を予見することが出来ていたのである。つまり、歴史を背後でサポートしてきた黒子達、過去の彼らのDNAは、忘れることなく日々、この国のありように貢献してきたのである。

あの『聖徳太子』の時代。彼の著したその書物は、その後のあなたの国の未来も予見していた。ブレーンの秦河勝の働きは陰において絶大なものであった。

徳川家康は、古今の書物を読みうる限り学んでいた人でもあった。彼は過去に聖徳太子の著した未来のこの国の予見書も読んでいたのである。この国に渡って来て、ひたすら争いの無い理想の国作りに邁進した影の黒子達の動きが実を結び始めた時代、取り巻きとその書物を読ん理解したのが徳川家康であった。その書物の名前は『聖徳太子日本国未来記』『聖徳太子日本国未然記』。その写本は国立国会図書館に眠ってる。

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徳川家康は24歳まで「松平」を名乗っていた。父は松平広忠。松平郷を治めていた在原氏は2代目の重信の時代に旅の僧である徳阿弥(とくあみ)を娘婿に迎える。徳阿弥は僧侶から俗人へ戻り、松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)と名乗った。親氏は松平氏の初代、つまり家康の祖先となった。松平親氏は勇猛果敢で統治に優れ、地方豪族が勢力の拡大を目指す時代にあって、親氏は近隣諸国を平定し西三河北部を傘下に収めた。一方で領内を巡検して餓える人々を救済し、道路の整備もあたっている。一番頭を悩めたのは、三河の一向一揆だったろう。ここでの要は、徳川に姓を変えることになった経緯である。まさに旅の僧・・・その後、天海はじめ取り巻き黒子Xが徳川に大いに加勢することになっていくのである。国の生業に加担する黒子のDNAは古来から生きていたのである。

・・・・そういって彼(👽)は消えた!