marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

解読要注意! 悪魔の戦術:世界のベストセラーを読む(951回)

2022-07-17 05:31:19 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  家が破産する程の多額の献金??  安倍元首相の銃撃犯人の思い込み? 旧統一教会という宗教団体?

この時代になってそもそもこの日本でテロが公然と行われることに、そらそら悪魔はいるだろうと、現れ始めているんだよ!と考えさせられた。事件が解明されるにつれて学生時代の思いが少しフィードバックした。まだ、うろついてたんか・・・コラ! 広告塔で芸能人や政治家を広告塔にするな(票が集まるとしての宗教を利用するのは痛い目にあうぞ)。歌手の桜田淳子さんはどうしてんのかな、こういう広告塔は実にいい思いだけをさせられるのであるからな・・・

J・F・ケネディーがテキサスにおいて銃弾に倒れたのは、日本に戻られ東北学院におられた旧約聖書学の浅見定雄先生が、当時ハーバード大学に学ばれていた時だった。その時、大事件だと思いきや、当時の同友に驚きを語ったところ、以外や彼らは、さもありなんと冷静だったことに、神の学問を学ばんとする者は、地上のあれこれに冷静たりうるものなのかと思わされたことを昔、読んだのを思い出した。日本では鬼だが、聖書を学ぶ彼らは悪魔を知っていたからねぇ。地上は天地創造から天使と悪魔の戦場の舞台でもあった、これからもそうであろうことを。

日本に戻られて、先生はその後、文鮮明の統一教会で困っている人々、若者のために立ち上がって、その悪魔の撃退に貢献し当時、多くの家庭が救われたのだった。その著作も多く読まれたと思う。昔、僕のいるこんな地方でも駅前で花を買ってください、という統一原理の若者がいたな。若者の純真さに表立って内面の自己肯定できない空白時代、モラトリアムの空白時代に、自己を見出す、しかも純粋に普遍の神に奉仕するというどこまでも自己肯定を貫き通せるというその砂上の仮説に自己を設定できる、なぜなら、イエスは十字架に掛かりたもうたのだからと。個人の内は、勝手だからどう思うと構わない、しかし、他人をしかも親族を巻き込むというのは、実に悪魔は悲劇を地上にもたらす為にいかなる戦術をも用いる。神の言葉も用いる。

聖書を読むとイエス自身が、そのまま受け取ると(同じ地平で読むと)矛盾して語っていると読み取れる言葉がままある。悪魔はその間隙をぬって入り込むのである。だから、注意なのであるが、悪魔もイエスに書かれた神の言葉を用いて、駆け引きしたのである。よって、イエスの言葉をそのまま受け取らず霊的次元で解釈しないと悪魔の思うつぼとなる。イエスの戦いはまさにそのことだったのだから。天地創造の父なる神の霊の地上への介入は、善なる宇宙人のこの地上での働き人を増殖することにある、それは伝道と呼ばれる仕組みであったが、ここにも悪魔は介入する。

多くの若者が、神の真理を知りたいとの知的雰囲気によって、まずは寝食を共にし、優しく丁寧に言葉をかけられ、所謂、いい思いにさせられて、文鮮明の書かれたと言われる「原理講論」なるものを学ばされる。陰陽五行のような今から思えばとってつけたような理論的解明の内容である。若者特有の真理追究の思いに、的を合わせてこの世の総覧を開示するような知識の羅列は、魅了されるような錯覚を思えるのは、分からなくもない。まま、知的雰囲気に酔わせたあと、家庭料理でもてなし、気分的によいしょさせる。それに、集団結婚式などは異性を相手にする、これまた生き物としての願望が霊に結びつく神の奥義とも呼ばれる儀式に参加でもしようなら、よほどのことが無い限り抜け出すのは困難となる。*****

◆「そこで(神殿が破壊されることをイエスが預言して語ったあと)彼ら(弟子達)はイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ。『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」(ルカ21:7-8)*****

キリストはあからさまに悪魔という言葉を使い、地上にうろつき、人の命を抹消するにその思い混みをさせる悪魔という言葉を聖書で僕らは初めて目にする。悪魔は人殺しであるとはっきり述べる。当時、先祖伝来の旧約の伝統に満ち満ちてはいたのだが、大衆心理においては似たようなものでイエスのこの時から、律法・道徳、本来の真の救済、その肉体の行動所作から、神は人に霊を吹き込まれた真の救済(永遠の命に導くべく)本来のシステムを語るべく、人を創造し霊を吹き込んだその永遠につながる霊なる救済の時代に入ったのだった。

稚拙に書けば、悪い宇宙人は天地創造来から下界におちて存在して来たのである。今も悪魔はうろうろしているのである。十字架に掛かりしイエスは、天の父に向かいこう述べる「父よ許したまえ、彼らは自分で何をしているのか分からないのです」と。事実としての言葉であって、これは決して民衆を憐れむ言葉ではなかった。悪霊に操作され、気がつかない民衆、彼らは何をしているか分からないのです、と。

イエスが十字架上で見えていたのは、十字架につけろと騒ぎ立て先導し民衆を煽り立てる悪魔が多数、その間をうろついて見えていたことであろう。そのことを知らずに彼らは叫んでいるのであると。愛せし肉なる人、それに強い思い込みを吹き込ませ場の雰囲気に飲み込ませてしまう悪い宇宙人たち。いけいけ、どんどん、と。時代が進み、自然現象や戦争や今回のような事態にも、自分たちは何をしているのか分からないのです、と。時代が進んで終末預言があからさまになりつつあるような世界情勢において、悪魔は行き場をなくしつつあるということだろう。

心にひっかかるあのときの民衆のその思考空白は、イエスにつき従った多くの民衆が、その真意は当時食するパンだけだけであったとしても何故、イエスを十字架につけろ、と騒ぎ立てる元気があったのだろうかということだ。いな、今でも思い込みによって自分が何をしているのか分からないという事件が起こるのは、だからというか「悪魔はいる」ということなのだが。これは、実に高度で広大な霊の次元での黒子達のシナリヲである。

キリスト者は、人という介在物に依存しない。よって、人の数ほどある説教や神学書や解説や証集などは、それを参考にはするだろうが、だからああだ、こうだはあっても、それに依存することは発生しない。あるのは一書、聖書であるが、最後は人が書いたそれでもない。他人ではなく、最後は自分であること、この思いを積極的に持つ。さらにその自分にも解析が入る。「自分を捨てよ」というこれも紛らわしいイエスの言葉もあるけれど、水平思考で読み解く言葉ではない。その自分の中にも捨てたい自分もあろうことを、誰でもが知っているではないか。イエスの矛盾したような言葉は、宗教次元での言葉、霊的次元での言葉が入り組んでいるので自己の深い次元での潜在意識での語りかけを聞くこと。

イエスは、天に戻られる時、世界に出て行き、弟子にしなさいと言われたのであった。信者にしなさい、ではなかったのだな。つまり、地上に於いては人を媒体とせざるを得ないであろうが、それは司祭や牧師、様々な書物であろうが、究極は自分と神の霊(聖霊)との会話であって、結論は地上におけるそういう者のいうことは聞いては鵜呑みにしてはいけない、神の言葉と受ける自分の会話の間に一切、介在物を入れてはいけないということであろうな。

まさにここに悪魔は介入しないか、まさにここなのであるな。読むと自己撞着になるぜ。イエスと言われる彼が、弟子にいうのはいいとして、彼がいないこの地上で誰が、そう言うのだ地上の誰かれ、人、組織、政治家、芸能人、アイドル、司祭、牧師・・・では、ない。よく考えて見なくてはいけない。だから宗教は面倒というなかれ、世界は天地創造以来、ひとつの大きな終点を目指して進展して来たのであることは、明白なことで、失われゆく人はそれでいいのだろうが、失われざる人々は、悪魔の戦略に対して戦わねばならないのである。

次の一連の言葉は、素直に読むと危ない文章である。2000年前のあのとき、彼が弟子に言った言葉なのであって真意は何を言わんとしているのかを探るべきであろう。誰が、いつ、どういう状況の下で、主語は、誰に・・・何故。創造されし我々には、誰が語るのか、天使か、悪魔か、聖霊か、悪霊か・・・*****

◆「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マタイ19:16-30)

◆「はっきり言っておく。わたしの為、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29-31)

◆「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は誰でも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(ルカ18:29-30)*****

イエスが語ったは実に霊的次元のことなのである。実に悪魔は、巧妙にこの言葉を用いて来たのだった。・・・