marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

<Ⅳ>黒子との再会:言葉を制する者は歴史を制する・・・:親愛なるXへ(その4)

2022-04-16 14:11:05 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 『言葉を制する者は歴史を制する。律法を制する者は政治を制する。宗教を制する者は人心を制する。』

◆今回は理屈っぽい。秘密なことは最後に書いて、ほとんどの人が最後まで読めんな、というところで黒子の秘密は現れてくる。彼らは五感ではなかなか掴めないのであるけれども、僕らの背後にも控えていて、いつも語り掛けているのだけれどもね。

◆あのときから、思えばそばに誰かがいるのだ。・・・黒子との会話の再会に準備が必要と感じたのだった。これは実は僕だけではなく、誰でもがその人の人生を決定した背後での演出と、事実サポートをしている霊たちで、無関係な人はいないと思われて仕方がない。彼はそれを言わないのだから、そう考えるしかないのだ。・・・いや、いや、黒子とはどういう存在かということを言っているのだろう?。だから、そう考えるしかない、ではなく、そのように思ったということ自体、言葉が浮かんでいるということは、内容はともかく既に彼にサポートされているということなのである、と。時間的にも、今、この場で垂直次元においても階層の思考レベルに多くの黒子たちが割り込んできているのである。

◆一人ひとりの命を与えられているが故の歴史上のその訳。人が地上に命を与えられ人生を歩むのは、ひとりひとりの個人が今生で果たすべく昔からの宿題をもって生まれてきているということのように思われて仕方がない。地上の宿題が終わらなければ、また、その霊が違った人に乗り遷って人生を歩み始める。殆どの人は気が付かない。あるいは、浮遊するのをあきらめるか、過激になるか、過去生が未到達である場合に、あるいはもっと今生での生を楽しみたいか、などなど・・・。それは、人が地上に生存する霊の仕組みのあり方なのであると彼は教える。だから、年代により、環境により、人生体験により、考えがまったく、何かに憑依されたごとくに違ってしまう人が出てくるのである。年齢による肉体の衰えに対しても入り込む黒子は異なってくるようにも思える。考えは変わってくるということだ。しかも、当の本人は気が付かない。

◆思考には階層があると思われる。そう言わなくともと、表層や深層という言葉は新聞によく書かれるし、実は人の考えにも他人に対する公としての言葉と、語っている自分の自己了解のない深層がある、などである。僕らの思う次元は、縦、横、高さの三次元、これに時間軸(過去、現在、未来)を加えると四次元、さらにこれに先の表層やら深層やらの垂直次元での思考があるから、そういう領域を加味すると五次元、さらにそれにも時間軸があるとすればどうだろう、六次元? 今、僕は昨日、殆ど寝ていないのでとても眠いのだが、たんたんとタイプを打っている。第三者がこの様子を見てどこまで僕という今を理解するだろう。何を考えているかは外からは何も分からない。眠いのだが、そんな内面のことも分からないだろう。内なる言葉はどの次元に入るのだろう。まさにここが重要だ。僕はずうーとこの次元での話をして来たので。それはその内なる人のまったく第三者には分からない領域のことだから。良い黒子も、悪い黒子もこの領域に関わってくる。

◆人それぞれがそのような次元を暗黙の裡に持っているとすれば、そこにはさらに他者の領域が煩雑に組み込まれてくるわけだ。その一端として今、物理法則を書いた古代からの本を読むとする。そこに書かれた法則や数式は、発見としての伝記にはなるが、その成果はすでに目に見える機構として世のため、人のために役立っている。これは、すでに過去に書いた人は無論、今、読み学ぼうとしている人とも無縁に実績として効果の確認が第三者、これは企業かもしれないし、個人かもしれないが、その起源など分からなくても、その成果は既に汎用化され普遍化されている。・・・とすれば、その古い物事が書かれた本は、その発見者がその時代、いかに発見に至ったかなどの違った読み方となってくる。役立てようとすれば違った読み方となってくる。その時代のその人を学ぼうなどというように。

◆では、歴史書はどうか。ここからが問題なのだ。個人の歴史はその人の黒子の記憶としてしか残らないのである。ここにまず、第一の五感を制するこの現世の次元がある。集合意識としてこうであったと権威つけられ、文字(言葉)に現されたとすれば、どうか。歴史は勝者が書くものであるか、しかし、僕はあえて黒子と書いているのは、それに編集の手が加えられているという場合はどうかということ。第一の次元から言えば、僕らはこの言葉を一応受け留めなければ前に進まない。話をここからにしよう。(お分かりの様に黒子とは芝居や能などで全身黒ずくめ黒幕で顔を覆い、主人公あるいは訳者の背後にあっての所作の準備役で本来はいない人物である。)

◆僕はしばらく古代から武士の時代の歴史を考えてきた。1万4千年も続いた縄文時代において、渡来して、天皇、公家政権に統一された初代の闘争はあったがひとくくりの歴史として、その背骨に周辺にその和を広げんと歴史をまとめ、さらに時代が下り自主的な闘争を含む武士の時代、今までの仕組みはダメだ、自己という保守と民衆の利害を守るという時代に移行しつつ、しかし、その深層には根強い宗教性があったものと思われてきた。権威付けによる国の統一、武士による主体としての個々の闘争、そしてその受益の拡散、民衆の大衆化(平等化)、それが国の仕組みとしての有り様を現していく。・・・歴史はそのように動いてきたのではなかったか。実にその深層における歴史を成立させてきた黒子たちの思想は、いかなる時代においてもその根はあの世界のベストセラーに基づいていたのであると思わざるを得ない。地球人類の創世から、その歴史は誰がプロデゥースし、地上の歴史においては誰が演出しているのか、人に転生(Reincarnation)して。どう考えても深層のシナリオ・ライターが居たと思われて来てしかたがない。それは、つぎのことから推察されてきたのだった。

◇第一に世界のベストセラーは、誰が書いたのかということ。歴史として学ぶのも一苦労も、実はその背後にその編集者としての黒子がいるのではないかということ。はっきり分かっている者もいるが、世界のベストセラーには今後、少しづつ勉強していかないといけない。けれど、黒子はひとつの大きな手本を示されたということ。人類世界への異界からのシステムは、手本から現世を、さらに未来を学べと常に我々を促しているのである。そう、彼らは実に多数。良い黒子もいれば、悪い黒子もいる。良い、悪い? その判断基準・・・それは、命をどう捉えているかである。さらに伴う生きる意欲でもある。ベルクソンがエラン・ビイタル、生命のエネルギーというべきものか。しかし、光に向かう我らの希望も、光に向かう意欲の中にも次元の低い、命を死へ向かわしめているものが、反面教師の様に、あるいは生命への対抗意識の様に貼りついている。生命への自己肯定は排他となり、優位性となり他の命を阻害するものがある。日本の歴史において面に出たきた黒子(いいか、わるいか時代の判断による)をいずれ紹介する。

◇第二に普段の僕ら異邦人が素直に読んでは分からないということ。当の彼らも今とは不明となってきたということ。第一次元に執着すれば。次に僕らは異邦人であること、それは本来、読んで分かるべく先理解が不足しているということである。天地創造来と言われる先祖伝来の生死をその為にかけた歴史をもっていない、ということだ。あるとすれば、現生にて自分に関わった先祖の霊、これほど強い過去のイメージを現生につなげているイメージはないだろう。古代日本の表にでてきた背後の黒子はまさに宗教性も利用することも恐れなかった。名前は僕らも学校で習うから知らない人はいない。表に出てきた悪い黒子の背後にある黒子の思想というもの。鎌倉殿の13人などの時代において、まさに源となる黒子の復権なのであった。腐敗た天皇、公家政権や仏教界に反旗を翻した歴史であったのだ。仏教界においても淘汰の戦いがあったのは知られているとおりである。なんと人というものは罪深いものか、というまとめにいたると、浄化が始まるのでった。それがこの国の争いの歴史でもあったのである。

◇第三にたとえ、まともに読んでも、読む人は、すでに人という生き物としての良心的判断での先入観があり読みこんでしまうことであろうという困難があるということ。特に宗教書なるものは。一応、黒子の思想なるのもは宗教の教えであるというのは、昔、それは一次元の民衆に対しての勧善懲悪の奨めであった。大乗仏教として伝えられたものは、本来、あの大陸であの時代西からの様々な宗教のいいとこどりであったのが基本、それは人の良心が先理解として前提となっていた。それは釈迦の教えとは異なるものであったが、しかし、ここで人の自己肯定化する生き物としての前提となる先理解の良心が勝利したかのように見えたのだった。阿弥陀如来はイエス・キリストであった、と少なくとも浄土宗、浄土真宗では考えているとなるであろう。十字架と復活を除いて。阿弥陀如来、その像は方便であると言いているのだから。問題は本願(信仰)であると言っているのであるから。仏教も生きている霊を対象としない限り、おそらく対象としているのであろうが、死者を弔うイメージを担いでいる限り、限界があろう。真理には、近づけない。

◇第四に読んでいくと、誰かに後で編集されていることが分かってくること。編集者はだれなのか、いつ、だれが(どんな集団が)、何をもとに、誰の指令で。第一の疑問からの疑問にも関わり、その編集は、まず思考の階層(これは先に説明した次元の階層)において、さらにその階層ごとに編集者がいるようなのだ。過去から、未来から、現在において、さらに時間において・・・。ここで、”今でしょう!”という言葉がアピールするのは、瞬時、瞬時の今という時の啓示の積み重ねであるからである。と、すれば今、この時の誰でもが、自分の肉体という全体にすべてが収斂されてくる。

◆「言葉を制する者は歴史を制する。律法を制するものは政治を制する。宗教を制する者は人心を制する。」このことを分かっていたのは、天地創造来と言われてその選ばれた民族につき従い、そのときの啓示を言葉に表し紡いで来た黒子達であった。彼らは古代この日本に渡来して、この国のシナリオを描き、プロデュースしていたのである。そのような考え方ができるのは、地上で彼らしか存在しなかったからである。この日本で、古代その政治的天分のDNAをもっていた人物がいたのである。・・・