赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🌄 【室町幕府将軍足利義勝と高岡大仏】⇒高岡市指定文化財【高岡大仏】と五位庄赤丸村極楽谷創建の【高岡越中宮極楽寺】!!

2022-01-26 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

(室町幕府第六代将軍足利義教ヨシノリ)


🔻「高岡大仏」は「多田(源)義勝」が造営したとされる。これは、「足利義教」が恐怖政治を行った為に、家臣の「播磨国赤松満祐」に暗殺され、その為に赤松氏は滅ぼされた。その後、赤松一族の残党が「南朝」の末裔の皇子を殺害して「三種の神器」を奪い、それを幕府に提出した。「赤松満祐」の子の「赤松政則」は、その恩賞として「加賀国半国(石川郡・河北郡)」を与えられて「赤松家」の再興を認められた。



■現在、高岡市には「博労町極楽寺」と「坂下町極楽寺」の2ケ所の【極楽寺】がある。博労町極楽寺は「五位庄極楽谷(赤丸村)」(※南北朝時代迄は「越中吉岡庄」)に「後醍醐天皇八宮宗良親王」が創建されたと伝わる。「博労町極楽寺」の「越中宮極楽寺由緒」には【赤丸村に240年近く在った】のだと云う。(※牧野に在ったと云う説もある。しかし、「射水郡史」に拠れば、当時、高岡市の牧野地区を治めていたのは、「赤丸浅井城」の「越中石黒氏」の一族の「牧野太郎二」で在ったと言う。)

■「坂下町極楽寺」は「博労町極楽寺」の末寺である。極楽寺は「五位庄極楽谷(赤丸村)」に創建され、その後高岡市の守山に移ったとも伝わる。【室町時代に「五位庄」が「足利義満」によって「臨済宗相国寺」に寄進されて、その時、越中守護の城の「赤丸浅井城」周辺から、「臨済宗」以外の寺院は立ち退きを命ぜられた】と現在も「柴野三光寺」等の臨済宗寺院では語り伝えている。
現在の高岡大仏は、【およそ800年前、摂津の国多田(兵庫県)に住む源(多田)義勝が「承久の乱」[承久3年(1221年)]を避け、入道して越中に移り、二上山麓で護持してきた丈 8寸の金銅仏を腹中に納めた一丈六尺の木造大仏を造営したのが高岡大仏の始まりと伝わる】と言う。「清和源氏」の系図では、この「源義勝」は、【かつて「赤丸浅井城」に在城した「越中守護畠山持国」が「室町幕府管領」に昇格して「烏帽子親」と成り、「足利義勝」を室町幕府第七代将軍に推戴した】と言う。

🔽その後、330年を経た天文弘治の頃、「神保安芸守氏張」が「守山城」を築き、この大仏を【鎮守仏】として崇めたとされる。
★高岡市国吉の【柴野城】には、上杉謙信から五位庄安堵状を受け「守山城城主神保氏張」と行動を共にした【寺島牛介】が、赤丸浅井城には氏張の甥の【中山直治】が入城していた。(現在の高岡「大仏寺」境内の鐘楼には、「柴野城城主寺島牛介」の子孫で加賀藩高岡町奉行であった「寺島蔵人」が鋳造寄進した高岡町の時鐘《※現存の物は再製造した物》が掛けられている。)

■大仏は慶長14年(1609年)「前田利長」が高岡城築城の時に現在地の大手町に移された。その後150年を経て荒廃した為、坂下町極楽寺第15世等誉上人はこれを憂え、弟子の良歓を勧進職として延享2年(1745年)9月に再建された。
以来、高岡市民に親しまれたが、文政4年(1821年)6月の大火で類焼したが腹中の金銅仏のみが焼失を免れた。その後、極楽寺第26世譲誉上人が発願し、田中、津幡屋、桶屋等の信徒が再建に奔走して天保12年(1841年)木造一丈六尺の座像が建てられた。光背の舟御光の頂上に三重の宝塔を据え、この中に火中出現の金銅仏を安置、火中出現仏の左右に十二光仏を並べ、更に全面に千体仏が配された。
しかし、明治33年(1900年)6月の高岡大火で再び焼失した。信徒の世話頭松木宗左衛門は大仏の復元を一生の悲願とし、極楽寺第31世良禅上人と共に不燃の大仏の鋳造を発願、荻布宗四郎らの協力により昭和7年(1932年)12月に完成、翌年5月に開眼式が盛大に挙行された。
その後、昭和56年、平成19年に部分的な改修が行われて、今日、高岡市の観光名所となっている。
(概要)
総高 18m85cm 座高 7m43cm 総重量 65t
特徴 鎌倉大仏には無い外径4m54cmの円光背を背負っている。
(※「極楽寺資料」参照)




■「源義勝」を調べると
【源義勝】;室町幕府第七代将軍足利義勝。永享6年2月9日(1434年3月19日)に第六代将軍足利義教の嫡男として生まれた。六代将軍の足利義教が嘉吉の乱(1441年)で暗殺された為に、わずか9才で将軍職を継いだ。しかし、足利義勝は、将軍職を継いでからわずか8ヶ月で、病死したと伝えられる。⇒義勝が若くして亡くなった事と年代の相違から同名異人だろうか? 考えられるのは、烏帽子親とり、「赤丸浅井城」に在城した「越中守護畠山持国」が手配をして高岡市守山に建てたか、神保氏を頼って越中に逃れ、「越中射水郡放生津城」で臨時政権を立てた「第10代将軍足利義材」が先祖供養の為に建てたかで在る。「足利義材」は越中利波郡の石堤村西光寺に度々、訪問して寺領を寄進したと伝わる等、越中臨時政権の期間に越中西部での統治を行っていた記録が在る。(※「西光寺縁起」高岡市石堤)
【注意】高岡市の歴史では「前田利家」が居城にした「高岡市守山」に様々な記録を作り替えた歴史が喧伝されている様で、この「高岡大仏」の元々在ったのは、「高岡市守山」では無く、「後醍醐天皇第八皇子宗良親王」が後醍醐天皇の庄園で在った「越中吉岡庄極楽谷(赤丸村)」に「越中宮極楽寺」を建立された時に、この時から既に本尊として「越中宮極楽寺」に安置されていたと考えるのが筋が通る。「越中宮極楽寺」は「越中宮極楽寺由緒」では「赤丸村に二百数十年間在った」としながらも、加賀藩に対しては「守山に在った」と加賀藩に媚びる報告書を提出している。(※「高岡史料」高岡市役所編纂)
全員の住民の首を撥ねたり(※「荒山戦記」)、釡煎り、張り付け等の残虐な殺戮を繰り返して恐怖政治を行っていた「前田利家」(※「能登、武生での虐殺」)や「前田利常」(※「利常夜話」)の事蹟に逆らわ無い様に各寺社は細心の注意や作文で対応していた事が、「加賀藩の歴史」やその後継の「高岡市の歴史」では頻繁に現れる。








▼【※第7代将軍足利義勝(父:足利義教、母:日野重子 )
生誕 永享6年2月9日(1434年3月19日)-死没 嘉吉3年7月21日(1443年8月16日)  享年10歳(満9歳) 
墓所は安国寺慶雲院にあったが、焼失して現存せず遺骨等も所在不明になっていると言う。木像は足利家菩提寺等持院に現存している。応永22年(1415年)越中五位庄の半分が足利義持により足利家菩提寺等持院に寄進される。下地は守護畠山満家に預け置きになった。
(※「足利義持御判御教書案」)】
⇒「源義勝」の年代は「承久の乱」では無く、この年代では嘉吉元年(1441年)に【嘉吉の乱】が起こり、父・義教が「赤松満祐」に暗殺されたため室町殿へ移され、翌嘉吉2年(1442年)に管領「畠山持国」・「細川持之」ら等に擁されて9歳で将軍職を継ぎ、第7代将軍となった。





▼この由緒からすると、嘉吉元年(1441年)に「嘉吉の乱」で「将軍足利義教」が暗殺され、混乱の中で足利家菩提寺等持院の庄園の五位庄近くの越中守山に逃れたその子の「足利義勝」は、父の「足利義教」の供養の為にこの大仏を造った事になる。しかし、義勝の越中在住の記録は無い。

📌しかし、「足利義教」を【烏帽子親】として元服した足利一族の「畠山満家」の子供の「畠山持国」は、「羽曳野資料叢書」の「越中絵図」に拠れば、越中利波郡の「赤丸浅井城」に居城を構えて、「将軍足利義教」を烏帽子親として元服して、その子の「畠山義勝」の将軍推戴を進めている。この関係からすれば、「将軍足利義教」が赤松満祐に暗殺されて後に将軍の座に就いた「足利義勝」が、亡父の供養の為に「守山に寺を建てて大仏を造営した」事は在りうる事で在り、その実務は、「越中守護畠山持国」が執り行った可能性が大きい。室町時代の「五位庄」は、「越中絵図」に拠れば、富山湾の「伏木港」や「守山」から「福野町」迄を含んでおり、その「五位庄」は父親の「畠山満家」以来、「守護畠山氏」の支配地で在った。従って、「高岡大仏由緒」に記載される「源義勝」は先ず、「足利義勝」とみて差し支えない様だ。




🔻室町時代の「越中絵図」(※「畠山家文書」羽曳野資料叢書)


🔻「延喜式内社五位庄53ヶ村惣社 赤丸浅井神社」を鎮守とした【赤丸浅井城】には「畠山持国」の記載が在る。(※「越中絵図」畠山文書)







🔻「岩松畠山氏系図」(「越中守護畠山氏」、「室町幕府管領畠山氏」)


🔻越中守護から室町幕府管領になった「畠山持国」は、「将軍足利義教」を烏帽子親として元服して、その子の「義勝」を将軍に迎えている。


🔻「源(足利)義勝」は管領「畠山持国」が将軍の座に迎えている。


出典「続群書類従 第五編 系図部」



▼「越中五位庄」は「足利義満」が「相国寺」(塔頭寺院は金閣寺)の庄園として以来、足利家とは密接な関係にあり、石堤村西光寺縁起に「明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材(義植と改)再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 」として、「足利義材が越中に逃れた時に石堤西光寺を本陣として戦い、後に寺領の寄進を受けた」として足利家と五位庄の歴史を記載している。又、富山市の「蜷川の郷土史」に拠ると、室町時代には足利義満の近臣の蜷川新右衛門の一族「越中蜷川氏」が新川郡、利波郡を統治していたとされ、足利義満の母はこの越中蜷川氏で在ったと記載されている事から、当然、砺波郡の「五位庄」と幕府は最も近い関係に在ったと見られる。



●「源義勝」となっている部分は年代が「足利義勝」の年代では無く、「承久の乱の時」とされており、「北条義時」の年代になる。高岡大仏の由緒では「越中宮守山極楽寺の住職が残した由緒」に記載される「源(多田)義勝の建造」とされる由緒だけが残され、摂津源氏が創建した事になっているが、その人物は特定されていない !!

🔽先ず、先の検証から「源義勝」は、「足利義勝」の事と考えられるが、能登の「鳳至郡誌」には、【摂津多田源氏の末裔が加賀に逃れ、後に前田家に仕官していたが、後に帰農して十村役を勤め、一時期には「原家」を名乗ったとされる一族が在る】とされる。この系統は「鹿ヶ谷の変」で後白河上皇の動きを平清盛に通報したが、後に源氏側から「多田庄」を没収されて追放された「摂津源氏多田行綱」の末裔で、その子の「基綱」は旧領回復を目指して「承久の乱」に参戦して後鳥羽上皇側で戦った。しかし、破れて「基綱」が処刑された事が「吾妻鏡」に載せられている。
「基綱」の子供は伯父の養子になり、子孫は存続した様で、その子孫が加賀に落ち延びて、加賀藩に仕官した様だ。しかし、この系図でも「義勝」は見られ無い。





■「越中国」と「源氏」の因縁
越中の【長沢氏】は「源頼光」の子孫で越中長沢に土着して【長沢】を名乗ったと云う。

【長沢氏の出自】
長沢氏は越中国の国人で鎌倉時代に越中に土着した清和源氏の一族とされ、婦負郡長沢の地から姓を「長沢」として、南北朝時代には南朝軍の「桃井直常」に従っている。「越中守護桃井直常」は「高岡守山城」や砺波市の「増山城」、福光の「松根城」等を居城として戦っている。長沢氏の一部は、その後、室町幕府奉公衆に転じた。戦国期の長沢氏は氷見地方にも勢力を持ち、氷見市の「海老瀬城主長沢善慶」の名前が伝えられ、氷見市の「真言宗上日寺」には、その一族と見られる「長沢光国」が元亀3年(1572年)に寄進した石仏群が遺されている。長沢氏は後に「狩野」と名を変えて室町時代には越中に「狩野氏」が配置されていた事が「畠山文書」の「越中絵図」に記されている。

(※「越中絵図」には、「赤丸浅井城」に「越中守護畠山持国」の記載が在る。)


🔽「福岡町史」には富山県西部の五位庄の高岡市福岡町の【向田(村)は康平7年 (1064年) に「源義家」が越中守の時、 家臣の向田行光に命じて開拓した場所】と記載され、越中国は源氏の棟梁として「八幡太郎義家」が越中守として統治していたとの記載が在る。(※「朝野群載」)
「源頼光」の父は摂津源氏の「源(多田)満仲」。高岡市の【高岡大仏】は「当初、多田義勝が守山に建てた寺院の仏像」に由来するとされ、「高岡大仏の胎内」には大きな木製の仏頭だけが遺されている。
(※「源頼光」⇒子孫の「源義家」は越中に赴任している。その後、源平の騒乱を経て、越中は「源頼朝」の統治と成り、「越中国吉岡庄(赤丸村)」には頼朝直轄の越中守護「成佐」が配置されていた事が「吾妻鏡」に見られる。室町時代になると第三代足利(源)義満は越中国五位庄を室町幕府直轄の御粮所にしている。)

「朝野群載」







■徳川家臣となった越中守山城の神保氏張の系図を調べると、先祖は秩父平家としながらも、先祖は土屋、中村、二宮、神保と名乗って姓を代えている。神保氏は古くからの畠山氏の家臣だったが、氏張が養子に入った神保氏の先祖は代々「神保」を名乗り、高岡市の守山城を居城としていたとされる。(※越中の神保氏に二系統が在り、徳川家臣名簿では三系統見られる。)高岡大仏は守山に創建された寺に祀られたと伝わり、少なからず神保氏との関係が推測される。能登畠山氏は平家の畠山重実が北条氏に殺害された後に足利氏が重実の妻(北条の娘)と婚姻して源氏系畠山氏となっており、承久の乱の時には源氏の足利一門となっていた。従って、能登畠山氏から養子に入った神保氏張は実は源氏の血を継いでいた人物だ。この「足利義勝」で調べると、室町幕府第七代将軍の「足利義勝」が出てくる。これだけの巨大な木造大仏を造る財力を持った者は「承久の乱」の頃なら、北条氏、北条一門の名越氏、畠山氏、又は源氏の足利氏、代々守山城を居城とした神保氏が想定される。しかし、この大仏の由緒では、「承久の乱の時」となっており、「承久の乱」は「後鳥羽上皇」が北条一門に対して仕掛けた乱であり、時代は鎌倉時代である。この時に赤丸村周辺の「越中吉岡庄」(※後の五位庄)は、後鳥羽上皇の「後院領」であり、続く石動山は天皇の勅願所であり、守山周辺は後鳥羽上皇と繋がりの深い地域だった。「承久の乱」では、越中の天皇家末裔の石黒一門や、縁者の宮崎一門が中心となり、越中の国人が後鳥羽上皇の御味方となって戦い、石川県でも藤原氏の名門の加賀林一門も上皇の御味方をした。しかし、圧倒的な北条一門の力に北陸勢は敗れて降伏した。降伏した武将は幕府により処罰され、下級武士は百姓の身分に落ちとされたと云う。承久の乱では、越中も戦場となり、多くの死亡者を出したと云う。この時に、源氏の足利一門は鎌倉幕府側であり、「源(多田)義勝」が高岡二上山の守山に来て、大仏造営を祈願した事になる。
鎌倉幕府北条一門の「名越朝時」は「承久の乱」の時(1221年5月19日 )に北陸道大将軍となり、勝利して力を持ったが、台頭してきた足利氏と対立して足利氏よりも立場が低くなり、源頼朝の縁者で藤原摂関家から鎌倉幕府将軍となった「九条頼経」に接近する。守護として加賀守護・能登守護・越中守護・越後守護となり、越中では富山県西部の放生津に拠点を構えて(鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中国守護所の後に放生津城となる。)勢力を持ったが、名越時有の時に越中に流されていた後醍醐天皇の皇子「恒性皇子」を殺害し、遂には南北朝の戦いで一族は海に追われて全滅した。従って、「承久の乱」の後に「二上庄」を制圧していたのは名越氏だが、この時期に二上庄で勢力を持ったのは「神保氏」と見られる。しかし、名越氏にしても、神保氏にしても、「承久の乱」の時には何れもが「平家」であった。「承久の乱」は将軍源実朝が暗殺されて源氏の直系が絶えた時に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に仕掛けた戦いであり、何故、この時期に「源義勝」が守山の地に来て大仏造営を祈願したかは謎である。「承久の乱」では、摂津国守護の大内惟信や同族の「多田基綱」他の畿内の武士の多くは「後鳥羽上皇」方に属して敗れたが、一族の能勢氏は幕府方に属したとされる。多田源氏は、平安末期の「源(多田)蔵人頼憲」(源頼光の五世孫)が従六位で昇殿を許された事が『本朝世紀』(久安三年六月)に見え、ついで「保元の乱」では「崇徳上皇・藤原頼長(越中吉岡庄領主)」に味方して、その子の「多田盛綱」と共に斬られた。この乱の時に、兄の「多田頼盛」は「後白河上皇」方についたとされる。(※越中吉岡庄はこの乱の後に「後白河上皇」の「後院領」になった。)
その子の「多田蔵人行綱」は、治承元年(1177年)に、平清盛打倒を図る「鹿ヶ谷事件」に加わったが後白河院近臣の仲間を密告して自身は罪を免れた。次いで、「源三位源頼政」が平氏打倒の兵をあげる時に、頼政が各地の源氏の名をあげた時に、多田行綱に続けて、多田次郎朝実、手島冠者隆頼(能瀬三郎高頼)の三兄弟が『平家物語』の「源氏揃え」に見える。「多田行綱」は「寿永の乱」では反平家の軍事活動をし、また文治元年(1185)に頼朝に追われた義経一行を摂津河尻で豊島(手島)冠者とともに襲撃し、その前途を妨げた行動もとった。多田行綱の行動は鎌倉の源頼朝に疎まれ、多田荘は多田氏の手から没収され、頼朝一族の大内惟義の支配となった。しかし、その地に多田氏は残り、多田行綱の子の「多田蔵人基綱」は、「承久の乱」に際して、その子「多田重綱」と共に「後鳥羽上皇」方に参加し、破れて斬首された。(※『吾妻鑑』(承久三年六月条)「承久の乱」の後、多田荘は北条得宗家の所領となり、当地の多田一族は次第に衰えた。
(※「古樹紀之房間」古代氏族研究会公認HP 等参照)



●加賀、能登、越前で勢力を持ち、「真宗の国、門徒の持てる国」と云われた「一向一揆」の時に本願寺坊官として戦闘を指揮した「下間氏」がいる。その時に一揆の勢力が「五位庄」に集結して、「赤丸浅井城」には「下間和泉」が入城したと「越中史徴」は伝え、富山県公文書館には「下間頼龍の赤丸門徒からの志納銀受取状」が残されている。下間氏の初代源宗重は源頼政の玄孫で摂津源氏の流れの美濃の「多田氏」であり、「本姓は源」を名乗っている。承久元年(1219年)に同族の源頼茂(頼政の孫)が後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」で鎌倉幕府打倒を企てたとして討たれ、多田宗重も連座して処刑される事となった。この時にたまたま通りかかった親鸞が処刑する事の非を説き、親鸞が宗重を出家させる事を条件に助命された。宗重は親鸞に帰依して東国での伝道に随従した。親鸞が常陸国下妻(現在の茨城県下妻市)に庵を構えた時に宗重は「下妻」を名乗り、これが「下間」になったと云われる。この「多田氏」系の「下間氏」は後に徳川に仕え、「池田」と名乗っている。
親鸞が後鳥羽上皇の怒りに触れて佐渡に流された。親鸞はこの時に北陸道を越後に向かって下ったと言われ、北陸道沿いには浄土真宗の信仰が根強く残る。親鸞は藤原氏の日野家の出自であり、京都の法界寺の南東に隣接する日野誕生院は、浄土真宗開祖・親鸞(1173年-1263年)の生誕地といわれており、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の別院、飛地境内となっている。本堂に本尊の阿弥陀如来像の両脇には親鸞幼童の御影像と親鸞の父の日野有範の木像が祀られている。日野家は源氏の足利義政の妻の日野富子を輩出し、応仁の乱の元凶とされる。この日野家の菩提寺もこの法界寺である。⇒「赤丸浅井神社」を中心とした「越中吉岡庄」もこの足利、日野共密接な庄園で在った。

●加賀の「多田氏」
多田源氏の「多田蔵人行綱」は「源頼朝」に勘当されて領地は一族の「大内氏」に与えられた。その後、「多田蔵人行綱」は放浪して加賀に至り、加賀にはその末裔が残ったと云う。
【油屋多田氏系図】
多田満仲ー頼光ー頼国ー明国・・行綱・・多田五郎政明(河合藤左衛門宣久・朝倉家ニ仕、後ニ河合村に住ス、蓮如ヲ支持、後ニ討死)ー河合藤左衛門虎春ー藤左衛門才覚ー藤左衛門満春ー坪野屋源六頼久ー坪野屋藤左衛門仲政ー油屋与助信光ー油屋九郎右衛門満久ー油屋九郎右衛門頼晴・・・

・「加賀多田家初代五郎政春は室町時代の応仁の乱の時期に摂津国にいて、一向宗の蓮如に協力していた。蓮如が比叡山の宗徒に追われて越前国朝倉氏の協力で越前国吉崎に道場を開いた頃に、五郎政春は越前朝倉氏に仕えたが、何故か朝倉氏の禄を辞して、加賀国能美郡河合村に来て、河合藤左衛門宣久と名乗り、子の右京介虎春と住むようになった。」
(※野村昭子氏著『五葉松が語る多田家五百年の歴史』)

・石川県鳳至郡の多田源氏末裔;【多田家 鵜川の多田家は蔵人源行綱の末裔と伝ふ。其祖前田氏に仕へ、二代利長の越中に隠棲するや、之に随ひて亦越中にあり。偶々君側の奸を除かんと欲し、他の十七人と党を結びて之を殺害し、為に罪を獲て浪人となり、同國に於いて帰農す。寛文中その裔綱村の時に至り鵜川に移る。これを鵜川多田の第一とす。然れども前田氏を憚り、一時故らに原氏を冐ししことありといふ。爾来十村役、扶持人十村役等勤めしが、第五世範村に至り、自ら十村役を辞し、書を送りて荻生徂徠の門に入り、又金沢に行きて勉学し、後子弟を集めて教授せり。】⇒加賀の多田氏や越中吉岡庄の歴史から、浄土真宗の開祖親鸞と繋がる日野家や、多田家が浄土真宗の北陸の拠点とした加賀吉崎の地頭であった朝倉氏家臣とされる事から、浄土真宗との強い関係が推定される。
(以上「北摂多田の歴史」参照http://hokusetsuhist.sakura.ne.jp/newpage1tada.html)

・摂津国多田荘を拠点とした多田源氏がある。この系統は摂津源氏とされ、その子孫は多田源氏を名乗った。多田源氏の子孫で「塩川氏」を名乗った一族には、後に「神保」を名乗っている人物がいる。塩川伯耆守の曾孫神保元仲の手紙が摂津中村城城代の中村家文書に残ると云う。


●南北朝の頃、越中長沢に拠り「長沢氏」を名乗った一族は、多田源氏の一族とされる。

●清和源氏で能登畠山氏に従った「長谷部信連」の祖の源満慶は「多田氏」を名乗っている。
後に、この一族は加賀藩重臣となり、「長家」と呼ばれる。この一族は「承久の乱」の時には鎌倉幕府側の九条頼経将軍、北条氏、能登畠山氏に従って戦っており、長谷部氏が能登、越中守護畠山氏の有力武将で在った事から、この源義勝(多田義勝)も長谷部氏の一族の可能性もある。


●高岡市守山城「神保氏張系図」(※「静岡県立図書館」)





「室町幕府第七代将軍足利義勝像」(※京都の足利家菩提寺「等持院」所蔵)
※「赤丸浅井神社」を中心とした「越中吉岡庄」は、足利義満により相国寺(金閣寺)の庄園とされ、その後も足利家菩提寺の等持寺、等持院の庄園となっていた。








●「足利家」・「日野家」と「越中吉岡庄」
「赤丸浅井神社由緒」に拠ると、「延喜式内社53ケ村総社赤丸浅井神社」の神領の旧の「越中吉岡庄」は高岡市守山近くの「国吉郷24ケ村」「宮島郷2ケ村」「後の赤丸村他27ケ村」を含む「53ケ村」だった様だ。「越中吉岡庄」は南北朝の時に「五位庄」になったと「宝永誌」は伝える。(※加賀藩時代は五位庄56又は57ケ村とされる。藩政時代には赤丸村に向野新村や石堤池田島等が開発されたと云う。)
応永12年(1405年)足利義満により五位庄の半分を室日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として京都相国寺に寄進される。
足利義満は「日本国王」と名乗り、その妻日野業子は天皇の准母(名目上の母)となり、義光の子義嗣は親王と同等の格式を許されたと云う。 金閣寺は相国寺の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為「鹿苑寺」は「金閣寺」と呼ばれている。
応永22年(1415年)足利義持により五位庄の半分が足利氏菩提寺の等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた。(※「福岡町史」)
又、「濱惣持寺」(赤丸村に在った総持寺ー現在は高岡市?)では、畠山満家の三回忌法要で舞樂が奉納されたと云う。この主催者は能登・越中越中守護畠山氏か?(※「名古屋大須観音文書」射水市松山学芸員論文参照)
「鎌倉遺文」に拠ると、鎌倉時代末期の「二上庄雑掌」(※地頭?)に、赤丸浅井城、福岡木舟城城主の石黒氏同族石黒弥三郎の名前が見られる。「二上庄」は高岡市中心部を含む射水郡に属した旧高岡市域を含む。
(※後鳥羽上皇の時代に源氏の直系の實朝が暗殺され、上皇は頼朝の血筋で九条家(藤原氏)の九条頼経を将軍として承認した。九条家の初代九条兼實の娘は後鳥羽上皇の中宮で在ったが、男子に恵まれず宮中から退き、兼實は失脚した。北条氏は危機感を募らせ何とか頼朝と九条の血筋を継ぐ九条頼経を摂家将軍として迎えた。赤丸浅井神社の神領[→米一升を各戸から集めた]で在った小矢部市の宮島郷は元々、九条頼経の父の九条道家の庄園であった。⇒「鎌倉遺文」)

越中宮守山極楽寺住職が伝えた「高岡大仏由緒」







●「越中統治絵図」(※「畠山文書」羽曳野叢書)によれば、高岡大仏を建立した「足利義勝」の時代には、越中は八郡と成り、五位庄は「五位の西庄」と「五位の東庄」に分かれ、「西庄」には小矢部市付近の「蓮間郡」が含まれていた。又、現在の高岡市守山は室町時代には二上庄(※鎌倉時代)ではなく、五位庄に含まれていた。高岡大仏が「守山」で創建されたとすれば、「畠山持国」の居城の「赤丸浅井城」が在った五位庄赤丸村に創建された「越中宮極楽寺」も、一時期守山に在ったとされ、現在の「大仏寺」が「越中宮極楽寺」の末寺に当たる事から、本来は「極楽寺」の信仰に由来する大仏ではなかったのか?



伝承の通り「多田義勝」と言う人物が創建したとすれば、南朝所縁の人物で在った可能性も在る。徳川家は「南朝の忠臣の新田氏の流れの世良田氏から出た」として、新田氏が源氏で在った事から【源氏の棟梁の征夷大将軍】の資格が在るとその系図に記載している。又、一方、「摂津源氏の多田満仲」が先祖に当たるとも主張している。高岡大仏の創建に「多田義勝」なる人物が登場するが、その人物が創建した守山の「大仏」を引き継ぐ「高岡大仏」は宗派を同じくする寺院で在ったと見られるが、徳川の由緒に見られる様に、この由緒自体も創作されたとも考えられ、或は、加賀藩の主家に当たる徳川家を慮って改変されたとも考えられる。「足利」も「多田」も源氏だが、「多田」と「義勝」が一緒に成っている所から、この人物の実在については疑いが残る。



■【高岡大仏】を創建した「源義勝」の検討
ここに古い源氏の系図が在る。そこには、「将軍足利義勝」の時に補佐したのは「畠山持国」と記載されている。羽曳野市に残る「畠山文書」の中に当時の「越中統治絵図」が在り、その「赤丸浅井城」の部分には「畠山持国」の記載がある。「畠山持国」は室町幕府管領を勤めた「畠山満家」の子供で在り、「足利義持」が五位庄の半分を足利家菩提寺の等持院へ寄進した時に「五位庄の管理は畠山満家に委ねられた」(※「富山県史」)とされる事から、赤丸村が代々畠山親子に拠って管理され、「赤丸城」は守護畠山氏の居城で在った事は確実だ。「義経記」の「五位庄二位の渡し」(※赤丸浅井神社前の渡し場の事)で弁慶が義経を打擲した時に、「守護の館が近ければ見逃せない」と関守が云う場面が有るが、正に「赤丸浅井城」は「二位の渡しの至近距離に在った」城であり、この城は赤丸浅井神社を創建された「元正天皇の二宮」が居城にされて以来、石黒氏が居城にしてきた。」とされる古城で在った。
(※「肯搆泉達録 コウコウセンタツロク」、「富山県西礪波郡紀要」)

従って、この伝説に伝わる「源義勝」は幼少で亡くなった「足利義勝」で有り、この像を造営したのはその後ろ盾の「室町幕府管領畠山持国」であった可能性が高い。









🔴高岡市守山から続く西山の西方浄土の方向に当たる赤丸村極楽谷には真っ赤な夕陽が沈む。正にこの世の極楽を彷彿とさせる光景が毎日繰り返される。



●赤丸村舞谷に伝わる古図には「極楽寺創建の地、極楽谷」が記載される。(絵図上では左上の赤丸城の奥)


🔴【越中国国吉名】 鎌倉幕府北条義時の子供の「北条朝時」の庄園の横領!!!

2022-01-17 | 富山県高岡市福岡町

 

 

 


🔴富山県高岡市【衆徳山総持寺】の千手観音像と【鎌倉幕府評定衆藤原浄円】

2022-01-15 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

▼「斎藤長定」は≪承久の乱≫で敗れて隠岐に流された【後鳥羽上皇】の「中宮任子」の一族で、「任子」は【藤原摂関家長者九条兼実】の娘。

🔻「富山県史」には昭和39年に解体修理した時のこの千手観音像の胎内名写真が掲載されている。
しかし、「高岡市史」、「福岡町史」等の「史書」にはこの解説が誤って記載される。

◆「藤原浄円 大壇那」については鎌倉幕府評定衆の「斎藤長定入道藤原浄円」の事でこの仏像のスポンサーで在る事は明らかだが、何れの史書でもその解説は明確では無い。

◆中央部に記載される「金剛位理乗 本願聖人」は「後鳥羽上皇の法名」だが、各史ではこの法名を南北朝時代の「長慶天皇」の法名として理解されている。鎌倉時代の「後鳥羽上皇」の法名は「金剛位理 (良然)」、南北朝時代の「長慶天皇」の法名は「金剛理 (覚理)」で在り、良く似ている事と、この仏像が「南北朝時代に製作された」と言う先入観からの学会での誤りである。別の部位に記載される南北朝時代の河内金剛寺の高僧「禅惠」の胎内名に基づいて、【この仏像は南北朝時代の製作】であるとする文科省、富山県、高岡市、福岡町の解釈はすべて誤っている。この仏像はその胎内名を調べると明らかに【鎌倉時代の製作】で在る。

◆この仏像は、【後白河上皇】以来、上皇の庄園【後院領】で在った【赤丸浅井神社】を郷社とした【後鳥羽上皇の庄園「越中吉岡庄(赤丸村)」】に、河内長野の南北朝の戦乱を避けて送られたと見られる。

 


🔴【石黒氏の研究】と【赤丸浅井城主石黒氏】!!

2021-11-10 | 富山県高岡市福岡町

🔻【石黒氏の歴史の研究】に記される【越中石黒一族】!!
源平合戦で平氏打倒に石黒氏等が活躍した「倶利伽羅山の戦い!!










🔻「越中吉岡庄」(赤丸村)の「浅井城」は「利波臣(志留志)」の末裔の「越中石黒氏が累代居城とした」と伝えられる。
「西礪波郡紀要」、「赤丸名勝誌」、「石黒氏の歴史の研究」等に拠ると、「赤丸浅井城」は当初、「元正天皇の二宮」が居城とされ、その後、累代「石黒氏」が居城とした。平安時代末期には、「源平盛衰記」にも登場する「石黒光景」が赤丸浅井城を居城とし、福岡町木舟の「木舟城」にはその息子の「石黒光弘」を配したとされる。






🔻南北朝時代に【越中吉岡庄(富山県福岡町赤丸村周辺)】を所領とされた南朝の「後醍醐天皇」は奈良県賀名生の石黒一族「掘家」で【赤丸の御旗】を書き記し、南朝の旗標とされた。








🔴🎠 上皇の庄園【後院領】⇒【保元の乱】の後に「後白河上皇後院領」になった【越中吉岡庄】 !!

2021-04-21 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●上皇の庄園【後院領】とは?
「後院領」が「後い庄」、「おいのしゃう」等と転じて【五位庄】と変化した様子が「東寺百合文書」等から知られる。




■[後院領の始まり]
承和2年(835年)仁明天皇(深草帝、嵯峨天皇第二皇子)の時、淳和院[父桓武天皇、先代嵯峨天皇、譲位後の在所であった淳和院(現在の京都市右京区西院)の別名から西院帝(さいいんのみかど)の異称がある。]の荘園として百町歩を「後院勅旨田」とした。
(※「類聚国史 百五十九 田地」)⇒ これが「後院領」の先駆けではないかとされる。
「六国史 日本三代実録 巻49」には[光孝天皇 仁和二年八月十六日に、丹後国丹波と竹野両郡に後院田を定めた]事が記されている。



■「後院」は元々太上天皇(天皇を譲位された後の呼び名)の宮殿を指し、初めは皇太后、太皇太后の住まいも指していた。当初は垣で囲まれた簡素な住まいであった。しかし、後には天皇を譲位された後の住まいを指し、「天皇退位の際に予め準備しておく宮殿」を指す様になる。嵯峨院の時、安倍安仁を院の別当とし、院務を担当させた。これが「院司」の初めと云う。その後、村上天皇の時、朱雀上皇の為に「判官代、主典代、仕所、御随身」等の職を設けた。又、蔵人、召次所、武者所等が有り、五位の蔵人を侍者とし、六位の蔵人を判官代、その他を院の蔵人とした。出納を主典代、瀧口を武者所とした。随身には左右将曹、左右番長、左右近衛を充て、院庁の役人には公文、院掌等が有り、記録所に準じた文官を置いた。後三条天皇が白河天皇に譲位し、院司をおき、院政を執ろうとしたが半年位で亡くなった為に、実質的には白河上皇の時に体制ができた様だ。白河上皇の時、北面の武士を置き、諸国の武士をこれに任じたが、後鳥羽上皇の時には更に西面の武士を置いた。後白河上皇の時には初めて院伝奏を置き臣下の奏上を取り次がせた。又、評定衆や参衆が有り、これ等は院庁の政の参与となった。これ等は初期には「院司」と呼ばれたが、後に「後院」の勢力が拡大し「院庁」が実権を持ち始めると、これ等の役人も「後院司」と呼ばれている。
(※「古事類苑 官位部1 神宮司廰編」参照)
又、「院庁」には独自の行政組織が在り、後院領には守護の権限が及ばず、後白河上皇の時に、源頼朝が義経探索を名目に全国に地頭を配置した時には「後院領」の「越中吉岡庄」には「地頭 吉岡成佐」の名前が見られる。



📚💮「延喜式内社赤丸浅井神社」の神領「越中国吉名」と「平家」⇒「吾妻鏡」の記載 『国吉名の越中次郎兵衛・五十嵐小豊次』!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■「越中吉岡庄」の郷社の「五位庄惣社延喜式内社赤丸浅井神社由緒」に拠ると、その神領として「赤丸村領他旧五位庄、国吉郷24ケ村、小矢部市宮島郷を含む53ケ村」とされ、勅書によって「毎年、各戸から米一升を集めた」とされる。









■「源平の戦い」で平家側で戦った「越中次郎兵衛」(平盛俊)は「越中国国吉名佐賀野」(現在の高岡市国吉)に屋敷を構えて越中と能登を治めたと伝わるが、一説にはこの子孫が後に「国吉名」を『承久の乱』の褒賞として鎌倉幕府から授けられ、累代この地を治めた「十村役五十嵐家」であると云う。
(※「国吉小史」、「越中志微」、「平家物語」)


◇五十嵐家は新潟から来たという伝承が有り、事実、新潟県の「五十嵐神社」にはその由緒が記載されている。
◇「名」は集落を指すが、この管理者を「ミョウシュ」と呼んだが、これが後に「ナヌシ」と呼ばれたと云う。

■【吾妻鏡】の記載
1213年(建暦三年) 和田義盛が将軍御所を襲撃した時、中山重実の子、中山四郎重政、同太郎行重(埼玉県飯能市中山)等の親族・友人が加担した。(この戦いで殺された人々の中に五十嵐小豊次有り)
(※赤丸城城主の「中山氏」はその子孫が著した「由緒」に拠ると、①「秩父平氏中山重実の子孫」(赤丸名勝誌)、②「藤原氏である近江の今井氏の系統」(中山正弥家文書)、③「源氏で近江の中山氏の系統」(中山清暉家文書)とする家系が在り、数々の古文書が敦賀市博物館に残る本家筋と見られる中山氏は「藤原氏」(②)を名乗る。)

■1239年(歴仁二年)5月2日 辛未 五十嵐小豊次太郎惟重と遠江守朝時の伺候人小見左衛門の尉親家と、日来相論の事。これ越中の国吉名の事なり。惟重則ち当所は承久勲功の賞として拝領するの処、親家押領するの由これを訴う。5月3日 国吉名の事、惟重裁許の御下知状を賜うと。5月16日 隠岐法皇の御骨左衛門の尉能茂法師懸け奉り、今日、大原に渡し奉り禅院に籠むと。5月29日 侍従中納言(為家)参着す。大外記師兼を召し仰せて云く、隠岐院(後鳥羽上皇)を以て顕徳院と号し奉るべしてえり。治承崇徳院の例に依って勅書無し。ただ外記承り存ずるばかりなり。件の謚号の字、式部大輔為長卿勘じ申す。

■1213年に和田義盛が将軍御所を襲撃した時、中山重実の子、中山四郎重政、同太郎行重が加担した。1239年5月に「五十嵐小豊次太郎惟重」が「承久の乱」で鎌倉幕府側で戦って恩賞としてもらった「越中国国吉名」について「遠江守朝時」(越中守護名越朝時)の伺候人「小見左衛門尉親家」と争いになり、評定所で採決が有り、「五十嵐小豊次」が勝った。この年に、「承久の乱」で隠岐の島に流された「後鳥羽上皇」が亡くなり、「隠岐院」という諡が不吉だとして改めて「顕徳院」の諡を贈っている。

■「承久の乱」では「越中吉岡庄」の所有者の「後鳥羽上皇」に「越中宮崎氏」(※本国は信州・富山県朝日町に居城・藤原氏)、「越中石黒氏」(※越中浅井城、木舟城、福光城)等の越中諸将や「加賀林氏」(※加賀 白山市)等の加賀諸将が「後鳥羽上皇」に従って戦ったが、北条氏に敗れて降伏したと云う。








(所在場所:富山県高岡市内島 東五位小学校入口)

■「越中吉岡庄」の「国吉名」については、新潟県三条市下田大字飯田211には「五十嵐神社」が有り、その神社由来に
【五十嵐小文治:竜神の子として生まれた小文治は成長し、五十嵐小文治吉辰と名のり、祖と仰ぐ五十嵐神社を守護神として奉斎し、神社の南600mに居を構え、鎌倉幕府の御家人として源頼朝に仕えた。小文治の豪方振りは有名で関東全域に知れわたり、弓の名人那須与一も小文治を訪れ親交を結んでいる。建歴3年(1213年)の和田合戦には将軍実朝の館の警備に当ったが、和田義盛の子朝実三郎義秀と戦い戦死したと吾妻鏡に記されている。また、一説にはその後諸国を遍歴して四国伊予国越智郡に城を築き、地名を「五十嵐」と名付けその地に生涯を閉じたとも伝えられる。承久3年(1221年)に起きた「承久の乱」には、北陸道から京都に攻めのぼった幕府軍に加わり、戦功によって「越中国国吉名」の地を拝領している。
上杉謙信の亡き後の天正7年(1579年)景勝、景虎の相続争いの御館の乱で敗北した景虎方についた五十嵐一族はほとんど所領を失ない没落した。その結果、400年間の永きに亘り代々の惣領小文治に率いられ成長してきた五十嵐一族も下田郷から姿を消している。五十嵐一族の館跡は昭和46年、47年に発掘調査が行われ、中世の豪族の館跡として典型的なものと確認され、県の文化財として認定された。下田村でも「小文治館跡保存会」を結成し、貴重な史跡を後世に残すため努力している。】と有り、承久の乱の褒美として越中吉岡庄の国吉名を貰い、その後の江戸時代には、代々、「五十嵐小豊次(コブンジ)」として「越中国国吉名」の「十村役」を務めた。現在、屋敷跡は高岡市立東五位小学校の敷地となっている。屋敷跡には五十嵐家の墓も残る。五十嵐氏から出た「五十嵐篤好」は加賀藩十村役で在り、著名な国学者で在った。
(※鎌倉時代には「国吉名」は「越中吉岡庄」に含まれていたと見られ、「吉岡庄」のエリアは「赤丸浅井神社由緒」(※「皆月家文書」富山県立公文書館)から推定すると、「延喜式内社赤丸浅井神社」が勅書で認められて初穂米を徴収したエリアは五位庄53ケ村と云われ、その範囲は「郷内五十三箇村:旧五位庄廿五ケ村國吉郷廿六ケ村宮島郷二ケ村」で有ったと由緒に記載されている。
⇒「越中吉岡庄」は南北朝末に「五位庄」に改名されて、その後は室町幕府第三代将軍「足利義満」が建てた「相国寺」(※鹿苑寺金閣)の庄園に成っている。《※「東寺百合文書」、「宝永誌」》)

🔴 📃【デタラメの高岡市の歴史】小矢部川河口へでっち上げられた「如意の渡」!⇒「義経記」の真実 の勧進帳の場面は赤丸村 !!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


【🔻贋物の「歴史家」を自称した高岡市長がデッチアゲた嘘の「如意の渡し」では、この渡し場は小矢部川河口に在るとデタラメを吹聴した。】
➡真実は観光船の顧客誘致の為に富山県や高岡市が挙ってデッチアゲた贋物の物語。
高岡市の知識人は嘘まみれの歴史を伝える【高岡市史】の事を【ある贋作物語】と呼ぶ。
(※「ある贋作物語」高岡市立中央図書館蔵)



■本当の「如意の渡し」は「延喜式内社赤丸浅井神社」前の「阿光ヶ淵」から小矢部川河口の「六渡寺(六動寺)村の渡し場」へ至る小矢部川の「舟下りルート」の事で、古代には現在の小矢部川の流れとは異なり、西山の麓沿いに流れ、石黒氏の古城の「赤丸浅井城」、「元正天皇二宮(実は文武天皇の二宮の石川朝臣広成)の創建」と伝える「赤丸浅井神社」の前で小矢部川(女神川)と庄川(雄神川)が合流していた。ここは【元正天皇】が我が子(親がわり)を呼ばれた時の呼称の「吾子(アコ)」から「吾子ヶ淵」と呼ばれたが、「両部神道聖護院派山伏」で在った「浅井神社別当川人山鞍馬寺」では、仏教的な「阿光ケ淵」と呼び慣わしていた。「元正天皇」は、早逝された「文武天皇」の姉で、「聖武天皇」と「石川朝臣広成」の二人の子供を【全て天皇の子供は親王とする】との勅令を出して終生、独身で女性天皇を勤められ、二人の親王の親がわりを勤められた。
(※「川人山三社誌」福岡町史、「続日本紀」)















■「越州川人山鞍馬寺三社記」には「二位の渡し」の理由が記載される。






■赤丸浅井神社前の「二位の渡し」と云う舟乗り場の事。
「延喜式内社赤丸浅井神社」(※富山県高岡市福岡町赤丸)






■「赤丸浅井神社」前の、「小矢部川」と「庄川」の合流地点の「阿光ケ淵」(阿古ケ淵)(※「赤丸浅井神社絵図」森田柿園文庫、石川県立図書館)から下流に「小矢部川」と「谷内川」の合流地点が有り、石堤では山裾の直近を通過していた様だ ❗ ⇒「石堤」の地名は山裾を通る小矢部川の土手に積まれた石づくりの土手から名付けられたと思われる。「阿古ケ淵」の前の「赤丸浅井神社」の祭神は「八河江比売神」で有り、「河の江の神」であるという。この御神体は、この「阿古ケ淵から上がった」と伝わり、この神はびわ湖にも祀られている。


小矢部川は徃古、西山の山裾を流れていた。







■「二位の渡し」は赤丸浅井神社前の舟乗り場の事。「如意の渡し」は小矢部川と庄川が合流していた赤丸浅井神社前から下流の「六渡寺の渡し場」迄の「舟下りルート」の事で、「六渡寺川船渡し」とも呼んでいた。



■この事件は、当時は後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」(南北朝時代に五位庄と改名された。)の「赤丸浅井神社」前の「二位の渡し」と云う渡船場で起きた…と云うのが「義経記」の真実の記載だ。「義経記」には「五位庄に至りて」と明確に記載してあるにも関わらず、「市長」と言う権力者が、歴史家?、財界の名士を動員して歴史を偽造した。それを高岡市長が銘版を作り、小矢部川の伏木河口にでっち上げた。
義経、弁慶のこの彫像の原形は石黒孫七氏の力作で、弁慶の迫力は素晴らしい ❗ しかし、残念ながら、この力作も歴史を偽造する為の証人にされてしまった。惜しい事だ。
時代考証の北野勝次氏は石川県小松市博物館にあった郷土史研究会の会員の様だ ❗
※「小松のすがた」―社会科資料(研究紀要〈第29〉)1955年、北野勝次著、小松市教育研究所
⇒「義経記」も読まずに「時代考証」とは?? これが高岡市の歴史か ⁉ 権力者は「歴史」をもでっち上げる?



■有名な「歌舞伎」や「能」にもなっている「安宅の関」の場面は、今も石川県小松市の「安宅の関」で起こったと信じている方も多い様だが、元本を見られれば、真実の「弁慶が義経を打擲した場面」が「五位庄」で起った事件であった事は直ちに解るだろう。五位庄「赤丸村」の「赤丸浅井城」は、東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進して「国司」にもなった「利波臣志留志」の末裔とされる「越中石黒氏」が居城とし、「越中吉岡庄(富山県赤丸村)」の領主で在った「後鳥羽上皇」が起こした「承久の乱」では勤王の志士「石黒氏」や越中の「宮崎氏」、加賀の「林氏」等は藤原氏の同族として上皇側で戦い、破れて石黒氏は降伏し、「新川に去った」と伝えられる。(※「赤丸名勝誌」)➡実際には、この時に、「木舟城の石黒重之」は東北に逃れ、その後に「長谷川重之」と名前を変えて尾張国へ入り、尾張国如意に如意城を建てて如意郷と名付けた。この子孫は、織田家に仕え、織田信長の弟が暗殺された時に飛び込んで殺害したと云う。その後も、「安土城」には「長谷川屋敷」が見られ、豊臣秀吉の配下にも「長谷川」が見られる。その後、子孫は加賀藩に仕えて、「湯浅家」となる。(※「湯浅家記」加賀藩記録、金沢市立玉川図書館)

【▼「石黒忠篤伝 ムネアツ」(※「岩波書店」昭和44年)に拠れば、『「源平盛衰記」に登場する木曽義仲の軍団に属した越中石黒一族の一部は、木曽義仲勢力の衰退した時に義仲を見限り関東へ落ちて上杉家に仕官し、その後、上杉と共に越後に移った一族で、上杉謙信の死亡の後、越後で帰農した』と云う。➡この子孫の「石黒忠篤」は昭和20年の終戦勅書に「農商大臣」終戦勅書にもサインが残る。】





■鎌倉時代に「越中吉岡庄」と呼ばれた「後院領」(※上皇の庄園)であった赤丸村周辺は、「承久の乱」の時には後鳥羽上皇の庄園で、石黒氏はその地頭をしていたようだ。 越中石黒氏は「承久の乱」で破れた後に、南北朝期には南朝側の雄として復活して、興国三年には後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」を越中吉岡庄に御迎えしたと伝わる。「宗良親王」が名付けられたと云う「赤丸城ケ平山」にはこの親王が滞在されたと伝わる「親王屋敷跡」が言い伝えられている。
一方、加賀の冨樫氏は勧進帳に登場する「富樫左衛門」が有名だが、この人物は初代とされる「冨樫泰家」をモデルとしている。冨樫氏は加賀の林氏の同族で、後鳥羽上皇の「承久の乱」で鎌倉幕府北条氏側で上皇側と戦うが、上皇側で戦った本家の林氏は破れて降伏し、この後に本家の林氏は没落して冨樫氏が興隆したと云う。加賀の林氏は越中石黒氏と縁組して、後には加賀林氏の名跡も石黒氏が継いでいる。元々、越中石黒氏と加賀林氏は先祖を藤原利仁将軍とする藤原一族であった。南朝の後醍醐天皇の時に「富樫高家」が加賀国の守護職[1335年(建武2年)]になるが、加賀守護職を望む有力者が多くその地位は不安定であった。1387年( 南朝 : 元中4年、北朝 : 至徳4年)に「富樫昌家」が没して、管領「斯波義将」が実弟の「斯波義種」を加賀守護職に任じ、その没後もその息子の「斯波満種」に継がせる等、30年近くの間、富樫氏は足利一族の斯波氏に守護職を奪われた。
その後、将軍「足利義持」の側近となった「富樫満成」が1414年(応永21年)に「斯波満種」を失脚させて加賀半国守護(南部)となり、更に残り半国(北部)も一族の「富樫満春」が守護となった。1418年(応永25年)に「冨樫満成」は有力守護との政争に敗れて殺され、「冨樫満春」が冨樫満成の地位を継いで加賀一国の守護職となる。以後の「富樫政親」は1488年(長享2年)に石川と富山県の県境に近い「加賀高尾城」で加賀一向一揆に攻められ敗退する(※長享の一揆)。(※この時に冨樫の一部は東北に逃れたらしく、東北に加賀冨樫氏の末裔が残っている。)「冨樫政親」の死後は一揆側の手で名目上の守護として「富樫泰高」が守護になる。その後、冨樫泰高の孫の「富樫稙泰」が本願寺の内紛と絡んで発生した一揆で一揆側に加担して敗れ、守護の地位を追われて冨樫家は更に衰退する。元亀元年(1570年)に「冨樫稙泰」の次男「富樫晴貞」は、元々、斯波氏の家臣であった織田氏の家系の「織田信長」に従って一向一揆に対抗し、一向一揆側に討ち取られた。後を継いだ「冨樫晴貞」の兄の「冨樫泰俊」は天正2年(1574年)に討ち死にし、生き残った泰俊の子「冨樫家俊」は織田家の「佐久間盛政」に仕え、「後藤弥右衛門」と改名。その後も富樫家を存続させた後藤家の子孫は加賀藩の三役の十村役・肝煎を歴任して明治維新迄続く。

■【源平盛衰記】に「木船城城主石黒光弘」の父親の「石黒光景」が「六道太郎光景」として登場する。「越中石黒氏」は、古代から富山県西部の礪波郡を領有して、「小矢部川流域」に石黒光景の「赤丸浅井城」、小矢部川と庄川を繋ぐ支流沿いには石黒光弘の「木舟城」を構え、小矢部川と庄川の上流沿いには、「福満城」を構えた。「源平盛衰記」の「六動太郎光景」に因んで、石黒の支配下の小矢部川河口に「六道(道)寺村」と言う名前が付けられたものか?















■小矢部川の河口に「如意の渡」のモニュメントが建つ。最近は観光案内にも登場するこのモニュメントは「勧進帳」の原点になった「義経記の二位の渡」(歌舞伎勧進帳では「安宅の関」のシーンになった。)の場面を大きな彫像にしたもので、「石川県小松市の安宅の関」とちょっとした本家争いが有ったと云う。両者とも偽物同士の争いだ。
高岡市は広報統計課1996年発行の「高岡散策」という本でこのモニュメント製作の経過を説明し、成人式にも配布した。それによると、モニュメント製作は民間のレジャー会社が観光振興の為に製作したもので歴史的な検証が行われた訳では無いらしい。元々、全国に義経所縁の場所とされる場所は数多く有り、北陸の福井、石川、富山県にも遺跡と称する場所が多い。高岡市の説明に拠ると、この場所は浄土真宗の古刹「高岡市伏木の勝興寺」の麓に在った従来はただ「渡船場」と呼んでいた渡し場に、「如意渡」という名前を平成元年に付けたのだと云う。名付けたのはこの「渡船場」を経営していた会社の役員で、地元の歴史を知って欲しいと云う事と勿論、本心は赤字続きの経営を上向きにする為にこの名前を付けたのだと云う。そして、新しく就航させた新造船の命名を地元の伏木小学校の子どもたちに委ねた。子どもたちはこの船に「如意渡丸」と名付けた。翌平成2年に高岡市の大手銅器メーカーの社長が石黒孫七氏の原形による銅像を建立したのだと云う。宣伝の為に地元の観光協会も説明看板を建ててアピールした。その結果、新しい観光地が産まれたのだと云う。
しかし、これには先立つ別の話が有る。昭和29年、地元の「如意渡保存会」が、伏木の八幡社横の東亜合成の寮の地に「渡守の館跡」が有ったと言われているので八幡社境内に「記念碑」を建てたが、早くもその年の秋にはその石碑が崖地に放置されていたと云う。しかし、昭和30年秋には今度は「高岡市」が八幡宮境内に「如意の渡碑」を建てたと云う。昭和34年には「高岡市史」を刊行して、「如意の渡し」は小矢部川河口の六渡寺村とその対岸の間の渡しであると発表する。こうして、この地に「如意の渡し」が確定してくる。加賀藩の時代にも確かに小矢部、五位、守山とこの近くに官営の渡し場が有り、加賀藩は「渡し守」に屋敷を支給していたと記録されている。しかし、これが「義経記」に登場する渡し守の屋敷では無い。江戸期と鎌倉期の話がゴチャゴチャである。ここは明らかに「守山の渡し」で在り、「二位の渡し」はもっと上流の赤丸浅井神社前に在り、そこから河口迄の舟下りルートを「如意の渡し」「六渡寺川舟下り」と言った事すら調べないで、お粗末な持論を発表している。当初は、この様に地元の盛り上がりを受けて、「高岡市」が自ら石碑を建立して「歴史のロマン」をデッチ挙げた。(※「北陸史23の謎」能坂利雄著 新人物往来社刊 参照)

「義経記」に「守護の館の近ければ」と記載される為に、この「守護館」は高岡市守護町の事だと主張する意見もこの偽説を後押ししているが、この当時赤丸村は「越中吉岡庄」と呼ばれた後白河上皇の直轄庄園「後院領」で有り、「後院領」は「後院庁」「後院司」が管轄し、税の徴収は頼朝の任命した地頭が代行したが、基本的には行政・司法を担当した守護の権限は及んでいない。高岡市が平成三年に発行した100年記念誌「たかおかー歴史との出会い」には、この守山の守護町は南北朝期に桃井直常が敗走した時に幕府側の斯波義将が設置したと記載されており、義経が通過した時期にはこの場所にはなかった事が分かる。学者の方々がこの程度も調べずに「歴史書」を書かれたのだろうか? この点については義経記の方も誤記だと思われ、「守護の館」は「地頭の館」の誤りと見られる。この「二位の渡し」の近くには源頼朝の配下の「地頭吉岡成佐」の館が在った「吉岡谷」や「東砦」「西砦」が在った事は高岡徹氏の近年の調査で明らかになっている。(✳「吾妻鏡」、「富山県史 中世」に頼朝の書状を掲載)
高岡市は今となって「義経記」自体が後の世の南北朝期の作品で有りフィクションだと解説している。しかし、フィクションにしては地理的にも、郷土の史実についても驚く程調査しており、あたかも著者が現場に居たかの如きリアルさである。例えば、赤丸浅井神社の創建の由緒迄調べ挙げてある事には驚きを隠せない❗ 又、小矢部市の「五位堂」についても、都では知り得ない様な山道沿いの小さなお堂と神社迄調べ挙げている。現地や神社資料を調査した所、その場所には確かに「五位堂」が在り、しかも木曽義仲が勘請したと思われる「諏訪神社」だった。この事は「西礪波郡紀要」(✳西礪波郡役所発行)にも記載されているが、ここは小矢部市がPRする「歴史街道」に在るにも関わらず小矢部市教育委員会すら認識していない。
「義経記」を「偽作」とする学者の方々の意見を検証して見ると、「義経記」がフイクションでは無く、むしろ「高岡市史」等がフイクションなのである。
2009年(平成21年)8月2日 にこの小矢部川河口の渡船場に橋が開通し、即日、この作り上げられた「如意の渡し」の渡船場は廃止され、モニュメントも放置された。根拠の無いでっち上げの歴史は、小松市の「安宅の関」と云い、高岡市の「如意の渡し」と云い、観光だけを考えた商業ベースの観光地は事情が判れば誰も見向きもしなくなるのは当然である。否、むしろウソの観光地を喧伝する自治体の社会的信用が失墜して、民度の低下に地元民も呆れ果てて、毎年1000人近くの人口減の現象を生じさせている誘因なのかも知れない。高岡市二上山周辺や能登半島に残る「源義経伝承」は地元民にとっては大事な退屈しのぎのお伽噺だが、歴史や郷土史を研究する学者や教師、教育委員会、官庁が如何に「観光振興」とは言え、事実を歪曲して「権威者面」をして「嘘を事実として喧伝する」のは最悪だ。せめて観光課が「お伽噺の紹介」として、旅人に夢を与える程度にして欲しいものだ。
高岡市の観光の目玉の雨晴海岸の「義経岩」は昔から義経弁慶主従が岩穴で雨を避けたと云う伝承から、富山県の代表的な観光スポットとして富山県や高岡市の観光パンフレットには欠かせないシーンになっている。霧に浮かぶ「義経岩」とその背景の富山湾、さらに、その背景として海の上に屏風の様にそそり立つ白銀の立山連峰は正に圧巻の景色で、富山県民が誇る景観である。しかし、この岩も本当は古代の遺跡では無いかと言われるし、高岡城築城の時の石切場だとも言われる。「歴史のロマン」は観光振興の大きな力にはなるが、眉ツバな、ご都合主義の歴史認識を捨ててそろそろ真剣な歴史検証と真実に基づく本当の「歴史の町づくり」を目指してはどうだろう❗ 力を持った行政や商工団体なら何をしても赦される事ではない。嘘で塗り固められた歴史はいつか瓦解する事を覚悟すべきだ。

















🔽東大寺庄園「越中石粟庄」から「神田一段」が寄進されていた【延喜式内社赤丸浅井神社】(※「東大寺庄園図」正倉院)


🔴【前田利家の本願寺攻撃】「一向一揆」と【赤丸浅井城】 ⇒「本願寺坊官下間頼龍から赤丸村信徒への志納銀受取書」(富山県立公文書館)

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「一向一揆」の時に「五位庄」に集結した一揆の首領「下間和泉」が【赤丸浅井城】に入城した。
この時に石山本願寺に篭って門主に付き従った「下間安察使法橋頼龍」から【赤丸村の門徒衆から本願寺へ寄進された志納銀の受取書】を届けさせている。そのマイクロフイルムが富山県立公文書館に保存されている。(※「越中志徴」・「城端別院文書」)



■天正五年、南紀雑賀の雑賀衆が【石山本願寺】に助力した。これに対して「織田信長」方の「佐久間信盛」、「羽柴秀長」、「荒木村重」、「掘秀政」等は根来衆の案内で「石山本願寺」の攻撃に掛かった。


■天正七年の冬、「正親町天皇オオギマチ」の助言で本願寺に信長との和睦の話が届き、「顕如聖人」は勅定に従い、天正八年、雑賀一党を引き連れて石山本願寺を出て紀州鷺の宮御堂に立ち退かれた。
しかし、「織田信長」は「前田利家」、「丹羽長秀」に軍勢一万五千を付けて不意に紀州鷺の宮御堂を攻撃した。







■これに対して信徒八千人は「下間頼龍」等に指揮されて雑賀衆とともに鐘を打ち鳴らして戦った。この鐘を聞いた門徒衆が竹槍鋤鎌等を手に手に集まり、戦った。これに対して丹羽長秀は織田軍を一旦退かせた。
しかし、この戦いの最中に「織田信長」は京都【本能寺】で「明智光秀」に暗殺された。







🌸🔹 【門跡寺院、本山派修験道 聖護院】と【延喜式内社赤丸浅井神社】⇒南朝の【後醍醐天皇】を支えた越中修験道の山伏勢力!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■「豊臣秀吉」は天正十六年(1588年)7月に「聖護院」の隠居寺「方広寺」の「大仏殿」を普請し、前田利家・利長父子が人足1万人を負担したと云う。「方広寺」は、その鐘の記銘の「国家安康」を巡って徳川家康が大阪城を攻撃したと言われ、この時に「聖護院」の院主は密かに江戸に呼び寄せられて毒殺されている。その為に、徳川政権は常に朝廷への圧迫と併せて聖護院派の全国二万の末寺へも圧迫を重ねたと云う。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」には豊臣恩顧の加賀藩の崇敬が高く、「浅井神社」の額は「加賀藩第13代前田斉泰」の揮毫による。又、記録では、江戸初期には「三代前田利常」や「四代前田光高」等の書状も「赤丸浅井神社」の宝蔵に遺されていたと云う。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「五位庄53ケ村惣社」とされ、延喜の時代には国司が幣を奉じた神社で在り、この神社の神域が「後白河上皇」の「後院領 越中吉岡庄」の時には、「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」が入寺して宮門跡となり、園城寺長吏・熊野三山別当職を兼ねた。南北朝時代には、幕府と戦う「後醍醐天皇」側には、これ等の全国の僧兵や悪人と呼ばれた国人領主達が味方して、越中、加賀、越前では「白山修験道」や「立山修験道」、「石動山」等の「僧兵」達や「神人」達が支援したと云う。
「聖護院」は、室町時代からは天台宗修験道の山伏を統轄した。南北朝時代末期に、「五位庄」と改名された足利家御糧所の「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当は「聖護院派 川人山鞍馬寺」で在った。この寺は、三井寺で出家して熊野三山に34回も行幸された「後白河上皇」が定められた「熊野三山検校 近江国 三井寺」を頂点とする熊野三山信仰の本山派修験道で在った。


🔷【歴代聖護院門跡】(※本山派修験道聖護院派本山)

圓珍(814-891)
増命(843-927)
勢祐
智静(945-1008)(志紀氏)
最圓(988-1050)(藤原頼忠子(一説に藤原公任子))
静覚(1024-1083)(藤原教通四男)
増誉(1032-1116)(藤原経輔子)
増智(1078-1135)(藤原師実子)
■覚忠(1118-1177)(藤原忠通子)
【藤原忠通(摂関家長者)の兄弟に泰子(鳥羽天皇皇后)、藤原頼長(摂関家長者・左大臣で「越中吉岡庄の領主」、「保元の乱で殺害された。」)

■静恵法親王(1164-1203)(後白河天皇皇子)
【※「後白河上皇」は「保元の乱」以降「越中吉岡庄」の領主。園城寺長吏・熊野三山別当職を兼ねた。】

圓忠(1180-1234)(近衛基通子)
静忠(1190-1263)(近衛基通子)
■尊圓法親王(1207-1231)(後鳥羽天皇皇子)
【※「後鳥羽上皇」は「越中吉岡庄」の領主】

■深忠(1233-1268)(九条道家子)
【道家は鎌倉幕府将軍藤原頼経の父で小矢部市の宮嶋郷領主】

■覚恵法親王(1217-?)(順徳天皇皇子)
【※「越中吉岡庄」は後白河上皇以降、皇室庄園「後院領」】

覚助法親王(1250-1336)(後嵯峨天皇第十皇子)
忠助法親王(?-1290)(後嵯峨天皇皇子)
順助法親王(1279-1322)(亀山天皇皇子)
尊珍法親王(1306/7-?)(亀山天皇皇子)
恵助法親王(1289-1328)(伏見天皇皇子)
覚誉法親王(1320-1382)(花園天皇皇子)
仁誉法親王(1340-?)(恒明親王王子)
聖助法親王(?-?)(後光厳天皇皇子)
■静尊法親王(?-?)(後醍醐天皇第四皇子)
【※「後醍醐天皇」は「越中吉岡庄」の領主】

覚増法親王(1363-1390)(後光厳天皇皇子)
道意(1354/58-1429)(二条良基子)
満意(1376-1465)(二条良基子)
道興(1430-1527)(近衛房嗣子)
道應(1467-1510)(伏見宮貞常親王王子)
道増(1510-1551)(近衛尚通子)
道澄(1544-1608)(近衛稙家子)
■義観(足利義教子)
【※「越中五位庄」は足利家御糧所から足利家菩提寺の「相国寺」、「等持院」、「等持寺」の庄園に成った。】

興意法親王(1576-1620)(誠仁親王皇子)
《以下省略》
[■は「越中吉岡庄」~「越中五位庄」と関係が深い人物]

▶「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当は「聖護院派修験道聖護院派 川人山鞍馬寺」と云う。その跡地は現在も「鞍馬寺村」の地名として残る。













■明治5年、明治維新政府は「修験道廃止令」を発布して、「修験道」の寺院に「天台宗」か「真言宗」に所属する様に指示した。しかし「赤丸浅井神社」の鞍馬寺別当「西宝院」は、寧ろ、還俗して、「延喜式内社赤丸浅井神社」を護持する為に「川人他治馬」と名乗って神官の道を取った。
この時に「川人山鞍馬寺」の建物の一部は「赤丸浅井神社」の拝殿として移築され、それまで使用されていた建物は、高岡市羽広の「諏訪神社」の社殿として移設された。「諏訪神社」の社殿には、現在も「赤丸浅井神社」と同じ「菊紋」が付けられている。

【修験道廃止令】(※明治五年)



【越中吉岡庄】の記録
◆【兵範記】




◆【人車記】(※「近衛家文書」影印版)




【越中吉岡庄古絵図】(※「福岡町史」)


【国立歴史民俗博物館庄園データーベース】

🔴🔹本当の歴史🔹鎌倉幕府の正史【吾妻鏡】に掲載される「後院領 越中吉岡庄」⇒「吉岡庄地頭成佐不法」の頼朝の書状が残る「越中吉岡庄」赤丸・加茂地区 !!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「勧進帳」のモデルと成った「義経記」のシーンは「延喜式内社赤丸浅井神社」前で起こった


■「越中吉岡庄」を巡る源頼朝と後白河上皇との争いの記録が「吾妻鑑」に残る。



■平成26年に「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」に「越中砺波郡吉岡庄」が正式に記載された ❗❗
(※従来は「新川郡」となっていたが、正式に訂正されている。)


■「後白河上皇」は「越中吉岡庄」を「蓮華王院(三十三間堂)」に寄進された。






■「兵範記」には「保元の乱」の後、敗れた藤原摂関家「藤原頼長」の庄園を「後白河上皇」の上皇領「後院領」とした記録が有る。北陸では「越中吉岡庄」「能登一青庄」が記載される。





■「吾妻鑑第六巻」
文治三年三月小二日甲辰。越中國吉岡庄地頭成佐不法等相累之間。早可令改替之由。經房卿奉書到來。仍則被献御請文。
 去月十九日御教書。今月二日到來。謹令拝見候畢。越中國吉岡庄地頭成佐事。任御定。早可令改定候。但彼庄未復本之間。御年貢不式數之由を。成佐申之候き。重相尋候而可令改他人候也。以此旨。可令洩達給候。頼朝恐々謹言。 三月二日
(現代文訳)
文治三年(一一八七年)三月小二日甲辰。越中国(富山県)吉岡庄(高岡市福岡町赤丸を中心とした後の五位庄の事。後白河法皇の荘園「後院領」であった。)の現地で年貢の取立人の地頭の吉岡成佐が、年貢の横取りなど不法な行為が度重なったので、早く罷免して入れ替えて欲しいと、吉田経房卿から(後白河法皇宛てに出された)奉書が届きました。そこで、(源頼朝が)直ぐにご返事を出されました。
 先月十九日のお手紙が、今月の二日に届きました。謹んで拝見いたしました。越中国吉岡庄の地頭の成佐につきましては、ご指示に従い、早々に入れ替える事にしましょう。但し、あの荘園は、未だに以前のようには田畑が回復していないので、例年通りに年貢が集らず納められないのだと、成佐が申しております。もう一度詳しく訪ねますが、地頭は他の人に変える事にしましょう。この内容で法皇にお伝え下さるように。頼朝が畏れながら申し上げます。 三月二日

(註)
※「後院領」とは天皇を退位した「上皇」の庄園の事で、政務は「院庁」の「後院司」が担当した。この庄園には守護の権限は及ばず、不輸不入の特権が有って、徴税実務を担当する地頭が置かれた。この庄園は「白河上皇」の時に確立したとも云われるが、古書に拠るともっと古くから実際には在った様で、「聖武天皇」の時にも「元正天皇」が上皇として君臨している。寄進系庄園として「越中吉岡庄」が登場するのは白河上皇が神田600余町を上賀茂、下鴨神社に寄進された時に「上賀茂神社」の庄園に成ったと云う。(※「百錬抄」)
※福岡町赤丸の城ケ平山の麓の福岡町加茂の吉岡谷には源頼朝配下の地頭「吉岡成佐」の居館や「吉岡東砦」・「西砦」があったと伝える。
※久安四年(一一四八年)、藤原摂関家長者と成った藤原頼長は父藤原忠実より庄十八か所を譲られる。この頃、越中吉岡庄(「赤丸浅井神社」を郷社とする高岡市福岡町・国吉・小矢部市の一部)も藤原頼長の荘園になったと思われる。
※久安六年(一一五〇年)藤原頼長は摂関家藤原氏の氏長者と成り、以後、氏寺法性寺での行事を執り行う。(赤丸の浅井城は藤原氏の石黒氏の居城)
※保元の乱に敗れた故左大臣藤原頼長領二十九か所は保元二年三月二十五日没官されて後白河上皇が上皇となった後の荘園「後院領」となる。(※「兵範記 保元二年三月二十九日」)
 この没官領には北陸では越中国吉岡庄と能登国一青庄(シトド・ヒトド)が有り、他には東北の陸奥国、出羽国に五か所有り、奥州の藤原基衡に管理させて金・馬・布等を徴収していた。越中吉岡庄と奥州藤原氏は藤原頼長の荘園という事からの繋がりも有り、後白河法皇が義経に頼朝追討の院宣を出した為に頼朝から追討されて奥州に逃れた時に赤丸を通過したのも、後白河院との関り、奥州藤原氏との関係があった為か?藤原頼長は源師俊の娘との間に兼長、源信雅の娘との間に師長を設けており源氏との繋がりも強い。
※「五位庄」は、「東寺百合文書」には南北朝末期に「御いしょう」、「おいのしょう」等の記載が在り、位田の「後院の庄」が転化したものと見られると云われる。室町時代にはこの庄園は「五位庄」と記載されている。加賀藩の記録「宝永誌」には後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」が「赤丸浅井城」に入られた時に「五位庄」に改名されたと記されている。



■「吾妻鏡」に拠れば、源頼朝は 文治元年(1185年)乙巳九月義経が奥州へ亡命した為、全国に地頭を配置して探索を強化した。(この時を以て鎌倉幕府が成立したとされる。)任命された各地の地頭は横暴を極め、伊勢神宮や皇室領、各地の寺社領等での横領が続く。驚いた源頼朝はその都度、乱暴、横領を禁止するが効果が無い。遂に頼朝は以下の告示を出すが、横領は続き、「平家よりも悪辣」との声も上がる。

「吾妻鑑」『文治二年(1186年)六月小廿一日丁卯。爲搜尋求行家義經隱居所々。於畿内近國。被補守護地頭之處。其輩寄事於兵粮。譴責累日。万民爲之含愁訴。諸國依此事令凋弊云々。仍雖可被待義經左右。有人愁歟。諸國守護武士并地頭等早可停止。但於近國没官跡者。不可然之由。二品被申京都。以師中納言。可奏聞之旨。被付御書於廷尉公朝歸洛便宜。又因幡前司廣元爲使節所上洛也。爲天下澄。被下 院宣。
 糺断非道。又可停止武士濫行國々事
山城國 大和国 和泉国 河内国 攝津国 伊賀国 伊勢国 尾張国 近江国 美濃国 飛騨国 丹波国 丹後国 但馬国 因幡国 伯耆国 出雲国 石見国 播磨国 美作国 備前国 備後国 備中国 安藝国 周防国 長門国 紀伊国 若狹国 越前国 加賀国 能登国 越中国 淡路国 伊豫国 讃岐国 阿波国 土佐国
 右件卅七ケ國々。被下 院宣。糺定武士濫行方々之僻事。可被直非道於正理也。但鎭西九ケ國者。師中納言殿〔經房〕御沙汰也。然者爲件御進止被鎭濫行。可被直僻事也。又於伊勢國者。住人挾梟悪之心。已發謀反了。而件餘黨。尚以逆心不直候也。仍爲警衛其輩。令補其替之地頭候也。 抑又國々守護武士。神社佛寺以下諸人領。不帶頼朝下文。無由緒任自由押領之由。尤所驚思給候也。於今者被下 院宣於彼國々。被停止武士濫行方々僻事。可被澄天下候也。凡不限伊勢國。謀叛人居住國々。凶徒之所帶跡ニハ。所令補地頭候也。然者庄園者本家領家所役。國衙者國役雜事。任先例可令勤仕之由。所令下知候也。各悉此状。公事爲先。令執行其職候ハンハ。何事如之候乎。若其中ニ。不用本家之事。不勤國衙役。偏以令致不當候ハン輩ヲハ。随被仰下候。可令加其誡候也。就中。武士等之中ニハ。頼朝モ不給候ヘハ。不知及候之所ヲ。或号人之寄附。或以無由緒之事。令押領所々。其數多候之由承候。尤被下 院宣。先可被直如此之僻事候也。又縱爲謀反人之所帶。令補地頭之條。雖有由緒。可停止之由。於被仰下候所々者。随仰可令停止候也。 院宣爭違背候哉。以此趣。可令奏達給之由。可令申師中納言殿也。
文治二年六月廿一日 御判』

⇒※諸国の守護・地頭の権限を停止せよ。対象は越中、加賀、能登等の37カ国である。但し、没官した土地は除く。後白河上皇は院近臣の吉田經房卿を通じて武士の乱行を停止せよと命じられた。くれぐれも院宣に背く事が無い様に!

しかし、この示達にも関わらず、文治三年(一一八七年)三月には遂に後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」でも「吉岡庄の地頭成佐」の不法(年貢の未納)が起こる。この不法、横領、乱暴は新しい地頭だけでは無く、頼朝の後家人と云われた畠山重忠等の重臣も不法を行い、逮捕されている。

「吾妻鑑」『文治三年(1187年)六月小廿九日己亥。雜色正光爲御使。帶御書。赴伊勢國。是當國沼田御厨者。畠山二郎重忠所領地頭職也。而重忠眼代内別當眞正令追捕員部大領家綱所從等宅。没収資財之間。家綱差進神人等令訴申。仍爲被糺行其科也。又正光寄事於御使。於現濫行者。加誡可言上子細之趣。被仰遣山城介久兼〔在彼國云々〕。』
⇒※畠山重忠の代官が伊勢国沼田御厨で横領している事が告発された。

「吾妻鑑」『文治三年(1187年)九月小廿七日乙丑。畠山二郎重忠爲囚人被召預千葉新介胤正。是依代官眞正之奸曲。太神宮神人長家強訴申故也。代官所行不知子細之由。雖謝申之。可被収公所領四箇所云々。 』
⇒※畠山重忠は伊勢神宮の神官の「長家」から訴えられて逮捕され、千葉新介胤正に預け置かれた。

■江戸時代の「義経記」の挿絵には「延喜式内社赤丸浅井神社」と見られる神社も記載されている。


「赤丸浅井神社」は庄園領主の「後白河上皇」の皇子が初代門跡となられた山伏の当山派「聖護院」の末寺の「川人山鞍馬寺」を別当とした。「弁慶」の衣裳は聖護院派山伏の衣裳で在り、白い房が付いている。


■高岡市福岡町赤丸の「赤丸浅井神社」を「郷社」とした古代庄園は、「白河上皇」の時に京都の「上賀茂神社」の庄園と成り、南北朝末期の「長慶天皇」の時代と室町幕府「足利義政」の時代の二度に亘り京都の「下鴨神社」(※「賀茂御祖神社」)の庄園と成った。





■現在も「延喜式内社赤丸浅井神社」の「秋季大祭」にはこの神社の御弊を戴いた獅子舞が各戸を廻る。




■高岡市では「義経記」の「五位(如意)の渡し」で起こった「勧進帳」のシーンは、「近くに守護の館の近ければ」と云う表現から、この場所は高岡市守護町の近くの伏木河口だとしているが、元々、法王の所領の「後院領吉岡庄」には守護は配置されず、「院庁」が担当しており、地頭についても上記の「吾妻鏡」の記載では停止されている。この事からしてもこの守護町が義経記の「守護の館」とは全く関係が無い事が分かる。「守護町」に守護館が設けられたのは室町時代に斯波氏が一時期、越中を統治した時代の事で在り、「森田柿園」は「越中志徴」の中で「鎌倉時代に守護館が在った」と記載した為に、当時の「佐藤高岡市長」や「高岡市教育委員会」は「義経記」の「守護の館が近ければ」と言う一節を引いて、【「義経記」の五位庄二位の渡しでの弁慶が義経を打擲した事件は「高岡市守護町(※二上庄)近くの守山の渡し」での出来事】と歪曲して小矢部川河口に「勧進帳」の原点として巨大な義経、弁慶の銅像を建て佐藤高岡市長が銘版を造って、「観光地」として渡し舟を運営する一海運会社専務の申し出に協力した。この銅像は2017年に再び公費を入れて伏木駅前に設置された。これは無知な高岡市教育委員会が行った「高岡市の歴史の偽造」で在り、公的機関が公費を用いて一私企業の為に行った愚行で在る。腐敗した高岡市議会はこの愚行に誰も異議を挟まず、正に「高岡市ぐるみで歴史を偽造」している。この事は単に歴史を歪曲しただけで無く、誰もが知る「義経記」を高岡市長や教育委員会、高岡市議会、有力企業幹部、地元民等が一切、読んでいないと云う事をさらけ出しており、高岡市の教育レベルの評価を落とす。又、この様に「まやかし」で「歴史都市」を唱える事は「高岡市の民度の低さ」と「倫理性」が無い事を自ら公表している事にもなり、更には詐欺的な商法に組みする事になる。

実際には、この事件は「吉岡庄」(※室町時代から五位庄)の「赤丸浅井神社」前に在った「二位の渡し」での事件で在り、「如意の城」とは「赤丸浅井城」の事で在り、「義経記」の小学館版、岩波文庫版等でも「如意の城とは五位の城」の事と解説している。「二位の渡し」とは「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」に「元正天皇の二宮御創建」と記載されている為で在り、この人物は「万葉集」にも「石川朝臣広成」として登場する聖武天皇の義弟で文武天皇の二宮の事で在る。
(※「義経記」で「守護の館」と表現したのは地頭吉岡館か古城の「赤丸浅井城」を指したと見られる。)






■往古、小矢部川は西山の麓を流れて赤丸浅井神社前で庄川と合流して巨大な「阿古淵」を形成していたと云う。(※吾子ケ淵⇒元正天皇は親代わりをしてその親王達を「吾子 アコ」と呼んだ。)後の「五位の渡し」はその名残と云われる。(※赤丸向野新村)
























🔴📜「延喜式社赤丸浅井神社縁起」に見る真実の歴史⇒「義経記」に登場する勧進帳の場面「二位の渡し」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越中志徴」(森田柿園 著)に記載される「延喜式内社赤丸浅井神社は元正天皇の二宮の御創建」とする根拠に成っている『越州川人山三社記』の記載(※「福岡町史」)











■門跡寺院「聖護院派」で在った「川人山鞍馬寺」は、「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」の三社を抱える「三社権現形式」の寺で在り、この寺の創建は「元正天皇」が親代わりを勤められた文武天皇の第二皇子で在ったと云う。この人物は父を文武天皇、母を嬪(※ビン 側室)の「石川刀自娘 イシカワノトジノイラツメ」として産まれたが、兄の「首皇子 オビトオウジ」(※後の聖武天皇)の母は「藤原鎌足」の子の「藤原不比等」の娘の「宮子」で在り、正室では無いものの「夫人 ブニン」と呼ばれる身分で在り、実際には天智天皇の皇子とも云われる(※「大鏡」)権力者の「藤原不比等」は当然、我が孫の「首皇子」の立太子を企んだ。一方、「石川刀自娘」の系統は凋落しつつあった「蘇我氏」で在り、「蝦夷」と「入鹿」が「天智天皇」と「中臣鎌足」に殺害されてからは、「蘇我氏」を名乗る事を憚って「石川氏」を名乗っていた。権力闘争の結果、「藤原不比等」はもう一人の嬪の「紀竈娘 キノカマドノイラツメ」 も含めて濡れ衣を着せて朝廷から追放した。この時に「石川刀自娘」が産んだ「広成」も朝廷から追われたが、「聖武天皇」の母代わりを勤めた伯母に当たる「元正天皇」は勅令(※延喜の継嗣令)を発して「全て天皇の子供は親王として待遇する」として「広成」には「石川朝臣」と賜姓された。(※「続日本紀」)
この人物は、当初、「内舎人」と言う低い官職に就き聖武天皇の造られた恭仁京に赴任して、歌った歌が「万葉集」に三首掲載されている。「大伴家持」も恭仁京で内舎人の職に在ったとされる事から、二人の交流も在ったものか?
「大伴家持」が越中国司に成って越中に赴任している頃に「石川朝臣広成」も「東国三十三ケ国の統治」を任されて越中に赴任していたのだろうか?
「大伴家持」が国司としてすぐ近くの「伏木」に館を構えていた時に「石川朝臣広成」は「延喜式内社赤丸浅井神社」を再興したことになる。「川人山鞍馬寺」は元々、白山を開いた僧「泰澄」が浅井神社の敷地に庵を開いたのが始まりと伝えられており、「石川朝臣広成」が「浅井城」に居城された時に「赤丸浅井神社」はその城の鎮守でも在ったと云う。又、「延喜式内社赤丸浅井神社」は創建当初は出雲系の「八河江比売神」を祭神としていたが、この頃には、皇室八神の再高神の「高皇産霊神」を祭神にした様だ。この神は皇室の神で在ると同時に、皇室を守っていた武人の「大伴氏」の祖先ともされる。このは 背景には、大伴氏と文武天皇皇子の石川朝臣広成との繋がりも在ったからだろうか?

■現在も「延喜式内社赤丸浅井神社」の建物には皇室の紋の「菊紋」が各所に彫り込まれている。又、浅井神社の神域で在る浅井神社の背後の山林には浅井神社の神官の「川人家」と皇室の紋の入った古い墓標の在る「石川家」の墓だけが残っている。この墓はこの「石川氏」の末裔の墓で在ろうか?
この「石川氏」は浅井神社との特別な付き合いが在ったらしく赤丸浅井神社の別当の川人家には「石川氏は八軒百姓と呼ばれた豪農」で在り、先祖伝来の釜を伝える旧家で在ったと云う。この石川本家は明治に成ってから北海道に移住したが、赤丸村には現在も数軒の石川家が残っている。
「森田柿園」は「越中志徴」の中で「元正天皇は女帝で在り、子供が居なかったから、この浅井神社縁起は信じがたい」としているが、実際にこの人物が生存していて万葉集に歌迄遺している事から、柿園には古代の天皇家の事情が 判らなかったと見られる。
又、往古、小矢部川は西山の麓に沿って流れ、庄川と赤丸浅井神社前の「悪口淵」で合流していたと云う。この水系については「福岡町史」を編纂された「中川幸作氏」が「簑のしずく」と云う著作の中でその経路を遺しており、この「悪口淵」(※悪王淵、阿光ケ淵)は広大な水郷を形成していた為に難所で在ったと見られ、「義経記」ではこの赤丸浅井神社前の「二位の渡し」(※「二位の宮」御創建の浅井神社前の渡し場)から義経主従が舟に乗ったとされる。この渡し場で弁慶が義経を打擲した勧進帳の場面が展開したとされる。(※「悪王淵」は広大な水郷で在った事から龍神が住むとされたが、実際は元正天皇が聖武天皇を呼ぶ時に「吾子」と呼ばれた事から「吾子ケ淵」の展化したものと見られる。)

■「事実は小説よりも奇なり」と云う。実際には現在ではこの渡し場の名残は無いが、加賀藩の時代には流路を変えた小矢部川に「五位の渡し」と言う官営の渡し場が在った事から、位置的にもこれが「二位の渡し」の名残と見られる。現在はこの渡し場の跡に「五位橋」が架けられている。






🌸🐎 越中国(富山県)砺波郡と河内国(大阪府)河内長野⇒「源貞弘」と越中「総持寺」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
◎河内長野市『河内金剛寺』
■河内長野市には南北朝の頃、南朝の後村上天皇、その後の三代の天皇や北朝の天皇が行在所(仮の皇居)とされた古刹の「金剛寺」が在り、この寺と越中国吉岡庄(後に五位庄)の赤丸村とは意外な繋がりが有る。
(※資料ー金剛寺パンフレットより引用)












■「河内金剛寺」は「八条院暲子内親王の祈願寺」として河内源氏の「源貞弘」(三善貞弘)が土地を寄進して創建された。
(※鳥羽天皇と美福門院との間に生まれた八条院暲子内親王は膨大な庄園を受け継いだ。)
この武将は源氏でありながら、河内の同族の首を手土産に平清盛に従い、越中国倶利伽羅谷(富山県小矢部せ市)の木曽義仲軍との戦いに参戦して討死した。



「源貞弘土地寄進状」(※「平安遺文」)→自領を河内金剛寺に寄進した。


「河内金剛寺結縁過去帳」には「源頼朝」と共に「源貞弘」が記載されている。

■中世の長い間、「越中」、「能登」、「河内」、「紀州」は管領畠山氏の国であった ❗ ❗




■「越中絵図」
(※「畠山文書」羽曳野市資料叢書)
【越中国利波郡五位庄の「赤丸浅井城」には畠山一族の「越中守護畠山持国」の記載がある。】



■「越中国」と共通の「河内国」の歴史 ❗❗
越中と河内は一つの国として、畠山氏が統治し、越中は河内の戦乱にも絶えず巻き込まれた。
(※河内長野市発行のパンフレット等参照)
【河内国金剛寺】は「後白河上皇」の創建とされる。一方、「越中国吉岡庄」は、元々藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園で在ったが、武士が台頭した「保元の乱」で「藤原頼長」が敗れ、「後白河上皇」に没収されて、【後院領】と言われた「上皇の庄園」に編入され、「後鳥羽上皇」以後も南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、「南朝」の「大覚寺統」に伝領した。この「後院領」から南北朝末期から「五位の庄」(※「おいのしゃう」)に変化したものとされる。
(※「保元記」・「陽明文庫 人車記」・「兵範記」・「加賀藩記録 宝永史」・「東寺百合文書」)



■南北朝の頃、河内には南朝の「楠正成」が活躍し、越中では南朝方の「越中国司 桃井直常」が活躍して、両国は「南朝の牙城」で在った。富山県赤丸村は、「後醍醐天皇の第八皇子」の「宗良親王」が「赤丸浅井城」に入城されて、「南朝の為に鼓舞された」と伝わり、「宗良親王」は「信州」、「遠州」、「尾張」等の国々を転戦されたと言う。「奈良県賀名生アノウ」には、「後醍醐天皇が仮御所とされた堀家」が在り、ここに「後醍醐天皇」は【南朝の旗標の赤丸の御旗】を下賜された。この旗は南朝軍の将軍と成られた後醍醐天皇の皇子達が「軍旗」や「軍配」として使用されて南朝軍の【赤丸の御旗】とされた。「越中国赤丸村」は、「南朝軍の牙城の赤丸村」と呼び慣わされて後世も「赤丸村」と呼んだと見られる。室町時代には、「足利義満」の時に「足利軍の兵粮を賄う粮所」と成り、次いで「足利義満の妻の業子の菩提を弔う為に相国寺」の庄園として寄進されたが、「室町時代」の「蜷川信右衞門」の菩提寺の「最勝寺」の葬儀の記録【東海和尚法語録】には、初めて「越中国利波郡五位庄赤丸村の住民の藤原直家は・・・・・」として【赤丸村】が記載される。




■守護代として越中、河内には「神保氏」「遊佐氏」が見える ❗
室町時代の大阪府羽曳野市の「畠山文書」に拠れば、「越中絵図」では 「遊佐氏」は高岡市福岡町の「木舟城」に記載される。「越中石黒氏」は「福光城」に記載される。「神保氏」は富山県中部を統治して、足利将軍「足利義材」が越中に逃れた時に新湊に足利義材の臨時政府を設ける等、足利政権と密接に動いた。


■河内長野市の「金剛寺」から「禅恵」によって南北朝の戦乱を避ける為に、「赤丸村に在った総持寺に千手観音像がもたらされた。」(※「国宝概説」昭和12年衆徳山総持寺千手観音像は国宝に指定された。)



「国指定重要文化財木造千手観音座像」(「衆徳山総持寺」蔵)富山県高岡市

■金剛寺住職の持仏(千手観音)に、東寺に伝わる空海が唐から持ち帰った仏舎利を、後醍醐天皇が2粒、東寺長者文観が3粒を納めたとする「仏舎利施入状」(※河内金剛寺所蔵)⇒後醍醐天皇は自ら東寺の重宝の「空海の袈裟」を身に着け、頭には「太陽の日の丸」を付けた冠を被って真言密教の秘法を用いて幕府の調伏をしたと云う。「越中赤丸村」は南北朝以降に史料に登場する ❗
総持寺の千手観音像の胎内(顔の内側)には、「奉納仏舎利」と記載した二ヵ所の墨書が在る ❗









■「総持寺」は赤丸村に在った「川人山鞍馬寺」の48坊の一つであったと伝わる ❗
「川人山鞍馬寺」は「延喜式内社五位庄53ケ村総社赤丸浅井神社」の別当寺で京都の「鞍馬寺」を勧請したものと云う。この神社は古く700年頃に元正天皇の二宮によって創建された由緒有る神社で、長く藤原摂関家「藤原頼長」の庄園で、「後白河上皇」以降、「後鳥羽上皇」から「後醍醐天皇」の時代の「南北朝時代末期」迄は皇室領の「後院領吉岡庄」の鎮守社であった。「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の胎内には「越中吉岡庄」の領主でも在った「後鳥羽上皇」の法名「金剛位理卿」が記載される。



■「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室領は、後醍醐天皇の皇子宗良親王が赤丸浅井城に在城された時に「五位庄」と改名された。その後、足利室町幕府将軍足利義満は、この庄園を自ら建てた「相国寺」(塔頭寺院鹿苑寺金閣寺)に寄進して、底地は「畠山満家」に預け置かれた。(※「富山県史」)⇒守護畠山満家の三回忌法要が越中国「浜総持寺」(海岸近くに移った「総持寺」と見られる❗)で行われ、盛大な舞楽が奉納された。
(※「名古屋市大須観音文書」射水市学芸員 松山充宏氏論文 参照 )
⇒この「畠山満家」の系図が河内長野市の歴史史料にも登場している。越中国と河内国が一つの国で在った事を思い起こさせる ❗ ❗

(※河内長野市の歴史史料より引用)


💠🔹【越中蜷川氏の系譜】⇒『徳川幕府』で権勢を奮った「春日局」のルーツは「越中蜷川氏」の子孫!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■『越中蜷川氏』と『斎藤利三』・『春日局』
⇒室町時代に「蜷川新右衛門親当」を輩出した「越中蜷川氏」の末裔達。
「先代旧事記」(※度合延経)では、「射水物部氏」は「越中国射水氏」とされ、物部氏の「宮道氏」から富山市蜷川村の「蜷川氏」が派生した事が記される。「蜷川新右衞門」は室町幕府政所代として、「越中国新川郡」と「越中国利波郡」を知行されたと「蜷川の郷史」に記される。漫画やアニメでは「新右衞門さん」として、「室町幕府第三代将軍足利義満」の側近として登場する。「蜷川新右衞門親当」は連歌の「宗祇」の高弟で在り、「宗祇」は畠山氏の領国の「越中国」・「能登国」に旅して数々の連歌を遺したと言う。

■「越中蜷川氏」は越中に在っては、新川郡と砺波郡の二郡を統治したと伝わるが、「蜷川家文書」に拠れば、「射水郡」の統治に関する書類が多く残されており、室町幕府政所代として相当の権力を持ち、越中全体に影響力を持っていたと見られる。系図に拠れば、一族は大きくは越中、丹波に分かれる。越中蜷川氏は神保氏との抗争に敗れたとされる。
(※「蜷川の郷土史」)












■「室町時代越中統治絵図」(※「畠山家文書」羽曳野叢書)に見られる「蜷川氏の所領」
→「蜷川の郷土史」に拠れば、越中蜷川氏が統治したのは「小矢部川西の石動辺りの西山の麓一帯で在った」とされる事から、小矢部市から赤丸村にかけての畠山持国の所領の地頭を勤めていたものか?
しかし、「畠山文書」の「越中絵図」には、小矢部川東から庄川西の間が「利波郡」となっている。
又、西山に連なる「氷見市の阿努庄」に関する「蜷川新右エ門親当」の記録が「蜷川家文書」に遺されている。




●今昔物語に登場する『藤原利仁将軍』の末裔で「斎宮守」に成った系統は「斎藤」と名乗り、その系譜は加賀に在っては「加藤」に成ったと言う。越中石黒氏、越中井口氏、加賀林氏も「藤原利仁将軍」を先祖にすると伝える。美濃の斎藤氏もこの「藤原氏」とされる。

■「織田信長」を本能寺で襲った「明智光秀」の家臣『斎藤利三』の母は「越中蜷川氏」末裔の丹波系「蜷川親順」の娘。妻は斎藤道三の娘。
⇒「斎藤利三」の娘は春日局「※お福」!!



(Wikipedia)


■『本能寺の変』(※「明智光秀の反乱」)には「斎藤利三」と共に越中蜷川氏の子孫の丹波系「蜷川貞周」、「蜷川貞房」が従軍していたと云う。斎藤利三の娘の「お福」は『徳川家康』から『徳川家光』の乳母に取り立てられ「大奥」を作り上げる等、権勢を奮った。


🔴🌸【加賀藩記録 公譜要略】➡加賀藩の全容を記す歴史書には【飛越大地震】で土中に埋もれた「木船城 城主前田秀継」等の記載が在る!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町






■加賀藩の全容を著した【公譜要略】には、各所の城、屋敷、一族略歴、法名等の全容が記される。

🔻その中に、「木船城」の「前田秀継」親子の記載も在る。
【木船城城主前田秀継】






室町時代の「越中絵図」にも記載される「越中木船城」






















🔴🌕🌙 「神階」と「社格」 ⇒ 「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神は「正1位 高皇産霊神」

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










■神社には古く祭神に与えられた「神階」が在り、位田や食封が付けられた。後に、神社毎に人と同様に「社格」が与えられて、菅原道真等が編纂した「六国史」(※887年完)の時代には盛んに神社に位階が与えられたが、1000年以降はこの様に位階が与えられる事は無く成ったと云う。
「六国史」の完成迄に与えられた最高位の「正一位」は皇室の祀る主要な神々で在り、以下の神々が位階を与えられた。
★【正一位】「神産日神」、「高皇産霊神」、「玉積産日神」、「足産日神」
(これ等の神々は宮中の八神殿に祀られ、後には神殿に祀られた。)
宮中に祀られたこれ等の神々の他の全国の主要な神々は「従六位」以上の社格を与えられた。



■「赤丸浅井神社」の祭神はこの中の【高皇産霊神】を祀り、この神は地上に様々な神々を送り出した神々の司令神で在り、「天照大神」と並ぶ宮中の最高神で在る。
「越中一宮」とされた「高瀬神社」はその祭神が出雲の「大国主命」を祀り、越中の最高位の神とされたが、これは宮中の神々では無い為に、その祭神、その神社に対して神階や社格が与えられている。
「赤丸浅井神社」は養老元年(717年)創建とされているが、神社自体はもっと以前の「第五代考昭天皇」の御代に小矢部川と庄川の合流地点に「大河の川の江の神」で在り、大国主の孫の妻で近江浅井に祀られた「八河江比売」を祭神として創建された神社を発祥とすると伝えられ、この神社は古代北陸道の「川人駅」が在った「川合郷」の守護神で在った様で、神社には「往古、前の街道を通過する者は下馬し、拝礼して通過した。」 と伝わり、社格の高い神社では「下馬」や「拝礼」が義務付けられていたと伝わる。
その後、元正天皇の時代に聖武天皇の義弟の「石川朝臣広成」が下向されて東日本33ケ国の統治を担当して「赤丸浅井城」に入られ、「赤丸浅井神社」を再建されたと伝わる。その時に、石川親王は宮中の主要な祭神の「高皇産霊神」を改めて「赤丸浅井神社」の祭神として祀られた様だ。その時に、東大寺大仏の勧進僧の「行基」が実際に動いたのか「僧行基が建立した」と言う伝承も残っている。(※「肯搆泉達録」、「赤丸浅井神社由緒」)
「聖武天皇」は天災を恐れて奈良に「大仏建立」を目指され、越中砺波郡を統治していた郡司の一族の「利波臣志留志」は全国の豪族に先駈けて「米五千石」をその為に寄進した。その金額は奈良文化財研究所の試算では現在価値にして約3億円にも登ったと云う。後世、「赤丸浅井城」は、「利波臣」の子孫とされる「越中石黒氏の木舟城城主石黒光弘の父石黒光景」が赤丸浅井城を再建して塁代、居城にしたと伝わる。
(※「東大寺要録」、「越中石黒系図」)




■その為か、五位庄赤丸村領内高田島に祀られている「五位庄神社」は「聖武天皇勅願社」の由緒を伝えている。この高田島地区は石黒氏家臣「高田氏」の所領だったと云う。
(※「富山県神社誌」、「吉江の昔」―福光町)
「赤丸浅井神社」を再建された「石川朝臣広成」は万葉集に三首が掲載されるものの歴史家の研究が進まずに、「元正天皇は女帝で独身で有り、その子と云う事はデタラメ」とされて、加賀藩の学者も「あり得ない」として来たが、近年の「続日本紀」等の研究で、この人物は文武天皇の次男で、聖武天皇の祖父の藤原不比等によって宮中を追われた「続日本紀」にも掲載される「文武天皇の嬪の石川刀自娘」の子供である事が明らかになってきている。宮中を追われたこの子供に対して、親代わりを勤めていた「元正天皇」は「全ての天皇の子供は親王とする」と勅令を出して、下級役人の「内舎人」に任じて恭仁京に赴任させている。
(※「内舎人」は五位以上の者の子息が任じられて、摂政、関白に随臣して、武器を帯刀して警護に当たったとされる。当初は90名で在ったが後には人数は変動している。)





■従って、「赤丸浅井神社」には、越中砺波郡に開発された「東大寺庄園石粟庄」に「位田一段」が寄進された事がその庄園図に記載されている。「赤丸浅井神社」は宮中の主要な神の「高皇産霊神」を祀る事を許された最高位の神社として、「一条天皇の時に勅使川原左京が蝗害除去祈願の為に派遣され、その時に植えられた二本の勅使桜は勅使桜と呼ばれて昭和初期迄生き続けていた」と言う。(※その写真は拝殿に飾って在る。)
「高皇産霊神」が神階を与えられた事は「文徳実録」等に見え、この「六国史」にはこの当時、全国の祭神や神社に対して盛んに「神階」や「社格」が与えられているが、その位階は何れも宮中の主要神には及んでいない。
「延喜式神名帳」はそれ迄の「貞観格式」や「六国史」時代に「官社」とされた神社を集計して主要な神社を掲載したもので在り、古くは日本書紀にもその記載が在る。
「神階」は「神々固有に与えられ」、「社格」は「神社毎に与えられた」事から、世常、歴史学者が唱えてきた「二上射水神社には社格が与えられたが赤丸浅井神社には位階が無い」と云う説明は的の外れた指摘で在り、「赤丸浅井神社は正一位の宮中の最高位神を分霊して祀る最高格式の神社」と云う説明が正しいと思われる。と云う事は「赤丸浅井神社は宮中祭祀を分担する神社」と云う事に成り、「白山を開いた最澄が始めて浅井神社境内に庵を開いて元正天皇の健康と国家安泰を祈った」と伝わる事とも、繋がって来る。「赤丸浅井神社」を郷社とした「越中吉岡庄」が歴代、藤原摂関家や天皇家直轄の庄園で有り続け、「五位庄」と成った室町時代以後にも、「五位庄」は室町幕府足利将軍家直轄の庄園で在り、「三代将軍足利義満」は室の業子と追善料として「相国寺」に寄進され、その後も足利菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園として足利将軍家と密接な格式の高い庄園で在り続けている。
因に、「赤丸浅井神社」の別当寺の「川人山鞍馬寺」の本尊の「釈迦如来立像」はその後転々として、現在は「浄土真宗井波別院宝蔵」に「客仏」として祀られており、「富山県文化財」になっており、その指定文書には「この仏像は元々、白山信仰の古寺に在ったもの」と記載されている。

【この時の「川原左京」とは、一条天皇の叔父に当たる「左京職の藤原道長」が該当する。
(※「京都河原町の左京職に在った人物」と言う事か?)】