赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴【石黒氏の研究】と【赤丸浅井城主石黒氏】!!

2021-11-10 | 富山県高岡市福岡町

🔻【石黒氏の歴史の研究】に記される【越中石黒一族】!!
源平合戦で平氏打倒に石黒氏等が活躍した「倶利伽羅山の戦い!!










🔻「越中吉岡庄」(赤丸村)の「浅井城」は「利波臣(志留志)」の末裔の「越中石黒氏が累代居城とした」と伝えられる。
「西礪波郡紀要」、「赤丸名勝誌」、「石黒氏の歴史の研究」等に拠ると、「赤丸浅井城」は当初、「元正天皇の二宮」が居城とされ、その後、累代「石黒氏」が居城とした。平安時代末期には、「源平盛衰記」にも登場する「石黒光景」が赤丸浅井城を居城とし、福岡町木舟の「木舟城」にはその息子の「石黒光弘」を配したとされる。






🔻南北朝時代に【越中吉岡庄(富山県福岡町赤丸村周辺)】を所領とされた南朝の「後醍醐天皇」は奈良県賀名生の石黒一族「掘家」で【赤丸の御旗】を書き記し、南朝の旗標とされた。








🔴🌸【加賀藩記録 公譜要略】➡加賀藩の全容を記す歴史書には【飛越大地震】で土中に埋もれた「木船城 城主前田秀継」等の記載が在る!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町






■加賀藩の全容を著した【公譜要略】には、各所の城、屋敷、一族略歴、法名等の全容が記される。

🔻その中に、「木船城」の「前田秀継」親子の記載も在る。
【木船城城主前田秀継】






室町時代の「越中絵図」にも記載される「越中木船城」






















💠🏯 《新発見 木舟城絵図?》 加賀藩の初期全城郭絵巻⇒ 【加賀藩国主城郭絵図】(※加賀藩軍学者 有沢永貞作、7.2m)の発見!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町




●最近、江戸時代初期の古文書で、加賀藩の軍学者「有沢永貞」が描いた加賀藩の全城郭を描いた「加賀藩城郭絵巻」(※写本)を発見した。「高岡城」も当初は庄川と千保川に挟まれた地域のほぼ全区域を含んでいた様だ。
(※元の所有者が作成された絵図の経緯の説明書在り。)

この絵巻には、「富山城」、「金沢城」、「能登末森城」等と共に富山市の「魚津城」や「木舟城」等の詳細も描かれている様だ。
この内容が正しければ、今迄、全容が分らなかった「木舟城」等の詳細も分って来る。

◆【棚木城】か? (※石川県能登島町棚木)




(※能登棚木城は上杉謙信が奥能登を攻めた時に、前田利家に従った長連龍の身内で上杉謙信に通じた長景連が居城としたが、天正十年、越中魚津城へ出陣していた利家は長連龍に手勢千人・中筒三挺を与えて抹殺を命じた。結果、長景連は首を安土城へ送られ、一族、家臣は全員、「釜煎り」・「釜茹で」の刑に処せられ、極めて残虐な形で殺害されたと云う。その為に、前田利家はワザワザ鋳物師に「大釜」を急いで鋳造させたと云う。
(※「釜煎りの刑」⇒罪人の手足を縛り上げて熱した大釜の中に放り込み、焼け死ぬ迄過熱した。前田利家が頻繁に使った刑罰で、越前武生でもこの刑罰を用いて民衆全員を虐殺したと云う。)
《味真野歴史資料館保管の瓦に記録される。》


◆【越中木舟城】か? (※高岡市福岡町木舟)




「杉野家文書 木舟城絵図」



「簑のしずく」(※福岡町史編纂委員中川幸作氏作成絵図)



「推定絵図」



◆【高岡城】か? (※高岡市)


「加賀藩参勤交代懐中絵図」(※天保年間に使用された絵図)


(※現在、詳細調査中。)

■【有沢 永貞】《寛永15年(1638年)~ 享保元年(1715年)》
加賀藩の軍学者。孫作俊澄の子。初め俊貞。通称九八郎、采女右衛門、字は天淵・高臥亭と号した。通称、「梧井庵先生」。地理学や測量学にも通じた。
越中土肥氏の一門で上杉、最上氏に仕えた有沢采女長俊の孫に当たる。
延宝元年(1673年)大小姓、同2年(1674年)知行200石、同5年(1677年)父の遺領300石も相続。
当初、伯父の関屋政春に甲州流軍学を学ぶ。その後、山鹿素行、佐々木秀景に師事して甲州流を修める。『甲陽軍鑑』の注釈書等の著作有り。加賀藩士有沢永貞を師として加賀藩では甲州流軍学を有沢流と呼ぶ。子の有沢武貞、有沢致貞も軍学者として知られ、「有沢三貞」と云う。又、城館の実地調査等も手がけた。
(*Wikipedia)

🔴🌸【疫病退散祈願】《百錬抄》「一条天皇」は「赤丸浅井神社」へ奉幣使を派遣された。⇒疫病の鎮圧を祈願された「藤原道長」の兄の関白「藤原道隆」!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町



・「藤原道隆」は「藤原道長」の兄に当たる。娘の「定子」を女御として入内させ、後に中宮となす。「一条天皇」は「藤原道長」の甥に当たる。

●「延喜式内社赤丸浅井神社」の二本の『勅使桜』⇒「一条天皇は勅使川原左京(※河原町に住む左京職藤原道長?)を浅井神社に遣わされ蝗害除去の祈願をされ、その時に植えられた二本の桜は【勅使桜】と呼ばれ、昭和中期迄生きた。」その写真は浅井神社拝殿に飾られている。



■富山県西部の「延喜式内社赤丸浅井神社」の伝承では「一条天皇の御世、川原左京を蝗害防止の祈願の為浅井神社に勅使として派遣された」と云う。その時に植えられた桜を「勅使桜」と呼び、昭和初期迄巨大な桜として著名で有った。この桜の写真は今も浅井神社拝殿に掲げられている。一条天皇の頃、左京大夫で京都河原町に所縁の人物は一条天皇の伯父に当る「藤原道長」である。この頃、浅井神社は天皇勅使を迎える神社であり、近年までは神社庁から祭礼の時に奉幣使が使わされていたという格式の高い神社である。
「一条天皇」は、「正歴五年三月」に「疱瘡」が流行して都中に死者が溢れ、「五位以上の官人」でも六十余人が死亡して遺骸は道に打ち捨てられたと云う。この時に天皇は「関白藤原道隆」に命じて全国の寺社に「奉幣使」を遣わされ「疫病退散」を祈らせられたと云う。これが地域神で在った「赤丸浅井神社」では農業被害を避ける為に、「蝗イナゴ被害」を避ける為の「奉幣使」としてとらえられたと見られる。その為に皇居にも植えられていた「桜木」を祈念の為に、「赤丸浅井神社」に植樹され、この桜は「遅桜」と呼ばれてこの地域の「田植え」の時期を示すシンボルとして昭和中期迄伝えられた。







■越中吉岡庄の歴史はこの頃から天皇家、藤原家と密接な荘園となった。
仁和寺に入って法王となった宇多天皇(867-931年没)は藤原氏の勢力拡大を嫌い、菅原道真を重用して藤原氏を牽制したり、子の醍醐天皇(885-930年没)には光孝天皇の皇女で妹の為子内親王を正妃とした。その子の醍醐天皇の時代には摂関を置かず「延喜格式」を編纂して律令制度への回帰と天皇親政の理想の政治を行ったが醍醐天皇に妹の中宮藤原穏子を入内させた左大臣藤原時平は実質的に政務をリードし、皇太子には穏子の子がなった為、この時から実質的に後の摂関政治の基礎が形成されたと云われる。

【※この「延喜式」に掲載された朝廷が認めた神社が「延喜式内社」で、赤丸の浅井神社はこの延喜式内社である。浅井神社は後に両部神道の神社となっており、延喜式では両部神道等の神社は「式外社」で在ったと云うから、浅井神社が「式内社」で在り続けたのは、古くは浅井神社由緒にも現れる「元正天皇の二宮(*実際は文武天皇の二宮の事で元正天皇はその親代わりとなった女帝)」が創建されたと伝わる「皇室系の神社」であったからと考えられる。「保元の乱」で藤原頼長より後白河上皇に没官された「吉岡庄」は、後白河上皇の皇子が修験道聖護院派本山・本山派初代の門跡に就任されるに及び聖護院派の影響が強くなり、浅井神社も聖護院派になったものと考えられる。】

■栄華を誇った「藤氏長者藤原道長」の次の「藤原頼通」の時代には、「後三条天皇」は1069年に「延久の荘園整理令」を発布し藤原氏や大寺社の荘園の拡大を阻止し始めた。後三条天皇の子の「白河天皇」(1053-1129没)※(天皇在位1073-1087後に法王となる)の時、賀茂社への荘園給付の方針を示して、寛治4年(1090年)に上・下両社に御供田として各600余町の不輸祖田与え、越中では下賀茂社には「倉垣荘」を、上賀茂社領として富山市の「新保荘」、高岡市福岡町赤丸周辺の「吉岡庄」が設定された。この時の藤氏長者は藤原師実であったが白河法王は師実を信頼し、師実も法王には協力していた為、この時には吉岡庄は藤原氏領から上賀茂社領になったものとみられる。
(【註】「山野川湊の中世史」)久保尚文著 参照





🔴【延喜式神名帳巻十 礪波郡 浅井神社】は「越中国礪波郡五位庄五十三ヶ村惣社」!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町










■「越中吉岡庄」・「越中五位庄」と呼ばれた時代から、歴代の天皇・皇族が勘請された「延喜式内社赤丸浅井神社」に祭られる神々は、神世の神々から天皇の信仰の神々迄、多くの神々を祭っている。
主祭神には皇室八神の一の「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」、大河の小矢部川の鎮守「八河江比売 ヤガワエヒメ」を祭る!!






■【義経記】の弁慶が義経を扇子で殴打したシーンが展開された「赤丸浅井神社」の前の「二位の渡し」⇒皇室庄園[越中吉岡庄]の鎮守赤丸浅井神社の掲額「義経」と「弁慶」!!



🔻「赤丸浅井神社の七の社の伝承」は「赤丸浅井神社」が以下に示す数多くの祭神を祀っている事から来ている。
「赤丸浅井神社祝詞と赤丸の管理神社」は以下の祝詞にも記載されている。「赤丸浅井神社」ではこの長い祝詞を毎朝神前で読み上げていた記録も遺されている。

🔽「白山山伏」が信仰する【木花咲夜比売命】のシンボルの二本の「桜」の大木が植えられ、「遅桜」と呼ばれ、「吉岡庄、「五位庄」の農作業の神とされた。





◆「赤丸浅井神社祝詞」
掛巻毛畏支比乃御社尓添弖(そえて)齋比奉利座寸奉畄。神皇産霊(かむみむすびの)大神。八幡(やはたの)大神。相(あへ)殿(どの)尓(に)座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。熊野(くまのの)大神。
八幡(やはたの)大神。天満(てま)大神。八幡(やはたの)大神。諏訪(すわの)大神等(たち)。日吉(ひよしの)大神等(たち)。愛宕(あたごの)大神。白山(しらやまの)大神。富士大神。庚能((かなへの)大神。
赤丸舞谷(まへのや)入會(いりあへ)尓座(ま)寸(す)。清水(きよみづの)大神。向野新(むかへのしん)尓座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。石名田尓座(いしなだにま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。麻生谷(あそや)尓座(ま)寸(す)。熊野(くまのの)大神。少名彦(すくなひこの)大神。諏訪(すわの)大神。八幡(やはたの)大神。西廣谷(にしひろたに)尓(に)座(ま)寸(す)。
白山(しらやまの)大神。天照(あまてらすの)大神。諏訪(すわの)大神。沢川尓座(そうごうにま)寸(す)。愛宕(あたごの)大神。東石堤尓座(ひがしいしづつみにま)寸(す)。八幡(やはたの)大神。笹川尓座(ささがわにま)寸(す)。丹生川(にふかわ)大神。熊野(くまのの)大神。高田島尓座(たかたじまにま)寸(す)。五位庄(ごいのしょうの)大神等乃(たちの)。御前乎遥尓(はるかに)拝美奉利弖。畏美々々毛白左久。敷座畄氏子等乎。守利恵美給倍止稱言竟(おえ)奉良久止白寸。

■赤丸浅井神社管理の宮
・愛宕社 祭神 軻愚突智命
赤丸村古谷五四〇二(古村)
・清水社 祭神 大巳貴命  清水山鎮座
赤丸村古谷五三六三(古村)
■赤丸浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 祭神 天照大御神
赤丸村向野新村字石名田八一八番(向野新村)
・神明社  祭神 天照大御神
赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
・八幡社 祭神 誉田別尊
赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
・熊野社 祭神 伊弉諾命
赤丸村古谷五〇三一(古村)
・天満社 祭神 菅原道真
赤丸村子吉三八七三(古村)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村縄田二五一七(川原)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山彦命
赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山媛命
赤丸村古谷五二七五(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村勝負田一四五四(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村山王四三九八(古村)
・富士社 祭神 木花咲夜比売命
赤丸村山王四五〇六(古村)
・白山社 祭神 白山媛命
赤丸村古谷四八三八(古村)






























🔴🔴🔴 【宇多刀剣展】【越中福岡の名工 宇多】特別展示⇒ 2018.10.21(日)14:00~「学芸員説明会」、「宇多一族菩提寺 高岡市 三光寺 住職」の説明。

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町
🔷🔹高岡市福岡町赤丸村鍛冶屋町島に工房を構えたと言う南北朝時代の刀鍛冶の作品の展示。
富山県指定文化財宇多刀剣も展示された。


◼場所 高岡市福岡歴史民俗資料館(高岡市福岡町西明寺)












🔴💠【越中国利波郡五位庄赤丸村】の初見➡ 【室町幕府将軍足利義材】の越中臨時政権時代の【延喜式内社赤丸浅井神社】での法要記録!!

2021-04-19 | 富山県高岡市福岡町
●【五位庄赤丸村】と記載される【光源東海和尚録】の「赤丸浅井神社」・「川人山鞍馬寺」での法要の記録。

▼[明応4年(1495年)]の時代背景!!
(※「富山県史中世」)



■【(室町幕府第10代将軍)足利義材の越中臨時政権成立】
【足利義材】は、明応2年(1493年)6月29日に側近らの手引きで京都を脱出して【畠山政長】の領国である「越中国放生津」に下向し政長の家臣【神保長誠】を頼った為に【越中公方(越中御所)】と呼ばれた。この時の義材は越中国で陣容を整えて政権を樹立し、「放生津幕府」とも呼ばれる。




➡この時期には【足利義材】が越中放生津(富山県射水市[小杉町])に室町幕府の臨時政権を樹立している。父は「室町幕府第8代将軍足利義政」の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた「足利義視」。「足利義政」は「義材」の養父。
越中守護を勤めた畠山氏の「畠山文書」に記載の「越中絵図」には「守護畠山持国」の居城の「赤丸浅井城」が記載されている。



◆「延喜式内社赤丸浅井神社」は、「赤丸浅井城」の鎮守社で在り、「門跡寺院聖護院派川人山鞍馬寺」は「赤丸浅井神社」の別当で在り、「室町幕府足利将軍家」は天皇家と直結した「聖護院門跡」を寺院筆頭として遇し、「足利義満」が創建した「相国寺」の「塔供養」では「聖護院門跡」を主席で遇している。その関係から「赤丸浅井神社」は足利将軍家の信仰を受けていた為に、「室町幕府守護、管領」を勤めた「畠山氏」の一族の「畠山義就」の孫の「藤原直家」は「赤丸浅井神社」・「川人山鞍馬寺」で父親の「畠山修羅」の法要を営んだと見られる。



◆「畠山系図」(※「続群書類従第五編」)



■「越中国利波郡五位庄赤丸村」絵図(※「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」)


■「応仁の乱」と「越中国」⇒室町時代の「畠山家の相続問題」と「越中国」
➡「応仁の乱」の直前に「第八代将軍足利義政」は「畠山氏総領」と成っていた「畠山満家」の孫に当たる「畠山義就」から「総領」を取り上げて、同じ「満家」の孫の「政長」に与えた為に「畠山義就」は河内国に逃れた。その時に「足利義政」は『越中国宮川(河)庄』を三河国吉良郡一色(愛知県西尾市)を本貫地とした足利一門の「一色七郎政照」に与えて、早々に任地を守る様に指示している。
この庄園は富山空港近くの富山市秋ケ島等を含む庄園で、「越中蜷川氏」の所領の「蜷川郷」に隣接している。「足利義政」は「政所代蜷川氏」の一族の「政所伊勢氏」の権力に頼ったとされ、「畠山政長」の任国と成った越中国の防護を固める為に足利一門の一色氏を越中に配したものと見られる。

「応仁の乱絵図」(※帝国大学資料編纂所)





■【延喜式内社五位庄五十三ヶ村惣社赤丸浅井神社】と「赤丸浅井神社」、「舞谷八幡宮」、「石堤浅井神社」の別当寺【聖護院派修験道 川人山鞍馬寺】の備品。
(#「惣社」とは五位庄を代表する神社の意味が在る。古くはこの字を使用していた。「聖護院」は門跡寺院と呼ばれ、歴代の天皇、公卿の子弟が門跡となられた寺院で、【後白河天皇】が出家された「三井寺」の系統。「三井寺」は山伏を統括する「検校」)も兼ねており、全国の「本山派修験道」の本山でも在った。
「五位庄」が「越中吉岡庄」と呼ばれていた南北朝時代迄は、「上皇の庄園」として【後院領】と呼ばれた皇室庄園で、「後白河上皇」、「後鳥羽上皇」~「後醍醐天皇」迄、続いた。この「後院領」が変化して、南北朝末期から室町時代初期迄、「おいのしょう」、「後位庄」の間に変化して【五位庄】に変化している。(※「東寺百合文書」⬅東寺に遺る桐箱百箱の古文書)









▼明応7年(1498年)9月に政元側との和睦交渉が進展したという認識から、義尹と改名した「将軍足利義材」は越前国の「朝倉貞景」のもとへ移った。

■明応10年2月29日(ユリウス暦1501年3月18日) には文亀に改元している。
権大納言甘露寺親長が疫病の流行を理由に改元を発議をしたとされる(『親長卿記』延徳4年5月1日条)
将軍・【足利義材】の強い政治的関与があった改元であるとされ、改元の新元号に「明」の字を用いる事にも干渉したと伝えられている(『親長卿記』延徳4年7月2・10・19日各条)
(wikipedia参照)

🔴《金沢市の観光地 寺嶋蔵人邸》 【五位庄赤丸村】に知行された「柴野城城主寺嶋牛介」の子孫!!

2021-04-19 | 富山県高岡市福岡町




【能登末森城の戦い】で守山城の「神保氏張」と共に「前田利家軍」と戦った元「高岡柴野城城主」の「寺嶋牛介」の一族は、敗戦後に、加賀藩に士官して「五位庄赤丸村」を知行された。
その末裔は加賀藩の「宗門改方」を勤め、現在も一族は「三九郎家」と呼ばれて赤丸村に居住している。
「能登末森城の戦い」で「寺嶋牛介」の甥に当たる「赤丸浅井城」の「中山直治」は越前敦賀に逃れ、「今井家」の養子に入ったと云う。その末裔は現在も敦賀市杉津近くに残っており、その直系に伝わった「中山家文書」は現在、「敦賀市立博物館」に保管されている。





◆【上杉謙信から「五位庄」を安堵された寺嶋牛介】
富山県高岡市の西山街道沿いに『赤丸浅井城』と『柴野城』が在った。柴野城城主の『寺島牛介』は赤丸城城主の『中山直治』の叔父で在ったと云う。『寺島牛介』は「佐々成政軍」として守山城の『神保氏張』の与力として、「能登末森城」で『前田利家』と戦った。
『寺島牛介』と兄弟の『小島甚助』は、「上杉謙信」が 能登に侵攻した時に、謙信に従って謙信から「越中五位庄」の領主として「安堵状」を授けられた。 『上杉家家中名字尽手本』には越中の諸将や兄弟の「小島甚介」等と共に掲載されている。共に上杉謙信の重臣としての名前が柴野城の背後には寺島牛介ゆかりの「千手観音像」が祀られている。この観音像は『京都の清水寺観音像』特有の『頭上に化仏』を捧げ持った形をしており、この形式は『福岡町舞谷村』の「清水山観音堂」の千手観音像と同じ形をしている。赤丸村周辺のこの一帯には「鞍馬寺」や「清水山」、「愛宕社」、「上加茂社」、「下加茂社」、「音羽の滝」等の京都の著名な寺社が勘請されており、『五位庄郷社延喜式内社赤丸浅井神社』を中心として広大な庄園が広がっていた。






🔴「仁和寺」⇒『天野山金剛寺』⇒【衆徳山総持寺 千手観音像】 の法灯!!

2021-04-19 | 富山県高岡市福岡町


🔷南北朝時代の南朝が衰退して北朝になってくると【越中五位庄】は足利幕府が直轄し、「足利義満」は五位庄を「臨済宗相国寺」に寄進した。






■「宇多天皇」が創建された『仁和寺』の法灯を継ぐ寺院としては、「河内天野山金剛寺」や「等持院」が在った。室町幕府第3代将軍「足利義満」の子で、母は義満の御台所の「日野業子」で在った「法尊」【※応永3年12月30日(1397年1月29日)~ 】は「仁和寺門跡・准后」に任じられている。「足利義満」の母は「宇多天皇」と「越中蜷川氏」の末裔の「紀良子」で、「足利義満」は「宇多天皇」の流れを汲むとされる。「越中国五位庄」を室町幕府の御粮所とした「足利義満」は、後に「室の日野業子」の供養料として「五位庄」を自らが創建した「臨済宗相国寺」へ寄進して、「管領畠山満家」、「政所代蜷川新右衛門」に越中国礪波郡の統治を委ねたと云う。(※「蜷川村の郷土史」・「富山県史中世」)
この時に、「越中守護畠山氏」の居城の「赤丸浅井城」の周辺からは、「臨済宗寺院以外の寺院」の立ち退きが命ぜられて、この時期に、現在、高岡市関町に在る「高野山真言宗越中総持寺」は「礪波郡赤丸村」の地から海沿いの地(六渡寺村)へ移り「浜総持寺」と称したと云う。(※「名古屋大須観音古記録」射水市松山学芸員論文)
江戸時代の総持寺が記載した由緒に、【総持寺の仏像は「六渡寺浜より上がった」」とされ、「赤丸村から小矢部川の渡し舟で六渡寺浜へ上がった仏像】と言う事が記載される。(※「高岡史料」高岡市教育委員会)

🔻【六道太郎光景】

【※「六渡寺村」は「六道寺」とも記載されるが、「源平盛衰記」に「六道太郎光景」と言う人物が、「加賀の林氏・越中木船城主石黒光弘」と共に石川県の「安宅川」の合戦に参加している。利波郡の郡司の末裔、越中石黒氏は小矢部川流域をその後も支配しており、「石黒氏の歴史の研究」(加賀市図書館)に、「赤丸浅井城城主石黒光景の子供す石黒光弘」の系図が記載される。「赤丸浅井城城主石黒光景」は、仏教を信仰して、その居城は「如意の城(五位の城)」(※「義経記」)と記載される。「東大寺大仏の造営の時に米五千石を寄進した石黒氏の先祖の《利波臣志留志》以来、石黒氏は「釈迦の骨」を意味する「如意宝珠」を信仰しており、「義経記」には「如意の城(赤丸浅井城)を後にして・・・」と記載され、又、越中石黒氏の末裔が名古屋市西区に開いた里には《如意郷》と名付け、その居城に《如意城》と名付けている。「尾張如意城」は「承久の乱」で敗れて奥州に逃れ、後に尾張国に入った「石黒重行」が建てたもので、尾張では「長谷川」と名前を変えて、子孫は織田信長や豊臣秀吉に仕えていた様だ。】
➡小矢部市岡の古刹「宝性寺」は「石黒氏の別邸跡に建てられて、住職は代々、「初瀬部」と名乗る。(※能登の長谷部信連の末裔とされる)
この寺の宝蔵には、荘厳な「木製の仏舎利容器」に納められた「如意宝珠」を伝え、本堂前には巨大な石製の「如意宝珠」を掲げている。
(※武将が戦場で「兜」に納めたとされる「兜仏(垣武天皇が奥州征伐に派遣された坂上田村麿像)」も保管されている。高岡市国吉村には、「垣武天皇」の姪に当たる「五百枝女王」が東大寺華厳院へ寄進された「東大寺庄園須加村墾田地」が在った。)

▼室町時代の畠山文書の「越中絵図」(※大阪府羽曳野市)に、福光城?の「越中石黒氏」の名前も記載される。

🔽室町時代の【越中絵図】(※「畠山文書」羽曳野市)






🔽「越中吉岡庄(赤丸村)」
【越中一処 吉岡庄】と記載される「人車記」(別名「兵範記」)の写真判より(※「近衛文麿」が公開した「近衛家文書」)


「越中吉岡庄」の代表的な歴代領主「後白河上皇」・「後鳥羽上皇」・「後醍醐天皇」








聖武天皇の弟「石川朝臣広成」が創建された「越中吉岡庄」の鎮守「赤丸浅井神社」




🔽【越中吉岡庄(赤丸村)】へ河内金剛寺から伝わった「後鳥羽上皇」の祈願仏が高岡市関町の【総持寺】に祭られている。




「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」は、毎年、「11月15日」一日のみ御開帳される。






・【明徳の和約】明徳3年/元中9年(1392年)年に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で和議と皇位継承について結ばれた協定で「明徳の和談」、「元中一統」とも云う。
この和約に従って同年閏10月5日(1392年11月19日)、南朝の「後亀山天皇」が吉野から京都に帰還し、北朝の「後小松天皇」に三種の神器を譲って退位し、南北朝の合一が成った。これに因り建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。
・明徳三年(1392年)足利義満により相国寺は伽藍の大造営が行われ、大法要が営まれた。(※「相国寺供養次第」)
・応永12年(1405年)足利義満により五位庄の半分を室日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として『京都相国寺』に寄進される。「金閣寺」は相国寺の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為金閣寺と呼ばれている。


・応永22年(1415年)足利義持により五位庄の半分が足利氏菩提寺の臨済宗等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた。(福岡町史)
→実際の管理は守護代が担当していたと云う。

■【室町幕府管領畠山満家】の子供「越中守護畠山持国」が「赤丸浅井城」に記載される。(※「畠山文書」)






※「等持院常住記録」の寄進状記録による。(富山史壇2000.03 第131号)
※足利尊氏が夢想疎石を開山として請い、代々 足利氏の菩提寺になった「等持院」は、元々、「仁和寺」の一子院を前身としており、「足利義持寄進状」では守護請け地とされている。「衆徳山総持寺の千手観音像」が伝えられたとする「河内天野山金剛寺」も仁和寺末で有り、越中と能登の境に立地して後白河上皇や後鳥羽上皇が祈願寺にされたと云う『石動山天平寺』も仁和寺末で在ったと言う。『石動山』は勅許により毎年、近郷から米五升を集め、赤丸村の『川人山鞍馬寺』は同じく勅許により近郷53ケ村から各戸毎に毎年米一升を集めたと云われ、この習慣は現在も続けられている。高岡市の『総持寺』は、赤丸浅井神社の伝承では川人山鞍馬寺の48坊の一寺とも伝わり、天野山金剛寺は後白河上皇が開基とされ、越中吉岡庄は後白河上皇の庄園で在った事から、何れも後白河上皇の系統の寺で在った事が法灯を繋いだ原因の様だ。総持寺の千手観音像はこの時期の後白河、後鳥羽上皇の法灯を伝える重要な観音像なのだ。



★足利義満は「相国寺」を建立して盛大な供養を行った。この時には、北陸では承久の乱で幕府側に就いた加賀の富樫、越中の井口氏等がこの「供養記」に登場している。

🔴【源義家】(八幡太郎義家)の「越中守」への着任と埴生護国八幡宮への木曽義仲の戦勝祈願!! 《朝野群裁・源平盛衰記》

2021-04-19 | 富山県高岡市福岡町
■■【木曽義仲】は源氏の棟梁としてかつて越中に赴任していた「源義家」ゆかりの地の「小矢部市埴生」の「護国八幡宮」に戦勝祈願の為に願文を納めた!!





■「福岡町史」には富山県西部の五位庄の高岡市福岡町の【向田(村)は康平7年 (1064年) に「源義家」が越中守の時、 家臣の向田行光に命じて開拓した場所】と記載され、越中国は源氏の棟梁として「八幡太郎義家」が越中守として統治していたとの記載が在る。福岡町歴史民俗資料館には「向田遺跡」から発掘された「清原たけすえ」の署名が在る埋経に使用した「経筒」が保管されている。源義家が奥州統治に関わった事と奥州に栄えた清原氏の遺品が五位庄で発掘されている事は興味深い。又、奥州平泉にも「埋経」の文化が在ったと言うことから、藤原摂関家長者藤原頼長の庄園「越中吉岡庄」と同じく頼長の配下で在った奥州の藤原氏にも同じ文化が在ったものと見られる。因に「藤原頼長」は奥州にも五ヵ所の庄園を持ち、奥州藤原氏に管理させていた。(※「兵範記」)



■【越中倶梨伽
羅源平合戦】の時に、「源氏の氏神 八幡宮」で在る「埴生護国八幡宮」に越中の「池田次郎忠康」は、「木曽義仲」を案内して戦勝祈願を行う為に参拝した。
「木曽義仲」は戦いの先触れとして源氏の氏神埴生八幡宮に「戦勝祈願」の願文を寄進したと言われる。
この戦いには「加賀林氏」、「越中宮崎氏」、「越中石黒氏」と共に「越中国吉名」の「池田次郎」が参戦しており、この武将は、「治承寿永の内乱論序説」(※浅香年木著)に拠れば、「赤丸浅井城」の麓一帯や小矢部市、氷見市、高岡市に池田島と言う領地を所有した越中礪波郡の国人領主で在った武将で、「石堤村史」に拠ればこの人物は元々赤丸浅井神社の前に屋敷を構えており、高岡インター周辺の池田地区を所有していたと言う高岡市細池の池田家に該当する。この家の仏壇には、源平の昔に武将が兜に納めていたと言う小指の先程の「兜仏」が祭られており、この像は垣武天皇の時に蝦夷退治で活躍した「坂上田村麿」で在る。「坂上田村麿像」は京都清水寺の本尊で在り、高岡市国吉近くには「京都清水寺」の千手観音像を祭る「柴野千手観音像」や「赤丸清水山観音堂」の清水寺方式の「千手観音像」が在る。
この時代に、武人の守り神として「京都清水寺」の本尊の「千手観音像」や「坂上田村麿像」を祭る習慣が在ったものと見られる。又、著名な武将の「長九郎左衛門」の末裔と言われる小矢部市岡の法性寺にも「坂上田村麿像」の「兜仏」を祭っている。











▼【高岡市国吉細池】の「池田家」は、元々、赤丸村の肝煎役を勤め、赤丸浅井神社前に屋敷を構えていたが、加賀藩の責めに拠って赤丸村を追われ、跡を弟の奥田五右衛門に譲って国吉村へ移った。
この家は、高岡市関町の「総持寺」の敷地を寄進して、門徒総代を長く務めた家系で、この家の仏壇には総持寺の「国指定重要文化財木像千手観音座像」の「胎内仏」(鎌倉時代作)と伝わる一尺足らずの木像を伝えている。











🔴【加賀藩での人身売買の歴史】 民衆を奴隷として扱った過酷な加賀藩政!!

2021-04-18 | 富山県高岡市福岡町
 ■鎌倉幕府で禁止された人身売買を、後世の【加賀藩の治世】では当然の如く、年貢のかたとして妻子を売買して納めさせた。十村役、肝いり、組合頭の村役に対して「年貢必達」を命じ、三役は自己責任で何としても納税を必達せねばならず、村人の家財は勿論、家人を売り飛ばしても納税の確保が要求された。達成出来ない場合は、村役預かり、追放、所払い、入替え等が行なわれ、村役にも「手鎖」、「入牢」、「家財没収」、「追放」、「所払い」等の厳罰が課せられ、勝手に作付けを増やしたり、隠し田の罪には「張り付け」、「家財没収」が行われて、妻子も同罪とされた。
叉、年貢未達の時には「返済出来ない場合は妻子をいかようにも可」として念書を取った。





▼鎌倉幕府では飢饉等の際等での人身売買を禁止していた。「鎌倉幕府」の正史とも言われる「吾妻鏡」にはその条項が見られる。
■【吾妻鏡】 (4 月 9 日)
【1239年 (※暦仁2年、2月7日 改元 ⇒延應元年 己亥)】
(5月1日) 庚午 人倫売買の事、向後これを停止せらる。これ飢饉の比、諧わざるの族或いは妻子所従を沽却し、或いはその身を富裕の家に寄せ、渡世の計と為す。仍って撫民の儀を以てその沙汰無きの処、近年甲乙人面々の訴訟、御成敗の煩い有るに依ってなり。

「鎌倉幕府執権北條朝時」


■同じ封建社会でも、加賀藩の治世では人倫を無視した統治が行われ、浄土真宗の親鸞も【仏教を弾圧した物部氏には気を許してはならない】と説いている。

【物部氏は仏法の布教に反対し、蘇我氏と対立して滅ぼされた。】
浄土真宗の開祖の「親鸞」は聖徳太子を讃える和讃の中で「如来の教えを疑いそしり、方便を破壊する者は太子と対立した物部守屋と思うべし。親しみ近づいてはならない !!」 と戒めている。近年、この直筆の書が発見されて本願寺維持財団から一般公開された。
加賀藩前田家は物部氏を祖先とする菅家党から興ったとされる。加賀藩の氏神の金沢尾山神社には、越中の「物部神社」が祭られている。近江浅井氏は物部氏とされている。高岡市の東海老坂には「延喜式内社物部神社」が在り、物部氏族菅家党の末裔の加賀前田家はこの物部神社を金沢に勘請して、氷見の阿尾城に在った神明社と併せて金沢市高岡町に「尾山神社」として祀っている。
【◆「前田利家」が「物部神社」を崇敬した理由は以下の出自にある。「前田利家の祖」とする「菅原道真」は、「天照大神」の子の「天穂日命」の子孫で、大相撲の祖として知られる「野見宿禰」を先祖とする「土師氏」の子孫で平安時代初期に大和国菅原邑に住んでいた事から、「菅原氏」を名乗る。「物部氏系図]に拠ると、「天穂日命アメノホヒノミコト」(天照大神の二子、出雲国造の祖)→ 「饒速日命ニギハヤヒノミコト」→「宇摩志麻遅命ウマシマジノミコト」=『物部氏の祖』 となり、「菅原氏」と「物部氏」は先祖を同じ「天穂日命」とするが、「菅原氏」は「野見宿禰」の系統の「土師氏」を祖とする系統であり、「物部氏」は「宇摩志麻遅命ウマシマジノミコト」を祖としており系統は相当離れているが、東海地方に物部氏の古代庄園が在った事から、前田家は、「物部=菅原」と認識していたものだろう。】

■本来は民衆に「念仏を唱える事で極楽往生できる」と説く浄土真宗寺院の筈が、加賀藩から姫を送り込まれて懐柔された藩内の有力寺院では、逆に庶民を「門徒制」で縛り、加賀藩の威勢を借りて威張り散らしたとも言われ、浄土真宗西本願寺派の有力寺院「井波別院」は「勝興寺」と袂を分かち、「浄土真宗東本願寺派」に転向したとも言われる。
「前田利家」と「能登末森城」で戦った五位庄赤丸村の西山の麓の住民達は「城端別院」の支配を受けて、高岡市の和田村を開く為に強制移住させられ、「水呑み百姓」と呼ばれた農奴としての極貧生活をさせられたと伝えられ、民衆の貧困を受けて「隠し田」を行ったとして、和田村を開いた「和田佐吉」は「隠し田の罪」で磔刑で処刑された。
「和田佐吉」を慕う村人達はその後も「神社」に佐吉を祭り、毎年、各戸には佐吉の似顔絵を書いた行燈を掲げて慰霊祭を行っている。(※「城端別院文書」富山県立公文庫館、「和田佐吉寄進状」)
【磔(はりつけ)とは、罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑の刑罰のこと。磔刑(たっけい)。wikipedia】







■「和田佐助の和田善宗寺敷地寄進状」(善宗寺所蔵)とその時に加賀藩に浄土真宗城端別院善徳寺が提出した文書(富山県立公文書館所蔵)が遺されている。「朝日山和田善宗寺」は赤丸村の「朝日山長善寺」を分割して和田佐助が用地を寄進して創建され、この時に福岡町の「長安寺」と三カ寺に分割された。



 

🌸🏯🐎 【宇多源氏】 高岡市福岡町【木舟城城主 佐々平左衛門義茂】の事。⇒越中国主「佐々成政」の家老【佐々平左衛門】由緒・系図!!

2021-04-18 | 富山県高岡市福岡町


「加賀藩時代の五位庄」








◆加賀藩の軍学者が1600年代に記載した「国主城絵図」に在る「木舟城」と見られる絵図(※貴船神社と見られる「島」が記載される。)




■越中国主で【宇多源氏佐々木氏】の「佐々成政」の家老【佐々平左衛門義茂】は、高岡市福岡町の「木舟城」に在って加賀・能登から攻め寄せる「前田利家軍」と対峙した。

「佐々平左衛門 由緒」




■高岡守山城「神保氏張」、高岡柴野城「寺嶋牛介」、「赤丸浅井城「中山直治」と共に【能登末森城の戦い】で「前田利家」と戦った「佐々平左衛門」の由緒・系図を記載した詳細研究書が見つかった。(※「佐々成政関係諸系譜」浅野清編著)











■【佐々成政】は「宇多源氏佐々木氏」だが、ある時に主家の「斯波家」からの書状に誤って「佐々」と書かれていた事から、通称として「佐々」を名乗ったと云う。
この子孫からは、絵画の【狩野探幽】や、徳川将軍の室を【徳川家光の室孝子】、【徳川綱吉の室信子】と二代に亘って輩出しており、又、赤穂藩家老で近江国田原の藤原氏の名家「俵藤太」の末裔「大石内蔵助」の妻【理玖】もその子孫に当たる。



【宇多天皇末裔の宇多源氏佐々木氏】
宇多天皇の第8皇子の「敦実親王」の流れをくむ宇多源氏で、「源成頼」の孫の「佐々木経方」を祖とする。近江国蒲生郡佐々木庄の発祥で、鎌倉、南北朝、室町時代の軍事貴族として繁栄した。【治承・寿永の乱】(※源平の戦い)以後、活躍して全国に勢力を広げ、幕府の要職を勤めている。「成頼」の後に近江一帯を拠点として名前を挙げた「源義経」はこの子孫に当たり、往々にして、清和源氏「源頼朝」の弟の「源義経」と混同される。
「近江源氏 六角氏」はこの「佐々木氏」より出た





■【越中関係の宇多源氏の系譜】
室町幕府第三代将軍【足利義満】は「越中五位庄」を領地として「相国寺」に寄進している。この「足利義満」の母の「紀良子」は【宇多天皇】の末裔に当たる為、義満の母親は「宇多天皇末裔」を称している。
又、宇多源氏の【佐々成政】と越中で争った【豊臣秀吉】の父の木下氏は「宇多源氏高島流」で在り、南北朝時代の「越中吉岡庄」・室町時代の「越中五位庄」の高岡市赤丸村鍛冶屋町島で刀を鍛えたあの著名な刀工の「宇多鍛冶」も近江国の「宇多源氏佐々木氏流」と云われる。

■加賀藩に仕えた「佐々一族」の中で、【馬廻役佐々主殿】は家計に困窮して上司の組頭「久里正長」に救いを求めたが、無視された為に横目を通じて書状を上書した。これに怒った【加賀藩主前田綱紀】は親子三人に死罪を申し渡した。しかし、その遺品にはしっかりと整備された武具が遺されており、何時でも出陣できる体制で在ったと言う。この事を聞いた「前田綱紀」は自らの不明を恥じたと云う。

🔴【延喜式内社赤丸浅井神社の歴史】と「寧楽(奈良)・鎌倉時代」の文化!! ➡【聖武天皇】・【石川朝臣広成】・【大伴家持】!!

2021-04-18 | 富山県高岡市福岡町


■越中国の古代庄園【越中吉岡庄】(※高岡市福岡町赤丸)で展開された奈良時代、鎌倉時代の歴史!!



■「聖武天皇」・「石川朝臣広成」・「大伴家持」・「利波臣志留志」の活躍した時代と「延喜式社社赤丸浅井神社」➡東大寺大仏建立の時の「聖武天皇」と「行基」等


■「越中国司大伴家持」➡「延喜式国幣小社赤丸浅井神社」には国司が参拝し、「赤丸浅井神社」には、「皇室八神」の一柱で大伴氏の祖先神とされる「高皇産霊神」が祭られている。




🔽「加賀藩第十三代藩主前田齋泰」は篤く赤丸浅井神社を崇敬して、「浅井神社」の軸を奉納して、東京都板橋区の「加賀藩江戸下屋敷」の庭には「赤丸山」と言う築山を築いた。この文字の写しから作成された額が現在も「赤丸浅井神社」の拝殿に【額装】されて掛けられている。








▼東大寺庄園を開発した「利波郡郡司 利波臣志留志」は、「東大寺大仏建立の為に米五千石を寄進」して、「員外介」と成り、「大伴家持」の後に「越中国司」に任じられた。





▼【東大寺衆院過去帳】⇒東大寺大仏建立の時の「寄進者名簿」に掲載される「越中国司利波臣志留志」

(東大寺所蔵文書)

▼東大寺大仏建立の時の「寄進者名簿」➡【東大寺上院修中過去帳】は現在も尚、毎年三月の、「東大寺お水取り行事」で転読される。「利波臣志留志」は臣下の中で寄進者筆頭として読み上げられ、その功績が大仏に報告される。






・「聖武天皇」が東大寺大仏を建立された時に、「越中国司利波臣志留志」は越中で東大寺庄園を開発して、自らも米五千石を東大寺に寄進して「大伴家持」の後に越中国司に任じられた。
「越中国司利波臣志留志」は、「延喜式内社国幣小社赤丸浅井神社」へ天皇の代わりの勅使として、毎年、「朝廷」からの捧げ物の「幣帛」を参じて拝礼に出向いていた。(※「延喜式」)
・「大伴家持」が国司として東大寺庄園の開発を推進した時に、石黒氏の祖先とされる「利波臣志留志」は、「赤丸浅井神社」に「東大寺庄園越中石粟庄」から「神田一段」を寄進した。「利波臣志留志」は「大伴家持」の後に「越中国司」に任じられた。
・近年迄、富山県には、「西礪波郡」、「東礪波郡」の地名が在り、この「礪波郡(利波郡)」は、「利波臣志留志」の「利波(礪波・砺波)」から名付けられた。富山県西部の「砺波市」には、多くの「東大寺庄園跡」が在り、人々は篤く「利波臣」の業績を顕彰して【(砺波)礪波市】と名付けている。

■しかし、この歴史も知らない高岡市等では、「西礪波郡(福岡町、等)」をわざわざ廃して、根拠の明らかで無い「高岡市」と改名している。高岡市周辺にも、「須加庄」、「くぼ田庄」等多くの東大寺庄園が周辺を取り巻いている。

そして、尾張国からの侵略者で、殺戮と恐怖で民衆を奴隷として働かせて、自らは金銀で飾り立てた豪華な生活を続けた「加賀藩前田家」の呪縛に今も縛られて、「高岡城」を目玉にした観光振興を進めている。
しかも、高岡市教育委員会はデタラメの歴史を子供達に伝え、かつての「利波郡」の京都、奈良の都にも匹敵する華々しい歴史を圧殺して伝えず、今も尚、「加賀藩前田家の恩顧」だけを唱えて、しかもあろう事か「歴史創造都市」等とどの面下げて標榜しているのか? これが、近代的な都市とはとても考えられない稚拙な統治者や教育者に率いられ、歴史にもならない歴史を「創造する為」に加賀藩恩顧の古い商人達の家や加賀藩恩顧の「寺社」等に湯水の様に税金を投入して、市民達が気付けば、今と成っては「財政破綻」の淵に立たされ、誰も責任を取らない無法都市が出現している。
「何故、輝かしい歴史をドブに捨て去り、わざわざ嘘の歴史をでっちあげるのか? 何故、歴史を創造する必要があるのか? 何故、子供達に真実の郷土史を伝えず贋物造りを進めているのか?」
高岡市のこの標語では、自らで【贋物都市】を宣言している様なものだ。
高岡市中央図書館に【ある贋作物語】と言う「名著」がある。これは「高岡市史」の編集者の友人でも在った「高岡市内の医師桜木成一氏」が、「高岡市のまがまがしい贋物の文化」を告発されたもので、【資料編】すら全く無い、根拠の無い歴史を伝える「高岡市史」に拠っている【高岡市の歴史、文化】を痛烈に批判されたもので、現在は更にこれが「当然」の様に伝えられている。

















「西礪波郡紀要」には、「越中石黒氏の末裔は累代、赤丸浅井城に拠った」と記される。「源平盛衰記」には、「赤丸浅井城石黒光景(六道太郎光景)」とその息子の「越中木舟城石黒光弘」が記載され、「石黒氏」や「加賀林氏」等の藤原氏は「越中吉岡庄の領主後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」等では「上皇軍」として都に攻め上った。又、南北朝時代の「後醍醐天皇」が起こされた「足利氏との戦い」では、「越中石黒氏の石黒重之」は「後醍醐天皇の第八皇子宗良親王」を「赤丸浅井城」に迎え、城ヶ平山に「親王屋敷」を設けて親王の為に戦った。この時、「南朝軍」は「後醍醐天皇が創られた赤丸の御旗」を掲げて戦ったと言う。
南朝【後醍醐天皇】の軍旗【赤丸の御旗】
(※奈良県賀名生の「掘家住宅」に遺される後醍醐天皇手書きの軍旗)





・「赤丸浅井神社」を創建された「石川朝臣広成」は「聖武天皇」の義弟で、「大伴家持」と共に恭仁京で「内舎人」として従事して、「万葉集」に和歌三首が掲載される。


・「延喜式社社赤丸浅井神社」は当時の国法に載せられる「延喜式の国幣小社」で在り、この格式の神社には、毎年、「越中国司」が天皇に代わり「幣帛」を納める為に参拝していた。





・「聖武天皇」の腹違いの弟の「石川朝臣広成」は、「元正天皇二宮」と呼ばれ、「延喜式社社赤丸浅井神社」を創建されたと「浅井神社由緒」は伝える。浅井神社社殿には各所に「天皇家の菊紋」が刻まれる。
・「赤丸浅井神社」の奥殿の背後には、天皇家の「菊紋」が刻まれた「石川家」の墓標が遺されている。
・古代に、小矢部川と庄川が合流していた「吾子淵」では「二位の渡し」と言う小矢部川の渡し場が在り、これが「義経記」では「二位の渡し」と記される。(※後の「五位の渡し」)





▼これらの関係を示す資料は、「続日本紀」や「万葉集」、「東大寺記録」等に遺されており、当時はこれらの人物が赤丸浅井神社に関係していた事が立証される。







「赤丸浅井城」、「越中川人山鞍馬寺」、「延喜式内社赤丸浅井神社」、「末社石堤浅井神社」、「末社舞谷八幡宮」、「清水観音堂」、「愛宕山」等の全容を描いた【川人山鞍馬寺、浅井神社三社、赤丸浅井城古墟図】(※「森田柿園文庫」石川県立図書館)



■【石川朝臣広成】について、「続日本紀」・「川人山三社記」・「赤丸浅井神社由緒」では、「元正天皇の二宮」とされる。元正天皇は文武天皇の姉で、文武天皇が早逝された為に、「祖母」の元明天皇や「叔母」の元正天皇が「首オビト皇子」(聖武天皇)が成長する迄の母親代わりを勤められた。「石川朝臣広成」は、「文武天皇」の「嬪ビン」と呼ばれた「石川刀自娘イシカワノトジノイラツメ」)との間にできた妾腹の子供で在った為に、「二宮」と呼ばれた。「赤丸浅井神社」は皇室の神社で在り、祭神の「高皇産霊神」は神々を地上に遣わされた「神々の指令神」として、又、皇室を守護した「大伴氏」とその一族の「佐伯氏」の先祖神ともされ、様々の神々を従えて「大和国」を統一し、皇居の「大伴門」、「佐伯門」の門番も勤めた。「大伴家持」が天皇に奏上した歌の、軍歌にも成った「海行けば・・・」の歌には、「天皇の為には身を捧げて戦った大伴氏」の決意が込められている。「万葉集」に「大伴家持」の歌と共に「石川朝臣広成」の歌三首「が掲載されており、「延喜式内社赤丸浅井神社」の神殿の背後には、「皇室の菊紋」が入った古い「石川家墓標」が遺されている。かつては、「赤丸浅井神社」の前を通る北陸道を通る者達は、全員「下馬、下篭」して必ず「赤丸浅井神社」に拝礼して通行したと伝わる位に尊い神社で、「越中国司大伴家持」も朝廷の勅使として幣帛を納めた「延喜式」と言う国法にも記載される「二位の宮」として全国にも鳴り響いた神社で在ったと云う。その為に、「小矢部川」と「庄川」支流が合流していた赤丸浅井神社前の広大な淵は、「阿光ヶ淵」と呼ばれ、これは天皇が我が子を呼ぶ時の「吾子アコ」に由来する。「続日本紀」では、「元正天皇」が「聖武天皇」の幼少期に発布された勅書に、「吾子美麻斯王」と記載される。








🔴【毎年、11月15日は高岡市関町の総持寺「国指定重要文化財木造千手観音座像」の御開帳】「後鳥羽上皇」の祈願仏➡元、赤丸村舞谷!!

2021-04-18 | 富山県高岡市福岡町


■高岡市関町の総持寺千手観音像の胎内には、「後鳥羽上皇」の法名【金剛位理】や、資金を提供した大壇那の鎌倉幕府評定衆【斎藤長定、入道して藤原浄円】等の著名人の名前がビッシリと記載される。
(※【後鳥羽上皇の法名】は「金剛位良然」、一方、従来、学者が説明していた、南朝の三代目【長慶天皇】の法名は「金剛位覚理」であり、ここでも学者の知ったかぶりが「歴史の真実を曲げ」、この誤った解釈は現在も文化庁の学者等が頑なに主張している為に、「後鳥羽上皇の祈願」を込めた「総持寺の千手観音像」は、いつまで経っても「官僚」や「御用学者」に拠って真実の由来を否定され続けている。従って、「総持寺」の「千手観音像」は、いつまでも、「国指定重要文化財」から【国宝】に変更されない。「国家」や最高学府の東大等の「学者達」の不勉強から、歴史もあらぬ方向にミスリードされ続ける。そろそろ、「真実の追求」もせずに、東京大学資料編纂所の偏重、歴史家重視もほどほどにすべきだ。「権威」で歴史を捏造すべきでは無いし、誤りは素直に改めるべきだ。「文化庁」に問い合わせたところ、その「官僚」は、【総持寺の千手観音像の胎内名には、「追記」された痕跡は見当たらず、しかも「胎内名」はいくらでも後から追記できるから造佛された時に「全部の胎内名が記載された」という根拠は無い。】と回答してきた。しかし、事実は頭等の中心に記載された「胎内名」は「佛師幸賀」や「大壇那 藤原浄円(実名藤原長定、出家して藤原浄円、鎌倉幕府の評定衆を勤め、鎌倉幕府の「御成敗式目」の草案を起草した歴史上の文官、官僚として有名だ。後鳥羽上皇の中宮は藤原氏の長者「九条家」の「九条道家」の娘だが、男子が産めず宮中を去り、「後鳥羽上皇の隠岐配流にも随行を許されなかった」藤原氏の不遇の女性で在った。一方、「藤原浄円」は藤原氏を代表して「御成敗式目」の制定も行った。藤原氏長者九条家の怨念はこの千手観音像に祈願する事に拠って晴らされていたと見られる。この千手観音像は長く「河内金剛寺」の住職が密かに伝え続けた佛像)と見られ、金剛寺住職の居所「摩尼院」の世話をした「摩尼徳丸」の名前も記載される。「丸」は髪を束ねた若者等で佛像の世話をしたり、金銭の管理等をした当時では「」と呼ばれた人物を指している。













■この「千手観音像」が「後白河上皇」が創建された「河内金剛寺」からもたらされたのは、【赤丸村】が「藤原摂関家(後に九条家)」や歴代の「上皇」に伝来した「越中吉岡庄」で在った事に起因するものと思われる。
【※富山県の赤丸村(※南北朝時代末期に改名)を含む旧の「越中吉岡庄」の範囲に小矢部市の「宮嶋峡」が入っていたと見られ(※「延祇式内社赤丸浅井神社由緒」富山県立公文書館)、その【宮嶋】はかつて、「藤原氏長者九条道家の庄園」として記録される。】

「赤丸浅井城」を累代居城とした【越中石黒氏】は、藤原氏で在り、その先祖は「東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進して寄進者筆頭」で在った仏教を篤く信仰した「利波臣志留志」で在った。重ねて「越中吉岡庄」は都からは「鬼門」に当たり、加えて、「越中吉岡庄」は、南北朝時代は南朝の「後醍醐天皇」の庄園で在り、加えて「後醍醐天皇の第八皇子宗良親王」が「赤丸浅井城」に入られた事共関係が深い。















■【南北朝時代は後醍醐天皇の南朝支持の里で南朝方の「赤丸の御旗」がたなびいたと見られる「越中国吉岡庄」】
(※「門跡寺院聖護院派川人山鞍馬寺」、「延喜式内社赤丸浅井神社」を中心に栄えた奈良時代から南北朝時代迄続いた庄園で、統治の為にその隣接には【赤丸浅井城】が在った。)

後醍醐天皇は吉野への途中、奈良県賀名生の里の「堀家」で南朝方の旗標「赤丸の御旗」を自署されて決起を促されたと言う。室町時代には、「南朝の牙城」として勇名をはせた「越中吉岡庄」は、室町幕府が直轄する「御粮所(軍俵を調達する庄園)」と成り、その後、「室町幕府第三代将軍足利義満」は妻の日野業子の追善供養の為に「相国寺」の庄園とした。(※「相国考記」)
この頃からは「東寺百合文書」では、赤丸村の浅井城を中心とした越中西部は「五位庄」と記載され、赤丸村はこの時に初めて「越中国利波郡五位庄赤丸村」と記載される。「赤丸浅井城には室町幕府越中守護畠山持国が入り、足利義満の姻戚の越中蜷川氏が利波郡を知行されて、「一休さん」でも有名な「蜷川新右衛門親当」が担当している。(※「蜷川村郷土史」、「蜷川家文書」)



(※越中国吉岡庄赤丸浅井城を居城として後醍醐天皇の皇子宗良親王を城ヶ平の親王屋敷にお迎えしたと言う南朝の武将石黒重之の一族に「堀家」が在る。先の「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では、「後鳥羽上皇軍」として都に攻め上った越中石黒氏、加賀林氏、越中宮崎氏等は、後鳥羽上皇が敗戦された為に、全国に散らばって逃げ延びた。ある者は奥州に逃れ、ある者は途中の越前で朝倉氏の家臣になる等、後々に全国に石黒氏等が勃興した。)




🔽又、室町時代には、一時期小矢部川河口の「五位庄六渡寺浜」に在った【浜総持寺】で「室町幕府管領畠山満家」の三回忌法要を「赤丸浅井城」にいた息子の「室町幕府越中守護畠山持国」が執り行っている。
この時期に、室町幕府は越中総持寺に対して「所領安堵」の【安堵状】を出していた事が「相国寺蔭涼軒日禄」に記される。その落慶法要は雅楽を交えて盛大に執り行われ、父親の「畠山満家の三回忌法要」を兼ねていたと「名古屋大須観音文書」に記載される。
(※蔭涼軒;臨済宗相国寺内の執務室。創建当時はこの寺に、室「業子」の追善供養として「越中国五位庄」が寄進され、「蔭涼軒主」は寺を創建した「足利義満」が勤めたと言う。この頃、「守護畠山持国」の居城と成っていた「赤丸浅井城」の周辺から「臨済宗」以外の寺院が追放されていたと臨済宗寺院に伝わっている。真言宗総持寺もこの頃には、「六渡寺浜」に動いている。)



🔽室町幕府から総持寺に与えられた「安堵状」(※「蔭涼軒日禄」)


🔽「畠山文書」(※大阪府羽曳野市)に記載される室町時代の「越中統治絵図」


🔽「越中国利波郡五位庄赤丸村」の「赤丸浅井城」、「門跡寺院聖護院派越中統括 川人山鞍馬寺」と三社権現形式の「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」全容を記す加賀藩の「川人山古墟図」(※「森田柿園文庫」石川県立図書館)