赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴「義経記」に記載される「五位堂」と室町時代の「越中五位庄」の命名!!

2021-04-18 | 越中国吉岡庄・五位庄
■「義経記」の舞台になった「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の庄園で在った!



■【越中吉岡庄】(※南北朝時代末期から五位庄に成ったとされる。)は富山県高岡市福岡町赤丸周辺に在った庄園で、「後白河上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園。「五位庄総社 延喜式内社赤丸浅井神社由緒」(※富山県立公文書館所蔵)から推定すると、その範囲は「赤丸浅井神社」の周辺の現在の高岡市国吉、高岡市福岡町赤丸、小矢部市宮嶋迄を含んでいたと見られる。



■「義経記」の舞台になったのは「五位庄」では無く、「越中吉岡庄」で在った。「吉岡庄」は南北朝時代末期になると「越中五位庄」に改名された。「足利義満」が相国寺へ五位庄を寄進した記録では、明確に「五位庄を寄進した」と記載される。(※「相国考記」)

■【越中石黒氏】が「越中五位庄」の起源とされるのは本当か?
「金沢大学日本海域研究所報告第九号別刷」の【白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」 安達正雄著】という論文に「石黒氏系図」の研究が掲載されている。
安達氏は(1)藤原利仁を祖とするもの (2)波利古臣を祖とするもの (3)大伴家持を祖とするもの 等があるとされ、詳細な系図を示された。その中で「石黒伊勢守光景」は「波利古臣を祖」とする系図に記載され、「石黒左近」は「藤原利仁を祖」とする一族に記載されている。両石黒氏系図では石黒光弘の時に合流しているが、石黒光弘の次代には既に後継者が別れている。
しかし、石黒一族の方が編纂された「越中石黒系図」に拠れば、「赤丸浅井城城主石黒光景」は「木船城城主石黒光弘」の父親になっており、「源平盛衰記」では本家筋と見られる「加賀の林氏」に「六動太郎光景」が従っており、別働隊の中には「石黒光弘」が見られ、「加賀安宅川の合戦」で矢傷を負った事が記されている。どうも、この「六動太郎光景」は「石黒光弘」が加賀林氏と縁組していた事や、小矢部川河口に「六動寺」という地域が在り、鎌倉時代にはこの辺りの「二上庄」の地頭を石黒氏が勤めていた事から(※「鎌倉遺文」)、この「六動」と言うのは仏教で云う「六道」から来た名前では無かったかと推測される。系図に、「石黒氏」の祖先は東大寺大仏の造営の時に米五千石を寄進して「越中国司」に任じられた「利波臣志留志」で在り、越中各所で東大寺の庄園を開発していた記録がある。この一族は元々は天皇家の末裔で在ったと系図に記され、聖武天皇に協力して東大寺大仏造営の時に寄進者筆頭に記される位に仏道に深い信仰を持つ一族であった様た。「義経記」に「如意の渡し」という小矢部川の舟下りルートが出てくるが、これも越中石黒氏の支配地域の「越中吉岡庄」から小矢部川河口の「六道(動・渡)寺村」地域迄の舟下りルートで在った。

注目されるのは本流と見られる「藤原利仁」を祖とし、南北朝期に活躍した「石黒左近大夫将監盛行(重之?)」である。この武将は「大夫」という官職にある。「貞丈雜記 四 官位」に「大夫(タイフ)とは五位の事也」と記載されている。南北朝期に書かれたとされる「義経記」に記載され、五位庄であの有名な弁慶の打擲シーンが有った「源義経」も「佐衛門大夫判官」という「大夫=五位」の官職であった。もっとも、奥州へ落ち延びる義経が赤丸村を通過した時期は「後白河上皇後院領吉岡庄」の時代で有り、正確には「五位庄を経て」ではなく、「吉岡庄を経て」と記載されるべきであった。

◆【義経記の舞台の五位庄】
不思議なのは、あの南朝の後醍醐天皇の皇子宗良親王が「後醍醐天皇の庄園の赤丸村浅井城、親王屋敷」に滞在されたと言われる南朝の時代に、時代の前後はあるとしても、「義経記」が「二位の渡し・如意の城」の在ったこの赤丸村を取り上げている事で有り、背景として、「義経」と「宗良親王」にある同じ様な悲哀を表現したかったのでは無かろうか?
「宗良親王」を赤丸浅井城に迎えたのは「越中石黒氏」で在った。従って、宗良親王の伝説には「越中石黒氏」が多く登場する。
「宗良親王」も「北条高時」により讃岐国に配流され、帰還して正慶2年には南朝の征夷大将軍となり、興国3年冬(1341年)には越中に入られ木舟城や浅井城にも入城されたと云う。その後、東国各地を転戦され、ついにはその子の伊良親王が信州大河原に於いて敗走して自害、その皇子の良王君も危難に逢われたと云う。宗良親王も義経と同じく各地で目覚ましい活躍をされたが、結局は後村上、長慶天皇が即位され、和歌に通じて「新葉和歌集」等の編纂で名を遺されたものの、悲哀に満ちた流転の親王で在った。(※「浪合記」参照)
最近迄、「五位庄」とは「石黒氏の祖の利波臣が従五位上員外介に序せられた事から五位庄と名づけられた」と云われていたが、南北朝期に「越中吉岡庄」は宗良親王によって「五位庄」と名づけられたと言われる事(※「宝永誌」)から、実際には、後白河上皇以来の「後院領」と呼ばれた天皇家の庄園・位田の「御位の庄」から由来したものと考えられる。又は「東寺百合文書」の記録に拠ると、「後院領」が変じて、過渡期には「おいのしゃう」、「後位庄」等の記載もあり、位田の「御位庄」から転じたと考えるのが正解だろう。
「利波郡五位庄赤丸村」が南朝の牙城であり、周辺の土着の武士達も石黒氏を筆頭に宗良親王に付き従ったというこの地域は朝廷と一体化したまさに地域全体が「南朝の砦」であった。宗良親王は、この庄園を「五位庄」と改名され、その中心となっていた「赤丸浅井神社」を「五位庄五十三ケ村総社」と定められ、毎年各戸から米一升を赤丸浅井神社に奉納する事を通達されたと伝わる。この習慣は現在も赤丸地区で続き、各戸から秋には米一升相応額の奉納金を納める習慣が続いている。




◆古く「赤丸浅井神社」に「一条天皇」が「川原左京」を勅使として遣わされて、一対の『勅使桜』が神前に植えられたと伝わる。この「川原左京」が「一条天皇」の叔父の「藤原道長」で「河原町の左京大夫」で在ったならば、「道長」も当時は大夫(五位)の低い官職であったから、ここにも「赤丸浅井神社」に関係して「五位」の官人が見られる。この桜は昭和時代迄生き残り、ご神木として「庚申桜」と呼ばれた名木であった。又、この桜は「遅桜」とも呼ばれ、地元では花が咲くのを合図に田植えをしたとされるほど、民衆にも深く信仰されていた地域のシンボルであった。

■後醍醐天皇の皇子の宗良親王の母は藤原(二条)為子(藤原定家の曾孫二条為世の子)で応長元年(1311年)に誕生している。宗良親王は和歌を得意とされ、越中に滞在された時の歌が親王の「李花集」に遺されている。
この時に、親王が「五位庄」と名付けられたと加賀藩奉行の記録「宝永誌」に記載されている事から、父君の「後醍醐天皇」迄続いた「越中吉岡庄」を懐かしんで「位田」を意味する【御位の庄】から、「御位の庄」⇒「五位庄」と名付けられたと考えられる。
【※「越中吉岡庄」が「五位庄」となったのは最近の研究では後白河上皇の時代から続いた「後院領」であった為、「東寺百合文書」には様々な記録が在り、「御いん領」→「御い庄」→「五位庄」になったと見られている。因みに、加賀藩記録「宝永誌」では、南北朝末期に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が越中に入られた時に「五位庄と名付けられた」と記載されている。】

■「義経記」に登場する「五位堂」と云う場所は源義経の官職の「五位」と石黒氏の官職の「五位」に因んで名付けられたものか?

富山県小矢部市北蟹谷村大字松尾村に伝わる口伝では、「源義経奥州に走る時この地の五位堂に一夜の宿を取った」とされ、周辺地域では、義経の官名の「五位」から「五位堂」と呼び慣わしたものと見られる。

この場所は源平合戦の激戦地の倶利伽羅峠を下りた越中の「埴生護国神社」の近くである。この辺りは「越中石黒氏」の祖の「利波臣」の発祥地で在ると小矢部市史は伝えている。地元では、「石黒氏」の祖先の「利波臣志留志」が「五位」の官職に在った事から、「利波臣」の領域を「利波郡」として、富山県福岡町等を「五位庄」と名付けたと伝えられて来た。


「義経記」での次の経由地の「五位庄」 は、実際には「後白河上皇の庄園の吉岡庄」の誤りで在り、越中石黒氏の居城「赤丸浅井城」を中心とする旧吉岡庄域を指す。実際には、「義経記」が後の時代「室町時代」に書かれた為に起こった錯誤で在り、「後白河上皇~後醍醐天皇」の時代に「吉岡庄」と呼ばれたこの庄園は、南北朝時代末期には「五位庄」と呼ばれたと加賀藩の記録「宝永誌」に記載されている。全ての誤りは「義経奥州下り」の鎌倉時代初期の物語に、この物語が実際に書かれた「室町時代」の呼び名の「五位庄」と記載した事から起こった混乱である。元々の「義経記」では、正確には「おいのしょう」と記載され、後に「五位庄」にすりかわっている。又、「東寺百合文書」に記される室町時代の「五位庄」が「福野町野尻」迄も含む広範囲な地域に拡大されていた事も、加賀藩時代以降の「五位庄」地域と異なる大きな差異であろう。
現在では、「東寺百合文書」等の古書に記される「後位庄」、「御いの庄」、「おいの庄」、「五位庄」の記載等から、上皇の庄園の「後院領」が「五位庄」に変化したと見る意見が多い様だ。


室町時代の「五位庄」


【木曽義仲群将図】
(木曽義仲と石黒光弘等の家臣団)


【※この「五位堂」は現在、小矢部市松永の「比枝社」に合祀されており、境内にはそこから移設された室町期?の「五輪搭」が山積みで放置されている。古老に聞くとその旧地はこの近くに在った台地で、現在はブロック製造会社が整地して農地になっていると云う。今は地元の人達もこの「五位堂」が「義経記」に登場する「松永の八幡社」とは知らない。この神社の祭神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で「信州諏訪大社」の祭神で、軍神として、また農耕神、狩猟神として信仰され、風の神として元寇の時に諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」で元は水神であったされ、大国主神の二男で長男の事代主神と国譲りに反対して対立し信州に逃れたと云われる。木曽義仲は「後白河上皇の皇子以仁王の子の北陸宮」を保護して、所縁の富山県朝日町に「諏訪社」を勘請した。木曽義仲は以仁王の平家追倒の令旨を受けて蜂起した。
この倶利伽羅谷の戦いは木曽義仲と平氏の激戦地で有り、この地に諏訪社が勘請されたのは木曽義仲に依るものだろう。倶利伽羅谷の近くに木曽義仲が創建したのを知ってか知らずか、今は義仲と同じく源頼朝と対立した義経が一夜の宿をこの神社に請うたのは奇縁だった。「義経記」に「松永の八幡社」と記されたのは「埴生八幡宮の摂社」と考えられたものか?
驚くのは、作者が「義経記」の中でこの様に街道筋から外れた山中の名も無い御堂迄記している事と、この神社が源氏同族で義経が討った木曽義仲所縁の神社と知っていたとすればすごい調査力である。事情を知った人達は、木曽義仲と義経のこの因縁に「人の哀れ」を感じたものだろう。「義経記が創作された物語だ」と云う意見は現地の詳細地理を知らない人達の乱暴な推論でしか無いと思われる。遺された「五輪搭」を見ると、ここには神社の他に、12名?もの義経一行が宿泊できる寺院が在ったものと見られる。(※「富山県西礪波郡紀要」西礪波郡役所発行 参照)】
「五輪搭」は墓標として室町時代になると小型のものが盛んに造られたと云う。全国的に文化財として保存されているものも有り、小矢部市としても「義経」の所縁の社跡地と伝わる史跡の「五位堂」であれば、保存もされていないのは「観光振興」を目指している小矢部市にとっても大変惜しい事だ。



◆「赤丸名勝誌」に『赤丸浅井城主の石黒氏は北条氏を忌みて射水に去った。』と記載されている。
「富山史壇64号 越中守護名越時有とその所領について (久保尚文著)」に鎌倉期に越中国新川郡堀江庄と梅沢、西条、小泉の3ケ村の地頭職をしていた「左近大夫将監秋時」の跡地を興国5年、後醍醐天皇の綸旨により祇園社に神領として寄進された文書が掲載されており、北条一族の名越時有も左近将監であったのでこの人物は名越時有と推定されている。しかし、北条一門として名越時有は「守護」で有り、秋時は系図にも見えない。この人物が「地頭」で在ったとされる事から、この人物は石黒氏の可能性は無いだろうか?
石黒氏系図には「石黒左近」の名前も見られる。「大夫」が高々「五位」の位である事からこの時期、各地で地頭職を担当していた「石黒氏」とも考えられる。因みに、この頃、石黒氏の赤丸浅井城にいた一門に「石黒二郎五郎政時」という人物がいた。とすれば、石黒氏は北条氏により、赤丸の地から新川郡に転封されていた事になる。もっとも、上市町周辺に在ったとされる堀江荘は鎌倉時代には頼朝に従った土肥氏が地頭をしていたと言われるので確定はできない。

■「大正から昭和12年にかけての赤丸村南朝遺跡調査記事」
明治維新後、赤丸村は「南朝の村」として脚光を浴び、宮内省の史跡調査が行われ、度々、報道されていた。特に、明治維新が「後醍醐天皇」が行われた「王政復古」を目指した為に、「後醍醐天皇の庄園」の赤丸村が注目された。



















■【越中吉岡庄】(※南北朝時代末期から五位庄に成ったとされる。)は富山県高岡市福岡町赤丸周辺に在った「後白河上皇」から南北朝時代「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園。


🔴【東大寺庄園越中杵名蛭庄と東大寺八幡宮領高瀬庄】高岡市立野に比定された越中の古代庄園⇒(国立歴史民俗博物館庄園データーベース)

2021-04-13 | 越中国吉岡庄・五位庄


◆砺波市では、「東大寺庄園杵名蛭庄」は富山県南砺市の高瀬神社周辺に在る古代庄園跡「高瀬庄」で在るとされていたが、近年、この見方は否定されている。

◆東京大学資料編纂所の報告では、越中の東大寺庄園の中では比較的新しく、【足利尊氏】が寄進した庄園で在るとしている。





◆「国立歴史民俗博物館」では、①この庄園の中に記される「速川」と同じ名前の「延喜式内社速川神社」が、高岡市内の「早川地内」に在り、この「速川」は中世には、「ソフ川」と成り、その後「祖父川」となっていた事が古絵図から判明した。②この絵図の「杵名蛭川」は現在の「千保川」に当たると見られる。




◆この絵図の中の「杵名蛭庄」の隣接地に「ウバラの里」が記載される事から、位置的には「福田薮波神社」と接する「高岡市立野辺り」が想定されるとして「日本庄園データーベース」に掲載される事が決定し
た。







◆「東大寺庄園高瀬庄」は、「足利尊氏によって寄進された東大寺八幡宮領」で在った事が古文書から見られ、「東大寺」の中に「聖武天皇」が九州の「宇佐八幡宮」を勧請された事から、八幡宮の庄園とされたものと見られる。
高岡市立野地区に比定される「杵名蛭庄図」には、「三ヶ所」に「神社所在地」が記されており、実際にはその神社はいずれも「八幡社」で在る。
越中の他の「東大寺庄園図」の中にも神社を示す「社地」の表現が在り、その神社はいずれも「八幡社」で在り、東大寺庄園の中に東大寺の守護神の「八幡社」を祭っていたと見られる。
高岡市佐野地区(十二町島~佐野地区)に比定される「東大寺庄園くぼ田庄図」に記される神社も、実際には「社の扉には仏教の法輪」が記されており、元々は「八幡社」で在った事を窺わせている。



🔴【富山県の源頼朝の統治】⇒【毛利家文書】に記載されている高岡市内島村。➡「源頼朝側近 大江広元」と「越中吉岡庄」(室町時代には五位庄)!!

2021-04-10 | 越中国吉岡庄・五位庄
■鎌倉幕府の正史とも言われる【吾妻鏡】には、源頼朝の「越中吉岡庄」に関わる文書も遺される。















■【富山県高岡市内島村」は、南北朝時代の【毛利家文書(※「萩藩閥閲録」)】に記録が残っている。
「内島村」は後に、隣接の「国吉村」、「石堤村」の一部に編入されている。





▼【長井姓】;垣武天皇の第一皇子(五十一代)「平城天皇」の皇子阿保親王の子孫「長井時広」を祖とする。

■戦国大名の「毛利家」は鎌倉幕府「源頼朝」の家臣として重きを為した「大江広元」の子孫に当たる。隣接の「天皇家庄園 越中吉岡庄」には、「源頼朝」が「成佐」と云う地頭を配置していた事が「吾妻鏡」に記されている。「越中国内島村」が代々、毛利一族の「長井家」に知行されていたと云う事は、毛利家の先祖の鎌倉幕府「大江広元」が知行されていたと云う事か?




🔽南北朝(後醍醐天皇)時代に「大江広元」の子孫は「毛利」と改名して、又、一族の先祖は「長井姓」を使用している。(※「本朝武家評林」)
⇒この当時は、富山県唯一の皇室庄園「越中吉岡庄」が富山県高岡市福岡町赤丸周辺に設定されており、「後醍醐天皇」の領地で在った。



■富山県南砺市の「高瀬遺跡」は、「足利尊氏」が東大寺八幡宮領に寄進した庄園で在った事が「足利義教」の時代の記録に残されている。




🔽「足利義教」が寺領を寄進したとされる愛知県一宮市の「臨済宗別格本山 妙興寺」に遺る【足利義教 像】
「足利義教」は「播磨、備前、美作守護赤松満祐」に暗殺され、赤松氏はその報復で壊滅した。後に「三種の神器」を後南朝勢力から奪った孫に当たる「赤松政則」は「加賀半国守護」(石川県石川郡、河北郡)を与えられた。
その後、加賀前田家の藩士には、赤松一族が士官しており、石川県の「雲龍寺」(旧五位庄、高岡市福岡町加茂村創建)や高岡市の「天景寺」(旧五位庄、高岡市福岡町赤丸村舞谷創建、源氏の笹竜胆紋)は赤松一族の菩提寺とされる。

🔻越中西部の中心地区で在った「越中吉岡庄」、「越中五位庄」!!
「越中五位庄内島村」の隣接地の「五位庄赤丸村」は、「平安時代~鎌倉時代」に「天皇家庄園越中吉岡庄」と呼ばれていた。この庄園は「国吉名」、「赤丸村」、「小矢部市宮嶋郷」を含み、「郷社赤丸浅井神社」はこれらの近郷を統括した「五位庄53ヶ村総社」で在った。
この庄園は、「足利義満」が将軍になった頃には「五位庄」と成り、足利幕府御粮所と成って、後には、「臨済宗相国寺」の庄園として寄進されている。「五位庄」は、室町時代になると小矢部川流域の福野、福光から高岡市中田、伏木河口の六渡寺村辺り迄包含した広大な庄園に拡げられた。
(※「東寺百合文書」、「畠山文書⇒大阪府羽曳野市資料叢書」、「越中絵図」畠山文書)












⇒【越中吉岡庄】の記録(※「兵範記(人車記)」・「吾妻鏡」)


🔽「源頼朝」は「源義経」探索を口実に全国に「地頭」を配置して、後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」には、「地頭成佐」を配置したが、「後白河上皇」から「地頭が不法を働く為、直ちにやめさせる様に」との綸旨が出されている。(※「吾妻鏡」)









■■【承久の乱】と「後鳥羽上皇」の「後院領 越中吉岡庄」!
鎌倉幕府の「源實朝将軍」が暗殺されて、比較的良好な関係だった「越中吉岡庄の庄園領主後鳥羽上皇」は、愛妾の亀菊の庄園での地頭の振舞いに怒り、地頭の廃止を要求した。しかし、幕府は政権の基盤になっていた「地頭の廃止」についてはにべもなく拒否した。幕て府の態度に怒った「後鳥羽上皇」は「元能登守藤原秀康」等の北面、西面の武士団に勅書を下して幕府追討を命じた。幕府側は「源頼朝」の血筋で、「後鳥羽上皇」の中宮の九条家の系統でもある「九条頼経」を将軍として、朝廷との関係を保とうとしたが、「後鳥羽上皇」の幕府に対する怒りは強く、是に対して幕府側は妻の「北条政子」を先頭として徹底抗戦を命令して「承久の乱」が勃発した。
この頃、越中には「後鳥羽上皇」の直轄庄園「後院領 吉岡庄」(※延喜式内社赤丸浅井神社を地主神とする53ケ村から成る古い庄園で、初見は白河天皇の時に京都上賀茂神社として見られる。)があり、この戦いでは、元々、越中砺波郡の豪族であった「石黒一族」を初めとして、越中の諸将は「後鳥羽上皇側」として参戦した。加賀藩の時に新川郡で「鳥見役」を勤めた石黒一族の記録では、「承久の乱」の時に越中の諸将は京へ攻め登り、石黒氏の一族は京に残った者、越前に残った者、越中に戻った者がおり、この内、越前に残った石黒一族は越前朝倉氏に仕えたとされる。
前田家本[承久記]に拠ると、この時の木舟城の『石黒三郎』は砺波山(倶利伽羅山)の戦いで多勢に無勢で幕府に降伏したとされる。この時、加賀の林一族の同族の「富樫氏」は幕府側で戦い、一族での死闘も起ったと言う。
この戦いでは、鎌倉幕府15000余騎に対して越中の「後鳥羽上皇方」は加賀・越中の林、仁科、宮崎、井出、石見、安原、石黒三郎、近藤等の兵3000余騎。宮方は砺波山に3手に分かれて陣を張ったが、幕府方は新潟から攻めて来た「五十嵐党」を先頭として砺波山を越え、粕屋は討死し、仁科、宮崎は一戦もせずに落ち延びて行った。加賀の林次郎、越中の石黒三郎、近藤四郎、五郎等はこの様子を見て不利を悟り、幕府方に降伏した。





⇒この「五十嵐党」はこの戦いの恩賞として砺波郡の「國吉名」を幕府から与えられた。「吾妻鏡」にこの記事が見られる。この時、「國吉名」は「越中吉岡庄」の「延喜式内社 惣社 赤丸浅井神社の神域で在り、この「國吉名」は24ケ村からなっていた様だ。(※「名 みょう」の責任者は「名主」と呼ばれた。)
(※「國吉村誌」・「赤丸浅井神社由緒」→富山県立公文書館「皆月文書」)








■かつての天皇家庄園【越中吉岡庄】が在った「赤丸村」は、南北朝時代に「後醍醐天皇」の庄園となり、南朝の武将の「楠木正成」が活躍した「河内国」の「金剛寺」から、戦乱を逃れて「後鳥羽上皇」の祈願仏の「千手観音像」が【総持寺】(現在、高岡市関町)に伝えられた。この「国指定重要文化財千手観音像」の胎内には「後鳥羽上皇」の法名【金剛位理卿】の名前と「本願聖人」の記載が在る。













🔴源氏の統領【八幡太郎義家】と【越中の源氏】➡【木曾義仲】と「越中石黒氏」他の越中国人領主達の「利波山の戦い」!!

2021-04-10 | 越中国吉岡庄・五位庄
■【源義家】、【木曾義仲】と「越中国」
➡高岡市福岡町向田には源氏の統領「源義家」の記録が遺る。
(※「福岡町史」)
【※この高岡市向田には「高岡市立福岡歴史民俗資料館」が在る。】







■朝香年木氏著【治承寿永の内乱論序説】には、「源平の戦い」に参戦した越中国人に付いて検討されている。その中には「源平の戦い」にも参戦したという福岡町向田を本拠地とした「向田氏」について記載されている。「木曾義仲」は「利波山の戦い」の前に倶利伽羅山に向かう時に源氏縁の「八幡宮」を見つけて、戦いの前に「埴生護国八幡宮」に戦勝祈願の願文を納めている。埴生と向田は至近距離に在り、その地の「向田荒次郎村高」が参戦していた事も関係が深いと見られる。又、埴生と向田の間の小矢部市今石動町は、木曾義仲を「埴生護国八幡宮」へ道案内をした「池田氏」が開発した地域で在り、かつての小矢部市今石動町は「池田」と呼ばれたと云う。
(※越中武士の石黒・宮崎・高楯 ・蟹谷・向田・水巻の諸氏が道案内役を務めたと云う。➡《源平盛衰記》)




▼「後白河上皇」の皇子「以仁王」は「平家追討の令旨」を源氏に対して発せられ、「木曾義仲」や「源頼朝」は平家打倒に立ち上がった。この時に、高岡市国吉村から赤丸村、小矢部市にかけては「後白河上皇」の【後院領 吉岡庄】と呼ばれ、「木曾義仲」に従った「越中石黒氏は吉岡庄赤丸村浅井城を累代、居城とした」と「富山県西礪波郡紀要」に記され、「源平盛衰記」には赤丸浅井城の「石黒光景」・木船城の「石黒光弘」親子の奮戦が記されている。

(※「越中吉岡庄」は「後白河上皇」が創建された京都の「蓮華王院三十三間堂」へ寄進され、かつて「平清盛」は「三十三間堂」の建物を「後白河上皇」の為に寄進した。上皇はその建物に「一千一体の千手観音像」を彫らせて祀られた。「吉岡庄」は「郷社五位庄53ヶ村惣社延喜式内社赤丸浅井神社 由緒」《※「皆月家文書」富山県立公文書館》に拠れば、現在の「高岡市国吉26ケ村」、「赤丸村、高田島、三日市村を含む加賀藩時代の五位庄地域25ケ村」、「小矢部市宮島郷2村」の【53ヶ村】とされ、国吉、赤丸、向田、宮島等を含む広大な庄園で在った。
「宮島郷」は鎌倉時代に入ると源氏縁の「藤原摂関家藤原道家」に与えられている。(※「鎌倉遺文」)
(「国吉村史」拠れば、「平清盛」の全盛期には平家の猛将・越中前司「平盛俊」・「平盛嗣」が「(吉岡庄)国吉名」に館を構えて越中、能登の二ケ国を統治していたと云う。「平家物語」、「源平盛衰記」等にはこの「越中前司平盛俊」➡《越中の前の国司の意味》が平家の猛将として記載されている。)
「平盛俊」は剛力として有名で、「平清盛」の政所別当を務める等そ清盛の側近として仕えていた。(『平安遺文』3891)。清盛からの信頼も厚く、厳島内侍を妻として賜ったという逸話もある(『源平盛衰記』)。安元元年(1175年)には越中守に在任していたとの記録が在る。(『山槐記』8月16日条)






■この「越中石黒氏」を統領とする越中の国人達は、挙って木曾義仲に従っており、義仲の道案内をした「池田氏」の本拠地は「赤丸浅井神社」の門前に屋敷を構えていた。
➡この一族は加賀藩の時代に加賀藩組合頭を勤め、その弟の「五右衛門」がその跡目を継ぎ「赤丸村の村御印」を無くして「手鎖、入牢」を命ぜられた。又、この一族は現在の高岡市関町を所領としており、現在の「総持寺」の門徒を長く勤め、その敷地も寄進したと云う。









🔻【木曾義仲は埴生護国八幡宮に戦勝祈願の願文を納めている。義仲に従った「向田氏」の本拠地「高岡市福岡町向田」は源氏の統領「八幡太郎義家」がかつて、越中守の時に開発した「源義家ゆかりの地」だと云う。➡「福岡町史」】、「群書類従」(※朝野群載)











🔴【源平盛衰記】越中倶利伽羅山の戦い!!

2021-04-10 | 越中国吉岡庄・五位庄




●「源平盛衰記」
富山県と石川県の県境に在る「砺波山」の「倶利伽羅山」で源氏の木曽義仲軍(越中の石黒、向田、蟹谷氏等が従軍)と平家軍が激突した。河内金剛寺の庄園を寄進した「三善(源)義弘」は地域を支配した源氏の武将の首を手土産にして平清盛軍に参陣したが、砺波山の激戦で戦死した。河内金剛寺からは越中吉岡庄に在った「総持寺」に「千手観音像」が伝えられている。




◆《源平盛衰記》(※江戸時代版)














💠🔹【越中刀工 宇多派菩提寺】 【曹洞宗 天冠山 三光寺】富山県高岡市柴野➡ 「織田信長」の四女で「前田利長」の妻【永姫】が中興した畠山家、宇多刀工宗家宇多家、分家宇田家、鍛冶家の菩提寺!!

2021-02-14 | 越中国吉岡庄・五位庄




●【永姫】《天正2年(1574年)~元和9年2月24日(1623年3月24日)》は、「織田信長」の四女で「前田利長」の正室。院号は玉泉院、法名は玉泉院殿松厳永寿大姉。










■高岡市柴野(十日市)に在る【三光寺】は前田利長の菩提寺「繁久寺」の末寺で、「繁久寺」の住職の隠居寺に成った寺。寺紋は「剣梅鉢紋」を使用している由緒在る古い寺で、この寺には室町時代に越中守護を務めた「畠山家」や吉岡庄(赤丸村舞谷 鍛冶屋町島)で南北朝時代から江戸時代迄続いたと云われる越中刀工「宇多家」やその一族の墓が在る。














■「赤丸村」と「畠山氏」
室町時代に、「赤丸住の藤原直家」が「川人山鞍馬寺」や「赤丸浅井神社」の神仏の前で、「鞍馬寺」を再興した父の十三回忌、十七回忌の法要を執り行った記録が「富山県史 中世」の「光厳東海和尚録」に記載されている。この法要を執り行ったのは、富山市蜷川の「越中蜷川氏菩提寺 最勝寺」の住職で「瑞泉二代亀阜和尚」で在る。藤原氏の菩提寺の「興福寺大乗院寺社雜事記」には「応仁の乱」の元凶と成った「畠山義就」の嫡男「修羅法師」の法要記録が在り、この「畠山修羅」の命日と「藤原直家」の父の命日が一致する事から、この法要を執り行った「赤丸住藤原直家」とは、藤原氏の寺「興福寺」に預けられていた「畠山修羅」の息子と見られる。

🔽「越中国利波郡五位庄赤丸村」と記載される「赤丸村」!!
【赤丸村】は「越中吉岡庄」の領主の南朝の【後醍醐天皇】が旗標にされた【赤丸の御旗】から名付けられたと見られる。「後醍醐天皇が」初めて「赤丸の御旗」を作られたのは、吉野への途中で奈良県賀名生の里の「掘家」に宿泊された時とされる。現在も掘家は遺されており、住民が住まいされていると云う。この「掘家」は、「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」、「木船城」や「福光城」を居城とした「越中石黒氏」の一族で「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」で都へ攻め登った石黒氏同族の「掘家」と見られる。
(※高岡市長を八期勤めた掘健二氏は石黒氏同族という。➡※「高岡市史」、「奈良県賀名生博物館」)


▼史上初めて【越中国利波郡五位庄赤丸村】の地名が登場する「赤丸村浅井神社」・「川人山鞍馬寺寺」に於ける法要記録



■「室町幕府」と「五位庄」
「越中吉岡庄」は室町時代に入ると、室町幕府御粮所に成り、「足利義満」は「五位庄」を「臨済宗相国寺」に寄進した。南北朝末期に「吉岡庄」から「五位庄」と改名された後に、越中は八郡に分割され、「利波郡」は「蓮間郡」と「利波郡」に分かれていた。(※室町幕府御粮所; 幕府の兵粮を調達する庄園)
「赤丸浅井城」の在る小矢部川西部は「利波郡」と成り、「畠山文書」の「越中統治絵図」に拠れば、この頃は「赤丸浅井城」は「畠山一族」で【応仁の乱】を起こした「畠山持国」の居城で在った事が記されている。「足利義満」の時代には「越中守護畠山氏の居城」の「赤丸浅井城」の周辺から、「臨済宗」以外の寺院は立ち退きを命じられた。
又、富山市蜷川を本拠とした「足利義満」の近臣で政所代の「蜷川新右衛門」は「新川郡、利波郡」を統治したと云う。(※「蜷川の昔」)

🔽赤丸村の旧家で高岡市関町の「総持寺」の門徒総代を長く勤めた「池田市右衛門家」には「総持寺由来」が伝承され、「赤丸浅井神社神官川人家」に伝えられた。➡【「国主」の命により真言宗総持寺は立ち退きを命ぜられた。】



この内容は、「元臨済宗寺院」で現在は曹洞宗の「三光寺」や越中蜷川氏の菩提寺「最勝寺」にも、同様の伝承が遺されている。



🔽「室町幕府三代将軍足利義満」は、室の「日野業子」の追善供養として【相国寺】へ「五位庄」(改名前は皇室庄園の「吉岡庄」と呼ばれた。)を寄進した。足利義満は母の親族で宇多天皇の末裔とされる「越中蜷川氏」を政所代として重用して「越中国利波郡、新川郡」を所領とした。一門の「蜷川新右衛門」は足利義満の側近として、又、相国寺の僧で在った連歌の「宗祇」の高弟として、後小松天皇の皇子の「一休禅師」とも親交が在り、「一休さん」には「新右衛門さん」として登場する。



























■「三光寺」は、蜷川の「最勝寺」とも親交が深く、何れも曹洞宗で在る。「最勝寺」 は元々、臨済宗だったが、後には曹洞宗に成った様だ。同じく、「三光寺」にも、臨済宗から曹洞宗に成ったと伝わっている。
この寺には、「畠山家」の墓所の周辺に、「宇多一族」の墓所が取り巻いている。この寺の墓所は、ほぼ「畠山家」と「宇多家」一族の墓で埋まっており、この寺が赤丸浅井神社とも近い事から、この寺は、元々は越中守護畠山家の菩提寺で在った可能性が高い。
「藤原直家の法要記録」を遺した「東海宗洋」は守山城城主神保氏の一族で在った事から、「守山城城主神保氏張」が能登畠山氏から神保家へ養子に入った背景は、元々、利波郡で在った赤丸村周辺は能登畠山氏の直轄地で在った事とも関係が深いとも見られる。
又、この地で「玉泉院」が「三光寺」を復興したのは、「守山城城主神保氏張」の妻が父「織田信長」の妹で在り、伯母の離婚後もその息子二人が暮らした「守山城」を近くに見られる場所で在った事とも関係していると思われる。
尚、「高岡守山城城主神保氏張」は「前田利家」との「能登末森城の戦い」に敗れた後に、一旦は佐々成政と共に肥後国に移ったが、成政切腹後は、徳川家の旗本に成って御府内に屋敷を構え、千葉に知行地を得ていたと云う。

■「三光寺」の宝物として、「前田利長」と織田信長の四女で妻の「玉泉院」 の書等三通を保有しており、年一回、正月に公開していると云う。

■「前田利長」の菩提寺「瑞龍寺」には、「玉泉院」の父の「織田信長」の「分骨廟」が在る。

🔴【越中国棟別銭免除在所注文】応永二十年十二月十一日 に記される【越中おいの庄】(※五位庄) (※「京都東寺百合文書」)

2021-02-01 | 越中国吉岡庄・五位庄


🔴【越中国五位庄】の変遷!!
後白河上皇以来の上皇庄園「後院領」から南北朝時代末期迄、天皇家庄園として続いた【越中吉岡庄】は、[足利義満]の時代には室町幕府御粮所となり、【五位庄】に改名されている。
【越中国五位庄】は【越中おいの庄】、【御位庄】や【後位庄】等と過渡期には様々に記録されている。
これらは「後院領」が変化したものと見られている。

【後院領越中吉岡庄】(※国立歴史民俗博物館庄園データーベース)


■「室町幕府第三代将軍足利義満」は「越中五位庄」を室の「業子」の追善供養として自らが創建した「相国寺」へ寄進した。






■京都の「東寺」に遺される【東寺百合文書】に遺される「越中おいの庄(五位庄)」の記録⇒「五位庄」は室町幕府の御糧所として【東寺造営の為の棟別銭の免除】が行われた。


◆【足利義持】は「五位庄の半分を足利家菩提寺の等持院に寄進した」。


◆【羽曳野市資料叢書 畠山文書】
「室町時代の越中行政区画」➡「五位庄赤丸村浅井城」には「越中守護畠山持国」の記載が見られる。「畠山持国」の父の「室町幕府管領畠山満家」は従来の「越中四郡」を「越中八郡」に改めた。



■足利義満の子の義持は応永に愛着を持っていたので、1408年(応永15年:義満死去)の後や1413年(応永21年:称光天皇即位)に伴う改元に反対して「応永」を続けた。応永二十年、天皇の即位の為に各地へ宮中造営分担金の免除を通知した。応永二十二年、「足利義持」によって「足利家菩提寺」の「等持院」へ「五位庄の半分」が寄進された。