■「一向一揆」の時に「五位庄」に集結した一揆の首領「下間和泉」が【赤丸浅井城】に入城した。
この時に石山本願寺に篭って門主に付き従った「下間安察使法橋頼龍」から【赤丸村の門徒衆から本願寺へ寄進された志納銀の受取書】を届けさせている。そのマイクロフイルムが富山県立公文書館に保存されている。(※「越中志徴」・「城端別院文書」)
■天正五年、南紀雑賀の雑賀衆が【石山本願寺】に助力した。これに対して「織田信長」方の「佐久間信盛」、「羽柴秀長」、「荒木村重」、「掘秀政」等は根来衆の案内で「石山本願寺」の攻撃に掛かった。
■天正七年の冬、「正親町天皇オオギマチ」の助言で本願寺に信長との和睦の話が届き、「顕如聖人」は勅定に従い、天正八年、雑賀一党を引き連れて石山本願寺を出て紀州鷺の宮御堂に立ち退かれた。
しかし、「織田信長」は「前田利家」、「丹羽長秀」に軍勢一万五千を付けて不意に紀州鷺の宮御堂を攻撃した。
■これに対して信徒八千人は「下間頼龍」等に指揮されて雑賀衆とともに鐘を打ち鳴らして戦った。この鐘を聞いた門徒衆が竹槍鋤鎌等を手に手に集まり、戦った。これに対して丹羽長秀は織田軍を一旦退かせた。
しかし、この戦いの最中に「織田信長」は京都【本能寺】で「明智光秀」に暗殺された。