赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 『陽明文庫』(※ 『近衛家文庫』)に遺される『越中吉岡庄』の記録⇒『保元物語』・『人車記』(※「兵範記」)写本!!

2018-06-10 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸

🔘 陽明文庫版(※近衛文庫)の「保元物語」と「人車記」(※「平範記」)に遺される『越中吉岡庄』(※富山県高岡市福岡町赤丸浅井神社を郷社とする。)の記録。

















■『越中吉岡庄』は藤原摂関家長者で左大臣(※左府と記されている)の『藤原頼長』 の庄園で在ったが、保元元年、『藤原頼長』と『崇徳上皇』に反乱の動き在りとして、『後白河天皇』、『平清盛』、『源義朝』等が先制攻撃をして屋敷を急襲した。『崇徳上皇』は屋敷を逃れたが、『藤原頼長』は流れ矢に当たり重症になる。頼長は死に望んでも逃れて父の忠実に会いに行くが、父は会わずに追い返す。無念の内に亡くなった『藤原頼長』の庄園『越中吉岡庄』は保元二年に官に没収されて勝者の『後白河天皇』の所領に成り、後に上皇の庄園の「後院領」になる。その後、この庄園は『後鳥羽上皇』から『後醍醐天皇』迄、皇室庄園として伝えられた。敗れた『崇徳上皇 ストクジョウコウ』は隠岐島に流罪に成り『崇徳上皇』は血書を遺して怨みを遺して亡くなった。『崇徳上皇』と『藤原頼長』の怨念は数々の天変地異を惹き起こした為に、『後白河上皇』や『後鳥羽上皇』等の歴代天皇はこの両者の怨念を鎮撫の為に慰霊施設を建てたり、勅使を遣わされている。
「吉岡庄(赤丸観音堂遺跡)」に在った「衆徳山総持寺 ストクサンソウジジ」には、胎内に「金剛位理卿」と『後鳥羽上皇』の法名が記載された「千手観音座像」が伝えられている。














■後白河天皇・源義朝・平清盛と崇徳上皇・藤原頼長が対立して『保元の乱』が起こった。摂関家長者「藤原頼長」は何事にも厳しかった事から「悪佐府」と呼ばれて恐れられたが、後白河側の先制攻撃で敗退し、首に矢を受けて死亡した。保元二年、藤原頼長の個人庄園は官に没収され、藤原家固有の庄園は兄に引き継がれた。平家の「平信範」はこの時期の様子を『兵範記』(※「人車記」)で詳しく伝えている。「兵信範」は摂関家の藤原忠通・基実らに家司として仕えた為、当時の上級公家などの動きに詳しく、中でも「保元の乱」前後の詳細な記述は当時の朝廷や平家の動静を詳しく遺しており、貴重な史料とされている。
(※「兵範記」には公卿の近衛家に伝わる「陽明文庫」と京都大学に伝わるものが在り、各々に脱漏があるとされる。陽明文庫版は陰影本として、京都大学本は活字本として発行されている。「五摂家」筆頭の近衛家伝来の古文書を保管する「陽明文庫」は、昭和13年(1938年)に当時の近衛家当主、内閣総理大臣近衛文麿が仁和寺の近くの現在地に設立した施設。研究者の閲覧の便を図る為に影印本の刊行を行っている。)

■陽明文庫(近衛文庫)には『保元物語』の写本が残されており、解説本として岩波書店版が発刊されている。



■「旧藤原頼長領」の内、北陸では、『越中吉岡庄』と『能登一青庄』が没官され、「越中吉岡庄」はこの時に上皇の庄園「後院領」に組み込まれ、「能登一青庄」は石清水八幡宮の庄園に寄進された。「後院領」は天皇が退位後に糧所とされた庄園で「後院庁」の「後院司」と言う官吏が政務を執り、守護の権力が及ばない庄園とされたが、源頼朝が義経探索の為と称して全国に「地頭」を配置した時から徴税を代行する地頭が配置されている。



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