赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📕🗻 「越中五位庄」に創建された「高獄山雲龍寺」 の真実⇒室町時代に創建された古刹の由緒は誤っているのか?

2019-03-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「越中五位庄」に創建された『高獄山雲龍寺』⇒「加賀半国を与えられた赤松次郎政則に関する伝承」と兼六園近くの金沢市小立野に在る「雲龍寺由緒」の調査!!














■富山県内の各図書館に「雲龍寺と赤松政則」と云う書籍が在る。その中で、越中五位庄高畑村(加茂村)の「加茂城」に「赤松次郎政則」が在城し、その時に加茂城下に「高獄山雲龍寺」を開いたとされている。地元の人達が「雲龍寺」の石標を発見してからこのストーリーは広く県内で流布されている。

■高岡駅南の「前田利長の菩提寺」の「瑞龍寺」は「法円寺」が改称したもので、旧地には「天景寺」、「雲龍寺」、「広乾寺」、「宗圓寺」、「繁久寺」の五つの曹洞宗寺院が在ったが、これらの寺院を移転させて建立されたと云う。(※「高岡史料」)

■「雲龍寺」が金沢へ動いた後に八世天景が赤丸村に創建したと云う「天景寺」。
(高岡市関町)


■「嘉吉の乱」で、室町幕府重臣の赤松満祐は足利義満の子供の将軍足利義教を自宅に招いて殺害してしまう。その後、赤松氏は誅殺されて家門は断絶した。その後も赤松氏の残党はお家再興を目指して暗躍して、遂に後南朝の親王を殺害して奪われた天皇の神璽を取り返して、足利幕府に届け出て、お家の再興を果たし、3才の赤松次郎法師丸(元服して足利義政「法名慈照院」から一字を与えられて政則と成る。)を当主として加賀半国他を与えられた。この加賀半国は石川郡、河北郡辺りの加賀北部で在ったと云う。この地は元々、加賀富樫氏の領地で在った為に、赤松氏が統治する為に相当の争いが在ったと云う。
しかし、加賀藩の「森田柿園」は、「金沢古蹟志」でこの見解に異議を唱えている。森田柿園が調査した「高獄山雲龍寺由緒」には、「開基を赤松彦五郎政矩」で在るとされており、「政則」とは異なる事を指摘している。
この時期に、砺波郡の「越中五位庄」は富山市の蜷川城を居城としていた政所代越中蜷川氏が統治しており、その地に足利将軍近臣の蜷川氏を排除して迄、赤松氏に与えたのかも疑問が残る。しかも、この雲龍寺は、由緒からすると赤松政則が生まれる前に創建されており、柿園は創建の年代か、開基の誤りだろうとも指摘している。又、由緒に記された開基は「彦五郎政矩」で在り、別人で在る。

■『赤松彦五郎の事』
【太平記巻37「南方官軍落都事」
宮方には、今度京の敵を追落す程ならば、元弘の如く天下の武士皆こぼれて落て、付順ひ進せんずらんと被思けるに、案に相違して、始て参る武士こそなからめ。筑紫の菊池・伊予土居・得能、周防の大内介、越中の桃井、新田武蔵守・同左衛門佐、其外の一族共、国々に多しといへども、或は道を塞がれ、或は勢ひ未だ叶ざれば、一人も不上洛。結句伊勢の仁木右京大夫は、土岐が向城へよせて、打負て城へ引篭る。仁木中務少輔は、丹波にて仁木三郎に打負て都へ引返し、山名伊豆守は暫兵の疲を休めんとて、美作を引て伯耆へかへり、赤松彦五郎範実は、養父則祐様々に誘へ宥めけるに依て、又播磨へ下りぬと聞へければ、国々の将軍方機を得ずと云者なし。】と在り、南北朝末期に「赤松彦五郎」の名前が見られ、この当時は「足利義詮」の時代で在った。越中の桃井直常が「五位庄の戦い」(※応安4年、1371年、7月)で敗れた後に「赤松彦五郎範実?則尚?」が、南朝と北朝の激戦地の「五位庄」に「雲龍寺」を開いた可能性は考えられる。
【※赤松彦五郎則尚 ; 応永32年生(1425年)~享徳4年5月12日没(1455年6月26日)→「嘉吉の乱」では伯父の赤松満祐に従って播磨国で幕府軍と戦ったが、9月に満祐が自害すると、則尚は播磨から逃亡した。その後、各地に潜伏して御家再興を目指し、足利義政の時に山名氏と争い戦死した。】

・雲龍寺創建年 嘉吉元年(1441年)に越中五位庄に創建(※「雲龍寺由緒」)
【※曹洞宗本山記録は永正8年頃(1511年)としている。(開基)雲龍寺殿高峯生庵大禅定門
⇒雲龍寺殿とは赤松彦五郎政矩の事】
・「長禄の変」;長禄2年(1458年)8月に赤松一族が後南朝から奪還した神璽が京都に戻り、その功績により赤松家の再興が幕府から認められる。
・文正元年(1466年)に政則は幕府に分割された伊勢領の代わりに加賀国内で半国を与えられた。
・応仁の乱が始まり、応仁2年(1468年)迄には赤松領の加賀半国は富樫政親が奪回している。曹洞宗本山記録の《永正8年頃(1511年)創建》は応仁の乱後の再建年と思われる。
・文明16年(1484年)、加賀半国を加賀富樫氏に奪われた赤松政則は、家老達から連名で罷免する様に政所代蜷川新右エ門に申し立てられた。その上で家臣達は養子の有馬澄則の子「慶寿丸」を主君にしたいと申し入れた。


■「相国寺蔭涼軒日録」によると、この時期には「五位庄」は足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園になっていた様で、何よりも、「能登半国」と「五位庄」が相当、距離的に離れている事にも疑問を感じる。
赤松満祐は当初、将軍足利義教(義円)と良好な関係に在ったが、義教に依る身内の殺害と周辺重臣の暗殺に危機感を持った赤松一族が自宅に将軍を招いて殺害し、一旦は追討を受けて滅亡した。その後、天皇の神璽を南朝から奪いお家の再興を果たしその後は足利幕府に再度仕えている。
「曹洞宗本山記録」に拠ればその創建は永正八年(1511年)頃とされており、その頃は第10代足利義材(再任して改め「足利義稙」)の時代で在る。「足利義材」は囚われていたが、越中の神保氏に助けられて越中放生津に逃れて「越中臨時政権」を立て、後に再任されて「足利義稙」と名乗っている。時代としては正にこの時期に当たる。
【「足利義稙」(初め義尹);永正5年7月1日(1508年) ~ 大永元年12月25日(1521年)】
(※高岡市石堤の「西光寺」には、この時期に「足利義材」が度々、寺を訪れて休んだと言う記録が遺されており、この地域は正にこの臨時政権の影響下に在った時期である。)

■もう1つ指摘すれば、「赤松政則の居城」を、五位庄の「高畑村」の城としているが、金沢市の郊外の金沢東インター近くにも「金沢市高畠村」が在り、この地で在れば、充分に「加賀半国」の中に含まれていたと考えられる事だ。この寺が足利義材の越中在任の時に五位庄加茂村に動いたとすれば辻褄が会う。「五位庄」は室町幕府の三代将軍足利義満以降、足利家菩提寺の「相国寺」(※金閣寺)、「等持寺」、「等持院」の庄園になっていたから、「足利義材」が越中に逃れたのは室町幕府政所代の「越中蜷川氏」の代官「神保氏」の助けを受けた為だ。この時期に足利家家臣の赤松氏が、金沢市高畠村に在った「雲龍寺」を越中加茂村に動かした可能性が考えられる。従って、この「雲龍寺」は「金沢市高畠村に創建⇒高岡市加茂村に移転⇒金沢市小立野に移転」の歴史が在ると思われる。
(※金沢市高畠村に「高畠城」が在ったかは確認できていない。)

■高岡市加茂村の加茂城が在った場所は「高畑村」で在り、赤松氏が拠った「高畠城」は「高畠村」で在り、明らかに字が異なる。
森田柿園は金沢市の各地の由緒を調べて「金沢古蹟志 卅四巻」に納めているが、その調査は細密で在り、加賀藩の地理にも明るい森田柿園の意見の方がどう見ても妥当と考えられる。

■「赤松氏」については金沢市郊外に「別所」の地名を遺す「別所氏」、加賀藩に仕えた一族は「石野」と名乗り、「有馬氏」もこの係累に成り、相当な大族で在り、これ等の系図を調べるのは困難だが、豊臣秀吉の家臣だった赤松一族が前田利家に従って加賀藩に仕えたとされる事から、高岡市の「天景寺」を再建した「赤松氏家臣」は前田利家に従った赤松氏と言う事は推定できる。











■「雲龍寺」が加賀藩の要請で金沢に動いた後の信徒を救う為に赤丸村に「天景寺」が創建された。この寺は雲龍寺八世「天景」から「天景寺」と名付けられて、高岡市関町に動いたが、加賀藩が「瑞龍寺」を建立した時に敷地を接収されて、再び現在地に動いた。
寺紋は赤松氏の「笹竜胆紋」を使用している。












🔴【明治維新と修験道廃止令】 五位庄赤丸村の信仰⇒高岡「天景寺」と「愛宕大権現」 !!

2019-03-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

■「明治5年(1872)9月15日 太政官第273号」に因って、皇室庄園「吉岡庄」・「五位庄」に伝わった「修験道」は廃止されて、「天台宗」か「真言宗」への改宗を命ぜられた。









■【註】「天景寺由緒」には五位庄赤松氏の家臣稲垣氏が創建したと有るが、戦国大名赤松氏の子孫赤松(石野)氏満は前田利家に従い3000石となり、その次男の氏次、氏満の弟貞重も加賀藩士となっている。「稲垣与右ヱ門」は大阪冬の陣の際に高岡城を預かった武将の名前として残されており、代々、赤松氏の家臣であった稲垣与右ヱ門が慶長14年(1614年)利長死後の大阪冬の陣の後に主家赤松家の累代と慶長11年(1606年)に加賀で亡くなった赤松氏満の菩提を弔う為に天景寺を再建したものと見られる。天景寺は源氏の家紋の「笹竜胆」を使っており、村上源氏赤松氏が使用していた家紋である。天景寺が「赤丸村舞谷」に創建されたのは、五位庄加茂城の城主赤松氏所縁の「雲龍寺」が金沢へ移転した為、五位庄に残る雲竜寺門徒の為に建立されたと伝わる。その後、天景寺は現在の高岡市の瑞龍寺の場所に移転したが、瑞龍寺建立の際に関町の現在地に動いたとされる。
【註】「瑞龍寺」は「法円寺」が改称したもので、旧地には「天景寺」、「雲龍寺」、「広乾寺」、「宗圓寺」、「繁久寺」の五つの曹洞宗寺院が在ったが、これらの寺院を移転させて建立されたと云う。(※「高岡史料」)

■「赤松氏の家臣稲垣氏が創建」と言うのは瑞龍寺建立の際に現在地に移転し再建された事を指しているのか? 
(※「高岡史料」、「天景寺」ホームページ 他参照 )


■「天景寺由緒」に出てくる「勝軍地蔵」は天景寺の宗派とは異なる「客仏」で有る。天景寺は加賀藩の誘致で金沢に移った五位庄加茂村に在った雲竜寺(曹洞宗)の末寺であり、「勝軍地蔵」は愛宕信仰の仏である。本来、「勝軍地蔵」は坂上田村麻呂が創建したと云われる「京都清水寺」(法相宗)に本尊千手観音像の脇侍として毘沙門天と共に祀られている仏で有り、又、京都愛宕神社に祀られていた御神像でもある。京都愛宕神社に祀られていた「勝軍地蔵騎馬像」は地蔵尊で有りながら白馬に跨り、僧衣をまとい、鎧と兜を着けた異形の地蔵尊である。※現在は山梨県の清水寺に所蔵されている。この姿は「坂上田村麻呂」を写したものと云われ、本来は京都愛宕神社に所縁の仏である。

※京都清水寺の「勝軍地蔵立像」は右手に宝剣、左手に戟(ゲキ)を持つ立像で在り京都愛宕神社の「勝軍地蔵」とは形が異なる。高岡の「天景寺」に祀られている「勝軍地蔵」は形からして騎馬に乗っている所から京都愛宕神社形式の仏である。京都鞍馬寺の本尊は毘沙門天だが「坂上田村麻呂」が信仰したと伝えられ、「坂上田村麻呂」が由緒に出てくる。
赤丸村にはかって毘沙門天信仰の「川人山鞍馬寺」を中心として48坊があり、現在も清水山の山頂には京都清水寺の千手観音像を祀る「観音堂」が在る。又、「勝軍地蔵」を信仰した「愛宕社」がその右下に在り、左下には毘沙門天信仰の「川人山鞍馬寺」が在った。赤丸村の旧地での立地としては清水山の千手観音を頂点として、左に毘沙門天、右に将軍地蔵を配置した三尊形式になっていた。(京都清水寺では本尊「千手観音像」と脇侍「将軍地蔵」・「毘沙門天」の三尊を祀っている。)
※元赤丸村に在った高岡の衆徳山総持寺も千手観音像・不動尊・毘沙門天・薬師如来等を祀る真言宗の寺院で有る。

では何故、元五位庄赤丸村に在った「天景寺」にこの「勝軍地蔵」が伝わったものだろうか?

■五位庄赤丸村には元正天皇の養老年間(712~723年)に創建されたと伝わる「五位庄総社 延喜式内社 赤丸浅井神社」があり、7つの神社と48の寺院が周辺に在ったと伝わる。京都清水寺の観音像の写しが安置されている赤丸清水山と赤丸浅井神社の中間に「愛宕社」や「熊野社」の跡地が在る。愛宕社の神官は「愛山」と名乗る山伏だった様だが、赤丸浅井神社に鳥居や狛犬等を寄贈して、本人は北海道に移動したと云う。周辺の寺院は明治の廃仏毀釈で仏像を壊し、あるいは野山に廃棄したという。愛山家が何故北海道に移転したかは不明だが、明治以降、何回かの大凶作で赤丸村の豪農や住民が相当、北海道に移住したと伝わる。(※「赤丸小史」福岡町図書館 参照)

■「天景寺」は元、赤丸村舞谷の総持寺跡地近くに建立され 、加茂村の雲龍寺が前田家の要請で金沢へ移転した為、その現地門徒の為に創建されたと伝わり、山裾には五位庄用水が流れ、背景には小高い山が在る。現在、天景寺に伝わる「勝軍地蔵」は何れかに打ち捨てられていた仏を大切に祀っていると云われるが、現在は高岡市関町一帯で火災除けの「火伏地蔵」として崇敬され、毎年、8月16日には町内を挙げてのお祭りがある。「天景寺」では本尊以外の「客仏」として大切に祀られている。

■この「勝軍地蔵」は京都の清水寺、愛宕神社(昔は愛宕山白雲寺)に祀られていた仏で有り、「愛宕大権現」の本地仏として祀られていた。愛宕山白雲寺の本尊であった「勝軍地蔵騎馬像」は慶派の七条仏師康清作で武田信玄の発願とされ、現在は山梨県の清水寺に祀られており、高岡の「天景寺」に祀られている「勝軍地蔵騎馬像」もこの仏に近似している。愛宕権現は火伏の仏として信仰を集め愛宕山白雲寺を本山として火難除けや盗難除けの神として、又、軍神「坂上田村麻呂」として武士の信仰を集めたと云う。小矢部市の古刹の長谷山宝性寺の住職の先祖は能登の名門「長谷部信連」の末裔の「長氏」であるが、この寺には武将が戦いに臨んで兜に納めていた「坂上田村麻呂」の「兜仏」が現在も伝えられている。

■大宝年間に修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山で天狗(愛宕太郎坊天狗)に遭って朝日峰に神廟を設立したのが愛宕山の開基と伝わり、天狗信仰、愛宕修験道として栄えたが明治維新の際の神仏分離令による廃仏毀釈によって修験道に基づく愛宕権現は廃止された。明治3年(1870年)に天台宗・真言宗両義の白雲寺は廃寺となり愛宕修験道愛宕神社も改組され神道の神社となった。赤丸の愛宕社も、往時は清水山観音像に見られるように京都清水寺への信仰も有って信仰を集めていたようだが、恐らく明治維新の激変で閉鎖に追い込まれたものと見られる。泰澄が庵を開いたと伝わる赤丸浅井神社の山伏西宝院も明治2年には還俗して「川人他治馬」と改名し、神官になっている。「天景寺」に伝わる「勝軍地蔵」はこれ等の状況から判断すると、赤丸村の愛宕社の本尊で在ったが明治に廃寺となった為、「天景寺」に伝えられたと考えられる。この仏は廃仏毀釈で廃止された赤丸浅井神社の後ろに在った「愛宕社」の本尊ではなかったかと思われ、廃仏毀釈の時に由緒の在る仏像や果ては建物も二束三文で売りに出されたと云う。












🔴📃 【延喜式内社赤丸浅井神社】と【頭槌の太刀】のルーツ⇒「神道名目類聚抄」!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「神武天皇の東征」に見られる「頭槌の太刀」


■「古事記」では【頭槌太刀】は神世に天尊降臨の時に帯びられたとされる。






■「赤丸浅井神社」に伝わった古書の「神道名目類聚抄」には神道の奥義や皇室の三種の神器、神道の建物、祭具、祭式等についての細部が記されている。
その中には皇室の「神剣」とされる刀剣にも、往古は幾つかの神剣が伝えられたと云う。
龍神が造ったと言う「御剣」は「御太刀」とも言い、「八握剣 ヤツカノツルギ」、「九握剣 ココノツカノツルギ」、「十握剣 トツカノツルギ」等が在ったと言い、「十握剣」は「四指を以て十を計ふ」とされる。

▼『神剣』
・「蛇麁正剣 オロチノアラマサノツルギ」;蛇を殺した剣を「蛇の麁正 アラマサ」と言い、今は石上イソノカミに在り。
・「蛇韓鋤 オロチノカラサヒ」;スサノオノミコトは計りて毒酒を醸して以て飲ましむ大蛇は酔って眠る。スサノオノミコトは「蛇韓鋤之剣 オロチカラサヒノツルギ」を以て頭を斬り腹を斬りその尾を斬り玉う 蛇を斬り玉へる剣は今吉備神部キビノカンベの許に在り。
・「天蝿斬之剣 アメノハエキリノツルギ」;スサノオノミコトは即ち天蝿斬之剣を以て彼大蛇を斬り玉う。
・「羽々斬剣 ハハキリノツルギ」;古語拾遺に云う。スサノオノミコト天よりして出雲国簸之川上に降到 天十握剣を以て八岐の大蛇を斬 その名は 天羽々斬 今石上の神宮に在り 古語に大蛇をこれを羽々 ハハと云う 言ば大蛇を斬也
・「大葉刈 オオハカリ」;神戸剣 カンドノツルギ 神代巻に云う 味耜高彦根神アジスキタカヒコネミコト 天に登りて喪を弔う 此神の容貌まさに天稚彦アメノワカヒコの平生イケル時のよそおいに類たり 故 天稚彦親屬妻子アメノワカヒコチチハハウカツヤカラメコ 皆思わく 吾君アガシナギは猶ましけりと云う 衣帯に攀牽ヨジカカリ 且つよろこび且つまどう時に味耜高彦根神いかりおもほてりして曰 朋友トモガラの道理宜ミチコトワリウベハヒ とぶらう故 汚らわしきを憚らず遠より起哀オキカナシむ 何為ナンスレぞ我を亡者にあやまつと云て 則其帯剣大葉刈ソノハカセルオオハカリ を以て喪屋を斬り仆す 亦名は神戸剣カンドノツルギ 云々
⇒葉は刃の義 刈りは斬りの義なり 神戸は喪屋を斬り倒すより云り


■「大伴氏」の祖先神「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」を祀る「延喜式内社赤丸浅井神社」と「大伴連」が使用した「頭槌の太刀」⇒大伴一族佐伯氏発祥の「真言宗開祖空海」と赤丸村の真言宗寺院「総持寺」のルーツ!!



■「頭槌剣」は赤丸村城ケ平山古墳群から発掘されて、現在は「国立東京博物館」に展示されている。
















■「頭槌剣」は「大伴連の遠祖の天忍日命アメノオシホノミコトが来目部(久米部)の遠祖の天串津大来目を率いて、背中には弓矢を背負って地上に降り立たれた」事が記載され、軍事部族の大伴連が武人の久米部を率いて戦われたとされる。
又、後には九州に繁栄していた「隼人族が朝廷の大甞会の時に腰に帯びた」と記されている。
これは古事記の記載を引用したものだが、この「頭槌の太刀」が大和朝廷の軍事を司った「大伴氏」「久米氏」の所縁の剣と云えるだろう。「越国」は大和朝廷が東北の「蝦夷」を攻めた時には軍事の最前線基地で在ったと伝わり、「大伴氏」の一族「佐伯氏」が駐在して、やがて、降伏した「蝦夷」を朝廷から賜り「佐伯部」と云う軍隊を構成して「佐伯氏」に従ったと言う。

★この「佐伯氏」の一族が四国に渡り、後に真言宗の開祖「空海」を産み出した。赤丸村に古くから在った寺院は「真言宗」や「天台宗」が多く、明治維新の廃仏毀釈の時に「本山派修験道」は「天台宗」、「当山派修験道」は「真言宗」に組する様に明治政府は改編した。(※赤丸村の「川人山鞍馬寺」は三井寺系の「本山派」で在り、衣裳には白い房を着ける。真言宗系当山派の醍醐寺派と天台宗系本山派の聖護院派が在った。)



■延喜式内社赤丸浅井神社には一条天皇が勅使を遣わされた時に勅使お手植えの二本の桜の大木が昭和初期迄在ったが、この大木は「木花咲夜比売」の御神体として長く進行され、その為に同じく「木花咲夜比売」を祭神 とする真言宗の白山信仰も深く関係した。「川人山鞍馬寺」の前には白山を開いた「泰澄」が境内に庵を開いたとされて元々、白山修験道とは密接で在ったが、「越中吉岡庄」の領主の「後白河上皇」の皇子が「聖護院」の門跡になられた事から「聖護院派」に組み込まれた様だ。この習慣は現在も続き、白山修験道の山伏が「延喜式内社赤丸浅井神社」や高岡市関町の「総持寺」に拝礼すると言う。
「空海」が高野山を開いた時には地主神の導きと了解の上に高野山を開いたと言われ、真言宗「空海」や天台宗「最澄」の教えの中に神道を敬う「両部神道」の教えが在った事から、「川人山鞍馬寺」にもこの二つの修験道が持ち込まれたものと見られる。「浅井神社48坊」と呼ばれた寺院は「真言宗」や「天台宗」の寺院が含まれていた様だが、浄土真宗が入った頃から改宗が進んだ。

🔴『桓武天皇』の姪『五百井女王』の庄園【越中須加庄】(高岡市国吉村、頭川村)と「延喜式内社赤丸浅井神社」⇒古代庄園「越中国吉岡庄」!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



■神護景雲元年(767年)11月16日の「越中国司解」(※ 宮内庁正倉院事務所所蔵「東南院文書」)に「須加村地伍拾陸町柒段弐佰玖拾肆歩,見開参拾柒町肆段壱佰捌拾陸歩(奉神1反80歩,荒22町7反66歩,定14町6反40歩)・未開壱拾玖町参段壱佰捌歩」(※56町7段294歩)と記載される「東大寺庄園越中須加庄」は当初「桓武天皇」(誕生737年 崩御806年4月9日)の姪の「五百井女王」が藤原種継暗殺事件後に「五町歩」を故早良親王所縁の東大寺華厳院( 宇治華厳院[東大寺の子院] )に寄進された事から東大寺庄園に成った。(※「平安遺文」古文書編 一巻)
(※藤原種継暗殺事件では桓武天皇の弟で五百位女王の叔父に当たる「早良親王」が関与したとして讃岐に流されたが無実を訴えながら旅の途中で亡くなっている。「早良親王」は東大寺華厳院で出家されていたが、桓武天皇の皇太子として立太子して還俗している。この事件は桓武天皇が推進した長岡京への遷都に反対した者が長岡京建設担当者の藤原種継を射殺した事から反乱として大事件に成った。
785年(延暦4)年には五百位女王の弟の「五百枝王」も「藤原種継暗殺事件」に連座して伊予国に流刑に処せられたが、後に赦されている。)


※神護景雲元年(767年);孝謙天皇、重祚して称徳天皇《養老2年(718年)~ 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)日本の第46代・第48代天皇、父は聖武天皇・母は光明皇后》の時代。

■「須加庄」の場所は現在の高岡市國吉地内に比定され、この辺りには古くは「陽知郷」と言う古代集落が有り(※「柴野八幡神社由緒」富山県神社庁)、後に白河天皇は上鴨神社の庄園とされた「越中吉岡庄」と呼ばれた庄園の一部で在ったらしい。「越中吉岡庄」は「赤丸浅井神社由緒」(富山県立公文書館)に拠ると、「國吉郷、赤丸村、石動(小矢部市宮島郷)」にわたる広大な庄園で、その後、藤原摂関家長者左大臣「藤原頼長」の庄園となり、「保元の乱」の後には「後白河上皇」の「後院領」となり、その後は南北朝の「後醍醐天皇」迄皇室領として存続した。「後醍醐天皇」の皇子「宗良親王」はこの庄園を「五位庄」と改名されたと云う。(※「宝永誌」福光町図書館写本)
室町時代には足利家領となり「将軍足利義満」はこの庄園を「相国寺」(※塔柱寺院は鹿苑寺金閣寺)に寄進した。加賀藩時代には「赤丸浅井神社」を中心として57ケ村を含んでいたとされる。
(「赤丸浅井神社」は神社由緒に拠ると、古来から国吉郷、赤丸村、宮島郷辺り迄の近郷53ケ村から各戸毎に米一升を集める事が許されていたという。)





■ 鎌倉時代に「東大寺庄園須加庄」は、「越中吉岡庄」の内の「國吉名」(※吾妻鏡)と呼ばれた地域に在った。



■平家全盛の平安時代には、「国吉名」に平家の武将「越中次郎兵衛」が館を構えて、目代として能登と越中を治めたと云う。(※「國吉村史」「越登賀三州史」)(※「平家物語」「源平盛衰記」に「越中前司盛俊」とその子「越中次郎兵衛盛嗣」が登場する。)
又、鎌倉時代には「承久の乱」で戦効が在り、「五十嵐小豊次」が北条氏から「國吉名」を与えられ、北条朝時と争いになった事が「吾妻鏡」に記載される。
【1239年(歴仁二年)5月2日 辛未 五十嵐小豊次太郎惟重と遠江の守朝時の伺候人小見左衛門の尉親家と、日来相論の事。これ越中の国国吉名の事なり。惟重則ち当所は承久勲功の賞として拝領するの処、親家押領するの由これを訴う。5月3日 国吉名の事、惟重裁許の御下知状を賜うと。】
※「名 ミョウ」は税を納める単位で、この代表は「名主 ミョウシュ」と呼ばれ、後には「名主 ナヌシ」と呼ばれ、「庄家ショウヤ」とも呼ばれた。庄屋・名主・肝煎は、江戸時代の村役人であリ、加賀藩では「十村役」「肝煎」「組合頭」と呼ばれた地方三役の一つで郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長の事。身分は百姓で「庄屋」は主に西日本での呼称で有り、東日本では「名主」、東北や北陸地方では「肝煎」と呼んだ。加賀藩時代の「赤丸村」では「奥田五右衛門」が「肝煎」を勤め、「皆月家」等が「組合頭」を勤め、「十村役」は五位組大瀧村杉野家等、国吉組では「五十嵐家」が代々十村役を勤めていた。





■「続日本紀」は「文武天皇」から、その子とされる「石川朝臣広成 イシカワアソンヒロナリ」(※後に、高円朝臣広成タカマドノアソンヒロナリ、高円朝臣広世と賜姓された。)に至る歴史を記載している。この時代は正に、越中吉岡庄(後の五位庄)赤丸村に創建された「延喜式内社赤丸浅井神社」の歴史で有り、その神社由緒の「赤丸浅井神社三社誌」には正に「赤丸浅井神社を元正天皇の二宮(石川朝臣広成)が創建され、僧行基が祭神(八河江比売神)を勘請して、赤丸浅井城には二宮が在城され、白山山伏泰澄法師が庵を結んで元正天皇の病気回復を祈願した。」経過が記載され、赤丸浅井神社には東大寺の鎮守社八幡社を末社として勘請していた事が記載される。「赤丸浅井城」は、後に、東大寺大仏造営の為に大勧進を行った「利波臣志留志」の末裔の「越中石黒氏」が居城として、後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」の地頭として南朝の「宗良親王」を赤丸城ケ平の「親王屋敷」に御迎えしたとされる。「続日本紀」には正にこの前段の物語が記載されている。

■「延喜式内社越中吉岡庄赤丸浅井神社」








■赤丸浅井神社前の「二位の渡し」は、「義経記」に登場する弁慶が義経を打擲した「勧進帳」の原作になっている場所だ。




■「東大寺庄園石粟庄図」には、「赤丸浅井神社」の神田として現在の庄川町に在った「石粟庄」の中に「浅井神一段」と記載される。



図中の「大野郷井山庄」(※「平安遺文」)は、「続日本紀」に記載される「利波臣志留志が東大寺に寄進した100町歩の庄園」で在った。
(※「砺波正倉」砺波市 参照)



■「桓武天皇」、「五百位女王」、「大伴家持」と「藤原種継暗殺事件」

赤丸村には元正天皇~聖武天皇の時代に「浅井神社」が創建されており、その後、赤丸村隣地の國吉名には「桓武天皇」の姪の「五百井女王」の庄園が在った。「桓武天皇」は「五百井女王」のもとに行幸もされている。 赤丸村隣地の國吉村に在った「東大寺庄園須加庄」は、元々、「桓武天皇」の姪に当たる「五百井女王」の庄園で在ったが、「桓武天皇」の弟で「五百井女王」の叔父の「早良親王」が罪に問われて亡くなった 延暦4年(785年)後の延暦6~7年(787~789年)に「五百井女王」が「早良親王」が出家されていた東大寺華厳院に寄進した庄園だったのだろうか? 「早良親王」は延暦4年(785年)に「藤原種継暗殺事件」に連座して淡路へ流され亡くなった。 「桓武天皇」の信任が厚かった「藤原種継」は、平城京から長岡京への遷都の時に長岡京の造宮使に任命され、遷都後に暗殺された。 事件直前の8月28日に死去した「大伴家持」はこの事件の首謀者として官籍から除名された。事件に連座して流罪となった者も「五百井女王」の兄弟の「五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主等」多数に登った。 この事件には「大伴家持」や大伴一族が連座して、資格、財産が没収され、家持は死後の遺体の葬儀も許されなかったが、死後暫くして名誉、財産は回復された。
※「赤丸浅井神社」の祭神は当初、「八河江比売神 ヤガワエヒメノカミ」であったが、その後、大伴氏の氏神で皇室の主要神で在った「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」が祭神として追加されている。これも藤原種継暗殺事件で死後にも関わらず罪人とされ、全ての名誉を失い、財産も没収された元の越中国司「大伴家持」を祭ったものだろうか?

◎早良親王の兄の桓武天皇は784年(延暦3年)、平城京から長岡京へ都を遷した。新京造営中に、長岡京造宮司であった「藤原種継」が何者かに暗殺されるという事件が起り、この暗殺事件の首謀者が「早良親王」と見なされた。「早良親王」は、「桓武天皇」の同母弟ながら、捕えられて乙訓寺に監禁された。幽閉された「早良親王」は無実を訴え、断食を続けていたが淡路島への流罪が決定され、宮内卿石川恒守等が淡路へ移送する途中、淀川沿いで餓死したが恒守はそのまま早良親王の遺体を淡路へ運んで葬った。「早良親王」は元々東大寺に出家していたが、「光仁天皇」の意図で還俗して立太子したが、「桓武天皇」は我が子に後を継がせる為に事件に絡ませて追放したとも伝わる。「早良親王」は東大寺の「良弁僧正」と気脈を通じており、「良弁」は東大寺の後継者として考えていたとも言われる。その後、「桓武天皇」の母の「高野新笠」を初め近親者が相次いで死去し、淀川の氾濫、大飢饉、病の蔓延と凶事が立て続けに起こった。これ等は親王位を廃された「早良親王」の祟りとされ、直ちに諸陵頭調使王(ショリョウカミ ズシオウ・ツキツカイオウ)らを淡路国へ遺わして謝罪し、800年(延暦19年)、「桓武天皇」は「早良親王」に「崇道天皇」の諱(尊号)を贈った。
(※「日本紀略」)
⇒この時に派遣された諸陵頭「調使王」は「続日本紀」に拠ると、神護景雲元年に叙位され、この同年に、「利波臣志留志」が越中員外介となり、更に「墾田一百町を東大寺に寄進して外従五位下利波臣志留志は従五位上に任じられている。 「調使王」は 延暦二年には越中守として「上国」の「越中国司」となり、その後、朝廷に戻り諸陵頭となっている。又、越中須加庄の庄園主の「五百井女王」の兄弟の「五百枝王」は美作守 、越前守に任じられ、「大伴家持」は左大弁従三位に任じられている。この時期には暗殺された「藤原種継」は正四位下に任じられている。

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『続日本紀』抜粋
《神護景雲元年(七六七)正月己巳》○己巳。詔曰。今見諸王。年老者衆。其中或勤労可優。或朕情所憐。故随其状。並賜爵級。調使王。
《神護景雲元年(七六七)三月己》○己巳。外従五位下利波臣志留志為越中員外介。授外従五位下利波臣志留志従五位上。以墾田一百町献於東大寺也。
《延暦元年(七八二)閏正月庚子》○庚子。中宮少進外従五位下物部多芸宿禰国足為兼越中介。侍従従四位下五百枝王為兼美作守。
《延暦元年(七八二)閏正月壬寅》○壬寅。左大弁従三位大伴宿禰家持。
《延暦元年(七八二)三月戊申》○戊申。従四位下三方王。正五位下山上朝臣船主。正五位上弓削女王等三人。坐同謀魘魅乗輿。詔減死一等。三方。弓削。並配日向国。〈弓削三方之妻也〉。船主配隠伎国。自余与党亦拠法処之。」以従四位上藤原朝臣種継為参議。
《延暦元年(七八二)五月丙申》○丙申。以従五位上調使王為少納言。
《延暦元年(七八二)五月己亥》○己亥。参議従三位大伴宿禰家持為春宮大夫。
《延暦元年(七八二)閏正月壬寅》○壬寅。左大弁従三位大伴宿禰家持。
《延暦元年(七八二)六月辛未》○辛未。侍従従四位下五百枝王為兼越前守。
《延暦元年(七八二)六月壬申》○壬申。詔以大納言正三位藤原朝臣田麻呂為右大臣。従四位下五百枝王為右兵衛督。侍従越前守如故。従四位上石川朝臣名足。紀朝臣船守。藤原朝臣種継並正四位下。
《延暦元年(七八二)八月乙亥》○乙亥。正五位下石川朝臣真守為式部大輔。右大弁正四位下石川朝臣名足為兼美作守。
《延暦二年(七八三)二月壬申》○壬申。従五位上『調使王為越中守』。

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■【日本紀略】(※国立国会図書館)に記載される「藤原種継暗殺事件」と「崇道天皇(早良親王)」の鎮撫の記事









「桓武天皇」

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■【赤丸浅井神社創建の石川朝臣と越中との関わり】
※「石川豊成」;最終は「正三位中納言兼宮内卿右京大夫」に迄昇進し、越中射水郡の「東大寺庄園鹿田庄」(高岡市と大門町の間)の隣地に自分の庄園を所有していた事が東大寺庄園図に記載されている。

※石川真守;宝亀3年(772年)4月27日:【越中守】。奈良時代中期から平安時代初期にかけての貴族。大臣蘇我馬子の後裔で、中納言・石川豊成の子。

※「石川名足」;桓武天皇の近臣として参議従三位。左大弁(光仁天皇の側近)がいた。

※「石川河主」;中納言・「石川豊成」の十男。 延暦25年(806年)3月の桓武天皇崩御に際して御装束司を務め、翌月の平城天皇の即位に伴い正五位下に昇叙された。

・赤丸浅井神社創建の「石川朝臣広成」は蘇我氏で、石川豊成もその一門に当たる。赤丸浅井神社の神域と考えられる國吉名に一族と縁の深い桓武天皇の姪が庄園を所有していたのも、石川一族の手配によるものだったのだろうか⁉ ⇒石川一族に拠って「赤丸浅井神社」の別当寺「川人山鞍馬寺」が赤丸村に勧請され、大伴氏の氏神が赤丸浅井神社の祭神として祭られたものか? この辺りには「藤原種継暗殺事件」に絡んだ人達の足跡がこんなにも多い。
※「五位庄郷社53ケ村総社延喜式内社赤丸浅井神社」は域内の各戸から米一升を集める権利が認められており、加賀藩政期には56ケ村がその範囲であったという。その範囲は小矢部市の宮島から國吉迄含まれており、赤丸浅井神社の別当寺とされる「川人山鞍馬寺」が桓武天皇の時代に勧請されたと云う伝承(浅井神社リーフレット参照)が有り、この時期に続日本紀に登場する多くの人物が富山県に関係している事やその範囲内に桓武天皇の姪の五百井女王の庄園「須加庄」が在った(※「平安遺文」)事から、赤丸浅井神社周辺の歴史も桓武天皇の治世に大きく繁栄したと推定される。『國吉名(吾妻鏡記載)柴野の「八幡神社」は古代庄園「陽知郷」の守護神であった』(※「富山県神社誌」富山県神社庁)とされる事から、この「須加庄」の前身は「陽知郷」に在ったものか? 「八幡社」は東大寺にも勧請されており、東大寺庄園には守護神として祀られた様だ。東大寺大仏造営の時に九州の宇佐八幡宮が聖武天皇に協力を誓った事から、天皇は東大寺に宇佐八幡宮を勘請されたと云う。越中吉岡庄、後の五位庄には多くの「八幡宮」が鎮座している。


■高岡市「柴野八幡神社」は「往昔、陽知郷の文化の中心地であった」と伝わる。※祭神「応神天皇、神功皇后」




■『五百井女王が東大寺華厳院に寄進した越中須加庄』の記事⇒【平安遺文】参照








「東大寺庄園須加庄」






■石黒氏系図には、【第26代継体天皇[『日本書紀』では男大迹王(ヲホドノオオキミ) 507年3月3日? - 531年3月10日? ]の時に石黒氏の祖の「波利古臣 ハリコノオミ」(利波臣の祖)は「利波評 トナミコオリ」を賜った。】と記載されている。「評 コオリ」は大化の改新の詔(646年)から大宝律令(701年)迄使用された地方制度の名称で、大宝律令以後には「郡」に変わり、「礪波郡」になっている。


■《続日本紀 一、二、三》岩波書店版 要約
文武天皇(持統11年、立太子、文武元年、697年即位)の時、天皇は税を軽くし、老人を憐れみ、文武百官の役人に物を賜り、善政を敷いた。8月20日、藤原不比等の娘宮子を夫人(ブニン)とし、紀竈門娘(キノカマドノイラツメ)、石川刀子娘(イシカワトネノイラツメ)を妃(嬪の誤りか?)とされた。その時に陸奥の蝦夷、新羅国が朝貢し、越後の蝦狄に物を賜った。
(※ここでは「蝦夷」は太平洋側のエミシ、「蝦狄」は日本海側のエミシを指す。)
文武2年、(698年)3月10日、諸国の国司、郡司を集め、郡司の任官の儀式をされた。
文武4年、大宝律令編纂開始、大宝元年に完成。大宝元年始めて「内舎人」を中務省に置く。 大宝2年、諸国の国造の氏を定めた。
大宝3年3月、才能のある者を諸国の郡司に登用する。
慶雲3年、諸国王公諸臣が山を占有して、百姓の農耕を妨げる事を禁ずる。 9月、諸国七道に使いを遣わして田租の法を定め、町毎に十五束と決め賜う。
慶雲3年、707年、6月15日 文武天皇崩御。 707年7月、元明天皇(文武天皇の母)が即位。
和銅元年、708年、秩父郡から精練を要しない高純度の銅鉱石が献上され、年号を「和銅」とする。「和銅開珎」の鋳造。 2月15日、平城京遷都の勅を発布。 3月、陸奥、越後の蝦夷が乱を起こし、佐伯宿彌石湯を征越後蝦夷将軍として越中、越後等から軍を徴集する。8月に完了。
和銅2年7月、出羽の蝦狄討伐の為に越前、越中、越後、佐渡から船一百艘を派遣した。3年正月、蝦夷、隼人(薩摩)が始めて朝賀に参列した。
和銅4年10月、位階に応じて禄法を定め、11月、逆に蓄銭の額によって位階を定め、私鋳銭を禁じた。12月、王臣の山野占有を禁じ、国司の許可を得て空地の開墾を進める事を許す。
和銅5年、712年4月、郡司の主政、主帳は式部省が試験して任官させる事とする。5月、郡司と百姓に評価基準を設けた。国司はその評価に拠って郡司を推挙する事とする。国司は年毎に官人の評価をして式部省に報告する。12月、「銭五文を以て布一常とする。」⇒正丁一日は二常(布二丈六尺)、十文とされた。⇒和銅6年、布地二丁を一段、長さ二丈六尺とされ、慶雲3年には一丁は一丈三尺に半減されている。
和銅6年、713年、左京式が稗(ヒエ)が変化して禾(イネ=稲)となった一茎を献上した。 3月、田の売買は銭で支払う事を定めた。これに違反した場合は「徒二年」(懲役二年)とする。5月、畿内と七道の諸国の郡、郷の名前は自由に着けても良いとした。郡司の大、少領は終身限りとして、国司が情に流されて永代選任する事や恣意に解任する事を以後禁ずる。
和銅6年、713年11月5日、紀竈門娘(キノカマドノイラツメ)、石川刀子娘(イシカワトネノイラツメ)の二嬪を追放し、一族は臣籍に降下した。
(※赤丸浅井神社を開き、赤丸浅井城に居城したと伝わる石川刀子娘の子の石川広成もこの時に臣籍に降下し、舎人となった。)
和銅7年7月、首皇子(後の聖武天皇)が元服する。
霊亀元年、715年9月、元明天皇が譲位され、元正天皇が即位。
養老元年、僧行基を指弾する。18日、元正天皇が美濃国の行宮に行幸され、越中国以北の国司が諸国の雑技を奏纜する。 岐阜県養老郡の「養老の滝」を命名。
養老2年5月、羽咋、能登、鳳至、珠洲を越前国から割いて能登国を置く。
養老4年、陸奥の蝦夷が反乱し按察使が殺害された。
養老6年4月、元正天皇は国司、郡司に命じて住民に10日の賦役を課して、百万町歩の開墾を計画された。三千石以上を開墾した者は勲六等に任じ、一千石以上を開墾した者には生涯、課役を免除した。
養老7年4月「三世一身法」を定めて、新しく水利、農地を開発した者には三世に渡り所有を認め、既存の水利を利用して農地を開発した者には一代限りの所有を認めた。
神亀元年、724年2月 元正天皇が譲位し、聖武天皇が即位。3月、蝦夷が反乱した。
神亀3年6月、元正太上天皇が病と成り、僧28人に快癒を祈らせた。同年、元正太上天皇崩御。 (※赤丸浅井神社に白山を開いた僧 泰澄 682年-767年 が庵を開いて元正太上天皇の快癒の為に祈ったと云う。)
神亀5年3月、外従五位の位階、俸禄を定めた。
聖武天皇 天平3年、731年8月、行基に出家を許可する。天平6年4月、大地震が発生し、建物倒壊、死者多数、山川が崩れ地が裂けた。天平7年8月、大宰府に疫病が蔓延して百姓が悉く病気に成り、年貢が納められなくなった。11月、日蝕が起こり、疫病が蔓延した為に大赦を行い、国司に精励する様に指示する。天然痘が発生し、若い民が多数死亡した。天平9年5月、大宰府に疫病が多発。死者多数。朝廷で僧600人に大般若教を読ませ祈願したが、疫病、干魃が続く為に大赦を行った。官人も病になる者多く、政務も中止した。度々、諸国でも僧に祈願させた。筑紫の防人も中止して国に帰した。
天平9年11月、畿内と七道に遣わして諸々の社を造らせた。
天平10年8月、全国の国郡図を作成して報告させた。天平11年正月、越中より白鳥を献上した。
天平12年9月、藤原広継が反乱を起こす。
天平13年正月、天皇は恭仁京で朝賀を受けられた。国郡司の私的狩猟が禁止された。3月、国分寺(金光明四天王護国之寺)建立の勅を発布。五位以上の者に恭仁京への移住を命ずる。7月、元正太太上天皇恭仁京に移住。
天平15年5月、橘諸兄を左大臣とし、「墾田永年私財法」を発布して、開発した後は永年個人の耕作を認め、郡司の大領、少領には三十町、主政、主帳には十町迄を認めた。
天平15年10月、「大仏発願の詔」を発布。行基法師が弟子と共に勧誘を行う。天平17年正月、行基を大僧上とする。4月、地震が頻発して各地の建物、堂棟が倒壊した。5月、平城京に遷都。更に地震が群発する。
天平18年6月、大伴宿彌家持を越中守とす。この年にも地震有り。
天平19年8月、越中国の人旡位礪波臣志留志は米三千碩(セキ)を廬舎那仏の知識に奉り、外従五位下を授けられた。
(※「利波臣志留志」とも記載される。米三千碩は凡そ現在の白米1200石とされる。 )
天平20年4月、元正太上天皇崩御。天平勝宝元年2月、薬師寺の僧、俗姓高志氏、行基大僧正遷化する。
天平勝宝元年7月、孝謙天皇即位。諸寺の墾田地の限度を定めて東大寺(大倭国国分金光明寺)は4000町と定められた。この年、八幡神を京の平群郡に迎えた。
天平勝宝4年4月9日、廬舎那仏の開眼が盛大に行われた。8年4月、聖武太上天皇崩御、56才。 8年5月、鑑真、良弁を大僧正とす。
天平宝字元年5月、能登国を分離する。「養老律令」を施行する。 7月、橘奈良麻呂の乱が起こる。 2年8月、孝謙天皇譲位し、淳仁天皇が即位。2年9月、国司の任期を6年として、3年毎に巡察使を派遣して成績を確認する事にした。
天平宝字4年2月、従五位下石川朝臣広成に「高円朝臣」と賜姓された。高円朝臣広成を少輔に任じた。
(※赤丸浅井神社創建の親王⇒文武天皇の二宮、聖武天皇の義弟。)
天平宝字4年、760年6月、光明皇太后(聖武天皇の皇后)没。5年5月、従五位下高円朝臣広世を摂津亮とす。6年4月、従五位下高円朝臣広世を山背守とす。


「大伴家像」高岡市万葉歴史館




■「越中国 国司、郡司一覧表」=⇒(赤枠内は「利波臣志留志」)












東大寺お水取り行事で毎年読み上げられる「東大寺上院修中過去帳」(※「青衣の女人」飯島幡司著 )







「越中の東大寺庄園」(※「平安遺文」古文書編)



「元明天皇」の和銅年間に和銅が産出して「和銅開珎」が鋳造された。





■『参考』「須加荘(古代)」
(※「角川日本地名大辞典(旧地名編)」参照 部分)
【奈良期から見える荘園名射水郡のうち東大寺領で同郡のクボ田(又はクラ田)・鳴戸・鹿田の各荘とともに天平勝宝元年に成立した勅施入地である。同年4月,聖武天皇が寺院墾田地を許可する勅令を発したことによって,東大寺など中央官寺は全国各地に野占使を派遣し墾田地の獲得に奔走した。東大寺の場合,造東大寺司という律令官司の行政力を媒介にして地方の国・郡司の協力を得て推進された当荘開発の様子は,天平宝字3年11月14日の「越中国諸郡荘園惣券第一」(東大寺文書/大日古18)並びに同日付「須加開田地図」(同前)によって明らかである。前者は「須加村地参拾伍町壱段弐佰弐拾肆歩,開田弐拾捌町伍段参佰壱拾肆歩,未開陸町伍段弐佰柒拾歩」と見え,後者には「須加野地」と表記される。これが「須加」名の初見である。「野」と「村」の併用は,同地の成立当初が「野地」の状態であり,やがて開発が進み開田が増すに至って「村」と表現されたことによる。同荘の内部は,七条塞【せき】里(田16町7反114歩・野3町2反270歩),桑田里(田7町5反・野2町2反),8条下葦原田里(田3町6反200歩・野1町1反),須加里(田7反)となっており,開田地は荘全域に拡がっている。荘中央部を南北に溝(灌漑用水)がはしり,水利条件は整っている。域内には「社」が設けられ,域外に「寺庄地」が設けられている。四至は「東大葦原里五行与六行堺畔,南西公田,北須加山」とあり,周域に公田(口分田)が多く分布していた。また北側に位置する須加山は,条里の須加里や須加野・須加村とともにこの地域の呼称に「須加」名が定着していたことを示している。この須加山は「万葉集」にも登場し,天平19年9月26日,逃げ去った鷹の夢をみて喜んで詠んだ大伴家持の短歌に「情にはゆるふことなく須加の山すかなくのみや恋ひ渡りなむ」(巻17)と歌い込まれている。天平神護3年5月7日の「越中国司解」(東大寺文書/大日古18)に「須加庄地参拾伍町壱段弐佰弐拾肆歩,見開参拾町捌段柒拾柒歩(神分1反,荒16町3反92歩,全佃14町3反342歩)・未開肆町参段壱佰伍拾歩」とあり,開田地に比べて荒田の増加が目立つ。これを神護景雲元年11月16日の「越中国司解」(同前)に「須加村地伍拾陸町柒段弐佰玖拾肆歩,見開参拾柒町肆段壱佰捌拾陸歩(奉神1反80歩,荒22町7反66歩,定14町6反40歩)・未開壱拾玖町参段壱佰捌歩」とあるのと比べると、この間,総地は21町増加したが未開地も15町増加しており,増加分の大半は野地であった。また見開田も数町増加したが荒田もその分増加している同日付の「須加村墾田地図」(同前)においても荘域全般にわたって「已荒」状態であったことが記されている。荘田積の20町以上に及ぶ増加にもかかわらず,経営の内容は不調であったことを示している。また,天平神護3年2月11日の民部省符(東大寺文書/大日古18)によれば,天平宝字5年には班田国司阿部広人らが誤って須加荘地1町1反120歩を百姓に口分田として班給したこともあった。一方,荘内に設けられた神田1反(天平神護3年)ないし1反80歩(神護景雲元年)は,神名を冠していないところから地域の官社ではなく,荘域内の「社」に施入されたものであったらしい。東大寺による奉神田は七条世伎(塞)里2行3・4に設定されたが,この地は天平宝字3年の開田図では「社」の存在した場所である。それゆえ神社と神田とが1か所にセットとなって存在していた可能性が強い。8世紀後半に当荘には荘務遂行者として荘長が置かれていた。延暦7年3月4日の「五百井女王家符案」(東大寺文書/平遺3)に荘長として川辺白麻呂の名がみえ,五百井女王家【イオイオウケ】は越中にあった墾田の一部を宇治華厳院【ケゴンイン】(京都府)に寄進するさい,現地の彼に命じて実施させている。その後,天暦4年11月20日の「東大寺封戸荘園并寺用帳」(東大寺文書/平遺257)に56町7反294歩とあるが,長徳4年の「東大寺領諸国荘園文書并絵図等目録」(東大寺文書/平遺377)には,40町8反で「庄田悉荒廃」の状態であった。寛弘2年8月には未進地子の督促のために東大寺から勘納使が送られているが,もはやこの時期には荘園としての実質的機能を果たしていなかったのである。(東大寺符案・松田福一郎氏所蔵/平遺441)なお,大治5年3月13日の「東大寺領諸国荘園文書并絵図等目録」によると,当荘(荘地28町300歩)からは紙が納められており(東大寺文書/平遺1863),仁平3年4月29日の「東大寺諸荘園文書目録」では布1帖とされている。(守屋文書/平遺2317)その後鎌倉期に至っても,東大寺領として弘安8年8月に注進されている。(東大寺図書館文書/県史中)当荘は大まかには宝達山から二上山へ連なる丘陵部南側に比定されているが,具体的には第1として高岡市国吉地内の頭川山の東南部の平野で,手洗野・岡田・細池にはさまれた一帯(高岡市史),第2はそれより北西によった岡田以東の地帯(弥永貞三ほか「続日本紀研究」通巻50号別冊),第3は上記説よりさらに東北によった高岡市の守山地内の須田・道重付近にあてる説(木倉豊信氏)がある。このうち第2説は,その比定地の北西に「サカ山」と呼ばれる山を須加山に比定している点で,説得力をもつ。】
※学説としては「礪波郡」の位置に比定されている意見もある。「砺波郡」と「射水郡」の郡界に在り、又、郡界が時代によりズレていた可能性も議論されている。「平安遺文」には「射水郡須加庄」と記載されている。



月光菩薩像

🔴【富山県赤丸城ケ平古墳から発掘された古代の太刀】東京国立博物館に保管される赤丸城ケ平古墳群出土の【頭椎カブツチの太刀】の「頭椎」は神武天皇の軍隊?!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸









■群馬県の観音山古墳出土の「頭椎の太刀」には、全体が金装で更に頭椎には銀象嵌がしてあると云う。
⇒「金銀装頭椎太刀 柄頭に連弧状の銀象嵌を施し、柄部に銀線を巻いた太刀」

■赤丸城ケ平古墳群出土の「頭椎の太刀」も、同じく全体が金装で、頭椎には銀象嵌を施したものだったと見られる。


(※赤丸城ケ平古墳出土の「頭椎の太刀」と類似の復原をしているイノウエコーポレーションの了解を得て掲載しています。赤丸城ケ平古墳群出土のものは、更に頭の部分に 「銀象嵌 」 がしてあります。)



■長く地元では行方がはっきりしなかった赤丸城ケ平古墳群から出土した大和朝廷時代の「頭椎の太刀」の「頭部分」は、独立行政法人国立文化財機構に調査していただいた所、現在は戦前の帝室博物館から「東京国立博物館」に受け継がれて、国立博物館で常設展示されている事が明らかになった。「頭椎の太刀」は神武天皇の軍隊が使用したとも伝えられ、大和武尊像等に見られる『太刀の柄の頭が鎚の形になっているもの』で赤丸城ケ平古墳群出土のものは銀象嵌が施されている。全国的にも出土は少ない様で、赤丸村周辺から小矢部市の埴生八幡宮周辺の谷内古墳群迄、多くの横穴古墳群や前方後円墳が西山丘陵に続いており、富山県の古書には大和朝廷と出雲勢力との抗争を語り継ぐ物語が在る。小矢部市の博物館には古代の「鎧」の現物が展示されており、現在に古代の鎧が伝えられている事にも驚かされる。是非、一度はこの国の宝を拝見したいもの。
(※この「頭椎の太刀」の頭椎部分は東京国立博物館で2010年にも公開された様だが赤丸村では広報もされていない。地元への正確な広報を望みたいもの。東京国立博物館や奈良国立博物館で定期開催される展示に富山県に関係する文化財が出展されても、報道も行政の広報も行われず、地元民が知らない事が多い。ここが中央の都市と地方都市の情報量の差になっている。官庁でも文化財を所管する部署が適宜、連携して広報するべきだ。富山県に多くある東大寺荘園についても中央で特別展が行われていても、地元住民も知らない事がある。その文化財が地元関係のものだとさえ、官庁や教育機関が広報せずに済んでいる。これでは「歴史都市」「観光都市」と言う謳い文句は有名無実だ。国、県、市がバラバラに文化財を所有して、お互いの連携もできていない。こんな感度の悪い行政では、世界的に日本を広報する能力はない。文化財行政では広報する時に著作権を盾に報道に規制を加えるべきではない。国、県、市等の写真資料等をいちいち許可を取る必要があるのだろうか? これだけSNSが発達した時代でも公共財産である文化財の写真等の使用に許可が必要なのは何故か? 改変されたり、悪用されたりする事を恐れているのか? 報道機関にはもっと自由にこれ等の資料を活用して、活発な報道を行って欲しいもの。個人情報保護法や秘密情報保護法を拡大解釈して運用される社会は暗黒社会だ。官庁は特に、不必要に情報を秘匿する特性がある。金沢市ではテレコムタウン指定と共に「官庁情報の公開」を目指した都市づくりを行った。隠す必要のない情報を役人の権限と勘違いして、官僚の裁量権を振り回す都市に発展は望み得ない。その為には「先ず隗より始めよ(トップや幹部より始めよ!)」である。




(※「ふくおかの飛鳥時代を考える」福岡町教育委員会発行)


















(※赤丸村出土の「勾玉」は富山県と新潟県境の姫川渓谷から産出する翡翠と蛇紋岩で作られている。)

▼「独立行政法人国立文化財機構」の調査結果の連絡⇒発掘物の整理No.等、詳細の連絡をいただいた。地方展示は博物館からの直接申請が必要になる。











■小矢部市「谷内古墳群」出土の古代の鎧












《鎧(胴)の復原模型》

🔴 📃 伊勢の「度合神道」に記録される「国造本紀」と越中(※高志国)の古代氏族。⇒皇室、伊勢神宮と高志国の菅笠文化!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「延喜式神名帳」と[度合延経]の「神名帳考証」に見える「延喜式内社赤丸浅井神社」と
「先代旧事本紀」(※1673年、寛文13年/延宝元年、度合延佳 著)の「国造本紀」の記載!

■「延喜式神名帳」記載の「越中」の延喜式内社。


■「神名帳考証」(※度合延経)記載の「延喜式内社赤丸浅井神社」





■江戸時代の学者・神官の「度合延経」は「神名帳考証」の中で滋賀県の琵琶湖周辺に祀られる矢合神社が「八河江比売」を祀っている事から、この「浅井」は琵琶湖周辺に繁栄した近江の浅井氏との関連を仄めかしている。一方、古代姓氏研究の宝賀氏の関係されている古代氏族研究会の発表の中に【・物部宿祢(浅井-近江国浅井郡人、この同族は藤原姓あるいは橘姓と称するもの多く、本姓は物部とみられるが不明点も多い。脇坂-同州浅井郡脇坂庄より起る、武家華族。大野木、三田村、赤尾、田屋、礒谷、今木、山本-近江の浅井一族。奥村-尾張人で赤尾同族。小堀-近江国坂田郡小堀村より起る。川瀬-近江国犬上郡人。なお、浅井家臣の八田、岩橋、岩田、岩坪、脇坂、中島、浅井、木村の諸氏は、祭祀関係からみて同族だった可能性がある)、物部浄志朝臣、中原朝臣(物部宿祢改姓)。】と記載されており、近江浅井氏は物部氏とされている。高岡市の東海老坂には「延喜式内社物部神社」が在り、物部氏族菅家党の末裔の加賀前田家はこの物部神社を金沢に勘請して、氷見の阿尾城に在った神明社と併せて金沢市高岡町に「尾山神社」として祀っている。
又、この記載の物部氏についての記載の中に「岩坪」や「中島」、「赤尾」と言う氏族名が見られる。高岡市の国吉校下には「岩坪」と云う地域が在り、「国吉小史」等でも古くから栄えた集落らしく、岩坪の集落の中に古い「舘跡」とされる場所が今も残されている。又、赤丸村には「赤尾」と言う一族が在り、国吉村には古くからの名家とされる「中島庄官家」が残されている。更に、国吉から石堤、赤丸村にかけては数多くの「中島家」がある。古書には「浅井とは浅井神社在ればなり」と記載されており、延喜式神名帳には「アサイノ アサイジンジャ 」とフリカナが付けられている。と云う事からすると、古代には赤丸清水山の麓の谷間に「浅井一族」が住み、或いは「浅井」と言う地名で在ったと見られる。赤丸浅井城城主中山氏の末裔である性宗寺住職に拠ると、「元々、浅井神社がある浅井谷の入口に木の大きな柱を二本建てて、自然の神を祀ったのが始めで在り、それが後に「鳥居」になった」と説明されている。古い「赤丸浅井神社の鳥居」は二本の柱を支える支え木が付けられており、コレが元々の両部神道の鳥居で在ったと云う。浅井神社は「元正天皇二宮創建」と伝わるが、実際にはそれ以前の古い時代から在った神社であると「浅井神社由緒」は伝えている。

■又、「赤丸浅井城」を居城とした「越中石黒氏」はその系図では【越中石黒氏は元々は藤原氏で在ったがその後、加賀の林氏(藤原氏)と縁組して、更に越中の古代氏族の「利波臣」の名跡を継いだ】事が系図から読み取れる。
「利波臣」は系図からすると「蘇我氏」の家系の「射水臣同族」とされたり、「古事記」では「高志利波臣」の末裔とされたりしている。
伊勢神宮外宮の豊受皇太神宮の神官「度合延佳」の著作「先代旧事本紀」の「国造本紀」では、「射水臣」の祖は「蘇我氏」とされている。
【※伊弥頭国造 イミズノクニツコ⇒志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に宗我同祖の建内足尼の孫の大河音足尼を国造に定める】(※足尼=宿弥)

又、「高志国造 コシノクニツコ」については「屋主田心命の三世孫市入命」を祖とすると云う。「利波臣」は「古事記」では「高志利波臣」の子孫とされているが、「国造本紀」では全く別の氏族を祖とすると云う。
★「彦屋主田心命 ヒコヤヌシタココロノミコト」は「北陸道将軍大彦命の子」・「彦背立大稲輿命の子」。「伊賀臣」、「阿閉間人臣」、「道公」等の祖。
⇒越中で「彦屋主田心命」を祭神とする神社
・道神社 富山県射水市作道1846
・中川熊野神社 富山県高岡市中川本町7-3











■「国造本紀」には「高志深江臣」が記載されている。
現在、大阪市深江の笠縫村に大和国から移り住んだ氏族が在り、この氏族は「天皇祭祀」や伊勢神宮の「式年遷宮」等で使用される「菅の御笠」を縫う事ができる一族で在り、以前は菅の生産も行っていたが、近年は菅の生産は富山県高岡市福岡町一帯でしか生産されず「無形重要文化財」にも指定されており、一帯で生産された「菅」が大阪市の深江に送られてそこで菅笠に縫製して皇室や伊勢神宮に奉納されている。
「高志国」に「高志深江臣」が古代氏族として存在した事から、元々は菅笠は「高志国」から奉納されていたものだろうか?
大阪市東成区深江の「深江稲荷神社」(大阪市 東成区深江南)には、「深江は 笠縫氏の居住地で大和の笠縫邑から移住してきた」と伝えられる。



■元々は「高志国」で在った福井県からは「継体天皇」も輩出している事から、古代から「高志国」と天皇家、伊勢神道には深い繋がりが在ったものだうか?
越中の菅笠は「伊勢国から越中五位庄に移り住んだ大野源作」等が伝えたと言われるが、「菅」は古くから北陸の湖沼や河川敷に自生していた事から、「菅笠」の生産はもっと古い時代から生産されていたものではないだろうか?

▼「大野源作」の子孫の「大野次平」は加賀藩時代に五位庄赤丸村の小矢部川河川敷に移住して「向野新村」を開拓し、その地域は「次平島」と呼ばれ、向野新村に残るその子孫は25代目で在ると言う。

🔴🔨 【越中五位庄】から高岡市関町に動いた【宇多刀工】の鎮守【槌宮 ツチノミヤ】!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸












■後白河上皇から後醍醐天皇迄続いた皇室庄園「後院領」越中吉岡庄の鎮守社「延喜式内社赤丸浅井神社」は元正天皇二宮(実際は文武天皇二宮、聖武天皇の弟の石川朝臣広成、後の高円朝臣広世)の創建と伝わり、赤丸浅井神社は門跡寺院の聖護院輩下の両部神道の山伏で、京都鞍馬寺を勧請した「川人山鞍馬寺」が別当であったと云う。越中の赤丸村領三日市に移り住んだ宇多国光を祖とする宇多刀工は相当の勢力で、南北朝の頃にこの「槌宮」だけが、越中国人領主の池田氏の所領に移転したとみられる。
(※「富山県神社誌」)

■この「槌の宮」は、元々、「赤丸浅井神社」が神官を勤めていた様で、その後、縁者の「白山神社」(高岡市二塚)の神官が奉仕されていたが、現在はその縁者の「大木白山社」(高岡市大工町)の管理になっている。

■周辺には赤丸村の同じ場所から移転したと伝わる、「総持寺」「天景寺」が在る。




国指定重要文化財木造千手観音坐像を祀る「衆徳山総持寺」

🔴🔹 【荒木又右衛門】が使用した「越中宇多刀工」宇多派の太刀「宇多国光 」 ⇒ 鳥取県鳥取市に在る【玄忠寺】の「荒木又右衛門遺品館」!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●鳥取県鳥取市に在る【玄忠寺】は、有名な「鍵屋の辻の決闘」で広く知られる剣豪【荒木又右衛門】の菩提寺で在る。その境内には【荒木又右衛門】所縁の品や資料を展示する【荒木又右衛門遺品館】が設けられており、又右衛門が決闘で使用した太刀が展示されている。



■「荒木又右衛門」の所持した刀は「越中吉岡庄」(※富山県高岡市福岡町赤丸鍛冶屋町島)に大和国宇陀郡から移り住んだ【宇多刀工】の作の「宇多國■」(※宇多国光とも云われる。)!!





伝に「長、2尺1寸1分、焼刃は直にも之なく、乱れにも之なく、先直刃の乱れたると申し様なる刃紋。銘、宇多国光(宇多国は読め候えども下の字摩滅読めかね申し候)」と在り、「宇多國光」とも「宇多國宗」とも伝えられている。
「宇多國光」は越中宇多刀工の祖と云われ、南北朝時代に南朝派の伊勢国司「北畠親房」の支配地の奈良県から越中の南朝派「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」(※室町時代からは五位庄)に移り住んだ。「国光の在名の長尺の太刀」は極めて少ないと云われる。







■「宇多国光」の太刀は、「高岡市福岡歴史民俗資料館」(※高岡市福岡町西明寺)で開催中の「宇多刀展」(2018.10.13~2018.12.2)に出品されている。
(※:学芸員説明会資料館二階展示室2018.11.11 11;00~)






「宇多国光の小太刀」(※波上菊紋の小太刀)

🔴 南朝の牙城「越中吉岡庄」に栄えた「大和伝 宇多派刀工」の祖 『宇多国光』⇒「高岡市福岡歴史民俗館」特別展!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

●「越中刀工 宇多国光」の作品に見られる「菊水紋」!!

















■この刀の説明には、刃紋の中に「菊」・「水」が入っていると云う。昭和十年発行の刀剣鑑定書にも「菊水紋」が記載されている。
「宇多刀工」が移り住んだ「越中吉岡庄(赤丸村領三日市)」は後白河上皇から後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄伝領した「上皇の庄園 後院領」で在ったが、「承久の乱」を起こされて越中、加賀の諸将が着き従った「後鳥羽上皇」はこよなく「菊」と「刀」を愛され、全ての持ち物や刀剣に「十六弁の菊紋」を着けられた。この「菊紋」が現在も皇室の紋とされてバスポート等にも刻印されている。又、後鳥羽上皇が作刀させられた刀は「菊一文字」と呼ばれ、後鳥羽上皇御抱えの刀工を「御番鍛冶」と呼んだ。
又、南朝の武将の「楠正成」はこの紋を採り入れた「菊水紋」を旗標として戦っている。
「宇多刀工」が工房を構えたとされる「吉岡庄鍛冶屋町島」は現在、高岡市関町に動いている「総持寺」の隣接地で在り、「総持寺」には南朝の行宮に成っていた「河内金剛寺」から「黄金の千手観音像」が伝えられ、現在は「国指定重要文化財」に成っており、この千手観音像の胎内には「後鳥羽上皇の法名 金剛位理乗」が記載されている。又、「宇多刀工の祈願社」の「槌の宮」と言う神社は赤丸村から高岡市関町の総持寺の門前に動いている。







■「大和国宇陀郡」に伝説の刀工「天国 アマノクニ」を祖として拡がったとされる「大和伝 宇多」は神武天皇を大和に案内した「ヤタカラス」と縁が深い。「ヤタカラス」は賀茂神社を祭神とする「賀茂氏」が変身したものと云われ、賀茂神社とは縁が深い。(※吉岡庄鍛冶屋町の隣接地には当時「下鴨神社」が勘請されて「下加茂社」が在ったが、現在は舞谷八幡宮に合祀されている。福岡歴史民俗資料館にはこの下加茂社所縁の「御神輿」が展示されている。)
宇陀郡には「ヤタカラス神社」が在り、後醍醐天皇が崇敬されたと伝わる。この大和国宇陀郡は後醍醐天皇皇子で興国三年、越中に入られ、赤丸浅井城、木舟城を巡行されたと伝わる「宗良親王」と共に戦った南朝の重臣・伊勢国司「北畠親房」の家臣団の領地で在ったと云われ、赤丸村と同様に「南朝の牙城」で在った地域で在る。





■「豊臣秀吉遺品」にも越中刀工の名前が見られる。


■「高岡市福岡歴史民俗資料館」(※高岡市福岡町西五位 花尾カントリー手前)では2017.09.23~12.3の間、「宇多刀剣展」が開催された。


🌼🌄 【古事記】の『天孫降臨』に見られる「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神【高皇産霊神】と「赤丸城ケ平古墳出土」の『頭椎太刀』!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










●「延喜式内社赤丸浅井神社」の主祭神は「邇邇芸命ニニギノミコト」を国造りの為に「天照大神」と共に地上に降臨させられた『正一位 高皇産霊神 タカミウブスナノカミ』(※又は高木神)で在る。
この神は皇室の主要な神で在り、「大伴氏・佐伯氏」の祖先神とされる。
「赤丸浅井神社」の在る浅井谷の並びに在る「赤丸城ケ平古墳群」からは「古事記」に記載される『頭椎太刀カブツチノタチ』が出土しており、これは大和朝廷の初期に使用されたとされる。
(※真言宗の『空海』は讃岐に渡った佐伯一族で在った。)












■『天孫降臨』(※「古事記」)


「邇邇芸命ニニギノミコト」は「高木神」の娘の子で在り、「邇邇芸命」の天降りには「天児屋命」、「布刀玉命」、「天宇受売命」、「伊斯許理度売命」、「玉祖命」の五神が従う事になった。

その時に、「三種の神器」(八尺瓊勾玉、八咫鏡、天叢雲剣)と「思金神」、「手力男神」、「天石門別神」を副え、「この鏡を私(天照大御神)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。「思金神」は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言われた。

▼これらの「天照大神」と「豊受大神」の二柱の神は『伊勢神宮』に祀ってある。「豊受大神」(※登由宇気神)は『伊勢神宮』の「外宮」に鎮座する。「天石門別神」は、別名を「櫛石窓神」、または「豊石窓神」と言い、「御門の神」で朝廷の門を守備する神である。「手力男神」は佐那那県(サナナガタ)に鎮座する。「思金神オモイカネノカミ」は「高皇産霊神」の子供とも言われ、「天照大神」の岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神々に「天照大神」を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている「知恵の神」で在る。この神は葦原中国平定では、葦原中国に派遣する神の選定を行って、その後の「天孫降臨」では「瓊々杵尊」に随伴した神で在る。「手力男神タジカラオノカミ」は「天照大神」が天岩戸に隠れられた時に岩戸を開けたとされる神で「力仕事の神」で在る。





▼「天児屋命アメノコヤネノミコト」は「中臣連等」の、「布刀玉命フトタマノミコト」は「忌部首」等の、「天宇受売命アメノウズメノミコト」は「猿女君」の、「伊斯許理度売命イシコリドメノミコト」は「作鏡連」等の、「玉祖命タマノオヤノミコト」は「玉祖連」等の祖神である。

「邇邇藝命」は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(クジフルタケ)に天降られた。
この時に、「天忍日命アメノオシホノミコト」と「天津久米命アマツクメノミコト」が武装して先導した。「天忍日命」は「大伴連オオトモノムラジ」等の、「天津久米命」は「久米直クメノアタイ」の祖神である。「邇邇藝命」は「この地は韓国(カラクニ=韓国)に向かい、笠沙(カササ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言ってそこに宮殿を建てて住むことにした。

■『古事記』の「天孫降臨」ではその時に神々が持参した武器の中に「頭椎太刀」が出て来る。

【故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫国ツクシノクニ)の日向の高千穂の「久士布流多氣クジフルタケ」に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫(イシユギ)を取り負ひ、頭椎の大刀(カブツチノタチ)を取り佩き、天の波士弓(アメノハシユミ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。】

📚📕 【先代旧事紀】に記載される全国の鍛冶師の初め⇒「鍛冶師」の祖「物部鍛冶師連」と越中の鋳物文化!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●江戸時代初めの伊勢神宮外宮の神官家「度会ワタライ家」の「度会延佳ワタライノブヨシ」は、「先代旧事紀」を著して、天皇家や古代氏族の発祥や系図等について解説している。
その中には、越中と鋳物師の歴史を窺わせる古代氏族「物部氏」と越中の関係について記されている。






■「物部氏族」は、神武天皇の前に大和に入った「饒速日命ニギハヤヒノミコト」の後裔である。神武東征時に「饒速日命」の子の「可美眞手命」が「長髓彦ナガスネヒコ」を誅殺して「神武天皇」に帰順したと云う。この功績で物部氏族は大和朝廷の初めから重きをなし、崇神天皇朝前後には幾人かの后妃を出す迄になる。「饒速日命」の系譜は『姓氏録』では「天神部」に収められる。



■「物部連」の祖は「越中新川郡」の名前の基に成っている「大新河命」で在るとしており、「高志の中つ国=越中国」の「新川郡」が「物部氏」の発祥と深い関わりが在る事を示している。



■「物部氏族」については、その始祖「饒速日命」は「天押穂耳命アメノオシホノミコト」の子であると云う。物部系図に在る尾張氏族系譜では「天火明命」が「尾張氏族の祖」とされる。又、「饒速日命」の十四世孫からは「尾治連」と名乗り、「物部氏の祖先」とされる「宇摩志麻治命」はその一族で、十八世孫で在る。更に、この「宇摩志麻治命」の十一世孫には【物部鍛冶師連公】が記載されており「物部氏」が鏡や刀剣製作の始まりで在った事を窺わせている。(※「鍛冶」の中の刀剣を鍛えた者を「小鍛冶」と云う。)



■【越中鍛冶の歴史】
「鋳物師」の歴史は古く、多くの鏡や刀剣、武具が全国で作られており、富山県小矢部市の博物館には市内の古墳から発掘された「鉄製の古代の鎧」の現物が展示されており、富山県の各所の古墳からは多くの鉄剣が発掘されている。
又、「白河上皇」の時に「上賀茂神社」の庄園と成り、その後、「藤原摂関家藤原頼長」の庄園と成り、「保元の乱」の後には「後白河上皇」の「後院領」で在り、南北朝時代の「後醍醐天皇」の時代迄、皇室庄園で在った「越中吉岡庄」の「赤丸村」には、鎌倉~南北朝にかけて大和国宇陀郡から日本刀の祖の「天国アマノクニ」の弟子の「宇多刀工 宇多国光」が移り住んだと云う。又、赤丸村には、江戸時代にも「盛阿弥」と言う刀鍛冶が住んだと云う「鍛冶屋町島」とか「鉄砲島」と言う地域が残っており、古い地域の歴史と会わせて、古くから「鍛冶屋」、「鋳物師」等が住んでいた様だ。(※現在、高岡市関町に在る【槌の宮】と言う神社は元々、赤丸村に在り、刀鍛冶の氏神で在ったと言う。⇒「富山県神社誌」)


■『仁安の御綸旨』「後白河上皇」の時代に鋳物師の全国通行を許した。
(※高岡市の鋳物師の初めとされる)





■「越中吉岡庄(赤丸村)」の鍛冶屋町島に移り住んだ云う「宇多国光」の太刀。







■「東寺百合文書」には「室町幕府奉行人斯波義将」からの越中利波郡の鋳物師に対する文書が遺されている。




■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺の「川人山鞍馬寺」の宝物には延宝六年(1678年)製の古い「鰐口」が遺されている。(※文化財未指定)




🔴💠 「加賀藩政」と「越中国 五位庄」⇒高岡市頭川村「年貢皆済目録」・「安永五年加賀藩侍分限帳」に見られる【前田大膳家文書】と「五位庄柴野城主 寺島牛介 」家系の【寺島蔵人家文書】!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■【五位庄】の高岡市の山並には、「赤丸城」・「赤丸浅井城」、「柴野城」、「守山城」等の多くの城郭が在った。



「柴野城」と「守山城」の間に在った「頭川村」


●【前田監物】(※人持組3000石)
「安永五年 加賀藩侍分限帳」・「頭川村年貢皆済状」に見られる『加賀藩 三千石 人持組 前田大膳家』
(※加賀藩の年貢は予め通達された「村御印」と言う書状に元着いて年貢を納め、最終的に知行された「給主」から「年貢皆済目録」が通達されて年貢の皆済を確認した。)










■この家系は加賀藩前田家の分家筋の群馬県富岡市「七日市藩」の家系で、『前田大膳家』と呼ばれたが、この系統は時代によって「前田主膳」・「前田監物」等と名乗りを変えている。「安永五年」の「分限帳」には、「人持 浅野川小橋 三千石 前田主膳」と在り、幕末の頃は「前田監物」と名乗っている。万延、文久年間に「前田監物」は「越中の(小矢部市)今石動支配」も勤めて、頭川村の古文書にも登場している。(※頭川村は柴野城と高岡市守山城の中間に在る古い湯治場で、東大寺庄園須加庄が在った地とされる。)








●柴野城城主「寺嶋牛介」の子孫【寺嶋蔵人】
加賀藩の高岡町奉行を勤めた寺島蔵人(1777年、安永6年~1837年10月2日、天保8年9月3日)はこの頃に生まれている。「寺島蔵人」は人持組原元成(1280石)の三男として生まれ、1801年(享和元年)に馬廻組寺島恵和(禄高450石)の末期養子となり、改作奉行、大坂借財仕法主付等を勤め、主に藩の農政、財政方面の実務を歴任した。1824年(文政7年)、12代藩主前田斉広によって教諭方の一員に抜擢されたが、(※教諭方とは斉広が有能な藩士を集めて設置した、藩政改革のための親政機関であった)同年には、前田斉広が急死すると教諭方も解散され、寺島蔵人は斉広亡き後の藩政を巡って藩の重臣と対立して第十三代前田齋泰によって、翌1825年(文政8年)に役職を追われ、1837年(天保8年)には能登島に流刑になり、同年には死去した。

▼「寺島蔵人邸」⇒「寺島蔵人」は画家としても知られ、「王梁元」、「応養」とも号し、秀作を多数残しており、高岡市博物館にも遺作が収蔵されている。「寺島蔵人」は「高岡町奉行」も勤めており、高岡市「大仏寺」には「寺島蔵人」が当初、製作させた(※現在のものは後日の作)と言う梵鐘が在る。現在、「寺島蔵人」の屋敷は金沢市指定史跡として、金沢市大手町に保存されている。
(※寺島本家は岐阜県に移住して、現在は分家の奥様が「寺島蔵人邸」の案内をされている。)

▼「寺島蔵人 家」の先祖は、高岡市柴野に在った「柴野城」の城主「寺島牛介」で 在り、「寺島牛介」は「上杉謙信」が能登七尾城を攻めた後に、「守山城神保氏張」、越中の国人「石黒」・「寺崎」等と共に「上杉謙信家中」に成り、「寺島牛介 」はこの時に、「五位庄」の領主として上杉謙信から「安堵状」を受けている。(※「寺島蔵人邸」所蔵)







■「寺嶋牛介」は、「能登末森城」の戦いでは、甥の「赤丸浅井城城主中山直治」を伴って参戦した。敦賀市博物館には、この戦いに敗れて逃れた赤丸浅井城の「中山家文書」が遺され、子孫は赤丸村、敦賀市に残る。










▼「寺島牛介」はその後、「佐々成政」に従って、守山城の「神保氏張」と共に「能登末森城」で「前田利家軍」と戦ったが、後に、鉄砲の腕前を買われて兄の「小島甚助」と共に加賀藩に士官している。(※「小島甚助」は後に富山市太田で出家した。)
又、「寺島牛介」の一族は、当初、高岡市二塚に知行されたが、庄川の洪水の為に流されて、代わりに「赤丸村」に知行されたと云う。その子孫は「寺島三九郎家」と呼ばれ、現在も本家、分家が赤丸村に残っている。(※「前田土佐守家所蔵文書」)
「赤丸城」の「中山直治」は「寺島牛介」の甥に当たり、「末森城の戦い」に初陣を飾ったものの、「佐々成政」が「豊臣秀吉」が越中呉羽山に参着すると降伏した為に、赤丸村を去って福井県敦賀市に落ち延びて親族の「今井家」に養子に入った。
(※「中山直治家文書」敦賀市博物館所蔵)





■安永七年「赤丸村肝煎 奥田五右衛門」は、加賀藩から交付された「村御印」を紛失して「手鎖、入牢」の処分を受けて、終には亡くなっている。「村御印」はその後も再発行されなかった為に、後にも赤丸村の三役は加賀藩から度々、処分を受けたと十村役杉野家文書は記録している。(※「杉野家文書」福岡町歴史民俗資料館所蔵)

📚⛵ 【義経記】⇒【弁慶】の素性は伊勢神道の【度会一族】(※「群書類従」)!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「勧進帳」のシーンで、弁慶が義経を扇子で打ち据えるシーンが登場する。このシーンは「義経記」に拠れば、「五位庄の二位渡し」での事件とされている。「延喜式内社五位庄総社 赤丸浅井神社」の由緒に拠ると、この「二位渡し」の由来はこの神社が『元正天皇の二宮が創建された』と伝わる事から、この神社の前に在った『阿光ケ淵』に在った小矢部川の渡し場の名前と見られ、その為か、この神社の拝殿には現在も巨大な二枚の「義経と弁慶」を描いた奉納額が掛けられている。














■「群書類從」(※塙保己一編)に記載される『源義経』の忠臣「弁慶」の事。
⇒伊勢神宮外宮の神官「度会ワタライ一族」から出た剛力「弁慶」の記録!!

『弁慶』に就いては熊野別当の湛増の子で、紀伊国出身ともされ、生年も不詳で出自や生い立ちも良く分からないが幼名を「鬼若」と呼んだとされ、身元がはっきりしないとされる。しかし、塙保己一が編纂した「群書類從」には「伊勢神宮 微古館所蔵」とされて、【「弁慶」は伊勢神宮外宮神官家度会一族】として系図にも載せられている。詳しくは分からないものの、「吾妻鏡」の中の「義経都落ち」の時に、義経に従った従者の中に、伊勢の人物で伊勢三郎と言う人物が居る。この人物は【伊勢三郎(伊勢国二見郷の人。伊勢の度会義連(ワタライヨシツラ)と言う伊勢神宮の神主の子。】とされており、明らかに伊勢神宮の度会一族が義経に随行している。この系図では弁慶の父ともされる「度会義連」は登場しないが、「弁慶」の父は「僧 浄智」とされており、明らかに両部神道の「熊野本宮別当」で在った可能性が高い。





■逃亡する「源義経」の一行には、加賀の林氏等の同族とされる「越前斉藤氏」の「藤原友実」が随行していた。
「藤原氏系図」では「藤原利仁将軍」の子供から、「福井斉藤氏」・「加賀林氏」・「加賀富樫氏」・「越中井口氏」等に分かれた。「後鳥羽上皇」が興された「承久の乱」で主役を演じた「越中宮崎氏」も藤原一族とされる。「越中吉岡庄」(※南北朝時代末期から五位庄に改名)の「赤丸浅井城」はこの同族の「越中石黒氏」の居城で在ったと言う。頼朝が初めて吉岡庄に地頭を配置した時には「成佐」と言う地頭で在ったが、この「成佐」が石黒氏の居城の「木舟城」の地域を開発したと石黒家に伝わる事から、「赤丸浅井城」・「木舟城」は地頭代として石黒氏が実際に支配していた可能性が高い。後に、「成佐」は「後白河上皇」の庄園管理が悪いとして「頼朝」から解任されている。これも、現地の武士「石黒氏」の実効支配の為に「成佐」の支配が徹底されなかった為と見られる。⇒「吾妻鏡」)






■「加賀林氏」から分かれた「富樫氏」


■「鎌倉幕府の記録」の「吾妻鏡」
文治元年(1185年)十一月大二日辛巳。豫州已欲赴西國。仍爲令儲乘船。先遣大夫判官友實之處。有庄四郎者〔元与州家人。當時不相從〕今日於途中相逢友實問云。今出行何事哉。友實任實答事由。庄僞示合如元可属与州之趣。友實又稱可傳逹其旨於豫州。相具進行。爰庄忽誅戮廷尉訖。件友實者越前國齋藤一族也。垂髪而候仁和寺宮。首服時属平家。其後向背相從木曾。々々被追討之比。爲豫州家人。遂以如此云々。
【文治元年(1185年)十一月大二日辛巳。予洲(源九郎義経)は、西国(九州)へ行こうとした。(舟の用意の為)先に、家臣の大夫友実を遣わした。庄四郎と言う人が居た。〔この男は元は予洲(義経)の家来だったが今は従っていない。〕今日、途中で友実に出会ったので、友実に問うた。「何事が在ったのか?」友実は事情を答えた。庄は、嘘を言って示し会わせて与州(予洲、伊予守義経)の家来になりたいと云う。友実は「この事を予洲(義経)に伝えよう」と云って(義経の下に)一緒に連れて来た。しかし、庄四郎は忽ちに予洲(義経)に首を刎ねられてしまった。この友実は、実は越前国(福井県)の藤原一族で在る斉藤氏の一族だ。子供の頃には仁和寺宮(後白河上皇の皇子で母は熱田大宮司の娘で義経を支援していた守覚法親王の事)に仕えていた。元服の時には平家に仕え、その後、木曽義仲に従っていたが、木曽義仲が追討されると、予洲(義経)の家人になっていた。その結果はこの有様でした。】

■文治元年(1185)十一月大三日壬午。前備前守行家〔櫻威甲〕伊豫守義經〔赤地錦直垂。萌黄威甲〕等赴西海。先進使者於 仙洞。申云。爲遁鎌倉譴責。零落鎭西。最後雖可參拝。行粧異躰之間。已以首途云々。前中將時實。侍從良成〔義經同母弟。一條大藏卿長成男〕伊豆右衛門尉有綱。堀弥太郎景光。佐藤四郎兵衛尉忠信。伊勢三郎能盛。片岡八郎弘經。弁慶法師已下相從。彼此之勢二百騎歟云々。
【文治元年(1185)十一月大三日壬午。源行家、源義経等が西海に向かった。追従したのは
平時実(平時忠の子)、一条良成(常盤御前と再嫁先一条長成の子供)、源有綱(源頼政の孫で仲綱の子供)、堀景光(藤原一門で斉藤氏)、佐藤忠信(奥州藤原氏の家臣)、伊勢三郎(伊勢国二見郷の人。伊勢の度会義連(ワタライヨシツラ)と言う伊勢神宮の神主の子。)、片岡八郎(頼朝と対立した佐竹一族で平姓良文系)、武蔵坊弁慶(伊勢神宮度会一族)等。この時には兵二百騎と言う。】

この記載に拠ると、兄の「源頼朝」に疎まれた「源義経」は奥州藤原氏、常盤御前の義理の子供の一条良成、平家、源氏、伊勢神宮外宮神官度会神官家等、様々な有縁の人物が付き従って、西海に舟で逃亡するも、風の為に逃げられず、一旦、方向を変えて、北陸道を奥州に向って逃げる事に成った。この逃亡の先には、義経の支援者で、熱田大宮司の縁者で在る「後白河上皇」の皇子の「仁和寺宮守覚法親王」の福井県九頭竜川沿いの庄園や父、後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」等が在った。「吾妻鏡」に拠れば、義経一行が逃亡する時には、事前に法親王に説明もしていた様だ。

(※「源義経」は幼名を牛若、鞍馬寺で遮那王、元服して義経、しかし、頼朝から追われてからは源氏と連なる藤原良経が同名の為に勝手に義行、義顕と改名させられている。「顕」は「明らかに成る」と言う意味から、逃亡している義経を早く見つけ出せと言う意味か? 古くは「罪人改名」と言う習慣が在ったと言う。)

■高野山の近くで、南朝の行宮で在り、周辺で「楠正成」が活躍した「河内国金剛寺」は、「後白河上皇」が創建され、その第二皇子「守覚法親王」が仁和寺御室六代に就任されていた時に仁和寺喜多院末(本寺)に編入され、 興福寺大乗院門跡(本家)が六代に亘り院主職を兼務した。「赤丸浅井神社」を中心とした「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の「後院領」で有り、「守覚法親王」は「源義経」の熱心な支援者であったと云われ、全国の源氏に平家追討の令旨を下した「後白河上皇」の皇子「以仁王」の同母兄に当たる。出家して仁和寺御室第六代と成る。義経が頼朝と不和になり都落ちして各地に潜伏した時には、義経を庇護して頼朝から非難されている。
「義経記」で、「如意の城(五位の城=赤丸浅井城)」の前の「二位の渡し」で平権守が義経を見逃した背景や、後の南北朝時代に、河内金剛寺から重要な観音像が赤丸の「観音寺」(※後に「惣持寺」→「高岡山総持寺」→「衆徳山総持寺」)に伝わったとされるのも「仁和寺」の僧「守覚法親王」と「河内金剛寺」の由緒が背景に在ったものと思われる。何れにも「後白河上皇」が絡んで居るのだ。




■【「後白河上皇」の皇子の『守覚法親王』と「源氏」・「藤原氏」との繋がり!!
「保元の乱」、「平治の乱」に登場した「源義朝」は熱田神宮神官の藤原季範の娘(由良御前)を正室として、側室には常盤御前、三浦義明の娘、波多野義通の妹、遠江国池田宿の遊女が居た。正室「由良御前」の子供として「頼朝」、「坊門姫」が産まれた。常盤御前を母としては、今若、乙若、牛若(源義経)が産まれた。弟の「源範頼」は母を池田宿の遊女として産まれたが、由良御前の実家に当たる熱田神宮神官藤原季成に養育され、 季成の娘の藤原成子は後白河上皇に嫁して守覺法親王・以仁王を生む。以仁王は「平家追討の令旨」を発して木曽義仲や源頼朝は平家追討に出陣している。
(※富山県朝日町には木曽義仲が越中宮崎氏と共に、以仁王の皇子「北陸宮」を迎えて旗印としていた。)
義経の母の常盤御前は奥州藤原氏の政治顧問をしていた「一条(藤原)長成」に嫁いでおり、義経にはこの子息の一条良成が従っていた。この関係から法親王は義経の逃避行に深く関わっていた可能性が高い。この時に、「義経記」の「二位の渡し場」での義経殴打事件が起こった「越中吉岡庄(赤丸村)」は「後白河上皇」の「後院領」と呼ばれた直轄庄園で在り、「後院領」では上皇直属の「院庁」が政務を執り、「院司」と呼ばれる役人が統治して、守護不入の庄園で在った。源頼朝はこの「後院領」にも強引に義経探索を口実に地頭を配置したが、後白河上皇はこの地頭「成佐」が勝手に領地で横取りをしているとして頼朝に替える様に文書を出している。⇒「吾妻鏡」】


■「重文木造千手観音座像」を祀る「衆徳山総持寺」
富山県高岡市関町
(※毎年、11月15日に特別御開帳)
★【越中吉岡庄】は「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園で在ったが、南北朝時代末期に【越中五位庄】に改名されている。南北朝時代には「後鳥羽上皇」の祈願仏の黄金の【千手観音像】が後白河上皇御創建の「河内金剛寺」から赤丸村の【総持寺】に伝えられた。「義経記」は室町時代に書かれたと云われ、その為に「越中吉岡庄」は「越中五位庄」と記載されている。













■江戸時代の伊勢神宮外宮の神官家[度合延経ワタライノブツネ]の著作「神名帳考証」には「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒の検討が掲載されており、 「先代旧事本紀」(※1673年、寛文13年/延宝元年、度合延佳ワタライノブヨシ〈1657年-1714年、 江戸時代前期-中期〉著)の中の「国造本紀」には全国の国造クニツコの祖や越中の国造「高志国造コクノクニツコ」についてや、「物部連」の祖が「越中新川郡」の名前の元に成っている「大新河命」で在る事等が記載される。

■「延喜式内社 五位庄総社 赤丸浅井神社」


■「神名帳考証」(度会延経 著[1657-1714]江戸時代前期-中期の神職)



■「先代旧事本紀」(度会延佳[1615~1690]江戸前期の伊勢外宮の神官。伊勢の人。伊勢神道の中興の祖とされ、伊勢神道から仏教色を排し儒教を導入した。)






🍁🔸伊勢度合神道【度合延経】の著作【神名帳考証】と【度合延佳】の著作【先代旧事記】(※国造本紀)⇒「日本国」の古代を伝える【延喜式内社赤丸浅井神社】 の由緒!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●伊勢神宮外宮神官家[度合延経]の「神名帳考証」に見える「延喜式内社赤丸浅井神社」と「先代旧事本紀」(※1673年、寛文13年/延宝元年、度合延佳 著)の「国造本紀」の記載!!

■古代の各国を統治した「国造 クニツコ」について記載される「国造本紀」




■「高志国」(※越後、越中、能登、加賀、越前)は「高志国造 コシノクニツコ」が統治した。
(※「阿閉臣」は伊賀を本貫地とする古代豪族で孝元天皇の子「北陸道将軍大彦命」の末裔)


■「越中」の「射水郡」は「伊弥頭国造」が統治したとされる。





■江戸時代の学者・神官の「度合延経」は「神名帳考証」の中で滋賀県の琵琶湖周辺に祀られる矢合神社が「八河江比売」を祀っている事から、この「延喜式内社赤丸浅井神社」の「浅井」は琵琶湖周辺に繁栄した近江の浅井氏との関連を仄めかしている。

・「延喜式神名帳」記載の「越中」の延喜式内社「赤丸浅井神社」









・【神名帳考証】(※度合延経)記載の【延喜式内社赤丸浅井神社】に対する考証



■【度合延経系図】 (※伊勢神宮外宮神官家)




🔴【応仁の乱】の渦中に在った【越中国】⇒室町時代の「畠山家の相続問題」と「越中国」!!

2019-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








●「応仁の乱」の直前に「第八代将軍足利義政」は「畠山氏総領」と成っていた「畠山満家」の孫に当たる「畠山義就」から「総領」を取り上げて、同じ「満家」の孫の「政長」に与えた為に「畠山義就」は河内国に逃れた。その時に「足利義政」は『越中国宮川(河)庄』を三河国吉良郡一色(愛知県西尾市)を本貫地とした足利一門の「一色七郎政照」に与えて、早々に任地を守る様に指示している。
この庄園は富山空港近くの富山市秋ケ島等を含む庄園で、「越中蜷川氏」の所領の「蜷川郷」に隣接している。「足利義政」は「政所代蜷川氏」の一族の「政所伊勢氏」の権力に頼ったとされ、「畠山政長」の任国と成った越中国の防護を固める為に足利一門の一色氏を越中に配したものと見られる。
「足利義政」が当初は「畠山義就」を総領に据えたものの、義就が命令に叛く振りをした為に、突然に「畠山政長」を畠山氏総領に指名した事から、「義就」と「政長」が長く畠山家総領の地位を巡って争い、『応仁の乱』の一因と成った。

▼「三代将軍足利義満」の母は「越中蜷川氏」と「宇多天皇」の血を継ぐ事から「越中蜷川氏」は「足利一門」とされ、富山県の「新川郡」と「利波郡」を統治したとされる。この様な背景からも、越中国は室町幕府にとって重要な拠点で在った。後に「足利義材」が越中国放生津に逃れて臨時政権を建てた事も、この様な背景からだと見られる。








▼「足利義満」が室の業子の追善料として「五位庄」を京都の「相国寺」の庄園として寄進した時に、その底地は「畠山満家」に預け置かれた(※「富山県史 中世」)とされる。
この「畠山満家」の「三回忌」は、現在、高岡市関町に在り、「国指定重要文化財木造千手観音像」を祀る「総持寺」が「五位庄赤丸村」から海沿いに移転していた時期に、雅楽の演奏を交えて盛大に執り行われたと言う。(※「大須観音文書」愛知県名古屋市)
⇒この「畠山満家」の家系の相続問題が「応仁の乱」の大きな原因と成っていた。



「五位庄53ヶ村惣社延喜式内社赤丸浅井神社」




■「越中統治絵図」(※「畠山文書」羽曳野市資料叢書)


後白河上皇以来、後醍醐天皇迄天皇家庄園として続いた「越中吉岡庄」は、「足利義満」が南北朝を統一して「五位庄」に改名され、「五位庄」は義満の妻「業子」の追善供養の為に、義満が創建した「臨済宗相国寺」(※塔頭寺院「鹿苑寺舎利殿金閣」)に寄進された。奈良時代の創建とも伝わる吉岡庄の中核施設で在った「赤丸浅井城」には、「室町幕府守護畠山持国」の名前が見られる。(※「越中絵図」畠山文書)

🔽「源氏系図」には「足利義勝」の加冠を行い、「将軍足利義勝」の側近で在った「畠山持国」の記載が在る。












■「畠山満家」の三回忌法要を営んだとされる「衆徳山総持寺」と「国指定重要文化財木造千手観音座像」
この法要は「越中守護畠山持国」が亡き父の「室町幕府管領畠山満家」の三回忌法要で、厳かに雅楽の演奏を交えて執り行われたと云う。





🔻名古屋真福寺大須観音記録(舞楽曼陀羅供養記録)
【射水市新湊博物館主任学芸員松山充宏氏論文 参照】
①富山市日本海文化研究所紀要 第22号 2009年
②砺波市立砺波散村地域研究所研究紀要 第26号 2009年