赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸🐎【治承・寿永の内乱論序説】「源平盛衰記」 の国人領主「池田次郎」 と「衆徳山総持寺」⇒「越中吉岡庄」と高岡市内の寺院 ! !

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
🔻元々、皇室庄園の「赤丸村」に在った「浅井神社48坊」と呼ばれた「総持寺」や「天景寺」等多くの寺院群は、「高岡開町」の時には「高岡市関町」に動いていた。















■高岡市の「瑞龍寺」、「総持寺」、「天景寺」等が記された古地図(※「高岡史料」)


■【赤丸浅井神社前に居を構え、「代々赤丸村肝煎役」を勤めた池田家は加賀藩の「所払いで国吉村に移り、跡は弟の五右衛門」に継がせた】(※「杉野家文書」福岡町歴史民俗資料館所蔵)

あいの風鉄道高岡駅の南側、あの著名な千手観音座像を祀る真言宗「衆徳山総持寺」の隣地に、1645年から20年の歳月をかけて前田利長の菩提寺として建立された「高岡山瑞龍寺」は、元々その地に建っていた天景寺等幾つかの寺院等を移転させ、約36000坪の敷地に建立された。この辺りは赤丸村の国人領主の池田氏の所縁の土地らしく、隣接の総持寺の旧地は池田氏の所領であり、元々瑞龍寺の地に在った「天景寺」も赤丸村の総持寺の旧地から移転した寺である。総持寺の旧地の赤丸観音堂遺跡の山裾一帯は「池田島」という地名で今も残る。又、現在能越道高岡インターチェンジの周辺の池田地区もこの池田氏の開発によるもので、小矢部市の今石動も旧名は池田と呼び、氷見市の池田地区もこの池田氏の所領であったと推定されるという。総持寺の現在の敷地はこの池田氏の所領を寄進して建立されたと伝わる。この池田氏は「源平盛衰記」記載の「木曽義仲」を小矢部市の「埴生護国八幡宮」に案内した「池田次郎」の末裔と見られている。
(※「源平盛衰記」、「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著 参照)

◆池田家には、「中世の武将」が「兜」の中に納めたとされる小指より小さい「坂上田村麿像の兜仏」が仏壇に奉られている。国吉村に在った「東大寺庄園須加庄」は、「坂上田村麿」を征東将軍として東北鎮圧に派遣した【垣武天皇】の姪の「五百井女王」が所有した庄園であり、垣武天皇の甥の早良親王が「藤原種継暗殺事件」で誅殺された後に女王が東大寺華厳院へ寄進された「東大寺庄園」が在った地域。又、それと共に、高岡市関町の「総持寺」に祭られる「国指定重要文化財木造千手観音座像」の【胎内仏】一体も祭られる。この像は、長く総持寺総代を勤めて千手観音像の維持管理に尽くした「故池田市衛門」が総持寺より拝領したものと言われる。(※「鎌倉時代製作と鑑定される20センチ位の僧形の仏像」)



■【治承・寿永の内乱論序説に登場する「池田次郎」】
高岡市関町の「総持寺敷地」を寄進したと伝わる「池田家」は現在も高岡市細池地区に残り、この池田家の開発した池田地区に在った持ち宮は「いばらの宮」と呼び、現在は区画整理により移転したが、この家には神社の石碑と宮跡の写真が遺されている。この旧地を探すと、高岡インター周辺の高岡市東石堤地区にその旧地と見られる森が遺されており、この場所は高岡インター周辺の池田地区の隣接地に在る。
この池田氏は現在の高岡インター周辺の「池田地区」を開発したと伝わり、「浅香年木氏」はこの池田氏が小矢部市今石動、高岡インター周辺、氷見市の池田地区等を広域に開発したと指摘されている。
(※「赤丸浅井神社記録」、「石堤村史」、「寿永の内乱論序説」)



■「東大寺庄園杵名蛭庄図」は「国立歴史民俗博物館の日本庄園データーベース」に拠れば、この庄園の東に「荊原里 ウバラノサト」が在り、庄園図に記載される「速川」がその後「ソフ川」、現在は「祖父川」と変化している。この川の位置からこの「東大寺庄園杵名蛭庄」は小矢部川が赤丸浅井神社前の山裾を流れていた頃の「高田島地区、立野地区」に比定される様だ。「杵名蛭庄図」には「石黒上里・石黒中里」等の記載が見られる。
(※この一部の高田島を所領としたのは石黒一族の高田孫兵衛であったと福光町の郷土史「吉江の昔と今」に記載されている。)
この「池田家の持宮」の「いばらの宮」は現在、高岡市和田地区に在る「延喜式内社荊波神社」と推定され、「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミジンジャ」とフリカナが付けられている。



■この池田氏の所領で在ったと伝わる寺院等の施設を強制移転させて建てられたのが「瑞龍寺」である。この隣接地区は石黒一族の鴨島七郎の所領で現在も「高岡市鴨島町」として地名に残る。赤丸浅井神社の周辺に池田氏が居館を構えていたのは赤丸浅井城が石黒氏の居城であった事からこの池田氏も石黒氏の一族とも推定される。池田氏は蘇我氏、石黒氏と同じく武内宿弥を祖とする紀氏の末裔と言われている事から砺波郡には蘇我一族が広範囲に繁栄していた事が推定される。「赤丸浅井神社の創建」も「文武天皇」の妃の「石川刀自娘」(※イシカワノトジノイラツメ)を母とした「石川朝臣広成」(※イシカワアソンヒロナリ)であったと伝わる事から、この石川氏も蘇我氏であり、この池田氏は文武天皇の皇子で聖武天皇の弟の石川朝臣広成の家臣団であったとも考えられ、現在も赤丸浅井神社の神域には石川一族と赤丸浅井神社神官川人家の墓だけが遺されている。
(赤丸浅井城は古くはこの文武天皇の二位の宮石川朝臣広成が居城とされ、蘇我氏末裔の石黒氏が再建し居城としたと伝わる。→※「続日本紀」・「肯構泉達録」・「赤丸名勝誌」)

■「越中石黒系図」では「武内宿弥」を祖とする「蘇我氏同族」とする系図と、「藤原利仁将軍」を祖とする「藤原氏系図」が在り、元々、石黒庄の管理の為に下向した藤原氏が「利波臣」の後継と成り、「越中石黒氏」が「利波臣」の名跡を継いだともされる。






■高岡市の「瑞龍寺」の立地選定がどのようにこの地に決まったかは文書にも本当の所の記載は見られない。ただ、赤丸村の浅井城中山氏、五位庄領主で柴野城の寺嶋牛介、高岡守山城神保氏張は能登末森城の戦いで佐々成政に従って前田利家と戦った為、前田氏占領の時に「赤丸西円の百姓は高岡市和田の開発に強制移転させられ、寺院も分割移転させられた」とされる。(※「城端別院文書」富山県公立公文書館)
その為に、高岡市の瑞龍寺の敷地選定では、能登末森城の戦いで前田利家と戦った「赤丸浅井城城主中山直治」の拠点の「浅井城」の周辺に居館を構えていた池田氏の所領や池田氏の関係寺院が狙い撃ちされたものと見られる。
(※この池田氏は藩政期に高岡市の四十九村に所払いになり、赤丸村の跡の財産は弟の五右衛門が全て引き継ぎ藩政期には赤丸地区の組合頭を勤めた。→「杉野家文書」高岡市福岡町民俗史料館蔵)
しかも、「元々赤丸村に在った総持寺」(※「総持寺観音像国宝概説」)の山号の「高岡山」は取り上げられて、瑞龍寺は「高岡山瑞龍寺」となり、総持寺は「衆徳山総持寺」と改名させられている。(※「富山県大百科辞典」富山新聞社)

■高岡市関町の瑞龍寺の住職は倶利伽羅不動寺と兼務になり、加賀藩の思いのままに占領政策が行われた様だ。 倶利伽羅不動寺の住職は「能登末森城の戦い」で秘かに前田軍に佐々軍の動静を知らせて前田家に味方したと云う。しかし、この栄華を誇った瑞龍寺も幕末の動乱の中で、「明治3年加賀藩からの寺録を廃止され、同時に前田家からは一切従前の関係を絶ちしとの通告有り。」と史料「高岡山瑞龍寺」(大正二年刊)は伝える。その為「壁破れ、屋根漏るもこれを修繕する能ず、やむを得ず境内の樹木を悉く伐採し、材木を売りその土地も拓き(売却して)凌いだ。」更に「石燈籠、禅堂の石畳、大庫裏の向拜(入口門)迄売却した。」と云う。現在も多くの朽ちた多くの石塔が瑞龍寺境内に散乱している。この状態は明治42年に旧国宝に指定される迄約40年間も続いたと云う。


■「五位庄惣社赤丸浅井神社」の神域に遺る石川一族と赤丸浅井神社神官川人家だけの墓





🔴🌻 【織田信長】の家紋【織田木瓜紋】のルーツ!!

2021-04-20 | 富山県高岡市


●富山県高岡市には「織田信長」の妹が嫁いでいた越中守護畠山一門の「神保氏張」の居城の【守山城】が在り、その山裾の高岡市内には「織田木瓜紋」を使用する家系が遺される。
その山裾に在る高岡市柴野十日市の「曹洞宗三光寺」は、「前田利長」の妻に成った「織田信長」の四女の【永姫】が寄進したもので在る。

・「高岡守山城主 神保氏張系図」




■【織田信長】の先祖は系図では【平重盛】の末裔で、福井県織田町の「剣神社」の神官家に養子として入った。
【剣神社】は「スサノオノミコト」を祭神として【剣】を御神体とすると云う。【剣神社】の紋は【木瓜紋】で、之は【スサノオノミコトの神紋】とされて各地の神社でも神社の紋とされている。
【織田信長】の家紋の【織田木瓜紋】は、神代に荒れ荒んだ【スサノオノミコト】の「神紋」を使用しており、先祖が神官を勤めた「越前劔神社」の「御神体」は【剣】で在ったと云うから、正に【織田信長】の生き様は、「剣を持って暴れまわるスサノオノミコトの生まれ代わり」とも云える。








■【織田家】は室町幕府守護斯波家に見出だされて尾張へ出て守護代を務め、この「剣神社」の神紋の【木瓜紋】を家紋とした。


🌁🌄🌷【真実の郷土史】 郷土の歴史は地域住民の力で!! ⇒富山県内の「東大寺庄園図」等の誤解を解く。

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

■「室町時代の五位庄」
(※「東寺百合文書 やなた某書状案」)
⇒国立歴史民俗博物館DB参照


富山県内の歴史については各市町村の郷土史研究団体や会誌が廃止されており、その点では「富山県の歴史研究」に赤ランプが点灯している。地域の住民の伝承や古文書保存は頗る大切だが、「近代化」「合理化」の名の下に「金を稼げない活動」として次第に細って来ている。特に高岡市は「歴史都市」を標榜して「●●遺産の指定」にのみ力を入れて、肝心な「史実の確認」を全く行っていない。
「歴史検証」では、自然災害や自然の変化等が歴史の大きい転換点になり、その大きい要素として「河川の変化」があげられる。この変化を確認せずに「現状」だけで歴史を紡ごうとする所に大きな歴史の流れの誤認が生じており、「石黒信由」の河川研究等を歴史検証に活用する事や自然変化の認識を進める事が重要だ。高岡市周辺には、【東大寺庄園】の「鳴門庄」、「須加庄」、「杵名蛭庄」、「くぼた庄」が在るが、何れの研究を見ても、曾て、「小矢部川」が西山の麓の山下を通過しており、その小矢部川と庄川が赤丸浅井神社前で合流していたとする「赤丸浅井神社」や国吉村に伝わる事実を念頭に入れている人は少ない。従って、その庄園の位置の検討自体で大きく位置がずれている。「須加庄」は従来、高岡市国吉地内とされて学校でも教えているが、実際に「東大寺庄園須加庄図」にはこの庄園は「射水郡」と記載されており、国吉村は「砺波郡」に在る。「砺波郡」と「射水郡」の郡界は室町時代には高岡市守山の方向に動いていたとする見解が有り、小矢部川の流れの変化や政治的な郡界の変更もその史跡位置の確認には重要だ。高岡市には、これほど東大寺の庄園が密集しているが、砺波市とは異なり、実際に東大寺庄園の位置の掘削確認も行われていない。「万葉歴史館」と言う全国的にも稀有な施設を持つ高岡市は、充分な施設、資料も備えながら具体的活動では相当低調で、正に「宝の持ち腐れ」で在る。それも、高岡市はこの「万葉歴史館」、「博物館」、「美術館」、「図書館」等の文化活動の中核施設を外部団体の運用に任せ、高岡市とそれ等の施設の温度差が在る事も、高岡市の文化活動が低調な原因ではないか?
実際に学芸員を抱えるこれ等の施設の意向がダイレクトに高岡市教育委員会と共有されず、教育委員会は「お上」宜しく、上から目線の歴史観を相変わらず持っている。
[1600年代に前田利家、利長によって開町された高岡以前に高岡の歴史は無い]と公言して「根拠の無い歴史」を御題目の様に唱えている教育の本山の「高岡市教育委員会」が一番、反動的な態度を維持し、相変わらず、加賀藩時代の歴史観を引きずっている事が根本原因だ。これで、「歴史のまちづくり」を目指すと標榜しているのだから、「高岡市の歴史」は何時までもフエイクの上塗りでしか無い。

■「時代による河川名の変遷」
⇒『赤丸浅井神社古墟図』(※石川県立図書館蔵)では、曾ては、「延喜式内社赤丸浅井神社」前で「小矢部川」と「庄川」が合流しており「阿光ケ淵」(※元正天皇の勅書に拠れば「吾子」)と言う広大な合流点を形成していたと云う。曾ての「小矢部川」が富山県の「西山の麓」を流れ、「赤丸浅井神社」の前で「庄川」と合流していたと云う史実を確認せずに歴史検証を進めている為に起こっている「歴史認識の誤り」を正さずに、正確な歴史検証は進まない。その点で砺波市の河川研究の資料は非常に重要だ。













■時代に拠る河川名の変遷を辿ると、現在の「荒又川」(※「新又川」・「あらまた川」)は赤丸浅井神社前で庄川と合流しており、木舟城全盛時代には「唐又川」(※上流域を木舟川」)と呼び、古代の東大寺庄園「杵名蛭庄図」には「石黒川」として登場している様だ。
又、この庄園図に見られる「速川」は中世には「ソフ川」(※小矢部市保管絵図)となり、現在は「祖父川」に成っている。
この河川の下流域は「高岡市早川」と呼ばれ、この地域には「延喜式内社速川神社」が鎮座している。













📚📕📖📃 富山県の【新川郡】の始まり⇒「越中国」の古代氏族「物部連」(※「先代旧事紀」)!!

2021-04-20 | 富山県
『物部連』を賜った『大新河命』の祖の【宇摩志麻治命ウマシマジノミコト】は『人皇初代神武天皇』に仕えて「大神」を齋き奉ったと云う。


『越中国』の「新川郡ニイカワグン」と「利波郡トナミグン」


■富山県東部に「新川郡」が在り、富山市新庄町には「新川神社」が祀られている。
神社由緒に
【大己貴命・白山比咩命・天照皇大神・菅原道真公を主祭神とし、琴比羅神・建御名方命を合せ祀る。大己貴命を「大新川命」、白山比咩命を「大新川姫命」と称して尊崇されており、『国史大系』では新川郡の地名は「大新川命」に因むものとしている。
『日本三代実録』貞観9年(867年)2月27日条に「正五位上、新川神に従四位下を授く」という記述が初見で、同18年7月11日には従四位上に昇叙されているが(同書)、『延喜式神名帳』の記載はない。】
と在り、この地域は古くは京都の「祇園社」(※現在の「八坂神社」)の庄園で在り、京都の宇治を本源とする「宮道氏 ミヤジシ」が統治した。その「道道氏」の末裔が後に、富山市蜷川郷に城を構えて現在、「最勝寺」の在る地に「蜷川城」を構えた。この一族からは「宇多天皇」の中宮「胤子」を輩出して、室町時代にはその子孫の「紀良子(※月海夫人)」は室町幕府第三代将軍「足利義満」を産んだ。この「蜷川氏」は滑川に城を構え、新川郡一帯を統治すると共に、越中西部の「利波郡」を知行されたと云う。(※「蜷川の郷土史」)
「足利義満」の近臣として「政所代」を勤めた「蜷川氏」からは、「一休さん」にも登場する「連歌」の「宗祇」の高弟「蜷川新右衛門」を輩出しており、「蜷川家文書」には「蜷川新右衛門からの阿努庄代官神保氏に宛てた書状」が遺されている。







■この「新川命」については、「蘇我馬子」が勅を奉じて修撰したとされる「先代旧事紀」の「巻第五 天孫本紀」に記されている。
【天孫の天津火瓊瓊杵尊ニニギノミコトの孫の磐余彦尊イワヨヒコノミコトが天下を治めようと軍を興して東征された。往々に命令に従わない者が鉢のごとく起こり、従わなかった。中州の豪雄の長髄彦ナガスネヒコは饒速日尊ニギハヤヒノミコトの御子の宇摩志麻治命ウマシマジノミコトを推して君として遣えていた。長髄彦は「天神の御子は二人も居る訳が無い。私は他に居られる事を知らない。」
と言い、兵を整え防ぎ戦った。天孫の軍は連戦したけれども勝つ事が出来なかった。この時、宇摩志麻治命は舅の作戦に従わず、帰ってきたところを誅殺した。そして、衆を率いて帰順された。時に天孫は宇摩志麻治命に「長髄彦の人となりは狂迷であった。兵の勢いが猛々しく、敵として戦ったが、勝つ事が難しかった。舅の作戦に従わず、軍を率いて帰順したので官軍との戦いは終わった。朕はその忠節を喜ばしく思う。」と仰った。宇摩志麻治命は天神の御祖が先祖の饒速日尊に授けた「天璽瑞宝十種アメノシルシノミズノタカラトクサ」を天孫に奉り献上した。天孫は大いに喜ばれ大変寵愛された。また、宇摩志麻治命は天物部を率いて荒々しく逆らうものを平定して行った。また、軍を率いて海内を平定し報告した。天孫の「磐余命イワレヒコノミコト」は役人に命じて都を造り始められた。】
(※富山県郷土史会発行の「越中古事記」に「長髄彦」が登場する。「中州の豪雄の長髄彦」とは「高志国」の豪雄の長髄彦と云う事か?)







■「先代旧事紀 巻五」には、天孫の「瓊瓊杵尊」の十八世孫の「尾治乙訓與止連オワリノオトクニヨジノムラジ」の弟の「宇摩志麻治命」の七世孫の『大新河命オオニイカワノミコト』について記している。
(※「瓊瓊杵尊」は富山県射水郡の「延喜式内社二上射水神社」・「延喜式式内社福田荊波神社」の主祭神でも在り、その妻の「木花咲夜比売」は石川県と福井県に股がる「白山信仰」の本山の「白山比咩神社」の御神体で在り、白山を開いたとされる「泰澄大師」が初めて「赤丸浅井神社」に僧坊を結んだと伝わる「延喜式内社赤丸浅井神社」にも併神として祀られている。)
⇒『大新河命』は『垂仁天皇』(※皇室系譜第11代天皇。『日本書紀』では「活目入彦五十狭茅尊イクメイリヒコイサチノミコト」とされる崇神スジン天皇の第3子。)の時に大臣と成り、【物部連公モノノベムラジノキミ】の姓を賜ったと云う。この「物部大連」の号はこれが始まりで在る。

■【先代旧事紀 巻十】には、全国の『国造』について記された『国造本紀』が記載されている。






■「度合延佳」の著作『神名帳考証』に掲載される越中国利波郡の「延喜式内社 五位庄惣社 赤丸浅井神社」
(※「惣社」とは朝廷や国司が幣帛を捧げる時に地域の代表として参詣した神社を云う。)







📚📘「東大寺」の「修二會(お水取り行事)」と「東大寺上院修中過去帳」⇒越中の石黒氏の祖「利波臣」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「赤丸浅井城」を再興した「越中石黒氏」の祖は越中国司「利波臣志留志」とされる。
「義経記」では「浅井城」を「如意の城」と記載し、「小学館版」等の解説では「五位の城」(※「赤丸浅井城」)の事としている。(※「赤丸浅井城イメージ」)






(東大寺HP参照)

■東大寺修二會(お水取り行事)の「籠松明 カゴタイマツ」




■「越中石黒氏」の祖の「利波臣志留志」(※富山県礪波[利波]郡の起こり)は、東大寺大仏の造営の為に「米五千石」を寄進した。「東大寺お水取り行事」では、毎年3月5日、12日に大仏造営の功労者として「過去帳」の中で「米五千石を寄進した利波志留志(リハノシルノサクヮン)…」と読み上げられている。(※「東大寺修院過去帳」、「東大寺正倉院文書」、「東大寺要録」、「続日本紀」)

寄進者筆頭に記載される「利波志留志」の系統は「孝元天皇」の子孫とされるが、その後は幾つかの系図がある。(「越中石黒系図」、「古事記」、「日本書紀」)


「越中石黒系図」
(※「福井県史」では「利波臣」、「射水臣」は「孝元天皇」、「武内宿弥」の子孫とされる。「利波臣」は系図では「波利古臣」とされる。



■「古事記」では「利波志留志」は「孝霊天皇」、「日子刺肩別命」の子孫「高志利波臣」の子孫とされ、「利波臣」の「臣」は天皇系の一族を示す。
⇒「志留志」は「石黒系図」の「諸石」で有り、「誌石」の誤記であろうとされる。





(※「北陸古代の政治と社会」米沢康著、「砺波散村地域研究所研究紀要第一号」の「古代砺波の地方豪族」米田雄介著 参照)


(※「越中石黒系図」、「越中石黒氏系図」(※富山県姓氏家系大辞典)、「越中国官倉納穀交替帳」より作成)
《※「越中国官倉納穀交替帳」の写本は高岡市立中央図書館に在る。》

■利波臣は天平勝宝3年(751年)に利波臣虫足が郡司の「少領」に任じられ、天平神護3年(767年)には利波臣志留志が員外・外従五位下となり「国司」の「介」(この年、一年限りらしい。)に任じられ、その後も自らの荘園「井山荘100町歩を東大寺に寄進」して、従五位上に叙任される。その後、利波臣は延喜10年(910年)にも従八位上利波臣保影が「少領」となり、この時に従八位上射水臣常行はその上の「大領」に任じられている。(※「越中国官倉納穀交替帳」滋賀県大津市石山寺蔵)
「越中石黒系図」によると、利波臣はその後も郡司大領に任じられていたが、「豊久」の代に少領外従六位上となっていたが、豊久は藤原氏の加賀林貞光の猶子となっていた藤原氏の越中石黒氏石黒権太夫光久を後継者とした事で、以後は利波臣は石黒氏に継承された。この時から、越中石黒氏の傍系の福満氏の系統は藤原利仁末裔の「加賀林氏」と「利波臣」の両家を引き継ぎ、傍系の石黒氏は藤原氏と名乗ったり、利波氏を名乗ったりしている。
(※「石黒氏」は元々、石黒庄の開発に中央より送り込まれた藤原一族だったと云う。)


■東大寺で毎年の春に行われる「お水取り」と云う行事がある。
この儀式は二月二十日から「別火」と言う準備ので行法から始まり、練行は、三月一日から上七日、下七日、あわせて十四日の儀式である。「修二會」即ち「お水取り行事」は、十二日目に本堂の下の閼伽井アカイ屋と呼ばれる井戸から水を汲み取る儀式が有り、この為にこの勤行自体が「お水取り」と称されている。「修二會」の源流についてはいろいろあるらしいが、寺伝では「開山良辮和尚の弟子實忠和尚が天平勝寳三年に、笠置寺の龍穴に入り修行中に浄土の壮麗な有り様に出会った。そこでは諸々の天衆が集まり十一面観音を祀って修行していた。そこで、實忠はこの行法を人間界にも伝えたいと思って天衆に相談した所、天界の一日は人間界の四百年にも当たり行法も難しく一日千回の行道を勤修しなければならず、又、人間界で指導できる生身の観世音がいなければ修行は徒労に終るだろうと告げられた。しかし、實忠は生身の観世音がおられて人間が四百年、千回の修行を行えばこの勤行はできると考えた。そこで和尚は摂津の難波津に赴き、そこから補陀落山に向かって祈願勘請した所、御丈七寸程の十一面観音が海の向こうから一枚の閼伽折敷に乗ってやって来られた。その観音像は人肌の温もりが在った為、實忠はこれこそ生身の観世音に違い無いと、二月堂に安置して天平勝寶四年二月一日から浄土の型の観音供養の行法を勤めたと云う。」この行事がお水取りと呼ばれて、七百五十二年から今日迄1260年余りの間続けられている。因みに、天平勝宝4年は「東大寺盧舎那仏像開眼供養会」が行われた年である。この行事は十一人の練行衆で勤められ、其々が役割を持ち、和上、大導師、咒師 ジュウシ(呪文を唱えて加持祈禱を行う僧 )、堂師の四職と平衆で執り行われる。この他にも様々な会計、雑事、湯屋、松明の準備室、飯炊等の担当等が有り、総勢五十名を超える大部隊の行事である。練行衆は東大寺別当が任命し、前年の十二月十六日の開山良辮僧正の忌日法要の席上で配役と共に発表される。東大寺は八宗兼学の寺であるが、東大寺別当は華厳宗の管長で有ることから華厳宗で執り行われる。
※【八宗兼学】 →(八つの宗派を併せて学ぶ)
天台宗(開祖:最澄)、真言宗(開祖:空海)、日蓮宗(開祖:日蓮)曹洞宗(開祖:道元)、臨済宗(開祖:栄西)、浄土宗(開祖:法然)、浄土真宗(開祖:親鸞)、時宗(開祖:一遍)
→[日本での開祖]を指している。
・学派として[南都六宗] ;三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗

■「お水取り」行事の由来
「實忠和尚は二十七日夜の行法をされ、諸神一万三千七百余座の神々を招来されたが、若狭国の小潤生明神 オニブミョウジンは魚を採っていて遅参した。神は是れを嘆き、その怠りに道場の畔に香水を出して来なさいと命じる様に實忠和尚に示された。その時、黒、白二羽の鵜がにわかに岩の中から飛び出し、傍らの樹に止まった。しかも、その二羽の跡から本当に沢山の甘泉(美味しい水)が湧き出した。そこで石を組んで閼伽井(仏に捧げる清水の井戸)を造られた。かの小潤生明神が小浜の小潤生川の水龍を招いて東大寺の観音に奉った為にその川の水は枯れてしまい、その後はこの川を『音無川』と呼んだと云う。」
音無川は若狭国小浜市を流れている小川である。若狭国でもこれに該当する「二月堂への水送り行事」が有る。小浜市の音無川上流約4キロに白石神社が有り、その境内に川のよどんだ場所が有り、これを「鵜の瀬」と呼び、夜半十二時頃に手松明を炊きながらそこに集って送水の式を行うと云う。現在は、この式は東大寺と関係無く行われているが、(昔は若狭に東大寺の庄園が在った。)二月堂との直接の関係は無いと云う。この若狭からの水が東大寺の閼伽井に流れ来ると云う伝説から「修二會」の行事全体が「お水取り」と呼ばれたらしい。
この「お水取り」行事では、閼伽井の水を観音像に捧げたり、様々の行事があるが、ハイライトは十二日から十四日の3日間、勤行の後に行われる「達陀 ダッタン」の妙法である。その他、鈴や法羅貝の音楽が有り、十二日には「お水取りの式」が有り、「籠松明 カゴタイマツ」という二十貫もある大きな松明を堂の縁で振り回し、火の粉で厄を払う。この火の粉は子供の夜泣きを止めると言う。行事では「神名帳」の読み上げやお経の転読等が行われる。お経はお昼の食堂作法から日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝、徹宵の勤修がある。

■「東大寺上院修中過去帳」
五日目と十二日の初夜の終わりには、東大寺所縁の人達の「過去帳」が読み上げられる。

🔽『東大寺上院修中過去帳』記載の関係者
⇒本願聖武天皇、元正皇太后、光明皇后、行基菩薩、孝謙天皇、藤原不比等、橘諸兄、良辮僧正、實忠和尚、大仏開眼天竺僧正、隆尊律師、観音願主尾信勝、虚空蔵願主尼善光、造寺知識功課人、大仏師国君麻呂(百済から亡命した仏師)、大鋳師真国、高市真麿、鋳師柿本男玉、大工猪名部百世、小工益田縄手
材木知識五萬一千五百九十人、役夫知識一百六十六万五千七十一人、金知識二十七萬二千七十五人、役夫五十一萬四千九百二人、 米五千石奉加利波志留志、銭一千貫奉加河俣人麿、銭一千貫車十二両牛六頭奉加物部小嶌、銭一十貫奉加甲賀真束、別当良興僧都、良慧僧都、永興僧都ーーー桓武天皇ーーー嵯峨天皇ーーー淳和天皇ーーー仁名天皇ーーー文徳天皇ーーー陽成天皇ーーー光孝天皇ーーー宇多天皇ーーー宇多天皇ーーー朱雀天皇ーーー村上天皇ーーー冷泉天皇ーーー圓融天皇ーーー長官頼忠関白ーーー華山天皇ーーー一条天皇ーーー三條天皇ーーー後一条天皇ーーー後朱雀天皇ーーー後冷泉天皇ーーー後三條天皇ーーー堀河天皇ーーー白河天皇ーーー近衛天皇ーーー鳥羽天皇ーーー後白河天皇ーーー虚空蔵並増長天大仏師幸慶法眼ーーー当寺造営施主将軍頼朝右大将ーーー青衣女人ーーー大勧進栄西僧正ーーー当寺造営大施主将軍實朝将軍ーーー平義時左京権大夫(北条義時)ーーー後高倉法皇ーーー大仏脇士観音並廣目天大仏師快慶法眼ーーー同脇士多聞天大仏師定慶ーーー禅惠法師ーーー後堀河天皇ーーー四條天皇ーーー平泰時左京権大夫(北条泰時)ーーー後嵯峨天皇ーーー頼真大法師 他 (一部分抜粋)
(慶應二 丙寅書写 宮内卿晋海) (※「青衣女人」飯島幡可著)


※「米五千石奉加利波志留志」は越中石黒氏の祖とされ、越中の東大寺庄園の開発にも関わった人物。
※「禅惠」・「頼真」は河内金剛寺から高岡市にある総持寺(元は赤丸村)に伝わったとされる国指定重要文化財木像千手観音座像の胎内にも記載されている。(同一人物かは不明!)
※「青衣女人」は 亡霊の様に現れ、掻き消す様に消え失せた伝説的な人物で未だに誰かは分からない。



🔴 【人車記】『陽明文庫』(※ 『近衛家文庫』)に遺される『越中吉岡庄』の記録⇒『保元物語』・『人車記』(※「兵範記」平信範著)写本!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

【保元物語絵巻】・【平治物語絵巻】





🔘 陽明文庫版(※近衛文庫)の【保元物語】と【人車記】

【※「兵範記」(※「平信範著」⇒近衛文庫では「人車記」)に遺される『越中吉岡庄』(※富山県高岡市福岡町赤丸浅井神社を郷社とする。)の記録。】

















■『越中吉岡庄』は藤原摂関家長者で左大臣(※左府と記されている)の『藤原頼長』 の庄園で在ったが、保元元年、『藤原頼長』と『崇徳上皇』に反乱の動き在りとして、『後白河天皇』、『平清盛』、『源義朝』等が先制攻撃をして屋敷を急襲した。『崇徳上皇』は屋敷を逃れたが、『藤原頼長』は流れ矢に当たり重症になる。頼長は死に望んでも逃れて父の忠実に会いに行くが、父は会わずに追い返す。無念の内に亡くなった『藤原頼長』の庄園『越中吉岡庄』は保元二年に官に没収されて勝者の『後白河天皇』の所領に成り、後に上皇の庄園の「後院領」になる。その後、この庄園は『後鳥羽上皇』から『後醍醐天皇』迄、皇室庄園として伝えられた。敗れた『崇徳上皇 ストクジョウコウ』は隠岐島に流罪に成り『崇徳上皇』は血書を遺して怨みを遺して亡くなった。『崇徳上皇』と『藤原頼長』の怨念は数々の天変地異を惹き起こした為に、『後白河上皇』や『後鳥羽上皇』等の歴代天皇はこの両者の怨念を鎮撫の為に慰霊施設を建てたり、勅使を遣わされている。
「吉岡庄(赤丸観音堂遺跡)」に在った「衆徳山総持寺 ストクサンソウジジ」には、胎内に「金剛位理卿」と『後鳥羽上皇』の法名が記載された「千手観音座像」が伝えられている。












■後白河天皇・源義朝・平清盛と崇徳上皇・藤原頼長が対立して『保元の乱』が起こった。摂関家長者「藤原頼長」は何事にも厳しかった事から「悪佐府」と呼ばれて恐れられたが、後白河側の先制攻撃で敗退し、首に矢を受けて死亡した。保元二年、藤原頼長の個人庄園は官に没収され、藤原家固有の庄園は兄に引き継がれた。平家の「平信範」はこの時期の様子を『兵範記』(※「人車記」)で詳しく伝えている。「平信範」は摂関家の藤原忠通・基実らに家司として仕えた為、当時の上級公家などの動きに詳しく、中でも「保元の乱」前後の詳細な記述は当時の朝廷や平家の動静を詳しく遺しており、貴重な史料とされている。
(※「兵範記」には公卿の近衛家に伝わる「陽明文庫」と京都大学に伝わるものが在り、各々に脱漏があるとされる。陽明文庫版は陰影本として、京都大学本は活字本として発行されている。「五摂家」筆頭の近衛家伝来の古文書を保管する「陽明文庫」は、昭和13年(1938年)に当時の近衛家当主、内閣総理大臣近衛文麿が仁和寺の近くの現在地に設立した施設。研究者の閲覧の便を図る為に影印本の刊行を行っている。)






■陽明文庫(近衛文庫)には『保元物語』の写本が残されており、解説本として岩波書店版が発刊されている。



■「旧藤原頼長領」の内、北陸では、『越中吉岡庄』と『能登一青庄』が没官され、「越中吉岡庄」はこの時に上皇の庄園「後院領」に組み込まれ、「能登一青庄」は石清水八幡宮の庄園に寄進された。「後院領」は天皇が退位後に糧所とされた庄園で「後院庁」の「後院司」と言う官吏が政務を執り、守護の権力が及ばない庄園とされたが、源頼朝が義経探索の為と称して全国に「地頭」を配置した時から徴税を代行する地頭が配置されている。




🔴🌄🏯 高岡市「赤丸村」 ⇒西山の史跡には年中、極楽浄土を示す様な神秘的な夕焼けが見られる。

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■かつて、藤原氏、天皇家、賀茂御祖神社、足利幕府等の庄園で在った「越中吉岡庄」・「越中五位庄」の赤丸村西山の清水観音堂から極楽谷にかけては、年中、神秘的な夕陽が沈む。この一帯には川人山鞍馬寺七房、赤丸浅井神社三社権現、浅井神社48房、浅井城、総持寺、西大寺等の寺社が林立して正に、極楽浄土を写す地域で在った。





西暦717年創建と伝えられる「延喜式内社赤丸浅井神社」は古代から現在迄、地域の信仰を集め「越中吉岡庄」、「越中五位庄」の鎮守社として現在もその信仰は続いている。かつて、この地域の中心神社として「五位庄53ヶ村総社」とされた。

(催事の日時は主催者都合で変更される事があります。)

■【越中吉岡庄】~【越中五位庄】の歴代領主達!!










■南朝の行在所で在った「河内金剛寺」から黄金の千手観音像が伝えられた「総持寺」(高岡市関町)








🔴🔨 「越中吉岡庄」に移り住んだ大和国の刀工「宇多派」⇒鴨氏・下鴨神社・南朝後醍醐天皇所縁の刀工「宇多刀工」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越中吉岡庄」は「白河上皇」の時代に「上賀茂神社庄園」(※「山野川湊の中世史」久保尚文著)、南朝の「長慶天皇」の時には「下鴨神社庄園」(※「柳原家記録」)、室町時代の将軍足利義政の時に「下鴨神社庄園」(※「賀茂御祖神社諸国神戸記」)と三度も賀茂神社の庄園に成った。

■越中国吉岡庄(赤丸村)の領主【南朝初代 後醍醐天皇】









(※「群書類從」塙保己一編)




■「越中吉岡庄」には大和国宇陀郡から南朝所縁の刀工「宇多派」が移り住んだ。大和国宇陀郡は「鴨氏」と所縁の強い地域で、「鴨氏」が「ヤタカラス」に変身して神武天皇を大和国に導いたとされる地域で在り、後醍醐天皇が信仰された「ヤタカラス神社」が鎮座して、この地域を拠点とした「天国 アマノクニ」を祖とする「宇多刀工」の本拠地で在った。この地から宇多家の「宇多国光」が文保年間に加賀を経て越中吉岡庄に移り住んだと云う。又、宇陀郡は伊勢国司で南朝の忠臣「北畠親房」の支配地域で在り、正に「南朝の牙城」と云える地域で在ったが、この地域から同じく後醍醐天皇の庄園で在り、南朝の牙城で在った「越中吉岡庄」に「宇多国光」が移り住んでいる。

・「天国」が鍛えたと言う平家の重宝「小烏丸」
(※室町時代に政所を勤めた伊勢家に伝わる絵図。)










■「宇多国光」が移り住んだ「越中吉岡庄」の場所には京都の「下鴨神社」を勘請した「下加茂社」が鎮座しており、その神域の「鍛冶屋町島」に工房を構えたと云う。この「下加茂社」は現在、赤丸村舞谷の「舞谷八幡宮」に合祀されている。この宇多派は越中刀工の中でも江戸時代迄続き、最も多くの刀剣が作刀されている。その中には大名の刀剣とされたものや現在でも重要文化財に指定されているものも多い。
(※越中刀工で富山市五福に工房を構えたと云う「相州伝 正宗」の「正宗十哲」とされる「佐伯則重」の先祖も大和国宇陀郡の「天国」と伝えられている。越中刀工は「南朝所縁」の刀工とされた事から北朝に成った時には様々な迫害を受け、刀剣の評価も落とされたと言われる。)














「宇多国光」の小太刀(※独特の波を模る刃紋が見られる。)




■「宇多派」は小矢部市、南砺市福野町、富山市、飛騨等にも弟子が広がったと言われ、系図でも小矢部市蓮沼、福野町安居寺、富山市(※大田保)等に移り住んだ事が記載される。








🔴【延喜式内社赤丸浅井神社の神域】「五位の渡し」の在った赤丸向野新村の開拓⇒福岡町の「国指定無形重要文化財 菅笠製作技術」を伝えた『大野源作』と向野新村!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村





🏯🌸 室町時代には、「越中守護畠山持国の居城赤丸浅井城(五位の城)」を記載する古絵図が、越中・能登・近畿一円支配した室町幕府の「畠山家文書」に遺されている。(※「大阪府羽曳野市資料叢書」)
「赤丸浅井城」を守る鎮守として隣接地には皇室八神の一柱「高皇産霊神」を祭る「延喜式内社赤丸浅井神社」が鎮座する。又、この祭神は「大伴氏・佐伯氏」の祖先神とされ、かつての「越中国司大伴家持」の氏神でもある。




■【延喜式内社赤丸浅井神社】は「藤原摂関家」・「後白河上皇」~「後醍醐天皇」・室町幕府足利家菩提寺「相国寺」・「等持院」・「等持寺」の庄園で在った「越中吉岡庄」・「越中五位庄」の「郷社」で在り、朝廷から弊帛が捧げられた神社で在り、この神社の別当「川人山鞍馬寺」は「門跡寺院 聖護院」の末寺で在り、皇室とは幕末迄、密接で在った。この庄園には「京都の雅を遷した清水寺、鞍馬寺、貴船神社、上賀茂神社、下鴨神社、愛宕神社、熊野神社等」が勘請され、皇室・伊勢神宮にも所縁の深い「菅笠」(国指定無形重要文化財)の伝統等も伝えられている。又、「赤丸浅井神社」は、皇室庄園で在った歴史を物語る様に「皇室の祭神で在る皇室八神」の内の「高皇産霊神」を祀る朝廷所縁の神社でも在る。
又、この庄園には加賀藩の前迄「赤丸浅井城」が在って、この地域を統治する重要な軍事施設で在った事が伝えられる。














■加賀藩時代に官製の渡し場「五位の渡し場」が在った向野新村(※高岡地方法務局)











■「向野新村」は福岡町に菅笠制作技術を伝えた伊勢の人「大野源作」の子孫の「大野次兵衛」が開拓した。赤丸村向野新村には加賀藩の時代から「五位の渡し」が有り、昭和35年頃迄笹舟での渡し船が在った。「義経記」の時代は小矢部川が西山丘陵の下を流れており、この「五位の渡し」の前身が「二位の渡し」と考えられている。(✳「義経記」小学館版、岩波書店版 参照)








■赤丸村は川原・古村・鞍馬寺の三集落からなる。元和元年(一六一九年)の家高新帳には役家数二〇、赤丸組に属した。外に、元禄八年(一六九五年)に新開された高八十八石余の地があった。この新開地は安政五年(一八五八年)向野新村となった。赤丸は菅の生産が盛んで、天保一四年には一萬二千歩余(高五十石に相当)の田に作付していた。また桑が多く植えられ、天明七年(一七八七年)には井波町の商人が当村で桑葉を買い集めている。小矢部川の洪水により安政六年には家屋五十六が浸水した。明治二十二年赤丸村・向野新村・舞谷村・花尾村と高田島村・三日市村の各一部が合併し新しい「赤丸村」となる。向野新村は、赤丸村の東、小矢部川左岸の低平地に立地。赤丸村領のうち小矢部川原の荒廃地を元禄八年(一六九五年)に開発したのに起源するという。「御領国中村名帳」では宝永三年(一七〇六年)に開発し、安政五年に村立てされたとする。五位組に属した。
(加賀藩記録に赤丸村領三日市と有り、赤丸浅井神社の由緒に拠ると、「近郷五十三箇村 旧五位庄廿五ケ村國吉郷廿六ケ村宮島郷二ケ村」が赤丸浅井神社の管轄範囲の53ケ村で有ったと云う。加賀藩政の前の「五位庄」や「吉岡庄」の範囲は古くはこの範囲であったと思われる。)

■向野新村は加賀藩の鷹狩場「お鷹場」を大野次兵衞が開拓し「お鷹場新開」「次兵衞島」と俗称したという。
大野次兵衞は伊勢国河藝郡白子村の生まれで慶長年間(一五九六~一六一五年)に流浪して五位庄蓑村に移住し菅笠の製法を教えた【大野源作】の子孫という。大野源作は慶安四年六月に赤丸村で亡くなったと云う。享年は七十三歳。
(※「赤丸名勝史」国立国会図書館蔵書 参照)
百姓数は次兵衞以下十五名(うち一名は他村からの兼作)であった。石高百十石。文久三年(一八六三年)には村内神明宮の祭礼を執行している。

■明治四十二年には向野新村の神明宮等赤丸地内の十一社を浅井神社に合祀している。向野新村は俗に「次兵衞開」(ジヘイヒラキ)と云った。小矢部川が山麓寄りに流れていた頃は同川の右岸の川向であったが、流路の変改により左岸に移ったと伝えられる。明治九年石川県、同十六年富山県に所属、同二十二年より礪波郡赤丸村の大字となり、昭和二十九年福岡町と合併。平成十七年高岡市と合併した。
(※「富山県の地名」一九九四年平凡社版参照)
向野新村の神明宮(向野新村石名田八一八)は、明治四十二年に浅井神社に合祀する前迄現在の向野集会所の建っている場所にあった。向野新村は明治三十年代のウンカの大発生による農村不況、殊に大正九年に起った小矢部川の大洪水により離村者が多く小学校の中退は二割以上に上った。岐阜県から流れる庄川と合流する小矢部川は度々大洪水を繰り返し、常に流れる位置形状を変え、古くは赤丸浅井神社下の山裾を流れていたが、次第に東に流れを変え、川は大きく蛇行していた。「向野」は正に小矢部川の向こうにある荒地であり、江戸期の図面にはその荒地を「川原」と記載している。これが現在の川原集落の地名にもなっている。 


■「向野新村開拓時の人々」





●【延喜式内社赤丸浅井神社】管理の宮

・愛宕社 赤丸村古谷五四〇二(古村)
                   祭神 軻愚突智命
・清水社 赤丸村古谷五三六三(古村)
                   祭神 大巳貴命    清水山鎮座
●【浅井神社に合祀されている神々】

(明治四十二年合祀)

・神明社 向野新村字石名田八一八番(向野)
     赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
                   祭神 天照大御神
・八幡社 赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
                   祭神 誉田別尊
・熊野社 赤丸村古谷五〇三一(古村)
                   祭神 伊弉諾命
・天満社 赤丸村子吉三八七三(古村)
                   祭神 菅原道真
・諏訪社 赤丸村縄田二五一七(川原)
     赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
                   祭神 健御名方命
・庚能社 赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
                   祭神 金山彦命
・庚能社 赤丸村古谷五二七五(古村)
                   祭神 金山媛命
・日吉社 赤丸村勝負田一四五四(古村)
     赤丸村山王四三九八(古村)
                   祭神 大山咋命
・富士社 赤丸村山王四五〇六(古村)
                   祭神 木花咲夜比売命
・白山社 赤丸村古谷四八三八(古村)
                   祭神 白山媛命

🔘 ≪源義経の軌跡≫【奥州平泉】と富山県の【越中吉岡庄】(赤丸村)⇒藤原摂関家長者【藤原頼長】の庄園文化と【源義経】!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■「延喜式」では、「赤丸浅井神社」の山裾にあったと云う【川合駅(川人駅)】には北陸道の駅馬が五疋配置されていたと云う。【川人駅】は朝廷からの勅使を繋ぐ重要な【駅】で在り、この駅を守った「城郭」が、「赤丸浅井城」で在ったと云う。 「義経記」では、源義経主従は、「如意城(赤丸浅井城)」(※石黒氏の居城の「五位城」の事)の前に在った「越中吉岡庄(赤丸村)二位の渡し」と云う舟乗り場で幕府の渡し守に疑われて、「弁慶」は嫌疑を晴らそうと咄嗟に扇子で「義経」を扇子で打ち据えた。このシーンが、「勧進帳」に採用されて「義経が弁慶に杖で殴りつけられるシーン」となった。この「越中吉岡庄」は元々、「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園で在り、義経が奥州へ逃れる為に通過した時には、義経を庇護したとされる「後白河上皇」の庄園に成っていた。奥州藤原氏は、「越中吉岡庄」と同じく「左大臣藤原頼長」の庄園五庄を管理していた頼長の家臣で在り、「母親の常盤御前」の夫の「一条長成」が政治顧問をしていたと云われる。言わば、「奥州藤原氏」が管理していた国々と「越中吉岡庄」はその時期には同国で在ったのだ。 「越中吉岡庄」の鎮守社で在った「延喜式内式赤丸浅井神社」には「義経、弁慶主従」の巨大な額が掛けられている。


■【吾妻鏡】 奥州の「藤原秀衡」の国に「源義経」や「木曽義仲の嫡男義高」が潜んでいた。 藤原基成の父の従兄弟は義経の母の常磐御前が再婚した一条長成で有り、基成の娘は藤原秀衡の正室であった。


■「越中吉岡庄」は元々、藤原摂関家長者・左大臣「藤原頼長」の庄園で在ったが、崇徳上皇・藤原頼長 対 後白河上皇・源義朝・平清盛の戦いに成った「保元の乱」で頼長が敗れて、後には後白河上皇の「後院領」と呼ばれた庄園と成り、以降、後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄天皇家庄園として伝領した庄園である。 藤原頼長は藤原摂関家の長として全国に29庄の庄園を保有していたとされる。この中には、「越中吉岡庄」、「能登一青庄」の他、東北には配下の【奥州藤原氏】に管理させていた5ケ所の庄園が在った。現在の宮城県には【高鞍庄(栗原郡)・本良庄(本吉郡)】、山形県には【大曽根庄(東村山郡)・屋代庄(東置賜郡)・遊佐郡(庄内地方)】の庄園が藤原家の庄園として在り、これ等は父の「関白藤原忠実」から久安四年(1148年)に「頼長」に譲られた庄園であると言う。「藤原頼長」の日記の「台記」には仁平三年(1153年)に奥州藤原氏の基衡との税率の変更についての記録が在り、奥州から金25本を金55本に、その他の馬、布、細布、漆、鷲羽根、水豹皮等を5割り増しにした事が記載されている。これを見れば藤原頼長の厳しい徴税の実態が分かるが、「越中吉岡庄」に於いても同様で在ったと見られる。奥州の五庄は頼長の父の「藤原忠実」への寄進系の庄園と見られているが、「越中吉岡庄」についても藤原氏である「越中石黒氏」からの寄進系の庄園とも見られ、「吉岡庄」は「白河上皇」が「上賀茂神社」に寄進されて以来、庄園を管理した藤原氏の越中石黒氏の庄園と成りその石黒氏が寄進したものと見られる。





■越中国、能登国、陸奥国、出羽国の【藤原頼長】の庄園 【越中吉岡庄】


◆「越中吉岡庄郷社延喜式内社赤丸浅井由緒」の神域 《国吉郷26村、赤丸村他の後の五位庄25村、小矢部市宮島郷2村の合計53村》
【能登一青庄】 【奥州出羽、陸奥国】

◎「浅井城跡」; 【赤丸村に在り。孝霊天皇の第三皇子彦刺方別命の五世孫某砺波臣の姓を賜り(古事記)その後裔累世此地方を領して此処に居舘せり】 ⇒「利波臣」は奈良時代に越中利波郡郡司を務めた越中の豪族で有り、「石黒系図」ではその名跡を継いだのは「越中石黒氏」で在り、【花園天皇の頃から石黒光弘の後裔此地に住し延元中石黒次郎光景此地に城を築きて南朝の為に謀りし事あり興国三年宗良親王を奉迎せり。】とされる。 (※「富山県西礪波郡紀要」砺波郡役所発行) (※「武者の世に」集英社 参照)


■義経が福井の「平泉寺」、赤丸村の「二位の渡し」(五ゐの城)を経由した背景を考えてみる。 奥州平泉の藤原秀衡は福井県の平泉寺に鐘を寄進した記録があると伝えられ、奥州との関係が深かったようだ。又、勝山市の平泉寺は白山登山の福井側の登山口に当たり、昔は相当の数の比叡山の系統の僧兵がいたと伝わる。「義経記」を読んでみても弁慶は元々、熊野修験道の僧であり、修験道を中心とした両部神道の寺社の情報は熟知していたものと見え、義経が平泉寺参詣を希望してもアッサリと承諾している。




🔽「弁慶」の素性は「熊野修験道」の僧で在り、出自は伊勢神社の外宮の神官「度合神道」の神官を勤めていた。
『弁慶』に就いては熊野別当の湛増の子で、紀伊国出身ともされ、生年も不詳で出自や生い立ちも良く分からないが幼名を「鬼若」と呼んだとされ、身元がはっきりしないとされる。しかし、塙保己一が編纂した「群書類從」には「伊勢神宮 微古館所蔵」とされて、【「弁慶」は伊勢神宮外宮神官家度会一族】として系図にも載せられている。詳しくは分からないものの、「吾妻鏡」の中の「義経都落ち」の時に、義経に従った従者の中に、伊勢の人物で伊勢三郎と言う人物が居る。この人物は【伊勢三郎(伊勢国二見郷の人。伊勢の度会義連(ワタライヨシツラ)と言う伊勢神宮の神主の子。】とされており、明らかに伊勢神宮の度会一族が義経に随行している。この系図では弁慶の父ともされる「度会義連」は登場しないが、「弁慶」の父は「僧 浄智」とされており、明らかに両部神道の「熊野本宮別当」で在った可能性が高い。
🔽【五位庄の鎮守社は皇室八神の内の「高皇産霊神」を祭る「赤丸浅井神社」で在り、伊勢神道と近い。
➡「三井寺系本山派修験道門跡寺院聖護院の末社」の【川人山鞍馬寺】と「延喜式内社赤丸浅井神社」。】

修験道の勧進僧に姿を変えての潜航は、元より日本海側には白山、立山等の修験道のメッカが有り、熊野から白山、立山の麓には両部神道の寺社が展開していた事が背景に有ったようだ。義経の義理の父で常盤御前の再婚相手の「大蔵卿一条長成」が奥州藤原氏の親族で有り、後白河上皇の娘と称する者が平泉に居た事もあってか義経は逃亡先を奥州平泉に定めた。後白河上皇の親王で高野山とも密接な仁和寺宮守覺法親王(母は藤原季成の娘)や藤原範季が密かに義経の支援をし(吾妻鏡第三巻 文治二年十一月*1186年)、又、後白河上皇の親王の静恵法親王が修験道本山派の聖護院に入寺され聖護院が門跡寺院となって全国に二万余りの末寺を抱える大集団で有った事も有り、全国の高野山系、聖護院派系の寺社は義経主従にとっては比較的安全だと考えたものと思われる。 後白河上皇の皇子の仁和寺宮守覺法親王の母は「藤原季成の娘」である。 【 源範頼;源頼朝、源義経の異母弟、蒲冠者、参州、三河守】の背景を調べると、源範頼は ・1150年父を源義朝、母を池田宿の遊女として産まれる。 ・熱田大宮司藤原氏[由良御前(源頼朝の母)]が密かに京都で養育。 ・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟[勘解由丞季成(藤原季成)]が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育されて「蒲冠者」と呼ばれる 。 ・源頼朝は,1147年(久安3年)に源義朝の三男として現在の熱田区旗屋で生まれた。母 は,熱田大宮司の藤原季範(としのり)の娘「由良御前」である。 ⇒源義経の義弟の源範頼は藤原季成に養育され、その娘は後白河上皇に嫁して守覺法親王を生む。この関係があったからか、守覺法親王は背後で源義経が奥州に落ち延びた時に支援したとされる。守覺法親王は福井県の「久河北荘」(旧吉田郡河合村・森田村)を所有したが、この庄園は九頭竜川以北の大荘園で古代の足羽郡川合郷の名を継いで「河合荘」とも言われた。藤原頼長の縁者の仁和寺相応院の僧「隆憲」が仁和寺御室の守覚法親王に寄進した所領がその前身となり建久元年に見作田(現在耕作される田。見=現)60町が二品守覚法親王「親王家領」となった。この庄園は義経が平泉寺に参詣する時の安全な経由地であったと思われる。 しかも、越中に入り、小矢部川の船下りルートの渡船場が在った「越中吉岡庄」(後の五位庄赤丸村)は「保元の乱」の後に後白河上皇の荘園となり、頼朝の配下の地頭「吉岡成佐」が配置される前は、保元の乱で敗れた藤原頼長の所領であった。奥州平泉に五か所の荘園を持ち奥州藤原氏に荘園を管理させていた藤原氏長者の藤原頼長は元々、越中吉岡庄、能登一青荘の領主でも有り、直前まで奥州と越中、能登には同じ領主の国が展開していた。源頼朝の家臣の畠山氏や義経の正妻の父の川越氏は同族の秩父平氏であり、義経の逃避行に同行していた川越氏の娘に対しても温情が在ったものか? 畠山重忠や義経の正妻の父の河越太郎重頼は元々、頼朝の旗揚げに参加した後家人で幕府の功労者であったが、頼朝と義経が不和になった一件で同じ様に清盛と戦った義経が敵に成り、しかも、河越太郎重頼の娘と義経の仲人は頼朝と云う複雑な事になった。畠山重忠は義経の愛妾の静御前が頼朝の面前での舞を強いられた時にも不憫に思い自ら鼓の打ち手を希望したとされる。頼朝が地頭吉岡成佐を配置する以前には、壇之浦の戦いに義経軍に従軍して戦功を挙げた「石黒氏の縁者の加賀の林氏」が一時期、越中を治めたと云う。(※「林一族」寺西艸骨著) 当時の越中の責任者が義経のお陰で配置された加賀の名族「林氏」であった事から、越中ではその同族の石黒氏、宮崎氏等が支援し、加賀では林本家と冨樫等の同族が背後で支援したものと見られる。又、石黒氏は福井県の敦賀を発祥として、福井県には三国等も同族を先祖とした地域だ。源頼朝の厳命にも関わらず、義経の行方が分からなかったのは、こうした背景があったからだ。強大な山伏集団を抱えた越前平泉寺には奥州の藤原氏が梵鐘を寄進する程親交があり、石川県では林氏の本拠地の鶴来に在る「白山比咩神社」は平泉寺白山山伏を大量に抱えていた。北陸路は熊野→白山→奥州羽黒山に通じる「修験の道」であり、山伏に扮した義経一行は、英雄としての義経への畏怖と幅広い人脈に大いに助けられていたと見える。「吾妻鏡」には「以前として義顕(義経の事)の消息が知れない」と再三にわたり、記述されている。 この様な背景から、「聖護院派山伏」の赤丸浅井神社の鎮座する「越中吉岡庄」に対する義経の警戒感も鎌倉幕府の領域を通過する関東近辺よりも比較的に少なかったと思われる。「義経記」に拠ると、数回の危険な関所対応を割と簡単に行っている。弁慶の機転とされているが、北陸道各地の義経主従に対する同情と前記の様な背景があって各地の関所を通過したものと考えられる。 (※義経の正妻の父の河越太郎重頼は、義経の探索が進まない事から頼朝に誅殺され、畠山重忠は力強い畠山氏を警戒した北条時政によって騙し討ちされる。秩父平氏畠山氏の後には北条義時の計らいで政子の娘(重忠の妻)が源氏の足利義純と再婚して、「畠山」の名跡を継ぎ、以降は源さ氏系畠山氏になった。室町時代に管令となり、河内、紀州、越中、能登を領した「畠山氏」は源氏の足利氏一門。) (※源範頼:源頼朝、義経の腹違いの弟。遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(カバノカジャ)、蒲殿と呼ばれる。藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼして戦功を挙げ、源氏一門として鎌倉幕府に於いて重臣となったが、後には頼朝に謀反の疑いをかけられて誅殺された。)

■「蒲村」は現在の浜松市に合併している。旧区分(遠江国浜松郡)では地図上のNo50が該当する。浜松町はNo11。(Wikipedia参照)

🔴🔘 「京都下鴨神社」の庄園「越中吉岡庄」の記録 ⇒「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」の修正・追記(2018.2)

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●「越中吉岡庄」は南北朝時代末期に京都の「下鴨神社」の庄園に成っていた。(※「柳原家文書」富山県史)



又、「康正二年(1456年)造内裏段銭並国役引付」(※「群書類從」第28編 雑部)には、「下鴨神社領 越中吉良庄」と記載されており、この記載は「越中吉岡庄」の誤記と見られ、「国立歴史民俗博物館」の「庄園DB」に追記、修正が行われた。
しかし、「越中国吉岡庄」は「東寺百合文書」等に、南北朝末期から室町幕府第三代足利義満の時代に「五位庄」と見られ、加賀藩記録の「宝永誌」にも「南北朝時代末期に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が五位庄に改名された」とされ、室町時代の足利義政の時代に「吉岡庄」と記載されているのは、「元吉岡庄」の「五位庄」を意味すると見られる。





■【国立歴史民俗博物館 総務課情報システム係 ◯◯と申します。
いつもデータベースをご利用いただきありがとうございます。
いただいた内容を元に再度本館担当者に確認しまして、下記の通り回答とさせていただきます。
---ここから---
 ご連絡の件ですが、ご指摘の通りだと思います。
 この史料はデータベースの典拠になっている『角川日本地名大辞典』が見落としていたようです。よって吉岡荘は南北朝時代には下鴨社領になっていたのは間違いないと思いますし、吉良荘は吉岡荘と同一(誤記)の可能性はかなり高いように思います。
 今後、データベースの内容の見直しを進めていきますので、そのなかで修正したいと思います。ただし、「吉良荘」を削除するのは昨日のメールの通り躊躇されますので、今回ご指摘いただいた史料を踏まえて、「吉岡荘の誤記か」を「吉岡荘の誤記の可能性が高い」というような内容に修正させていただきたく存じます。 2018.2.8】






🔴🎌【古代の歴史を伝える五位庄赤丸村】 [延喜式内社赤丸浅井神社]の祭神「八河江比賈神」・「高皇産霊神」・「天照皇大神」!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村












・古代から南北朝末期迄続いた「賀茂御祖神社」、「藤原摂関家」、「後白河上皇~後醍醐天皇」の庄園【越中吉岡庄】、「室町幕府直轄粮所越中五位庄」として続いた富山県西部の「赤丸村」には、「延喜式内社赤丸浅井神社」が鎮座する。この神社は、「五位庄五十三ヶ村惣社」とされ、「国吉郷、五位庄赤丸村、(小矢部市)宮島郷」迄含む広大な地域の代表神社とされた。(※「惣社」は「代表する神社」の意)







■【古代から続く赤丸浅井神社】
「延喜式内社赤丸浅井神社」には、現在は多くの祭神を祀っているが、富山県神社庁の「富山県神社誌」では「社伝では孝昭天皇の御宇、祖神「八河江比賣神」を水害の鎮防、用水の豊富を祈って祀ったとあるが、清水山の麓、飲用水と灌漑水の守護神として、山体そのものを浅井の神と崇め、祖神に出雲系の神である「八河江比賣神」を配したと思われる。養老元年二ノ宮(※元正天皇の二宮石川朝臣広成⇒実は文武天皇の二宮)が社殿を御造営、初穂の主史を置かれた。「行基」・「泰澄」が相前後して境内に草庵を結んで奉仕し、神仏混交、本地垂迹説も導入された。古事記によれば「八河江比賣神」の本名は「葦那陀迦神」であるということからサンスクリット語の意味から武神の「毘沙門天」が配され、その垂迹神として「高皇産霊神」が祭神に見えてくるようになった。」と記載されている。「葦那陀迦神」は近江では、近江浅井(東浅井郡虎姫町中野)の矢合神社にも祀られている。矢合神社の由緒書にも「水辺を司る」と出ている。
【「葦那陀迦神」(アシナダカノカミ)は、日本神話に登場する女神で、古事記では「大国主命」の孫の「国忍富神」の妻として登場する。亦の名を「八河江比売」という。「葦な高」は葦の丈が高い様を表し、「邪気払いの力を持つ葦が繁栄する事」を意味し、「国力の繁栄を象徴する」と云う。
近江国の「矢川神社」では『諸芸上達・諸願成就の神』とされ、「矢合神社」では『葦が生じ易い水辺を司る神』とされる。

■「伊勢神宮外宮」の神官家の「度会延経」は、その著作の「神名帳考証」で、「延喜式内社赤丸浅井神社」を取り上げ、「浅井とは浅井神社在れば成り」として、元々、この神社は赤丸村の「浅井谷」に祀られた近江の古代氏族「浅井氏」の神を祀ったものだろうと指摘している。
元々、越中利波(砺波)郡の郡司一族の「利波臣」は、その先祖を福井県敦賀市の「敦賀臣」と同族とされており、「赤丸浅井神社」の祭神で在る、出雲の「大国主命」の息子の嫁に当たる「八河江比売神」は、福井県敦賀市等の福井県嶺南地方から近江の琵琶湖周辺に栄えた古代氏族「浅井氏」と密接な神で在ったと見られる。




















■平成五年、「越中五位庄赤丸村舞谷前田島遺跡」から発掘された大量の「古代銭」!!











かつて、【総持寺】(※高岡市関町)が在った【観音寺遺跡】の背後に在る【赤丸村前田島遺跡】からは「600年代」頃の「開元通宝」1300枚等、大量の「古代銭」が高岡市教育委員会によって発掘されている。

◆2005年の高岡市教育委員会による福岡町埋蔵文化財調査に拠ると、現在、高岡のあいのかぜ鉄道(元のJR)高岡駅南の瑞龍寺の傍に在る「衆徳山総持寺」が当初設立されたと云われる赤丸の「観音堂遺跡」の山地の麓に広がる前田島と云う地域には「前田島遺跡」が広がり、その調査では過去に莫大な「宋銭」等の古銭が発掘されていた。中には「開元通宝」という600年代の中国の古銭も大量に発掘されている。
総持寺は1402年(応永9年頃)に高岡のへ移転したと地元の伝承では伝わるが(実際には、この時期に小矢部川河口の六渡寺村に移ったと見られる。)、この莫大な古銭の中には、空海が唐から仏舎利等を持ち帰った時代から、丁度総持寺が高岡へ移転した時期までの間の長期間の古銭が発見されている。総持寺へは、大阪の南朝の行宮で空海が修業した「河内金剛寺」から「国指定重要文化財の千手観音像」が伝来したと云われ、唐銭はこの時期の日唐貿易の際にもたらされているし、その後の宋銭」は「平清盛」が主導した日宋貿易の際に我が国にもたらされている。「義経」が五位庄を経由して奥州に逃れた時、「勧進帳」・「安宅の関」で有名な場面の原点とも云われる五位庄「二位の渡し」で検問したのは「平権の守」と「義経記」に記されており、平家の武将が守っていたと記されている。
(※この時の平家は頼朝配下の秩父平氏の中山氏か? 源頼朝に任命された別の平家か? 赤丸浅井神社の別当「川人山鞍馬寺」に伝わる「三社誌」には、室町時代の「五位庄」の官吏の中に【権守】が記載される。)

■■「五位庄」が「後白河上皇」の庄園の「越中吉岡庄」の時、「平清盛」が「後白河上皇」に寄進した蓮華王院の三十三間堂に「後白河上皇」は「吉岡庄」の収穫物を寄進されたと云う。「吉岡庄」は平家ともこの時期密接だった訳で、後白河上皇も深く千手観音を信仰し、平清盛が寄進した三十三間堂には1001体の千手観音像を祀らせている。


🔻《※吉岡庄の国吉名には平家の武将「越中次郎兵衛(平家物語に登場する前司平盛嗣)」の居館が在ったと伝わる。》








◆この莫大な古銭は総持寺が高岡に逃れた時に埋めたものか?
又、この山並の「鍛治屋町島」に在ったとされる『宇多国光』を初めとする『宇多刀工』達の畜銭で在ったのだろうか?
総持寺が高岡に逃れた後も、その墓地や持宮の熊野社は赤丸に残り、住職が毎年お参りしていたと伝わる。吉岡庄はその後、足利幕府の時代に金閣寺で有名な「相国寺」(金閣寺、銀閣寺は共に相国寺の塔頭寺院)に「足利義満」により寄進されている。「赤丸浅井神社」に伝わる「総持寺由緒」には「応永年間、後小松天皇の頃に高岡市の現在地に移転した」とされており、「後小松天皇の時代」と言えば「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」が追われて福岡町一歩二歩に移転してその後を鞍馬寺の一坊の「西宝院(※後の川人家)」が継いだとされ、「足利義満」が室の業子の追善の為に「五位庄」を「相国寺」に寄進して、「能登守護畠山満家」や「越中蜷川氏」の「蜷川新右エ門親当」が政所代として砺波郡を統治した時期に合致する。現在、浄土真宗井波別院に「客仏」として祀られている元赤丸村に在った鞍馬寺の本尊とされる大きな仏像は「後小松天皇所縁の仏像」と伝えられている。又、「一休さん」に「蜷川新右エ門」と共に登場する「一休和尚」は「後小松天皇の子」とされ、正に「五位庄」はこの時期に激変した事が分かる。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」の開基は「行基」とされ、その後「泰澄」が山岳修験道を導入し、一三〇〇年代に後醍醐天皇の二宮(八番目の皇子として八宮とも云う)「宗良親王」が仏閣の造営をされたと思われる。
(金沢・高岡の極楽寺、氷見市南大町の西念寺等も宗良親王の開基と伝える)
「泰澄」は越前の出身で、白山を開いたと云われ、白山から福光、小矢部、赤丸、石動山の西山一帯には泰澄伝説が残っている。「泰澄」は「元正天皇」の為に祈祷したとも伝わり、『延喜式神名帳』には
【浅井神社 越中国砺波郡鎮座】
【由緒】養老元年(七一七年)【社殿】本殿流造、幣殿・拝殿」と有る。江戸時代は五位庄五十三村総社「川人権現」・「三社権現」と称していた 。
「富山県西砺波郡紀要」には「往昔、本堂、講堂、護摩堂、神輿堂、等所謂七堂伽藍の構造にて東坊、玉蔵坊、観念坊、寶仙坊、宥坎坊、玄皆坊、寶池坊、の七坊有り。総称して川人山鞍馬寺とせり。社頭に掲ぐる額面は旧加越能三州の太守前田齊恭(加賀藩十三代藩主)の染筆に係る。」と記載され、最盛期には浅井神社48坊として48の寺院が周辺に集積していたと伝わる。
更に「富山県神社誌」では「当初は四十八坊有ったが、南朝の衰退により七坊になり、天正八年社殿寺坊烏有に帰し、七坊も亦四散し、東坊がひとり、焼跡に草社を結び奉仕を続けた。明治維新後、知識引は停止、神仏分離で東坊は復飾、社格制定に際して村社に列せられたが明治十四年郷社に昇格。明治三十二年末社十三社を合祀した。」とも記載されている。赤丸の浅井神社周辺に在ったという寺院(花尾含む)としては、総持寺、極楽寺、西大寺、聖安寺、性宗寺(浄光寺)、長善寺、宗泉寺(明見寺)、長安寺、善宗寺、法筵寺、天景寺、長光寺、西宝院(東坊)、永賢寺、超願寺等が有り、又、加賀藩の富田景周は「三州誌故墟考」で「元正帝養老元年同帝ノ二宮御下向此ニ在城シ川人山鞍馬寺ヲ建立ス 加茂 山王 八幡ノ三社ヲ勸請シ別ニ又毘沙門天ノ一社ヲ安置アリ 今ノ赤丸ノ鞍馬寺即チ其旧地ト云フ」と記載しており、「川人山三社記」では「熊野社を十一面大士とし、八幡、清水、加茂、山王、天王の六社の御勸請」としている。更に加茂社は上加茂社と下加茂社の2社が勧請され、赤丸浅井神社では宗良親王が詠まれ、著作の「李花集」に掲載の「かぞふれば七とせもへぬ頼みこし ななの社のかけをはなれて」の歌は赤丸に親王が滞在された時の歌としている。赤丸浅井神社は当初は小矢部川が赤丸浅井神社の前で庄川と合流していた為、水神の「八河江比賣神」を祭神としたが、空海の思想を受けた「両部神道」が浸透するにつれ熊野信仰が浸透したものとみられる。

◆熊野御前三神殿の神仏は、
・天之御中主神 伊勢 (大日如来)
・高皇産靈神 住吉 (聖観音)
・神皇産靈神  出雲 (阿弥陀如来)
だが、本地垂迹説による熊野十二所権現の神名と仏・菩薩は
(三所権現)
イザナミ命(千手観音)
イザナギ命(薬師如来)
クニトコタチ命(阿弥陀如来)
(五所王子)
アマテラス大神(十一面観音)
アメノオシホミミ命(地蔵菩薩)
ニニギ命(竜樹菩薩)
ヒコホホデミ命(如意輪観音)
ウガヤフキアエズ命(聖観音)
(四所明神)
クニサツチ命(普賢菩薩)①トヨクムヌ命(文殊菩薩)②の何れかが選ばれる。
ウイジニ命(釈迦如来)
オオトノジ命(不動明王)
オモダル命(毘沙門天)
と多くなり、更に白山信仰では、白山三社権現として ・御前峰 本地仏 十一面観音・別山 聖観音・大汝峰 阿弥陀如来 と増える。又、高岡の二上山には瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祀るが、瓊瓊杵は大山祇神(オオヤマツミノカミ)の娘の豊吾田津姫(木花咲耶姫)を娶った神で有り、大山祇も木花咲耶姫も浅井神社に祀られており、二上神は雄神で浅井神は女神という関係で同時期に行基により開基されたものか?
二上射水神社と赤丸浅井神社の双方に毘沙門天を祀る別当寺も在った。現在の赤丸浅井神社にはの神社が合祀されて以下の神々を祀っている。

●浅井神社管理の宮
・愛宕社 赤丸村古谷五四〇二(古村)
祭神 軻愚突智命
・清水社 赤丸村古谷五三六三(古村)
祭神 大巳貴命    清水山鎮座
●浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 向野新村字石名田八一八番
     赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
祭神 天照大御神
・八幡社 赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
祭神 誉田別尊
・熊野社 赤丸村古谷五〇三一(古村)
祭神 伊弉諾命
・天満社 赤丸村子吉三八七三(古村)
祭神 菅原道真
・諏訪社 赤丸村縄田二五一七(川原)
     赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
 祭神 健御名方命
・庚能社 赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
祭神 金山彦命
・庚能社 赤丸村古谷五二七五(古村)
祭神 金山媛命
・日吉社 赤丸村勝負田一四五四(古村)
     赤丸村山王四三九八(古村)
祭神 大山咋命
・富士社 赤丸村山王四五〇六(古村)
 祭神 木花咲夜比売命
・白山社 赤丸村古谷四八三八(古村)
祭神 白山媛命
(※「舞谷村の昔むかし」参照)

■『延喜式内社赤丸浅井神社』に祀られる「八河江比賈神」と共に祭神とする「高皇産霊神」は、皇室八神の中の主要な神であり、大伴氏の氏神でもある。熊野信仰と併せて越中には大伴家持等の大伴氏の所在が確認され、その一族の佐伯氏が立山を開き、今も富山県には大伴氏や佐伯氏が多く残る事から、赤丸浅井神社には国守の大伴氏の神を祀った可能性も有る。「高皇産霊神」は天界から地上に神を下す際に指令を出した神と「日本書紀」に記載されている。尚、赤丸浅井神社の御神体は謎に包まれているが、その昔、赤丸浅井神社の前で小矢部川と庄川が合流し「阿古ケ淵」という淵が有ったが、そこに流れ着いた岩が御神体と云われている。「高皇産霊神」が降神する「依代 ヨリシロ」は「岩」であるとされ、この岩こそが御神体を示すものと考えられていたものか?
伊勢神道の主神である「天照大御神」は皇室を象徴する神として後に赤丸浅井神社に祀られ、神明社は各地の開発地に祀られていたものだ。





🔴 📃 伊勢の「度合神道」に記録される「国造本紀」と越中(※高志国)の古代氏族。⇒皇室、伊勢神宮と高志国の菅笠文化!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「延喜式神名帳」と[度合延経]の「神名帳考証」に見える「延喜式内社赤丸浅井神社」と
「先代旧事本紀」(※1673年、寛文13年/延宝元年、度合延佳 著)の「国造本紀」の記載!



■「延喜式神名帳」記載の「越中」の延喜式内社。


■「神名帳考証」(※度合延経)記載の「延喜式内社赤丸浅井神社」




■江戸時代の学者・神官の「度合延経」は「神名帳考証」の中で滋賀県の琵琶湖周辺に祀られる矢合神社が「八河江比売」を祀っている事から、この「浅井」は琵琶湖周辺に繁栄した近江の浅井氏との関連を仄めかしている。一方、古代姓氏研究の宝賀氏の関係されている古代氏族研究会の発表の中に【・物部宿祢(浅井-近江国浅井郡人、この同族は藤原姓あるいは橘姓と称するもの多く、本姓は物部とみられるが不明点も多い。脇坂-同州浅井郡脇坂庄より起る、武家華族。大野木、三田村、赤尾、田屋、礒谷、今木、山本-近江の浅井一族。奥村-尾張人で赤尾同族。小堀-近江国坂田郡小堀村より起る。川瀬-近江国犬上郡人。なお、浅井家臣の八田、岩橋、岩田、岩坪、脇坂、中島、浅井、木村の諸氏は、祭祀関係からみて同族だった可能性がある)、物部浄志朝臣、中原朝臣(物部宿祢改姓)。】と記載されており、近江浅井氏は物部氏とされている。高岡市の東海老坂には「延喜式内社物部神社」が在り、物部氏族菅家党の末裔の加賀前田家はこの物部神社を金沢に勘請して、氷見の阿尾城に在った神明社と併せて金沢市高岡町に「尾山神社」として祀っている。
又、この記載の物部氏についての記載の中に「岩坪」や「中島」、「赤尾」と言う氏族名が見られる。高岡市の国吉校下には「岩坪」と云う地域が在り、「国吉小史」等でも古くから栄えた集落らしく、岩坪の集落の中に古い「舘跡」とされる場所が今も残されている。又、赤丸村には「赤尾」と言う一族が在り、国吉村には古くからの名家とされる「中島庄官家」が残されている。更に、国吉から石堤、赤丸村にかけては数多くの「中島家」がある。古書には「浅井とは浅井神社在ればなり」と記載されており、延喜式神名帳には「アサイノ アサイジンジャ 」とフリカナが付けられている。と云う事からすると、古代には赤丸清水山の麓の谷間に「浅井一族」が住み、或いは「浅井」と言う地名で在ったと見られる。赤丸浅井城城主中山氏の末裔である性宗寺住職に拠ると、「元々、浅井神社がある浅井谷の入口に木の大きな柱を二本建てて、自然の神を祀ったのが始めで在り、それが後に「鳥居」になった」と説明されている。古い「赤丸浅井神社の鳥居」は二本の柱を支える支え木が付けられており、コレが元々の両部神道の鳥居で在ったと云う。浅井神社は「元正天皇二宮創建」と伝わるが、実際にはそれ以前の古い時代から在った神社であると「浅井神社由緒」は伝えている。

■又、「赤丸浅井城」を居城とした「越中石黒氏」はその系図では【越中石黒氏は元々は藤原氏で在ったがその後、加賀の林氏(藤原氏)と縁組して、更に越中の古代氏族の「利波臣」の名跡を継いだ】事が系図から読み取れる。
「利波臣」は系図からすると「蘇我氏」の家系の「射水臣同族」とされたり、「古事記」では「高志利波臣」の末裔とされたりしてい
伊勢神宮外宮の豊受皇太神宮の神官「度合延佳」の著作「先代旧事本紀」の「国造本紀」では、「射水臣」の祖は「蘇我氏」とされている。
【※伊弥頭国造 イミズノクニツコ⇒志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に宗我同祖の建内足尼の孫の大河音足尼を国造に定める】(※足尼=宿弥)

又、「高志国造 コシノクニツコ」については「屋主田心命の三世孫市入命」を祖とすると云う。「利波臣」は「古事記」では「高志利波臣」の子孫とされているが、「国造本紀」では全く別の氏族を祖とすると云う。
★「彦屋主田心命 ヒコヤヌシタココロノミコト」は「北陸道将軍大彦命の子」・「彦背立大稲輿命の子」。「伊賀臣」、「阿閉間人臣」、「道公」等の祖。
⇒越中で「彦屋主田心命」を祭神とする神社
・道神社 富山県射水市作道1846
・中川熊野神社 富山県高岡市中川本町7-3











■「国造本紀」には「高志深江臣」が記載されている。
現在、大阪市深江の笠縫村に大和国から移り住んだ氏族が在り、この氏族は「天皇祭祀」や伊勢神宮の「式年遷宮」等で使用される「菅の御笠」を縫う事ができる一族で在り、以前は菅の生産も行っていたが、近年は菅の生産は富山県高岡市福岡町一帯でしか生産されず「無形重要文化財」にも指定されており、一帯で生産された「菅」が大阪市の深江に送られてそこで菅笠に縫製して皇室や伊勢神宮に奉納されている。
「高志国」に「高志深江臣」が古代氏族として存在した事から、元々は菅笠は「高志国」から奉納されていたものだろうか?
大阪市東成区深江の「深江稲荷神社」(大阪市 東成区深江南)には、「深江は 笠縫氏の居住地で大和の笠縫邑から移住してきた」と伝えられる。



■元々は「高志国」で在った福井県からは「継体天皇」も輩出している事から、古代から「高志国」と天皇家、伊勢神道には深い繋がりが在ったものだうか?
越中の菅笠は「伊勢国から越中五位庄に移り住んだ大野源作」等が伝えたと言われるが、「菅」は古くから北陸の湖沼や河川敷に自生していた事から、「菅笠」の生産はもっと古い時代から生産されていたものではないだろうか?

▼「大野源作」の子孫の「大野次平」は加賀藩時代に五位庄赤丸村の小矢部川河川敷に移住して「向野新村」を開拓し、その地域は「次平島」と呼ばれ、向野新村に残るその子孫は25代目で在ると言う。

🔴🔷🔸「寛永15年」の刀剣鑑定書に見える越中の「宇多刀工」・「佐伯則重・郷義弘」

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「越中五位庄赤丸村領三日市」に、大和国宇陀郡の古代刀工「天国 アマクニ」を祖とする「宇多刀工」の一つの「宇多国光」が移り住んで、数多くの「宇多刀工団」が繁栄した。



■「越中宇多刀工初代宇多国光の刀剣」










■「宇多刀工」は大和国宇陀郡に「天国アマクニ」を祖とする刀工群の中で「宇多国光」が越中吉岡庄赤丸村領三日市(※後に五位庄)に移り住み、赤丸城ケ平山の麓の「鍛治屋町島」に工房を構えたとされる。
大和国宇陀郡には神武天皇が大和へ入る時に案内したとされる「やたがらす」を祀る「八咫烏神社」が在り、この宇陀郡には「天叢雲剣」を鍛えたとされる伝説の刀工「天国」を祖とする刀工群が栄えたとされる。後醍醐天皇はこの神社を崇敬されて、南朝の必勝祈願をされたとも伝わる。この刀工群から出た「宇多国光」は、越中の後醍醐天皇の庄園「吉岡庄」に 移り住み工房を構えたとされる。 その子孫は越中全体に拡がり、宇多国宗の系統は現在の富山市の「新川郡太田保」に住み数代を重ねたとされる。

又、同じ南北朝時代の越中にはこの他にも刀工「正宗」の門下の「佐伯則重」・「郷義弘」の一門が富山市五福に工房を構えたとされる。「郷義弘」は殆ど銘を刻まなかった為に正真の「郷義弘」は幻の刀とされる。しかし、江戸時代初期には「郷義弘」の存在が確認されていた様で、今回、偶然に入手した4冊の江戸初期の「刀剣鑑定書」には「宇多」と共に「郷」の押型等も記載されている。














■宇多刀工の鎮守社「槌の宮」は五位庄赤丸村から高岡市街地の総持寺前に動いた。(※「富山県神社誌」)