赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚📘「東大寺」の「修二會(お水取り行事)」と「東大寺上院修中過去帳」⇒越中の石黒氏の祖「利波臣」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「赤丸浅井城」を再興した「越中石黒氏」の祖は越中国司「利波臣志留志」とされる。
「義経記」では「浅井城」を「如意の城」と記載し、「小学館版」等の解説では「五位の城」(※「赤丸浅井城」)の事としている。(※「赤丸浅井城イメージ」)






(東大寺HP参照)

■東大寺修二會(お水取り行事)の「籠松明 カゴタイマツ」




■「越中石黒氏」の祖の「利波臣志留志」(※富山県礪波[利波]郡の起こり)は、東大寺大仏の造営の為に「米五千石」を寄進した。「東大寺お水取り行事」では、毎年3月5日、12日に大仏造営の功労者として「過去帳」の中で「米五千石を寄進した利波志留志(リハノシルノサクヮン)…」と読み上げられている。(※「東大寺修院過去帳」、「東大寺正倉院文書」、「東大寺要録」、「続日本紀」)

寄進者筆頭に記載される「利波志留志」の系統は「孝元天皇」の子孫とされるが、その後は幾つかの系図がある。(「越中石黒系図」、「古事記」、「日本書紀」)


「越中石黒系図」
(※「福井県史」では「利波臣」、「射水臣」は「孝元天皇」、「武内宿弥」の子孫とされる。「利波臣」は系図では「波利古臣」とされる。



■「古事記」では「利波志留志」は「孝霊天皇」、「日子刺肩別命」の子孫「高志利波臣」の子孫とされ、「利波臣」の「臣」は天皇系の一族を示す。
⇒「志留志」は「石黒系図」の「諸石」で有り、「誌石」の誤記であろうとされる。





(※「北陸古代の政治と社会」米沢康著、「砺波散村地域研究所研究紀要第一号」の「古代砺波の地方豪族」米田雄介著 参照)


(※「越中石黒系図」、「越中石黒氏系図」(※富山県姓氏家系大辞典)、「越中国官倉納穀交替帳」より作成)
《※「越中国官倉納穀交替帳」の写本は高岡市立中央図書館に在る。》

■利波臣は天平勝宝3年(751年)に利波臣虫足が郡司の「少領」に任じられ、天平神護3年(767年)には利波臣志留志が員外・外従五位下となり「国司」の「介」(この年、一年限りらしい。)に任じられ、その後も自らの荘園「井山荘100町歩を東大寺に寄進」して、従五位上に叙任される。その後、利波臣は延喜10年(910年)にも従八位上利波臣保影が「少領」となり、この時に従八位上射水臣常行はその上の「大領」に任じられている。(※「越中国官倉納穀交替帳」滋賀県大津市石山寺蔵)
「越中石黒系図」によると、利波臣はその後も郡司大領に任じられていたが、「豊久」の代に少領外従六位上となっていたが、豊久は藤原氏の加賀林貞光の猶子となっていた藤原氏の越中石黒氏石黒権太夫光久を後継者とした事で、以後は利波臣は石黒氏に継承された。この時から、越中石黒氏の傍系の福満氏の系統は藤原利仁末裔の「加賀林氏」と「利波臣」の両家を引き継ぎ、傍系の石黒氏は藤原氏と名乗ったり、利波氏を名乗ったりしている。
(※「石黒氏」は元々、石黒庄の開発に中央より送り込まれた藤原一族だったと云う。)


■東大寺で毎年の春に行われる「お水取り」と云う行事がある。
この儀式は二月二十日から「別火」と言う準備ので行法から始まり、練行は、三月一日から上七日、下七日、あわせて十四日の儀式である。「修二會」即ち「お水取り行事」は、十二日目に本堂の下の閼伽井アカイ屋と呼ばれる井戸から水を汲み取る儀式が有り、この為にこの勤行自体が「お水取り」と称されている。「修二會」の源流についてはいろいろあるらしいが、寺伝では「開山良辮和尚の弟子實忠和尚が天平勝寳三年に、笠置寺の龍穴に入り修行中に浄土の壮麗な有り様に出会った。そこでは諸々の天衆が集まり十一面観音を祀って修行していた。そこで、實忠はこの行法を人間界にも伝えたいと思って天衆に相談した所、天界の一日は人間界の四百年にも当たり行法も難しく一日千回の行道を勤修しなければならず、又、人間界で指導できる生身の観世音がいなければ修行は徒労に終るだろうと告げられた。しかし、實忠は生身の観世音がおられて人間が四百年、千回の修行を行えばこの勤行はできると考えた。そこで和尚は摂津の難波津に赴き、そこから補陀落山に向かって祈願勘請した所、御丈七寸程の十一面観音が海の向こうから一枚の閼伽折敷に乗ってやって来られた。その観音像は人肌の温もりが在った為、實忠はこれこそ生身の観世音に違い無いと、二月堂に安置して天平勝寶四年二月一日から浄土の型の観音供養の行法を勤めたと云う。」この行事がお水取りと呼ばれて、七百五十二年から今日迄1260年余りの間続けられている。因みに、天平勝宝4年は「東大寺盧舎那仏像開眼供養会」が行われた年である。この行事は十一人の練行衆で勤められ、其々が役割を持ち、和上、大導師、咒師 ジュウシ(呪文を唱えて加持祈禱を行う僧 )、堂師の四職と平衆で執り行われる。この他にも様々な会計、雑事、湯屋、松明の準備室、飯炊等の担当等が有り、総勢五十名を超える大部隊の行事である。練行衆は東大寺別当が任命し、前年の十二月十六日の開山良辮僧正の忌日法要の席上で配役と共に発表される。東大寺は八宗兼学の寺であるが、東大寺別当は華厳宗の管長で有ることから華厳宗で執り行われる。
※【八宗兼学】 →(八つの宗派を併せて学ぶ)
天台宗(開祖:最澄)、真言宗(開祖:空海)、日蓮宗(開祖:日蓮)曹洞宗(開祖:道元)、臨済宗(開祖:栄西)、浄土宗(開祖:法然)、浄土真宗(開祖:親鸞)、時宗(開祖:一遍)
→[日本での開祖]を指している。
・学派として[南都六宗] ;三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗

■「お水取り」行事の由来
「實忠和尚は二十七日夜の行法をされ、諸神一万三千七百余座の神々を招来されたが、若狭国の小潤生明神 オニブミョウジンは魚を採っていて遅参した。神は是れを嘆き、その怠りに道場の畔に香水を出して来なさいと命じる様に實忠和尚に示された。その時、黒、白二羽の鵜がにわかに岩の中から飛び出し、傍らの樹に止まった。しかも、その二羽の跡から本当に沢山の甘泉(美味しい水)が湧き出した。そこで石を組んで閼伽井(仏に捧げる清水の井戸)を造られた。かの小潤生明神が小浜の小潤生川の水龍を招いて東大寺の観音に奉った為にその川の水は枯れてしまい、その後はこの川を『音無川』と呼んだと云う。」
音無川は若狭国小浜市を流れている小川である。若狭国でもこれに該当する「二月堂への水送り行事」が有る。小浜市の音無川上流約4キロに白石神社が有り、その境内に川のよどんだ場所が有り、これを「鵜の瀬」と呼び、夜半十二時頃に手松明を炊きながらそこに集って送水の式を行うと云う。現在は、この式は東大寺と関係無く行われているが、(昔は若狭に東大寺の庄園が在った。)二月堂との直接の関係は無いと云う。この若狭からの水が東大寺の閼伽井に流れ来ると云う伝説から「修二會」の行事全体が「お水取り」と呼ばれたらしい。
この「お水取り」行事では、閼伽井の水を観音像に捧げたり、様々の行事があるが、ハイライトは十二日から十四日の3日間、勤行の後に行われる「達陀 ダッタン」の妙法である。その他、鈴や法羅貝の音楽が有り、十二日には「お水取りの式」が有り、「籠松明 カゴタイマツ」という二十貫もある大きな松明を堂の縁で振り回し、火の粉で厄を払う。この火の粉は子供の夜泣きを止めると言う。行事では「神名帳」の読み上げやお経の転読等が行われる。お経はお昼の食堂作法から日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝、徹宵の勤修がある。

■「東大寺上院修中過去帳」
五日目と十二日の初夜の終わりには、東大寺所縁の人達の「過去帳」が読み上げられる。

🔽『東大寺上院修中過去帳』記載の関係者
⇒本願聖武天皇、元正皇太后、光明皇后、行基菩薩、孝謙天皇、藤原不比等、橘諸兄、良辮僧正、實忠和尚、大仏開眼天竺僧正、隆尊律師、観音願主尾信勝、虚空蔵願主尼善光、造寺知識功課人、大仏師国君麻呂(百済から亡命した仏師)、大鋳師真国、高市真麿、鋳師柿本男玉、大工猪名部百世、小工益田縄手
材木知識五萬一千五百九十人、役夫知識一百六十六万五千七十一人、金知識二十七萬二千七十五人、役夫五十一萬四千九百二人、 米五千石奉加利波志留志、銭一千貫奉加河俣人麿、銭一千貫車十二両牛六頭奉加物部小嶌、銭一十貫奉加甲賀真束、別当良興僧都、良慧僧都、永興僧都ーーー桓武天皇ーーー嵯峨天皇ーーー淳和天皇ーーー仁名天皇ーーー文徳天皇ーーー陽成天皇ーーー光孝天皇ーーー宇多天皇ーーー宇多天皇ーーー朱雀天皇ーーー村上天皇ーーー冷泉天皇ーーー圓融天皇ーーー長官頼忠関白ーーー華山天皇ーーー一条天皇ーーー三條天皇ーーー後一条天皇ーーー後朱雀天皇ーーー後冷泉天皇ーーー後三條天皇ーーー堀河天皇ーーー白河天皇ーーー近衛天皇ーーー鳥羽天皇ーーー後白河天皇ーーー虚空蔵並増長天大仏師幸慶法眼ーーー当寺造営施主将軍頼朝右大将ーーー青衣女人ーーー大勧進栄西僧正ーーー当寺造営大施主将軍實朝将軍ーーー平義時左京権大夫(北条義時)ーーー後高倉法皇ーーー大仏脇士観音並廣目天大仏師快慶法眼ーーー同脇士多聞天大仏師定慶ーーー禅惠法師ーーー後堀河天皇ーーー四條天皇ーーー平泰時左京権大夫(北条泰時)ーーー後嵯峨天皇ーーー頼真大法師 他 (一部分抜粋)
(慶應二 丙寅書写 宮内卿晋海) (※「青衣女人」飯島幡可著)


※「米五千石奉加利波志留志」は越中石黒氏の祖とされ、越中の東大寺庄園の開発にも関わった人物。
※「禅惠」・「頼真」は河内金剛寺から高岡市にある総持寺(元は赤丸村)に伝わったとされる国指定重要文化財木像千手観音座像の胎内にも記載されている。(同一人物かは不明!)
※「青衣女人」は 亡霊の様に現れ、掻き消す様に消え失せた伝説的な人物で未だに誰かは分からない。




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