赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚📜📃 『国立歴史民俗博物館日本庄園データーベース』⇒ 「東大寺庄園越中杵名蛭庄」の比定地に『高岡市立野地区』が追記された!!

2021-04-20 | 富山県高岡市






■「東大寺庄園越中杵名蛭庄図」(※東京大学資料編纂所絵図より作成)






●「東大寺庄園越中杵名蛭庄」の比定地に『高岡市立野地区』が追加された(2017.06,21)
この庄園図を詳細に検討すると庄園図記載の内容と古代の小矢部川、庄川等の河川の流れが高岡市立野、池田、高田島辺りに推定される事から「国立歴史民俗博物館庄園DB」の修正依頼をしてきたが「平成29年6月21日」に修正が決定された。
古代の小矢部川は西山の麓を流れており、現在は相当、小矢部川が東側に寄って流れている事から、現在の小矢部川、庄川の位置を前提とした位置の検討は意味が無い。



■従来、「杵名蛭庄」に付いては「砺波市庄川町」、「南砺市井波町」に比定され井波町は「高瀬庄」の位置が充てられていた。
しかし、近年、「高瀬庄」に付いては「足利尊氏が東大寺へ寄進した庄園」として「南北朝~室町時代の成立」としている。(※「東京大学資料編纂所」)

又、「国立文化財機構」ではこの庄園は「高岡市伊勢領、市野瀬辺り」に比定している。








🔽「室町幕府守護畠山義就から越中高瀬庄守護代遊佐加賀守への文書」
  東京大学資料編纂所DB「東大寺文書ニ十二」 👇クリック
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/1823/0015?m=all&s=0015&n=20

■「庄川町」に比定する事に付いては、「杵名蛭庄」を通る「速川」について高岡市早川地区に「延喜式内社速川神社」が在り、「速川」が中世には「ソフ川」→「祖父川」と変化している事から、この庄園が庄川地区には該当せず、又、「杵名蛭庄図」の中に「荊原里」と記載されており、この位置の高岡市福田地区には「荊波神社」(※延喜式神名帳にウバラノヤブナミと在る。)が在り、絵図に在る「杵名蛭川」が「千保川」に比定される事から、「杵名蛭庄」は間違い無く高岡市立野、池田周辺で在る。

■「高岡市伊勢領、市野瀬」説に付いては、小矢部川の流れが古代にも現在の位置に在った事を前提にしている様で、これも検討違いと言える。










🔴🌻 【織田信長】の家紋【織田木瓜紋】のルーツ!!

2021-04-20 | 富山県高岡市


●富山県高岡市には「織田信長」の妹が嫁いでいた越中守護畠山一門の「神保氏張」の居城の【守山城】が在り、その山裾の高岡市内には「織田木瓜紋」を使用する家系が遺される。
その山裾に在る高岡市柴野十日市の「曹洞宗三光寺」は、「前田利長」の妻に成った「織田信長」の四女の【永姫】が寄進したもので在る。

・「高岡守山城主 神保氏張系図」




■【織田信長】の先祖は系図では【平重盛】の末裔で、福井県織田町の「剣神社」の神官家に養子として入った。
【剣神社】は「スサノオノミコト」を祭神として【剣】を御神体とすると云う。【剣神社】の紋は【木瓜紋】で、之は【スサノオノミコトの神紋】とされて各地の神社でも神社の紋とされている。
【織田信長】の家紋の【織田木瓜紋】は、神代に荒れ荒んだ【スサノオノミコト】の「神紋」を使用しており、先祖が神官を勤めた「越前劔神社」の「御神体」は【剣】で在ったと云うから、正に【織田信長】の生き様は、「剣を持って暴れまわるスサノオノミコトの生まれ代わり」とも云える。








■【織田家】は室町幕府守護斯波家に見出だされて尾張へ出て守護代を務め、この「剣神社」の神紋の【木瓜紋】を家紋とした。


📚📖 越中の剣豪「斉藤弥九郎」のルーツ ⇒高岡市で苦学した幕末の士!!

2021-04-20 | 富山県高岡市
●幕末の剣豪「斉藤弥九郎」は、越中の士にして藤原一族の斉藤氏系加賀富樫氏の血を継ぐとされ、射水郡(氷見市)仏生寺村の組合頭の長男として生まれた。




■若き頃、氷見市の仏生寺村から高岡市の商家にでっち奉公をして苦学して、遂には江戸で剣豪として名を成した「斉藤弥九郎」。この家は加賀富樫氏の末裔とも言われる。
仏生寺村は富山県の西山一帯(頭川~五十里)にかけて広がっていた通称「三千坊山」と呼ばれる山並みの奥に在る集落で、300以上の寺院が建ち並んでいた山々の谷川は数度に亘る戦乱で焼き討ちされて、殺戮された僧や民衆の血で赤く染まったと仏生寺村には伝わっている。近くには古くから続く山合の温泉場の「神代コウジロの湯」が在り、この「神代村」から五位庄に出た一族は「神代」を名乗っている。(※五位庄の「神代ジンダイ」は二系統在り、もう一系統の赤丸村鞍馬寺の一族は赤丸浅井神社の神田を守っていた一族だと神社には伝わっている。)
★高岡市岩坪の民家には斉藤弥九郎の縁者が住み、数年前の高岡市福岡歴史民俗資料館の展示ではこの家に伝わっている「斉藤弥九郎からの手紙」が展示されていた。岩坪村は仏生寺村から高岡市街に向かう途中に当たり、この一帯の佐賀野には平安時代末期に伊勢平氏の武将「越中前司平盛俊」が居城を構えて越中と能登を統治したと伝わる古い集落だ。この武将は「平家物語」や「源平盛衰記」にも登場して、「源義経」の事を「歯の差し出でて小さき者」と紹介し、義経は「チビで出っ歯」と評している。佐賀野は越中と能登の中間地点に当たり、平家はこの地に政治の中枢を置いていた様で、現在高岡市役所の近くに在る古刹の「光慶寺」等はこの地域の細池から高岡市街地に移転して来ている。佐賀野には現在も古い時代の武将の居館跡が遺されている。
(※「高岡史料 絵図」)、(※「国吉村史」)


🌄「越中石黒氏」と「二上庄」⇒高岡市の旧二上庄の範囲(「越登賀三州志」) !?

2021-04-20 | 富山県高岡市




■「二上荘」;鎌倉期から見える荘園名で、荘域に「二墓保 フタヅカホ」を含む。(文正元年四月八日付後花園上皇院宣/富山県史中世)
「承久の乱」(82代後鳥羽上皇)の後の「関東御教書」(寛元二年十二月二十四日※87代四条天皇・鎌倉幕府北条氏)に拠ると、当荘雑掌より申し出された問注について鎌倉幕府は当荘預所と石黒氏の傍系の石黒弥三郎との参決を命じている。(※「久能木文書」大日本史料5-18)
「室町幕府奉行人連署奉書案」(※寛正六年三月二日付「土御門家文書」富山県史中世)には「土御門三位有季申、越中国二上荘領家職御譲位以下要脚段銭之事」と有り、室町幕府は当荘を管掌している土御門有季の申し入れを受けて当荘の段銭を免除した記録が有る。
(※「角川日本地名大辞典」)


■「越中二上庄の地頭石黒弥三郎の鎌倉幕府北条氏との記録」


■一方、加賀藩士富田景周(平の景周)の著書の「越登賀三州志」(※「圖譜村籍巻之三」)に拠れば、加賀藩時代に「二上庄」は以下の範囲で在った。

「二上庄六十五村曁オヨビ垣内二十七處 外無家。十二町分・二塚新村」
三ケ新、六渡寺、中伏木、六渡寺新、吉久、吉久新、下牧野、上牧野、宮袋、高木、川口、大門、田町、大門新町、東廣上、西廣上新、西廣上、上伏間江、下伏間江、深澤、赤祖父、大野、井口本江、出来田、百米木、枇杷首、川原町、蓮花寺、三女子野、上野下田、野村新、石瀬、上石瀬、角、新田、能町、橋場、来島、上来島、鷲北新、北村、荻布、江尻、掛開発、向野、湶分アワラブン、高湶、中川、端、下田町關、鴨島、上關、京田、下黒田、上黒田、林新、東藤平蔵、林、二塚、三木松 鎧 三屋、十二町島、北蔵新、西藤平蔵、紅屋 龜島、佐野、上佐野 雙川佐野ソウカワサノ 西佐野、木津、東村、羽廣、出村、北島、早川、島、横田、新田、内免新、四屋川原、長慶寺、河野、波岡、長江新、大屋、高岡町、木町、土器町、


「二上庄内下四條二十村曁垣内九處」
五十里、道重 百橋 板屋、須田、西海老坂、東海老坂、守山町、渡、下八ケ新、守護町、守護町新、二上、上二上 谷内、二上新、城光寺、矢田、谷内手、矢田新、串岡、矢田串岡新、古府、石坂、伏木、定塚、國分、一宮、新村、

🎠🌸 鎌倉末期の越中西部の藤原氏の庄園 ⇒ 後鳥羽上皇庄園『越中吉岡庄』・『石動山」 と「九条家」・「東福寺」の越中庄園!!

2021-04-20 | 富山県高岡市






■富山県高岡市福岡町赤丸の「延喜式内社赤丸浅井神社」を郷社とした「越中吉岡庄」は、元々、「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」の結果、「後白河上皇」の「後院領」として没官された。その後は、「後鳥羽上皇」~「後醍醐天皇」迄、「皇室領」として存続して、室町幕府の「足利義満」の時には義満が建てた「相国寺」や足利家菩提寺「等持院」・「等持寺」等の庄園として存続した。



●【九条(藤原)兼実】
『後鳥羽上皇』の中宮「九条任子」の父で摂政を勤めた「九条兼実」は『東福寺』を創建して越中西部に広く庄園を設定していた。



「藤原摂関家長者九条(藤原)兼実像」


■【越中吉岡庄】
【九条兼実】の腹違いの「伯父」の【藤原摂関家長者藤原頼長】は「越中吉岡庄」の領主で在り、兼実の子供の「九条道家」は「吉岡庄」と隣接する「越中宮島郷」を所有していた。(※「吾妻鏡」)










■【越中宮島(保)郷】
九条兼実」の子で、鎌倉幕府の「摂家将軍九条頼経」の父【九条道家(※藤原道家)】が、小矢部市の【宮島保】を庄園として保有していた事が、鎌倉時代の「吾妻鏡」に登場している。

■【越中の東福寺庄園の事】
→ 越中國東條。河口。曾祢。八代保。 東福寺の庄園は門徒の氷見の「八代氏」が地頭となり管理した。氷見阿尾城の「菊池氏」も「八代氏」の同族らしく、藤原氏氏寺の「東福寺」の檀家であった。
(※「戦国・氷見」氷見市) た

【吾妻鏡】
「延應元年(1239)七月大廿五日壬辰。越中國東條。河口。曾祢。八代等保事。爲請所。以京定米百斛。可備進之旨。地頭等去年十一月献連署状於禪定殿下〔道家〕。仍可停止國使入部并勅院事以下國役之由。同十二月國司加廳宣。就之。去正月任國司廳宣。地頭等寄進状。爲東福寺領。停止并勅院事國役等。爲地頭請所。可令備進年貢百石。兼又當國宮嶋保雖爲當家領。被糺返國領之由。被下禪定殿下政所御下文。是爲寄附彼寺。所被相傳也。仍被申其趣於將軍家之間。可存其旨之由。今日被奉御返事云々。」

【7月25日 壬辰
越中の国東條・河口・曽祢・八代等の保の事、請所として、京定米百斛を以て備進すべきの旨、地頭等去年十一月連署状を禅定殿下(藤原道家)に献る。仍って国使の入部並びに勅院の事以下の国役を停止すべきの由、同十二月国司の廰宣に加う。これに就いて去る正月国司の廰宣・地頭等の寄進状に任せ、東福寺領として勅院の事以下の国役等を停止し、地頭の請所として年貢百石を備進せしむべし。兼ねてまた当国宮嶋保は当家領と雖も、国領に糺返せらるるの由、禅定殿下政所の御下文を下さる。これ彼の寺に寄付せんが為相伝せらるる所なり。仍ってその趣を将軍家に申さるるの間、その旨を存ずべきの由、今日御返事を奉らると。】

🔽『後鳥羽上皇』の中宮「九条任子」の父で摂政を勤めた「九条兼実」は『東福寺』を創建して越中西部に広く庄園を設定していた。
⇒【解説】( 越中國の東條保。河口保。曾祢保。八代等保 は藤原道家が寄進し東福寺領と成り、小矢部市の宮嶋保は国庫に返還された。 東條・河口・曽祢・八代等の保は 米100石で地頭が管理する事で地頭が連名で藤原道家に請状を提出した。)
★「東條保」は大門町の「延喜式内社櫛田神社」周辺、「河口保」は庄川河口近くの高岡市松木周辺、「曽根保」は射水市と高岡市の中間辺りで「河口保」と隣接、「八代保」は氷見市阿尾から山中に入った湯山辺りから石川県境迄が考えられる。「宮島保」は小矢部市と福岡町の間の西山に在り、「宮島峡」や「宮島温泉」が在り、石川県への間道に在る戦略上の要衝に当たる。









★【九条(藤原)頼経】
【九条頼経】は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍で藤原摂関家から迎えられた摂家将軍。両親共に源頼朝の同母妹「坊門姫」の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係で妻は源頼家の娘竹御所。竹御所は難産の末、母子共に亡くなり源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された。(宮騒動)
【評定衆藤原浄円】の子の「斉藤長時」等が、解任されて追放される前将軍の「藤原頼経」を都へ送り届ける役であったと云う。
🔻【藤原浄円】は高岡市関町「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の胎内に「大壇那」として記載されている。(※「大壇那」;資金を提供する者)
又、この黄金の千手観音像の胎内には、【本願聖人】として、【後鳥羽上皇】の法名【金剛位理(乗)卿】が記載されており、この「千手観音像」が、「承久の乱」の結果、永久に「隠岐島」へ流罪になった越中吉岡庄の領主の「後鳥羽上皇」の【祈願仏】で在った事が判る。◆【真言宗】は「金剛乗教」と呼び、その衆徒は「金剛乗衆」と呼んだ。
(※「空海辞典」東京堂出版)














💠🏯📃 「二宮氏」の事 ⇒越中五位庄「加茂城」の【二宮円阿軍忠状】!!

2021-04-20 | 富山県高岡市


■貞治2年(1363年)3月、南朝の武将桃井直常討伐に従軍した「二宮円阿」が「五位庄の鴨城衆と頭川城、松根城等での戦い」を命じられて任務を果たした事等が記載された「二宮円阿軍忠状」が有り、是が「五位庄鴨城」の説明に登場する。この「二宮氏」について調べて見る。

【二宮次郎左衛門入道円阿申軍忠事】
「右、去年二月九日令発向越中国、可致忠節之由、賜将軍家自并七条殿(斯波高経)御教書、当国松□(根)御陣下向仕、同七月三日大将御共仕、和三(田)合戦令致忠節、致其外圧城・野尻御供申、自同十一月至今年三月令和田十一警固、同十三日可為鴨城衆由依仰下候、於当城致忠節、同五月十二日向馳頭高城、追落凶徒等、焼払彼城、鴨城衆等相共致忠節、至南条枯本木金山城、令致忠節候上者、賜御判形為備後証、恐々言上、如件、
貞治弐年六月 日
一見了 印 」

詳細を調べるとこの二宮円阿という人物は足利一族の斯波高経の家老に見られる。
■「斯波高経」; 尾張足利氏四代目 1362年細川頼和に代わり越中に息・義将を派遣。信濃国から越中乱入。南北朝時代の南朝の武将で守護大名。越前・若狭・越中守護。南朝の勇将新田義貞を福井県で破る。観応の擾乱では足利尊氏と直義双方にその都度、仕える。

■「二宮円阿」;次郎左衛門入道貞光円阿。斯波家家老で信濃口から越中へ乱入し庄城、野尻城、和田城、鴨城、頭高城で戦う。1363年(正平十八年)に軍功を申請する申請書を提出した。

■天正二年に上杉謙信から知行安堵された新川郡(現富山市)上熊野の二宮左衛門大夫は、神保長住から越中国入国直後の天正六年五月十七日付け(1578年)で知行安堵状が出されて、更に同年七月八日に重ねて織田信長から知行安堵の朱印状が発給されている。当時は最終的に織田信長の朱印状を頼っていたらしい。(※「富山県史」資料編Ⅱ中世)

■高岡市守山城の神保氏張は能登畠山氏から神保氏に養子に入ったが、静岡県立図書館にある徳川家臣の「神保系図」に拠れば、守山城の神保氏はその祖先は平姓良文系「二宮氏」で有り、守山城を居城として中村、神保と改姓している。(※「神保氏」には「惟宗姓」と「平姓良文流」の二系統在り、各々が能登畠山氏から「神保」の姓を授かったと云う。)

【武蔵七党と二宮氏】
中世の薩摩国甑島の領主小川氏は、武蔵七党の一である「日奉姓西党 ヒマツリセイニシトウ」から出たと云う。
「日奉姓西党」は武蔵守として赴任した藤原宗頼が武蔵国に土着したことに始まり、系図によれば宗頼の孫宗忠が西内大夫を称している。宗頼→長男は西太郎宗守、次男宗貞→宗貞の長男宗綱(宗綱の系統が西党の嫡流)→二男上田二郎の子宗弘[小川(小河)太郎入道を名乗り小川氏の祖]
その他、西党からは長沼、稲毛、平山、由木、立河、二宮、由井、小宮氏らが分出して、多摩郡を中心として都築・橘樹郡に一族が広まった。 子孫は居住地が国衙の西方にあった事から西党を名乗る。
治承四年(1180年)に「平治の乱」に敗れて伊豆に流されていた源頼朝が旗上げする。安房の頼朝の下には上総・下総・武蔵武士達が参集してくる。相模国鎌倉に本拠を置いた頼朝は東国の武士団の棟梁になり、武士達は頼朝の家人となる。小川氏や同族の二宮氏・小宮氏も頼朝の御家人となり本領を安堵された。頼朝はこれ等の東国武士団を率いて平家と戦い、遂に鎌倉幕府を開く。 鎌倉幕府を樹立した頼朝が建久元年(1190年)に上洛した時に随兵の中に小川二郎、二宮小太郎、小宮七郎が見える。同四年の的始の射手に二宮弥次郎が選ばれている。(※『吾妻鏡』 )

[武蔵七党]
・野与党 平忠常の次男胤宗子、基宗が興す。
・西党 日奉連宗頼(ヒマツリノムネヨリ) が祖。小川・由比牧支配。(日奉・西・長沼・上田・小川・稲毛・平山・川口・由木・西宮・由井・中野・田村・立河・狛江・信乃・高橋・清恒・平目・田口・二宮)
・私市党 私市家盛が祖。「私市キサイ」は皇后領を治めた。皇后の牧を管理。
・児玉党 藤原道隆の孫の子で維能コレヨシが武蔵介児玉郡を開いた。
・横山党 小野篁の7代目子孫の小野孝泰が武蔵守となり多摩たまの横山(八王子)を開く。
武蔵七党中最大の規模。(※小野篁…平安初期の有名な学者、参議。)
・丹党 宣化天皇系の多治比古王の子の広足が丹治姓を賜姓され、武蔵守となる。
・村山党 平忠常の子孫、野与基永の弟、村山貫主頼任が祖。狭山丘陵。
・猪俣党 横山党の一族。小野孝泰の子孫の時範が児玉郡猪俣に住。荏原氏、岡部氏等。

【二宮氏】東京多摩地域の「あきる野市二宮」の「二宮城」を拠点とした。
「西党」は藤原氏真夏流の日野中納言資朝の玄孫資忠の後裔説がある。又、大伴氏と同じ「高皇産霊尊」(タカミウブスナノカミ)の後裔共云う。武蔵守として下向した日奉連宗頼の後裔は小川牧、由比牧の別当を兼ねて多摩川中流域に勢力を扶植して武蔵七党の一として一族は西党とも呼ばれる。

■「斯波義将の二宮信濃入道に対する文書」⇒棟別銭免除の事(※「東寺百合文書」)





 



🔘 「富山県西礪波郡紀要」記載の「五十嵐篤好」、「田畑兵衛」!!

2021-04-20 | 富山県高岡市

■越中西部の「赤丸浅井城」、「赤丸浅井神社」の周辺はかつて、【後鳥羽上皇】の庄園「越中吉岡庄」が広がっており、「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では赤丸浅井城の「石黒氏」や石川県境の宮崎城の「宮崎氏」等の国人領主達が参戦して都迄、進撃したが、「後鳥羽上皇」が敗北するとそれらの軍はチリジリに落ち延びて行った。「越中石黒氏」は「長谷川」と姓を変えて東北に落ち延び、ついには奥州から尾張如意郷に来て「如意城」を築いたと伝える。


🔽「越中吉岡庄」の中心施設「赤丸浅井城」、「赤丸浅井神社」周辺の古絵図
(※「石川県立図書館森田柿園文庫」)










■「五十嵐篤好」は加賀藩時代に現在の高岡市東五位、国吉、石堤地区の「十村役」を歴代勤めた家系で、著名な国学者で在り、算学、測量術に通じ、現在の富山市で農地の開発を行った。住居は現在の高岡市立東五位小学校の敷地と云い、小学校の入口には「五十嵐篤好の墓」が在る。
「吾妻鏡」に「五十嵐氏」は越後の五十嵐神社の神官一族で、「承久の乱」の時に幕府側で戦功在り、「越中吉岡庄の一部の国吉名」を賜り、その後、幕府側と所有を巡って争論と成った事が記載される。








■「田畑兵衛」は佐々成政が能登末森城を攻めた時に、佐々成政に能登への間道を案内すると称して、道なき山道に佐々軍を迷わせて自らは逃亡したとされる。その為に、佐々軍の末森城への到着が遅れた為に、急を聞いて駆けつけた前田利家軍の参戦で落城を免れた。
その結果、知らせを受けた豊臣秀吉が参戦して、佐々成政は降伏し、赦されて、暫くは新川郡を知行されたが、遂には肥後に伝封された。
その戦功を前田利家に賞されて、十村役の上の無役十村役、山廻役と成り家臣待遇を受け、周辺一帯の山林を知行された。












💠🔷🔹 【越中西部の中世鋳物師】室町時代の【畠山文書】の「越中統治絵図」と『東寺百合文書』!!

2021-04-20 | 富山県高岡市
■【越中統治絵図】(※「畠山文書」)には、現在の理解と異なる「射水郡」と「利波郡」の位置、範囲が記されている。


※「畠山文書」(※羽曳野資料叢書)は越中の郷土史では反映されていない。


■「徳大寺家庄園」の「越中般若野庄」の範囲と鋳物師に対する室町幕府「斯波氏」からの書状。⇒般若野庄の「金屋」
(1376年[永和元年(北朝)/天授元年(南朝)] ~1385年[至徳2年(北朝)/元中2年(南朝) ]の「東寺百合文書」に遺されている書状。)







■「高岡鋳物師」は高岡市戸出の「西部金屋」から招致されたと言う。この「金屋」は「東寺百合文書」等に拠ると、「般若野庄金屋」で在り、当時は現在の庄川を挟んだ「高岡市西保」と「砺波市東保」を含む地域で在ったと伝えられる。

⇒砺波市から高岡市にかけて拡がっていた「般若野庄金屋」
【村社五社之宮】は、西保(高岡市戸出西部金屋)と東保(砺波市東保)が1つの村であった時代の宮であるとの伝承がある。1つの村は庄川の氾濫により庄川左岸が西保三ヶ、庄川右岸が東保七ヶという2つの村に分かれた。かつて1つ宮だったことを懐かしむようにして西保神社は東を向き、東保神社は西を向きあっているという。(※Wikipedia)



■高岡鋳物師の他地区の鋳物師への圧迫
⇒加賀藩前田家を背景に高岡の商工業者は、周辺の同業者を圧迫した。(※「福光町史」)

現在も高岡市では、【高岡市の鋳物師は高岡市戸出から高岡市内に移った】とされ、他地区との区別をしているが、当時は庄川沿いに展開していた広域の徳大寺家領「般若野庄」の中に在った、現在の砺波市と高岡市に股がる地域だった様だ。




🏯🏯「高岡瑞龍寺」の【鉛瓦】⇒高岡市博物館に陳列されている加賀藩の真実!!

2021-04-20 | 富山県高岡市



加賀藩は金沢城、瑞龍寺の屋根を鉛瓦で葺き、戦時に砲弾を造る供えにしたと云う。又、加賀藩が流罪地としていた五箇山では鉄砲の火薬を造る為の煙硝を製造していた。そのやり方は、人尿を合掌葺きの高床式の床下に撒き、その上で囲炉裏の火をガンガン燃やして蒸発を早くしたと云う。尿は各地から五箇山に山越えで送られ、出来た煙硝は富山県福野の山中から金沢の湯涌温泉に至る山越えの道を通って密かに金沢に運ばれたと云う。これは「煙硝の道」と呼ばれたと云う。加賀藩は五箇山を流罪地としてカムフラージュして、実際は徳川幕府に隠れて罪人に火薬を製造させていた。流罪地の警備が厳しいのは当然だが、外部から密偵が入る事も防いでいたと云う。

🔴🔹【五位庄柴野城城主寺嶋牛介】(※「末森記」)の末裔、高岡町奉行「寺嶋蔵人」の金沢屋敷 !!

2021-04-20 | 富山県高岡市







■「上杉謙信」が一向一揆対策として能登畠山氏の要請を受けて越中に進攻した時に、「越中五位庄」の安堵状が「寺嶋牛介」に与えられ、後に上杉謙信の家臣名簿にも載せられている。
(※「寺嶋家文書」金沢市立玉川図書館、「上杉家文書」山形県上杉博物館)






■「越中・能登守護畠山氏」が統治した時代の越中国は八郡に分割されていた。「室町幕府第三代将軍足利義満」が「相国寺」の庄園として「五位庄」を寄進した時代には、「赤丸浅井城」には「越中守護畠山持国」の名前が記されている。(※「畠山家文書」大阪府羽曳野市)



■加賀藩の重臣寺嶋蔵人の屋敷は今も金沢市内で観光地として現存している。金沢では加賀藩算用場奉行、改作奉行をした寺嶋蔵人として紹介され、高岡市では高岡町奉行として寺嶋蔵人を紹介している。高岡市では高岡市博物館に寺嶋蔵人の絵や書を保管し、時々、特別展示されているが、金沢では高岡町奉行をしていた事はどこにも出てこない。高岡市内でも観光で街へ来た人は高岡大仏の前に鐘楼があり、そこに「当初は寺嶋蔵人が製作させ、時鐘として使用していたが割れた為再度製作した鐘である。」と記載されて、ようやく寺嶋蔵人の足跡の一部が判る。又、国吉村の柴野城の山裾に在る「高岡市指定文化財観音像」の説明に「寺嶋氏が立山から運んだ石像」として寺嶋氏の名前が出て來る。寺嶋氏は神保氏の家臣として元立山山麓の池田城を拠点としていたが、後に国吉の柴野城を拠点とした時に立山からこの石像を国吉村に運んだものらしい。
(※「富山県立立山博物館」の学芸員の調査によるとこの石仏は柴野城で造られ立山に納める前に事情があって納められずに柴野城に祀られたものだと言う。)
寺嶋氏の足跡はこの様にバラバラに知るのみで一般の人達は「五位庄の領主寺嶋氏」を知る人は少ない。寺嶋氏は本家筋は山偏の付いた「嶋」を用い、分家筋は「島」の文字を使ったと伝えられている。戦国の武将の歴史は、各地を転戦して居た為、各地に伝承が残るが、どの歴史書もその武将の一面、一地域での行動を記録するのみである。赤丸浅井城の中山氏--柴野城の寺嶋氏--高岡守山城の神保氏張--能登畠山氏と繋がる主従関係が歴史の背景に有った事が判らないと、起った歴史的な事実が理解できない。又、畠山氏は能登、越中の他、大阪の河内地方、紀州地方を同時に領有していたと云う歴史的な背景が判らないと、起った事象の理解が進まない。高岡銅器が河内から伝えられ、高岡総持寺の国指定重要文化財の千手観音像が河内金剛寺から伝えられたと云う事、蘇我氏や源氏は元々、河内を拠点とした一族であったという事等が河内地方と高岡が歴史的に密接な理由でもある。しかし、残念ながら、歴史の研究者も地域毎に分かれており、歴史研究の分野も地域史、仏像、絵画の専門家等多くの分野に分かれ、行政も地域毎に分割されている為に、なかなか行政区分を跨いだ研究はされないという事情が有る。すぐ隣接の富山県と石川県は元々、加賀藩として一つの国で有ったにも関わらず、富山県の歴史資料が石川県や金沢市の図書館に収蔵され、富山県の人達は目に触れる事が無い為、各地域で細切れの歴史しか存在しないのは残念だ。又、中央の歴史書は国立国会図書館や各大学の図書館に収蔵され、地方の人達は目に触れる事が無い。最近、国立国会図書館は保管図書をデジタル化してインターネットで一部公開しているが、重要な歴史資料は「一部では無く全部」を公開して、関東や関西の人達に限定せず、国民平等に閲覧できるようにすべきだ。この事は、各大学、各図書館も同じ事で、所有図書を秘蔵せずにデジタル化して全て公開し、さまざまの研究者、国民が平等に閲覧できるようにすべきだ。



💠🏯 🔹【東京神田神保町のルーツ】 戦国時代に「越中富山城」を拠点とした「惟宗姓神保氏」の幕末!!

2021-04-20 | 富山県高岡市
■越中に展開した二つの『神保氏』⇒『寛政重修諸家譜』に拠ると、越中に展開した神保氏には渡来系で秦の始皇帝の末裔とされる「秦氏」の系統の「惟宗氏」から派生した『神保長職』の系統と、桓武平家由来の「平姓良文流」の『神保氏張』の二つの系統が在る。








■文久2年頃の「江戸切絵図」には「神保伯耆守」の屋敷が表神田小路に面している。この人物の役職は【神保伯耆守:神保長興(大目付)】と在り、軍部でも要職を勤めて【騎兵奉行神保伯耆守長興(文久3年5月8日 ~文久3年11月8日)】と在る。幕末の上野合戦の時にはこの屋敷は「夜戦病院」に為っていたと云う。(これは現在の神田神保町二丁目辺りに位置すると云う。)
「旗本神保伯耆守」の先祖の『神保長治』は徳川家康の墓所、日光山の管理を任されたり、佐渡奉行に任命されたりしていたそうで、屋敷敷地は九百九十五坪も在ったと云う。神保長治はこの日光山管理を任された時に、石高900石を多摩地区に拝領して、この屋敷地も拝領した様だ。
江戸時代は武家地には地名がなかったそうで、1872年(明治5年)から「神田神保町」と名前が付けられた。明治維新後には大名は領地に帰った為に、これ等の広大な土地は明治政府が接収して、後に、この辺りは「本の町の神田」として発展してくる。
この屋敷は【旗本神保長治が元禄二年三月に神田小川町の屋敷地九百九十五坪(旧南神保町一丁目十番地)を賜わった】のが始まりで、その後、幕末迄、代々、神保家の屋敷で在ったと云う。

■系図に拠れば、惟宗系神保氏には幾つかの系統が在り、その一つの『神保相茂』の系統は、豊臣秀吉に従った時には大和国高市郡(奈良県橿原市)に6000石の知行地を受けていたが、関ヶ原合戦では徳川家康方で戦い、その戦功で1000石をを加増されて7000石を知行されていたと云う。従って、この神保氏は徳川時代は「大和高市郡」が本拠地になっていた。
(※この系統の系図では、『神保左京茂時』は「徳川秀忠」、「家光」に「服を献上して感状を受け」、「家綱」の時には舟を修復して褒美に休暇を頂き、将軍家には煙草を献上している。次の代の「神保主膳元茂」は元禄八年に「定火消し」に任命されている。この系統は明確に「惟宗長三郎」と名乗っており、この系統は惟宗姓で在った事が確認できる。)

「寛政重修諸家譜」に見られる【惟宗姓神保氏】






■「奈良県立図書館資料」に見られる「神保氏の知行地」



🔴💢加賀藩の暴政ー五位庄赤丸村住民が強制移動させられて高岡市和田新村が開発された。 (-_-#)

2021-04-20 | 富山県高岡市

■加賀藩時代の「越中国」


「加賀藩時代」の【越中五位庄】57ヶ村

五位庄は加賀藩時代に新田が開発され、57ヶ村に成っていた。



●前田家に占領された五位庄赤丸村の住民を強制移動して高岡市和田新村を開発した。
■「和田佐助の和田善宗寺敷地寄進状」(善宗寺所蔵)とその時に加賀藩に浄土真宗城端別院善徳寺が提出した文書(富山県立公文書館所蔵)が遺されている。「朝日山和田善宗寺」は赤丸村の「朝日山長善寺」を分割して和田佐助が用地を寄進して創建され、この時に福岡町の「長安寺」と三カ寺に分割された。







■「和田新村の開町に伴う赤丸村の寺院・住民の移動の歴史!!」
和田新村は1649年、砺波郡佐野村佐助他四名と射水郡北島村二郎三郎が和田野に町立てすることを藩に申請。七十戸の屋敷を設けたが、1699年には87軒となり、その内77件が「頭振」と云われた「小作」であった。1853年には116軒となったが、菅笠、駄賃稼ぎの者が多く一軒当たりの面積の規模も小さい町であった。(※「たかおか歴史との出会い」高岡市発行)
※和田村の町立ての中心の佐野村の佐助は万治三年(1660年)に「隠田の罪」に問われて「磔の刑」で刑死した。和田中町の「神明宮境内」に佐助の碑が有り、毎年十月十五日に佐助の慰霊祭が行われていると云う。 
※和田佐助は浄土真宗の城端別院善徳寺の力を借りて、赤丸村西円の住民を和田に移住させて和田新村を開発し、赤丸村朝日山長善寺を分かち、和田新村に朝日山善宗寺を創建している。
又、赤丸浅井神社の拝殿は和田の住民から乞われて、後に、諏訪社(※地番は高岡市羽広地内)に移設されて現在も使用されている。この拝殿には皇室の「十六菊紋」が建物の各所に彫り込まれており、「延喜式内社赤丸浅井神社」が文武天皇の二宮によって創建された事を示している。

■「赤丸浅井神社」は、醍醐天皇の時に制定された「延喜式」には、毎年、国司が天皇の代理で拝礼した【国幣小社】の記載がある。







(※「元正天皇二宮」とは実は「文武天皇」の第二皇子「石川朝臣広成」を指し、この人物の歌は「万葉集」に三首が載っており、「続日本紀」では後に「高円朝臣広成」と賜姓されている。「聖武天皇」の義弟。)

■南北朝時代迄、【赤丸浅井神社】の神域は【越中吉岡庄】と呼ばれた皇室庄園(後白河上皇、後鳥羽上皇~後醍醐天皇)で、国家の神社であった「郷社 53ケ村惣社 延喜式内社赤丸浅井神社」へは「国司」が幣帛を納めた。




・「赤丸浅井神社」の建物には、天皇家の紋章「菊紋」が彫り込まれ、「諏訪社」にも同じ「菊紋」が付けられている。





【諏訪社】(高岡市羽広地内)










💥⛵⚓ あなたの知らない歴史検証の誤り⇒「小矢部川と庄川の分離工事」は明治に入ってからの事業。(※「射水郡誌」)!!

2021-04-20 | 富山県高岡市

【小矢部川(射水川)の流れを変える大工事が行われた!!!】

【大伴家持】は、当時、水運の中心で在った【射水川】について、朝、のゆったりとして流れる小矢部川に「舟を漕ぎながら船頭が民間の流行り歌だろうか、歌を歌う船頭の景色」を
【朝床に聞けばはるけし射水川 朝 漕ぎしつつ 唄う舟人】と詠んでいる。
「大伴家持」が勤務した「越中の国庁」は、小矢部川に沿った高台に在ったところから、朝、寝ていると、遠くに船頭が唄う声が聞こえるゆったりとした風情を歌っている。

■近年の報道では、富山県西部を流れる「庄川」と「小矢部川」は、それぞれが富山湾に流れ込む二本の河川として記されているが、この二本のは元々、川口近くで一本の河川になっていたものを近年になって、洪水を防ぐ為に「川口」を二本に分離したものだ。元々、「庄川」は「雄神川」と呼び、「小矢部川」は「女(雌)神川」と呼んでおり、「雄神川」の上流の庄川町には「延喜式内社雄神神社」が、「女神川」(小矢部川)の中流の赤丸村地内には大河の神で在る「八河江比売神」を祭る「延喜式内社(赤丸)浅井神社」が鎮座している。かつて、この二本の大河は「延喜式内社赤丸浅井神社」の前で合流しており、それから富山湾に注ぐ下流を「射水川」と呼んでいた。「大伴家持」が「朝床に聞けばはるけし射水川 朝漕ぎしつつ唄う舟人」と詠んだのはこの小矢部川と庄川が合流した部分を「射水川」として詠んだものだ。この合流地点や川の流れ自体も、この大河が暴れ川で在った為に、「庄川」を上流とし、「小矢部川」を「下流」として両河が合流したものを「射水川」と呼んだり、いずれの時期もその河口が「六渡寺村」へ向かう事から、「六渡寺川」又は「六動寺川」と呼んだ。かつて、越中国司となった古代豪族の「利波臣」の末裔とされる「越中石黒氏」は、「源平盛衰記」の中で「六動太郎光景」と名乗っており、この人物は「延喜式内社赤丸浅井神社」の隣に在った【赤丸浅井城の城主】で在ったと伝えられ、この人物は「木舟城主石黒光景」の父親に当たる。(※「越中石黒系図」)
石黒氏の祖先の「利波臣志留志」は、東大寺大仏造営の時に「米五千石を寄進」して越中国司に任じられており、「延喜式内社赤丸浅井神社」は「聖武天皇の弟(二宮)」が中興された神社とされる。
(※「続日本紀」)
その為に、「赤丸浅井城」の前に在った渡船場を「二位の渡し」と呼び、「赤丸浅井城」から「六動寺村」迄の渡し舟のルートを「六動寺川下り」と呼ばれた「舟下りルート」で在った。











■近年の誤った報道例



■南砺市井波町所蔵の「古地図」⇒小矢部川と庄川は河口付近で一体と成っている。
小矢部川と庄川が合流した地点の下流は「射水川」、「六渡寺川」と称したと云う。
(※「義経記」では『如意の渡し』と呼ぶ舟下りコースとして登場する。⇒「如意の城」とは「五位の城」と義経記では解説される。⇒「五位の城」とは赤丸村の「浅井城」の事)







■明治33年から明治42年迄の間に行われた「庄川」河口と「小矢部川」河口の切り離し工事。
庄川を上流として小矢部川を排水とする砺波郡、射水郡は度々甚大な洪水被害に会った。特に、かつては、小矢部川と庄川の河口が一緒になっていた事から河口地帯は一帯となって、一旦洪水になると大きな沼地の様になった。分離前の古地図(※南砺市所蔵絵図)には庄川の河口は千保川とされており、その合流地点の下流が「六渡寺川舟渡し」と記されて居る。
高岡市の高田島から下流、高岡市石堤下流は地盤が低い為に排水仕切れない庄川の水が長期間滞留して大きな洪水被害を出した。
この河口切り離し工事は当時としては前代未聞の大工事で在り、この工事以後、排水口が分散されて洪水被害が減ったと云う画期的な工事だった。(※明治33年、内務省告示第18号)




🌸高岡市の「御車山祭り」の原点 ⇒ 「延喜式考異」に見る「山車」の始まり!!

2021-04-19 | 富山県高岡市
●高岡市の御車山祭りの「山車」とは?



■京都葵祭りの「曳山」⇒神々が降臨される木等の植物を中央に建てた四輪車。引き回す「御神輿」の形。神々は杉や笹等の植物、或いは岩等の「自然物」に降臨される所から、地鎮祭等の神事でも必ず使用される。
「延喜式考異」(国立国会図書館蔵)には「山車」の説明が有り、「山車は自然のもの也」と記しており、元々、京都の山鉾に見られる様に自然の木を飾って引き回したものだ。神々は自然の木や岩等に降臨される事から、自然のものを飾って神々の降臨を促し、国家安泰を祈願した事に由来する。従って、神社でも古い形のものは「山」や「岩」そのものを御神体とする神社も在る。








■高岡市の「御車山祭り」は「二番町の車」が元々の形で在り、「越中宮極楽寺由緒」では、二番町の車は「後醍醐天皇八宮宗良親王」が興国三年越中に入られて、始め石黒氏一族の「牧野氏の仮館に入られ」(※「射水郡誌」)、その後、木舟城、赤丸浅井城等を巡航された時に使用された親王の「與車」を改造して引き回した事に始まるとされている。後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」の赤丸城ケ平の麓に「極楽谷」と言う所が在り、城ケ平の親王の御座所「親王屋敷」に入られた親王がこの極楽谷に「極楽寺」を創建されたと伝わる。

🔴【足利末世記】越中で樹立された【室町幕府足利義材の臨時政権】の記録!!

2021-04-19 | 富山県高岡市
■【足利末世記】
「室町幕府将軍足利義材」は家臣の反乱により捕われたが、越中の神保氏の協力で放生津に逃れ臨時政権を樹立した。





■【越中八郡図】(※「羽曳野市資料叢書」)
室町幕府管領畠山満家は、「第三代将軍足利義満」が「越中五位庄」を足利家菩提寺「相国寺」の庄園として寄進した時に越中の統治を委ねられ、従来の「四郡」を「八郡」に再編成して統治した。
この時の「越中絵図」には「利波郡」に【赤丸浅井城】が記され、「上分」として「越中守護畠山持国」の記載が在る。この時には室町幕府政所代「蜷川新右衛門」が越中国「利波郡」、「新川郡」を知行されたという。
(※「蜷川の郷土史」)
「足利義満」の母は「越中蜷川氏」と「宇多天皇」の流れを汲み、「管領畠山満家」とその子「守護畠山持国」は足利一門で在った事から、室町時代には越中と相国寺は密接で、相国寺の僧で在った「連歌」の「宗祇」も戦乱を逃れて越中に滞在している。「宗祇」の高弟の「蜷川新右衛門」は現在の富山市の「蜷川城」や「新川城」を拠点として越中で勢力を持った。越中西部では「蜷川氏」の代官として「神保氏」が任命された。(※「蜷川家文書」)





■「石堤西光寺縁起」と「足利季世記」(※「畠山記」) ⇒越中西部の室町幕府の記録
赤丸村隣地の高岡市石堤に在る「西光寺縁起」に、井口氏と越中吉岡庄地域との関わりを示す痕跡が見受けられる。「西光寺」は「赤丸浅井神社」の至近距離に在る。「赤丸浅井神社」の隣接地に在る「赤丸浅井城」には「藤原利仁将軍の末裔の越中石黒氏が累代居城とした」(※「富山県西砺波郡紀要」)とされ、「赤丸浅井神社」を郷社とした「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の庄園になる前は藤原摂関家長者「左大臣 藤原頼長」の庄園で在り、「延喜式内社赤丸浅井神社」の神域は古くから「国吉郷26ケ村、赤丸郷25ケ村、宮島郷(※小矢部市)2ケ村」(※「赤丸浅井神社由緒」富山県立公文書館)とされ、「宮島郷」は元々、「鎌倉幕府摂家将軍九条頼経」の父の「藤原道家」の庄園で在った事が「鎌倉遺文」に記されており、「越中吉岡庄」から「五位庄」に改名されたこの庄園は累代、藤原氏と密接な庄園で在った。
◆「西光寺縁起」
応安元年了順の開基にして初め天台宗なりしが明応年中真宗に帰し今は本派に属す。廣谷山と号し西光寺の名を綽如上人より賜る。了順の俗姓は鎮守府将軍藤原秀郷五世の孫光義 康平七年三月越中守源義家に従ひて當國に下り礪波郡井口郷に住し井口三郎光義と稱す 光義五世の孫光成は俵藤太(※「藤原秀郷」:田原に住み、大ムカデ退治の武勇伝が在る。)を縁り養藤蔵人と號す 光成九世の孫光高後に蔵人成綱と改め井口城に據る  元弘二年名越時兼に攻められ戦死す 年三十九 嫡子倉之助逃れて隠處を求め礪波郡山川村 石堤村山川村也 の開祖となる 倉之助の無常を悟り剃髪染衣して応安元年天台宗に帰依し法名を了順と改め草庵を結びて出家す。 大骨、四辻 山川地内、と轉遷して後ち廣谷 石堤村西廣谷瑞京寺干場 に一宇を建立せり。亨徳二年麻生谷 石堤村麻生谷現境内 へ移転したり、明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材 義植と改 再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 了秀の世延寶八歳秋十五日、十日市九郎兵衛の寄進せる鉅鐘成る 工人加州金澤住人河江長兵衛作 元禄十三年六月八日堂宇類焼に際し鉅鐘敗れたり 了淳元禄十五年に堂宇 今の本堂 再建せり 了照 現住 明治四十五年庫裏を改築せり
一説 鎮守府将軍藤原利仁の後裔井口三郎ともあり
累世左の如く養藤の姓を冒し檀家三百有餘あり
定紋 圓に三俵は秀郷百足退治の功により龍宮より賜はりたる大豆栗米(永世祿)の三俵に縁りて票示せりと傳ふ
 以下省略  (※「石堤村史」参照)

【※「応安」は南北朝時代の元号の一つで北朝方にて使用された。1368年から1374年迄。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。足利義満により越中吉岡庄は京都の相国寺(金閣寺)に寄進されている。西光寺は当初、南朝側として戦ったが、足利氏が支配するに及び北朝側になったと云う。】




■「足利季世記」(※「畠山記」)には「足利義材」が越中に逃れて放生津に滞在した記事が在る。
🔽「足利義材」の越中滞在
・明応2年7月 越中正光寺、放生津へ
明応2年(1493年)神保長誠は前将軍の足利義材を放生津の正光寺に招き、御座所とした。
・明応7年9月 越前一乗谷へ入る
(※「大乗院寺社雑事記」; 明応2年8月11日条
⇒【将軍御所は越中に御座 七月一日江州に御下向 自其越中御下向也 近習者七十人計は………】 とあり、一旦は近江へ向かったが再び越中に戻ったとされる。越中在住は僅か5年間で在った。付き従う者は70名と云うから、僅かの手勢しか従っていなかった。 )





◆「足利末世記」