赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

✋💥💢 【義経記】観光振興に名を借りた、偽造された富山県の「観光地」の「二位の渡し」→狂い始めた富山県・高岡市!!

2021-04-17 | 歴史
🌸『義経記』では、義経一行は【倶利伽羅山⇒松永の五位堂⇒五位庄の二位の渡し(義経打擲事件)⇒如意の渡り⇒六渡寺渡し⇒富山市の岩瀬へ】 と向かっている。『五位庄』は古代の『川人の駅』が在った場所で、昔は『越中吉岡庄』と言う後白河上皇~後醍醐天皇迄の皇室庄園で、その後は足利義満が京都の相国寺(金閣寺)に寄進している。五位庄の赤丸浅井神社は『元正天皇二位の宮』の御創建とされ、醍醐天皇の時に延喜式内社に登録され、その後、白河天皇の時に上賀茂神社の庄園と成り、その後は『保元の乱』で藤原摂関家藤原頼長の庄園から後白河上皇の「後院領」に成った由緒在る場所で、昔は北陸道を通る人達は浅井神社前で下馬し、籠から降りて拝礼してから通ったと云う。




●【文化財創造都市 高岡市】
インターネットの辞書「ユニオン ぺディア」に掲載された【高岡市の如意の渡し】と観光案内・高岡市教育委員会の広報!!
高岡市の佐藤市長の銘版が設置された【如意の渡し】は見事、世界に発信された??
⇒⇒⇒立派に高岡市の観光地が「創作」できました!!











💢 ■高岡市の教育委員会の方達は良く本を読んでいますね???
流石は先生方の本山です。
これが高岡市の教育レベル、『歴史都市』の高岡市です。
高岡市全体が狂っていますね‼
と思ったら、富山県の学習センターは映像で広報ですか?
こうなると何処かの国の洗脳教育ですね‼
教育委員会の生涯学習とはデタラメの事を何も知らない市民に教え込む事ですか?
『義経記』ではこれは『五位庄』での出来事ですよ‼
(※鎌倉時代には後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」で在り、南北朝末期に「五位庄」と改名された。)
高岡市伏木は鎌倉時代は「二上庄」と呼ばれた全く違った場所ですけど?‼ (※「鎌倉遺文」)
こうなると、このデタラメを吹聴した歴史学者や政治家、教育委員会の高学歴の先生方の罪は重いですね!! 全員、辞任して下さい。
富山県全体を恥晒しにしてしまいましたからね。あの有名な歌舞伎や能の『勧進帳』、『安宅』にも泥を塗ってしまいました。パクりと知らない人達がワザワザ遠路、金と時間をかけてやって来られるんですよ‼ 騙されたと知った観光客の報復が恐く無いですかね。何よりも富山県の教育レベルを下げましたね‼
刑事犯罪では無いかも知れませんが、詐欺行為には違いない。その詐欺行為をまさか富山県や高岡市の官庁や政治家が主導していたとすれば富山県の信用失墜は取り返しがつきません。富山市は政治家が市民から預かった政治資金を我が物にして、全国的に大きな信用失墜をして取り返しがつきません。富山県の人間全体がその様な色メガネで見られます。
観光振興はデタラメを吹聴する事では無いでしょう。

【ユニオン ペデイア】(※ユニオンペデイアには画像は掲載されていません。)
【流されているデタラメの解説】
■【如意の渡し】
如意の渡し 義経・弁慶像 如意の渡し(にょいのわたし)は、富山県(越中国)の小矢部川を渡るためにかつて運航されていた渡し船である。左岸の高岡市伏木と右岸の射水市六渡寺(「ろくどじ」中伏木)とを結んでいた。有料の渡し船として伏木海陸運送の子会社の伏木港湾交通が運営した。

■【安宅 】(能)
富山県高岡市伏木にある義経と弁慶の像 『安宅』(あたか)は、『義経記』などに取材した能楽作品である。成立は室町時代。作者不詳。一説に小次郎信光作者説があるが記録に残る最古の上演記録は寛正6年(1465年)で、信光の生年が宝徳2年(1450年)という最近の研究成果によると15歳の作ということになり不自然である。

















■「二位の渡し」・「五位の城」は『越中五位庄』の赤丸村の『延喜式内社五位庄総社赤丸浅井神社』の前に在った『二位の渡し』と「赤丸浅井城」に由来する。赤丸浅井神社の御創建が『元正天皇の二宮』とされ、系図からすると、文武天皇の皇子の聖武天皇の義弟で在る『石川朝臣広成』と云う事に成る。(※「続日本紀」に記載される)







🔻【義経記】は室町時代に書かれたと云われ、室町時代の記録を遺す「畠山家文書」には、【赤丸浅井城】に「守護 畠山持国」の記載が在り、「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当「門跡寺院聖護院派 川人山鞍馬寺の由緒を伝える」【越中川人山鞍馬寺三社記】には「義経記」に記載される「権の守」の記載が在る。鎌倉時代には、赤丸浅井城周辺は「源義経」を支援していた「後白河上皇の庄園」の【越中吉岡庄】と呼ばれ、この庄園は南北朝時代の「後醍醐天皇」迄 伝領して一時期「下鴨神社」の庄園となった後、「室町幕府御粮所」と成り、「足利義満」は室の「日野業子」の死去後、追善供養として自らが創建した「相国寺」の庄園として寄進し、その後も足利家菩提寺「等持院」、「等持寺」の庄園と成り、「足利義満」は管領「畠山満家」に地域の管理を委ねた。その子の「畠山持国」は「越中守護」として、「小矢部川」の「二位の渡し」の眼前にそびえる「赤丸浅井城」の城主として記載されている。「畠山持国」は、父親の「管領畠山満国」の三回忌法要を、元々赤丸村に在った「総持寺」(現在、「高岡市関町」)で、雅楽を伴う盛大な法要として執り行っている。(※名古屋市の大須観音記録)
従って、「義経記」で「守護の館が近ければ・・・」と記載するのは「元正天皇二宮が在城された」(※「肯搆泉達録」)と伝わる古城の「赤丸浅井城」を指している。






















🔴_【越中の古代】  💠🔨 【越中の刀】 古事記の『高志之八俣遠呂知』 退治伝説と「 天叢雲剣・草那藝之大刀」の産地⇒高岡市の悪王・悪王子(大蛇)伝説!

2021-04-16 | 歴史

【五位庄五十三ヶ村総社 延喜式内社赤丸浅井神社】


《※「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神『八河江比売神』は「大河や湖」の神で、大国主命の息子の嫁とされている。この神は越中の大河の「小矢部川」の鎮守として祭られて、「小矢部川」はその緩やかな流れから、「庄川」を「雄神川」と呼ぶのに対して「女神川」と呼び慣わしたと言う。又、もう一柱の「高皇産霊神」は、皇室八神の一柱で在り、この神社が「聖武天皇の弟の石川朝臣広成」の創建と言う由緒を示している。又、この神は越中国司大伴家持や空海の一族の佐伯氏の祖先神でも在り、皇室を守護して、朝廷の「朱雀門」には「大伴門」、「佐伯門」が在った。》



■「古事記」



高志之八俣遠呂智】
「高志之国」とは越前・加賀(能登含む)・越中(高志之中国)・越後を云い、この四國の範囲は「高志之国」と呼ばれた。「和名類聚抄」には「越中」を「コシノミチノナカ」と呼び、「高志之国」の中心に在ったとしている。(※実際は敦賀から山形県の一部迄を含み、近代の範囲とは異なる様だ。)
「古事記」に拠れば、東大寺大仏造営の時に巨額な米五千石の米を寄進した「利波臣志留志」(※「東大寺要録」)は、其の祖先の「日子刺方別命」の子の「高志之利波臣」を先祖としていると云う。
これが富山県の「利波郡」の語源になった。越中西部の神社には「越中石黒氏」の祖先神として「彦刺方別命」を祭る神社が多い。(※「富山県神社誌」富山県神社庁編)






■「古事記」に登場する「大国主神系」の「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神『八河江比売神』



■聖武天皇の要請で東大寺大仏造営の勧進をした「行基」の墓には「高志氏」の表現が有ると云う。

【「大僧正舎利瓶記」和尚法諱法行一号行基藥師寺沙門也俗姓高志氏厥考諱才智字智法君之長子也本出於百濟王子王爾之後】






■「蛇行する小矢部川」








『高志之八俣遠呂知』絵図

■《『高志之八俣遠呂知』(コシノヤマタノオロチ)の伝説と『高志の国』》

天照大神の弟の素戔鳴尊(スサノオノミコト)が高志の国の八俣遠呂知と云う八頭八尾の大蛇の化け物を退治して櫛名田比賣(クシナダヒメ)を救って妻とし、殺した大蛇の尾から取り出した天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)【後に大和武尊命の時に草那藝之大刀(クサナギノタチ)とされる。】を姉の天照大御神に献上した。この大刀が後に天皇の三種の神器の一として天皇の権威の象徴になる。
(※「遠呂知」は近代では「ヘビ」と解釈されているが、古くは長い体の恐ろしいものと理解され、神として恐れられた「龍」もとてつもなく不可思議な力を持ったものとして同じ意味に解釈されていた様で、神の使いの「龍」は中国では皇帝のシンボルとして、日本では「天皇」のシンボルとされた。「龍の爪」には「三指」「四指」「五指」のものが有り、中国の皇帝は「五指」、日本の天皇は「三指」の龍を使用していた。⇒しかし、富山県高岡市の「赤丸浅井神社」の至近距離に在る石堤地区の浄土真宗「長光寺」は「玉持ち五爪の龍紋」を寺紋としており、格式を誇っている。 この寺の開基は『織田「小田」氏知)』と云う武将で、地元では「赤丸浅井神社」を鎮守とした「越中吉岡庄』の地頭をしていたと云う。この小田氏知は関東で勢力を持った氏族で、近くの土屋地区にはやはり関東の名門小山氏の末裔と云う子孫が住んでおり、南北朝の末期に関東から出張った一族の様だ。)

▼日本では「三つ爪」の龍紋しか認められなかった。



▼「石堤長光寺」は中国の皇帝しか認められなかった「五つ爪の龍」が寺紋に成っている。


■出雲の大国主神 オオクニヌシノミコトは素戔鳴尊の子孫で有り、越中の一宮の「高瀬神社」の御祭神はこの「大国主神」である。
(※「大国主神」を大和の神「素戔鳴尊」の子孫とした事は出雲系の「大国主神」を大和朝廷の神と融合させようとした意図が見受けられる。出雲系の高志国を大和朝廷が臣従させて、その家系を大和朝廷の系図に組み込んだと見られる。越中の古い神社である「延喜式内社」は大和系の神と出雲系の神が混在し、元々の出雲系の神々も大和朝廷の神々に取り込んだものと見られる。)
「赤丸浅井神社」の祭神「八河江比売神」は「古事記」に拠ると大国主命の子「鳥鳴海神」の息子に当たる「国忍富神」の嫁(※大国主の孫の妻)に当たる。小矢部川を良く見ると小矢部川は八つの支流に分かれ、その中流に「赤丸浅井神社」が鎮座して「八つの河の江の神」と名付けられた「八河江比売」が祭られた理由がある。この神は延喜式内社の中でも取り分け珍しい神で、高志国が恐らく出雲系の国の時に祀られた神であったと思われる。その後、「日本書紀」の編纂に合わせて新たに大和朝廷の主祭神で大伴氏の氏神とされる「高皇産霊神」と云う神を合祀したものと思われる。
『古事記』では「高御産巣日神」、『日本書紀』では「高皇産霊尊」と書かれている。又、葦原中津国平定・ 天孫降臨の項では「高木神」とされる。 『日本書紀』は天武10年川嶋皇子等12名に命じて編纂されたが、「平安遺文」 に拠ると桓武天皇の姪の「五百位女王」は高岡市国吉名の「須加庄」を保有していたが、桓武天皇の弟の「早良親王」が長岡京の建設責任者の藤原種継暗殺事件に連座して死去された二年後に、この庄園は「東大寺華厳院」に寄進されている。この事件の少し後に「大伴家持」が死去したが、生前にこの事件に関わっていたとされて葬儀も許されなかったと云う。「赤丸浅井神社」は社史に拠ると、「聖武天皇」の弟の「石川朝臣広成」が創建されたと伝えられるが、臣下に降下した「石川広成」は、万葉集の歌に拠ると「大伴家持」と共に恭仁京で内舎人(※天皇に近侍した役職)をしていたらしく、時期的に見て、「大伴家持」の為に国吉名を管轄していた「赤丸浅井神社」に大伴氏の祖先神の「高皇産霊神」を祀った可能性が高い。
(※「富山県立公文書館」に保管される「赤丸浅井神社」の古文書を見ると、浅井神社の神域は高岡市国吉郷24ケ村、小矢部市宮嶋郷2ケ村を含む53ケ村で在ったと記載されている。)

■小矢部川沿いに立地した他の「赤丸浅井神社」、「長岡神社」、「比売神社」、「福田荊波神社」、「二上射水神社」や庄川上流に立地した「雄神神社」、「林神社」、大門町の「櫛田神社」等の「延喜式内社」は、元々、この八頭の龍の頭に相当する小矢部川・庄川の支流に祀られていたと見られる。現在地とは異なる小矢部市の桜谷遺跡からは「長岡神社」の神官名が墨書された「カワラケ」が出土している。これ等の川沿いに立地した東大寺の庄園には「赤丸浅井神社」「櫛田神社」や「雄神神社」等の神田が表示されており、これ等の神社は庄園経営の水利の為の重要な役割を果たしていたと見られる。

■「日本書紀」ではこの八頭の龍の退治は「出雲国」での出来事としているが、「古事記」では「高志国」に住む龍の話しになっている。「古事記」では各地の伝承をそのまま組み込んだ為に、「高志国の龍」が毎年、出雲国に出向き娘を一人づつ拐って行ったと言う壮大な話しになったのだろう。福井県には「九頭龍川」が有り、多頭の龍を思い起こさせるが、「赤丸浅井神社」は明確に「八つの河の江の神」と名付けられた「八河江比売神」を祀っている。しかも、この浅井神社の門前には庄川の支流や谷内川が小矢部川と合流した大きな「悪王ケ淵」(※阿古ケ淵、吾子ケ淵 アコガフチ)と言う合流点が有り、都へ向かう古代道での難所だったと云う。又、古代道の「赤丸浅井神社」の前には「川合駅」(※又は「川人駅」)が在ったとされ、「駅」には「伝馬」や「武器」を備えたと言うから、当然、舟乗場や宿舎、市等が近くに在っただろう。赤丸村の周辺には三日市、四日市、六日市と云う地名が有り、その駅の近くには神社や食料生産の庄園が在った。この舟乗場は浅井神社を創建した「元正天皇二宮※聖武天皇の弟の石川朝臣広成」から名付けられて「二位の渡し」と呼ばれ、ここから下流の「六渡寺村」迄の舟下りルートを「如意の渡り」とか「六渡寺川川下り」(※「福岡町史」図面参照)と呼んでいた。小矢部川と庄川支流が合流して大河となった「赤丸浅井神社前」から小矢部川河口迄を「射水川」又は「六渡寺川」と呼んだと云う。
⇒【朝床に聞けばはるけし射水川 朝こぎしつつ唄う舟人 大伴家持】

(※赤丸浅井神社の前には小矢部川、庄川が合流していた「悪王が淵」と呼ばれた龍神が住むと言う広大な淵が在ったと言う。又、同名の熊本県八代市に在る「浅井神社」は、その縁起に【八代市中心部の代陽小学校そばにある浅井神社は、かつて、妙見神が海を渡ってやって来たときの上陸地のひとつと伝えられ、水先案内を務めた「八大竜王」を祀っています。】として「龍神」を祭神)としており、同名の「浅井神社」には何れにも水神の「龍神伝説」が在る。)


▼「延喜式内社赤丸浅井神社」の前の「二位の渡し」は「義経記」の「五位庄」(※当時は吉岡庄)で弁慶が義経を打擲した時の場面に登場する。「悪王ケ淵」は龍が住む大河の淵とされ、赤丸浅井神社の御神体はこの淵から上がった「岩」と伝承されており、赤丸浅井城城主の中山国松が雄龍を矢で射殺した為に牝龍に殺されたと言う伝説も残っている。この下流の国吉郷や高岡市の二上山にも龍の伝説が残り、蛇行して流れる大河の小矢部川は当時、龍の化身として認識されていたらしい。

「阿光ケ淵、(阿古ケ淵 ) 、(吾子ケ淵)、(悪王ケ淵)」が記載された「赤丸浅井神社絵図」(※石川県立図書館所蔵)


■古代の出雲系高志国は大和朝廷と戦争状態に有り、大和国が出雲系高志の国に攻め込み、圧倒的な戦力に高志の豪族はこれを恐れて国を開け渡したと云う。
この記載には二通りの解釈が有り、【「素戔鳴尊」が高志国に遠征して「八俣遠呂知」を退治した】と理解するか、【遠い北の国から巨大な 「八俣遠呂知」が毎年やってきて、一人ずつ娘を食べてしまいました】と理解するかによって意味は大きく変わる。しかし、「八俣遠呂知」の胎内から出たという事は、八俣遠呂知が高志国でも多くの人を食べていた為に、尾の中に飲み込んだ人の剣が出て来たと解釈するのが自然と見られる。従って、「素戔鳴尊」が高志国に遠征して獲得した「剣」と解釈する方が自然である。
(※「富山古事記 越の大乱」富山県郷土史会発行参照)

▼「延喜式内社赤丸浅井神社」の近くの鍛冶屋町島には、大和国宇陀郡から移り住んだ「宇多派」の「宇多国光」が移り住み、江戸時代迄、続いたと云う。大和国宇陀郡では古代氏族「道臣」か赤丸浅井神社の祭神「高皇産霊神」を祖先神として祀ったと言われ、「宇多派刀工」は「大和国宇陀郡」に工房を構えた日本刀の祖の「天国 アマノクニ」を祖としており、「天国」は皇室の重要刀剣とされる「天叢雲剣」を鍛えたとされる伝説上の刀工で、平家の重宝の刀剣「小烏丸」を鍛えたと言う。(※天皇家へ奉納)







■「越中吉岡庄」の鍛冶屋町島に大和国宇陀郡から移り住んだと言う「宇多派刀工」の祖の「宇多国光」の太刀(※在銘、太刀全長1m、個人蔵)





■「櫛名田比売」は農耕の神で、「八俣遠呂知」は水神、龍神を意味して、「素戔鳴尊」が毎年水害に苦しむ大河をコントロールして水害を防いだ為に高志の国が従った事を意味するのではないか?
又、素戔鳴尊が大蛇を殺した時に持っていた十拳剣(トツカノツルギ)が大蛇の尾に当たった時に十拳剣が欠けて大蛇の尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が取り出されたとする伝承は、当時の 素戔鳴尊の剣は鉄剣で有り、高志の国の剣は「鋼 ハガネ」を用いた強固な剣であった事を意味する。高志の国には当時既に大陸からの高度な技術が伝わっていた事が解る。大和朝廷が高志国を征服した後は、征服した国を懐柔するために、高志の国には各地に出雲系統の神が祀られた。これが、現在も富山県の越中一宮「高瀬神社」等に出雲の大国主神の系統の神々が多く祀られている理由だろう。

■富山県井波町の「高瀬神社誌」には、【在昔、大己貴命(大国主命)北陸御経営ノ時、己命ノ守リ神ヲ此処に祀リ置キ給ヒテ、ヤガテ此ノ地方ヲ平治シ給ヒ、國成リ竟ヘテ、最後ニ自ラノ御魂ヲモ鎮メ置キ給ヒテ、國魂神トナシ、出雲ヘ帰リ給ヒシト云フ】と記載されている。又、【そもそも北陸諸国の沿岸は大己貴命の経営し給へる古地方なれば大神並びに御子の神を祀る神社至る所に多く、延喜式に載せられしもの、本社の他に、加賀國江沼郡「気多御子」、加賀國加賀郡「三輪」、能登國羽咋郡「気多」、能登國羽咋郡「大穴持像石」、能登國射水郡「気多」、越後國頸城郡「居多」、越後國頸城郡「大神」等の数社を計ふ。就中、能登國なる気多神社は最も肝要の地点に在りてその由緒最も重く同神諸社中の第一に位してその本宗と崇められる。】と記している。又、「高瀬神社」には併せて「天活玉命」、「五十猛命」を配祀して三座が鎮座されているが、この「天活玉命」は「高皇産霊神」の御子であり天孫降臨の際に天孫に仕え従った神としている。「赤丸浅井神社」の主神はこの「高皇産霊神」で有り、神々を地上に遣わされた最高神とされる。「赤丸浅井神社」にはこの「高瀬神社」と同じ系統の「高皇産霊神」と「大国主命」の孫の妻の「八河江比売」を祀っており、能登國気多神社と同じく「大国主命」系統の神社である事が判る。又、高志国は「大国主命」が治めたとされ、後に出雲に帰られたとしている点は、当初は大国主命の影響下に在ったが、後に大和朝廷に「国譲り」をした事を記している。






■高岡市福岡町赤丸村の「城ケ平古墳群・加茂古墳群」から大量の刀剣が発掘されており、その至近距離の小矢部川沿いに在る赤丸村領三日市に著名な「宇多刀工」が栄えたと云う。赤丸浅井神社の祭神の「八河江(枝)比売神」も大国主神系統の水神である。この伝承に拠ると、天皇の三種の神器の一つの「天叢雲剣」は「高志の国で造られた剣」という事になる。鎌倉・南北朝の頃に大和国宇陀郡から「越中吉岡庄(赤丸村領)三日市」に移り住んだと云う「宇多刀工」の祖は「天叢雲剣」を鍛えたとされる伝説上の「天国 アマクニ」とも言われ、その子孫の宇多刀工が越中で再び作刀していたと云う事は、大和国宇陀郡と越中吉岡庄の古くからの何等かの繋がりを感じさせる。

▼「宇多刀工」は「吉岡庄」の赤丸城ケ平山の麓の「鍛冶屋町島」に工房を構えたとされる。
この隣接には京都下鴨神社を勘請した「加茂社」が在った。



▼後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄三日市」には大和国宇陀郡から「宇多刀工の祖」の「宇多国光」が移り住んだ。(※一説に、後醍醐天皇の父の後宇多上皇の時代ともされる。)その子孫や弟子は南北朝から室町時代にかけて越中で繁栄して多くの日本刀を現在に残している。大和国宇陀郡には神武天皇所縁の「八咫烏神社 ヤタガラス」が在り、後醍醐天皇はこの神社を崇敬された。又、後醍醐天皇皇子の宗良親王と共に南朝軍として戦った北畠親房は伊勢国司の家系で在り、大和国宇陀郡の国人領主達は北畠親房の臣下であったと云う。「宗良親王」は「吉岡庄」の「浅井城」に入城されて「鍛冶屋町島」の近くの「城ケ平山」の「親王屋敷」に入られたと云う。(※現在も「親王屋敷跡」と伝承される場所が残る。)
(※北畠親房;「神皇正統記」、「職原抄」等を著した南朝の忠臣とされる。)

■「神武天皇」は賀茂氏が変身したヤタガラスに導かれて大和国宇陀郡に入られた。













■元々、高志国は朝廷に従わない「蝦夷の国」だったが、大和の政権に占領され、後に大和政権の大伴・佐伯氏の軍隊が攻略してその捕虜は佐伯氏の軍隊に組み入れて「佐伯部 サエキベ」とされた。赤丸村の赤丸浅井神社の周辺に「谷内 ヤチ」「寺谷内 テラナチ」と呼ばれた谷が在る。これ等の言葉は「アイヌ語」に共通すると云う。大伴氏、佐伯氏は同族で「大和朝廷」の軍事を担当して高志に駐留した。この時代には高志国は東北の蝦夷対策の最前線だったらしい。小矢部市や高岡市には前方後円墳が有り、小杉町には方墳や前方後方墳と言う前と後に四角の墳墓が繋がる特殊な墓が有る。古代の古墳は氷見市から小矢部市の西山沿いに横穴古墳が圧倒的に多い。これ等の古墳からは多くの鉄剣・刀が発掘されているが、赤丸城ケ平古墳群からは神武天皇像に描かれる「頭椎の太刀」が発掘されており、東京国立博物館で展示されていると博物館から聞いている。又、小矢部市博物館には古代の軍人が着たた「首甲、肩甲」等と呼ばれる鉄製の鎧の現物が陳列されている。この鎧は、「源平盛衰記」で有名な「埴生護国八幡宮」の周辺の古墳から発掘されたもので、古代の鎧一式(一部は写真のみ)の現物が陳列されている事を知る人達が少ないのは残念な事。これ等は大和朝廷前期の武器、刀剣とされている。「古事記」では「稗田阿礼」が暗誦した物語を書き記したとされ、其の後編纂された「日本書紀」は内容をほぽ同じとして、ヤマタノオロチ退治の物語は、高志国を舞台にした「古事記」から出雲を舞台にした物語に変更された。これは、当初は高志国が大和にとっては脅威だったが、比較的簡単に高志国が降参して臣従した為に、「日本書紀」では敢えて高志国の脅威を唱える必要が無くなった為だと思われる。何れにしても、高志国には海の向こうの百済や渤海国との交流が盛んで、大陸の文化が先んじて導入され、高志国には先に微量な元素を混入した「鋼鉄剣」が使用されていたと見られる。 龍の尾から出た「天叢雲剣」はこの鋼鉄剣で有り、大和の「十拳剣 」は精度の悪い鉄剣であった為に、簡単に折れてしまった事を示している。刀を作る「和鉄」は「たたら」と呼ばれる砂鉄の製錬施設で作られるが、平安・鎌倉以降、南北朝、室町時代の古刀は純度の高い「玉鋼」だけで作られていたと言われ、「たたら」から出た鉄の十分の一しか和鉄にならないが、その中でも2~3分の1位しか最上級のものができないと言われる。新潟県、富山県、石川県、 福井県には鉄や鉛等の多様な金属を産出し、富山県では赤丸村領三日市に「宇多刀工」、富山市には「郷義弘」や「佐伯則重」等の一級の刀工が長期にわたって工房を設け、多数の名刀を産んだのは、この周辺の川から砂鉄やマンガン、亜鉛、銅等の多様な金属を産出したからに他ならない。又、刀を一振り作るにはくぬぎ等を焼いた和炭が2~30俵も必要であり、一回の「たたら作業」では約一町歩の山林の炭が必要で在ったと云うから、製錬に使用する炭だけでも膨大な量が必要であった。幸いにも越中は周辺を深い山並みに囲まれており、森林資源が豊富で在った事も多数の刀工が工房を構えた理由だろう。
しかも、高志国には金や姫川渓谷の翡翠・蛇紋岩等を産出し、陶器も各所で焼かれていた。富山県の古代の陶器は遠く長野県にも運ばれていたと云い、陸路や海路の物産の流通路が在った事も大きい。 (※「喚起泉逹録」参照)

■【古代豪族の名前を正確に読むと「古事記」では越中石黒氏の先祖とされる「高志利波臣」が登場し、又、越中の各所に寺社を創建したと伝わる「行基」は、その墓標に「先祖は高志氏」と記載されている。古代越中国には百済系の「高志氏」が繁栄した為に、大和朝廷にとっては高志国は脅威であったのかも知れない。それが「高志国の八頭八尾の龍」の伝説となったのかと思われる。⇒「利波臣」が東大寺大仏造営の行基の勧進に積極的に協力して率先して米五千石(現在の金額にして35000万円位とか?)を寄進したのは、同じ「高志氏」として行基に協力したものかも知れない。】

※厳密には、「剣」は両刃のもので「突き」「切る」の両機能を強化したもので、「刀」は片刃のもので軽くて「切る」機能が強化されている。古来、鉄剣では「天叢雲剣」と呼ばれたり、「 草那芸之大刀 」等と呼ばれたりして、「剣」と「太刀」が同じ意味で使用されているケースも有る。しかし、銅製品では鋭利性が弱い為に「銅剣、銅鉾」は打撃効果も考えて、「剣」の形の両刃のもので在った。










■「高岡市近郊の古代からの伝承と信仰」
富山県西部の石川県との境界域に横たわる西山丘陵には古く神々の時代からの伝承が残されている。古く石動山の神の「石動彦」と富山市呉羽の「姉倉姫」は夫婦だったが、「石動彦」が能登の女神と浮気をして、神々の争乱が起こり、大國主命が仲裁に入り、「姉倉姫」を分けて富山市呉羽に住まわせたと云う。「姉倉姫」は「呉羽織姫」とも呼ばれ、織り物の神で、その名前から「呉羽」の地名がついた。この神社は「姉倉神社」と呼ばれて呉羽駅前の小高い丘「あねくら桜台」と云う団地の隣接地にこの地域の鎮守として古くから鎮座している。この周辺は「呉羽織姫」に因んで「呉羽紡績」が立地していたが、現在は「桐朋音楽大学大学院」「呉羽高校」や富山市の施設が立地し、閑静な文化圏に変貌している。(✳「喚起泉達録」野崎伝助著 参照)

■「赤丸浅井神社」と「熊野三山」の信仰。⇒古代から富山県は蝦夷対策の全線基地として豊富な食物を生産し、防衛面でも食糧供給の面でも朝廷にとっては重要な地域であった。
富山県境は能登からの進攻を防ぐ為の自然の要害で、多くの山城が築かれ、石動山を領した後白河上皇(熊野三山検校兼務の三井寺で出家)の影響から山脈一帯に天平寺等の真言宗寺院・山岳修験道の寺社が林立していたと云う。今も「三千坊山」と呼ばれる山にはかって三百以上の寺院が立地し、多くの僧兵を抱えていた為、南北朝期や上杉謙信の進攻等の時に数回に亘り全山の僧が虐殺された歴史を持つ。その時には全山の谷川が「血の川」になったと伝承されている。同じ山並の赤丸浅井神社周辺にも修験道聖護院派(本山派天台宗)「川人山鞍馬寺」の塔頭寺院として「浅井神社48坊」が在ったとされるが、この寺院群も上杉謙信の進攻の時に全山焼き尽くされたと云う。この様な背景から、古くからこの地域には神々への信仰と山岳修験道の影響が混然として残り、多くの伝承・説話を残している。又、聖護院は「熊野三山検校職」も兼ね、近くの聖護院の森には「熊野社」を祀っていた。三井寺で出家された後白河上皇は三十三回も熊野詣でを重ね、歴代の天皇も熊野詣でを重ねられた。聖護院は熊野三山の取締として、又、天皇の祈願所として権力を持っていた。後白河上皇の庄園となった「越中吉岡庄」の鎮守社の「赤丸浅井神社」の背後にも「熊野社」が祀られて、今は高岡市街地に移った「総持寺」の持ち宮だったと云う。現在もこの跡地は植林をして保存されている。
(※「越中吉岡庄」は南北朝の後醍醐天皇迄伝領したと伝わる。)
この「熊野社」は現在、「赤丸浅井神社」に合祀されており、後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王も「熊野社」を篤く崇敬されて、赤丸村極楽谷で親王が開基になられたと云う「越中宮極楽寺」の奥には「熊野社」の厨子が祀られている。「極楽寺由緒」では高岡市の「曳山祭り」に使用されている「二番町の山」はこの極楽寺に伝わった親王の「御座車」の「與車 ヨシャ」を改造したもので、その為に二番町の車だけが二輪車で、車には「熊野社」の鳥居に二羽の「ヤタガラス」が止まった特殊な形をしている。高岡市ではこの車は、後陽成天皇が聚楽第に行幸された時の「與車」を豊臣家から拝領し、利長が高岡市民に与えたものと伝わるが、この曳山の形態からも「熊野三山検校聖護院」の信仰形態を表現しているとする意見が正解と思われる。往時、「赤丸浅井神社」前の街道を通過する者は下馬し、或いは下車して、武士も庶民も笠を取り、拝礼してから通過したと伝わる程、朝廷と歴史的に関係の深い格式の高い神社で在ったと伝わる。

◎赤丸浅井神社に伝わる悪王・水神伝説!⇒「高志国の神道」
赤丸浅井神社の御神体は昔、浅井神社の前で小矢部川と庄川が合流して巨大な水郷を形成しており、そこは悪王(龍神)が住むと恐れられ、「悪王ケ淵」(阿古ヶ淵)と呼ばれていた。地元の漁師がこの淵で漁をしていると御神体が網にかかったと云う。この御神体は今も浅井神社の奥の院に祀られている。御神体は神官も目にしてはならないとされ、誰も目にした者はいない。浅井神社の御祭神は出雲系統の水神の「八河江比売神」と大和系統の最高神の「高皇産霊神」だが、「古事記」では「高皇産霊神」は「磐根」(地の底に在る岩━祝詞では「底つ磐根」と奏上される)に降神する神である事からこの御神体は、伝承では自然界の「貴石」だろうと言われている。この辺りに延喜式にも登場する「川合の駅」が在ったが、何時の頃からか「川人の駅」とも呼ばれた。「川人」とは但馬国に住む川の漁師の「川人部」という「部の民」だが、これは浅井神社の御神体出現の由緒に絡むものと見られる。この水郷には川魚漁師が多く住み、朝廷に川の産物を納めていたものかも知れない。古代には越中から鯉、鮒等の川魚を税として納めた記録がある。赤丸村の地に勧請された「鞍馬寺」の山号は「川人山」となり、近郷の信仰を集めていた。赤丸浅井神社の神官も明治の廃仏毀釈で還俗して「川人他治馬」と名乗っており、学者の中には、この場所が小矢部川、庄川、谷内川等が山裾で合流して古代道を分断していた為、「川人」は渡河地点の「川渡」から転化したものと主張される方もある。この対岸には現在も「渡り」と呼ぶ集落が在る。「悪王ケ淵」の周辺に住んだ一族は「阿古下」と名乗り、今も福岡町赤丸の鞍馬寺(アンバイジ)集落に数軒が残っている。「悪王」は水辺に住む龍神・大蛇を指し、赤丸浅井城城主の中山国松が山中で雄の大蛇を弓矢で射殺した為、妻の怨みで呪い殺されたと云う国吉村信光寺の「龍梅伝説」等も含め、数々の伝承が残されている。源平の戦場「倶利伽羅山」に「剣に龍神が巻き付いた倶利伽羅不動尊」が祀られているのも降雨・止雨の「龍神信仰」に因るものである。
(※「阿古ケ淵」の真実は、「吾子ケ淵」と思われる。赤丸浅井神社は元正天皇の二宮の『石川朝臣広成』が創建されたと伝わる。『石川朝臣広成』の母は文武天皇の「妃」の「石川刀自郎女 イシカワノトジノイラツメ」だが、藤原不比等は自分の孫の「首皇子 オビトオウジ=後に聖武天皇」を即位させる為に石川刀自郎女と紀竃郎女の二人の妃を不貞?を理由に皇室から追放し、その子広成も臣籍に降下された。続日本紀には「妃と名乗らざらしむ」と記載されており、これは「貶黜事件」とされ歴史上も藤原不比等の横暴の例えによく挙げられる。しかし、「元正天皇」は養老継嗣令第一条で「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王と為せ(女帝の子も亦同じ)」と令して『石川朝臣広成』を親王としている。元正天皇(女帝)は文武天皇の妹、元明天皇(女帝)の娘で、皇統譜上では正室の居なかった文武天皇の正室と擬せられて聖武天皇、石川朝臣広成の母親と擬せられていた。聖武天皇の即位の詔で元正天皇は「食国天下の業(オスクニアメノシタノワザ)を[吾が子みまし王※「首皇子」]に授け賜ひ譲り賜う」と述べて[我子]とも告げている。実際には「吾子ケ淵」とはこの『石川朝臣広成所縁の淵』を意味している。因みに赤丸浅井神社の神域には歴代神官の墓と旧家の石川一族の墓だけが遺され、神社の隣接地には元の七軒百姓と云われた豪農石川家の屋敷が今も残る。)

■赤丸浅井神社三社権現の本宮の主祭神は出雲大社の大国主命の系統の水の神である「八河江比売神」、皇室の主要な神である天地創造の神「高皇産霊神」であり、舞谷村には脇神の応神天皇を祀る「八幡社」、石堤村には引き水の表現である「罔象女命 ミズハノメノミコト」が祀られている。「罔象女命」は古事記には弥都波能売神と書かれており、伊邪那美命が火の神迦具土命を生まれた時、陰所を焼き苦しみ給うた時に尿より化生した神と云う。「みずは」とは走り水の意で耕地の灌漑に使う引き水の表現であり、日本書紀には水神と記されており水を司る神である。「八河江比売神」は琵琶湖周辺にも祀られる大きな水辺を守る神であり、地主神の石堤浅井神社の御祭神は「罔象女命」という灌漑の神で有る。「八河江比売神」は広大な水辺を象徴し、古代に小矢部川と庄川が赤丸浅井神社下で合流していた時に、荒れ狂う巨大な河川を鎮める意味で祀られた神である。石堤の地主神はその支流の灌漑の為の引き水を象徴する神であり、農耕用の灌漑の神である。中心的な神格の「八河江比売神」に対して「罔象女命」はその川から田圃に水を引く灌漑用の水路や、生活用水などの水の精霊が神格化されたという事になる。

■加賀藩と聖護院山伏、吉田神道⇒古代神道からの変異。
「川人大明神」の「明神位」は、「延喜式内社赤丸浅井神社」の末社「石堤浅井神社」等の京都吉田神社系の神社に付けられたもので、「赤丸浅井神社」は門跡寺院・本山派修験道「聖護院」の末社で有り、正式には「川人山鞍馬寺」と呼ぶのが正しい。「聖護院」は現在は独立した本山だが、かつては天台宗に属した。「五位庄」の前身の「越中吉岡庄」の領主の「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」が宮門跡として入寺して以来、 代々天皇の皇子の「法親王」が入寺する「門跡寺院」として高い格式を誇った。明治迄の全37代を数える門主の内、皇室から25代、藤原摂家から12代の門跡を迎えている。
⇒「川人大明神」と呼ぶのは徳川幕府系や吉田神道系の学者で有る。
「吉田神道」は「唯一神道」を目指したから寺院にも「神」の名前を付けたもので、「川人山鞍馬寺」の名声や信者等の全体を簒奪する意図で付けられたもので、当時は両部神道の古い宗教の高野山真言宗や比叡山天台宗がそれ迄祀ってきた寺院附属の神社を独立させて吉田神社の影響下に置こうとした企みから起こった混乱であって、徳川幕府は豊臣系の聖護院派を圧迫する為に吉田神道を利用して、全国二万近くの天台宗系聖護院派寺院に圧力を掛けさせたと云う。(※聖護院記録)しかし、前田利家は飽くまでも「豊臣恩顧」の思想を底流に持ち、表面的には徳川を気遣い、吉田神道に迎合しつつも、一方では天皇家所縁の門跡寺院聖護院派「赤丸浅井神社」の「額」を藩主自らが記毫したり、何と、加賀藩主保養所の板橋「江戸下屋敷」にも「赤丸浅井神社」の背後の山を模して「赤丸山」と云う名前の山を築いていた事が加賀藩下屋敷図面の調査で判明した。又、「赤丸山」の近くのこの下屋敷の「大岩」と呼ぶ築山には富山県上市町の真言宗「大岩山」の「大岩不動尊」の写しを祀って、密かに真言宗寺院との接触や信仰を重ねていた様だ。)
又、前田利家は稲荷神社を信仰して、藩内に「稲荷社」を設けた。事情を知らない学者はこれは京都の「伏見稲荷」を信仰したからだとする。しかし、名古屋近郊の豊川には有名な「豊川稲荷」が有り、近郷の人達の信仰が篤い。初詣には名古屋近郊から相当の人達が参詣し、地元に根付いた信仰になっている。事情の分からない北陸の学者は地理を知らない為にこの様な前田利家の故郷の名古屋近郊に根付いた信仰が分からないのだろう❗ 又、高岡市内には前田利家の信仰だろうか、熊野神社を勘請したと言う「関野神社」がある。この神社は吉田神道系の神社で有り、本来の前田家の氏神は前田家が金沢に祀った「尾山神社」であり、この神社は高岡市の守山城近くから金沢に移した「物部神社」で有る。「前田氏の系図」を調べるとその先祖は相撲の神の「野見宿弥」や埴輪を作り始めた「土師氏」等を先祖に持つ「物部氏」の系統に属する。それに対して「吉田神道」は「大鏡」に拠ると、中臣氏の氏神の「鹿島神宮」、「春日大社」の系統を「京都吉田神社」に勘請したものと有り、本来は文武天皇により「藤原姓を名乗ってはならない。」と勅令が出た一族の「中臣氏」の氏神を奉じる神社で在ったと云う。「文武天皇二年八月丙午条」に【詔して曰はく「藤原朝臣賜りし姓は、その子不比等をして承けしむべし。但し意美麻呂らは、神事に供 ツカエマツ れるに縁りて、旧の姓に復すべし」とのたまふ。】と有る。「大鏡」には、「藤原不比等」は実は天智天皇が妊娠した女を中臣鎌足に与えた時に腹にいた子であったと書かれている。従って、藤原氏を名乗れるのは天皇の血を継ぐ不比等の子孫に限定したのだ。しかも、藤原鎌足の子孫の中臣氏は「藤原」を名乗れず、祭祀だけを担当せよと勅令を下しているのだ。
文武天皇の母で、聖武天皇の幼少期に親代わりとなった元明天皇も天智天皇の娘で有り、早逝した我が子文武天皇の意思を継ぎ、聖武天皇の幼少期に「首皇子 オビトオウジ」を次期天皇とする為に、元明と首皇子の祖父の不比等(※どちらも天智天皇の子)は増長する中臣氏を「神社祭祀」を司るだけの一族として追いやった事がこの勅令から解る。
しかし、中臣氏の祭祀を司る筈の吉田神道は本来、神道を統轄した「神祇官白川家」を差し置いて「神祇官代」を名乗り、全国の神社の祭祀を司る者を任命して「唯一神道」を標榜して影響力を拡大したと伝わる。
(※⇒現在、「赤丸浅井神社」の祭祀を司る佐伯神官は「白川神道」を受け継ぐ正統な神官家と云う。)こうして見て来ると、前田家は爪を隠して、徳川家の間者の吉田神道や徳川から前田家に派遣されていた家老等の目眩ましに苦心していた跡が窺える。

■「赤丸浅井神社」を中心として栄えた「五位庄」の前身の皇室庄園「越中吉岡荘」は、「赤丸浅井神社」の祭神の「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」が皇室の主要な神、大伴氏の氏神であった事からも、古くから皇室との繋がりが強く、上加茂社、藤原摂関家、皇室後院領(後白河上皇、後鳥羽上皇~後醍醐天皇)、蓮華王院(三十三間堂)、下加茂社、室町幕府(相国寺、等持院、等持寺)等の皇室、幕府の庄園として様々に伝領されている。その為、「赤丸浅井神社」の拝殿には各所に天皇家の「十六菊紋」が彫り込まれている。

 
■民話【悪王子伝説】
◎赤丸浅井神社の眼前に広がる高岡市の「二上山の藤原秀郷伝説」。
(✳「赤丸浅井神社の悪王伝説と二上山の悪王子伝説」では小矢部川上流の浅井神社の伝承が影響しているものと考えられる。或いは、蛇行して暴れ廻る小矢部川を龍神に見立て、その鎮撫を願ったものだろうか?古くは小矢部川と庄川の2つの大河が何ヵ所も途中で合流して富山県西部一帯が網の目状の支流で繋がって大きな水郷を形成しており、水害の度に河川の位置が変わる暴れ川であった事が古記録から窺える。正に「八俣の大蛇」が暴れ廻る様な状況だった様だ。)

●【昔々、越中の「二上山」に強い力を持つ神様が住んでおり、天候を操作して越中の人々に豊かな穀物を与えていました。が、その代わりとして月に5人、一年間にして60人もの若い娘を人身御供に要求していました。 地元の人々は嘆き悲しみその悲しみの声は帝(みかど)の耳にも達しました。帝は ついに俵藤太(藤原秀郷。田原に住む藤原氏の頭の意。)に勅命を下し、この邪悪な神の討伐を命じました。秀郷は琵琶湖の龍神を助けて三上山の大百足を退治し、平将門を鎮圧した猛将として有名でした。秀郷が越中の二上山の近く迄来ると一軒の家から泣き声が聞こえて来たので、その家を覗いた所、お爺さんとお婆さんが一人の娘と泣いています。事情を聞くと、夕べこの家の屋根に「二上の神」から「娘を差し出せ」という合図の白羽の矢が立ったと泣きながら話します。秀郷は事情を聞くとその娘の打掛けを頭から被り秀郷が身代わりになると云う。秀郷を乗せた輿は「荻布村」に着き、「俎板橋(まないたばし)」という橋に置かれました。輿を残して運ん村人達は一目散に逃げ去りました。二上山に夕陽が落ちて暗くなると突然、一陣の風が吹きつけて秀郷の乗る輿は空高く舞い上げられて「二上山」の山頂に運ばれて行きました。 真暗な闇の中で秀郷は刀や弓を持ち、じっと気配を伺っていると、少し風が吹いて、地面が揺れ初め、地鳴りと共に大きな光り輝く二つの目がゆっくりと近づいて来ます。秀郷は素早く自慢の弓を満月に引き絞ると次々に矢を放ちますがいくら射っても矢は化物に跳ね返されます。最後の一本になって願いを込めて渾身の力で矢を放つと、確かに手応えが有りました。次いで腰の刀を引き抜いて斬りかかり、渾身の力で斬って斬って斬り捲ります。どれ程の時間が過ぎたものか東の「立山」からの朝の光が殺された「二上の神」を照らし出します。するとその化物は二上山を「七巻き半」も巻き込む位の「大蛇」の姿でした。その後、「二上の神」は「悪王子社」として「前の御前」に祀られ、俵藤太は「奥の御前」に祀られました。しかし、この伝説は今も射水神社の「築山行事」に受け継がれ、「築山」を日暮れ前に壊さないと「悪王子」が取り憑き、大暴れしてその年は米が不作になるとされています。】(※二上山の伝説より)

📚📙📃 「臨済宗別格本山妙興報恩禅寺」の教え⇒『莫妄想 マクモウソウ』(妄りに妄想して苦しむ事は無い)!!

2021-02-14 | 歴史
●臨済宗別格本山「妙興報恩禅寺」の教え!!
(愛知県一宮市)



■通称「妙興寺」は愛知県でも屈指の古刹で、室町時代の将軍足利義教は深く帰依して妙興寺に庄園も寄進した。寺宝として「足利義教肖像画」が在る。又、1億円をかけたと云われる本堂の襖絵は有名だ。「妙興寺」は剣聖「上泉伊勢守」が修行した寺としても有名で、人質を取って閉じ籠った強盗を素手で捕らえた時に編み出されたのが、「無刀取り」と言う秘技で、後に柳生に伝えられて「柳生真影流無刀取り」として柳生流の極意とされた。
又、この寺には「妙興寺蕎麦」が伝えられて、現在の細切りの蕎麦のルーツと云われる。昔は蕎麦は「蕎麦がき」と言う団子状に練って食べていたが、この寺の僧が接客の為に編み出したのが現在の「ソバ」のルーツと云われ、嘗ては妙興寺から特許を貰った者だけが、商売として許されたと云う。「妙興寺」は修行僧を抱える禅寺で、寺院は全て文化財と成っており、主に中部地方や長野の臨済宗寺院の後継者を育てる寺でもある。長野県には末寺が多く、信州ソバのルーツとも云われる。

■この寺の管長は稲垣老師と言う。最高位の高僧で在り、存在だけで周囲が畏怖する程の気迫が在る。嘗て、この寺を修復した時に老師は事在る度に心構えを説かれた。「莫妄想」は妄りに妄想して現実を忘れる事の戒めの言葉だが、人間の心配は「在りもしない事を妄想して本質を忘れる」為に起こる。人間は実際には起こり得ない事をアレコレ想像して悩んでいる。足元を見詰めて、真実を見極めれば、悩み事は消える。座禅をしなくても静かにこころを落ち着かせて考えれば、今迄の悩み事は吹き飛んでしまう。
又、ある時に老師の居室に招かれて御茶を一服頂く事が在った。私は浄土真宗門徒だが、臨済宗とは何処が違うのかと思っていたが、老師はそれを察したのか古い時代の茶碗を出して来られた。一服戴いてから、御茶碗を拝見した所、何とそこには「老僧が尻を出している絵」が書かれている。驚いて老師に訊ねると、老師はニコニコ笑いながら「これが仏教の真髄だ」と云われる。そこに描かれている老僧は臨済宗の戦国時代の高僧とかで、何とその絵は「老僧が仏像を火に投げ入れて民衆の前で尻をあぶっている絵」だと云う。民衆は驚いて老僧の行いを咎めたが、老僧は平然として民衆に説いたと云う。「仏像は木から彫り出されたもので、それに祈る事が信仰だと思うのは誤りだ。仏教の真髄は、それよりももっと深い信仰する心に在る。姿在るものを敬うのではなくて、仏教の教える所を悟る修行が信仰に繋がる。だから、私は形だけの仏像はおしりを温めるだけのものでしか無いから仏像を燃やしているのだ。」と説明したと云う。従って、信仰の形は異なっても「信仰する心」が有れば宗派にこだわる事は全く無いと言うのだ。元々の教義は「釈迦の教え」に在り、その真髄を知ればその信仰の形が様々に異なっても全く問題は無いのだと云われる。

その時に、仕事上で様々な宗派の施設を手掛けると、その宗派の事を余りに知らない為に何時も恐縮してしまっていたが、何も違いは無いのだと気づかされた。又、空海や最澄の昔から日本では、御寺の中に神社を祀って信仰する習慣が在り、其れが嘗ては「両部神道」や東大寺等の天皇家所縁の寺院の信仰の形で在った。
其れが、明治維新の吉田神道が暗躍した廃仏毀釈運動で徹底的に破壊され、寺院が壊され、売られ、仏像は野に打ち捨てられた。
この時に歪められた日本の信仰形態は、余りにその被害が大きかった為になかなか復活されず、その為に、日本の長い歴史の実態も闇に消されつつある。