🔻元々、皇室庄園の「赤丸村」に在った「浅井神社48坊」と呼ばれた「総持寺」や「天景寺」等多くの寺院群は、「高岡開町」の時には「高岡市関町」に動いていた。
■高岡市の「瑞龍寺」、「総持寺」、「天景寺」等が記された古地図(※「高岡史料」)
■【赤丸浅井神社前に居を構え、「代々赤丸村肝煎役」を勤めた池田家は加賀藩の「所払いで国吉村に移り、跡は弟の五右衛門」に継がせた】(※「杉野家文書」福岡町歴史民俗資料館所蔵)
あいの風鉄道高岡駅の南側、あの著名な千手観音座像を祀る真言宗「衆徳山総持寺」の隣地に、1645年から20年の歳月をかけて前田利長の菩提寺として建立された「高岡山瑞龍寺」は、元々その地に建っていた天景寺等幾つかの寺院等を移転させ、約36000坪の敷地に建立された。この辺りは赤丸村の国人領主の池田氏の所縁の土地らしく、隣接の総持寺の旧地は池田氏の所領であり、元々瑞龍寺の地に在った「天景寺」も赤丸村の総持寺の旧地から移転した寺である。総持寺の旧地の赤丸観音堂遺跡の山裾一帯は「池田島」という地名で今も残る。又、現在能越道高岡インターチェンジの周辺の池田地区もこの池田氏の開発によるもので、小矢部市の今石動も旧名は池田と呼び、氷見市の池田地区もこの池田氏の所領であったと推定されるという。総持寺の現在の敷地はこの池田氏の所領を寄進して建立されたと伝わる。この池田氏は「源平盛衰記」記載の「木曽義仲」を小矢部市の「埴生護国八幡宮」に案内した「池田次郎」の末裔と見られている。
(※「源平盛衰記」、「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著 参照)
◆池田家には、「中世の武将」が「兜」の中に納めたとされる小指より小さい「坂上田村麿像の兜仏」が仏壇に奉られている。国吉村に在った「東大寺庄園須加庄」は、「坂上田村麿」を征東将軍として東北鎮圧に派遣した【垣武天皇】の姪の「五百井女王」が所有した庄園であり、垣武天皇の甥の早良親王が「藤原種継暗殺事件」で誅殺された後に女王が東大寺華厳院へ寄進された「東大寺庄園」が在った地域。又、それと共に、高岡市関町の「総持寺」に祭られる「国指定重要文化財木造千手観音座像」の【胎内仏】一体も祭られる。この像は、長く総持寺総代を勤めて千手観音像の維持管理に尽くした「故池田市衛門」が総持寺より拝領したものと言われる。(※「鎌倉時代製作と鑑定される20センチ位の僧形の仏像」)
■【治承・寿永の内乱論序説に登場する「池田次郎」】
高岡市関町の「総持寺敷地」を寄進したと伝わる「池田家」は現在も高岡市細池地区に残り、この池田家の開発した池田地区に在った持ち宮は「いばらの宮」と呼び、現在は区画整理により移転したが、この家には神社の石碑と宮跡の写真が遺されている。この旧地を探すと、高岡インター周辺の高岡市東石堤地区にその旧地と見られる森が遺されており、この場所は高岡インター周辺の池田地区の隣接地に在る。
この池田氏は現在の高岡インター周辺の「池田地区」を開発したと伝わり、「浅香年木氏」はこの池田氏が小矢部市今石動、高岡インター周辺、氷見市の池田地区等を広域に開発したと指摘されている。
(※「赤丸浅井神社記録」、「石堤村史」、「寿永の内乱論序説」)
■「東大寺庄園杵名蛭庄図」は「国立歴史民俗博物館の日本庄園データーベース」に拠れば、この庄園の東に「荊原里 ウバラノサト」が在り、庄園図に記載される「速川」がその後「ソフ川」、現在は「祖父川」と変化している。この川の位置からこの「東大寺庄園杵名蛭庄」は小矢部川が赤丸浅井神社前の山裾を流れていた頃の「高田島地区、立野地区」に比定される様だ。「杵名蛭庄図」には「石黒上里・石黒中里」等の記載が見られる。
(※この一部の高田島を所領としたのは石黒一族の高田孫兵衛であったと福光町の郷土史「吉江の昔と今」に記載されている。)
この「池田家の持宮」の「いばらの宮」は現在、高岡市和田地区に在る「延喜式内社荊波神社」と推定され、「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミジンジャ」とフリカナが付けられている。
■この池田氏の所領で在ったと伝わる寺院等の施設を強制移転させて建てられたのが「瑞龍寺」である。この隣接地区は石黒一族の鴨島七郎の所領で現在も「高岡市鴨島町」として地名に残る。赤丸浅井神社の周辺に池田氏が居館を構えていたのは赤丸浅井城が石黒氏の居城であった事からこの池田氏も石黒氏の一族とも推定される。池田氏は蘇我氏、石黒氏と同じく武内宿弥を祖とする紀氏の末裔と言われている事から砺波郡には蘇我一族が広範囲に繁栄していた事が推定される。「赤丸浅井神社の創建」も「文武天皇」の妃の「石川刀自娘」(※イシカワノトジノイラツメ)を母とした「石川朝臣広成」(※イシカワアソンヒロナリ)であったと伝わる事から、この石川氏も蘇我氏であり、この池田氏は文武天皇の皇子で聖武天皇の弟の石川朝臣広成の家臣団であったとも考えられ、現在も赤丸浅井神社の神域には石川一族と赤丸浅井神社神官川人家の墓だけが遺されている。
(赤丸浅井城は古くはこの文武天皇の二位の宮石川朝臣広成が居城とされ、蘇我氏末裔の石黒氏が再建し居城としたと伝わる。→※「続日本紀」・「肯構泉達録」・「赤丸名勝誌」)
■「越中石黒系図」では「武内宿弥」を祖とする「蘇我氏同族」とする系図と、「藤原利仁将軍」を祖とする「藤原氏系図」が在り、元々、石黒庄の管理の為に下向した藤原氏が「利波臣」の後継と成り、「越中石黒氏」が「利波臣」の名跡を継いだともされる。
■高岡市の「瑞龍寺」の立地選定がどのようにこの地に決まったかは文書にも本当の所の記載は見られない。ただ、赤丸村の浅井城中山氏、五位庄領主で柴野城の寺嶋牛介、高岡守山城神保氏張は能登末森城の戦いで佐々成政に従って前田利家と戦った為、前田氏占領の時に「赤丸西円の百姓は高岡市和田の開発に強制移転させられ、寺院も分割移転させられた」とされる。(※「城端別院文書」富山県公立公文書館)
その為に、高岡市の瑞龍寺の敷地選定では、能登末森城の戦いで前田利家と戦った「赤丸浅井城城主中山直治」の拠点の「浅井城」の周辺に居館を構えていた池田氏の所領や池田氏の関係寺院が狙い撃ちされたものと見られる。
(※この池田氏は藩政期に高岡市の四十九村に所払いになり、赤丸村の跡の財産は弟の五右衛門が全て引き継ぎ藩政期には赤丸地区の組合頭を勤めた。→「杉野家文書」高岡市福岡町民俗史料館蔵)
しかも、「元々赤丸村に在った総持寺」(※「総持寺観音像国宝概説」)の山号の「高岡山」は取り上げられて、瑞龍寺は「高岡山瑞龍寺」となり、総持寺は「衆徳山総持寺」と改名させられている。(※「富山県大百科辞典」富山新聞社)
■高岡市関町の瑞龍寺の住職は倶利伽羅不動寺と兼務になり、加賀藩の思いのままに占領政策が行われた様だ。 倶利伽羅不動寺の住職は「能登末森城の戦い」で秘かに前田軍に佐々軍の動静を知らせて前田家に味方したと云う。しかし、この栄華を誇った瑞龍寺も幕末の動乱の中で、「明治3年加賀藩からの寺録を廃止され、同時に前田家からは一切従前の関係を絶ちしとの通告有り。」と史料「高岡山瑞龍寺」(大正二年刊)は伝える。その為「壁破れ、屋根漏るもこれを修繕する能ず、やむを得ず境内の樹木を悉く伐採し、材木を売りその土地も拓き(売却して)凌いだ。」更に「石燈籠、禅堂の石畳、大庫裏の向拜(入口門)迄売却した。」と云う。現在も多くの朽ちた多くの石塔が瑞龍寺境内に散乱している。この状態は明治42年に旧国宝に指定される迄約40年間も続いたと云う。
■「五位庄惣社赤丸浅井神社」の神域に遺る石川一族と赤丸浅井神社神官川人家だけの墓
■高岡市の「瑞龍寺」、「総持寺」、「天景寺」等が記された古地図(※「高岡史料」)
■【赤丸浅井神社前に居を構え、「代々赤丸村肝煎役」を勤めた池田家は加賀藩の「所払いで国吉村に移り、跡は弟の五右衛門」に継がせた】(※「杉野家文書」福岡町歴史民俗資料館所蔵)
あいの風鉄道高岡駅の南側、あの著名な千手観音座像を祀る真言宗「衆徳山総持寺」の隣地に、1645年から20年の歳月をかけて前田利長の菩提寺として建立された「高岡山瑞龍寺」は、元々その地に建っていた天景寺等幾つかの寺院等を移転させ、約36000坪の敷地に建立された。この辺りは赤丸村の国人領主の池田氏の所縁の土地らしく、隣接の総持寺の旧地は池田氏の所領であり、元々瑞龍寺の地に在った「天景寺」も赤丸村の総持寺の旧地から移転した寺である。総持寺の旧地の赤丸観音堂遺跡の山裾一帯は「池田島」という地名で今も残る。又、現在能越道高岡インターチェンジの周辺の池田地区もこの池田氏の開発によるもので、小矢部市の今石動も旧名は池田と呼び、氷見市の池田地区もこの池田氏の所領であったと推定されるという。総持寺の現在の敷地はこの池田氏の所領を寄進して建立されたと伝わる。この池田氏は「源平盛衰記」記載の「木曽義仲」を小矢部市の「埴生護国八幡宮」に案内した「池田次郎」の末裔と見られている。
(※「源平盛衰記」、「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著 参照)
◆池田家には、「中世の武将」が「兜」の中に納めたとされる小指より小さい「坂上田村麿像の兜仏」が仏壇に奉られている。国吉村に在った「東大寺庄園須加庄」は、「坂上田村麿」を征東将軍として東北鎮圧に派遣した【垣武天皇】の姪の「五百井女王」が所有した庄園であり、垣武天皇の甥の早良親王が「藤原種継暗殺事件」で誅殺された後に女王が東大寺華厳院へ寄進された「東大寺庄園」が在った地域。又、それと共に、高岡市関町の「総持寺」に祭られる「国指定重要文化財木造千手観音座像」の【胎内仏】一体も祭られる。この像は、長く総持寺総代を勤めて千手観音像の維持管理に尽くした「故池田市衛門」が総持寺より拝領したものと言われる。(※「鎌倉時代製作と鑑定される20センチ位の僧形の仏像」)
■【治承・寿永の内乱論序説に登場する「池田次郎」】
高岡市関町の「総持寺敷地」を寄進したと伝わる「池田家」は現在も高岡市細池地区に残り、この池田家の開発した池田地区に在った持ち宮は「いばらの宮」と呼び、現在は区画整理により移転したが、この家には神社の石碑と宮跡の写真が遺されている。この旧地を探すと、高岡インター周辺の高岡市東石堤地区にその旧地と見られる森が遺されており、この場所は高岡インター周辺の池田地区の隣接地に在る。
この池田氏は現在の高岡インター周辺の「池田地区」を開発したと伝わり、「浅香年木氏」はこの池田氏が小矢部市今石動、高岡インター周辺、氷見市の池田地区等を広域に開発したと指摘されている。
(※「赤丸浅井神社記録」、「石堤村史」、「寿永の内乱論序説」)
■「東大寺庄園杵名蛭庄図」は「国立歴史民俗博物館の日本庄園データーベース」に拠れば、この庄園の東に「荊原里 ウバラノサト」が在り、庄園図に記載される「速川」がその後「ソフ川」、現在は「祖父川」と変化している。この川の位置からこの「東大寺庄園杵名蛭庄」は小矢部川が赤丸浅井神社前の山裾を流れていた頃の「高田島地区、立野地区」に比定される様だ。「杵名蛭庄図」には「石黒上里・石黒中里」等の記載が見られる。
(※この一部の高田島を所領としたのは石黒一族の高田孫兵衛であったと福光町の郷土史「吉江の昔と今」に記載されている。)
この「池田家の持宮」の「いばらの宮」は現在、高岡市和田地区に在る「延喜式内社荊波神社」と推定され、「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミジンジャ」とフリカナが付けられている。
■この池田氏の所領で在ったと伝わる寺院等の施設を強制移転させて建てられたのが「瑞龍寺」である。この隣接地区は石黒一族の鴨島七郎の所領で現在も「高岡市鴨島町」として地名に残る。赤丸浅井神社の周辺に池田氏が居館を構えていたのは赤丸浅井城が石黒氏の居城であった事からこの池田氏も石黒氏の一族とも推定される。池田氏は蘇我氏、石黒氏と同じく武内宿弥を祖とする紀氏の末裔と言われている事から砺波郡には蘇我一族が広範囲に繁栄していた事が推定される。「赤丸浅井神社の創建」も「文武天皇」の妃の「石川刀自娘」(※イシカワノトジノイラツメ)を母とした「石川朝臣広成」(※イシカワアソンヒロナリ)であったと伝わる事から、この石川氏も蘇我氏であり、この池田氏は文武天皇の皇子で聖武天皇の弟の石川朝臣広成の家臣団であったとも考えられ、現在も赤丸浅井神社の神域には石川一族と赤丸浅井神社神官川人家の墓だけが遺されている。
(赤丸浅井城は古くはこの文武天皇の二位の宮石川朝臣広成が居城とされ、蘇我氏末裔の石黒氏が再建し居城としたと伝わる。→※「続日本紀」・「肯構泉達録」・「赤丸名勝誌」)
■「越中石黒系図」では「武内宿弥」を祖とする「蘇我氏同族」とする系図と、「藤原利仁将軍」を祖とする「藤原氏系図」が在り、元々、石黒庄の管理の為に下向した藤原氏が「利波臣」の後継と成り、「越中石黒氏」が「利波臣」の名跡を継いだともされる。
■高岡市の「瑞龍寺」の立地選定がどのようにこの地に決まったかは文書にも本当の所の記載は見られない。ただ、赤丸村の浅井城中山氏、五位庄領主で柴野城の寺嶋牛介、高岡守山城神保氏張は能登末森城の戦いで佐々成政に従って前田利家と戦った為、前田氏占領の時に「赤丸西円の百姓は高岡市和田の開発に強制移転させられ、寺院も分割移転させられた」とされる。(※「城端別院文書」富山県公立公文書館)
その為に、高岡市の瑞龍寺の敷地選定では、能登末森城の戦いで前田利家と戦った「赤丸浅井城城主中山直治」の拠点の「浅井城」の周辺に居館を構えていた池田氏の所領や池田氏の関係寺院が狙い撃ちされたものと見られる。
(※この池田氏は藩政期に高岡市の四十九村に所払いになり、赤丸村の跡の財産は弟の五右衛門が全て引き継ぎ藩政期には赤丸地区の組合頭を勤めた。→「杉野家文書」高岡市福岡町民俗史料館蔵)
しかも、「元々赤丸村に在った総持寺」(※「総持寺観音像国宝概説」)の山号の「高岡山」は取り上げられて、瑞龍寺は「高岡山瑞龍寺」となり、総持寺は「衆徳山総持寺」と改名させられている。(※「富山県大百科辞典」富山新聞社)
■高岡市関町の瑞龍寺の住職は倶利伽羅不動寺と兼務になり、加賀藩の思いのままに占領政策が行われた様だ。 倶利伽羅不動寺の住職は「能登末森城の戦い」で秘かに前田軍に佐々軍の動静を知らせて前田家に味方したと云う。しかし、この栄華を誇った瑞龍寺も幕末の動乱の中で、「明治3年加賀藩からの寺録を廃止され、同時に前田家からは一切従前の関係を絶ちしとの通告有り。」と史料「高岡山瑞龍寺」(大正二年刊)は伝える。その為「壁破れ、屋根漏るもこれを修繕する能ず、やむを得ず境内の樹木を悉く伐採し、材木を売りその土地も拓き(売却して)凌いだ。」更に「石燈籠、禅堂の石畳、大庫裏の向拜(入口門)迄売却した。」と云う。現在も多くの朽ちた多くの石塔が瑞龍寺境内に散乱している。この状態は明治42年に旧国宝に指定される迄約40年間も続いたと云う。
■「五位庄惣社赤丸浅井神社」の神域に遺る石川一族と赤丸浅井神社神官川人家だけの墓