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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠【大江広元日記】源頼朝家臣の「大江広元」(旧姓 中原広元、巴御前の一族)の日記に記される鎌倉幕府の実録⇒もう一つの【義経記】、【吾妻鏡】、【源平盛衰記】!!

2021-04-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
🔴【越中松倉郷に住した刀工「正宗十哲」の一人[江義弘](「郷義弘」)は《大江氏》と云われる!!】





🔻「越中国」と「長井」➡「大江」➡「毛利」一族の痕跡!!
源頼朝の家臣の「大江広元」は、初期には「長井氏」を名乗り、子孫は「毛利」を名乗った。「大江広元」は膨大な統治記録の「大江広元日記」を遺しており、「義経」との記録も遺している。富山県高岡市内島村は、「南北朝時代」に大江氏の先祖とされる「長井氏」の所領で在った事が「毛利家文書」に遺されている。(※「富山県地名大辞典」)

又、古書の「刀剣鑑定書」には、「江義弘」と記載されるものも在り、「郷義弘」は、「越中の松倉郷に住んだ」事から、「郷義弘」と刻んだと伝えられる。しかし、真贋は明らかでは無いが、実際に「江義弘」と「制作年月」が刻まれる「古刀」が存在しており、都から遠い越中の国に住んだ「江義弘」は「松倉郷住 義弘」とされるのが普通だが、何故か「郷」と伝えられる。「郷義弘」と銘打ったものが見つからないのは、実際には「江義弘」で在ったからでは無いだろうか?
「歴史」として伝えられるものは、「口伝」が多く、誤りも多い。それ故に「幻の郷義弘」は更に人気が出たものかも知れない。従って、現在伝えられる「郷義弘」は「刀剣鑑定家」が墨書きを加え、鑑定書を作文して、鞘書きを加えて「郷義弘」として流通している。当時はこの「鑑定書」や「鞘書き」を加えただけで、その刀の一振が「一国」とも交換される位に高価なものになった。そこに、「偽刀」が登場する余地が在った。
「源頼朝」と「越中吉岡庄(※(富山県赤丸村)」の統治を巡って、「後白河上皇」がやり取りした有名な古文書が「鎌倉幕府の正史」とも云われる【吾妻鏡】に遺されている。「毛利家文書」に遺されている高岡市内島村の記録は、当時は「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」の隣接の「高岡市内島村」の記録で在り、「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」の域内で在ったのかも知れない。後世の「五位庄」では「内島村」は完全に「五位庄」に含まれている。又、内島村の隣接の「越中吉岡庄」には、同時期に「宇多一族」が繁栄しており、刀剣鑑定の古書に「宇多派」と「佐伯則重」、「郷義弘」が各々、技術を交流したと記録されているのも、それぞれが小矢部川流域の近接地や北陸街道沿いに栄えたからで在ったのでは無いだろうか?

・「高岡市内島村」は、「毛利氏」の祖先に当たる「長井氏」の所領で在った。



🔽「越中刀工系図」➡【江義弘】、【宇多国光】








■【大江広元】は紀伝体(「本紀」・「伝」で記される歴史を伝えた)で歴史を伝えた歴史家の「中原廣季」へ養子に入り、後に「大江氏」に復姓した。
「中原氏」は、古くからの学者の一族で、代々「天皇」や「上皇」にも近侍して「院宣」等を発行した著名な学者を輩出した。又、「木曾義仲」を密かに養育した「中原兼遠」やその息子で、「源平の戦い」で木曾義仲軍として名を挙げた「今井兼平」、「樋口兼光」、「巴御前」の同族としても有名だ。
この子孫から「長井氏」や戦国武将「毛利氏」が出ている。
「大江広元」は鎌倉幕府の正史とも云われる【吾妻鏡】や、室町時代に成立したと云われる「義経記」とも異なる観点で、「後白河院庁」や鎌倉幕府の中枢で政務を取り続けた人物として【大江広元日記】(76巻、78巻の写本等が在る。)を遺している。
嘉禄元年(1222年)、「北条政子」、「大江広元」が死去。初めて「北条泰時」、「北条時房」の複数の執権制が成立した。



≪◆ここに一部紹介するのは、【扶桑見聞私記】(「別名 大江広元日記」:「扶桑国」=「日本国」)の76巻本の写本で、「信州松本藩水野忠幹」が享保3年に藩主になると「松本地誌」とも云われる【信府統記】の編纂事業に着手して、家臣の「鈴木重武」、「三井弘篤」、「丸井友陳」、「野村政助」を助手として編纂に着手された。しかし、この【信府統記】は、完成する事無く「水野忠幹」が死去して、その完成は次代の「水野忠恒」の時代で在ったと云う。この写本は「野村政助」がその編纂資料として写本を記載した自筆本で在り、76巻本の内、12巻下と「壇之浦の戦いの部分」と見られる24,34~41巻が欠けた68冊本で在る。この写本は信州に関係した「木曾義仲」の部分に就いて遺されたものらしく、「義経、弁慶主従」の奥州落ちや「富樫屋敷」での弁慶の勧進の様子やその時の富樫の心情等が詳しく記載されている。又、後白河院政や鎌倉幕府の官僚としての立場から、「後白河上皇」の皇子「以仁王」の「平家追討の令旨」を承けて全国の源氏に伝えた源義朝の弟の「源行家」の動きを具に記載してその功労を愛でている。これ等は「後白河院」や源氏三代将軍や藤原摂家将軍、執権北条氏の時代の「鎌倉幕府」の実録として貴重な記録である。≫

・「加賀安宅川の戦い」、「越中般若野(高岡市中田~砺波市)」の「木曾義仲」の平家との戦い




◆【大江広元】
久安4年(1148年)大江維光の妹が嫁いだ「藤原光能」を父、先祖に白河院、堀川院の時に和漢、和歌の才人として著名な「大江(江)匡房」を持ち、京都に生まれる。後に、母が「中原廣季」と再婚してその養子となる。
■【中原兼遠】中原氏の祖とされる「以忠」の系統とされ「木曾義仲」を匿って育てた。子に「木曾義仲」に従った「樋口兼光」、「今井兼平」、「巴御前」は本姓は「中原氏」。
(※【羣書系図部集巻176大江系図、165中原系図)

・年月不詳:明経得業生となる。
・仁安3年(1168年)12月13日:縫殿允に任官。
・嘉応2年(1170年)12月5日:権少外記に遷任して後白河院政(※「越中吉岡庄」は後白河院の庄園で在った。)に通暁する。
・承安元年(1171年)1月18日:少外記に転任。
・承安3年(1173年)1月5日:従五位下に叙位。
・月日不詳:九条兼実の政務に関与。
・寿永2年(1183年)4月9日:従五位上に昇叙。
・元暦元年(1184年)六月:36才、兄の中原親能の進言で相模国鎌倉に下向。源頼朝に招かれてこの年の十月に家政機関たる「公文所別当」に就任。9月17日:因幡守に任官。
【・元暦元年(1184年)2月、木曾義仲、中原兄弟が戦死。
木曾義仲軍は近江国粟津の戦いで破れ、「倶利伽羅谷の戦い」(富山県小矢部市、石川県津端町)等で平家追討に戦効が在った中原兄弟の「今井(中原)兼平」は義仲の後を追って自害。「樋口(中原)兼光」が「源義経」に捕縛されて斬首。「巴御前(中原氏)」は落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだが「和田合戦」の後に、越中国礪波郡福光の越中石黒氏の元に身を寄せ、出家して義仲・中原親子の菩提を弔い91歳で生涯を終えたと云う。】
・文治元年(1185年)4月3日:正五位下に昇叙。4月27日:頼朝が公卿に列したのに伴い、「公文所」を「政所」と改め、別当に留任。6月29日:因幡守を辞す。
・建久2年(1191年)4月1日:明法博士兼左衛門大尉に任官。検非違使にも補任。11月5日:明法博士を辞す。
・建久3年(1192年)2月21日:検非違使・左衛門大尉を辞す。
・建久7年(1196年)1月28日:兵庫頭に任官。
・正治元年(1199年)正月将軍頼朝が没した後、北条氏を中心とする執権政治の確立に貢献。四月、十三人の御家人の合議制を取り、三善康信、中原親能、藤原行成等と共に北条時政、義時を補佐して政務を取り仕切った。12月9日:掃部頭に遷任。
・正治2年(1200年)5月:大膳大夫に転任。
・建仁3年(1203年):将軍頼家が比企氏と共に謀殺された。時政の娘婿の平賀朝雅の乱が起こり時政が失脚して、広元は北条義時を補佐。大膳大夫を辞す。
・建永元年(1206年):政所別当を辞す。
・建保元年(1213年)1月5日:和田義盛の乱の鎮圧。従四位上昇叙。
・建保2年(1214年)1月5日:正四位下昇叙(極位)。
・建保4年(1216年)1月27日:陸奥守に任官(極官)。▼閏6月1日:【「大江氏」に改める】事を朝廷が許可。8月:政所別当に復職。
・建保5年(1217年)11月10日:陸奥守を辞す。出家して覚阿を号す。
・承久三年(1221年)五月:【後鳥羽上皇】により「承久の乱」が起こる。
「越中吉岡庄」が「後鳥羽院」の庄園で在った為に「越中宮崎氏」や「赤丸浅井城を累代居城とした」(※「富山県西礪波郡紀要」)とされる「越中石黒氏」、「加賀林氏」等は後鳥羽上皇軍に馳せ参じたと云う。
この時、「大江広元」は、鎌倉幕府「北条義時」に京都への進撃を薦め、長男の親廣が上皇に従った為に他の子息を幕府軍に参加させて大江家を繋いだ。
・嘉禄元年(1225年)6月18日:死去。享年78。法名「覚阿」。










■【今昔物語】にも登場する「大江氏」のルーツ
➡「垣武天皇」と「大江氏」、富山県西部と「垣武天皇」の繋がり!!

文武天皇から聖武天皇の時代の朝廷の実力者は「藤原不比等」だったがその後は、天武天皇の孫で壬申の乱で活躍した高市皇子の子「長屋王」が力を持った。政変が起こり長屋王が自殺すると、「藤原不比等」の子の4人が政権を担当する。だが藤原氏には相次ぐ不幸が訪れ、藤原四兄弟の武智麻呂、房前、宇合、麻呂が相次いで天然痘で死亡。その後、孝謙女帝・淳仁天皇・称徳天皇の時代では、臣籍降下した皇族で聖武天皇の妻の「光明皇后」の異父兄で在る「橘諸兄」が、次いで光明皇后の甥で南家の「藤原仲麻呂(恵美押勝)」、次いで孝謙女帝が寵愛した僧の「道鏡」が権力を握る。「称徳天皇」の後の「光仁天皇」、その皇子の「桓武天皇」は「光仁天皇」を擁立した「藤原永手、良継、百川、魚名」等と調和していたが、延暦15年(796)に右大臣藤原継縄が死亡して大納言以上に藤原氏が1人もいなくなると、「桓武天皇」の従兄弟の皇族達が太政官の要職を占めた。「桓武天皇」は、百済系渡来人である母方の和氏や百済の王族の子孫で百済王一族を優遇し、外祖母にあたる【土師氏】の一族にも、【大枝(後の大江氏)朝臣】や「秋篠朝臣」、「菅原朝臣」の姓を与えて皇族に連なる氏族とし、有能な官人を登用して親政を行った。【大江氏】は天皇の一族として繁栄して、鎌倉幕府では源頼朝の側近として権力を握った。
この一族が「加賀藩」の「前田氏」と云われ、「土師氏」末裔の「菅原氏」を名乗った。
🔽「垣武天皇」の姪に当たる「五百江女王」は、「越中国」の国吉村に在った庄園「須加庄」を所有していた。「橘諸兄」の支援を受けていた「大伴家持」も連座した「垣武天皇」の弟「早良親王」が犯人とされた「藤原種継暗殺事件」の後に、「五百江女王」はこの庄園を「東大寺華厳院」へ寄進して「東大寺庄園」として存続した。(※「平安遺文」)

🔴 【鎌倉幕府と大江広元・郷義弘】 旧家から発見された幻の越中刀工【江義弘】の刀は本物?⇒越中刀工【宇多派宇多国光・古宇多】、【江義弘】、【佐伯則重】系図。

2021-04-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●富山県魚津市に在った「松倉郷」に工房を構えた「江義弘」は「大江氏」とも云われ、富山市呉服(五福)の「佐伯則重」と共に「相州正宗十哲」の一人とされる。相州伝(相模国)の刀は「越中吉岡庄(富山県高岡市赤丸村鍛冶屋町島)」に工房を構えた「宇多国光」の流れを汲む「宇多派」の刀剣が黒ずんでいるのと比べて明るい地金が特徴とされる。「宇多派」の刀は独特の越中の地金を使用しているのと比べて「相州伝」は関東から地金を取り寄せていたと云われる。しかし、系図では、宇多派の「宇多国光」の二男の「宇多国房」は「越中国御服山則重門人」と銘を切ったとされており、南北朝時代末期の宇多刀は【古宇多】と呼ばれて相州伝の重厚な剛刀が鍛えられたと云う。

■越中の刀工の【宇多国光】・【郷義弘】・【佐伯則重】は、系図によると「越中吉岡庄」が【後醍醐天皇】の庄園で在った「南北朝時代」に越中で作刀を初めており、「後醍醐天皇」側の朝廷勢力と「足利尊氏」側の幕府勢力との対立の流れが読み取られる。「正宗十哲の一」とされる【郷義弘】と【佐伯則重】は、関東の相州伝(※相模国ー神奈川県)とされ、【宇多国光】は、大和伝(※大和国ー奈良県)の流派で在る。
🔽「越中刀工 宇多派」は南北朝時代に南朝軍で伊勢国司「北畠親房」の支配下に在った大和国(奈良県)宇陀郡から南朝「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄(赤丸村)加治屋町島」に移り住んで江戸時代迄、作刀したと云う。











●【高岡市内島村」は、鎌倉時代の【毛利家文書】に記録が残っている。




■「毛利家文書」【貞和五年八月(1349年)】に記録に拠れば、「越中国内島村」は鎌倉時代に「毛利家家臣」の「長井道可」から嫡子「貞頼」に譲られ、「次女 ねす御前」に譲られている。(「萩藩閥閲」)➡(「角川日本地名大辞典」)


🔴【郷(江)義弘】
➡「郷義弘」は「大江氏」とされて【江義弘】と記銘される。
《 脇差し ー貞和五年三月銘入り≫




(▼南北朝の騒乱;貞和五年《1349年》九月、足利尊氏が足利義詮を鎌倉より呼び寄せ、足利基氏を鎌倉公方に任命して鎌倉へ派遣する。足利直冬の追討を決定する。)
【貞和(ジョウワ)は、日本の南北朝時代の元号で北朝方に使用された。康永➡貞和➡観応。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が「後村上天皇」。室町幕府将軍は「足利尊氏」。】

■鎌倉幕府の【大江広元】(※元 中原姓)と【毛利一族】
  ➡「越中」での【大江氏】の足跡
(※「木曾義仲」は木曾の中原氏に育てられその娘の「巴午前」は義仲の愛妾となる。「巴午前」は義仲亡き後、越中石黒氏を頼り、「越中国福光」で老後を過ごしたと云う。)
「毛利家」は「源頼朝の側近」で在った「大江広元」の子孫に当たる。
「大江広元」は「源頼朝」の重臣で在ったが、「鎌倉幕府の正史」とも云われる「吾妻鏡」よりも詳しく、北陸で展開された「源平の戦い」や「勧進帳」の元に成った「富樫館での勧進」について【大江広元日記】(「扶桑見聞私記」)に記載している。「越中国内島村」を毛利一族が知行されていたと云う事は鎌倉幕府重臣の「大江広元」に知行されていたと云う事か? 「源頼朝」は「源義経」探索を口実に全国に「地頭」を配置して、「越中吉岡庄」には、「地頭成佐」を配置したが、「後白河上皇」から「地頭が不法を働く為、直ちにやめさせる様に」との綸旨が出されている。(※「吾妻鏡」)





■■【承久の乱】鎌倉幕府の「源實朝将軍」が暗殺されて、比較的良好な関係だった「越中吉岡庄の庄園領主後鳥羽上皇」は、愛妾の亀菊の庄園での地頭の振舞いに怒り、地頭の廃止を要求した。しかし、幕府は政権の基盤になっていた「地頭の廃止」についてはにべもなく拒否した。幕府の態度に怒った「後鳥羽上皇」は「元能登守藤原秀康」等の北面、西面の武士団に勅書を下して幕府追討を命じた。幕府側は「源頼朝」の血筋で、「後鳥羽上皇」の中宮の九条家の系統でもある「九条頼経」を将軍として、朝廷との関係を保とうとしたが、「後鳥羽上皇」の幕府に対する怒りは強く、是に対して幕府側は妻の「北条政子」を先頭として徹底抗戦を命令して「承久の乱」が勃発した。
この頃、越中には「後鳥羽上皇」の直轄庄園「後院領 吉岡庄」(※延喜式内社赤丸浅井神社を地主神とする53ケ村から成る古い庄園で、初見は白河天皇の時に京都上賀茂神社として見られる。)があり、この戦いでは、元々、越中砺波郡の豪族であった「石黒一族」を初めとして、越中の諸将は「後鳥羽上皇側」として参戦した。加賀藩の時に新川郡で「鳥見役」を勤めた石黒一族の記録では、「承久の乱」の時に越中の諸将は京へ攻め登り、石黒氏の一族は京に残った者、越前に残った者、越中に戻った者がおり、この内、越前に残った石黒一族は越前朝倉氏に仕えたとされる。
前田家本[承久記]に拠ると、この時の木舟城の『石黒三郎』は砺波山(倶利伽羅山)の戦いで多勢に無勢で幕府に降伏したとされる。この時、加賀の林一族の同族の「富樫氏」は幕府側で戦い、一族での死闘も起ったと言う。




・「赤丸浅井城」は福岡町木船の「石黒光弘」の父親の「石黒光景」の居城で、「後院領 吉岡庄」を統治したと伝わり、南北朝時代には「石黒重行」が「後醍醐天皇」の皇子「宗良親王」をお迎えしたと云う。
(※「源平盛衰記」、「越中石黒系図」、「富山県西礪波郡紀要」)


・「延喜式内社赤丸浅井神社古墟図」(※「石川県立図書館」所蔵)



🔻「承久記」(前田家本影印版)





▼この戦いでは、鎌倉幕府15000余騎に対して越中の「後鳥羽上皇方」は加賀・越中の林、仁科、宮崎、井出、石見、安原、石黒三郎、近藤等の兵3000余騎。宮方は砺波山に3手に分かれて陣を張ったが、幕府方は新潟から攻めて来た「五十嵐党」を先頭として砺波山を越え、粕屋は討死し、仁科、宮崎は一戦もせずに落ち延びて行った。加賀の林次郎、越中の石黒三郎、近藤四郎、五郎等はこの様子を見て不利を悟り、幕府方に降伏した。
⇒この鎌倉幕府軍の「五十嵐党」は、「承久の乱」で勝利した恩賞として砺波郡の「吉岡庄國吉名」を幕府から与えられた。「吾妻鏡」には、この元後鳥羽上皇の庄園「吉岡庄」の内の「国吉名」を北条氏が横領して、「五十嵐氏」が訴えて勝訴した記事が見られる。この時、「國吉名」は「越中吉岡庄」の「延喜式内社 惣社 赤丸浅井神社」の神域で在り、この「國吉名」は24ケ村からなっていた様だ。(※「名 みょう」の責任者は「名主」と呼ばれた。)
(※「國吉村誌」・「赤丸浅井神社由緒」→富山県立公文書館「皆月文書」)

■「加賀藩伝来 富田郷義弘太刀」由来(※【加賀藩史稿】「瑞龍公世家」)




慶長二十三年七月二十三日、「豊臣秀吉」は収集した寳刀の中から「富田郷義弘」の太刀を「前田利家」に贈り、八月十八日に「豊臣秀吉」は死去した。



🔴【富山県の源頼朝の統治】⇒【毛利家文書】に記載されている高岡市内島村。➡「源頼朝側近 大江広元」と「越中吉岡庄」(室町時代には五位庄)!!

2021-04-10 | 越中国吉岡庄・五位庄
■鎌倉幕府の正史とも言われる【吾妻鏡】には、源頼朝の「越中吉岡庄」に関わる文書も遺される。















■【富山県高岡市内島村」は、南北朝時代の【毛利家文書(※「萩藩閥閲録」)】に記録が残っている。
「内島村」は後に、隣接の「国吉村」、「石堤村」の一部に編入されている。





▼【長井姓】;垣武天皇の第一皇子(五十一代)「平城天皇」の皇子阿保親王の子孫「長井時広」を祖とする。

■戦国大名の「毛利家」は鎌倉幕府「源頼朝」の家臣として重きを為した「大江広元」の子孫に当たる。隣接の「天皇家庄園 越中吉岡庄」には、「源頼朝」が「成佐」と云う地頭を配置していた事が「吾妻鏡」に記されている。「越中国内島村」が代々、毛利一族の「長井家」に知行されていたと云う事は、毛利家の先祖の鎌倉幕府「大江広元」が知行されていたと云う事か?




🔽南北朝(後醍醐天皇)時代に「大江広元」の子孫は「毛利」と改名して、又、一族の先祖は「長井姓」を使用している。(※「本朝武家評林」)
⇒この当時は、富山県唯一の皇室庄園「越中吉岡庄」が富山県高岡市福岡町赤丸周辺に設定されており、「後醍醐天皇」の領地で在った。



■富山県南砺市の「高瀬遺跡」は、「足利尊氏」が東大寺八幡宮領に寄進した庄園で在った事が「足利義教」の時代の記録に残されている。




🔽「足利義教」が寺領を寄進したとされる愛知県一宮市の「臨済宗別格本山 妙興寺」に遺る【足利義教 像】
「足利義教」は「播磨、備前、美作守護赤松満祐」に暗殺され、赤松氏はその報復で壊滅した。後に「三種の神器」を後南朝勢力から奪った孫に当たる「赤松政則」は「加賀半国守護」(石川県石川郡、河北郡)を与えられた。
その後、加賀前田家の藩士には、赤松一族が士官しており、石川県の「雲龍寺」(旧五位庄、高岡市福岡町加茂村創建)や高岡市の「天景寺」(旧五位庄、高岡市福岡町赤丸村舞谷創建、源氏の笹竜胆紋)は赤松一族の菩提寺とされる。

🔻越中西部の中心地区で在った「越中吉岡庄」、「越中五位庄」!!
「越中五位庄内島村」の隣接地の「五位庄赤丸村」は、「平安時代~鎌倉時代」に「天皇家庄園越中吉岡庄」と呼ばれていた。この庄園は「国吉名」、「赤丸村」、「小矢部市宮嶋郷」を含み、「郷社赤丸浅井神社」はこれらの近郷を統括した「五位庄53ヶ村総社」で在った。
この庄園は、「足利義満」が将軍になった頃には「五位庄」と成り、足利幕府御粮所と成って、後には、「臨済宗相国寺」の庄園として寄進されている。「五位庄」は、室町時代になると小矢部川流域の福野、福光から高岡市中田、伏木河口の六渡寺村辺り迄包含した広大な庄園に拡げられた。
(※「東寺百合文書」、「畠山文書⇒大阪府羽曳野市資料叢書」、「越中絵図」畠山文書)












⇒【越中吉岡庄】の記録(※「兵範記(人車記)」・「吾妻鏡」)


🔽「源頼朝」は「源義経」探索を口実に全国に「地頭」を配置して、後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」には、「地頭成佐」を配置したが、「後白河上皇」から「地頭が不法を働く為、直ちにやめさせる様に」との綸旨が出されている。(※「吾妻鏡」)









■■【承久の乱】と「後鳥羽上皇」の「後院領 越中吉岡庄」!
鎌倉幕府の「源實朝将軍」が暗殺されて、比較的良好な関係だった「越中吉岡庄の庄園領主後鳥羽上皇」は、愛妾の亀菊の庄園での地頭の振舞いに怒り、地頭の廃止を要求した。しかし、幕府は政権の基盤になっていた「地頭の廃止」についてはにべもなく拒否した。幕て府の態度に怒った「後鳥羽上皇」は「元能登守藤原秀康」等の北面、西面の武士団に勅書を下して幕府追討を命じた。幕府側は「源頼朝」の血筋で、「後鳥羽上皇」の中宮の九条家の系統でもある「九条頼経」を将軍として、朝廷との関係を保とうとしたが、「後鳥羽上皇」の幕府に対する怒りは強く、是に対して幕府側は妻の「北条政子」を先頭として徹底抗戦を命令して「承久の乱」が勃発した。
この頃、越中には「後鳥羽上皇」の直轄庄園「後院領 吉岡庄」(※延喜式内社赤丸浅井神社を地主神とする53ケ村から成る古い庄園で、初見は白河天皇の時に京都上賀茂神社として見られる。)があり、この戦いでは、元々、越中砺波郡の豪族であった「石黒一族」を初めとして、越中の諸将は「後鳥羽上皇側」として参戦した。加賀藩の時に新川郡で「鳥見役」を勤めた石黒一族の記録では、「承久の乱」の時に越中の諸将は京へ攻め登り、石黒氏の一族は京に残った者、越前に残った者、越中に戻った者がおり、この内、越前に残った石黒一族は越前朝倉氏に仕えたとされる。
前田家本[承久記]に拠ると、この時の木舟城の『石黒三郎』は砺波山(倶利伽羅山)の戦いで多勢に無勢で幕府に降伏したとされる。この時、加賀の林一族の同族の「富樫氏」は幕府側で戦い、一族での死闘も起ったと言う。
この戦いでは、鎌倉幕府15000余騎に対して越中の「後鳥羽上皇方」は加賀・越中の林、仁科、宮崎、井出、石見、安原、石黒三郎、近藤等の兵3000余騎。宮方は砺波山に3手に分かれて陣を張ったが、幕府方は新潟から攻めて来た「五十嵐党」を先頭として砺波山を越え、粕屋は討死し、仁科、宮崎は一戦もせずに落ち延びて行った。加賀の林次郎、越中の石黒三郎、近藤四郎、五郎等はこの様子を見て不利を悟り、幕府方に降伏した。





⇒この「五十嵐党」はこの戦いの恩賞として砺波郡の「國吉名」を幕府から与えられた。「吾妻鏡」にこの記事が見られる。この時、「國吉名」は「越中吉岡庄」の「延喜式内社 惣社 赤丸浅井神社の神域で在り、この「國吉名」は24ケ村からなっていた様だ。(※「名 みょう」の責任者は「名主」と呼ばれた。)
(※「國吉村誌」・「赤丸浅井神社由緒」→富山県立公文書館「皆月文書」)








■かつての天皇家庄園【越中吉岡庄】が在った「赤丸村」は、南北朝時代に「後醍醐天皇」の庄園となり、南朝の武将の「楠木正成」が活躍した「河内国」の「金剛寺」から、戦乱を逃れて「後鳥羽上皇」の祈願仏の「千手観音像」が【総持寺】(現在、高岡市関町)に伝えられた。この「国指定重要文化財千手観音像」の胎内には「後鳥羽上皇」の法名【金剛位理卿】の名前と「本願聖人」の記載が在る。













🔴源氏の統領【八幡太郎義家】と【越中の源氏】➡【木曾義仲】と「越中石黒氏」他の越中国人領主達の「利波山の戦い」!!

2021-04-10 | 越中国吉岡庄・五位庄
■【源義家】、【木曾義仲】と「越中国」
➡高岡市福岡町向田には源氏の統領「源義家」の記録が遺る。
(※「福岡町史」)
【※この高岡市向田には「高岡市立福岡歴史民俗資料館」が在る。】







■朝香年木氏著【治承寿永の内乱論序説】には、「源平の戦い」に参戦した越中国人に付いて検討されている。その中には「源平の戦い」にも参戦したという福岡町向田を本拠地とした「向田氏」について記載されている。「木曾義仲」は「利波山の戦い」の前に倶利伽羅山に向かう時に源氏縁の「八幡宮」を見つけて、戦いの前に「埴生護国八幡宮」に戦勝祈願の願文を納めている。埴生と向田は至近距離に在り、その地の「向田荒次郎村高」が参戦していた事も関係が深いと見られる。又、埴生と向田の間の小矢部市今石動町は、木曾義仲を「埴生護国八幡宮」へ道案内をした「池田氏」が開発した地域で在り、かつての小矢部市今石動町は「池田」と呼ばれたと云う。
(※越中武士の石黒・宮崎・高楯 ・蟹谷・向田・水巻の諸氏が道案内役を務めたと云う。➡《源平盛衰記》)




▼「後白河上皇」の皇子「以仁王」は「平家追討の令旨」を源氏に対して発せられ、「木曾義仲」や「源頼朝」は平家打倒に立ち上がった。この時に、高岡市国吉村から赤丸村、小矢部市にかけては「後白河上皇」の【後院領 吉岡庄】と呼ばれ、「木曾義仲」に従った「越中石黒氏は吉岡庄赤丸村浅井城を累代、居城とした」と「富山県西礪波郡紀要」に記され、「源平盛衰記」には赤丸浅井城の「石黒光景」・木船城の「石黒光弘」親子の奮戦が記されている。

(※「越中吉岡庄」は「後白河上皇」が創建された京都の「蓮華王院三十三間堂」へ寄進され、かつて「平清盛」は「三十三間堂」の建物を「後白河上皇」の為に寄進した。上皇はその建物に「一千一体の千手観音像」を彫らせて祀られた。「吉岡庄」は「郷社五位庄53ヶ村惣社延喜式内社赤丸浅井神社 由緒」《※「皆月家文書」富山県立公文書館》に拠れば、現在の「高岡市国吉26ケ村」、「赤丸村、高田島、三日市村を含む加賀藩時代の五位庄地域25ケ村」、「小矢部市宮島郷2村」の【53ヶ村】とされ、国吉、赤丸、向田、宮島等を含む広大な庄園で在った。
「宮島郷」は鎌倉時代に入ると源氏縁の「藤原摂関家藤原道家」に与えられている。(※「鎌倉遺文」)
(「国吉村史」拠れば、「平清盛」の全盛期には平家の猛将・越中前司「平盛俊」・「平盛嗣」が「(吉岡庄)国吉名」に館を構えて越中、能登の二ケ国を統治していたと云う。「平家物語」、「源平盛衰記」等にはこの「越中前司平盛俊」➡《越中の前の国司の意味》が平家の猛将として記載されている。)
「平盛俊」は剛力として有名で、「平清盛」の政所別当を務める等そ清盛の側近として仕えていた。(『平安遺文』3891)。清盛からの信頼も厚く、厳島内侍を妻として賜ったという逸話もある(『源平盛衰記』)。安元元年(1175年)には越中守に在任していたとの記録が在る。(『山槐記』8月16日条)






■この「越中石黒氏」を統領とする越中の国人達は、挙って木曾義仲に従っており、義仲の道案内をした「池田氏」の本拠地は「赤丸浅井神社」の門前に屋敷を構えていた。
➡この一族は加賀藩の時代に加賀藩組合頭を勤め、その弟の「五右衛門」がその跡目を継ぎ「赤丸村の村御印」を無くして「手鎖、入牢」を命ぜられた。又、この一族は現在の高岡市関町を所領としており、現在の「総持寺」の門徒を長く勤め、その敷地も寄進したと云う。









🔻【木曾義仲は埴生護国八幡宮に戦勝祈願の願文を納めている。義仲に従った「向田氏」の本拠地「高岡市福岡町向田」は源氏の統領「八幡太郎義家」がかつて、越中守の時に開発した「源義家ゆかりの地」だと云う。➡「福岡町史」】、「群書類従」(※朝野群載)











🔴『赤丸城ケ平山』(※「赤丸城址」、「赤丸城ケ平古墳群」、「親王屋敷址」、「親王塚」)の由緒!!

2021-04-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■「越中吉岡庄」は南北朝時代の「後醍醐天皇」の庄園で在った。


■「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」には、興国三年、後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」が入られて南朝軍を鼓舞された。その時の「親王屋敷跡」が赤丸城ケ平山に遺されている。


■「後醍醐天皇の赤丸の御旗」




 

■「頭上の冠に日輪を着けた後醍醐天皇像」
「袈裟は空海が唐から持ち帰った東寺保管の重宝と云う。」 
 


■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「越中吉岡庄」や室町時代からの「越中五位庄」と呼ばれた庄園の中心施設の「郷社」で在った。





  



             
 
■この場所は「赤丸城ケ平」に在り、この山の命名については、「城ケ平山」(※「赤丸名勝誌」国立国会図書館蔵)として、
【傳説には建武二年後醍醐天皇第八皇子比地に御殿を築かせ給ひ御遷殿の御歌に

「城かきをきつき八重かき平らかに このうへなきや乗り合ひの里」

と有り、上句の「城・平」二字を取り城ケ平と名つけ給ひしとぞ 】
と記載されている。「第八皇子」とは「宗良親王」の事で、実際に宗良親王が越中に入られたのは「興国三年; 1342年」とされている。

(※建武二年; 1336年 には、敦賀市の金ヶ崎城の戦いが有り、斯波高経率いる北朝側と南朝の新田義貞が籠る金ヶ崎城の攻防戦が始まっている。)

🎌🔴皇室米・神仏奉納米「赤丸米」のふるさと--富山県高岡市福岡町赤丸 !

2021-04-10 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■「赤丸村」の赤丸は、赤丸浅井神社に奉仕し白山を開いた泰澄大師が元正天皇の病気平癒を祈り祭器に赤丸を記した事から由来すると山伏の川人山鞍馬寺に伝わったが、真実は、「赤丸の太陽を冠に飾り、天皇旗の金を赤く塗りつぶして金地に赤丸記しを南朝の旗標とされた後醍醐天皇が牙城とされた地域」に由来すると考えた方が正確だろう。「赤丸」は古くは蝦夷が大和朝廷と戦った時に怨念と反抗を示す「血の赤に塗った赤丸」を掲げたとされ、これに因み後醍醐天皇の討幕の強い意志を表したと見られる。





■赤丸村に伝わる元正天皇二宮(聖武天皇の義弟石川朝臣広成)の逸話等を福岡小学校の生徒達が絵本にした。以下は赤丸浅井神社創建の逸話。(高岡市福岡歴史民俗資料館で販売中)
※「親王」とは元正天皇が「すべての天皇の子は臣籍に在っても親王とする」と直令を出された事に始まる。元正天皇は聖武天皇の伯母で母親代わりになられた女帝。














11月28日15時00から「新嘗祭」が執り行われています。






■東大寺荘園が富山県に30%もあった。東大寺大仏殿の造営に大きく関わっていた富山県高岡市の周辺地域一帯には東大寺荘園が5ヵ所も広がり、後醍醐天皇の荘園時代まで「越中吉岡庄」と呼ばれた「五位庄」には現在も「延喜式内社五位庄五十三ケ村総社赤丸浅井神社」が在り、この地の「赤丸地区」には、魚沼産よりも美味しいと評価された「赤丸米」という「こしひかり」が生産されている。ちなみに、「赤丸」とは後醍醐天皇が皇室の旗の金の太陽を赤く塗りつぶし「南朝の官軍の旗印」にした事から「南朝の拠点」を示す意味で「赤丸」と呼ばれたものと考えられる! 南北朝時代にあって当時の赤丸村が京の都や奈良の吉野と如何に密接だったかが偲ばれる。 後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が滞在されたと伝わる「浅井城」の古跡も「延喜式内社赤丸浅井神社」の隣接地にあり、この地域は「白河天皇」の頃の古くから「吉岡庄」と呼ばれていたが、後醍醐天皇の皇子の宗良親王が浅井城に在城の時に「五位庄」と名付けられたと云う。※「宝永誌」 
「吉岡庄」は「保元の乱」で敗れた藤原氏長者の「藤原頼長」から「後白河上皇」に没官され「後院領」と呼ばれた皇室領であり、「1001体の千手観音像」で著名な「三十三間堂」で知られる「蓮華王院領」となり、その後も代々皇室領として伝領されたと云う。「五位庄」はこの「後院領」が「御いの庄」から「五位庄」に転化したものと云われる。「五位庄」になった室町時代には足利義満により「金閣寺」で著名な「相国寺領」や「足利氏菩提寺等持院領」ともなった著名な荘園である。又、古くは京都の上鴨社や下鴨社領にもなった神域で有った。奈良の東大寺正倉院の「東大寺荘園図」には『淺井神一段』と赤丸浅井神社の記載がある。又、後白河上皇の皇子が初代門跡となられた本山派聖護院には聖護院派山伏の「赤丸浅井神社」から例年、献上米が贈られていたと云う。

◎ちなみに、人気の「赤丸米」は向野という地域の農事法人赤丸農産の「登録商標」との事。他にも「赤丸産コシヒカリ」の名称で販売されている生産者もあります。これ等の米はスーパーの店頭で「富山県産コシヒカリ」として幾つかの米をブレンドして販売されているものと異なり100%当地で生産された米です。



■[注]このブログは個人的な調査・研究に基づくもので、引用は自由ですが商業活動には利用しないで下さい。あくまでも、地域の歴史・特産等の紹介を目的としていますので、地域の活性化に役立てば幸甚です。どこの団体にも属さず客観的な資料に基づき作成していますが不都合な点があれば御指摘下さい。


🔴 越中利波郡「赤丸村」の郷土史の発掘と伝承の日々 。⇒貴方の知らない「真実の歴史」は未々、数多くあり、常識とされる歴史も時の権力者によって大きく歪曲されている!!

2021-04-10 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■【夏草や 強者共が 夢のあと】


■加賀藩の奉行が記載した「宝永誌」には「五位庄」が「吉岡庄」に改名されたとする記載が有る。



■「赤丸浅井城に元正天皇の二宮が在城された」と記載される越中の初めての通史「肯搆泉逹録」と神話時代に触れる「喚起泉逹録」


■富山県高岡市の能登半島寄りに「延喜式内社赤丸浅井神社」がある。すぐ近くには大伴家持が越中国司として赴任していた時の越中国府跡が在り、眼前には家持が「朝床に聞けばはるけし射水川朝漕ぎしつつ唄う舟人」と歌った小矢部川が流れている。この神社は文武天皇の第二皇子が藤原不比等の策謀により臣籍へ降下させられ、兄の聖武天皇の警備を担当する内舎人という下級官吏となって、717年に「赤丸浅井神社」を創建されたと「越中浅井神社三社記」は伝える。「赤丸浅井神社」のすぐ隣地にはその居城の「浅井城」の旧跡が遺る。この人物は「石川朝臣広成」で、「続日本紀」にも記載され、万葉集にも三首が掲載されている。この人物は万葉集研究者も良く素性が判らなかった人物だが、浅井神社の縁起や祝詞等を調べる内に次第に明らかになった。奈良平城宮跡で再現された「朱雀門」には大伴氏とその一族の佐伯氏が警備した「大伴門・佐伯門」が在ったと言われるが、浅井神社の佐伯神官はその越中佐伯氏の末裔と考えられている。浅井神社の祭神は大伴一族の氏神で皇室の主要な神「高皇産霊神」で有り、神々を地上に遣わされた指令神とされる。

■平成26年、金沢市の「玉川図書館」の資料から「寺嶋蔵人邸」の寺嶋蔵人が、元高岡町奉行でしかも先祖が「上杉謙信」から「安堵状」を受けて「五位庄」の領主であった事を発見した。又、浅井神社の神田が「東大寺荘園石粟図」に記載されている事からこの「五位庄」の由来を「兵範記」等から調べる内に、この地区は元藤原氏長者藤原頼長の荘園「吉岡庄」で、「保元の乱」で後白河上皇の「後院領」となり「三十三間堂」の蓮華王院に寄進され、その後、後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄伝領し、室町期には相国寺(※搭頭寺院は金閣寺)の荘園にもなっていた事が判った。しかし、国のデータベースではこの「越中吉岡庄」は「所在不明」となっていた為、その場所が「越中五位庄」の前身である事の確信を得て大学共同利用法人国立歴史民俗博物館のデータベースを是正して頂いた。

■又、佐々成政に従った高岡市の守山城城主神保氏張(秩父平氏二宮氏)に焦点を当てて調査した所、静岡県立図書館の資料から、神保氏張が能登畠山氏の次男で高岡市の守山城の神保氏の養子となり、織田信長の「妹」を妻とした事、守山神保氏の先祖は「秩父平家の二宮氏」であった事が判明し、謎とされた「神保氏張」が養子に入った守山城の家系の「二宮氏」と尾張国斯波氏家老の「二宮円阿」という武将の家系との関係も近いうちに解明されると思われる。織田家も元々は斯波氏の守護代の家系で在ったが遂には主家斯波氏を追い払って尾張国を所有した。赤丸村の隣地に「加茂城」が残り、南北朝の時に足利方の尾張斯波氏の家老に「二宮円阿」がおり、越中五位庄の戦いで南朝側の桃井直常と激戦を交わし、戦果を報告した文書に「二宮円阿軍忠状」が遺されているが、この二宮氏と高岡市守山城の二宮氏の関係は明らかでは無いものの、二宮氏は平氏の良文流で有り、畠山重忠が秩父平氏と言うことからも共通点が有り、何時の時点で分岐したものかは遠からず分かるだろう。更に、金沢市で観光案地とされている「寺島蔵人邸」の主は金沢で役職に着く前に高岡町奉行をしており、高岡の時鐘を造ったと言う。その時鐘は現在、再現されて高岡大仏寺に設置されている。この寺島蔵人を調査すると、その先祖の寺嶋牛介・兄弟の小島甚助は守山城の神保氏張と共に上杉謙信の家臣となり、牛介は高岡市國吉の柴野城に居城して「五位庄」を謙信から安堵されていた事が判明。その「安堵状」は金沢の寺嶋蔵人邸の主が寺嶋家文書として保管され、その写しは金沢市玉川図書館に収納されている。更に高岡市の「二上山研究」には、前田家に仕官して伏木勝興寺の周辺に兄弟共に屋敷を構えて、その一族は赤丸村に知行地を与えられていた事も判明した。しかも、その末裔とされる一族が現在も赤丸村に住まいされている事も判明した。
(※上杉謙信と織田信長の越中争奪戦の記録は、江戸時代の刊行と見られる「北越太平記」・「七国史」等の古書には詳しく記載されている。これ等の古書が公立の施設に保管されていない為に、江戸時代には常識で在った事も、現代では、知り有べくも無い。地域の古書・古文書を保管する【古文書館】は富山県や高岡市にも是非設置する必要が在る。)

■南北朝期に赤丸浅井城に後醍醐天皇の皇子の「宗良親王」を迎えた石黒氏は東大寺大仏造営の時に米五千石 (※東大寺要録) を寄進した(※米三千石、庄園100町を寄進した→「続日本紀」)古代豪族利波臣の末裔とされる「利波臣志留志」については「続日本紀」にも記載され、東大寺お水取り行事でも毎年お経(※「修院過去帳」)の中で読み上げられているにも関わらず、研究は進んでいない。「越中石黒氏の研究」については幾つかの系図が有り、それぞれの系図の信奉者により様々に主張されるが、推測、改変が多く見られ、確定したものが無い様だ。しかし、東大寺に関する文献は多く遺されており、既に相当な資料が明らかになって来ている。越中に「砺波郡」という地名をつい最近迄残していた越中の名族「砺波臣」(利波臣)については是非共全容を解明する必要がある。平成28年の高岡市福岡町民俗資料館の特別展示ではその子孫の石黒氏の居城の木舟城の歴史と共に取り上げて頂いたテーマだ。

■「赤丸浅井神社」の拝殿に「源義経」の巨大な奉納額が掲げられている。そこで義経について調べると「義経記」の小学館版、岩波書店版の何れにも「如意の城とは五位の城」・「二位の渡しとは五位の渡し」と解説されている。「五位の城」とは「赤丸浅井城」で有り、「五位の渡し」とは現在の赤丸村向野の小矢部川に在った渡船場の事で在った。小矢部川が古くは西山の麓を流れ、庄川と小矢部川が赤丸浅井神社の前で合流していたとする絵図が石川県立図書館で発見されて「二位の渡しとは五位の渡し」と言う意味が「二位の渡し=二宮=吾子ケ淵」から明確になった。又、「福岡町史」に古い「小矢部川流域の絵図」が掲載されており、詳細を見ると、「如意の渡りをして……」と記載される部分は「六渡寺舟渡し」と云われた赤丸辺りから小矢部川河口迄の舟下りルートで在った事が判明した。すぐ目の前に在った資料に重要な鍵が隠されていた。そこで赤丸浅井神社の古文書を調べると、神社創建の由緒に「元正天皇の二宮の御創建」と記載され、森田柿園が「越中志徴」で「元正天皇は女帝で子無し」としてこの由緒を否定し、「如意の城とは古国府城」と記載していた。しかし、文武天皇から聖武天皇迄の皇室系図を調べると、元正天皇は文武天皇の妹ながら皇統譜上ではその正室と擬制され、その勅令の中に「皇室で生まれた者はすべて親王として扱う」(※「令義解 レイノギゲ」)として、元正天皇は勅の中で聖武天皇を「吾子アコ」と呼んでいる。文武天皇の姉の元正天皇は聖武天皇の母に擬されており、最近の研究で聖武天皇には臣籍降下された腹違いの弟がいた事も「続日本紀」から判明した。その子「石川朝臣広成」については「続日本紀」・「万葉集」にも掲載されながら謎の人物とされて、学者の憶測に任されていた。これ等の事から、「赤丸浅井神社の由緒」は加賀藩士森田柿園が否定していたものの、「浅井神社由緒」は真実を伝えていた事が判明した。又、石黒氏の直系は名古屋に移り、「如意郷」を開き、「如意城」を建てており、石黒氏の居城を「如意城」と呼んでいた事も判明した。と言う事は「義経記」に記載される「如意城」は「赤丸浅井城」を指している事になる。石黒氏は東大寺大仏の造営に多額の寄進をして皇族(臣)の外従五位下に列せられ、郡司の一族利波臣の中で唯一、国司と成った「利波臣志留志」を祖としており、正に「如意宝珠」(※仏舎利)を信奉する熱烈な仏教徒であった。これ等の事から、赤丸浅井神社の前の「二位の渡し」で弁慶が義経を打擲した場面こそ、後に「安宅」・「勧進帳」に脚色された事件の原点である事が判明した。
(※「福岡町史」には唯一、「如意の渡し」と呼ばれた「二位の渡し」から「六渡寺の渡し」迄の舟下りルートが「六渡寺川の渡し」として記載されている。)





■更に、源義経一行が一夜を過ごしたとされる倶利伽羅山(利波山)の山裾の「五位堂」について調べると、確かに明治期迄小矢部市松永に「五位堂」が有り、現在は近くの比枝社に合祀され、五位堂の遺跡の宝印塔は境内に山積みに放置され木葉に埋もれていた。「富山県神社誌」・「富山県西礪波郡紀要」にも明確にこの合祀について記載されているが、「義経記」が「後の室町期に創作された物語」とする一部の学者による全否定の影響や、神仏への信仰の衰退、合併による地域の否定等により、地域の歴史、文化が消え去っていた事も判明した。

■この様に今迄「嘘っぱち」とされていた事実が逆に真実と分かり、「高岡市史」の独断に満ちた歴史もでたらめだと次第に検証されて来ている。
元々、「高岡市」や「福岡町」は江戸時代に開発された地域で在り、高岡市教育委員会の幹部が「1600年以前には歴史は無い」と豪語する?様に、平安、鎌倉、南北朝、室町時代には原野か荒れ地が拡がる地域で在り、この地域の古い歴史は無い。しかし、奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町の頃は、寧ろ、西山の麓を流れる「小矢部川」の流域に拡がっていた皇室庄園の「吉岡庄」や足利将軍家の庄園で在った「五位庄」が文化の中心に在り、この流域には藤原摂関家や東福寺等の庄園が拡が利り、山々には数多くの寺院や神社がひしめいて、北陸道沿いには「駅」や「宿場」が開かれて、交通の要衝でも在った。そんな地域に加賀藩によって開かれた「高岡市」や「福岡町」が「観光を目玉商品」にしてアピールしてもその底は浅く、すぐメッキが剥げる。「歴史の無い地域に歴史を作ろうとする」と、それは歴史の「偽造」に繋がる。

今、北陸新幹線の開通に沸き立つ富山県だが、根拠の無い上辺だけの「観光客誘致」が間もなくメッキが剥がれ、失望に変わる日を覚悟すべきだ。推測や権威主義の歴史検証では無く、富山県郷土史会の高岡徹氏の様な「実証的歴史研究」こそが重要だ。先生が「福岡町」が高岡市と合併する前から取り組んで来られた「西山の中世城館研究」の中で紹介された西山一帯の「柴野城」、「赤丸浅井城」、「吉岡東・西砦」等の現地調査や福井県敦賀市の博物館が保有している「赤丸浅井城城主中山家」の膨大な古文書は、富山県内で未だ一般的に認知はされていないようだが、二年前に高岡徹氏は著作を刊行されてその中でも紹介されている。

その後、現地の赤丸村や高岡市内に残る「中山氏の末裔」の方や、敦賀市に残っている「中山本家筋の末裔」の方々にもヒアリングした所、この古文書の中に記載される一族の末裔やその一族の経済活動の一端等の活動も明らかに成っている。この古文書には、伝説上の「赤丸浅井城城主中山治部左衛門尉国松」が一族の紹介で赤丸村の寺院に米を貸し付けて居た文書等も発見した。
営々として語り継がれて来た伝承は、これ等の古文書の発見により、「歴史上の真実」として富山県の新しい歴史に成った。

■歴史は研究により日々進化する。批判を恐れて事実を隠蔽したり、歴史を捏造する事は、歴史に触れる者にとって重大な罪であると覚悟すべきと思う。如何に権威の有る行政、研究機関の発行物、著名な研究にも湖塗や錯誤はあり得る。又、顕著な研究はもっと発表される機会を設けるべきで、研究者は論文等の発表の機会や組織が少なくて困っていると聞く。富山県内の郷土誌は近年廃刊が進んでいる。高岡市が真剣に「歴史の町作り」を目指し、観光振興を図ろうとするなら、行政はこの基礎研究体勢の整備から先ず始める必要が有る。その為には、急速に廃棄されつつある歴史的な資料や記録を先ず調査、収集、リストアップ、保存を行う事が緊急の課題だ。それで無くても、近年、頻発している歴史的な災害によって広範な地域の貴重な文化財や古文書等が一挙、大量に失われている。

■高岡市周辺には「須加荘」等、4ケ所の東大寺荘園跡が在り、「越中吉岡庄」と呼ばれた当地区では長く皇室庄園として米を生産し、現在も、コンクールで魚沼米の上に評価されたブランド米の「赤丸米コシヒカリ」を生産している。古代から今迄、永々と地域は続いてきたが、今、地方は歴史の伝承も途絶えて、惜しむかな、地域社会自体が消滅寸前の危機に在る。
前田利家と能登末森城で戦った寺島氏や赤丸の中山氏の領地の五位庄は加賀藩の治世に廃墟とされ、住民は高岡市和田新村の開発の為に移転させられ、歴史を語る事も封印されたらしい。赤丸村に在ったとされる「浅井神社48坊」と言われた、天皇家や歴代政権に所縁の在った「衆徳山総持寺」や高岡市の「越中宮極楽寺」「天景寺」「槌の宮」等の著名な寺社は殆どが高岡市内に移転させられ、その寺社は元赤丸村に在った事すら秘匿する事になった。廃墟となった赤丸村には今は「延喜式内社赤丸浅井神社」しか遺されていない。辺りには著名な上杉謙信や桃井直常の戦い等が展開された跡地が広がる。現在、辺り一面は赤丸米コシヒカリの栽培地が広がっている。せめて、現在分かる範囲の歴史的事実を伝承したいと思ったのが、ここに記載している記事で在る。
【学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)】と云うが、加賀藩時代に地域の歴史的資料は加賀藩に関する資料以外は殆どが廃棄、焼却された。しかし、隠しても歴史的事実は何処かに残っている。それが、京都・奈良・大阪の旧い寺社や地域の刊行物に残っており、又、近年、国や研究機関等の重要な歴史的資料が【電子国土政策の一環として】デイジタル化して公開されつつある。この事によって、今迄、為政者の思惑でひた隠しにされて来た【歴史の光と影】が表面化して、誰でもが真実を知りうる状況に近づきつつある。

【読んで頂いた方へ】
御多用中、このブログに目を通して頂いた相当の数の閲覧者の方々へ謹んで御礼を申し上げる。
このブログには多くの方から御叱責も頂いている。それは今迄タブーとされていた部分や、特権階級の人達に耳うるさい事が指摘され、隠し続けられた事をあからさまにされた事のお怒りかと思う。又、長々、クドクドと記述される内容に飽きれ果てたと云う御意見も在る。しかし、ここで時間を割き、眠りを堪えてクドクドと書いているのは、一部の人達に対する一過性のエンターテイメントの為では無い。時代の過渡期に消え去ろうとしている地域の歴史の一端を後世に語り継いで頂く為だ。この記録は赤丸浅井神社の宝蔵に残す目的で作り始めたから、書籍等で後世に残す意図は現在の所全く無い。単なる一時代の「語り部」の一人として記しており、「事実の指摘」と、隠された「真実を誤り無く後世に残す」だけの目的で在り、やがてこのブログが閉鎖されればこの記録は全て消滅する。一人でも良い。本当に「真実の歴史」を語り部となって後世に引き継ぐ意思の在る方達だけが目を通して頂ければそれで良い。「歴史」は長く語り継がれて現在に残ったが、封建時代の武力集団は都合の悪い「前史」をその都度消し去って来た。その点で現在の「高岡市史」にはデタラメや、糊塗された部分が数え切れない位に秘められている。しかし、各名家や地域が誇る歴史や民俗を全面否定する訳では無く、真実や背面の時代背景等について淡々と述べて来た。
市民は目を塞がれ、口を塞がれ、耳を塞がれて来た。幸いにも現在では個人の意見が公に公開できる術を市民は持ち得た。現在、国民は、個人情報保護の名目で、自らの出自さえも知り得ない状況に追い込まれている。
宗教的に、過去には「過去帳」で先祖を調べる事ができたが、現在は各宗派はこれも「閲覧禁止」にしている。過去の戸籍は官僚の都合?で、電子化と称して過去の台帳は破棄されている。今や個人が自らの歴史を知り得る手段は無く成りつつある。個人情報保護は個人の権利を保護するとして導入されたが、反面、為政者にとっては国民をロボット化して、唯、黙々と働く存在にしたいと云う思惑も見え隠れする。
又、官庁や公的機関が保有する歴史的な資料も「著作権保護」と称して国民の利用を制限している。国民の税金で収集、保管される「国民の財産」をその一機関や官僚が独占する事は根本的に間違っている。改めて官庁の保管資料(防衛や、国家機密、犯罪、完全に個人情報等の部分は除いて)は基本的に全面公開し、著作物保護以外の資料は国民の利用を自由にすべきだ。
中には「引用」すら規制して権限を振りかざす官庁も見られるが、自治体の「歴史の広報」と考えて、自治体所有の著作権切れの資料は国立国会図書館の様にデジタル化して公開すべきだろう。中には著作権切れの図書でも、コピーするだけで許可を得るのに沢山の申請書を提出して、責任者が許可の印鑑を押す迄に一週間近くも要するという行政も在り、「官僚の為」の管理に如何に無駄な時間を費やしているか疑問に思うケースも在る。

何でも官僚の裁量で都合の悪い事は隠されて、その内に重要な資料は管理もされずに消えてしまう。各地の行政が発行した歴史著作物(県史、市史、町史、村史等)の原本すら、官僚の伝達不足や管理不良で大半が失われてしまっている事も国民は知らない。国民が信用する程、官僚達の作業は継続性、信頼性の在るものでは無い。官僚達は自分が担当する短期間に作業をするだけで、引き継ぎや保存はいい加減だ。高岡市の基本的な歴史資料は殆どが行方不明で在り、嘗ての歴史研究者の保管していた資料も、遺族によって何処ともなく売り払われている。正に「スカスカの歴史」の上に「歴史都市高岡市」を作ろうと云うのだから、「背伸び」、「偽造」が行われるのは当然とも云える結果で在る。

この様な状況は、為政者や官僚達が「新しい歴史」をでっち上げる好機になっており、従って、行政・官僚の暴走を防ぐには、国民一人一人が様々な事象を役人に委ねる事無く監視して後世に伝承する必要が在る。

●最近迄、当ブログには貴重な御意見を数々頂いて来た。しかし、最近、心無い「ネット荒らし」が横行して、アダルトサイトにリンクさせたり、中には脅迫文を送り付けて来る輩迄現れて来た。今迄、真実の歴史に関心が深い全国の方々から貴重な御意見を頂いたり、資料の交換等、意義在る交流も数多くさせて頂いて来た。しかし、単なる誹謗中傷のみに限らず、脅迫めいた文章迄連日、送り付けて来る事態に成った為に、当分、このブログへのコメント等の機能をやむを得ず停止させて頂く事にした。


■源頼朝から後白河上皇近臣吉田経房卿への文書(吉岡庄地頭吉岡成佐不法の事)
【※「吾妻鏡」・「富山県史」】



■「上杉謙信家臣名簿」に見られる神保氏張、寺島牛介と寺島牛介に対する謙信からの「五位庄安堵状」

🔴ブランド米【登録商標 赤丸米】ってこんなに美味しいの!!! (※富山県高岡市福岡町赤丸)

2021-04-10 | 富山県高岡市福岡町赤丸村




■平成18年10月の北日本新聞には富山県の「赤丸米」と「氷見のはざがけ米」、「新潟魚沼米」を食べ比べたところ、1位 「赤丸米」、2位 「氷見のはざがけ米」、3位 「新潟魚沼米」の順だったとの報道が有りました。
富山県農業改良普及センターの職員や五つ星お米マイスター等15名が食べ比べてこのような結果でした。赤丸米は小矢部川流域のきれいな水に育まれています。

「赤丸米」は富山県高岡市福岡町赤丸の「農事法人赤丸農産」の登録商標です。赤丸地内には他に「赤丸産米コシヒカリ」等の名称で販売されている商品もあります。



古代から開発された富山県の小矢部川流域は、合流していた庄川と小矢部川上流から流れてくる肥沃な土と豊富な白山山系・飛騨宮川水系の水に恵まれ、東大寺・東福寺・賀茂神社等の荘園や皇室・藤原摂関家荘園等が広がり、小矢部川河口には福井の敦賀港への船便の拠点「伏木・新湊港」が立地し、古くより都へのアクセスが良かった事から根強い人気があった様だ。この地域の米は品質にも優れ、古くから皇室や藤原氏等の特権階級にも珍重されていた様だがその為にかえって「越中吉岡荘(✳後の五位荘)」は時の権力者間の争奪戦の舞台となり、大きな戦乱や訴訟が続くことになって、頻繁に領主も変わっている。この地域の米は甘味があり、モチモチとした食感と冷めても味が落ちない特徴があり、高級食材として大変人気がある。


「延喜式内社赤丸浅井神社」


「門跡寺院聖護院派 川人山鞍馬寺」
(※赤丸浅井神社の別当は京都の門跡寺院聖護院の末寺で在った。)






「越中吉岡庄」(※赤丸村)の米は皇室と門跡寺院「聖護院」へ送られた。






■歴代の皇室庄園「越中吉岡庄」の庄園領主達










■室町時代には「五位庄」と改名されて室町幕府第三代将軍足利義満は「五位庄」を京都の「相国寺」(※塔頭寺院 金閣寺)の庄園として寄進した。



「農事法人赤丸農産」





🌷🌷「古語拾遺」と「忌部氏」⇒宮中祭祀に使用される越中の「菅笠」のルーツ!!

2021-04-10 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■宮中祭祀で使用される「御菅笠」



■宮中行事では、天皇の頭上に翳す笠は「御菅笠」と呼び、貴人にさしかけた日陰を作る大きなうちわは「翳(サシバ)」と呼ばれて、「菅」で作られている。又、伊勢神宮で20年毎に行われる「式年遷宮」でも「御菅笠」や「翳(サシバ)」等の「御神宝」は全て新調されるが、菅笠の縫製は大阪の深江地区に職人が残るものの、材料の「菅」は富山県の福岡町から供給されている状況だ。






■「忌部氏」の祖の「天太玉命(アメノフトタマノミコト)」は「高皇産霊神(タカミウブスナノカミ)」の子とされる。「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神は 「高皇産霊神」を祀る。 織田信長の先祖は平重盛の子孫で福井県越前町織田の「劔神社」の神主(忌部氏)の養子になったと云う。

■『古語拾遺』は「平城天皇」から問われて、大同2年(807年)に「斎部広成(イムベノヒロナリ)」が忌部氏の歴史と職掌・変遷を述べたものだ。
当初は宮中祭祀を「大伴氏」と「忌部氏」が担当したが、その後、鹿嶋神宮、春日大社、京都吉田神社と続く「中臣氏」の氏神の信仰と藤原氏の勢力拡大に伴い、忌部氏は窮地に追い込まれた。
忌部氏の先祖は「天太玉命(アメノフトタマノミコト)」を祖とする神別(天神)の古代氏族で「忌部首」、「忌部連」、「忌部宿禰」のち「斎部宿禰」姓を称し、古代朝廷における祭祀を担った氏族である。 当初は忌部氏と中臣氏は両者で天皇の伊勢奉弊使を勤めていたが、 叙々に中臣氏が重用されて、忌部氏は「斎部宿禰」を称した後に衰退する。忌部氏は元々、天の岩戸に天照大神が隠れた時に、岩戸の前で神事を担当したと云う「天太玉命」を祖とした古い氏族である。

■『古語拾遺』に拠ると、「伊勢神宮」ができる前には宮中に 「天照大神」を祀っていたが、恐れ多いとして、初め大和の「笠縫邑カサヌイムラ」に「天照大神」を祀る社を建てたとされる。これが、伊勢神宮ができる前の「元伊勢」と言われている物語だ。
比定地については、笠縫神社の在る「磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅」、檜原神社の地「桜井市 三輪」、多神社の地「磯城郡 田原本町多」等が比定されている。「笠縫邑」には、崇神天皇6年に宮中に奉祀していた「天照大神」を移し、「豊鍬入姫命」に託して社を建てて祀らせた。同時に宮中を出された「倭大国魂神」は「渟名城入媛命」に託し「大和神社」に祀ったとされる。 「笠縫邑」は大嘗祭、豊明節会の起源に関係する土地との説もあり、垂仁天皇紀(25年3月丙申条)に、「倭姫命は天照大神を磯城の厳橿(イズカシ →神聖な「可新 カシ」(樫)の木 )の本に祀った」とあり、厳橿は神霊の神木の事である。崇神朝に 「磯城シキの神籬ヒモロギ」、「磯堅神籬(シカタキヒモロギ)を立てたとされる。(※崇神紀6年条)

(※「磯城 シキ」;奈良県北西部の郡。古くは桜井市等近隣一帯の事→敷島(シキシマ) 、大和の事。)
(※通常、神事には「真榊 マサカキ の枝」が使用されるが、高野山等では「槙の枝」を祀ったりもしている。しかし、この由来からすると「樫の枝」が正式の様だ。地鎮祭等では山形の盛砂の上に杉の枝や竹笹を立てる。神事ではこれを「草」と呼び、「自然の植物や岩等に神々が降臨される」とする趣旨から来ている。)

■「讃岐忌部氏」は、元々、神事に使用する「竹」の生産を行った一族で在り、「竹取物語」のモデルとなった場所として、「竹取物語研究書」(※岩波書店)は現在の奈良県北葛城郡広陵町としている。広陵町の小字は「笠神」であり、「讃岐神社」(※広陵町)と「笠神」との間には「笠」なる村が存在し、「古語拾遺」の「崇神天皇」条に登場する笠縫邑(カサヌイムラ)と共に、「讃岐忌部氏」との関係が示唆されている。

■深江稲荷神社(大阪市 東成区深江南)には、「深江は笠縫氏の居住地で大和の笠縫邑から移住してきた」との伝承があり、この地域は万葉歌人高市黒人が「四極山(シハツヤマ)うち越え見れば笠縫の島 漕ぎ隠る 棚無し小舟」と詠び、古代には「笠縫島」と云う島で在ったと云う。「笠縫島」は、現在の深江から東大阪市足代にかけて入江に浮かんだ島であったとされる。現在も大嘗祭に使用する笠はこの深江から天皇家へ献上されているが、平成25年の伊勢神宮の式年遷宮行事の神宝奉納に使用された「御菅笠」は、菅笠材料が富山県福岡町の無形重要文化財菅笠保存会とJAいなば、菅生産組合の協力で伊勢神宮に奉納されている。

■富山県高岡市福岡町の「無形重要文化財菅笠保存会」は、加賀藩の時代に越中西部の重要な手工業であった。「菅笠」と材料の「菅」は現在も生産して販売している。この菅笠技術は「伊勢の人、大野源作」等が福岡町に伝えたと云われ、丁度、その時期には福岡町と立野の間の日尾山が地震で陥没して周辺に大きな湿地帯が広がり、菅が繁茂していた様だ。又、小矢部川は菅の生産に適した暴れ川で各所に沼や湿地が広がっていたと云う。又、西山一帯には竹林が多く、屋敷周りにも風避けの竹林が多く在った。竹は「菅笠の骨」と言う構造部分に使用され、又、菅の下準備の為の「しごき用のヘラ」や「菅を骨に糸で固定する時の糸巻きを兼ねたコマ」、「菅を骨に縛り、押さえる為の竹ヒゴ」、「糸巻きの糸繰り台」等の道具の素材として必須で在った。これ等の素材が近くで豊富に生産されており、菅笠を縫う為の「針」と「糸」さえ買えば簡単に入手できる素材ばかりであった事も、爆発的に農民の内職として拡がった理由だ。
当時は農作業や外仕事、旅行等には菅笠が必須で、特に当時、流行った「御伊勢参り」は「お蔭参り」と称して、菅笠を背負い、柄杓(ヒシャク)を首筋に差し、草鞋(ワラジ)を腰に下げた姿が定番であった為、全国の菅笠需要は膨大であった。加賀藩は地域の「笠買い」の組織を作り、扱い者を定めて税を取り立てた。金沢に越中の笠を集積して金沢の商人が一手に扱い、ボロ儲けをした。金沢には、現在も「笠市」「笠舞」等の「笠」の付いた地名が残っている。

■富山県高岡市福岡町赤丸の「向野新村」は、当時、大きく蛇行した小矢部川の湿地帯で、加賀藩が鷹狩をしたお鷹場を開発した「お鷹場新開」と呼ばれた新規の開発地だった。ここは、福岡町に菅笠を伝え、菅笠の仲介で財を成した、【大野源作】の子孫の「大野次兵衛」と石堤村の豪農の「山本助九郎」が開発した村で、「次兵衛島」「助九郎島」と呼ばれた。この子孫は今も向野に残り、次兵衛家は当代で25代目と云われる。小矢部川の周辺は湿地帯が多く、特に加賀藩が厳しく「隠し田」を取り締まった事から、自然の湿地帯を利用して生産できた「菅」は栽培し易く、併わせて、菅を小矢部川の河原で夏の熱くなった石の上に広げて自然乾燥できた為に、栽培、乾燥と一連の作業が便利であった。その為、この小矢部川の河川敷は「菅干し場」として、住民の権利となり、河川敷に縄張りして乾燥場が割当てられた。「菅」は肥料が多く必要とする植物で、小矢部川の流れで運ばれる肥えた土や、河川敷の雑草を埋め込んで肥料にする事で肥料の確保もできた。
加賀藩の財政はこの「菅笠」の販売で大きな利益を得ていたと云う。しかし、近年の区画整理、河川改修による湿地帯の減少と、大規模機械化農法による特産の「赤丸米 コシヒカリ」の生産への集約で、小矢部川河川敷は無くなり、皇室行事や伊勢神宮の神宝として生産される「菅」は細々と山合の農地で生産されるのみとなった。しかし、全国には菅笠を必要とする祭りや民謡踊り等が有るが、材料からの菅笠の生産は、この福岡町だけになっている。


🎈【玄米食の薦め】「NHK あさイチ」が報じた【亜鉛不足】⇒【たんぱく質の糖化】による【新型栄養失調症】で、国民は【不妊】・【少子化】に苦しんでいる。

2021-04-10 | 富山県高岡市
あなたは大丈夫!?女性の新型栄養失調|NHKあさイチ
リンク
https://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/180704/1.html

●【根本的な少子高齢化対策】

NHKの【あさイチ】では「新型栄養失調症」を取り上げ、【亜鉛不足】による「味覚障害」や【たんぱく質の糖化】によって【不妊】が起こると云う。【亜鉛】が不足するとインスリンの出が悪く成り、子宮表面に「糖化たんぱく質」が脂肪と共に大量に付着してバリヤーを作り、受精を阻止すると云う。糖や飲酒は肥満を生むとは聞いていたが現在の「少子化」の一因が【糖の摂り過ぎ】だったとは!!
微量元素不足による【糖の摂りすぎ】で、子宮内膜症等の内膜異常が進んでいるとすれば、政府は少子化担当大臣にモット広報をさせなければならない。高額な不妊治療費を保険補助する事を希望する若い夫婦は多い。高額な不妊治療に数百万円もかける夫婦もいる。不妊治療は時には手術を伴い、夫婦の苦痛は永く、続く。
この【亜鉛不足】・【インスリン不足】・【糖化】は、近年、【米】の摂取が減った事も一因の様だ。実例でも、人工受精や不妊治療を18年も続けた夫婦が【微量元素の摂取が少ない】事に気づいて【マグネシュウム】を含む【玄米】を食べ始め、一年以内に突然、子宝が授かったケースがある。又、この事を子宝に恵まれない知人に教えた所、その夫婦も男女の双子を授かったと云う。コレがNHKが報道した【マグネシュウム不足⇒インスリン不足⇒子宮内膜の糖化⇒受精の阻害】と言う仕組み対策の結果で在った事は驚きで在り、単に【米を食べたくない】と言う趣向の問題では無い。外国の圧力で長い間、国民に小麦やパン等をアピールしてきた政府の政治責任でもある。【政治の無策】で国民は【肥満】や【不妊症】に成り、結果、国家としても【少子高齢化】に苦しんでいる。
《某衛生管理者の呟き》

■富山県西部の【越中吉岡庄・五位庄】からは、古代から「天皇家」や「足利義満」の庄園に成り、京都の「賀茂御祖神社」、「門跡寺院聖護院」等に良質の米が寄進され続けた。




富山県西部の高岡市福岡町赤丸村の周辺は、平安時代の「後白河上皇」、「後鳥羽上皇」~南北朝の「後醍醐天皇」に至る迄続いた【上皇の庄園(後院領)、天皇領】として続いた【越中吉岡庄】と呼ばれ、室町時代になると、「五位庄」と改名されて、幕府直轄領の「室町幕府御料所」に成り、「室町幕府第三代将軍足利義満」は室の業子の菩提を弔う為にこの庄園を自らが創建した京都の「相国寺」(金閣寺)へ寄進した。

◆平成18年10月の北日本新聞には富山県の「赤丸米」と「氷見のはざがけ米」、「新潟魚沼米」を食べ比べたところ、1位 「赤丸米」、2位 「氷見のはざがけ米」、3位 「新潟魚沼米」の順だったとの報道が有りました。
富山県農業改良普及センターの職員や五つ星お米マイスター等15名が食べ比べてこのような結果でした。赤丸米は小矢部川流域のきれいな水に育まれています。

🔽「赤丸米」は富山県高岡市福岡町赤丸の「農事法人赤丸農産」の登録商標です。(赤丸地内には他に「赤丸産米コシヒカリ」等の名称で販売されている商品もあります。)赤丸地内にはこの特産の「赤丸米」が食べられる【赤丸ちゃん】と云う食堂もオープンしています。



🔴天皇家庄園【越中吉岡庄】の鎮守社【延喜式内社赤丸浅井神社】の由緒を伝える「森田柿園著」の【越中志徴】!!

2021-04-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




◆「後白河上皇」の時代から南北朝の「後醍醐天皇」の時代迄、皇室庄園として続いた「越中吉岡庄」は、南北朝時代末期に室町幕府の御料所「越中五位庄」と成り、「第三代将軍足利義満」は室の「日野業子ナリコの追前供養」として「相国寺」(※塔頭寺院「鹿苑寺金閣」)の庄園として寄進した。その後も「越中五位庄」は「足利義持」等によって足利家菩提寺「等持院」、「等持寺」に寄進された。






(※寺社の祭礼、行事等は各年のスケジュール等の都合により変更されている場合があります。)










●「越中志徴」(※加賀藩士「森田柿園」著)に記載される「赤丸村」の「吉岡庄」、「吉岡谷」、「吉岡御所跡」、「五位庄」、「川合駅」、「浅井神社」、「川人明神」、「川人権現」、「浅井城」、「宇多刀工」、「親王屋敷」、「親王塚」等の記載。







■石川県立図書館の「森田柿園文庫」には、「赤丸浅井神社」周辺の古跡を描いた古絵図が保管され、柿園の著作「越中志徴」には「赤丸村周辺」の多くの古跡について説明されている。

その中で、「森田柿園」は、「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒について記載して、この神社が、嘗ては「川人権現」、「川人明神」として崇敬を集めて居た事が記されている。「川人権現」は「川人山鞍馬寺三社権現記」に記される様に、「川人山鞍馬寺」の下に「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」を持つ「三社権現方式」の形態をしていた事を示している。「後白河上皇」から南北朝の「後醍醐天皇」迄は「越中吉岡庄」と言う皇室庄園で、一時期、「下鴨神社」の庄園で在ったが、その後、「五位庄」に改名され、「日本国王」と名乗って権力を誇示した室町時代の第三代将軍「足利義満」の時に京都「相国寺」に寄進されて以来、足利家菩提寺の「等持院」・「等持寺」の庄園と成り、戦国末期迄、守護の能登畠山氏の影響下に在った。この間にも、門跡寺院「聖護院」の末寺として威容を誇ったが、豊臣と徳川が開戦した理由と成った「方広寺」が「聖護院」の別院で在ったことから、徳川幕府と結託した「吉田神道派」の「高岡関野神社」や「石堤浅井神社」等の圧迫を受ける事に成った。しかし、加賀藩は「豊臣恩顧」の大名として、秘かに豊臣と密接で在った「聖護院派」を庇護して、寺社奉行は「石堤浅井神社」の反乱に対しても、「赤丸浅井神社」の主張を是として判決している。(※「皆月家文書」金沢市立図書館所蔵の判決記録)
又、加賀藩の時代には「赤丸浅井神社」が別名「川人明神」とも呼ばれて崇敬され、加賀藩の江戸下屋敷(※板橋)の庭には、加賀藩が信仰した「上市大岩不動尊」と共に、「赤丸山」と言う築山迄造って居た事が「下屋敷絵図」で見られる。又、現在、「赤丸浅井神社」の本殿に掛けられた掲額は「加賀藩第十三代前田斎泰」の記毫によるものだ。
しかし、薩長主導の明治維新では、「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」が目標にされた「天皇親政」を目指した為に、「唯一神道」を掲げた吉田神道が暗躍して、「廃仏毀釈」の運動が激化して、遂には「後白河上皇」、「後鳥羽上皇」~「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園の鎮守社で在った「延喜式内社赤丸浅井神社」も「両部神道」から「神道」に改宗せざるを得なかった。「吉田神道」の「高岡関野神社」は、この時とばかりに配下の石堤浅井神社の神官を焚き付けて「石堤浅井神社が延喜式内社・五位庄総社」で有ると名乗り、神社の簒奪を図ったが、「南朝の牙城」で在った「赤丸浅井神社」には手を出せずに、維新政府が行き過ぎを指摘して過激な廃仏毀釈を規制したと云う。しかし、この時に破却された仏像は野に打ち捨てられ、寺院は売却されたりして、嘗ては勢力を誇った両部神道寺院は、「天台宗」か「真言宗」に編成変えされた。これ等の歴史有る寺院はこの時に「寺の由緒」を改変し、又は隠して、新たな出発をした寺院が多いと言う。高岡市の「関野神社」を初めとする「吉田神道」は、「前田利長」を祭神として関野神社の権威を背景に、「加賀藩主前田斎泰」が庇護してその「掲額」を本殿に掲げる「延喜式内社赤丸浅井神社」を廃棄する事は出来なかった。更に、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会で 【南朝を正統とする決議】を行い、社会的に南朝正統論が展開された為に、「南朝の牙城の赤丸村」に在り、元、南朝の「後醍醐天皇」の庄園「吉岡庄」の鎮守社で在った「延喜式内社赤丸浅井神社」の正当性は守られた。



■明治維新で掲げられた「明治維新の精神を伝える賛」と「後醍醐天皇の肖像」
(※大徳寺肖像の写し)







■「後醍醐天皇」は「赤丸の御旗」を作り、親王達は「赤丸の軍扇」を使用された。





■「元正天皇の二宮が創建(中興)された」と云う「赤丸浅井神社」の隣接地 には、古くから「浅井城」が在り、この城には浅井神社を中興された「二宮=文武天皇残された二宮」が在城されたと云われている。(※「越中志徴」・「肯搆泉達録」)
「浅井神社」を中興された「二宮」は、名を「石川朝臣広成」と云い、「続日本紀」には、「文武天皇の嬪ビン」の「石川刀自娘 イシカワトジノイラツメ」 の子で在ったが、権力者の「藤原不比等」の娘の「夫人ブニン 宮子」が産んだ「首皇子 オビトオウジ」を天皇にする為に「妃ヒ 石川刀自娘」と「妃ヒ 紀竃娘キノカマドノイラツメ」は不義を理由に朝廷から追われたと云う。しかし、この時に首皇子(後の聖武天皇)の母代わりをされた「元正天皇」(※故 文武天皇の姉)は「養老 継嗣令」を出して「天皇の兄弟、子供は全て【親王】とせよ」と命じられた。その為に「石川朝臣広成」は「六位」の下級官僚と成り、「恭仁京」に赴任して、「大伴家持」等と共に九人の「内舎人ウドネリ」の役職に成って赴任している。この時に歌った歌が万葉集に掲載されている。「元正天皇」は「首皇子」と「石川朝臣広成」に「東西66ケ国を各々、33ケ国」の統治を委ねられたと「川人山三社記」には記されている。
(※「続日本紀」・「川人山三社記・「福岡町史」)











■「続日本紀」(※岩波書店版)には、嘗て、朝廷と密接な神社を「明神」と呼んだと記載され、地元では霊験灼アラタかな神社を特に「明神」と呼んだと伝えられている。
しかし、元々「明神」とは、天皇が発した「宣命 センミョウ」の形式を決めた公式令の中にある言葉で在り、「明神御宇日本天皇詔旨云々。或聞」等の五つの形式を示す言葉で在った。これは、「明神アキツカミ と 御宇アメノシタシ らしめす日本ヤマト の天皇スメラ が詔旨オホミコトらまと云々。或コトゴト くに聞きたまへ」と読み、宣命の頭に付けられた形式で在ったと云う。これは、「令義解」と言う「養老律令」の解説書にも見えるが、「聖武天皇」の場合は宣命の中で「現神 アキツカミ 八洲所知倭根子天皇詔旨勅命」と告げてより直接的な表現に成っている。「現神 アキツカミ」は「世に現ウツ しく坐イ ます御神」(※「歴朝詔詞解」)=「現し世に姿を現されたかみ」と言う意味で在り、「鬼神 キジン」(※幽)に対する言葉に成っている。
これ等の事から、「現神 アキツカミ」とは、現存する「天皇」を意味し、 「明神 アキツカミ」とは「皇室の先祖神」を指すものと見られ、「川人大明神」とは「皇室の先祖神の【高皇産霊神 タカミウブスナノカミ】を祀る神社」と云う意味に成る。則ち、「川人大明神」は即、「天皇祭祀」を分担する皇室の分社として崇敬されて居た事に成る。「延喜式内社赤丸浅井神社」の前を通過していた「旧北陸街道」では、「赤丸浅井神社」の前では「下馬」して「拝礼」をする決まりが在ったと言う。








■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺「川人山鞍馬寺」の遺品(※赤丸浅井神社所蔵)









■「義経記」には「如意の城」として「赤丸浅井城」が、「二位の渡し」として「赤丸浅井神社」前の舟乗り場が登場する。「勧進帳」では「安宅の関」の場面として登場する。






🔴🔹 【室町時代】の【 瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語 】 ⇒ 【南朝の牙城】の【富山県高岡市福岡町赤丸(越中国五位庄赤丸村)】が初登場する室町時代の歴史上の記録!!

2021-04-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●【利波郡五位庄赤丸村】(※南北朝時代末期迄「吉岡庄」、以後、室町時代には「五位庄」)は南北朝時代に「後醍醐天皇の庄園」の「吉岡庄」で在り、南朝の後醍醐天皇の皇子「宗良親王」を赤丸浅井城に御迎えしたと伝わる【南朝の牙城】で在った。
「後醍醐天皇」は討幕の為に「大日如来を示す太陽」を冠に付けて、自ら真言宗立川流の秘法を以って討幕の祈祷をされたと言う。又、「後醍醐天皇」は奈良の「賀名生」の堀家に泊り此所に「南朝の旗標」の【赤丸の御旗】を遺された。
※「真言宗立川流」; 真言宗の一派で、ドクロに精液を塗り呪文を唱えて祈願する秘法。愛染明王を祀る。東寺長者文観を師とした後醍醐天皇は空海が唐から持ち帰った東寺の重宝の袈裟を着て、頭には大日如来のシンボルの赤い珠を載せ、手には真言宗の法具を握りしめ、伊勢神道の天照大神と春日大社の掛軸を飾り、異様な姿で北條氏の懲伏を祈られた。

南朝軍の後醍醐天皇の親王は、この「金地に赤丸」の標を武具に付けて戦われた。
「赤丸」は「後醍醐天皇軍」の旗標で在った。「赤丸村」はこの歴史から、【南朝の牙城】として「赤丸村」と名付けられたと見られる。




[越中吉岡庄](※南北朝時代末期から五位庄)に栄えた【宇多派刀工】は後醍醐天皇の忠臣とされる「伊勢国司 北畠親房」が支配した「奈良県宇陀郡」から「後醍醐天皇の庄園越中吉岡庄」へ来て、その流派は江戸時代迄五位庄で続いたとされる。室町時代には「越中守護畠山氏」にも近くなったと見られ、高岡市柴野の「三光寺」の宇多家墓所には隣接して「畠山家墓所」が在る。








🔽「太平記絵巻」




■ 越中光厳寺二世で後に「能登総持寺」の三十六世住持になった【東海宗洋】が【瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語】の中で、【五位庄赤丸村在住の藤原直家が父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を亀阜和尚により営んだ】と記録している。これを「光厳東海和尚録」という。香語の中には【越之中邦利波郡五位莊赤丸村居住孝子藤原真家、松岩宗秀上座一十七回忌、興多聞鞍馬、敬河人之靈神、僧而惟俗】という表現が見られ、川人の神を信仰し、鞍馬寺の中興をした祖先の法要を行っている。神仏習合・両部神道では「神前読経」と云って神社でお経をあげる習慣も有った。

◆【越中国利波郡五位庄赤丸村】と初めて【赤丸村】の記載が在る【東海宗洋記録】!!


(解説)


■【光源寺】は元森山(※現在の高岡市)に在り、「香語録」を遺した「東海宗洋」は守山城の神保氏の一族で在ったと云う。室町時代には、香語録の中で「越中国利波郡五位荘赤丸在住」と書いたのは、赤丸村が当時は「利波郡」で在ったと見られる。富山市蜷川の「蜷川の郷土史」に拠れば、「蜷川氏は新川郡・利波郡を知行された」と記載されるが、「その範囲は富山県西部の一部であろう」とも記載されており、「畠山文書」に記載される「越中絵図」には「赤丸浅井城」に「上分 越中守護畠山持国」が記載される所から、その下地は「室町幕府政所代蜷川氏」が地頭として領有したものと見られる
 
🔽「宇多刀工」の初代と言われる【宇多国光の太刀】




🔽南北朝時代迄の「宇多刀」は「古宇多」と言われる。
特別保存刀「古宇多」




【越中絵図】(※「畠山文書」羽曳野市資料叢書)


🔴🔨 室町時代の「越中五位庄」に工房を構えた「鋳物師 盛阿弥」と函館市文化財「平氏盛阿弥作 鰐口」!!

2021-04-10 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
●「越中川人山鞍馬寺」の宝物『鰐口』と永享年中(室町時代)の鰐口鋳物師「盛阿弥」!!

■「後白河上皇」の時代に全国の鋳物師に諸国通行自由、諸税免除の決定が為されて鋳物師は全国に拡がったと云う。「後白河上皇」の庄園で在った「越中吉岡庄」にも南北朝時代には刀鍛冶の「宇多刀工」が工房を構え、室町時代には鋳物師の「盛阿弥」が工房を構えた時と云う。又、同名の「盛阿弥作 鰐口」が函館市文化財として遺されている。
「●●阿弥」は鎌倉時代から室町時代に越中にも多く信者がいた「時宗宗徒」の法名で、鎌倉時代の慶波仏師「運慶」の弟子の「快慶」は「アンアミ」の異名で良く知られる。また、時宗は越中の小矢部川沿い、特に小矢部川上流の利波郡福光町の吉江集落に多くの信者が居たとされ、元々赤丸村に在った「総持寺」(※高岡市関町)の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の胎内にも「金剛位理卿 本願聖人」と記載される【後鳥羽上皇の法名】を中心に胎内一面に「●●阿弥」の「時宗門徒」の法名が墨書されている。南北朝時代に越中へ入られた後醍醐天皇の王子「宗良親王」が比叡山座主を退任された後、時宗に傾倒された時期も在ると云われる。

🔽[総持寺千手観音座像の多くの胎内名]







「時宗門徒」は「●●阿弥」「●阿」と記載される。

■「仁安の御綸旨」と言われる「後白河院庁」が発布した【河内国鋳物師の諸国通行を許可した文書】➡「延喜式内社赤丸浅井神社」を中心とした国吉郷(高岡市)から赤丸村(高岡市)、宮嶋郷(小矢部市)等を包含したと云う【越中吉岡庄】は「後白河上皇」の庄園の「後院領吉岡庄」と呼ばれ、院直属の「院庁」・「院司」が統治した。

➡【古くからの「五位庄53ヶ村惣社赤丸浅井神社」の神域を記載しており、これが奈良時代から南北朝時代迄続いた天皇家、藤原家の庄園「越中吉岡庄」の範囲と見られる。室町時代からは「五位庄」と改名されて室町幕府直属の御料所となり足利家菩提寺の「相国寺」、「等持院」、「等持寺」、「下鴨神社」の庄園として寄進された。(🔽「惣社」は代表する神社の意ー古くは国司が天皇に代わって幣帛を納めた神社)】
(※「延喜式内社赤丸浅井神社縁起」皆月家文書、富山県立公文書館)












■「越中吉岡庄」に大和国宇陀郡から移り住んだ「宇多刀工」の祖の「宇多国光」の太刀!!



■「川人山鞍馬寺」の宝物の「鰐口」


■「延宝六年(1678年)」の記名が有る「旧越中五位庄」の「赤丸浅井神社宝物」の「鰐口」と、「浅井神社縁起」(赤丸古代帳)に記載される「永享年中に赤丸の鍛冶屋町島に盛阿弥と言う鍛冶が工房を構えた」とする記載の検討。

「赤丸古代帳」の記載(部分)
▼「浅井神社寶物目録」
1.寄進状 壱通 宝永十七年九月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
2.書状 弐通 寛永十六年三月及五月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
3.書状 弐通 慶長十年九月及元和八年五月第三世利常ヨリノ書
4.御員筆額 一面 明治十一年正三位前田齋泰ノ書
5.古額 壱面 丈二尺 五寸 巾一尺四寸二分 但シ文字不明
6.古鏡 三面 一ハ直径三寸六分 一ハ直径三寸三分 一ハ直径三寸 右ハ往古神祇官ヨリ御下賜ノモノト言傳フ
7.太刀 一腰 丈一尺六寸 村正ノ作ト言傳フ
8.刀 一腰 丈一尺二寸四分 無銘白鞘
9.刀 一腰 丈二尺一寸五里 銘アルモ不分明
10.古鏡 一面 直径七寸壱分 藤原丈長ノ作
11.大鰐口 壱個 延寶六年八月吉日ト記セリ 目方約八貫目アリ
12.古記録 参拾弐冊 慶長以降天保ニテ古文書一冊ノ半数約百枚アリ
13.古画 壱軸 兆殿司ノ筆(二王像)
14.古画 壱軸 高祖神変大師ノ御影 大師ハ泰澄大師ナリ
▼「盛阿弥」盛阿弥ハ刀鍛冶ニシテ永享年中赤丸村ニ住セリ 鍛冶ノ跡アリ(中越史料雑纂)現今鍛冶屋町島ト小字残レリ ( ※ ⇒永享年中に鰐口等の制作で文化財に残る「平氏盛阿弥」の事か?)

■「越中吉岡庄」(※南北朝時代末期から「五位庄」)の「鍛冶屋町島」には南北朝時代に「宇多刀工」が大和国宇陀郡から移り住んだと伝わる。「鍛冶屋」と言う言葉は元々、「鋳物師らをも含む金属加工者」を指し、「製鉄」に従事するものを「大鍛冶」というのに対し、「刀鍛冶」を「小鍛冶」と称している。



■函館市の文化財に「永享十一年(1439年)三月 平氏盛阿弥作」の「鰐口」が有る。この一族は源実朝の時に奥州を追放された一族では無いかとされている。「函館市史」には以下の記載が有る。
【かの永享十一(一四三九)年の紀年をもつ「鰐口」にかかわっての仮説である。「奉寄進夷嶋脇澤山神御寳前 施主平氏盛阿弥敬白 永享十一年三月日」と刻まれているこの「鰐口」から、「脇澤」とは石崎の「宮の沢」を指すので、「澤山神」なる神社が石崎に存在していたことは間違いない。「平氏盛阿弥」を特定視することは容易ではないが、「阿弥」という「阿号」を名乗っていることから、念仏系信者であろう。推測をたくましくすれば、永享十一年以前のある時期、「平氏盛阿弥」を中心とする「渡党」たちが、昆布漁や鍛冶業などの順調なる生業を祈念して、石崎の「脇澤」の地に「山神社」を勧請したのではなかろうか。】

永享と言う室町時代に「越中五位庄」に「盛阿弥」と言う「鍛冶」が住み、この同時代には函館市の脇沢の「沢山神」に「平氏盛阿弥」が「鰐口」を奉納している。
「●●阿弥」と言う称号は越中の小矢部市川流域の福光から海岸一帯に栄えたと言う「時宗」の出家者が用い、南北朝時代の興国三年に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が越中に入られて「時宗」に改宗されて、富山県西部には「時宗」が一挙に拡がったと云う。元々、赤丸村に在った高岡市の総持寺の「木造千手観音座像」の胎内にも時宗の信者の「●●阿弥陀佛」と言う記名が多い。
福光町の記録に「時宗という宗教は、開祖一遍上人(知真)で弘安二年の秋越中をとおり、その二世他阿(たあ)が砺波郡吉江道場の盧阿を教化し、医王山麓に念仏湧躍歓喜の声が起こりはじめた。」とされ、福光の吉江は時宗の越中の本山として機能してきたと云う。

■越中は日本海交易で北海道とも交流が在ったと云われ、平安時代に「越中吉岡庄」は藤原摂関家「藤原頼長」の庄園で在り、奥州平泉の周辺の出羽国、陸奥国にも庄園を持ち、奥州藤原氏に庄園の管理をさせていた事から、「奥州」は「越中吉岡庄」と文化的に密接で在った。奥州藤原氏は蝦夷に向き合い、文化的にも交流が深く、奥州の馬、金、布等を庄園主の藤原頼長に送っていたと云う。又、奥州藤原氏は越前の白山山伏の信仰「平泉寺」を信仰して、「鐘」を寄進している。
藤原氏の庄園の産物は海路、舟で能登や越中伏木の港を経由して越前敦賀港から都へ送られており、越中と北海道との交流も相当深かった筈で在り、函館市に越中産の鋳物製鰐口が伝えられた可能性が高い。



■五位庄の鍛冶屋町島に工房を構えた「宇多刀工」は江戸時代初期迄続いたとされ、「延宝六年」の記載が有る赤丸浅井神社宝物の「鰐口」もこの五位庄に栄えた鍛冶屋の制作かも知れない。

🔴【越中石黒氏】の一族【牧野太郎二]が「後醍醐天皇皇子宗良親王」を迎えたと伝わる【越中射水郡牧野】の【高木城】!!

2021-04-10 | 富山県高岡市福岡町
■【越中射水郡の高木城】

戦国時代に神保氏の家臣「寺嶋牛介」や兄の「小嶋甚助」が居城にしたと云われる【幻の城】の【高木城】。







■南北朝時代に「後醍醐天皇」の庄園で在った富山県高岡市福岡町赤丸を中心とした【越中吉岡庄の赤丸浅井城】に「石黒重之」が「宗良親王」をお迎えしたと云われ、越中石黒氏が興国三年に「後醍醐天皇第八皇子宗良親王」を先ず迎えた城として「越中高木城」が登場する。
この場所は、明確な資料は無かったが、射水市で確認した所、射水市北高木から大島町高木に在ったとされる。この地域を発掘調査した記録によると、数々の遺品が発掘されていると云う。神社庁の記録では「大袋庄高木城」となっており、その中心には「道神社」(※36ケ村総社)が在った様だ。この隣接の高岡市下牧野地区には「宗良親王」が滞在されたとされる「樸館塚」や親王所縁とされる「長福寺」等がある。










🔴【源平盛衰記】越中倶利伽羅山の戦い!!

2021-04-10 | 越中国吉岡庄・五位庄




●「源平盛衰記」
富山県と石川県の県境に在る「砺波山」の「倶利伽羅山」で源氏の木曽義仲軍(越中の石黒、向田、蟹谷氏等が従軍)と平家軍が激突した。河内金剛寺の庄園を寄進した「三善(源)義弘」は地域を支配した源氏の武将の首を手土産にして平清盛軍に参陣したが、砺波山の激戦で戦死した。河内金剛寺からは越中吉岡庄に在った「総持寺」に「千手観音像」が伝えられている。




◆《源平盛衰記》(※江戸時代版)