製作:アレクサンドル・アルカディ,ロベール・ベンムッサ
監督:アレクサンドル・アジャ
出演:セシル・ドゥ・フランス,マイウェン
フィリップ・ナオン,ワーナ・ペリーア
脚本:アレクサンドル・アジャ,グレゴリー・ルヴァスール
撮影:マキシム・アレクサンドル
音楽:フランソワ・ウード
2003/仏/91min. ☆☆☆☆★
最後まで見てアッと驚く、フランス産のスプラッターホラーのような映画です。これはセンスの問題ですが、予告編からして日本版は終始暗い画面に陰惨なBGMがかかり恐怖映画です、と言い切ってしまっているのに対し、フランス版は陽光に照らされたトウモロコシ畑、車に乗る若い女性がカーステレオに合わせて口ずさむ、シャルロット・ゲンスブール主演「なまいきシャルロット」(1985・仏=スイス)のテーマ曲として有名なイタリアの3人グループRicchi & Poveriが歌う"SARA PERCHE TI AMO"(サラ ファセ チアモ)を聞いた時点で“どんな映画?”と興味が沸きます。フランスで80年代に流行ったこの曲を採用した監督のセンスを予告編では使わない日本版の影響は観客動員数にも反映したと思われ残念です。途中でかかるMUSEの「NEW BORN」も良かったです。
監督は、1999年に20歳で『フリア』を撮りあげたアレクサンドル・アジャ。殺人鬼と渡り合う(?)ボーイッシュなヒロインを体当たりで演じた主演のセシル・ドゥ・フランスは特に『スパニッシュ・アパートメント』や『ロシアン・ドールズ』に出てくるレズビアンのイザベル役で高く評価されており,実際このイザベル役は彼女の当たり役と言っていいほどの印象を残しています。また彼女はベリーショートにすらりと伸びた美しい首筋,更に長身のスタイルにユニセクシャルな服装が映える女優でもあり、そんな彼女が「ハイ・ テンション」な演技を見せるという評判に「バイオハザード」のミラ・ジョヴォヴィッチや「トゥームレイダー」のアンジェリーナ・ジョリーのような、敵をなぎ倒す強いヒロインかと思っていましたが、そんな考えは全然甘かったと痛感しました。また彼女の親友アレックス役のマイウェンは舞台出身で演技においてセシルと好対照を成し作品に深みを与えています。更に短編映画『カルネ』のフィリップ・ナオンが冷酷な殺人者を熱演。底なし沼のような恐怖が観る者を次々と襲い、究極の恐怖が体感できます。
逃げ惑う若い女性。そのシャツには真っ赤な血が…。マリー(セシル・ドゥ・フランス)は車の後部座席で悪夢から目覚めた。彼女は試験勉強のため、親友アレックス(マイウェン)と一緒に彼女の車でとうもろこし畑に囲まれたアレックスの実家を訪れたのだった。古びた農家を改造したアレックスの家は、人家も疎らな田園地帯に立っている一軒家だった。彼女の家には父(アンドレイ・フィンティ)、母(ワーナ・ペリーア)、そして弟トム(マルコ・クラウデュ・パスク)がいた。3階の客室を割り当てられたマリーは外で一服すると、自室に戻り音楽を聴きながら自慰にふける(←このシーンを入れたのが伏線だったのか、と最後に気付きます)。部屋でマリーが身体を休めていると、深夜にもかかわらずアレックスの家にトラックを乗り付けた男(フィリップ・ナオン)が突然玄関のドアベルが鳴らしドアを叩きはじめる。アレックスの父は用心しながら顔を出すが、いきなり男に刃物で斬りつけられ惨殺される。それを目撃したマリーは慌てて部屋の生活臭を消して自分の痕跡を無くし、ベッドの下に隠れるが、その間にも母が襲われる音が聞こえ、弟までも犠牲に。彼女は恐怖に身を固くする。更にアレックスが捕らえられ、マリーは何とか救おうとするのだが…。
私は最初、マリーが二重人格かと思ったのですが、よく考えるとそうではなくて、アレックスを他の人に奪われたくないという独占欲が事の始まりなのです。けれどもマリーは、あんな残虐な行為を、自身が行っているとは認めたくないという心理が作用し、妄想を生み出すことによって偽善化しているのだと思うのです。
そして映像の中に、マリーの妄想部分を自然な形で盛り込んでいるために、視聴者には解りにくくなっているのです。でも、その妄想を映像化することで、この映画のストーリーが成り立っているのであって、それが無ければただの残酷非道なスプラッター映画になってしまうのです。同時に、自分がどれほどアレックスを愛しているかを象徴するのが、殺戮だったのかも知れません。「私は、貴女との間に介在する全ての人を殺してでも、貴女の側にいたいの。それほど私は貴女を愛してる!」アレックスの気持ちなんて全然考えず・・・。
本作は殺害過程においてある一線は越えているものの,スプラッター映画としてはかなり凡庸な出来です。とりあえず階下で何か異常事態が起きたら,ドアを閉める努力をするのが普通だと思います。苦労しながらも衣装箪笥を動かせるぐらいの力があるのだから、まずは部屋内に籠城して時間稼ぎするでしょう。もちろん劇中でマリーが行ったように「人がいないように見せかける」方が賢いのは分かるけれど、普通はそんなことは思いつきません。特に洗面台の水を拭いて生活臭を消す場面は、マリーの頭が探偵脳に取り憑かれたのではと思うほどの出来すぎた展開でした。しかも殺人鬼が丁寧に生活臭を確認していたりします。スプラッターやホラー映画が怖いのは、襲われる側と自分が同一化して自分も実際にやっていそうな行動に対し、自分の思いもつかないところから相手が襲ってくるところにあるわけで、こんな馬鹿なことはしないだろうと苦笑しながら見ていると怖くなりようがありません。更にストレスなのは終盤直前までセシル・ドゥ・フランスがひたすら逃げるだけの展開な事です。
終盤に「どんでん返し」がきて絶句します。前半でマリーがやたらに回りくどい逃げ方をしたのはこのためだったのかと初めて理解します。この結末については是非が分かれると思います。すべて夢オチはズルい、と感じてしまえばそれまでですが、ここまで勢い良くアップテンポで展開して最後までグイグイ引っ張られた演出に私は賞賛を送りたいです。つまり、映画冒頭のアレックスの車でステレオの音を上げて彼女と一緒に歌っていたあの時が一番、マリーにとって幸せな時間であり心からの笑顔だったのです。
監督:アレクサンドル・アジャ
出演:セシル・ドゥ・フランス,マイウェン
フィリップ・ナオン,ワーナ・ペリーア
脚本:アレクサンドル・アジャ,グレゴリー・ルヴァスール
撮影:マキシム・アレクサンドル
音楽:フランソワ・ウード
2003/仏/91min. ☆☆☆☆★
最後まで見てアッと驚く、フランス産のスプラッターホラーのような映画です。これはセンスの問題ですが、予告編からして日本版は終始暗い画面に陰惨なBGMがかかり恐怖映画です、と言い切ってしまっているのに対し、フランス版は陽光に照らされたトウモロコシ畑、車に乗る若い女性がカーステレオに合わせて口ずさむ、シャルロット・ゲンスブール主演「なまいきシャルロット」(1985・仏=スイス)のテーマ曲として有名なイタリアの3人グループRicchi & Poveriが歌う"SARA PERCHE TI AMO"(サラ ファセ チアモ)を聞いた時点で“どんな映画?”と興味が沸きます。フランスで80年代に流行ったこの曲を採用した監督のセンスを予告編では使わない日本版の影響は観客動員数にも反映したと思われ残念です。途中でかかるMUSEの「NEW BORN」も良かったです。
監督は、1999年に20歳で『フリア』を撮りあげたアレクサンドル・アジャ。殺人鬼と渡り合う(?)ボーイッシュなヒロインを体当たりで演じた主演のセシル・ドゥ・フランスは特に『スパニッシュ・アパートメント』や『ロシアン・ドールズ』に出てくるレズビアンのイザベル役で高く評価されており,実際このイザベル役は彼女の当たり役と言っていいほどの印象を残しています。また彼女はベリーショートにすらりと伸びた美しい首筋,更に長身のスタイルにユニセクシャルな服装が映える女優でもあり、そんな彼女が「ハイ・ テンション」な演技を見せるという評判に「バイオハザード」のミラ・ジョヴォヴィッチや「トゥームレイダー」のアンジェリーナ・ジョリーのような、敵をなぎ倒す強いヒロインかと思っていましたが、そんな考えは全然甘かったと痛感しました。また彼女の親友アレックス役のマイウェンは舞台出身で演技においてセシルと好対照を成し作品に深みを与えています。更に短編映画『カルネ』のフィリップ・ナオンが冷酷な殺人者を熱演。底なし沼のような恐怖が観る者を次々と襲い、究極の恐怖が体感できます。
逃げ惑う若い女性。そのシャツには真っ赤な血が…。マリー(セシル・ドゥ・フランス)は車の後部座席で悪夢から目覚めた。彼女は試験勉強のため、親友アレックス(マイウェン)と一緒に彼女の車でとうもろこし畑に囲まれたアレックスの実家を訪れたのだった。古びた農家を改造したアレックスの家は、人家も疎らな田園地帯に立っている一軒家だった。彼女の家には父(アンドレイ・フィンティ)、母(ワーナ・ペリーア)、そして弟トム(マルコ・クラウデュ・パスク)がいた。3階の客室を割り当てられたマリーは外で一服すると、自室に戻り音楽を聴きながら自慰にふける(←このシーンを入れたのが伏線だったのか、と最後に気付きます)。部屋でマリーが身体を休めていると、深夜にもかかわらずアレックスの家にトラックを乗り付けた男(フィリップ・ナオン)が突然玄関のドアベルが鳴らしドアを叩きはじめる。アレックスの父は用心しながら顔を出すが、いきなり男に刃物で斬りつけられ惨殺される。それを目撃したマリーは慌てて部屋の生活臭を消して自分の痕跡を無くし、ベッドの下に隠れるが、その間にも母が襲われる音が聞こえ、弟までも犠牲に。彼女は恐怖に身を固くする。更にアレックスが捕らえられ、マリーは何とか救おうとするのだが…。
私は最初、マリーが二重人格かと思ったのですが、よく考えるとそうではなくて、アレックスを他の人に奪われたくないという独占欲が事の始まりなのです。けれどもマリーは、あんな残虐な行為を、自身が行っているとは認めたくないという心理が作用し、妄想を生み出すことによって偽善化しているのだと思うのです。
そして映像の中に、マリーの妄想部分を自然な形で盛り込んでいるために、視聴者には解りにくくなっているのです。でも、その妄想を映像化することで、この映画のストーリーが成り立っているのであって、それが無ければただの残酷非道なスプラッター映画になってしまうのです。同時に、自分がどれほどアレックスを愛しているかを象徴するのが、殺戮だったのかも知れません。「私は、貴女との間に介在する全ての人を殺してでも、貴女の側にいたいの。それほど私は貴女を愛してる!」アレックスの気持ちなんて全然考えず・・・。
本作は殺害過程においてある一線は越えているものの,スプラッター映画としてはかなり凡庸な出来です。とりあえず階下で何か異常事態が起きたら,ドアを閉める努力をするのが普通だと思います。苦労しながらも衣装箪笥を動かせるぐらいの力があるのだから、まずは部屋内に籠城して時間稼ぎするでしょう。もちろん劇中でマリーが行ったように「人がいないように見せかける」方が賢いのは分かるけれど、普通はそんなことは思いつきません。特に洗面台の水を拭いて生活臭を消す場面は、マリーの頭が探偵脳に取り憑かれたのではと思うほどの出来すぎた展開でした。しかも殺人鬼が丁寧に生活臭を確認していたりします。スプラッターやホラー映画が怖いのは、襲われる側と自分が同一化して自分も実際にやっていそうな行動に対し、自分の思いもつかないところから相手が襲ってくるところにあるわけで、こんな馬鹿なことはしないだろうと苦笑しながら見ていると怖くなりようがありません。更にストレスなのは終盤直前までセシル・ドゥ・フランスがひたすら逃げるだけの展開な事です。
終盤に「どんでん返し」がきて絶句します。前半でマリーがやたらに回りくどい逃げ方をしたのはこのためだったのかと初めて理解します。この結末については是非が分かれると思います。すべて夢オチはズルい、と感じてしまえばそれまでですが、ここまで勢い良くアップテンポで展開して最後までグイグイ引っ張られた演出に私は賞賛を送りたいです。つまり、映画冒頭のアレックスの車でステレオの音を上げて彼女と一緒に歌っていたあの時が一番、マリーにとって幸せな時間であり心からの笑顔だったのです。