赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚💮「延喜式内社赤丸浅井神社」の神領「越中国吉名」と「平家」⇒「吾妻鏡」の記載 『国吉名の越中次郎兵衛・五十嵐小豊次』!!

2021-04-20 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村


■「越中吉岡庄」の郷社の「五位庄惣社延喜式内社赤丸浅井神社由緒」に拠ると、その神領として「赤丸村領他旧五位庄、国吉郷24ケ村、小矢部市宮島郷を含む53ケ村」とされ、勅書によって「毎年、各戸から米一升を集めた」とされる。









■「源平の戦い」で平家側で戦った「越中次郎兵衛」(平盛俊)は「越中国国吉名佐賀野」(現在の高岡市国吉)に屋敷を構えて越中と能登を治めたと伝わるが、一説にはこの子孫が後に「国吉名」を『承久の乱』の褒賞として鎌倉幕府から授けられ、累代この地を治めた「十村役五十嵐家」であると云う。
(※「国吉小史」、「越中志微」、「平家物語」)


◇五十嵐家は新潟から来たという伝承が有り、事実、新潟県の「五十嵐神社」にはその由緒が記載されている。
◇「名」は集落を指すが、この管理者を「ミョウシュ」と呼んだが、これが後に「ナヌシ」と呼ばれたと云う。

■【吾妻鏡】の記載
1213年(建暦三年) 和田義盛が将軍御所を襲撃した時、中山重実の子、中山四郎重政、同太郎行重(埼玉県飯能市中山)等の親族・友人が加担した。(この戦いで殺された人々の中に五十嵐小豊次有り)
(※赤丸城城主の「中山氏」はその子孫が著した「由緒」に拠ると、①「秩父平氏中山重実の子孫」(赤丸名勝誌)、②「藤原氏である近江の今井氏の系統」(中山正弥家文書)、③「源氏で近江の中山氏の系統」(中山清暉家文書)とする家系が在り、数々の古文書が敦賀市博物館に残る本家筋と見られる中山氏は「藤原氏」(②)を名乗る。)

■1239年(歴仁二年)5月2日 辛未 五十嵐小豊次太郎惟重と遠江守朝時の伺候人小見左衛門の尉親家と、日来相論の事。これ越中の国吉名の事なり。惟重則ち当所は承久勲功の賞として拝領するの処、親家押領するの由これを訴う。5月3日 国吉名の事、惟重裁許の御下知状を賜うと。5月16日 隠岐法皇の御骨左衛門の尉能茂法師懸け奉り、今日、大原に渡し奉り禅院に籠むと。5月29日 侍従中納言(為家)参着す。大外記師兼を召し仰せて云く、隠岐院(後鳥羽上皇)を以て顕徳院と号し奉るべしてえり。治承崇徳院の例に依って勅書無し。ただ外記承り存ずるばかりなり。件の謚号の字、式部大輔為長卿勘じ申す。

■1213年に和田義盛が将軍御所を襲撃した時、中山重実の子、中山四郎重政、同太郎行重が加担した。1239年5月に「五十嵐小豊次太郎惟重」が「承久の乱」で鎌倉幕府側で戦って恩賞としてもらった「越中国国吉名」について「遠江守朝時」(越中守護名越朝時)の伺候人「小見左衛門尉親家」と争いになり、評定所で採決が有り、「五十嵐小豊次」が勝った。この年に、「承久の乱」で隠岐の島に流された「後鳥羽上皇」が亡くなり、「隠岐院」という諡が不吉だとして改めて「顕徳院」の諡を贈っている。

■「承久の乱」では「越中吉岡庄」の所有者の「後鳥羽上皇」に「越中宮崎氏」(※本国は信州・富山県朝日町に居城・藤原氏)、「越中石黒氏」(※越中浅井城、木舟城、福光城)等の越中諸将や「加賀林氏」(※加賀 白山市)等の加賀諸将が「後鳥羽上皇」に従って戦ったが、北条氏に敗れて降伏したと云う。








(所在場所:富山県高岡市内島 東五位小学校入口)

■「越中吉岡庄」の「国吉名」については、新潟県三条市下田大字飯田211には「五十嵐神社」が有り、その神社由来に
【五十嵐小文治:竜神の子として生まれた小文治は成長し、五十嵐小文治吉辰と名のり、祖と仰ぐ五十嵐神社を守護神として奉斎し、神社の南600mに居を構え、鎌倉幕府の御家人として源頼朝に仕えた。小文治の豪方振りは有名で関東全域に知れわたり、弓の名人那須与一も小文治を訪れ親交を結んでいる。建歴3年(1213年)の和田合戦には将軍実朝の館の警備に当ったが、和田義盛の子朝実三郎義秀と戦い戦死したと吾妻鏡に記されている。また、一説にはその後諸国を遍歴して四国伊予国越智郡に城を築き、地名を「五十嵐」と名付けその地に生涯を閉じたとも伝えられる。承久3年(1221年)に起きた「承久の乱」には、北陸道から京都に攻めのぼった幕府軍に加わり、戦功によって「越中国国吉名」の地を拝領している。
上杉謙信の亡き後の天正7年(1579年)景勝、景虎の相続争いの御館の乱で敗北した景虎方についた五十嵐一族はほとんど所領を失ない没落した。その結果、400年間の永きに亘り代々の惣領小文治に率いられ成長してきた五十嵐一族も下田郷から姿を消している。五十嵐一族の館跡は昭和46年、47年に発掘調査が行われ、中世の豪族の館跡として典型的なものと確認され、県の文化財として認定された。下田村でも「小文治館跡保存会」を結成し、貴重な史跡を後世に残すため努力している。】と有り、承久の乱の褒美として越中吉岡庄の国吉名を貰い、その後の江戸時代には、代々、「五十嵐小豊次(コブンジ)」として「越中国国吉名」の「十村役」を務めた。現在、屋敷跡は高岡市立東五位小学校の敷地となっている。屋敷跡には五十嵐家の墓も残る。五十嵐氏から出た「五十嵐篤好」は加賀藩十村役で在り、著名な国学者で在った。
(※鎌倉時代には「国吉名」は「越中吉岡庄」に含まれていたと見られ、「吉岡庄」のエリアは「赤丸浅井神社由緒」(※「皆月家文書」富山県立公文書館)から推定すると、「延喜式内社赤丸浅井神社」が勅書で認められて初穂米を徴収したエリアは五位庄53ケ村と云われ、その範囲は「郷内五十三箇村:旧五位庄廿五ケ村國吉郷廿六ケ村宮島郷二ケ村」で有ったと由緒に記載されている。
⇒「越中吉岡庄」は南北朝末に「五位庄」に改名されて、その後は室町幕府第三代将軍「足利義満」が建てた「相国寺」(※鹿苑寺金閣)の庄園に成っている。《※「東寺百合文書」、「宝永誌」》)


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