赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📃 加賀藩の歴史家「富田景周」と「森田柿園」の歴史認識の誤り⇒高岡市の「如意の渡し像の偽造」!!

2020-09-02 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■高岡市は佐藤市長の時に「義経記」に登場する「二位の渡し」での事件を偽造して、小矢部川河口の「六渡寺の渡し」に「弁慶が義経を扇子で打擲する巨大な銅像」を建設し、平成29年には伏木駅にその銅像を移設している。この銅像は小松市の歴史家が時代考証に携わり、渡船会社を経営する一民間企業の悪乗りに高岡市が便乗して高岡市長が「観光開発」と嘘ぶいて造ったものだ。



■「高岡市教育委員会」が作り上げたフエィクニュース


■この「義経記」に登場する「二位の渡し」(※二位の宮の渡し)と言う舟乗場は、実際は「五位庄」(※鎌倉時代には「吉岡庄」)の赤丸村の「五位庄五十三ケ村総社・郷社延喜式内社赤丸浅井神社」の前に在った乗場で在り、「越州川人山鞍馬寺三社誌」と云う「縁起」(※「福岡町史」)にはその詳しい内容が載っている。


■「越州川人山鞍馬寺三社記」には「元正天皇は全国を東西各々三十三ケ国に分けて一宮、二宮に各々を担当させた」と記される。

■「律令制」の「国司」。
「国司」は、古代から中世に地方の「国」の行政官として中央から派遣された官吏で、「四等官」である【守(カミ)、介(スケ)、掾(ジョウ)、目(サカン)】等を指す。(古代日本の地方官制では各府によって四等官の名前が異なる。)郡の「郡司」は地方豪族から任命され、中央支配の組織として「国司」が任命された。任期は6年(後に4年)。「国司」は国衙(国庁)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事の全てを統括する絶大な権限を持っていた。
「大化の改新の詔」で、「国司の配置」が見られ、当初は「国宰」(クニノミコトモチ)と言われ、「国宰」の上には数ヶ国を統括する「大宰」(オオミコトモチ)が設置されたという。(※例;「大宰府」[ダザイフ])。7世紀末迄に「律令制国」の制度が確立し、全国的に「国司」が配置されたと云う。「大宝律令」は[大宝元年(701年)]に制定されて国・郡・里の「国郡里制」に編成され、中央集権的な『律令制』が敷かれた。『律令制』において、「国司」は地方統治の要で律令制の「班田収授制度」は、戸籍、田地の班給、租庸調の税制で構成され、これが「国司」の職務となる。

⇒「川人山鞍馬寺三社記」の「二人の皇子に東西三十三ケ国を統治させた」と云う記載は、明らかに桓武天皇の頃に制度化された「太宰オオミコトモチ」と言う国司制度のハシリと見られ、「大宝律令」が施行された直後には見られなかった数ヵ国を束ねる「太宰オオミコトモチ」と言う国司制度の初期の形体ではなかったかと見られる。

■加賀藩郷土史家達の「歴史の偽造」
先ず、加賀藩の歴史家「富田景周」は、この「川人山鞍馬寺三社縁起」について「有り得ない」と批判し、次いで同じく加賀藩の「森田柿園」はこれを受けて「小矢部川河口の近くには守護町が在るから、【守護の館が近ければ】と記載される部分はこの高岡市守護町の事だ」と指摘し、「如意の城」は守山の「古国府城」の事だと断定している。
しかし、残念ながらこの事件はもっと上流の「五位庄」での事件で在り、鎌倉時代にはこの辺りは「二上庄」で在った。又、「守護町」は南北朝時代に斯波氏が越中を制圧した時に僅か数年間、「守護館」が置かれた場所で在り、「古国府城」はどの歴史書にも「如意城」とは記載されていない。近年刊行されている「義経記」には「如意の城とは五位の城の事」と解説され、「如意の渡し」とは赤丸浅井神社の前から六渡寺村迄の「六渡寺川舟下りルート」の事と指摘されている。



(※元本は「福岡町史」参照)





■「延喜式内社赤丸浅井神社の縁起」




■小矢部川と庄川が合流していた「阿光ケ淵」
(※「赤丸浅井神社絵図」石川県立図書館 森田柿園文庫)







■「延喜式内社赤丸浅井神社」を創建された「石川朝臣広成」の事。





■「養老律令」の[養老令 継嗣令]⇒日本の「天皇」は「万世一系の男系男子」が引き継ぐとされる。この理念の一端が養老令に見られる。
嘗て、奈良時代には「元明天皇」・「元正天皇」の女帝が在ったが、「元明天皇」は文武天皇の中宮で在り、「元正天皇」は終世独身の文武天皇の姉で在って、何れも「聖武天皇」が即位される迄の繋ぎ役で在った。この事を知らない加賀藩の歴史家「富田景周」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒の「川人山鞍馬寺三社記」に記載される「元正天皇二宮」と言う事は有り得ないとその著作の「三州誌」に記載している。

■「養老律令」は「元正天皇」が養老元年(※717年)に発令され、 718年(養老2)に「藤原不比等」らが「大宝律令」を若干修正 して編纂した「律」と「令」各10巻で757年より施行された。その中の[継嗣令 第一]には「天皇の兄弟、皇子は全て親王とせよ」と記されている。
和銅6年(713年)11月に、「文武天皇」の「妃」の「石川刀自娘イシカワノトジノイラツメ」と「紀竈娘キノカマドノイラツメ」の二人は廃されて「妃と名乗る事を許さない」と「続日本紀」に記されている。この時にその皇子も臣籍に降下されているが、「元正天皇」の母の「元明天皇」が蘇我氏系の石川氏で在り、廃された二人の「妃」も「武内宿弥」の末裔の蘇我氏同族で在った事から、「元正天皇」は「養老律令」の中で「天皇の子供はすべて親王とせよ」と命じられた。この「石川刀自娘」の子供とされる「石川朝臣広成」は「川人山鞍馬寺」を創建した人物として「川人山鞍馬寺三社記」に記載される。この皇子(※元正天皇二宮⇒実は聖武天皇の弟で文武天皇の第二子)はこの律令が施行された翌年の758年に成って初めて臣下の「従六位上」から「皇族」としての「従五位下」に任じられている。この「継嗣令」は、明らかに、「藤原不比等」の陰謀で皇室を追放された「石川朝臣広成」の救済を目指している。「天智天皇」の実の子供(※「大鏡」)でも在り、時の権力者で在った「藤原不比等」は、自分の娘の「宮子」が産んだ「首皇子オビトオウジ」を確実に天皇にする為にこの二人の妃を追放する事を目論んだが、「元明天皇」も天智天皇の娘で在った事からその娘の「元正天皇」にとってはどうしてもこの皇子の身分を救済する必要が在ったものと見られる。

■「元正天皇」は文武天皇の姉に当たり、「文武天皇」が早逝された為に当初、母の「元明天皇」が幼い皇子の母親代わりになられたが、後に譲位して娘の「元正天皇」が終世独身で即位された。この皇子の「一宮」は「夫人 ブニン」と成った「藤原不比等の娘の宮子」の皇子で後の「聖武天皇」になられた「首皇子 オビトオウジ」で有り、「二宮」は文武天皇の「嬪ビン」の「石川刀自娘」(※蘇我氏)の皇子で、この親子は不比等の策謀で臣下に降下させられた。赤丸浅井神社は「西暦717年」頃に「元正天皇の二宮の御創建」と伝わり、「元正天皇」は臣下に降下した天皇の子供について「全て、天皇の子供は親王とする」(※「継嗣令」)と令して身分を「親王」とされて「石川刀自娘」の子供には「石川朝臣広成」と賜姓され、後にこの皇子は「高円朝臣広世」と賜姓された。(※「高円」は聖武天皇の別荘が在った地域の名称)

■「続日本紀」には文武天皇七年(697年)八月二十日の条に【藤原朝臣宮子娘を,文武天皇の夫人とし,紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃とした。】と記載され、「巻六」の和銅六年(七一三)十一月乙丑には【貶石川・紀二嬪号。不得称嬪。】と記載され、この時に「石川刀自娘」と「紀竈娘」の二人の「嬪ビン」を廃して臣籍に落としたとされる。この時に母親と共に臣籍に落された子供が「石川朝臣広成」とされる。(※続日本紀にはこの間の文章は見られ無いが、前後の関係からこの子供が「石川朝臣広成」と見られ、元正天皇はワザワザ「継嗣令」を発して広成に「親王」としての地位を確保したと見られる。)

▼石川朝臣広成;天平時代(740年頃)に「恭仁京」に赴任して詠んだ和歌が『万葉集』に載っている。又、天平15年(743年)頃には天皇の側近の「内舎人」を務めており、大伴家持もこの役職に就いている。天平宝字2年(758年)に淳仁天皇の即位に伴い、従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵され、天平宝字4年(760年)母方の氏姓であった「石川朝臣」から「高円朝臣」に改姓して同年、文部少輔に任ぜられる。その後、摂津亮、「尾張守」、「山背守」を歴任し、天平宝字8年(764年)正月には従五位上「播磨守」に叙任される。藤原仲麻呂政権下で畿内やその近辺の大国・上国の地方官を歴任していたが、同年9月に発生した「藤原仲麻呂」の乱後の10月には播磨守の官職を廃されて藤原黒麻呂と交替した。称徳天皇の時代では、「周防守」、「伊予守」と地方官を歴任して、宝亀元年(770年) 光仁天皇の即位に伴い正五位下に昇叙されている。『万葉集』に3首、『玉葉和歌集』に1首の歌が掲載される。

📚📒 【卑弥呼の時代】 古代氏族研究の困難さと歴史研究の混乱 ⇒大陸異民族との混血が進んだ日本文化 !!

2020-09-02 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■日本人は他の国の民族に比べて「純血意識」が特に高く、海外に対して独特のコンプレックスと優越観を持っている。特に徳川時代の鎖国政策の影響は現在も日本人の考えの根底に深く根差している。

🔽肝心の先祖のルーツに関する部分の「古代史」や「中国史」については全くの門外漢で在り、特に「欠史八代」については「古事記」等の古書しか知るべくも無いが、昨年、「越中石黒氏」について調査した時に、この先祖についても「藤原氏」、「孝霊天皇」、「孝元天皇」等の意見が在り、一番多いのは「藤原利仁将軍」を祖先とする「藤原氏」と、「武内宿弥」を祖先とする「蘇我氏」であるというものだった。

🔽天皇家のルーツが記載されていると聞いて「三代実録」を調べて見ると、「孝霊天皇は後漢系統」の表現が在り、益々迷路に入った感じだ。そこで、更に調べていると「東亜古代史研究所」のHpが在り、、相当詳しい事が書かれている。
しかし、ここでは、「孝昭天皇」から「開化天皇」迄は「物部氏、邪馬台国」の時代だという。とすれば、従来言われていた「利波臣、石黒氏は蘇我氏系統」からも逸脱してしまう。蘇我氏と物部氏は仏教を巡って争い、物部氏は衰退し、蘇我氏は中臣氏に中枢から排除されてしまう。この「古代史研究所」の意見では、大和朝廷の「欠史八代」は中国の古代の皇帝の名前を使って記載されているとされ、其々の皇帝はその都度、民族が違う事も記載されている。
菅原道真が編集・編纂 した「六国史」には「新羅」、「百済」、「秦」、「漢」等の中国・韓国の民族が日本に帰化して、様々な技術や文化を伝えて、朝廷から「賜姓」され、「領地」を与えられて貴族にも列せられている。説明の中でも、これ等の異民族が恰も隣国の民の様に頻繁に登場して、その都度、朝廷は位や領地を与えて遇している。当然、これ等の民族が大和朝廷と姻戚関係を結び、混血が進んで、朝廷、天皇の系統にも大陸異民族の血が入り込んでいる事は起こり得る。従って、天皇や古代氏族の系統についても、先祖を辿れば様々な民族の血が入り込んでいる事は当然で在り、それが時に、系図編纂の時に混乱を生じる原因でもある。
従って、後世、古代豪族が系統を主張する時に、父方、母方或は先祖の氏族系統が混在しており、「名乗り」の曖昧さが起こるのも当然だ。しかし、研究者は往々にして、印象深い系統を主として「歴史を編み出す」為に、千差万別の異論が噴出してくる。
従って、歴史研究では、これ等の事情を考慮して、虹色の歴史が登場しても許容する必要があるのも事実だ。
天皇の先祖、貴族の先祖を云々する事はこの様に非常に空しい事なのだが、特に「万世一系」の天皇家については、この様な事情を排除して、純粋な大和朝廷の系統として認識したいと考えるのも「日本民族」の意識の根底にある。

🔴📚📕 「衆徳山総持寺」(※高岡市関町)に遺される赤丸村「川人山鞍馬寺」の別当「西宝院」と「宮崎一族」の記録(※「越中古文抄」)!!

2020-09-02 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●赤丸村の「川人山鞍馬寺」の一族「西法院」(※西宝院)の法名が高岡市関町の「総持寺」(※元赤丸村)に遺されていると云う。又、「宮崎一族の墓」が「総持寺」に遺されていたと云う。(※「越中古文抄」高岡市中央図書館)





■「赤丸浅井城」は「越中石黒氏」の居城で在ったと云われ、元々、元正天皇の二宮が築かれた「浅井城」には、「利波臣」の末裔「石黒氏」が累代、居城にしたと云う。(※「肯搆泉達録」)
伝承では「浅井城」は、「後白河上皇」の庄園「吉岡庄」に在った時に、源平倶利伽羅谷合戦に参陣した「石黒光景」の居城で在り、この人物は「越中石黒系図」に、「木舟城」の「石黒光弘」の父で在ったと云う。『源平盛衰記』には「石黒光景」、「石黒光弘」の名前が在る。
「越中石黒氏」や「加賀林氏」は「木曽義仲」に従軍した「宮崎氏」と共に倶利伽羅谷で戦っている。又、「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」でも富山県朝日町に朝日城を構えていた「宮崎氏」を中心に越中石黒氏、加賀林氏等が後鳥羽上皇軍に参陣している。(※林一族の富樫氏は幕府側で戦った。)これ等は全て「藤原氏」で在ったと言う。
(※「朝日町史」によると、「宮崎一族」は信州を拠点としていた一族で在ったと云う。赤丸村の浅井神社近くには現在も「宮崎一族」が住まいしている。この一族は朝日町にも一族が居る。)

■「源平安宅川合戦図」(※歌川国芳 作)には「木曽義仲軍」に「石黒」・「宮崎」等が描かれている。





■「富山県西砺波郡紀要」



■「源平盛衰記」(※部分)












🔴🏯 越中吉岡庄・五位庄の『赤丸浅井城』と『木舟城』⇒『蓑のしずく』から見られる両城の関係!!

2020-09-02 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「赤丸浅井城」と「木舟城」⇒小矢部川流域の「山城」と「平城」!!




■「源平盛衰記」によれば、石黒氏の居城「赤丸浅井城」・「木舟城」は「石黒光景」・「石黒光弘」親子の城で在ったが、この時代には赤丸村も木舟村も、「後白河上皇」の「後院領」と呼ばれた庄園「越中吉岡庄」の中に在った。(※「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」・「兵範記」)
















■「赤丸浅井城」と「木舟城」は何れも「越中石黒氏」の居城で在った。山城の「赤丸浅井城」の鎮守は「延喜式内社赤丸浅井神社」で、越中の古書の「肯搆泉達録」には「この城は浅井神社創建の元正天皇二宮が居城とされ、累代、(利波臣の子孫の)石黒氏が居城とした。」と記載されている。「元正天皇二宮」とは、聖武天皇の弟に当たる「石川朝臣広成」である。一方、「木舟城」は比較的後期に建設されたと見られる「平城」である。「石黒氏の歴史の研究」(※小矢部市図書館)によれば、赤丸浅井城の城主「石黒光景」は「木舟城」の「石黒光弘」の父に当たる。「石黒光景」・「石黒光弘」は何れも「木曽義仲」に従って「源平の戦い」に参戦して、「源平盛衰記」でも富山県朝日町の宮崎党と共に「倶利伽羅谷」や「安宅川」で戦っている。

■郷土史家の故中川幸作氏(高岡市上蓑)は「福岡町史編纂委員」もされた方で、福岡町蓑地区の郷土史を纏めて上下、二巻の「蓑のしずく」を作成された。しかし、この二巻は全て手書き原稿の形のもので、発刊はされていない。
この中には、「木舟城」の調査内容や「貴船神社の御神体のスケッチ」等、中々、目に触れる事が無い記事も多い。
この中で注目されるのは、山城の「赤丸浅井城」と平城の「木舟城」が「木舟川」、「唐又川」で結ばれている事だ。






■赤丸浅井神社の別当は「川人山鞍馬寺」で在り、この寺は京都の「鞍馬寺」を勘請したものだが、京都の「鞍馬寺」は「貴船神社」の神の御託宣で「藤原伊勢人」が創建したものだと云い、この両社は大変密接である。又、「川人山鞍馬寺」の周辺には、京都の「上賀茂神社」や「下鴨神社」を移した舞谷村の「上加茂社」や加茂村の「下加茂社」が在り、その小矢部川支流上流には、京都の「貴船神社」を勘請した「貴船社」が「木舟城」に祀られていた事になる。更に、木舟石黒氏に伝わる「木舟城古今誌」には「吉岡庄の地頭吉岡成佐が大竹村(大滝村)を開発した」と伝わり、何と、赤丸村と馬場村一帯に在ったと伝わる「地頭吉岡成佐の居館」や「吉岡砦」を拠点とした「吉岡成佐が大滝村を開いた。」と伝わっている。この状況から判断されるのは鎌倉時代初期に源頼朝の家臣の「吉岡成佐」が「吉岡庄」の「地頭」で在った時には、既に「木舟城」は「浅井城」の「出城・支城」として在った事が推定される。
「赤丸浅井神社」には「宮様、京都のみやびをこの地に写し………」と伝わり、吉岡庄の古い社寺は京都から勘請されたものと伝わり、京都では「鞍馬寺」、「貴船神社」、「上賀茂神社」、「下鴨神社」は一体として皇室や貴族が信奉した施設で在った事から、庄川下流の「木舟川」~「唐俣川」の沿岸に平城の「木舟城」を開き、山城の本城「浅井城」の出城としたものと見られる。この様に、当初は一体のもので在ったが、足利室町幕府将軍足利義満が「五位庄」を京都の「相国寺」(※「金閣寺」)に寄進し、この時代からこの二つの城は別々の運用になったものと見られるのだ。




■『蓑のしずく』に見られる「木舟城」







🍁🔸伊勢度合神道【度合延経】の著作【神名帳考証】と【度合延佳】の著作【先代旧事記】(※国造本紀)⇒「日本国」の古代を伝える【延喜式内社赤丸浅井神社】 の由緒!!

2020-09-02 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●伊勢神宮外宮神官家[度合延経]の「神名帳考証」に見える「延喜式内社赤丸浅井神社」と「先代旧事本紀」(※1673年、寛文13年/延宝元年、度合延佳 著)の「国造本紀」の記載!!



■古代の各国を統治した「国造 クニツコ」について記載される「国造本紀」




■「高志国」(※越後、越中、能登、加賀、越前)は「高志国造 コシノクニツコ」が統治した。
(※「阿閉臣」は伊賀を本貫地とする古代豪族で孝元天皇の子「北陸道将軍大彦命」の末裔)


■「越中」の「射水郡」は「伊弥頭国造」が統治したとされる。





■江戸時代の学者・神官の「度合延経」は「神名帳考証」の中で滋賀県の琵琶湖周辺に祀られる矢合神社が「八河江比売」を祀っている事から、この「延喜式内社赤丸浅井神社」の「浅井」は琵琶湖周辺に繁栄した近江の浅井氏との関連を仄めかしている。

・「延喜式神名帳」記載の「越中」の延喜式内社「赤丸浅井神社」









・【神名帳考証】(※度合延経)記載の【延喜式内社赤丸浅井神社】に対する考証



■【度合延経系図】 (※伊勢神宮外宮神官家)




📚📖 「加賀藩記録」の【御家御系図】に見る加賀藩の事跡⇒加賀藩士【松島孫三家文書】!!

2020-09-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「加賀藩 御家御系図」(※加賀藩士 松島孫三家文書)





■この書には加賀藩前田家の所領、系図、各藩主の事歴が記される。「前田家 」は当初、「豊臣」を名乗り、次いで「源氏」を名乗り、後には「菅原」を名乗ったと云う。又、領国は加賀郡、江沼郡、能登四郡(一万石は除く)、越中四郡(新川、婦負郡の内十万石を除く)、近江国高嶋郡の内 三ケ村(今津弘川、梅津、中村町)が加賀藩領地で在り、石高は百二万五千二十石二斗八升二合で在ったと記されている。この内、近江に二千四百石もの所領が在った事は余り知られていない。この松島家は家録は少いながら武芸の家紋で在り、第十三代藩主前田斎泰から御前試合の褒美に加増されたと云う。
この家系は剣道、柔、軍略等の家で在った様で、多くの軍略書が遺されていた。


🔴【身近に残る室町時代の足利幕府の痕跡。】 室町時代の「宇多刀鍛治」と「越中守護畠山持国」!!➡ 高岡市柴野「天冠山三光寺」に残る「畠山家墓地」と「宇多家墓地」

2020-09-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










■高岡市柴野(十日市)に在る【曹洞宗三光寺】(※元は臨済宗で、寺名は臨済宗の高僧「三光国師」に由来する)は「加賀藩主前田利長」の菩提寺の「繁久寺」の末寺で、「繁久寺」の住職の隠居寺に成った寺。寺紋に加賀藩の「剣梅鉢紋」を使用している。織田信長の四女で、前田利長の妻に成った「永姫」(玉泉院」は、伯母(信長の妹)が嫁いでいた元の「神保氏張」の居城の「高岡守山城」を見晴らす高岡市柴野に「三光寺」を再建して、「繁久寺」の僧を招いた。
高岡市の前田家菩提寺「瑞龍寺」には、「織田信長」の分骨廟が在る。
【▼天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時に、利長は永姫と共にに上洛途中の近江国瀬田(現在の滋賀県大津市東部)でこの変事を聞き、当時7歳の「永姫」を前田家の本領「尾張国荒子」へ逃がして匿った。子供は無く、加賀藩第三代前田利常は前田利家の四男を養子に迎えた。】

この寺は、「室町時代」に臨済宗寺院として建立されたと言う由緒在る古寺で、この寺には室町時代の越中守護を務めた「畠山家」や、「越中吉岡庄」(※宇多刀工の工房跡は赤丸村舞谷 鍛冶屋町島)と呼ばれた南北朝時代から江戸時代迄続いたと云われる越中刀工「宇多家」やその一族の墓が在る。

















■「室町幕府」と「五位庄」
「越中吉岡庄」は室町時代に入ると、室町幕府御粮所に成り、「足利義満」は「五位庄」を「臨済宗相国寺」に寄進した。南北朝末期に「吉岡庄」から「五位庄」と改名された後に、越中は八郡に分割され、「利波郡」は「蓮間郡」と「利波郡」に分かれていた。(※室町幕府御粮所; 幕府の兵粮を調達する庄園)
「赤丸浅井城」の在る小矢部川西部は「利波郡」と成り、「畠山文書」の「越中統治絵図」に拠れば、この頃は「赤丸浅井城」は「畠山一族」で【応仁の乱】の原因を作った「畠山持国」の居城で在った事が記されている。「応仁の乱」では「畠山持国」の跡目を巡って「畠山義就」と「畠山政長」が争った。
(※「越中之絵図」大阪府羽曳野市羽曳野資料叢書 畠山文書)

















■「足利義満」の時代には「越中守護畠山氏の居城」の「赤丸浅井城」の周辺から、「臨済宗」以外の寺院は立ち退きを命じられた。
又、「越中蜷川氏」は北陸自動車道富山インター前に位置する富山市蜷川の「蜷川城」を本拠とした。「足利義満」の近臣で「政所代」に任じられた「蜷川新右衛門」は「越中国新川郡、利波郡」を統治したと云う。「蜷川城」の跡には「蜷川新右衛門」の菩提寺で曹洞宗の「最勝寺」が在り、この寺を開いた僧が「赤丸浅井神社」とその別当に当たる「川人山鞍馬寺」で「越中国利波郡五位庄住の藤原直家」の先祖の法要を営んだ記録が「東海宗洋法語録」(※「富山県史中世」)に掲載されている。(※「蜷川の昔」)













「越中国利波郡五位庄」




🔴🔘【義経記】に登場する鎌倉時代の「二位の渡し」と言う「赤丸浅井神社」前の舟乗場と、その後継の江戸時代の「五位の渡し」!!

2020-09-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●「赤丸浅井神社古墟図」(※石川県立図書館)には古くは赤丸浅井神社の前で小矢部川と庄川が合流して「阿光ケ淵」と言う難所をつくっており、「義経記」では「如意の城」(※五位庄の「赤丸浅井城」)の前には赤丸浅井神社の創建が「元正天皇二宮(次男)の御創建」と伝わる所から「二位の渡し」と呼んでいた様だ。
この「二位宮の渡し」で起こった事件は脚色されて【勧進帳】の「安宅」のシーンとして脚色された。「義経記」では、弁慶は義経を「扇子」で打擲しているが、「勧進帳」では山伏の持つ「杖」でさんざんに打擲している。






■「延喜式内社赤丸浅井神社」は、皇室と密接な【門跡寺院聖護院派・本山派山伏】の「川人山鞍馬寺」を別当とする「三社権現形式」(※一寺に三社の神社が配される)で在った。
(※勧進帳で義経の随行の者達が着ている山伏衣装は、胸に房が二カ所に付けられている「本山派山伏の衣装」で在る。)
















■赤丸浅井神社前の「二位渡し」と言う舟乗場から小矢部川河口の「六渡寺渡し」と言う舟乗場迄の舟による小矢部川の水運ルートを、鎌倉時代には「如意の渡し」と呼び、江戸時代には「六渡寺舟渡し」と呼ばれた。




■古代には西山の麓を流れていた「小矢部川」は、度々氾濫を繰返しながら江戸時代には赤丸村向野新村を通過しており、この時には「五位の渡し」と呼ばれて、「向野新村」から対岸の「上渡村」を繋いで笹舟で運航されていた。この渡しは昭和中頃に五位橋が架けられて廃止された。
(※「加賀藩参勤交代道中絵図」・「小矢部川古絵図」福岡町史)








🔴《重修真書太閤記》【宇多派刀工】と【太閤 豊臣秀吉】⇒【宇多源氏佐々木氏流】の刀工【宇多派】と【宇多源氏佐々木氏流高島氏】の流れを汲む【木下藤吉郎】!!

2020-09-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越中吉岡庄(赤丸村領鍛治屋町島)」に展開したと伝わる「刀工 宇多派」の作品 が「豊臣秀吉」に愛されて「太閤遺品帳」(※「甫菴太閤記」)にも記載される。!!
「豊臣秀吉」は宇多源氏佐々木氏流と言われ、「宇多刀工」も同じく「宇多源氏佐々木氏流」で在ると云う。
秀吉の出身地は宇多源氏佐々木氏流が繁栄した「近江国浅井郡」で在ったと云う。

■鎌倉時代末期に、【宇多刀工】が大和国宇陀郡から移り住んだ『後醍醐天皇』の庄園『越中吉岡庄』の鍛冶屋町島(※富山県高岡市福岡町赤丸)









【宇多派初代 『宇多国光』 の太刀】



【南北朝時代迄は『古宇多』と言う】

《※特別保存刀剣『古宇多』》

■【太閤記】には主なものとして、江戸時代発刊の「真書太閤記」、「甫菴太閤記」(※「加賀藩小瀬甫菴 著」)、「重修真書太閤記」(※「栗原孫之丞信充 著」)が在る。

①「真書太閤記」は「太閤記物語」で在って実際には行われなかった「太閤秀吉の葬儀次第」等も作文して、秀吉の功績を吹聴する意図が大きく、実録としては物語性が強い。






②加賀藩士「小瀬甫菴 著」の「甫菴太閤記」は、実録に近くしようと苦心した様子は在るが、「実録」としては物足りない。





③「重修真書太閤記」は、全六編60巻(※十一編?)の大作で在り、関係者 についても出自等迄が詳細に記されている。作者自身、巻頭言で「甫菴太閤記」等の既刊の「太閤記」には記載 されない部分も補充して記載した事を述べているが、この書には豊臣秀吉の本姓【木下家】や秀吉の母【於仲】の系図等も詳しく載せている。この系図では、木下藤吉郎の曾祖父は元々、比叡山の僧で八才の時には出家して比叡山に登ったと言う。その後還俗して尾張國中村に住み、「中村弥助國吉」と名乗り、その子は「中村弥右衛門昌高」と名乗る。その子は「藤吉郎」の父の「中村弥助昌吉」と云い、「織田信長」の父の「織田信秀」に仕えて、数々の武勲をあげたものの戦争で負傷して侍を辞したと言う。

















■「豊臣秀吉遺品帳」には多くの「宇多刀」がみられ、近臣の「長谷川秀一」には「国光」の太刀が与えられている。一部の書には「豊臣秀吉」自身が「宇多一族の同族」と記されるものも在り、「宇多源氏佐々木氏流」とも言われる系図の中に、「宇多源氏佐々木氏流高島氏」が在ると「重修真書太閤記」は記している。又、この「高島氏」には【越中守】に任じられた者も在ると言う。





■「中村家」の祖の「比叡山の僧の昌盛」の身元は、元々、「木下郷」に住んで【木下】を名乗ったと云う。江州浅井郡長野村の「百姓長助」と云う者の二男が八才の時に比叡山に登り、「昌盛」と名乗ったが、修業の成果に満足できずに遂には還俗したとする。元々、先祖は「佐々木流高島家の末裔」の武士で在ったので、「昌盛」は還俗して暫くは、近江国浅井郡長野村に帰り、兄の「長左衛門」の家に同居していたと云う。



■又、藤吉郎の母の「於仲」の素性は、「持萩中納言保廣卿」の娘であった。この公卿は、明応三年、後土御門院の御宇に天皇に不快な「歌」を献上したとして、罪を得て尾張国御器所村に遠流に成り、そこの猟師次大夫の娘「いう」と恋仲に成り、一女を設けたが、やがて、赦されて都に帰って間もなく亡く成ってしまった。寄る辺無き身の母と娘は、仕方なく叔父の【鍛冶五郎助】の世話になる事に成ったと云う。
(※明応《1492年から1501年迄》天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。)

◆【※「鍛冶」と言う姓は「越中刀工宇多派」の分家筋で在り、この家系も「宇多源氏佐々木氏流」の一族で在ったものか? 「宇多」は本家のみに許されて、分家は「宇田」、「鍛冶」を名乗ったと云う。⇒高岡市四日市の「宇多家」の菩提寺「三光寺」住職 談】

■【宇多一族の菩提寺三光寺】と【宇多一族の宇多、宇田、鍛冶家の墓】














■「宇多刀工」の祖の「宇多国光」は、滋賀県甲賀市付近(旧:甲賀郡)で平安時代の天皇である「宇多天皇」の後裔の「佐々木氏」の後裔と伝える。「佐々木氏」は宇多天皇の子孫の「成頼」がその祖と言われ、その子には「佐々木義経」が居る。
甲賀衆には「宇多」と名乗った一族がおり、この一族が奈良県の宇陀郡に移り住んで作刀したと見られる。
大和国宇陀郡は伊勢市とも隣接しており、この国の国侍達は伊勢国司北畠親房の配下で在り、「後醍醐天皇」が宇陀郡の「八咫烏神社 ヤタカラスジンジャ」を崇敬された事から、南北朝の頃は「南朝」の強固な地盤で在った。「北畠親房」は「後醍醐天皇」の皇子の「後村上天皇」の為に「神皇正統記」や朝廷の制度や法律を集約して「職原鈔」を著して、関東でも南朝軍に参戦している。
「越中吉岡庄」は「後醍醐天皇」の庄園で在り、赤丸村は南朝の牙城で在った事から、大和国宇陀郡から作刀の為に「宇多刀工」を呼び寄せ、大量に刀剣を作刀していたものと見られる。「後醍醐天皇」は吉野への途中に五条市の「賀名生里アノウノサト」に宿を借り、そこに天皇の標の「金の丸」を赤く塗った「赤丸の御旗」を遺されて、天皇の皇子達は「赤丸」を旗標として軍配にも書かれている。「赤丸村」は「南朝の牙城」 として後にこの「赤丸の御旗」から「赤丸村」と呼び慣わされたものと見られる。興国三年、越中に入られた「後醍醐天皇」の「第八皇子宗良親王」は「赤丸城ケ平山」に「親王屋敷」を構え、石黒氏の居城の「赤丸浅井城」や各地の南朝支援の軍を鼓舞されて巡航されたと云う。その時に、隣接した「極楽谷」には「越中宮極楽寺」(※高岡市)を創建されたと言う。
(※「越中宮極楽寺由緒」参照)

◆《大和国宇陀郡》


◆《甲賀郡》


◆《宇多源氏 系図》















🔴 🐎🐎 『賀茂御祖皇太神宮』(※【下鴨神社】)の記録「賀茂御祖皇太神宮神戸記」に見られる【越中吉岡庄】(※後に五位庄)の記録!!

2020-09-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「京都下鴨神社」の「葵祭」
⇒【賀茂御祖皇太神宮諸国神戸記】に記載される「下鴨神社庄園 越中吉岡庄」(※後に越中五位庄)の記録。


従来、学者の間では『越中吉岡庄』は白河上皇の時に「上賀茂神社領」に成り、その後、南北朝末期に「下鴨神社領」に成ったとされて来たが、改めて「神戸記」を精査すると、室町時代の足利義政の時代に『吉岡庄』(※五位庄の誤りか?)の記録が発見された。
「越中吉岡庄」には『延喜式内社赤丸浅井神社』の末社として、「上賀茂社」が福岡町加茂地内(※超願寺敷地)に、「下鴨社」が赤丸村舞谷(※加茂宮地内)に勘請された。
(※「上加茂社」は現在福岡町鳥倉の「鳥倉八幡宮」に合祀され、「下加茂社」は福岡町舞谷の「舞谷八幡宮」に合祀されている。)









●「賀茂御祖皇太神宮諸国神戸記」には、康正二年の記録として「賀茂御祖神社」の庄園として「内裏造営の段銭」を納めたとする記載も在り、足利義政の時に「越中吉岡庄」(室町時代からは五位庄)は再び「下鴨神社の庄園」に成っていたと思われる。











🔽『五位庄郷社延喜式内社赤丸浅井神社』(※富山県高岡市福岡町赤丸)