marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その17)日本に来た黒子達②:世界に散らされた黒子達(宇宙人👽)

2022-10-31 11:41:09 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

(宇宙人👽D:の話)

イスラエルの国の国歌『希望』の中に「シオンとエルサレムを求めて東の果てに向かおう」という歌詞があるのはどういう意味なのだろうか。いつ頃できた国歌なのだろうか。”東の果て、岸まで”という文言に、それは日本まで来ているのであると、そしてそれは事実であると盛んにYouTubeで先生方が宣べている内容を見ることができる。はっきりした日ユ同祖論ではないが、多くの渡来人が来て帰化したのであった。元々が神に選ばれた民であったからそのDNAは政治的にも優秀なものであった。

シオンを思いだし、それが京都の祇園祭りとなって、あの練り歩くたち鉾の御車にかけられたタペストリーの刺繍にイサクの結婚の話が縫われているとか、エルサレムは、エル(神の都)・シャローム(平和)として、平安京ができたとかの話が伝わっている。

そもそも、天地創造がなされた時、我々(宇宙人👽:あえてこう書かせていただく)の内で、最も優秀だった創造グループはイスラエルであった。地球の人類のドラマの中で、時間経過を経て、地上の人類の歩みを見たとき、その往来の時が来たと思われたとき、地上に選ばれし民族を見届け、その筆頭としてヤコブを選んだのであった。彼は天使と相撲をとったとある(これが相撲が神事である謂れになったと言われる)。そして天使から与えられた名前がイスラエル(神の皇太子)であった。創世記32章に書かれている事件である。

今はイスラエルというひとつの国の名前になっているが、聖書を読めば、BC1000年頃のダビデ王の時に国の統一が図られ、その後、北イスラエルと南ユダに分断し、北イスラエルはBC722年頃、アッシリア今のイラン国に捕囚され、南ユダはBC586年頃にその後に起こったバビロンに捕囚される。さらに、その後に起こったペルシャ国に帰還を許されるが、(その後はローマに支配され属国となっていいとこなし、そういう中でイエスがメシアとして現れるが)、離散したその多くは国元に帰ることはなく、世界に離散したのであるとされる。

その各地で彼らはコロニーを作り、曰く教会を作ってその多くは家庭集会のようであったのだが、先祖伝来の天地創造主のことは結果して忘れず、その物語も戒めとしてそのしきたりもしっかり引き継がれてきたのであった。今もそうである。ここに来て、日ユ同祖論ということが最近、再び頻繁に語られるようになったのである。

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この話は、実は何層にも重層化してるので語るときりがなく面白い。あぁ、天地創造された神は人類救済のために(といっても我々は何処かへ飛んでいくわけではないのだが)神は存在を示されてこの地上の歴史を支配されておられるのだということを思わずにいられなくなる不思議な書物である。一見、そっけない話の寄せ集めのようであるけれど、その更にその深層に流れる川が流れていて、それを必要に書き留めてきた黒子達が多くいたのであることが理解される。今も多くいるのである。

北イスラエルはヤコブの12部族の内、10部族であったのだが、離散後の彼らの行方は分からないとされている。その多くは東に向かうそれぞれの地で居住したが、さらに東に向かった多くの部族が順次、日本に他たどり着いたのであったといわれているのであるがいつ頃であったのだろう。

南ユダ2部族は離散後、正統派として新約になり今の西へ向かいヨーロッパに伝搬された。東に向かった彼らは日本に何度かに渡ってそれぞれの部族が渡来したのである。ここで一転、皆が知っていることから話して行こう。

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聖徳太子が厩戸皇子と言われるのは何故なのか。イエス・キリストも馬小屋で生まれたと言われる。クリスマスには宿屋がいっぱいで家畜小屋でイエスは誕生されたと毎年、挿絵などで見られる。しかし聖徳太子は仏教を保護した蘇我一族だったとされる。本来の古代神道に仏教が入って来て、その仏像に羨望した天皇にそって、彼は仏教を保護したと言われるが・・・。天皇を頂点にして大衆の基盤を作るということは彼らの歴史からあってしかるべき国形成の仕組みであった。

聖徳太子が仏教の庇護者であったということ。実は、これはどうなのか、改めて書くが”言葉”というものについて考える。彼がつくったとされる17条憲法の初めは”和をもって尊しとなす”であったが、”ひろく三法を敬え”とは、仏、法、僧とされるがこれはどうなのか?これは仏教の保護とされるが、第一に仏も法も僧もきちんと確立されたものがあったのかということ。天皇が仏像に所有心を起こしたが故にこれは後に仏教者がそのように解釈したものに過ぎない。

厩戸皇子と言われたのちに聖徳太子と言われた彼の本来のDNAから言えば、憲法に一つの宗教をあがめるような思考はまったくなく、常にその目線は被創造物である民衆にあったのである。三法とは、当時の神道、儒教、仏教であると言われる。手段そのものをあがめることではなく、常に人々へのその効用の方に目が向いていたということである。互いに争ってはいけない、それがあるそのものの意味を考えよ、ということであった。

実は、彼ら一族は、西からのこの国に渡来し帰化した例のその一族の人々であった。離散した紀元前のことである。東へ向かっての(無論、一息に渡来したわけではない、途上の様々な歴史は一応端折る)旅の途中で、古来から自分たちの聖書に言われてきた救い主が故郷(エルサレム、正確にはナザレという田舎になるが)で誕生したと聞き及ぶのである。そこで、旅の途中でその多くの部族はキリスト教に改宗したのである。有名なのは、日本にたどり着くのが後発だった”秦氏”である。

”秦氏”程、この国に良心的に大きな貢献をなした一族はいなかったろう。最もこの国の成り立ちを土台で支えた一族であった。決して表舞台には出てこない。聖徳太子のブレーンだったのが教科書にも出てくる秦河勝であった。横暴となった仏教徒に平城京をあらため、自分の広大な土地を提供し平安京を造成し、あの当時、海だった湿地帯の大阪を造成したのも土木技術を持っていた彼ら一族だった。八幡神社や稲荷神社は彼らが起源である。多くの技術を残しこの国に貢献したことは調べると多く出てくる。日本のあちこちに八幡という名がついた地名があるのは彼らがいかにこの国に受け入れられたかを物語っている。

当時の彼らの情報網は当時においては驚くほどであった。新約聖書にもあるように手紙は、離散したコロニーで多く回し読みされたのである。時には改竄されたのもあったろうけれど。蘇我氏は、日本に順次たどり着いていたその一族であった訳である。イエスは死後、復活し甦ったとされる。それで彼らは、自らの部族を”われ、よみがえる”(蘇我)と名付けたのである。

東へ移動した彼らのDNAは非常に優秀だったの書いたとおり蘇我氏の中でも厩戸皇子(聖徳太子)は非常に人徳も有り、多くの話を一度に聴けたと言われたくらい非常に優秀だった。それで、彼らは家畜小屋で誕生した救い主イエスになぞらえ、厩戸皇子と名付けたのである。

東からの部族は、政治中枢にも入り込む能力にも非常に長けていた。それは、既に今日、世界中で読まれているベストセラーの預言者と呼ばれる黒子達が、多く神から預かった言葉を政治に反映するにその策略に長けていたDNAを持っていたのである。

先に来ていた彼らの政治力に非常にたけたもう一つの部族が、あった。陽が昇る国を目指して遙か、東の端まで行った部族であった。鹿島、香取神社という伊勢より、それと同等の格式を持った神社を創設した部族であった。それはどういう一部族か。彼らは蘇我氏に代わって政治の中枢に入り込んでその後の一族の反映を謳歌した藤原一族である。

そもそも神社とは、燈明や手を洗い口をゆすぐ、奥の院があり、これはイスラエルのしきたりと幕屋の形式を模したもであると言われる。確かにイスラエルの神殿はそのように造られた。だから、各地の神社の造りを見るとこの配置があるのは、紀元前モーゼに引き出されて途中、幕屋を造り神を礼拝し続けたその深層の思いを受け継いでいるのを知っている人は思い出すのである。

蘇我氏は、天皇が仏教を保護しはじめたことに乗じて横暴を極め始めた。なにぶん彼らは政治の中枢部に入って、思い通りにすることにたけていたからであった。そこでこれではいけないと、征伐に立ち上がったのが、藤原鎌足(藤原氏の祖)、中大兄皇子とされている(大化の改心)が中臣鎌足(藤原鎌足)はこれまた、政治的策略DNAを持った策士であった。

思うに、旧約のヤコブも非常に癖のある男であった。相撲を取った天使には”私を祝福するまでは離さない”といい、天使に”神と人共に勝利したからイスラエルという名前にしろ”と言われるくらいの男だったのである。さらには自分が徳をするには、自然の道理までを考慮できる男だったからである。今のロシアがウクライナに戦争を仕掛けているのは、こういう背後の歴史的怨念があるのかもしれない。民主化を語るが背後で搾取、画策してきたのは彼らではないかと。

つまるところ、聖徳太子一族を抹殺した背後の黒幕は、藤原鎌足である。決して自らは表立って手をださない。そうして今度は彼ら代々の策士が藤原氏として天皇政治体制の中枢に入り込んでいくのである。政治や歴史をも塗り替える方法を知っていたからである。

聖書が世界で今も読まれているがごとく、文書主義、書かれたものは文字として残り、書かれていないものはなかったも同じ。後の人間が第一知る由もないのであるからということになるのであった。世界の焚書はこうして行われたきたのだから。

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あの昔栄えたアレキサンドリアの大図書館が燃やされることがなければ、我々(宇宙人👽)の世界をもっと早く知ることができたであろうが。・・・続く