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「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴富山県高岡市【衆徳山総持寺】の千手観音像と【鎌倉幕府評定衆藤原浄円】

2022-01-15 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

▼「斎藤長定」は≪承久の乱≫で敗れて隠岐に流された【後鳥羽上皇】の「中宮任子」の一族で、「任子」は【藤原摂関家長者九条兼実】の娘。

🔻「富山県史」には昭和39年に解体修理した時のこの千手観音像の胎内名写真が掲載されている。
しかし、「高岡市史」、「福岡町史」等の「史書」にはこの解説が誤って記載される。

◆「藤原浄円 大壇那」については鎌倉幕府評定衆の「斎藤長定入道藤原浄円」の事でこの仏像のスポンサーで在る事は明らかだが、何れの史書でもその解説は明確では無い。

◆中央部に記載される「金剛位理乗 本願聖人」は「後鳥羽上皇の法名」だが、各史ではこの法名を南北朝時代の「長慶天皇」の法名として理解されている。鎌倉時代の「後鳥羽上皇」の法名は「金剛位理 (良然)」、南北朝時代の「長慶天皇」の法名は「金剛理 (覚理)」で在り、良く似ている事と、この仏像が「南北朝時代に製作された」と言う先入観からの学会での誤りである。別の部位に記載される南北朝時代の河内金剛寺の高僧「禅惠」の胎内名に基づいて、【この仏像は南北朝時代の製作】であるとする文科省、富山県、高岡市、福岡町の解釈はすべて誤っている。この仏像はその胎内名を調べると明らかに【鎌倉時代の製作】で在る。

◆この仏像は、【後白河上皇】以来、上皇の庄園【後院領】で在った【赤丸浅井神社】を郷社とした【後鳥羽上皇の庄園「越中吉岡庄(赤丸村)」】に、河内長野の南北朝の戦乱を避けて送られたと見られる。

 


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