■「義経記」の舞台になった「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の庄園で在った!
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■【越中吉岡庄】(※南北朝時代末期から五位庄に成ったとされる。)は富山県高岡市福岡町赤丸周辺に在った庄園で、「後白河上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園。「五位庄総社 延喜式内社赤丸浅井神社由緒」(※富山県立公文書館所蔵)から推定すると、その範囲は「赤丸浅井神社」の周辺の現在の高岡市国吉、高岡市福岡町赤丸、小矢部市宮嶋迄を含んでいたと見られる。
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■「義経記」の舞台になったのは「五位庄」では無く、「越中吉岡庄」で在った。「吉岡庄」は南北朝時代末期になると「越中五位庄」に改名された。「足利義満」が相国寺へ五位庄を寄進した記録では、明確に「五位庄を寄進した」と記載される。(※「相国考記」)
■【越中石黒氏】が「越中五位庄」の起源とされるのは本当か?
「金沢大学日本海域研究所報告第九号別刷」の【白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」 安達正雄著】という論文に「石黒氏系図」の研究が掲載されている。
安達氏は(1)藤原利仁を祖とするもの (2)波利古臣を祖とするもの (3)大伴家持を祖とするもの 等があるとされ、詳細な系図を示された。その中で「石黒伊勢守光景」は「波利古臣を祖」とする系図に記載され、「石黒左近」は「藤原利仁を祖」とする一族に記載されている。両石黒氏系図では石黒光弘の時に合流しているが、石黒光弘の次代には既に後継者が別れている。
しかし、石黒一族の方が編纂された「越中石黒系図」に拠れば、「赤丸浅井城城主石黒光景」は「木船城城主石黒光弘」の父親になっており、「源平盛衰記」では本家筋と見られる「加賀の林氏」に「六動太郎光景」が従っており、別働隊の中には「石黒光弘」が見られ、「加賀安宅川の合戦」で矢傷を負った事が記されている。どうも、この「六動太郎光景」は「石黒光弘」が加賀林氏と縁組していた事や、小矢部川河口に「六動寺」という地域が在り、鎌倉時代にはこの辺りの「二上庄」の地頭を石黒氏が勤めていた事から(※「鎌倉遺文」)、この「六動」と言うのは仏教で云う「六道」から来た名前では無かったかと推測される。系図に、「石黒氏」の祖先は東大寺大仏の造営の時に米五千石を寄進して「越中国司」に任じられた「利波臣志留志」で在り、越中各所で東大寺の庄園を開発していた記録がある。この一族は元々は天皇家の末裔で在ったと系図に記され、聖武天皇に協力して東大寺大仏造営の時に寄進者筆頭に記される位に仏道に深い信仰を持つ一族であった様た。「義経記」に「如意の渡し」という小矢部川の舟下りルートが出てくるが、これも越中石黒氏の支配地域の「越中吉岡庄」から小矢部川河口の「六道(動・渡)寺村」地域迄の舟下りルートで在った。
注目されるのは本流と見られる「藤原利仁」を祖とし、南北朝期に活躍した「石黒左近大夫将監盛行(重之?)」である。この武将は「大夫」という官職にある。「貞丈雜記 四 官位」に「大夫(タイフ)とは五位の事也」と記載されている。南北朝期に書かれたとされる「義経記」に記載され、五位庄であの有名な弁慶の打擲シーンが有った「源義経」も「佐衛門大夫判官」という「大夫=五位」の官職であった。もっとも、奥州へ落ち延びる義経が赤丸村を通過した時期は「後白河上皇後院領吉岡庄」の時代で有り、正確には「五位庄を経て」ではなく、「吉岡庄を経て」と記載されるべきであった。
◆【義経記の舞台の五位庄】
不思議なのは、あの南朝の後醍醐天皇の皇子宗良親王が「後醍醐天皇の庄園の赤丸村浅井城、親王屋敷」に滞在されたと言われる南朝の時代に、時代の前後はあるとしても、「義経記」が「二位の渡し・如意の城」の在ったこの赤丸村を取り上げている事で有り、背景として、「義経」と「宗良親王」にある同じ様な悲哀を表現したかったのでは無かろうか?
「宗良親王」を赤丸浅井城に迎えたのは「越中石黒氏」で在った。従って、宗良親王の伝説には「越中石黒氏」が多く登場する。
「宗良親王」も「北条高時」により讃岐国に配流され、帰還して正慶2年には南朝の征夷大将軍となり、興国3年冬(1341年)には越中に入られ木舟城や浅井城にも入城されたと云う。その後、東国各地を転戦され、ついにはその子の伊良親王が信州大河原に於いて敗走して自害、その皇子の良王君も危難に逢われたと云う。宗良親王も義経と同じく各地で目覚ましい活躍をされたが、結局は後村上、長慶天皇が即位され、和歌に通じて「新葉和歌集」等の編纂で名を遺されたものの、悲哀に満ちた流転の親王で在った。(※「浪合記」参照)
最近迄、「五位庄」とは「石黒氏の祖の利波臣が従五位上員外介に序せられた事から五位庄と名づけられた」と云われていたが、南北朝期に「越中吉岡庄」は宗良親王によって「五位庄」と名づけられたと言われる事(※「宝永誌」)から、実際には、後白河上皇以来の「後院領」と呼ばれた天皇家の庄園・位田の「御位の庄」から由来したものと考えられる。又は「東寺百合文書」の記録に拠ると、「後院領」が変じて、過渡期には「おいのしゃう」、「後位庄」等の記載もあり、位田の「御位庄」から転じたと考えるのが正解だろう。
「利波郡五位庄赤丸村」が南朝の牙城であり、周辺の土着の武士達も石黒氏を筆頭に宗良親王に付き従ったというこの地域は朝廷と一体化したまさに地域全体が「南朝の砦」であった。宗良親王は、この庄園を「五位庄」と改名され、その中心となっていた「赤丸浅井神社」を「五位庄五十三ケ村総社」と定められ、毎年各戸から米一升を赤丸浅井神社に奉納する事を通達されたと伝わる。この習慣は現在も赤丸地区で続き、各戸から秋には米一升相応額の奉納金を納める習慣が続いている。
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◆古く「赤丸浅井神社」に「一条天皇」が「川原左京」を勅使として遣わされて、一対の『勅使桜』が神前に植えられたと伝わる。この「川原左京」が「一条天皇」の叔父の「藤原道長」で「河原町の左京大夫」で在ったならば、「道長」も当時は大夫(五位)の低い官職であったから、ここにも「赤丸浅井神社」に関係して「五位」の官人が見られる。この桜は昭和時代迄生き残り、ご神木として「庚申桜」と呼ばれた名木であった。又、この桜は「遅桜」とも呼ばれ、地元では花が咲くのを合図に田植えをしたとされるほど、民衆にも深く信仰されていた地域のシンボルであった。
■後醍醐天皇の皇子の宗良親王の母は藤原(二条)為子(藤原定家の曾孫二条為世の子)で応長元年(1311年)に誕生している。宗良親王は和歌を得意とされ、越中に滞在された時の歌が親王の「李花集」に遺されている。
この時に、親王が「五位庄」と名付けられたと加賀藩奉行の記録「宝永誌」に記載されている事から、父君の「後醍醐天皇」迄続いた「越中吉岡庄」を懐かしんで「位田」を意味する【御位の庄】から、「御位の庄」⇒「五位庄」と名付けられたと考えられる。
【※「越中吉岡庄」が「五位庄」となったのは最近の研究では後白河上皇の時代から続いた「後院領」であった為、「東寺百合文書」には様々な記録が在り、「御いん領」→「御い庄」→「五位庄」になったと見られている。因みに、加賀藩記録「宝永誌」では、南北朝末期に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が越中に入られた時に「五位庄と名付けられた」と記載されている。】
■「義経記」に登場する「五位堂」と云う場所は源義経の官職の「五位」と石黒氏の官職の「五位」に因んで名付けられたものか?
富山県小矢部市北蟹谷村大字松尾村に伝わる口伝では、「源義経奥州に走る時この地の五位堂に一夜の宿を取った」とされ、周辺地域では、義経の官名の「五位」から「五位堂」と呼び慣わしたものと見られる。
この場所は源平合戦の激戦地の倶利伽羅峠を下りた越中の「埴生護国神社」の近くである。この辺りは「越中石黒氏」の祖の「利波臣」の発祥地で在ると小矢部市史は伝えている。地元では、「石黒氏」の祖先の「利波臣志留志」が「五位」の官職に在った事から、「利波臣」の領域を「利波郡」として、富山県福岡町等を「五位庄」と名付けたと伝えられて来た。
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「義経記」での次の経由地の「五位庄」 は、実際には「後白河上皇の庄園の吉岡庄」の誤りで在り、越中石黒氏の居城「赤丸浅井城」を中心とする旧吉岡庄域を指す。実際には、「義経記」が後の時代「室町時代」に書かれた為に起こった錯誤で在り、「後白河上皇~後醍醐天皇」の時代に「吉岡庄」と呼ばれたこの庄園は、南北朝時代末期には「五位庄」と呼ばれたと加賀藩の記録「宝永誌」に記載されている。全ての誤りは「義経奥州下り」の鎌倉時代初期の物語に、この物語が実際に書かれた「室町時代」の呼び名の「五位庄」と記載した事から起こった混乱である。元々の「義経記」では、正確には「おいのしょう」と記載され、後に「五位庄」にすりかわっている。又、「東寺百合文書」に記される室町時代の「五位庄」が「福野町野尻」迄も含む広範囲な地域に拡大されていた事も、加賀藩時代以降の「五位庄」地域と異なる大きな差異であろう。
現在では、「東寺百合文書」等の古書に記される「後位庄」、「御いの庄」、「おいの庄」、「五位庄」の記載等から、上皇の庄園の「後院領」が「五位庄」に変化したと見る意見が多い様だ。
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室町時代の「五位庄」
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【木曽義仲群将図】
(木曽義仲と石黒光弘等の家臣団)
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【※この「五位堂」は現在、小矢部市松永の「比枝社」に合祀されており、境内にはそこから移設された室町期?の「五輪搭」が山積みで放置されている。古老に聞くとその旧地はこの近くに在った台地で、現在はブロック製造会社が整地して農地になっていると云う。今は地元の人達もこの「五位堂」が「義経記」に登場する「松永の八幡社」とは知らない。この神社の祭神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で「信州諏訪大社」の祭神で、軍神として、また農耕神、狩猟神として信仰され、風の神として元寇の時に諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」で元は水神であったされ、大国主神の二男で長男の事代主神と国譲りに反対して対立し信州に逃れたと云われる。木曽義仲は「後白河上皇の皇子以仁王の子の北陸宮」を保護して、所縁の富山県朝日町に「諏訪社」を勘請した。木曽義仲は以仁王の平家追倒の令旨を受けて蜂起した。
この倶利伽羅谷の戦いは木曽義仲と平氏の激戦地で有り、この地に諏訪社が勘請されたのは木曽義仲に依るものだろう。倶利伽羅谷の近くに木曽義仲が創建したのを知ってか知らずか、今は義仲と同じく源頼朝と対立した義経が一夜の宿をこの神社に請うたのは奇縁だった。「義経記」に「松永の八幡社」と記されたのは「埴生八幡宮の摂社」と考えられたものか?
驚くのは、作者が「義経記」の中でこの様に街道筋から外れた山中の名も無い御堂迄記している事と、この神社が源氏同族で義経が討った木曽義仲所縁の神社と知っていたとすればすごい調査力である。事情を知った人達は、木曽義仲と義経のこの因縁に「人の哀れ」を感じたものだろう。「義経記が創作された物語だ」と云う意見は現地の詳細地理を知らない人達の乱暴な推論でしか無いと思われる。遺された「五輪搭」を見ると、ここには神社の他に、12名?もの義経一行が宿泊できる寺院が在ったものと見られる。(※「富山県西礪波郡紀要」西礪波郡役所発行 参照)】
「五輪搭」は墓標として室町時代になると小型のものが盛んに造られたと云う。全国的に文化財として保存されているものも有り、小矢部市としても「義経」の所縁の社跡地と伝わる史跡の「五位堂」であれば、保存もされていないのは「観光振興」を目指している小矢部市にとっても大変惜しい事だ。
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◆「赤丸名勝誌」に『赤丸浅井城主の石黒氏は北条氏を忌みて射水に去った。』と記載されている。
「富山史壇64号 越中守護名越時有とその所領について (久保尚文著)」に鎌倉期に越中国新川郡堀江庄と梅沢、西条、小泉の3ケ村の地頭職をしていた「左近大夫将監秋時」の跡地を興国5年、後醍醐天皇の綸旨により祇園社に神領として寄進された文書が掲載されており、北条一族の名越時有も左近将監であったのでこの人物は名越時有と推定されている。しかし、北条一門として名越時有は「守護」で有り、秋時は系図にも見えない。この人物が「地頭」で在ったとされる事から、この人物は石黒氏の可能性は無いだろうか?
石黒氏系図には「石黒左近」の名前も見られる。「大夫」が高々「五位」の位である事からこの時期、各地で地頭職を担当していた「石黒氏」とも考えられる。因みに、この頃、石黒氏の赤丸浅井城にいた一門に「石黒二郎五郎政時」という人物がいた。とすれば、石黒氏は北条氏により、赤丸の地から新川郡に転封されていた事になる。もっとも、上市町周辺に在ったとされる堀江荘は鎌倉時代には頼朝に従った土肥氏が地頭をしていたと言われるので確定はできない。
■「大正から昭和12年にかけての赤丸村南朝遺跡調査記事」
明治維新後、赤丸村は「南朝の村」として脚光を浴び、宮内省の史跡調査が行われ、度々、報道されていた。特に、明治維新が「後醍醐天皇」が行われた「王政復古」を目指した為に、「後醍醐天皇の庄園」の赤丸村が注目された。
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■【越中吉岡庄】(※南北朝時代末期から五位庄に成ったとされる。)は富山県高岡市福岡町赤丸周辺に在った「後白河上皇」から南北朝時代「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園。
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■【越中吉岡庄】(※南北朝時代末期から五位庄に成ったとされる。)は富山県高岡市福岡町赤丸周辺に在った庄園で、「後白河上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園。「五位庄総社 延喜式内社赤丸浅井神社由緒」(※富山県立公文書館所蔵)から推定すると、その範囲は「赤丸浅井神社」の周辺の現在の高岡市国吉、高岡市福岡町赤丸、小矢部市宮嶋迄を含んでいたと見られる。
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■「義経記」の舞台になったのは「五位庄」では無く、「越中吉岡庄」で在った。「吉岡庄」は南北朝時代末期になると「越中五位庄」に改名された。「足利義満」が相国寺へ五位庄を寄進した記録では、明確に「五位庄を寄進した」と記載される。(※「相国考記」)
■【越中石黒氏】が「越中五位庄」の起源とされるのは本当か?
「金沢大学日本海域研究所報告第九号別刷」の【白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」 安達正雄著】という論文に「石黒氏系図」の研究が掲載されている。
安達氏は(1)藤原利仁を祖とするもの (2)波利古臣を祖とするもの (3)大伴家持を祖とするもの 等があるとされ、詳細な系図を示された。その中で「石黒伊勢守光景」は「波利古臣を祖」とする系図に記載され、「石黒左近」は「藤原利仁を祖」とする一族に記載されている。両石黒氏系図では石黒光弘の時に合流しているが、石黒光弘の次代には既に後継者が別れている。
しかし、石黒一族の方が編纂された「越中石黒系図」に拠れば、「赤丸浅井城城主石黒光景」は「木船城城主石黒光弘」の父親になっており、「源平盛衰記」では本家筋と見られる「加賀の林氏」に「六動太郎光景」が従っており、別働隊の中には「石黒光弘」が見られ、「加賀安宅川の合戦」で矢傷を負った事が記されている。どうも、この「六動太郎光景」は「石黒光弘」が加賀林氏と縁組していた事や、小矢部川河口に「六動寺」という地域が在り、鎌倉時代にはこの辺りの「二上庄」の地頭を石黒氏が勤めていた事から(※「鎌倉遺文」)、この「六動」と言うのは仏教で云う「六道」から来た名前では無かったかと推測される。系図に、「石黒氏」の祖先は東大寺大仏の造営の時に米五千石を寄進して「越中国司」に任じられた「利波臣志留志」で在り、越中各所で東大寺の庄園を開発していた記録がある。この一族は元々は天皇家の末裔で在ったと系図に記され、聖武天皇に協力して東大寺大仏造営の時に寄進者筆頭に記される位に仏道に深い信仰を持つ一族であった様た。「義経記」に「如意の渡し」という小矢部川の舟下りルートが出てくるが、これも越中石黒氏の支配地域の「越中吉岡庄」から小矢部川河口の「六道(動・渡)寺村」地域迄の舟下りルートで在った。
注目されるのは本流と見られる「藤原利仁」を祖とし、南北朝期に活躍した「石黒左近大夫将監盛行(重之?)」である。この武将は「大夫」という官職にある。「貞丈雜記 四 官位」に「大夫(タイフ)とは五位の事也」と記載されている。南北朝期に書かれたとされる「義経記」に記載され、五位庄であの有名な弁慶の打擲シーンが有った「源義経」も「佐衛門大夫判官」という「大夫=五位」の官職であった。もっとも、奥州へ落ち延びる義経が赤丸村を通過した時期は「後白河上皇後院領吉岡庄」の時代で有り、正確には「五位庄を経て」ではなく、「吉岡庄を経て」と記載されるべきであった。
◆【義経記の舞台の五位庄】
不思議なのは、あの南朝の後醍醐天皇の皇子宗良親王が「後醍醐天皇の庄園の赤丸村浅井城、親王屋敷」に滞在されたと言われる南朝の時代に、時代の前後はあるとしても、「義経記」が「二位の渡し・如意の城」の在ったこの赤丸村を取り上げている事で有り、背景として、「義経」と「宗良親王」にある同じ様な悲哀を表現したかったのでは無かろうか?
「宗良親王」を赤丸浅井城に迎えたのは「越中石黒氏」で在った。従って、宗良親王の伝説には「越中石黒氏」が多く登場する。
「宗良親王」も「北条高時」により讃岐国に配流され、帰還して正慶2年には南朝の征夷大将軍となり、興国3年冬(1341年)には越中に入られ木舟城や浅井城にも入城されたと云う。その後、東国各地を転戦され、ついにはその子の伊良親王が信州大河原に於いて敗走して自害、その皇子の良王君も危難に逢われたと云う。宗良親王も義経と同じく各地で目覚ましい活躍をされたが、結局は後村上、長慶天皇が即位され、和歌に通じて「新葉和歌集」等の編纂で名を遺されたものの、悲哀に満ちた流転の親王で在った。(※「浪合記」参照)
最近迄、「五位庄」とは「石黒氏の祖の利波臣が従五位上員外介に序せられた事から五位庄と名づけられた」と云われていたが、南北朝期に「越中吉岡庄」は宗良親王によって「五位庄」と名づけられたと言われる事(※「宝永誌」)から、実際には、後白河上皇以来の「後院領」と呼ばれた天皇家の庄園・位田の「御位の庄」から由来したものと考えられる。又は「東寺百合文書」の記録に拠ると、「後院領」が変じて、過渡期には「おいのしゃう」、「後位庄」等の記載もあり、位田の「御位庄」から転じたと考えるのが正解だろう。
「利波郡五位庄赤丸村」が南朝の牙城であり、周辺の土着の武士達も石黒氏を筆頭に宗良親王に付き従ったというこの地域は朝廷と一体化したまさに地域全体が「南朝の砦」であった。宗良親王は、この庄園を「五位庄」と改名され、その中心となっていた「赤丸浅井神社」を「五位庄五十三ケ村総社」と定められ、毎年各戸から米一升を赤丸浅井神社に奉納する事を通達されたと伝わる。この習慣は現在も赤丸地区で続き、各戸から秋には米一升相応額の奉納金を納める習慣が続いている。
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◆古く「赤丸浅井神社」に「一条天皇」が「川原左京」を勅使として遣わされて、一対の『勅使桜』が神前に植えられたと伝わる。この「川原左京」が「一条天皇」の叔父の「藤原道長」で「河原町の左京大夫」で在ったならば、「道長」も当時は大夫(五位)の低い官職であったから、ここにも「赤丸浅井神社」に関係して「五位」の官人が見られる。この桜は昭和時代迄生き残り、ご神木として「庚申桜」と呼ばれた名木であった。又、この桜は「遅桜」とも呼ばれ、地元では花が咲くのを合図に田植えをしたとされるほど、民衆にも深く信仰されていた地域のシンボルであった。
■後醍醐天皇の皇子の宗良親王の母は藤原(二条)為子(藤原定家の曾孫二条為世の子)で応長元年(1311年)に誕生している。宗良親王は和歌を得意とされ、越中に滞在された時の歌が親王の「李花集」に遺されている。
この時に、親王が「五位庄」と名付けられたと加賀藩奉行の記録「宝永誌」に記載されている事から、父君の「後醍醐天皇」迄続いた「越中吉岡庄」を懐かしんで「位田」を意味する【御位の庄】から、「御位の庄」⇒「五位庄」と名付けられたと考えられる。
【※「越中吉岡庄」が「五位庄」となったのは最近の研究では後白河上皇の時代から続いた「後院領」であった為、「東寺百合文書」には様々な記録が在り、「御いん領」→「御い庄」→「五位庄」になったと見られている。因みに、加賀藩記録「宝永誌」では、南北朝末期に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が越中に入られた時に「五位庄と名付けられた」と記載されている。】
■「義経記」に登場する「五位堂」と云う場所は源義経の官職の「五位」と石黒氏の官職の「五位」に因んで名付けられたものか?
富山県小矢部市北蟹谷村大字松尾村に伝わる口伝では、「源義経奥州に走る時この地の五位堂に一夜の宿を取った」とされ、周辺地域では、義経の官名の「五位」から「五位堂」と呼び慣わしたものと見られる。
この場所は源平合戦の激戦地の倶利伽羅峠を下りた越中の「埴生護国神社」の近くである。この辺りは「越中石黒氏」の祖の「利波臣」の発祥地で在ると小矢部市史は伝えている。地元では、「石黒氏」の祖先の「利波臣志留志」が「五位」の官職に在った事から、「利波臣」の領域を「利波郡」として、富山県福岡町等を「五位庄」と名付けたと伝えられて来た。
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「義経記」での次の経由地の「五位庄」 は、実際には「後白河上皇の庄園の吉岡庄」の誤りで在り、越中石黒氏の居城「赤丸浅井城」を中心とする旧吉岡庄域を指す。実際には、「義経記」が後の時代「室町時代」に書かれた為に起こった錯誤で在り、「後白河上皇~後醍醐天皇」の時代に「吉岡庄」と呼ばれたこの庄園は、南北朝時代末期には「五位庄」と呼ばれたと加賀藩の記録「宝永誌」に記載されている。全ての誤りは「義経奥州下り」の鎌倉時代初期の物語に、この物語が実際に書かれた「室町時代」の呼び名の「五位庄」と記載した事から起こった混乱である。元々の「義経記」では、正確には「おいのしょう」と記載され、後に「五位庄」にすりかわっている。又、「東寺百合文書」に記される室町時代の「五位庄」が「福野町野尻」迄も含む広範囲な地域に拡大されていた事も、加賀藩時代以降の「五位庄」地域と異なる大きな差異であろう。
現在では、「東寺百合文書」等の古書に記される「後位庄」、「御いの庄」、「おいの庄」、「五位庄」の記載等から、上皇の庄園の「後院領」が「五位庄」に変化したと見る意見が多い様だ。
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室町時代の「五位庄」
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【木曽義仲群将図】
(木曽義仲と石黒光弘等の家臣団)
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【※この「五位堂」は現在、小矢部市松永の「比枝社」に合祀されており、境内にはそこから移設された室町期?の「五輪搭」が山積みで放置されている。古老に聞くとその旧地はこの近くに在った台地で、現在はブロック製造会社が整地して農地になっていると云う。今は地元の人達もこの「五位堂」が「義経記」に登場する「松永の八幡社」とは知らない。この神社の祭神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で「信州諏訪大社」の祭神で、軍神として、また農耕神、狩猟神として信仰され、風の神として元寇の時に諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」で元は水神であったされ、大国主神の二男で長男の事代主神と国譲りに反対して対立し信州に逃れたと云われる。木曽義仲は「後白河上皇の皇子以仁王の子の北陸宮」を保護して、所縁の富山県朝日町に「諏訪社」を勘請した。木曽義仲は以仁王の平家追倒の令旨を受けて蜂起した。
この倶利伽羅谷の戦いは木曽義仲と平氏の激戦地で有り、この地に諏訪社が勘請されたのは木曽義仲に依るものだろう。倶利伽羅谷の近くに木曽義仲が創建したのを知ってか知らずか、今は義仲と同じく源頼朝と対立した義経が一夜の宿をこの神社に請うたのは奇縁だった。「義経記」に「松永の八幡社」と記されたのは「埴生八幡宮の摂社」と考えられたものか?
驚くのは、作者が「義経記」の中でこの様に街道筋から外れた山中の名も無い御堂迄記している事と、この神社が源氏同族で義経が討った木曽義仲所縁の神社と知っていたとすればすごい調査力である。事情を知った人達は、木曽義仲と義経のこの因縁に「人の哀れ」を感じたものだろう。「義経記が創作された物語だ」と云う意見は現地の詳細地理を知らない人達の乱暴な推論でしか無いと思われる。遺された「五輪搭」を見ると、ここには神社の他に、12名?もの義経一行が宿泊できる寺院が在ったものと見られる。(※「富山県西礪波郡紀要」西礪波郡役所発行 参照)】
「五輪搭」は墓標として室町時代になると小型のものが盛んに造られたと云う。全国的に文化財として保存されているものも有り、小矢部市としても「義経」の所縁の社跡地と伝わる史跡の「五位堂」であれば、保存もされていないのは「観光振興」を目指している小矢部市にとっても大変惜しい事だ。
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◆「赤丸名勝誌」に『赤丸浅井城主の石黒氏は北条氏を忌みて射水に去った。』と記載されている。
「富山史壇64号 越中守護名越時有とその所領について (久保尚文著)」に鎌倉期に越中国新川郡堀江庄と梅沢、西条、小泉の3ケ村の地頭職をしていた「左近大夫将監秋時」の跡地を興国5年、後醍醐天皇の綸旨により祇園社に神領として寄進された文書が掲載されており、北条一族の名越時有も左近将監であったのでこの人物は名越時有と推定されている。しかし、北条一門として名越時有は「守護」で有り、秋時は系図にも見えない。この人物が「地頭」で在ったとされる事から、この人物は石黒氏の可能性は無いだろうか?
石黒氏系図には「石黒左近」の名前も見られる。「大夫」が高々「五位」の位である事からこの時期、各地で地頭職を担当していた「石黒氏」とも考えられる。因みに、この頃、石黒氏の赤丸浅井城にいた一門に「石黒二郎五郎政時」という人物がいた。とすれば、石黒氏は北条氏により、赤丸の地から新川郡に転封されていた事になる。もっとも、上市町周辺に在ったとされる堀江荘は鎌倉時代には頼朝に従った土肥氏が地頭をしていたと言われるので確定はできない。
■「大正から昭和12年にかけての赤丸村南朝遺跡調査記事」
明治維新後、赤丸村は「南朝の村」として脚光を浴び、宮内省の史跡調査が行われ、度々、報道されていた。特に、明治維新が「後醍醐天皇」が行われた「王政復古」を目指した為に、「後醍醐天皇の庄園」の赤丸村が注目された。
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■【越中吉岡庄】(※南北朝時代末期から五位庄に成ったとされる。)は富山県高岡市福岡町赤丸周辺に在った「後白河上皇」から南北朝時代「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園。
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