赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚🌸 「真書 太閤記 全三十巻」に見られる「織田信長」、「前田利家」、「豊臣秀吉」、「豊臣秀次」、「豊臣秀頼」、「徳川家康」、「石田三成」達!!

2021-04-16 | 歴史






■「太閤記」は織田信長と前田利家達の家臣の戦乱の歴史と織田信長の本能寺での暗殺、豊臣秀吉の関白、太閤への就任、朝鮮出兵、秀頼の誕生、秀次の関白への就任と切腹、秀吉の死去迄を記している。
秀吉の死亡時には朝鮮出兵中で在った為に石田三成達は秀吉の死亡を伏せ、後に葬儀の様子を事細かに作文させて家臣達にその作り事の葬儀の様子を転写させて、全国に流布した。「真書太閤記」には秀吉の葬儀を報せるこの偽物の「葬儀記録」も細かく記載され、参列の武将達の様子も含めて載せられている。











🌸🔷🔹 【近江国に在った「加賀藩領」】 ⇒「加賀藩領近江国今津村、海津村」の位置と変遷!!

2021-04-14 | 歴史
■加賀藩領として、近江国の琵琶湖沿いに所領が在った。






◆今津村は1864石で、秀吉が前田利家の大阪への旅の休憩地として与えたもので、豊臣家の大老を辞するに当たり秀吉に返上を申し入れたが、秀吉はこの地を「芳春院の化粧料」として「芳春院」に与えた。

◆海津村は加賀藩領の尾添村、荒谷村の代替えとして加賀藩に与えたもので、福井県と石川県の境に在る「白山」の神領と支配権を巡り、福井県大野市の「平泉寺」と石川県白山市鶴来町の「白山宮」が争った為、仲裁した幕府はこの二村を幕府直轄領として、代わりに琵琶湖を臨んだ海津村を「藩邸」として与えたが、実際には、この地は大阪、京都への物流の拠点としての「蔵屋敷」が置かれた。

📕📖【高岡】命名の真実💢 ➡ 「金沢古蹟志」(※森田柿園著)・「加賀藩史稿」(※永山近彰編)記載の加賀藩士「九里氏」⇒織田信長家臣から加賀藩士へ・「高岡城地鎮祭」の執行!!

2021-04-12 | 歴史
■「金沢古蹟志」
加賀藩に九里氏(くのりし、くりし)と言う生え抜きの家臣がいたと森田柿園は特にその著作の「金沢古蹟志」に書残している。この氏族は北陸および近畿の氏族で、表記には九ノ里(九野里)、九法、久乗(久乘)などの変種があると云う。









石川県図書館協会発行の「金沢古蹟志」(※森田柿園著)に見る「九里氏」。

■享保九年の加賀藩士帳に「千五百石九里甚左衛門」と在り、この一族は明治維新の廃藩迄、金沢市新竪町広見に居住したが、家屋を売却して何処かへ移転したと云う。
この先祖の九里夕庵は前田綱紀の近臣で、二千石を賜っていたと云う。
幕末の九里正長は「越登賀三州誌」等を著した「富田景州」の同僚だったと云う。九里氏の祖先の「九里甚左衛門」は当初、織田信長に仕え、前田利家が越前府中(福井県武生市)の城主の時に前田利家に仕官した加賀藩の古老で在ったと云う。
この一族は、歴代、小姓頭、馬廻り役、定番頭、金沢町奉行、算用場奉行等の要職を歴任したと云う。加賀藩の学者の「富田景州」や「森田柿園」は特にこの氏族を「加賀藩成立以来の古老、知識人」として特に紹介している。

■前田利家が焼き討ちにして全山が殺害された富山県と石川県境の「石動山」は後に加賀藩によって一部が再興された。この復興した「石動山」の別当には「九里一族」で、「高岡城の地鎮祭」を執行した「金沢波着寺住職の空照」が就任している。(※「石川県史」)

・近年発見した「石動山普門院」の保管されていた経典



・「石川県史」に見られる「石動山大宮坊別当 空照」(俗姓 九里氏)の記録



■加賀藩記録「三壺聞書」に、【「前田利長」は「高岡城」の建設の時に【愛宕波着寺】の住職を呼んだ】と記載されている。この「愛宕波着寺」は元々、福井県に在った寺で、この寺の由緒に
【金沢市に波着寺なるものあり調査の処 山号泰澄山波着寺と読んでいる。開祖は安養坊「空照」。越前足羽郡波着寺に居た頃前田利家の祈祷所であったので金沢に召寄られ広坂の地に寺地を賜りたが元和五年現在の所に移転せしめられた。】と在り、寺のHpには【金沢市石引2-18-5 「創建は神亀年間(724~729年)。白山信仰の寺として栄える。高野山真言宗の寺院。加賀初代藩主前田利家が越前府中に在城時、祈願所にした縁で、1619年(元和5年)加賀3代藩主前田利常の時、現在地に移転された。江戸時代には、1万坪の境内地があったが、現在も白山町として地名が残る。山号は泰澄山と言うが、白山或いは白流山とも号している。本堂には白山の扁額が掛けられている。加賀騒動の大槻伝蔵が、小坊主の頃当寺に預けられていた。」】と在る。
・慶長十四年(1609年)三月に富山城が火災で焼けた為に前田利長は高岡市(当時は関野)に移る事を決めた。直ちに用地の選定が行われて地鎮祭を執り行い、八月十六日に引越の祝いを盛大に執り行ったと云う。「高岡城」の地鎮祭は、当初、真言宗の仏式で行ったが、後に、利家の妻の「まつ」の提言で「吉田神道」で改めて地鎮祭を行ったと云われるが、「三壺聞書」では「真言宗 愛宕波着寺」の住職によって地鎮祭が行われたとのみ記しており、この時の住職が「空照」と云う。

■「三壺聞書」は加賀藩士山田四郎右衛門が3つの壺に書き貯めた記録を纏めたものと言われ、藩主の前田綱紀も関心を持って調査していたと言われる。
加賀藩の本藩では「高岡」の命名は「波着寺法院 空照」であるとし、高岡市の住民側は「総持寺住職 快雄」の命名であるとし、おまけに高岡市では「鳳凰鳴けり高き岡に」と云う「詩教の一節」迄が付け加えられているが、加賀藩の大量の書籍を研究していた歴史家の「富田景周」、「森田柿園」の両大家は高岡市の説を否定している。高岡市の住民側は「瑞龍寺」の山号の「高岡」と云う名称が「加賀藩が総持寺の旧山号の【高岡山コーコーサン」】を奪い取ったものだ」という事実を隠そうとして「高岡は総持寺住職が詩教の一節から命名したもの」と取り繕った可能性がある。「高岡山」は元々、【「総持寺」が「赤丸村舞谷」の小高い山の上に在った】事を示す「総持寺」の本来の山号で在り、「鳳凰鳴けり」とは、「総持寺の千手観音像の胎内」に、「承久の乱」の結果隠岐島に流罪になった「後鳥羽上皇」の法名「金剛位理」が記載される事から、「後鳥羽上皇(鳳凰⇒法王)は高い岡の上にある総持寺の千手観音像の胎内で鳴かれている」事を意味して「高岡山総持寺」としていたものを、前田家が横車で山号の「高岡山」を横取りして瑞龍寺を「高岡山瑞龍寺」としたものと見られ、長年、総持寺の総代を勤めた「池田市ヱ門」が、総持寺住職の交代の時に新住職に「総持寺の由緒」を伝えたが「その由緒はこの時に何処かへ秘匿されたか破却されたか、失われてしまった。」と云う池田市ヱ門の記録が、総持寺と密接な関係に在った「赤丸浅井神社」の記録に遺されている。この時に、「総持寺は元々、赤丸村に在った」と云う部分が改竄されて、「総持寺は石堤村長光寺の地に在った」と改竄された。この立証をしたのは、「国吉村月野谷に住む石堤村浅井神社の神官」が、自作の手書きの絵図を提供したものだと歴史家の「飛見丈繁氏」は著作にその絵図を遺されている。この背景は「吉田神道高岡関野神社関氏」が、「延喜式内社赤丸浅井神社」の末社で在った「石堤浅井神社」が「延喜式内社浅井神社」の本社で有ると主張して、「延喜式内社浅井神社」が、吉田神道の一派で有ると主張する狙いが在ったと見られる。この「神社簒奪の悪意」が「高岡市」の由緒や「総持寺」の由緒を捩曲げた為に、この動きに同調した高岡の町民や高岡市の旧家、明治時代の高岡市の役人達が結託して、「高岡市の歴史」を作り変えた。その集大成が、現在の「高岡市史」で在り、その筆者はこの意向を伝える目的で、主に一人で「高岡市史」を編纂したものだと云う。「高岡市」では、現在も尚、文化遺産に指定された「高岡御車山祭」の由緒は、「高岡関野神社の祭り」だと吹聴しているが、一方、「赤丸村」で創建されたと由緒に記載される「越中宮極楽寺由緒」には、【この祭りは元々、「後醍醐天皇」の皇子「宗良親王」が北陸を巡航された時に使用された「御車」を使用したもので、その為にこの車には「極楽寺」に祭られている「熊野社」の鳥居を飾っているのだと伝えている。従って、現在も尚、「御車山祭」が出発する前には、祭りの役員達が「陣笠」、「裃」で「越中宮極楽寺」へ拝礼に出向いている。ただ、二番町の山車以外は、「御神輿」を大型にした「四輪車」で在り、この部分は関野神社が関わる部分なのだが、いつの間にか祭全体が「関野神社の祭り」にすり替えられている。
「高岡市教育委員会」が昭和期に発行した「高岡史料」は比較的、両論併記の記載が見られるものの、あくまでも「関氏旧記」等として「吉田神道高岡関野神社関氏」の意向を受け継ぐ形で「高岡市の歴史」を編纂している。神道自体を否定するものでは無いが、全国で「吉田神道」が引き起こした意図的なトラブルに市民達が目覚める事が重要だ。通常はどこの「郷土史」でも、数人の編集委員を選任して、その中には全国的に著名な歴史家に参画して貰うのが普通だが、吉田神道を信奉する排他的な高岡市では「一人で独占的に市史を編纂した」と言い、それを立証する「資料編」も全く無いお粗末な代物だと云う。その編纂した「高岡市史 三冊」は、高額な本であったにも関わらず、有力者に無償配布された。この様な、全員参加の「秘密主義」、「利権中心」の腐り切った高岡市政が現在も受け継がれており、近年、「高岡市」が「財政危機」に陥った大きな原因だ。
このディジタル化された現在に於いても、観光施設の「高岡曳山会館」の館長の高岡市役所幹部は「前田家が開いた高岡市には1600年以前の歴史は存在しない」と見学者を怒鳴りつけた。
この様な誤った「歴史書」をバイブルとして、「加賀藩信奉者」の高岡市は「歴史の町作り」を目指すと云う。正に加賀藩時代の「前田教」を信奉する「新興宗教」が、破綻した財政を正す事も無く、嘘で固めた真っ暗闇に市民を陥れ様としている。何よりも違和感を感じるのは、加賀藩本藩自体が伝える歴史では無い歴史が、高岡市では「正史」にされている事で在り、「加賀藩」や「金沢市の町作り」に委員として長年関わりつづけた者としては、「高岡市の歴史」は、全く異質な「新興宗教」としか受け止められない。本家本元の「金沢市」では、「前田利家」の事を天皇の象徴の「鳳凰」に例えている馬鹿な奴はいない。それが、高岡市に帰って来ると、市役所や有力町民達が口を揃えて【「鳳凰鳴けり高き岡に」が「高岡の由来」だ】と主張するから驚きで在る。
尾張からやって来て散々に住民を殺戮して「恐怖政治」を築いた「封建領主」が「高岡市」へ来ると「天皇」に例えられているのだから恐れ入る。日本全国でも、何処へ行っても、殺戮を繰り返した封建領主を「天皇」(鳳凰)に例える等、正に「正気の沙汰」では無い。
「井の中の蛙 大海を知らず」と云う言葉を痛感する。





■「加賀藩史稿」の「九里正貞」
加賀藩の歴代藩主や歴代藩士について公爵前田利嗣からの依頼で永山近彰が編纂した「加賀藩史稿」には詳しい藩士の由来も記されている。
















◎この「金沢古蹟志」、や「越中志徴」・「加賀志徴」・「能登志徴」を著した「森田柿園」は、加賀藩の記録を遺した学者だが、膨大なその著作や貯蔵資料は石川県立図書館の「森田柿園文庫」に保管されている。
この文庫には、「延喜式内社赤丸浅井神社」の古絵図も保管されている。
森田柿園は元々、市街地中心部の「柿の木畑」に住まいしていたが、この土地は金沢市役所近く、旧の「宇都宮書店」の近くに在ったが、その後、この土地は富山市の飲食業者の手に渡り、現在は駐車場になっている。