赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔹 ●【近江国に在った「加賀藩領」】 ⇒「加賀藩領近江国今津村、海津村」の位置と変遷!!

2019-01-17 | 歴史
■加賀藩領として、近江国の琵琶湖沿いに所領が在った。






◆今津村は1864石で、秀吉が前田利家の大阪への旅の休憩地として与えたもので、豊臣家の大老を辞するに当たり秀吉に返上を申し入れたが、秀吉はこの地を「芳春院の化粧料」として「芳春院」に与えた。

◆海津村は加賀藩領の尾添村、荒谷村の代替えとして加賀藩に与えたもので、福井県と石川県の境に在る「白山」の神領と支配権を巡り、福井県大野市の「平泉寺」と石川県白山市鶴来町の「白山宮」が争った為、仲裁した幕府はこの二村を幕府直轄領として、代わりに琵琶湖を臨んだ海津村を「藩邸」として与えたが、実際には、この地は大阪、京都への物流の拠点としての「蔵屋敷」が置かれた。

🚩🏯「名古屋城」の木造復元計画が進んでいます❗

2019-01-13 | 歴史
【名古屋城】木造復元事業いよいよ開始! 本丸御殿は18年に全面公開
https://www.kensetsunews.com/web-kan/131820 (ウェブリンク)

■「名古屋城」は、徳川家康が復興した古い木造の城郭として復元計画が進んでいる。







■「名古屋城」は、「信長記」には【織田備後守(信秀)は・・・那古野の城を吉法師殿(織田信長)へお城御譲り候て熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵え 備後守御居城なり。】と在り、「織田信長」が若年の時に父の「信秀」から譲られたとされる。那古野城は一旦、破却されたが、徳川家康が再建したと云う。那古野城には清洲城の遺構も残されていたと言う。
「清洲城」は元、室町幕府の尾張守護斯波氏の居城で在ったが、後に織田氏の居城になり、織田家が「清洲」に在った「清洲櫓」と言う一部の砦部分を那古野城に移設したと言われる。現在、「清洲城」は復元されて博物館として使用されており、東海道新幹線が城の敷地の真ん中を通過している為に通過時には車窓からも見る事が出来る。「織田家家臣」が「那古野」に一斉に移った事を「清洲越え」と伝え、家臣達は現在の日本銀行名古屋支店の周辺に屋敷を構えた。

📚🌸 「真書 太閤記 全三十巻」に見られる「織田信長」、「前田利家」、「豊臣秀吉」、「豊臣秀次」、「豊臣秀頼」、「徳川家康」、「石田三成」達!!

2018-12-25 | 歴史






■「太閤記」は織田信長と前田利家達の家臣の戦乱の歴史と織田信長の本能寺での暗殺、豊臣秀吉の関白、太閤への就任、朝鮮出兵、秀頼の誕生、秀次の関白への就任と切腹、秀吉の死去迄を記している。
秀吉の死亡時には朝鮮出兵中で在った為に石田三成達は秀吉の死亡を伏せ、後に葬儀の様子を事細かに作文させて家臣達にその作り事の葬儀の様子を転写させて、全国に流布した。「真書太閤記」には秀吉の葬儀を報せるこの偽物の「葬儀記録」も細かく記載され、参列の武将達の様子も含めて載せられている。











📕📖「金沢古蹟志」(※森田柿園著)・「加賀藩史稿」(※永山近彰編)記載の加賀藩士「九里氏」⇒織田信長家臣から加賀藩士へ・「高岡城地鎮祭」の執行!!

2018-12-17 | 歴史
■「金沢古蹟志」
加賀藩に九里氏(くのりし、くりし)と言う生え抜きの家臣がいたと森田柿園は特にその著作の「金沢古蹟志」に書残している。この氏族は北陸および近畿の氏族で、表記には九ノ里(九野里)、九法、久乗(久乘)などの変種があると云う。









石川県図書館協会発行の「金沢古蹟志」(※森田柿園著)に見る「九里氏」。

■享保九年の加賀藩士帳に「千五百石九里甚左衛門」と在り、この一族は明治維新の廃藩迄、金沢市新竪町広見に居住したが、家屋を売却して何処かへ移転したと云う。
この先祖の九里夕庵は前田綱紀の近臣で、二千石を賜っていたと云う。
幕末の九里正長は「越登賀三州誌」等を著した「富田景州」の同僚だったと云う。九里氏の祖先の「九里甚左衛門」は当初、織田信長に仕え、前田利家が越前府中(福井県武生市)の城主の時に前田利家に仕官した加賀藩の古老で在ったと云う。
この一族は、歴代、小姓頭、馬廻り役、定番頭、金沢町奉行、算用場奉行等の要職を歴任したと云う。加賀藩の学者の「富田景州」や「森田柿園」は特にこの氏族を「加賀藩成立以来の古老、知識人」として特に紹介している。

■前田利家が焼き討ちにして全山が殺害された富山県と石川県境の「石動山」は後に加賀藩によって一部が再興された。この復興した「石動山」の別当には「九里一族」が就任している。

・近年発見した「石動山普門院」の保管されていた経典



・「石川県史」に見られる「石動山大宮坊別当 空照」(俗姓 九里氏)の記録



■加賀藩記録「三壺聞書」に、【「前田利長」は「高岡城」の建設の時に【愛宕波着寺】の住職を呼んだ】と記載されている。この「愛宕波着寺」は元々、福井県に在った寺で、この寺の由緒に
【金沢市に波着寺なるものあり調査の処 山号泰澄山波着寺と読んでいる。開祖は安養坊「空照」。越前足羽郡波着寺に居た頃前田利家の祈祷所であったので金沢に召寄られ広坂の地に寺地を賜りたが元和五年現在の所に移転せしめられた。】と在り、寺のHpには【金沢市石引2-18-5 「創建は神亀年間(724~729年)。白山信仰の寺として栄える。高野山真言宗の寺院。加賀初代藩主前田利家が越前府中に在城時、祈願所にした縁で、1619年(元和5年)加賀3代藩主前田利常の時、現在地に移転された。江戸時代には、1万坪の境内地があったが、現在も白山町として地名が残る。山号は泰澄山と言うが、白山或いは白流山とも号している。本堂には白山の扁額が掛けられている。加賀騒動の大槻伝蔵が、小坊主の頃当寺に預けられていた。」】と在る。
・慶長十四年(1609年)三月に富山城が火災で焼けた為に前田利長は高岡市(当時は関野)に移る事を決めた。直ちに用地の選定が行われて地鎮祭を執り行い、八月十六日に引越の祝いを盛大に執り行ったと云う。「高岡城」の地鎮祭は、当初、真言宗の仏式で行ったが、後に、利家の妻の「まつ」の提言で「吉田神道」で改めて地鎮祭を行ったと云われるが、「三壺聞書」では「真言宗 愛宕波着寺」の住職によって地鎮祭が行われたとのみ記しており、この時の住職が「空照」と云う。

■「加賀藩史稿」の「九里正貞」
加賀藩の歴代藩主や歴代藩士について公爵前田利嗣からの依頼で永山近彰が編纂した「加賀藩史稿」には詳しい藩士の由来も記されている。
















◎この「金沢古蹟志」、や「越中志徴」・「加賀志徴」・「能登志徴」を著した「森田柿園」は、加賀藩の記録を遺した学者だが、膨大なその著作や貯蔵資料は石川県立図書館の「森田柿園文庫」に保管されている。
この文庫には、「延喜式内社赤丸浅井神社」の古絵図も保管されている。
森田柿園は元々、市街地中心部の「柿の木畑」に住まいしていたが、この土地は金沢市役所近く、旧の「宇都宮書店」の近くに在ったが、その後、この土地は富山市の飲食業者の手に渡り、現在は駐車場になっている。










🏯 越中西部の名勝地⇒ 連如の「土山御坊」、「光久寺」、九条道家庄園「宮島峡」 !!

2018-11-16 | 歴史



■富山県高岡市福岡町赤丸村の周辺には浄土真宗「連如」ゆかりの「土山御坊跡」(*福光町)や素晴らしい庭園の「光久寺」(*氷見市)が在り、又、富山県のナイアガラと言われる「宮島峡」(*小矢部市)等の史跡や名勝地が在る。

「土山御坊」は「連如」が白山麓で浄土真宗を布教する為に建立した深い山中にあるお寺の跡。


「光久寺」は「連如」が氷見市周辺の布教に使ったお寺で、古い庭園が有名。近くには江戸時代の剣豪「斉藤弥九郎」の出生地がある。


「宮島峡」は小矢部川の支流の上流にあり、近くには加賀藩前田家の墓所もある。


一帯には古墳が散在し、古代から文化が栄えた。越中は「大伴家持」が国司をしており、周辺には「太平記」にも記載されている「五位庄」(前身は皇室庄園「吉岡庄」)があり、南北朝時代の史跡も点在する。「後白河上皇」・「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」、奈良の公家や豪族、奈良の東大寺の荘園等もあり、古くからの米の産地、集積地だった様だ。福光町は富山県西部の古代豪族「利波臣」の発祥地と云われ、小矢部市には著名な「倶利伽羅古戦場」が有り、次いで「義経記」にも登場する「五位庄」、国吉村の「東大寺庄園須加庄」、氷見から日本海沿岸一帯は「東福寺庄園」が広がり、古代から越中の政治、文化の中心地で在った。小矢部川下流の「越中の国府」から「五位庄」の赤丸村地内「小矢部市」「福光町」古代道の「駅」で繋がる米の交易の一大ルートだった。小矢部川には米俵を積んだ船が行き交い、越中国司「大伴家持」は、
「朝床に聞けばはるけし射水川 朝漕ぎしつつ唄う船人」とその様子を詠んでいる。






「吉岡庄」(赤丸村)に在った「川人山鞍馬寺」は京都の鞍馬寺が勘請されたものと伝わり、その本尊の阿弥陀如来立像は各所を流転して、現在は井波町の名刹「瑞泉寺」の客仏として宝蔵に祀られている。

■小矢部市の「宮島保」は鎌倉時代の「吾妻鏡」に、摂家将軍「藤原頼経」の父の「藤原道家」の庄園として登場している。
〇東福寺を創建した「九条道家」の越中の庄園「宮島保」についての「吾妻鏡」の記載。
〇[越中の東福寺庄園の事]→ 越中國東條。河口。曾祢。八代保。 東福寺庄園は門徒の氷見の八代氏が地頭となり管理した。氷見阿尾城の菊池氏も八代氏の同族らしく、東福寺の檀家であった。
(※「戦国・氷見」氷見市)







【吾妻鏡】
「延應元年(1239)七月大廿五日壬辰。越中國東條。河口。曾祢。八代等保事。爲請所。以京定米百斛。可備進之旨。地頭等去年十一月献連署状於禪定殿下〔道家〕。仍可停止國使入部并勅院事以下國役之由。同十二月國司加廳宣。就之。去正月任國司廳宣。地頭等寄進状。爲東福寺領。停止并勅院事國役等。爲地頭請所。可令備進年貢百石。兼又當國宮嶋保雖爲當家領。被糺返國領之由。被下禪定殿下政所御下文。是爲寄附彼寺。所被相傳也。仍被申其趣於將軍家之間。可存其旨之由。今日被奉御返事云々。」

【7月25日 壬辰
越中の国東條・河口・曽祢・八代等の保の事、請所として、京定米百斛を以て備進すべきの旨、地頭等去年十一月連署状を禅定殿下(藤原道家)に献る。仍って国使の入部並びに勅院の事以下の国役を停止すべきの由、同十二月国司の廰宣に加う。これに就いて去る正月国司の廰宣・地頭等の寄進状に任せ、東福寺領として勅院の事以下の国役等を停止し、地頭の請所として年貢百石を備進せしむべし。兼ねてまた当国宮嶋保は当家領と雖も、国領に糺返せらるるの由、禅定殿下政所の御下文を下さる。これ彼の寺に寄付せんが為相伝せらるる所なり。仍ってその趣を将軍家に申さるるの間、その旨を存ずべきの由、今日御返事を奉らると。】

⇒【解説】( 越中國の東條保。河口保。曾祢保。八代等保 は藤原道家が寄進し東福寺領と成り、小矢部市の宮嶋保は国庫に返還された。 東條・河口・曽祢・八代等の保は 米100石で地頭が管理する事で地頭が連名で藤原道家に請状を提出した。)

●九条道家の子の九条(藤原)頼経(九条頼経)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍で藤原摂関家から迎えられた摂家将軍。両親ともに源頼朝の同母妹「坊門姫」の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係で妻は源頼家の娘竹御所。竹御所は難産の末、母子共に亡くなり源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された。(宮騒動)
この時に源義経の弟の範頼を育てた熱田神宮神官は追放される頼経を送り届ける役であったと云う。






●日本語の「お前」の語源 ⇒ 日本語を知らない日本人の誤り!!

2018-03-26 | 歴史
■元々は天皇や神々の「御前に」から来た言葉であり本来は尊敬、謙譲を意味する言葉が、近代では「人を見下す言葉」と思われて、争いになる事が在る。男性が妻を呼ぶ時に親愛を込めて「お前」と呼んだら妻が「侮辱された」と怒り狂ったと云う話を聞く。
余りにも無知な日本人が増え続けている。学校教育では漢文、古文の教育も少なく成って、日本人の「天皇」や「神々」に対する理解が薄く成った。しかし、新年には「初詣」に挙って出掛ける日本人!!