


■「東大寺庄園越中杵名蛭庄図」(※東京大学資料編纂所絵図より作成)



●「東大寺庄園越中杵名蛭庄」の比定地に『高岡市立野地区』が追加された(2017.06,21)
この庄園図を詳細に検討すると庄園図記載の内容と古代の小矢部川、庄川等の河川の流れが高岡市立野、池田、高田島辺りに推定される事から「国立歴史民俗博物館庄園DB」の修正依頼をしてきたが「平成29年6月21日」に修正が決定された。
古代の小矢部川は西山の麓を流れており、現在は相当、小矢部川が東側に寄って流れている事から、現在の小矢部川、庄川の位置を前提とした位置の検討は意味が無い。

■従来、「杵名蛭庄」に付いては「砺波市庄川町」、「南砺市井波町」に比定され井波町は「高瀬庄」の位置が充てられていた。
しかし、近年、「高瀬庄」に付いては「足利尊氏が東大寺へ寄進した庄園」として「南北朝~室町時代の成立」としている。(※「東京大学資料編纂所」)
又、「国立文化財機構」ではこの庄園は「高岡市伊勢領、市野瀬辺り」に比定している。



🔽「室町幕府守護畠山義就から越中高瀬庄守護代遊佐加賀守への文書」
東京大学資料編纂所DB「東大寺文書ニ十二」 👇クリック
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/1823/0015?m=all&s=0015&n=20
■「庄川町」に比定する事に付いては、「杵名蛭庄」を通る「速川」について高岡市早川地区に「延喜式内社速川神社」が在り、「速川」が中世には「ソフ川」→「祖父川」と変化している事から、この庄園が庄川地区には該当せず、又、「杵名蛭庄図」の中に「荊原里」と記載されており、この位置の高岡市福田地区には「荊波神社」(※延喜式神名帳にウバラノヤブナミと在る。)が在り、絵図に在る「杵名蛭川」が「千保川」に比定される事から、「杵名蛭庄」は間違い無く高岡市立野、池田周辺で在る。
■「高岡市伊勢領、市野瀬」説に付いては、小矢部川の流れが古代にも現在の位置に在った事を前提にしている様で、これも検討違いと言える。



