赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🔨 平成30年10月13日~12 月2日「休館日注意⚠」【第31回特別展 越中福岡の名刀】(宇多派の真髄に迫る)⇒【後醍醐天皇の庄園】 『越中吉岡庄(赤丸村)』に伝わった【宇多刀鍛冶の文化】!》

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸















「出展目録」






◆宇多刀工の工房跡と伝わる赤丸村舞谷の「鍛冶屋町島」は赤丸城(※花山城)の山裾に在った。
(嘗ては、近くに精錬施設の「たたら遺構」も在ったと云う。)










期間 2018.10.13~12.2
場所 福岡歴史民俗資料館
富山県高岡市福岡町下向田字畔ケ谷内15(福岡公園内)
電話 0766-64-5602

交通 あいの風富山鉄道 福岡駅下車 タクシー 約10分
能越自動車道 福岡ICから車で約10分
国道8号線 小矢部市 三井アウトレットから車で約10分

【宇多刀工】は「越中吉岡庄」(福岡町赤丸鍛冶屋町島と伝わる)に大和国宇陀郡から移り住んだ南北朝時代の【宇多国光】を祖として江戸時代迄続いたと言う。その弟子は小矢部川水系に工房を構え、独特の地金を用いたとされる。南北朝時代迄の刀は特に【古宇多】と呼ばれて区分されている。
今回は【宇多国光】・【古宇多】を含み、富山県指定文化財も二振りを含む二十数点の展示。






●「越中吉岡庄 鍛冶屋町島」(※高岡市赤丸鍛冶屋町島)に工房を構えた【宇多刀の特別展示会】が開催される!!

今回は、2017年に続く第二回目になる。二十数点の宇多刀を集めた県内でも有数の「宇多」に焦点を定めた【宇多刀展】になる。
高岡市・小矢部市・赤丸村等の富山県各地に残る隠された名宝の歴史をご確認下さい。

今回は「富山県指定文化財 二点」や「特別保存刀剣 四点」、「宇多刀の祖」とされる「宇多国光」、南北朝時代の「重要保存刀剣 古宇多」等を含む「21点」の刀剣を展示しています。

■10月21日14;00からの学芸員解説には、「宇多刀工」の菩提寺「三光寺」(高岡市柴野十日市)の住職の説明も予定されている。(※「三光寺」は前田家菩提寺の「繁久寺」の末寺で前田利長の妻で織田信長の四女「永姫」(※玉泉院)が建立したと云う寺院。この寺には「宇多本家」の他、多くの「宇田」、「鍛冶」の宇多家の分家の墓が在る。「宇多派」は「宇多天皇を祖とする宇多源氏佐々木氏流」と云われ、後世の佐々成政、豊臣秀吉も同族に当たる。)

・展示される富山県指定文化財「小矢部市福町神明宮」の「宇多国宗」














■「越中吉岡庄」
「保元の乱」で「後白河上皇」が勝利して、藤原氏長者の「藤原頼長」から没官され、上皇の庄園の「後院領」に成った庄園。
その後、この庄園は「後鳥羽上皇」等の上皇庄園として伝領して、南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、伝領した。その後、室町時代には「五位庄」と改名されたが、南北朝を合一させた「宇多天皇」の血筋の「足利義満」が庄園領主と成り、足利家菩提寺の「相国寺」、「等持院」、「等持寺」の庄園として存続した。





















■「宇多刀鍛冶」は宇多天皇を祖とする「宇多源氏佐々木氏流」と云われ、「太平記」の「神内合戦」にもその名前が見られ、同じく宇多源氏佐々木氏流高嶋氏の末裔の「豊臣秀吉の 遺品帳」にも載っている。(※「太閤記」加賀藩小瀬保安著)
室町時代に入ると宇多天皇系の「足利義満」の庄園「五位庄」に成った事も在ってか、「宇多刀鍛冶」も引続き存続した。
越中が「応仁の乱」の中心に成った「畠山氏」の所領で在った事も在って、戦国時代も引続き宇多刀の需要が多かった様だ。














■南北朝時代の大和国宇陀郡は、南朝方の伊勢国司「北畠親房」の支配下に在り、大和国宇陀郡は神武天皇以来崇敬されてきた「八咫烏神社」が鎮座する皇室とも最も密接な地域で在った。
大和国の刀は、平家の重宝「小烏丸」や皇室の重宝等を鍛え、「日本刀」の祖とも云われる「天国 アマノクニ」を祖とすると云われる最も古い歴史を持つ。その為か、古い神社の御神宝等にも「小烏丸」の形式(先が両刃の剣、元が片刃の日本刀)の刀剣が遺されている。








🔴🔨🔪「越中吉岡庄」(赤丸村領鍛冶屋町島)に栄えた【宇多派の刀工】と『豊臣秀吉』、『小山田信茂』!!

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越中吉岡庄(赤丸村領鍛冶屋町島)」に展開したと伝わる「刀工 宇多派」の作品 ⇒「豊臣秀吉」に愛された「宇多国宗」、大河ドラマの「小山田信茂」の「赤雲の太刀」に 使用されていた宇多派初代「宇多国光」の作品!!












■豊臣秀吉の遺品の中に「越中吉岡庄」(※後に五位庄)住民の「宇多国宗」や、富山市五福に住んだ「佐伯則重」の作品が見られる。
又、古書を調べると、越中に古くから関わっていた武田信玄の家臣の「小山田氏」の「小山田信茂」は「名刀 赤雲の太刀」に宇多派初代「宇多国光」の作品を佩用していた事が分かった。宇多派は小矢部川沿いに国吉村、小矢部市等にも工房を構え、江戸の初期迄も続いたと云われ、現在でも相当の数の宇多刀(※南北朝時代の古いものは「古宇多」と云われる。)が取り引きされており、「荒木又エ門」の使用した宇多刀は記念館に展示されていると云う。
(※ 「佐伯則重」は、鎌倉時代末期の越中国婦負郡呉服郷(現在の富山県富山市五福)の刀工。居住地から「呉服郷則重」とも呼ばれる。古刀最上作とされた。他に越中では「松倉郷義弘」が著名で、名工「吉宗」の弟子、又、は「宇多」の弟子とも云われている。「吉宗」の流れは「相州伝」と云われ、関東の相模国をルーツとする事から関東の幕府方、北朝勢力に支持され、「宇多」は「大和伝」と云われ、吉野朝の南朝政権と密接な刀工で在った事から、南北朝時代以降は格の低い刀と鑑定されたと云われる。又、南北朝から江戸時代迄続いた刀工で在り、その刀の数も膨大で在った事から大量に出回る刀として安く見られたと云う。しかし、富山県や県内各地の文化財では、「宇多刀」の刀剣が大変多い。)

・「宇多国光の太刀」

・「古宇多の太刀」



・「甫庵太閤記」の「太閤秀吉遺品帳」
(※「小瀬甫庵著」加賀藩士)













🔴「越中五位庄赤丸村領」の「高田島村」、「三日市村」⇒石黒氏の高田氏所領「高田島村」・宇多刀工の里「三日市村」!!

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「赤丸村領高田島・三日市」の歴史!!

■越中の刀工の「宇多鍛冶」は加賀藩時代の系図、資料には「吉岡庄三日市に住す」とある。これは実は、「赤丸村鍛冶屋町島」の事で在り、現在の高岡市は「加賀藩史観」に基づいて「三日市」としているが、実はこれには歴史的に事情が在る。

■嘗て、赤丸自治会連合会が高岡市の「西山歴史街道」の事業で補助金を受けて赤丸村の観光案内版を建てた。赤丸村の「性宗寺」の後の氷見バイパスの脇(※コンビニ フアミリーマートの向かい側)には巨大な看板を建て、旧赤丸村の青年、老人会がボランテイアで各地に看板を建てた。
「鍛冶屋町島」に「宇多鍛冶」が工房を構えたとされる事から、赤丸城ケ平山の山裾の五位庄用水沿いには、「総持寺跡」、「天景寺跡」と並んで「鍛冶屋町島」の看板が建てられている。嘗ては、「赤丸城ウオーキング」等も高岡市の行事で行われ、西山歴史街道の見学会も度々行われて、「歴史都市高岡」のアピールの為に地元を挙げて協力した。高岡市の事業で何故「吉岡庄三日市」と書かれているのかについては、歴史的に「赤丸村」が加賀藩と「能登末森城の戦い」で戦った時期が在った為に、藩政時代は加賀藩の「御蔵」が在った「三日市」しか地図に表示されていない。高岡市は全て加賀藩の歴史観に基づいて「高岡市史」等を編纂しており、その思想は徳川時代の書籍にも深く反映されており、歪曲、脚色された歴史観が展開されている。













「越中五位庄」の「赤丸村」は藩政時代は「三日市村」・「西村」・「高田島」を含んだと云う。「赤丸村」は全国的に有名な「宇多国光を祖とする宇多刀工の里」で在り、「高田島村」は「越中石黒一族の高田氏の所領」だったと云う。






・「高田島の由緒」は「福光町吉江村の歴史」に記載されている。

■越中山田郷下野村に「高田喜右衛門家」が有り、その過去帳に「木舟之城主石黒左近殿家臣高田孫兵衛由緒」として、『佐々成政に敗れた木舟城主石黒左近は江州(近江)に移り、その後、佐々平左衛門が居城したが、天正十三年には再び石黒左近が木舟城主となった。この時に石黒左近の家臣「高田孫兵衛」は後の赤丸村領高田島の地に居住していた事から現在の「高田島」という地名が残った。』と記されている。「高田喜右衛門」が元和元年(1617年)に開いたのが「下野村」である。
【註】「吉江の昔と今」福光町吉江自治振興会





🔴🔹「越中吉岡庄(赤丸村領鍛冶屋町島)」の「鍛冶屋町島」に移り住んだ「越中刀工 宇多」⇒宇多刀工の説明に出る【越中国宇津】は、「赤丸浅井神社」前の「阿光淵」の事か?

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










【宇多総本家】の末裔と言われる家系は富山県射水市大門町に残っている。又、「宇多」を名乗る一族は富山市や舟橋村等にも残る。「宇多刀工」は、越中利波郡を統治したと云う蜷川氏の本拠地の富山市太田・蜷川郷や周辺の舟橋村等で作刀したと云う。

●全国的には、「宇多刀工は大和国宇陀郡から越中国宇津に移り住んだ」と云う表現が見られる。これは恐らく古くからの国立の神社【国幣小社】で在った「延喜式内社赤丸浅井神社」の前で、古代には「小矢部川」と「庄川」が合流しており、赤丸浅井神社前には広大な「淵」が拡がっていたからだと見られる。この「淵」は「阿光淵」とも、「阿古淵」とも、「吾子淵」とも書かれるが、「阿古淵」の畔に住んだ一族は「阿古下」と呼ばれ、今もこの一族は赤丸村鞍馬寺地内に残り、この一族は赤丸浅井神社の施設も奉納している。又、「吾子淵」は「赤丸浅井神社」を創建された「元正天皇二宮」(※文武天皇二宮の石川朝臣広成・聖武天皇の弟)の事を指すとみられ、「元正天皇」は「宣命」で「聖武天皇」の事を【吾子 ミマシ王→我が子のミマシ王】と呼んでおり、この淵の名前が【吾子淵】と呼ばれたのがその発祥と見られる。この淵は広大で、流れは速く、渦を巻いて流れ、この淵の傍に「大河の畔の神 」の【八河江比売神】が祀られたと云う。この神は近江国の琵琶湖の畔に祀られる近江国の古代氏族「浅井氏」の氏神で在り、伊勢神宮の「度合延経」は「神名帳考証」で【浅井とは浅井神社在れば成り】と記している。




■その様子が残る絵図は石川県立図書館の「森田柿園文庫」に遺されている。(※「浅井神社古墟図」)






(※「系図」等には「吉岡庄三日市」、「五位庄三日市」と記載されるが、加賀藩時代には、嘗て前田利家と戦った「赤丸村」の表示は地図から消されていた。尚、元々、「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室庄園は、室町時代に足利幕府の糧所になると「五位庄」に改名された。)


🔴2017年「第30回特別展 越中福岡の刀匠 宇多派 」(9月23日~12月3日) 【高岡市福岡歴史民俗資料館】

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▼南北朝時代に「越中吉岡庄(赤丸村領鍛冶屋町島)」に大和国宇陀郡から移り住んだと言う「大和伝 宇多派 宇多国光」!!
「宇多派」の刀は南北朝から室町時代に多くが作刀されており、黒い地金を特徴としていると云う。



■宇陀郡は「神武天皇」が大和国に入られた時に着かれた場所で、「ヤタガラス神社」が鎮座しており、「日本刀の祖」とされる「天国 アマノクニ」が工房を構えた。「天国」は平家の重宝「小烏丸 コカラスマル」(「アメノムラクモノツルギ」の写しの両刃の剣を作ったとされ、現在は天皇の護身刀として皇室の重宝)を作刀したとされる伝説上の刀工であった。この宇多刀工集団から出た「宇多国光」が初め加賀に移り、後に「越中吉岡庄(赤丸村鍛冶屋町島)」に住したとされる













(※「系図」には「五位庄三日市」と記載されるが、加賀藩時代には、嘗て前田利家と戦った「赤丸村」の表示はの地図には消されていた。尚、元々、「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室庄園は、室町時代に足利幕府の糧所になると「五位庄」に改名された。)



■大和国宇陀郡は南北朝時代に伊勢国司北畠親房の家臣が所領とした地域で、後醍醐天皇は「ヤタガラス神社」を崇敬されたと言う。「北畠親房」は後醍醐天皇の建武親政の時の重臣であり、後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄」の「浅井城」に興国三年、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が入られた時にも奥州で南朝の為に戦っていた。



■「延喜式 伊勢大神宮」によると、元々は伊勢神宮の神領として「神田卅六町一段」が在り、この中に「大和国宇陀郡二町」が記載される。しかし、この神田は次第に伊勢国司北畠氏に押領されて南北朝時代には「北畠親房」の配下の所領に成っていたと云う。(※「古事類苑 神祇部Ⅲ 大神宮 神領」)

■南北朝の合一を果たした「室町幕府第三代将軍足利義満」は「五位庄」(「吉岡庄」は「五位庄」と宗良親王が改名された。)を自らが創建した「相国寺」の庄園として寄進した。越中五位庄の西山一帯は能登守護「畠山満家」の一族「畠山持国」の所領と成り、政所代の「越中蜷川氏 蜷川新右エ門親当」が実務を執った様だ。







■宇陀郡は織田信長の孫「織田高良」が所領としたが、出奔して一時期、加賀藩に仕官して3000石を知行されたが、父の信雄の死去に伴い加賀藩時代の家臣を連れて宇陀郡に帰り領主と成った。この家臣団は「加賀衆」と呼ばれた。

🔴🔨 越中の名刀のルーツ⇒「越中吉岡庄(赤丸村)」に大和国宇陀郡から移り住んだ『宇多刀工』!!

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●「延喜式内社 八咫烏神社」(奈良県宇陀市、旧県社)と「延喜式内社 赤丸浅井神社」(富山県高岡市、旧郷社)

富山県砺波郡の「越中五位庄」は後白河上皇以来、上皇の庄園「後院領」として後醍醐天皇迄続いた。その間に源平の戦い、南北朝の足利氏と天皇側の争いが起こり、「五位庄の戦い」では南朝の桃井直常が激戦を展開した場所で在り、続いて室町時代には足利将軍家の庄園と成ったが、その守護畠山氏は相続争いから応仁の乱を起こす。「五位庄」では越中の主要な軍隊が常に戦争を起こし、石黒氏等の国人領主達は常に武装する必要に迫られた。「五位庄」は小矢部川流域に在り、刀の材料の「砂鉄」を産した事も在り、必然的に刀工が集まった。「五位庄」には大和国宇陀郡から刀工が移り住んで、南北朝時代から長期間に亘り刀剣を産していた。その場所には「赤丸浅井城」が在り、又、吉岡谷には地頭の館が在ったと言う。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「皇室の主要神」で「大伴氏の祖先神」の「高皇産霊神」を主神とする。神社と刀工は密接で在り、曾て浅井神社にも何振りかの宝剣が奉納されていたと言う。(※「赤丸村古代帳」)


■大和国宇陀郡の「延喜式内社 八咫烏神社」は「続日本紀」にも登場する古い神社で奈良時代創建とされる。 
・【続日本紀 巻三 文武天皇】
《慶雲二年(七〇五年)九月丙戌(九)》○丙戌。置八咫烏社于大倭国宇太郡祭之。

■【八咫烏神社略縁起】
「御祭神 建角身命」(タケツノミノミト)(奈良県宇陀市榛原区高塚字八咫烏42)
 皇祖神武天皇熊野より賊軍を御東征の御砌り、道なき峻険の山々をかきわけ宮居を定めんと、たたなめて伊那佐の山にお登りされんとした時、この土地の豪族で偉丈夫の武角身命が全身真黒い衣をまとい高い木より木へと飛び移って宮居の方に天皇をご先導申し上げた。その姿が恰かも八尺もあるような大烏の様であったので、天皇はその勲功を賞でて八咫烏の称号をお与えになった。慶雲二年九月天武天皇が武角身命を祭神として、当社と指呼の間にある伊那佐山麓のここ高塚(鷹塚)に八咫烏神社を創建して祭る。三足の烏を当社の絵様としまた山城国下加茂神社の旧神宮は鴨県主で祭神武角身命の苗裔である。従って葵を以て両社の神紋とされた由緒はここにある。

要するに、神武天皇が大和へ向かわれていた時に熊野の山で神武天皇を導いたのが八咫烏で在った。しかし、この八咫烏は実際には武角身命と言う人物で木から木へ飛び移り案内した事から「三足の烏」として象徴化されたものだと言う。



■この「建角身命」【※「賀茂建角身命」(カモタツミノミコト)】は日本神話に登場する神で、山城国の賀茂氏(賀茂県主 カモアガタヌシ)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。『新撰姓氏録』によれば、「賀茂建角身命」は神魂命(カミミムスビノミコト)の孫であり、神武天皇の東征の時に、「高皇産霊神タカミウブスナノカミ(高木神)」と「天照大神」の命を受けて日向の峰に天降って大和国の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導して金鵄として勝利に貢献したとされる「神武東征神話」に登場する。





■南北朝時代に「後醍醐天皇」はこの『八咫烏神社』を天皇家の守り神・戦勝祈願の神として崇敬されたと伝え、この神社の在る宇陀郡には「日本刀剣の祖」とされる「天国 アマクニ」が工房を構えて天皇家の三種の神器の「天叢雲剣 アメノムラクモノツルギ」等の皇室祭祀に使用される刀剣を作刀したと伝わる。「天国」は伝説の刀工で、この宇陀郡には数多くの名工が誕生したと言う。

■「後白河上皇」以来、天皇家の「後院領」として「後醍醐天皇」迄伝領した「越中吉岡庄」(※富山県高岡市赤丸周辺)は、「白河上皇」の時代に「上賀茂神社」の庄園として寄進され、南北朝末期の長慶天皇の時代には「賀茂御祖神社(下鴨神社)」の庄園に成っており、「越中吉岡庄」には「上加茂社」が高岡市福岡町加茂村に創建され、「下加茂社」は「赤丸城ケ平山」の麓の「加茂宮地内」に創建された。現在、この「上加茂社」は「鳥倉村八幡宮」に、「下加茂社」は「舞谷村八幡宮」に其々合祀されている。⇒「赤丸村舞谷(福岡町舞谷)」の地名はこの下加茂社に「舞」を奉納する為の「舞屋」(舞楽殿)が在った事から名付けられたと言われ、この舞谷村には明治の初め迄、南朝の武将桃井直常の孫が考案したとされる「曲舞 クセマイ」の「幸若舞」が伝承されてその舞い手の「舞々人」が住んでおり、舞谷村麻畑には「桃井直常」の三男が創建した「西大寺」が在り、この寺は現在、高岡市木町に移り「光釜山西大寺」と称している。この寺の住職は「桃井」を名乗り、本堂には先祖の木像を安置している。足利一族で在った「桃井直常」は足利尊氏の弟に従って尊氏と争い、遂には南朝方として「越中五位庄」の「如意城」(※五位の城=赤丸浅井城)に入り、有名な「五位庄の戦い」で敗れて落ち延びたとされる。
(※「群書類従 花営三代記」塙保己一著)
(※現在、下加茂社の御神輿が高岡市福岡歴史民俗資料館に展示されている。)
(※「越中吉岡庄」は南北朝末期に「五位庄」と改名されたとされる。⇒「東寺百合文書」・「宝永誌」)



■「越中吉岡庄(赤丸村領)」に移り住んだ大和国宇陀郡の刀工「宇多刀工」!!
宇多刀工が何故、「吉岡庄(赤丸村)」に移り住んだかは明確な書物は無いが、当時は「後醍醐天皇」の庄園で在り、後醍醐天皇第八皇子宗良親王が南朝側の将軍として「赤丸浅井城」に入城され、「親王屋敷」が在った「城ケ平山」の麓の「鍛治屋町島」に「宇多刀工の祖の宇多国光」が移り住んだのは、当時の赤丸村は南朝軍の牙城として「越中石黒氏」の軍事拠点として、盛んに大量の武器を必要としたからだろう。幸いに、小矢部川は刀剣の材料の「砂鉄」が大量に採れ、又、鋼鐵の為の微量元素も産したからに他ならない。又、豊富な水と作刀の火力の為の「木材」も西山一帯には豊富で在った。

◆「宇多鍛冶」の場所について
嘗て、赤丸自治会連合会は高岡市の「西山歴史街道」の事業で補助金を受けて赤丸村の観光案内版を建てた。性宗寺の後の氷見バイパスの脇(※コンビニ フアミリーマートの向かい側)には巨大な看板を建て、旧赤丸村の青年、老人会がボランテイアで各地に看板を建てた。今回展示されている「宇多刀工の工房跡」は、案内版に在る「鍛冶屋町島」とされる。「赤丸城ケ平山」の山裾の五位庄用水沿いには、「総持寺跡」、「天景寺跡」と並んで「鍛冶屋町島」の看板が建てられている。嘗ては、「赤丸城ウオーキング」等も高岡市の行事で行われ、「赤丸城」、「延喜式内社赤丸浅井神社」、「浅井城」等の「西山歴史街道」の見学会も度々行われて、「歴史都市高岡」のアピールに地元を挙げて協力した。高岡市の事業や系図等で何故、「吉岡庄三日市」と書かれているのかとの意見が在るが、歴史的に「赤丸村」が加賀藩と戦った時期が在った為に、藩政時代には加賀藩の「御蔵」が在った「赤丸村領」の「三日市」しか地図に表示されず「赤丸村」が記載されていないものがある。因に、小矢部川の官営の「五位の渡し」(※赤丸村向野新村)も、嘗ては「三日市の渡し」と記載されるものもある。










■「宇多刀工」は県内に展開して、江戸初期迄、作刀されて大名や武芸者が愛用したと言う。
古くは「武田24将の一人の小山田氏は初代宇多国光作の赤雲の太刀」を伝え、江戸期の中山安兵衛は宇多刀を愛用し、明治の元勲で越中出身の剣豪斎藤弥九郎の師範代を勤めた木戸孝允は宇多国光の刀を愛用したと言う。
室町時代になると足利義満の縁者として勢力を誇った「越中蜷川氏」が新川郡、利波郡を統治した為に数代続いた「宇多国宗」は新川郡太田保に栄え、その他の系統は小矢部市他の小矢部川流域に繁栄した。






🔴💠 藤原氏の頭領「加賀林氏」と「越中石黒氏」⇒ 「赤丸浅井城」の【石黒光景】と「源平盛衰記」に登場する【六道太郎光景】の検証!!

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●「承久の乱」等で「越中石黒氏」と共に戦った「加賀の林氏」は、 越前に所縁のある「藤原利仁将軍」の末裔と名乗り、「藤原氏」の中から伊勢の「斎宮守」と成って「斎藤」と名乗り、加賀では「加藤」等と成ったと云う。「林氏」は加賀では「富樫」、「石浦」、「倉光」、「松任」、「豊田」、「藤井」、「飯河」、「大桑」、「弘岡」、「佐貫」等の祖先と成り、越中の「井口氏」の祖先と成っている。



■「加賀林氏の頭領の林光家」は白山の僧兵と争いを起こし、僧兵が比叡山を通じて訴えた為に、林氏は捕縛されたと云う。それを助けたのは「越中吉岡庄」の庄園領主で、「藤原氏長者・左大臣」の「藤原頼長」で在ったと「林一族」には掲載されている。「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」は「利波臣の後裔の越中石黒氏が累代、居城とした」と地域史は伝えている。
(※「加賀林系図」石川県史、「林一族」北国新聞、「富山県西礪波郡紀要」西礪波郡役所)







■「越中石黒氏」は「石黒庄を治める為に中央から派遣された藤原氏である」とされるが、「越中石黒系図」では、小矢部市の蓮沼で子宝に恵まれなかった夫婦が祈願した所、「雲の様に子供が表れた」とされ、その子の但し書きに「イ浦」と記載される。この事は金沢の「石浦氏」の子供を養子に迎えた事を意味していると見られる。



■「源平盛衰記」の加賀の「安宅川合戦」の記載では、「加賀林氏」の従者の「六道太郎光弘」が見られ、「剛の者」として暴れ馬に搭乗して戦った事が記載される。
しかし、この「六道氏」は「林系図」や「富樫系図」等にも現れない氏族で、金沢市野町六斗林がこの「六道氏」の故地だと金沢市では伝わっている様だ。



しかし、この「光景」は「越中石黒系図」に「木舟城、福光城」の「石黒光弘」の父として「石黒光景」が登場し、越中では この人物は「赤丸浅井城」を再興した人物とされている。









■「越中石黒氏」は、東大寺大仏造営の時に「米五千碩(石)」を寄進して国司待遇と成った「利波臣志留志」の一族の跡目を継いだとされるが、この一族は熱烈に仏教を信仰する一族で在り、「志留志」の「留志」は古い経典の「留志長者教」(※「今昔物語」)にも「留志」の名前が登場している。
(※一般的には「利波臣志留志」として認識されるが、東大寺の「東大寺修院過去帳」では「利波志留の志 トナミシルノサカン」と読み、「志」は奈良時代の官職の「サカン」であるとしている。)

又、「義経記」に登場する「五位庄」に在った「如意の城」は、石黒氏の居城の「赤丸浅井城」の事だとされ(※「義経記」小学館版、岩波版)、南北朝の戦いで敗れた「石黒重行」は「長谷川大炊介」と名前を変えて尾張国に到り、「如意郷」に「如意城」を構えたとされる。(※「浪合記」加賀藩資料、金沢市立図書館)



■この「石黒氏」は【仏教を猛烈に信仰した一族】と見られ、この【如意】とは【如意宝珠】の事で、釈迦の骨の「仏舎利」を象徴するとされ、寺院の建物にも使用されている(※越中石黒氏所縁の寺院とされる小矢部市岡の「宝性寺」では、「仏舎利」を納めた立派な「仏舎利容器」を保管して、庭には巨大な石造の「如意宝珠」を配している。)

■金沢市の石浦氏の氏神「石浦神社」は兼六園の隣に建つが、その近くに野町六斗林は在る。
石黒=石浦とすれば、加賀林氏のお膝元の「六道氏」の故地「六斗林」が石浦神社にも近く、又、「六道」とは仏教用語でもある事から、先ず、 仏教を猛烈に信仰した「越中石黒氏」の一族の「石黒光景」がこの「六道光景」で在ると推測できるのではないか?

🔴🔸「義経記」記載の「如意城」(五位の城)は石黒氏の居城【赤丸浅井城】!!

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










●越中の米は小矢部川や庄川等の河川を利用した船便で富山湾の伏木河口に運ばれ、海上の船便で福井県の敦賀港に運ばれ、陸路、京都や奈良の都に運ばれた。庄川と小矢部川は、江戸期まで途中で何本も庄川支流が小矢部川と合流しており、古い時代の小矢部川が西山丘陵の真下を流れていた頃は庄川支流が丁度「赤丸浅井神社」の前で合流し「阿古ケ淵」と呼ばれる広い水域を形成していたと云う。

■「赤丸浅井神社創建は元正天皇の二宮」と伝わり、元正天皇はその兄の聖武天皇が即位した時の詔で「吾子美麻斯王 アコミマシオウ」と聖武天皇(首皇子)の事を読んでおり、その弟の二宮(石川朝臣広成)も「吾子 アコ」と呼んでいた可能性が高い。
元正天皇は「天皇の子はすべて親王とする」という勅令を出している。聖武天皇を即位させる為に藤原不比等が陰謀を巡らし、文武天皇妃の石川刀自娘を皇室から排除し、その皇子の石川朝臣広成も臣籍に降下した「藤原氏の貶黜 ヘンチュツ 事件」は有名であった。その為に元正天皇はこの様な勅令を出したものと考えられる。(※「女帝の世紀」仁藤敦史)

■「阿古ケ淵」(「阿古=我が子=吾子」)は「元正天皇二宮創建の、又は住まいした赤丸浅井神社の前の大きな淵」を意味したものと考えられる。赤丸浅井神社の神域には神官の人家と石川家の古い墓だけが今も残されている。近くには「親王塚」と伝わる遺跡も残されている。「阿古ケ淵」は小矢部川、庄川が合流し、流域の東大寺荘園の米が神域の前を通過する地点であり、東大寺を建立した聖武天皇の弟ゆかりの宮「赤丸浅井神社」は特別な神社で有ったものと考えられる。(✳「阿古ケ淵」は「悪王ケ淵」とも呼ばれ龍神伝説にも繋がった様だ。)「赤丸浅井神社」に伝わる所では神社前では身分に係らず必ず「下馬」して拝礼して通過したものだと云う。この「式内社五位庄53村総社赤丸浅井神社」は、東大寺大仏造営の際に米5000石(セキ)を寄進した「利波臣志留志」の末裔の石黒氏が居城とした「赤丸浅井城」の鎮守社で有り、「赤丸浅井城にはその昔、元正天皇の皇子が居城された」と富山県に伝わる「肯構泉達録」という古書にも記載されている。元正天皇は女帝で文武天皇の第二子の石川朝臣広成にとっては叔母に当たる。文武天皇は子供が幼い時に亡くなられた為、一時期はその母親の元明天皇が即位されていたが、その次には文武天皇の姉の元正天皇が即位して、幼い首皇子(後の聖武天皇)と石川朝臣広成の親代わりになったのだ。当時は天皇に即位する年齢が30歳前後と遅かったらしい。

■[赤丸浅井城の歴史]
高岡市に合併する前の西礪波郡役所が発行した「西礪波郡紀要」には、【「浅井城祉」赤丸村に在り。孝霊天皇の第三皇子彦刺方別命の五世の孫礪波臣の姓を賜はり(古事記による)その後裔累世此地方を領して比處に居館せり。礪波臣志留志は聖武天皇の時従五位外に序せられ爾来五位殿の庄園と云う。是より近郷を五位庄と云ひたり。(続日本紀中越史料雑纂)後 花園天皇の頃より石黒光弘の後裔比地に住し 延元中 次郎光景比地に城を築きて南朝の為に謀りしことあり。興国二年宗良親王を比地に奉迎せり。親王の随臣中山氏 累世居城せり(太平記櫻雲記中越武家大系圖による)中山家の系譜によれば浅井城は当家代々の居城なりしが天正五年十六世国松に至り上杉謙信の為に亡ぼされしと。】と記載されている。(※「中山氏」は「上杉謙信」に亡された後、守山城の神保氏治の家臣の高岡柴野城寺嶋牛介の家臣となり、寺嶋牛介が上杉謙信から五位庄安堵状を授けられて上杉家臣団に加わった後は寺嶋氏と縁組みをして上杉家臣に加わった。「金沢寺嶋蔵人邸文書」に寺嶋牛介が上杉謙信から下賜された「五位庄安堵状」が遺されている。又、敦賀市博物館には「中山家文書」が遺され、寺嶋氏との縁組み、佐々成政への臣従についての記載がある。)

■聖武天皇とその弟の赤丸浅井神社創建の石川朝臣広成
聖武天皇(首皇子)の母の宮子は藤原不比等の娘であったが表に出る事を好まず、石川朝臣広成の母で蘇我氏系統の石川刀自郎女は文武天皇の嬪で有ったが藤原不比等の陰謀で廃され、息子の石川朝臣広成と共に臣籍降下させられ、息子は母の系蘇我氏末の「石川」を名乗っている。この時に同じく嬪で有った名門紀氏の紀竃郎女も不貞を理由に廃されて追放されたと云う。石川朝臣広成は後に「高円朝臣広世」と賜姓される。この為「赤丸浅井神社」は「越中吉岡庄」と呼ばれた藤原氏の荘園、天皇家の荘園であった時には、蘇我氏の設立した神社として、後には徳川に敵対した聖護院の系統の神社として圧迫され続けた続けた歴史を持つ。
(※「高円山 タカマドヤマ」は聖武天皇の別荘があり、狩りを楽しんだと言われる。現在は奈良の大文字焼きで「大」の字が送り火として点火される山としても有名だ。聖武天皇亡き後、高円朝臣広世と賜姓されたのは兄の聖武天皇のお気に入りの遺領を石川朝臣広成が継いだ為と思われる。)

▲[越中吉岡庄」は白河天皇の時に上賀茂神社の庄園となり、「吉岡庄」となったが、元々は藤原氏の庄園であり、白河天皇は藤原氏の庄園を没官して神社の庄園とした様だ。その後、藤原摂関家の藤原頼長の庄園となったが「保元の乱」で後白河上皇に敗れて後は後白河上皇の「後院領吉岡庄」となり、後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄皇室の庄園として続いた。
※赤丸浅井神社の伝承では「一条天皇は川原左京(藤原道長か?)を遣わされた。」と伝え、天皇家と藤原氏が浅井神社と関係があった事を窺わせる。藤原道長は一条天皇の伯父。
※「続日本記」、「天皇と藤原氏」馬場朗著 三一書房発行 に詳しく掲載されている。

※「赤丸浅井神社」は正式には「浅井神社」だが、末社に「石堤浅井神社」が有り、吉田神道の画策により三社権現形式の「赤丸浅井神社」から分離され、「石堤浅井神社」こそが延喜式に掲載される神社として長く争ってきた。加賀藩は争論の中で「赤丸浅井神社」を本社として認定し、「石堤浅井神社」の主張を排除してきた。しかし、徳川幕府と手を組み、両部神道の聖護院派を敵視した唯一神道を主張する吉田神道は次々に神官の裁可権を行使して両部神道から神社の分離を画策した。徳川と豊臣の争いの口実になったのが「方広寺」の鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字であったが、この「方広寺」は門跡寺院聖護院の隠居寺で有った為、吉田神道は徳川の意向を得て聖護院派と激しく争った。徳川家康を久能山に葬った時は臨済宗の金地院崇伝の主張した「吉田神道」で行われ、南光坊天海は改めて神号を「権現」として日光東照宮に両部神道(天台宗と神道集合した山王一実神道)で改葬した。「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」も中央の徳川幕府の争いに巻き込まれたとも云える。
●「当ブログでは区別する為に「浅井神社」を本社「赤丸浅井神社」と末社「石堤浅井神社」と記載している。」

■『石黒氏の一部が長谷川と名乗り名古屋に移って「如意郷の如意城」の城主となっていた』と「浪合記」※金沢市立玉川図書館蔵 には記載されている。「石黒氏の歴史の研究」に記載される『越中石黒系図』に拠れば、源平盛衰記に登場して「倶利伽羅谷の戦い」で木曽義仲に付いて戦った有名な「木舟城主石黒光広」の父は「赤丸浅井城主石黒光景」に当たる。又、「加賀林一族」(※北国新聞社刊)に拠れば、「越中石黒氏の一族の加賀林氏は源平の戦いで源義経に従って戦い、戦功を立てた恩賞として加賀、越中を賜った。」とされている。「加賀林氏」は藤原利仁を祖とする「藤原氏」で在り、後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」は、上皇の庄園の「後院領」になる前は「藤原摂関家長者・左大臣藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」で頼長と崇徳上皇が敗れた後に後白河上皇によって没官されている。加賀林氏は石川県鶴来町を本拠にした為に「白山修験道」と争い、終に比叡山の訴えで林家の頭領が捕縛される事態に成った時には、「越中吉岡庄」の領主「左大臣藤原頼長」の口添えで「恩赦」を受けたと云う。加賀林氏は越中石黒氏の一族で在り、藤原氏を名乗っており、藤原頼長の代官として「越中吉岡庄」を守っていたのは「石黒氏」だった事にも起因するだろう。この「後白河上皇」は内心、源義経を応援していた様で、上皇の皇子の「守覚法親王」は源義朝の妻の実家の熱田大宮司家を通じて源義経の弟の範頼と繋がる人物で在った事から、密かに源義経を支援していたと云う。この様に「越中吉岡庄」は「天皇家」、「藤原氏」、「源氏」と密接な庄園と成り、様々な歴史の表舞台に成った。
▼藤原範頼;藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟[勘解由丞季成(藤原季成)]が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育されて「蒲冠者」と呼ばれる 。
範頼の兄の源頼朝は,1147年(久安3年)に源義朝の三男として現在の熱田区旗屋で生まれた。母 は,熱田大宮司の藤原季範(としのり)の娘「由良御前」である。 一方、源範頼の母は遊女で在ったとされる。
⇒源義経の義弟の源範頼は藤原季成に養育され、その娘は後白河上皇に嫁して守覺法親王を生む。この関係があったからか、守覺法親王は背後で源義経が奥州に落ち延びた時に支援したとされる。守覺法親王は福井県の「久河北荘」(旧吉田郡河合村・森田村)を所有したが、この庄園は九頭竜川以北の大荘園で古代の足羽郡川合郷の名を継いで「河合荘」とも言われた。藤原頼長の縁者の仁和寺相応院の僧「隆憲」が仁和寺御室の守覚法親王に寄進した所領がその前身となり建久元年に見作田(現在耕作される田。見=現)60町が二品守覚法親王「親王家領」となった。この庄園は義経が平泉寺に参詣する時の安全な経由地であったと思われる。


■これ等の事から、源義経が奥州下りの際に船に乗ろうとして弁慶に打擲された有名な「勧進帳」の場面の原点となっている「義経記」の「如意の城」とは「赤丸浅井城」の事であり、「二位の渡し」は正にこの赤丸浅井神社前の「阿古ケ淵」に在った船着き場の事で在った事が判る。「如意の城」とは「東大寺大仏造営に密接な元正天皇二宮と大仏造営の為に巨額の寄進をした利波臣志留志(石黒氏の祖)」の関係する城で有り、「赤丸浅井神社」の周辺には「浅井神社48坊」と言われた「寺院群」も在ったと伝わる。又、浅井神社前の合流地点から下流は「射水川」と呼び、その船下りルートの事を「六渡寺川船渡し」と呼んだ事が古絵図から判る。
※「如意」とは仏像が捧げる「如意宝珠」を意味し、「仏陀の骨━仏舎利」を象徴する。
※「義経記」(岩波書店版、小学館版には「如意の城」は「五位の城」、「二位の渡し」は「五位の渡し」を指すと解説されている。)
※「福岡町史」「浅井神社三社誌」

■庄川は「雄神川」といわれて流れが速かったため、流れが緩やかな「女神川」とも呼ばれた小矢部川の船運で主に福光町辺りから運び出されていた様だ。その為、東大寺荘園も水運の便利な位置に開発されたと見られ、往時は庄川から何本も分岐して小矢部川に向かって流れる支流が有り、網の目の様に広がったこの水運が東大寺の荘園開発には重要だった。※「赤丸浅井神社」には出雲系の河川、農耕の神の「八河江媛神」と神系の皇室の祖先神で神々を地上に遣わした時の指令神である「高皇産霊神」を祀っており、小矢部川沿岸に立地した事から小矢部川を「女神川」と呼び、「雄神川」(庄川)の上流の庄川町には「延喜式内社雄神神社」が祀られており、火の神・農耕の神、滝の神・河の神の「高竃神タカカマドノカミ、 闇竃神ヤミカマドノカミ、瀬織津姫神セオリツヒメノカミ」を祭神としている事から「雄神川」と呼んだとも伝わる。平成26年の正倉院展に出品された「越中国射水郡くぼ田野地図」はこの二本の大河の小矢部川と庄川に挟まれた地域である。




💠🔹【「義経記」の越中如意城と尾張如意城】『尾張如意城』の城主、越中石黒氏の末裔「長谷川氏」の墓石群の紹介。⇒歴史家「橋場日月氏」のツイートより。

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●「義経記」には「越中五位庄」の「如意城」が登場する。又、「尾張国如意郷」にも「如意城」が在った。この何れも、「越中利波郡」の「石黒氏」の居城で在った。
「越中石黒氏」の「石黒重行」は南北朝時代に「後醍醐天皇の庄園越中吉岡庄」を拠点として活躍したが、「五位庄の戦い」(※「群書類従」)等で南朝軍の「桃井直常」等が足利軍に敗れた為に奥州に落ち延び、やがて、「長谷川大炊介」と名前を変え、「塩釜神社」を尾張国に勘請して「如意郷」に「如意城」を開いたと言う。

▼歴史家の橋場日月氏が、「越中石黒氏」の末裔、「尾張石黒氏」・「長谷川氏」の尾張国「如意城」についてツイートして、その領主達の「墓石群」について具体的に調査して写真等をアップされている。

(Hp)「如意城主 石黒氏の決断」
http://best-times.jp/articles/-/7020

●「越中石黒氏」と【如意城】
石黒氏の子孫「長谷川氏」が尾張国で開いた『尾張如意郷』の『如意城』と、【義経記】の【「越中五位庄」の『如意の城を後にして・・・』】の記載についての説明。










■嘗ては、「延喜式内社赤丸浅井神社」の前で小矢部川と庄川が合流して「阿光ケ淵」と言う難所に成っており、この神社野尻前の「二位の渡し」から舟で対岸の小矢部川河口の「六渡寺村」の舟乗場で降りたとされる。(※「越中浅井神社古墟図」石川県立図書館、森田文庫)




■【義経記】には「五位庄」の「二位の渡し」の事件として、役人に疑われた「弁慶」が「義経」を扇子でさんざん打ち据えて疑いを晴らす場面が在り、このシーンが【勧進帳】で「弁慶」が「義経」を金剛杖で殴打するシーンに脚色されて、有名な【勧進帳】の【安宅】の場面に成っている。
室町時代に「越中石黒氏」と縁組もしていた加賀藤原氏の雄の「加賀林氏」は、【承久の乱】で「越中吉岡庄」の領主の【後鳥羽上皇】に従って戦い、敗れた為に凋落して、代わりに分家筋で「承久の乱」で「北条軍」に加勢した【加賀富樫氏】が室町幕府重臣として勢力を持ち、南朝の庄園で在った「越中五位庄」(※旧越中吉岡庄)を「足利義満」が「相国寺」(※塔頭寺院「金閣舎利殿」)に室の菩提の為に寄進した時には「足利義満」の重臣として記録に登場している。「足利義満」が「相国寺」に「七重の塔」を建てた時の「相国寺塔供養記」には「加賀富樫氏」が重臣として記録されている。

・【源平盛衰記】に登場する「高岡市の守山」、徳大寺家庄園「般若野庄」⇒「木曽義仲」は、「後白河上皇」の「後院領」の『越中吉岡庄』(※現在の赤丸浅井神社の周辺に在った庄園)を憚って、この庄園を迂回して「般若野庄」を経由し、決戦の場の小矢部市【利波山】(※倶利伽羅山)に向かっている。



■岩波版、小学館版の『義経記』には、【「如意の城」とは「五位の城」の事】と解説しているが、この「五位の城」とは「石黒光景」(※木舟城の石黒光弘の父であり、源平盛衰記には二人が記載されている。)の居城の【赤丸浅井城】(※「肯搆泉達録」)の事で在る。(※「石黒氏の歴史の研究」)
南北朝時代迄「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室庄園は南北朝時代末期に「越中五位庄」と改名され、室町幕府第三代将軍「足利義満」の時代から、足利家の菩提寺の糧所に成った。
「義経記」が南北朝時代に成立したとされる所から、その中では「越中吉岡庄」が「越中五位庄」として登場し、実際野尻室町時代の「越中五位庄」は南北朝時代とは比較できない位に範囲が広く成って、ほぼ、「越中利波郡」の全域が「五位庄」と成り、その庄園は小矢部川流域の「五位の西庄」と庄川流域の「五位の東庄」に分かれていた様だ。「東寺百合文書」には、現在の高岡市中田から砺波市にかけて広がっていた徳大寺家の庄園「般若野尻庄」の中に「五位の東庄」を含んでいた事が記載されている。














■『義経記』の【二位渡し】とは、『赤丸浅井神社』前に在った舟乗場の事で在り、この【二位の渡し】から小矢部川河口の『六渡寺村の渡し』(※「守山」や「二上」の対岸に在る。)迄の事を「如意の渡し」と呼んだ。
(※後には「六渡寺の渡し」と呼んでいる。)



🔴🔹 【越中の宇多刀工と富山県西部の「たたら遺構」】南北朝時代から江戸時代迄続いたと云う「宇多刀」の原料の生産!!

2018-10-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■福光町の「医王山」、「刀利村」には嘗て、大規模な「金、銀、鉄、鉛」等の鉱山が在った。「刀利村」は、加賀藩時代には、五箇山と金沢市土清水に在った加賀藩の煙硝蔵を繋ぐ「煙硝の道」の中継点として、又、豊富な「鉱石」・「薬剤」・「薬草」等の産地として栄えた。
(※「刀利村」は、現在は、昭和33年に着工した小矢部川原流の「刀利ダム」の下に水没している。)




















■砺波市教育委員会には、『増山城』の周辺の遺跡「増山たたら遺跡」、「高沢島遺跡Ⅱ」の詳しい調査資料が保存されている。
(※「たたら研究会報」(※小杉図書館蔵)では、越中西部の「たたら遺構」はこの「増山たたら遺跡」、「高沢島遺跡Ⅱ」しか発掘されていないと云う。 )

■「増山たたら遺跡」・「高沢島遺跡Ⅱのたたら遺構」は砺波市の「増山城」の周辺に四ケ所ある様だが、更にその周辺には数多くの『炭焼き窯』の遺構が在り、発掘物から、奈良時代の遺構と見られると云う。これだけ大規模な「たたら遺構」が在ると云う事は、古くから利波郡を支配した越中石黒氏(※利波臣)の軍事力の背景とも深い関係があると見られる。福光城を居城とした「越中石黒氏」は、南砺市の「医王山」、「刀利村」に大規模な鉱山を持ち、近くの緩やかな勾配の山で在る砺波市の「増山」で「たたら」を使用して鉄を生産していた歴史が考えられ、砺波市教育委員会では、この「たたら遺構」が増山城の周辺に多く在った「東大寺庄園」とも密接で在ったのではないかと云う。石黒氏の祖先と云われる「利波臣」の「志留志 シルノサカン」(※末尾の「志サカン」は当時の下級官職)は、「聖武天皇」が発願された「東大寺大仏の造営」に際して、全寄附者筆頭に記載される位の「米五千石を寄進」(※「東大寺要録」、「続日本紀」)して、代々、地方官職の「郡司」にしか成れなかった「志留志」は、「利波臣」の中で唯一、「国司」待遇の「越中員外介」に任じられている。又、利波郡の各地に、自らも「東大寺庄園」を新に開発しており、奈良正倉院に伝わる「東大寺庄園図」には『利波臣志留志』のサインが残されている。この「増山たたら遺構」が奈良時代のものとすれば、これだけの財政力を持った者は「利波臣」以外には無い。「赤丸浅井城」は、「利波臣の末裔の石黒氏が累代、居城にした」(※「富山県西礪波郡紀要録」)と伝えられ、「増山遺跡」近くの「東大寺庄園石粟庄図」には、「延喜式内社赤丸浅井神社」に「神田一段」を寄進していた事が記載される。この事からも、これ等の「増山たたら遺構」は「越中石黒氏」とは密接な遺構と見られ、この文化や技術が代々、石黒氏に伝えられて強大な軍事力の背景と成り、朝廷と幕府軍が戦火を交わした南北朝時代から室町時代に於いても、何れかの地域でこの「砂鉄からの玉鋼生産」の文化は残されていたと見られる。
この「たたら遺構」は詳細が分からない為、南北朝時代にも在ったかは不明だが、「増山城」は「五位庄の戦い」(※「花営三代記」)で行方不明に成った南朝の武将「桃井直常」の城で在った事から、南北朝時代にもここに「たたら」が在って、鉄を生産していた可能性が有る。因みに、高岡市の「守山城」も「桃井直常の築城」と云われ、「桃井直常は五位庄の戦いで行方不明に成った」(※「花営三代記」群書累従)とされる事から、南朝の「後醍醐天皇」の庄園で在った「越中吉岡庄」の回りを南朝軍が取囲み、守護していた様子が窺われる。
南朝の後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」の『赤丸村領三日市』に大和国宇陀郡から移り住んだ「宇多」の「小鍛冶」(※刀工)が、この小矢部川水系産の「玉鋼」を刀剣製造の原料として、室町時代には小矢部川流域の福野町、小矢部市等に展開したと見られる。『宇多刀』は明らかに微量の元素を含むと見られ、相州伝の『越中 郷義弘』や『越中佐伯則重』の刀とは明らかにその地金の色が異なる様で地肌が黒く光っている。「増山城遺跡」の周辺に多くの「炭焼き遺構」も拡がっており、刀剣製造に必須の「松炭」の製造を行っていた事は確実だ。
『地球化学図』によれば、富山市や魚津市周辺の砂鉄量に比べて、小矢部川水系に在る南砺市福光町の『医王山』や『刀利村』の『砂鉄』の量は富山県では断凸に多い事が分かる。加賀藩の統治時代に、鉱山が在った「刀利村」には『鍛冶炭』が小物成(※税金)として課せられていた記録が在る。

■「越中石黒氏」が、南北朝時代には「福光城」、「木舟城」、「赤丸浅井城」を石黒氏が拠点としていた事は確実で、「源平盛衰記」にも登場する、後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」を守った赤丸浅井城の城主は「木舟城城主石黒光弘」の父の「石黒光景」であり、南北朝時代には「後醍醐天皇第八皇子宗良親王」を「赤丸浅井城」に迎えたと言う「石黒重行」はその後、戦いに敗れて奥州に下り、後に、「長谷川大炊介」と名を変えて尾張国に来たり、「如意郷」を開いて「如意城」を築いたと云う。この子孫は織田家や豊臣、徳川の臣下に成って残っている。
(※「浪合記」、「湯原家記」加賀藩所蔵記録の松雲公採集録所載)













■『赤丸村』の『浅井城』には『後醍醐天皇第八皇子』の『宗良親王』が入城されて、『赤丸城ケ平山』には『宗良親王』の御座所として『親王屋敷』が設けられた。(※「舞谷村の昔」)
又、その近くには『下鴨神社』の跡地や、現在、高岡市関町に在る「総持寺」の旧地等が残されている。






🌸🏯🐎「飯尾宗祇」は「越中射水臣」の子孫「飯尾氏」?⇒ 「飯尾宗祇の高弟 蜷川新右衛門親当」と「越中蜷川氏」の「五位庄」の統治。

2018-10-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「越中射水臣」の末裔「飯尾宗祇」
越中射水臣は都に出て算博士三善氏の弟子になったが、やがて養子と成る。三善一族は鎌倉幕府で要職に就き、その一族から「飯尾氏」が分かれた。
「宗祇」は若くして「相国寺」で出家してやがて「連歌」の巨星と成る。越中砺波郡を統治したとされる「越中蜷川氏」の「蜷川新右エ門親当」は「宗祇」の高弟で在り、応仁の乱で焼けた相国寺を離れて畠山氏の所領で蜷川氏が統治していた「越中五位庄」を訪れて1年余り滞在して幾つかの連歌を遺している。

【里の名のこんかきくけこごえの庄】宗祇











■室町時代足利義満は「五位庄」を「相国寺」(※金閣寺)に寄進して縁者の「越中蜷川氏」に統治させたと云う。(※「蜷川村の郷土史」)
「蜷川家文書」(※東京大学資料編纂所)には越中統治時代の古文書が残っている。「一休さん」で有名な「蜷川新右衛門親当」は連歌の「宗祇」の高弟子で有り、その時代に宗祇が五位庄に滞在した記録が残る。

■「赤丸尋常小学校」に「永久保存」とされていた「赤丸村郷土調査」に拠れば、「明治二年に十村役五十嵐豊生が調査書上げし(内容について)、明治六年四月に親王塚に御札を掲げた」と云う。それに拠ると、
【後醍醐天皇第八の皇子八の宮殿下の塚なりと傳承す。永正拾 癸酉 年(今より四百年前)五位庄加茂村某の記せし古文書を得たるにより其全文を掲ぐ 腐食せる所多し
 「抑五位庄名具には五位吉岡の庄と號す 蓋し吉岡の本名委敷は東鑑にあり 往昔八の宮御遷幸有りてより以来五位吉岡の庄と申と續けたり 八の宮の事は小境大榮寺等の縁起等に有りといふ 然るに其昔へ紀州飯尾氏の一子出家して種玉庵宗祇法師と號す 常に風雅を宗とし多嗜事和歌又連歌にあり 行く名山田地を訪ねて〇〇小屋○○、就中文正應仁の頃立山剣峯遊歴の序て片々乎(*かたかたかな)として高錫を此庄にとばして民家に入り地名をとふに 主の男申しけるは是はこれ五位庄加茂村なりと 法師に曰く五位の庄名如何なるなる事の申あへけるに由来良久し 往昔八の宮當所へ御遷幸ましまして里の名に五位を許すとの仰せとありといふ 尚法師の問ひ申されけるは加茂村の儀如何と 主の曰く此加茂村は治る御代の昔の頃加茂の大社を此所に清し奉り分けて上下とし○○○の桂馬、地をひらき葵の祭都にも遠からず諸事面白待人に嗚呼人心平かならずして四海溲(*そう--細長く水をたらしてぬらす)治まらず終に兵火の属氏を印されて口惜しくも諸々の旧跡は只村名にのみ残されりといふ 法師頭をたれて言葉なし 久しくして出でゝ庭に立って且神明の旧跡を訪へば神木枝をれて春尚寒く清ふして金龍躍○嗚呼四神相應の地にも相近く風光盡すとて錫を○○の古木にかけて一夜神號を呪して○さる事尊し 然る夜浅ふして○○のこかげの音しければ里の名のこんかきくけこ五位庄といふ發句とならん 口すさみ宣へるに云々 永正拾 癸酉 年暮春  五位庄加茂村 某】


■諸国を遍歴して連歌を広めた飯尾宗祇は五位庄に一年余り滞在して五位庄を愛して兵火にかかった旧跡を愛惜して上掲の歌を吟じた。上向田には宗祇を慕って塚が建てられ「宗祇塚」と呼ぶ。
今も赤丸を中心として五位庄には連歌の前句を競う「舞句」という文芸が伝わり、各神社には奉納の掲額が掲げられている。
連歌は元々、神仏に対する法楽であり、連歌の場には本尊として天神や名号が掛けられており、連歌は仏の前で読経する事と同一の機能を有していた。織田信長を討つ前に明智光秀が連歌の会を開き「時は今 天の下知る五月かな」という発句を読んだのは余りにも有名。連歌は後に60日に一度巡ってくる干支が庚申の夜に寝ずに過ごす習慣の「庚申待ち」や、二十三夜の遅い月の出を待つ「月待ち」という習俗と繋がり、その晩を連歌や香や寺院の法会で過ごす習慣となり、多くの人達が集まって夜を過ごす習慣が広がったと云う。地方から広がったこの習慣は京都に流入し、知識人や富裕層の習慣になったと云う。
赤丸の浅井神社にも夜遅く団体で参拝する習慣が有り、浅井神社宮司はこれを「十六夜参り」と呼んでいたと云う。
(参考)「宗良親王の塚」と云われている場所は全国に何か所か有る。歴史書にはこの「親王塚」は浅井神社を創建されたと伝わる「元正帝二宮の塚ではないかと思われる」と記載されるものもある。二宮とは文武天皇の第二子で叔母の元正天皇の時代に東国33か国の統治を任せられたと浅井神社由緒に伝わる石川朝臣広成を指す。この一族と思われる石川一族の墓のみが延喜式内社赤丸浅井神社の神域に神職川人家と一緒に残されている。又、赤丸村の赤丸城の麓には「八の宮屋敷跡」と伝承されている場所も有り、これは「宗良親王」の邸跡と推定され、その付近の「極楽谷」には宗良親王が創建された「極楽寺」が在ったと伝わる。(※「越中宮極楽寺由緒」)




■「五位庄」に連歌の「宗祇」が滞在した背景
越中蜷川郷(富山市蜷川)に発祥したとされる蜷川氏は、室町幕府の重臣として射水郡、砺波郡を所領としたと云う。「砺波郡五位庄赤丸村」には「五位庄53ケ村総社 延喜式内社赤丸浅井神社」が在り、「赤丸浅井神社」「川人山鞍馬寺」で蜷川郷に最勝寺を開いた「亀阜豊寿」が赤丸住藤原真家の父「岩松氏」の十三回忌法要を営んだ記録が在る。(※「富山県史 中世」)
現在も「赤丸浅井神社」や寺には古くから奉納されて来た「連歌」の「舞句」と呼ばれる上、下の句を記した「掲額」が掛けられており、連歌の文化を今に伝えている。
(※福岡町加茂村には連歌の石碑が保管されている。)

【智蘊(チウン);(生年不詳~文安5年5月12日(1448年6月13日))は、室町時代中期の幕府官僚、連歌師。俗名は蜷川親当(ニナガワチカマサ)、通称新右衛門、法名は「五峰」という。
室町幕府の政所代を世襲する蜷川氏の出身で、蜷川親俊の次子。子に親元、岩松明純室がいる。一休宗純との親交により広く知られる。応安(およそ1370年代前半)の頃まで越中国太田保に在った。足利義教の政所代を務めたが、義教の死後出家、智蘊と号した。(足利義教は赤松氏に暗殺され、赤松の子孫は羽咋郡辺りの「加賀半国」の領主となる。)
和歌を「正徹」に学ぶ。正徹の『正徹物語』下巻「清巌茶話」は彼の聞書きとされている。
連歌では、1433年(永享5年)の「永享五年北野社一日一万句連歌」を初出として、多くの連歌会に参加。宗砌と共に連歌中興の祖と呼ばれた。連歌集に『親当句集』があるほか、『竹林抄』『新撰菟玖波集』に入集している。「宗祇」が選んだ連歌七賢の一人。
子の「親元」が記した『親元日記』には、智蘊と一休宗純の親交が記録されている。なお智蘊は、アニメ『一休さん』に登場する蜷川新右衛門のモデルとなったが、実際の一休と交流があったのは出家後の晩年である。
墓所は宮道氏の京都真如堂(京都市左京区浄土寺真如町)に、墓碑は蜷川氏の菩提寺である最勝寺(富山県富山市蜷川)にある。

(※「太田保」;太田保内蜷川郷3か村を含む136ケ村で、ほぼ旧の富山藩領が該当する。鎌倉時代の評定衆に越中三善系太田氏が居る。又、同リストには高岡市総持寺の千手観音像の勧進をした「斎藤長定入道藤原浄円」の名前も見られる。)

🔴🔷 【蜷川新右衛門】越中の知られざる歴史!!⇒「 越中蜷川郷」に起こった『蜷川一族』 。 東京大学資料編纂所、国立国会図書館蔵書に見られる「越中蜷川氏」と「五位庄」。

2018-10-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「一休さんの物語」に登場する「蜷川新右エ門」の一族の「越中蜷川氏」は「第三代室町幕府将軍足利義満の母の月海夫人」を輩出して、越中の砺波郡、新川郡を知行されていた。足利義満は「砺波郡五位庄」を足利家菩提寺の「相国寺」に寄進して、その後も「等持院」・「等持寺」に寄進された。蜷川氏菩提寺の富山市「最勝寺」の住職の亀阜豊寿は赤丸村の川人山鞍馬寺、赤丸浅井神社で藤原直家の父の法要を営んでいる。(※「富山県史」)























「越中五位庄」は室町時代には郷社の赤丸浅井神社から遥か離れた「福野町野尻」に在った「野尻郷」(※河上)迄も含んでいたとされる。(※「東寺百合文書やなた某書状案」)




■南北朝末期の南朝長慶天皇の時代には「越中五位庄」は「賀茂御祖神社領」(※「京都下鴨神社」)の庄園に成っていた。(※「大日本史料 柳原家文書」)




①蜷川七郎親直の代に越中の砺波郡、新川郡を知行された。⇒「親直は治承四年、源頼朝の伊豆での挙兵に参戦して軍効」
②室町幕府三代将軍足利義満の母は蜷川月海夫人で在った。⇒足利義満は砺波郡五位庄を京都の相国寺に寄進した。(※「富山県史 中世」)⇒蜷川氏から歴代の相国寺住持を輩出している。
③富山市「蜷川郷」に「最勝寺」を建立した。⇒最勝寺開基の「亀阜豊寿」は、赤丸村の「川人山鞍馬寺、延喜式内社赤丸浅井神社で赤丸住藤原直家の父の法要を営んだ」(※「富山県史 中世」)
④「蜷川新右エ門親当」は室町幕府の政所代に就任して、将軍足利義満の信任が厚かった。
後小松天皇の皇子の一休禅師との歌問答は有名。
⑤蜷川氏の祖の「宮道氏」は仏教導入に反対して滅ぼされた「物部守屋」の末裔。

🔘「蜷川氏」の祖の「宮道氏」は『物部氏』⇒何故、砺波と射水郡の境の高岡市海老坂村に「物部神社」が在るのか?
🔘何故、五位庄は相国寺に寄進されたか?
⇒「五位庄」は、応永十二年(一四〇五年)足利義満は室日野業子の 追善料として京都相国寺(金閣寺)に寄贈した。
【※日野業子ナリコ;正平6年/観応2年(1351年)~ 応永12年7月11日(1405年8月5日)  室町幕府3代将軍足利義満御台所。父は日野時光。位階は従一位。准后。宮中に影響力を持っていた叔母の日野宣子が仲介し、1375年に足利義満と結婚。義満が京都に「花の御所」を造営し共に移る。業子は和歌に秀でて義満の寵愛を受け、義満の計らいで従一位・准后となった。2人の間に子は無し。1405年に55歳で死去。法名は定心院。】
🔘五位庄は応永十九年に斯波家領。⇒長祿三年(1460年)には「等持寺」、「等持院」の庄園になっている。(※「蔭涼軒日祿」)
【蔭涼軒】;京都五山の一つの相国寺山内の塔頭寺院の「鹿苑院」の南坊にあった寮舎で創建年は不明。「室町幕府三代将軍足利義満」が鹿苑院内に設けた寮舎に将軍義持が「蔭涼軒」と名付けた。1425年(応永32年)に相国寺が炎上し蔭涼軒も焼失。応永39年(永享11年)に将軍義教が再建したが応仁の乱に再び焼失して以後再建はされなかった。「蔭涼軒」は将軍の小御所的なもので,軒主は将軍で、留守職として近侍の禅僧が充てられた。「相国寺」の歴代の住職は越中蜷川氏から輩出している。蜷川氏の祖先は物部氏・宮道氏。蜷川氏は足利義満の近臣として政所代の蜷川新右衛門が砺波郡を統治したとされる。(※「世界大百科辞典」等参照)



🔘室町時代の砺波郡・新川郡は管領畠山氏が守護で、蜷川氏が政所代として実権を持っていたという。
「室町時代の越中統治絵図」


🔴🏯🐎 【赤丸浅井城と越中石黒氏】「源平盛衰記」の「安宅合戦」と、「越中石黒氏」の「光景」と「光弘」⇒『源平盛衰記』と『浮世絵 安宅合戦』(※歌川國芳作)

2018-10-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」(赤丸村)の「浅井城」・「延喜式内社赤丸浅井神社」所在地





■「源平盛衰記」の「倶利伽羅合戦」・「安宅合戦」


■「安宅合戦」では加賀の「林六郎」とその一族で越中の「石黒太郎光弘」等、北陸の諸將は源氏の「木曽義仲軍」の主力として戦い、「石黒光弘」は石川県小松市梯川の「安宅合戦」で矢を受けた。越中の石黒太郎兄弟が渚に乗り入れて奮戦し、石黒太郎光弘は弟の福満(フクミツ)五郎に助けられて、この後、越中に帰って養生し、後の「倶利伽羅合戦」に参加して剛勇をうたわれた。









■『源平盛衰記』には、越中の諸將の活躍がイキイキと描かれており、「歌川國芳作」の「安宅合戦」の浮世絵には、「石黒太郎光弘」が矢を受けて倒れたシーンを描いている。

■『源平盛衰記』には「加賀の林六郎」に従った「六道寺太郎光景」が記載されている。この人物は林氏には見られず、「光景」は「赤丸浅井城城主石黒光景」として「越中石黒氏」の中に見られる。金沢の「六斗林」と言う地域は「六道光景」が住まいした地域と伝わるものの、越中には小矢部川河口には「六渡寺村・六道寺村」が在り、鎌倉時代には「越中石黒氏」が「二上庄」の統治に当たっていたとの記録が在り、この「六道光景」は「赤丸浅井城」の「石黒光景」とすれば、話は通じる。「越中石黒系図」に「イ浦」と注意書がある部分は、加賀林一族の「石浦氏」を指すものと見られ、金沢の六斗林(※金沢市野町)と石浦氏の氏神「石浦神社」(※兼六園隣地)とは、地域的にも近い。「石浦氏は越中蓮沼明神に祈願した所、煙と成って出現した」等と言う記載は、石黒氏は元々、「加賀の石浦氏」で在り、「利波臣」が郡司として統治していた「石黒庄」を加賀から進出して占領したものではないか?
その証拠が、「利波臣」は「武内宿弥」を祖先とするのに対し、「藤原氏」は「藤原不比等」を祖先とする事から、「石黒氏」が「利波臣」の名跡を継いだと言うのはどうも不自然だ。

⇒「富山県西礪波郡紀要」等の越中の地元の古書には「赤丸浅井城の城主石黒光景は石黒太郎の後裔」としているが、「越中石黒系図」では「石黒光景は石黒光弘の父」と成っている。
「赤丸浅井城」は地元の古書では「東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進した越中の利波郡司の利波臣志留志」の末裔の「越中石黒氏が累代居城にした」と記載されており、「越中石黒系図」では、藤原氏で「藤原利仁将軍」の末裔の石黒氏は同じく、藤原利仁将軍の末裔とされる加賀の林氏と何度も縁組を重ねて一族として北陸の戦乱では同一行動をしている。
(※石黒系図については、「石黒光弘」が「加賀林氏」と婚姻して、越中の「利波臣」の跡目を継いだとされるものの、「利波臣」の名跡を継いだ理由は明らかでは無い。「利波臣志留志」のサインが残る越中の「東大寺庄園杵名蛭庄図」には、「石黒上里」、「石黒中里」 、「石黒川」等が記載される事から、元々の石黒氏の本貫地はこの庄園が比定される高岡市立野辺りで在り、小矢部川河口近くは石黒氏の所領で在り、福光町は石黒光弘の兄弟の福満五郎の所領ではなかったか? 又、木舟城近くは、「越中吉岡庄の地頭吉岡成佐の開発地」と木舟城系石黒家に伝わる所から、木舟城、赤丸浅井城を居城とした石黒氏と福満城を居城とした石黒氏は同族ではあるが、一向一揆対応や、井口氏との争いで必ずしも一致した対応をしていない。)









■林一族から分派した「加賀の富樫氏」は、藤原氏が一致して「後鳥羽上皇」に味方した鎌倉時代の「承久の乱」では鎌倉幕府に従軍して敵対した。「承久の乱」で勝利した「富樫氏」は以後、勢力を拡大して、「加賀林氏」の一族と石黒氏は「承久の乱」で降伏して勢いを失った。「富樫一族」は、源氏の足利氏が政権を執ると、室町幕府の重臣として「足利義満」が創建した「相国寺」の「塔供養記」等にも見られ、様々な幕府の公式行事に参加している。
(※「越中五位庄」は、「室町幕府三代将軍足利義満」により室の日野業子の追善料として「相国寺」に寄進された。)
しかし、加賀と越前の境に在った「興福寺大乗院」の庄園の「河口庄」に浄土真宗の「蓮如」が『吉崎御坊』を設けて北陸の布教の拠点になると、「河口庄」の地頭の「越前朝倉氏」の地元で起こった「一向一揆」は加賀、越中に急速に拡がり、加賀守護の「富樫一族」は石川県と富山県の境の「朝日城」で滅亡し、この勢いで越中に侵攻した一向一揆は、「福光城」の石黒氏を滅亡させて、「五位庄」に集結して「赤丸浅井城」には一向一揆の首領の「下間和泉」が入城したと「越中志徴」に記載されている。

■【源平盛衰記】(※江戸時代出版)

























🔴📃【赤丸村在住の藤原真家】⇒「越中五位庄」と藤原氏(※「富山県史」)!!

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■「室町時代」の「越中統治絵図」(※「畠山家文書」)


■「富山県史」に赤丸在住の「藤原真家」が「川人山鞍馬寺」で父の法要を営んだ記録が有る。光厳寺二世で後に「能登総持寺」の三十六世住持になった東海宗洋が「瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語」の中で、五位庄赤丸在住の藤原直家が父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を亀阜和尚により営んだと記録している。これを「光厳東海和尚録」という。香語の中には「越之中邦利波郡五位莊赤丸村居住孝子藤原真家、松岩宗秀上座一十七回忌、興多聞鞍馬、敬河人之靈神、僧而惟俗」という表現が見られ、川人の神を信仰し、鞍馬寺の中興をした祖先の法要を行っている。神仏習合・両部神道では「神前読経」と云って神社でお経をあげる習慣も有った。実際に法要を行ったのは川人山鞍馬寺・赤丸浅井神社の両方が考えられる。赤丸村には浅井城を藤原一族の石黒氏が居城とし、長く摂関家の所領の「吉岡庄」で有ったという歴史も有る。又、藤原氏の寺の東福寺は古くから氷見八代荘や伏木の海岸沿い、小矢部市に至る広範囲な地域に庄園を持っていた等、氷見から小矢部にかけた「西山地域」は古くから藤原氏と縁が強い場所でもあった。鎌倉時代には、木曽義仲が猫殿と呼んだ猫間中納言こと藤原光隆が越中守になっている。「承久の乱」で後鳥羽上皇の側で戦い、後に裏切られて誅殺された北面の武士の藤原秀康は元能登守を勤めていた。鎌倉後期に「吉岡庄」の地頭をしたと伝わる石堤長光寺の開基小田氏知は藤原北家宇都宮氏の傍流で八田氏を祖とする。
藤原真家の父の命日から逆算すると、亡父の命日は文明十五年十一月十六日であり、藤原氏本流にはこの命日の人物は見当たらなかったが、藤原氏の寺である興福寺の室町時代の記録「大乗院寺社雑事記」には、唯一、命日が重なる人物が見られる。それは当時、能登を支配していた畠山氏の一族で、畠山義就の子の畠山修羅の記録である。畠山修羅(はたけやましゅら)(一四六八年~一四八三年) は仮名二郎といい、畠山義就の嫡男であった。当初はこの修羅が義就流の家督を継承するはずだったが、一四八三年(文明一五年)十一月に十六歳で死去した為に相続は実現しなかった。河内・紀伊・山城・越中守護の畠山義就(はたけやまよしなり)は、子の修羅を、興福寺の宗徒でかねてから畠山氏の味方である武将古市胤栄(ふるいちたねさかえ)に一四七〇年に三歳で預けている。(※養子にしたものか?)そこでは畠山義就の子は通称修羅法師と呼ばれ、その後、古市胤栄や縁者の越智家栄(おちいえひで)に預けられたりしながら、十六歳で亡くなったという。彼の死後、彼の遺児(実名不詳)と修羅の弟・畠山基家(義豊)との間に家督相続争いが起こったが、義就が修羅の妻子を殺害する事によって、基家が後継者に決まったと言われていた。しかし、義就が何故修羅の妻子の殺害に至ったかは疑問である。古市胤栄は清原氏~奥州藤原氏の流れを汲む藤原一族で茶道小笠原流の祖。興福寺は藤原一族の寺で藤原鎌足・不比等との縁が強い法相宗大本山興福寺である。修羅が藤原氏の古市氏に預けられた時に藤原氏を名乗ったのではないか? 畠山修羅の遺児と修羅の弟基家が相続争いをしたとの言い伝えがあり、その修羅の子供がどうなったかはハッキリしていない。しかし、「大乗院寺社雑事記」の文明十五年十一月十五日の記録には「一、 河州右衞門佐之息修羅御曹司入滅之由雑説在之、且如何、然者彼三百貫文事不審不審事也、分明ニ入滅云々」と記載され、この畠山修羅の命日と法名松岩宗秀の命日がほぼ一致して居る。命日は亡くなった年から数え、葬儀は24時間以後に行われるから、命日も一致する。畠山修羅の遺児が藤原氏を名乗って赤丸に住んでいたとすれば、何処に住んでいたのか?
1467年(応仁元年)には、将軍家や畠山氏等の家督争いから応仁の乱が勃発し、世情は乱れた。1458年光厳寺を開いた成田顕泰は鎌倉公方から越中富山城を賜わり、その後、光厳寺は創建場所から高岡の守山に移転している。この成田氏も藤原一族であり、関東管領の部下で武蔵国の「忍城」の城主でも在った。浅井神社を信仰し、鞍馬寺を中興したのは越中能登を所領とした管領家の畠山氏で有り、畠山氏の指示で成田氏が主導して法要を行ったのかも知れない。曹洞宗で黒崎に在った瑞泉寺の亀阜和尚が赤丸の川人山鞍馬寺で藤原真家の法要を行ったとすれば、成田氏の指示を受けた光厳寺の東海和尚(※守山城の神保一族)の関係で鞍馬寺で実施された可能性が有る。赤丸に勧請されたと伝わる京都の鞍馬寺も元々は藤原氏の寺である。この時に在京の管領家の畠山修羅の遺児をかくまっていたのは成田氏か神保氏の可能性も有る。

🔴 「吾妻鏡」に見られる「後白河上皇」の 「後院領」『 越中吉岡庄』に於ける「義経記」 の「二位の渡し事件」(※勧進帳)の背景⇒義経主従の通過!!

2018-10-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





●「吾妻鏡」の事件を時系列に並べると、「源頼朝」は「源義経」の追討に二年の歳月を費やしている。「義経」が逃亡してすぐの翌月には「後白河上皇」が「頼朝」に対して自分の庄園の「越中吉岡庄」で「頼朝」が任命した地頭の「成佐」が不法を行っているからすぐに替える様に院宣を下して牽制している。この事は法王が秘かに義経を支援しており、又、後白河上皇の皇子「守覚法親王」(※母は藤原季成の娘で後白河天皇寵姫の成子。真言宗仁和寺第6世門跡。高倉天皇の兄。以仁王の兄。源義仲・頼朝は以仁王の綸旨で平家追討を行った。)が熱烈な義経の支援者だったからだと見られる。
【※「源義顕」⇒当時の「近衛中将九条良経」と同名で在った事から罪人の名前として別名に代えたと言う。吾妻鏡では「伊豫守義経」を「豫州」、「義顕」、「義行」と名づけて居る。】

■「義経記」に拠れば、義経主従はこの「吉岡庄」の「延喜式内社赤丸浅井神社」前の「二位の渡し(※富山県高岡市福岡町赤丸)」を経て、小矢部川河口の六渡寺村に着いたと云う。この「二位の渡し」での「弁慶の義経打擲事件」は歌舞伎や能の「勧進帳」の場面と成った。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺三社記」には「元正天皇の二宮の創建」とされ、その為に「二位の宮御創建」の由緒から、この神社の前の舟乗場を「二位の渡し」と呼んだ様だ。















■「延喜式内社赤丸浅井神社」や「浅井城跡」の在る富山県高岡市の西山の夕景色
陽の沈む辺りは「極楽谷」と呼ばれ、その周辺には「吉岡西砦・吉岡東砦跡」が在る。「義経記」では、「如意の城を後にして‥」と記載されるがこれは「浅井城」(※「五位の城」)の事だと小学館版、岩波版には解説されている。





🔘「吾妻鏡 巻六」

■1187年 (文治3年 丁未)

2月10日 壬午
前の伊豫の守義顕、日来所々に隠住し、度々追捕使の害を遁れをはんぬ。遂に伊勢・美濃等の国を経て奥州に赴く。これ陸奥の守秀衡入道が権勢を恃むに依ってなり。妻室男女を相具す。皆姿を山臥並びに児童等に仮ると。
(※伊勢・美濃の通過は幕府の推定で在り、「義経記」では北陸道を通過している。)

3月2日 甲辰 (※後白河上皇の後院領の越中吉岡庄で地頭成佐が不法を行っている。)
越中の国吉岡庄地頭成佐不法等相累ねるの間、早く改替せしむべきの由、経房卿の奉書到来す。仍って則ち御請文を献ぜらる。
去る月十九日の御教書、今月二日到来す。謹んで拝見せしめ候いをはんぬ。越中の 国吉岡庄地頭成佐の事、御定に任せ、早く改定せしむべく候。但し彼の庄未だ復本せざるの間、御年貢式数せざるの由、成佐これを申し候き。重ねて相尋ね候て、他人に改めしむべく候なり。この旨を以て漏れ達せしめ給うべく候。頼朝恐々謹言。
     三月二日



3月5日 丁未 (※奥州の藤原秀衡が義経を隠していると聞く。)
豫州義顕陸奥の国に在る事、秀衡入道結構を為すの由、諸人の申状符号するの間、厳密に召し尋ねらるべきの旨、先度京都に申しをはんぬ。仍って御沙汰に及ぶの由、右武衛能保これを申さると。


1187年 (文治3年 丁未)

4月4日 乙亥 (※頼朝は義経探索の為に祈祷を行った。)
豫州の在所未だ聞かず。今に於いては人力の覃ぶ所に非ず。須く神祇仏陀に祈らるべきの由、人々これを計り申すに依って、鶴岡以下神社仏寺に於いて、日来御祈祷を修せらる。而るに若宮の別当法眼夢想を蒙られて曰く、上野の国金剛寺に於いて豫州に逢うべしと。仍って子細を申すの間、彼の寺の住侶等、各々御祈祷の丹誠を抽んずべきの旨相触るべきの趣、籐九郎盛長に仰せらると。

9月4日 壬寅 (※藤原秀衡が義経を庇護していると聞き頼朝は秀衡に文書を使わした。)
秀衡入道前の伊豫の守を扶持し、反逆を発すの由、二品訴え申せしめ給うの間、去る比廰の御下文を陸奥の国に下されをはんぬ。その時、関東同じく雑色を遣わさるるの処、今日帰参す。秀衡に於いては異心無きの由謝し申す。而るに雑色申す如きは、すでに用意の事有るかと。仍って彼の雑色重ねて京都に差し進せらる。奥州の形勢を言上せしめんが為なり。

10月5日 壬申 (※川越重頼の娘は源義経の正妻)
河越の太郎重頼、伊豫の前司義顕の縁座に依って誅せらるると雖も、遺跡を憐愍せしめ給うの間、武蔵の国河越庄に於いては、後家の尼に賜うの処、名主百姓等所勘に随わざるの由、風聞の説有るに就いて、向後庄務と云い雑務と云い、一事以上、彼の尼の下知に従うべきの由、仰せ下さるる所なり。

■1189年 (文治5年 己酉)

閏4月21日 庚戌 (※奥州の藤原泰衡に義経討伐を督促した。)
泰衡義経を容隠する事、公家爭か宥めの御沙汰有るべきや。先々申請の旨に任せ、早く追討の宣旨を下さるれば、塔供養の後、宿意を遂げしむべきの由、重ねて御書を師中納言に遣わさると。

閏4月30日 己未 (※藤原泰衡が源義経を襲って、義経一家は自害した)
今日陸奥の国に於いて、泰衡源與州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依ってなり。豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。與州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。與州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。
前の伊豫の守従五位下源朝臣義経(義行また義顕と改む。年三十一) 左馬の頭義朝朝臣六男、母九條院の雑仕常盤。寿永三年八月六日、左衛門の少尉 に任じ使の宣旨を蒙る。九月十八日叙留す。十月十一日、拝賀(六位の尉の時、畏み申さず)、則ち院内昇殿を聴す。二十五日、大甞會御禊ぎの行幸に供奉す。元暦元年八月二十六日、平氏追討使の官符を賜う。二年四月二十五日、賢所西海より還宮す。朝所に入御の間供奉す。二十七日、院の御厩司に補す。八月十四日、伊豫の守に任ず(使元の如し)。文治元年十一月十八日、解官す。」

(※「吾妻鏡」現代文訳)