赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📕 柳生流無刀取りの師の『上泉伊勢守修行の地』 愛知県一宮市『臨済宗 別格本山 妙興寺 』 ⇒人生の導師『 稲垣老師 』の教え!!

2021-04-16 | 観光地


●静寂に包まれる修行道場、重要文化財「妙興寺」


■文化財の山門では時折、音楽家が練習をしている。



■本堂の天井には素晴らしい龍の絵が在る。



■重要文化財の鐘楼には越中高岡市で製造された鐘が在る。



■柳生流無刀取りの師の『上泉伊勢守修行の地』の看板もある。

■室町幕府の第6代将軍(将軍1428年 ~1441年)で第3代将軍足利義満の五男の足利義教(僧名 義円)の比護を受け、剣聖「上泉伊勢守」が修行して「無刀取り」を体得した愛知県一宮市「臨済宗別格本山 妙興寺」は多くの修行僧を抱える修行道場になっている。この寺は現在の形の「細切り蕎麦」を編み出した寺で「妙興寺蕎麦」と言われた。古くは蕎麦粉を水や、お湯で溶いて団子状にして食べる「蕎麦かき」で在ったが、妙興寺の修行僧はこれを細切りにして湯がく現在の「お蕎麦」を編み出して、古くは参拝者に振る舞われていたという。妙興寺には多くの末寺が在り、ここで修行した僧が各地に派遣された為にこの蕎麦作りが拡がったとされ、特に信州にはこの寺の末寺が多い様だ。
妙興寺の稲垣宗久老師には、文化財の維持管理を含めて様々な御教示を頂いた。折に触れ、老師に招待されて老師の居室に案内されて、必ず「お抹茶」の接待を受け、人生の指針を頂いた。
在る時に、抹茶碗に「僧がお尻を出して火に尻炙りをした碗」で抹茶を頂いた時に、「この絵は、仏教の本質を現したある高僧の伝説を描いたもので、この薪は【木造の仏像を薪にしたもの】で、単なる仏像の形を信仰する仏教の誤りを示された場面だ。本来の信仰は【形】では無く、心からの【信仰】で在る。仏教の理解無くては仏教徒とは云えない。」と御教示頂いた。
又、人生の折々に的確な『格言』を記した【書】を贈って頂いた。日々、雑務に追われて食事を掻き込んでいた時には【莫妄想 マクモウソウ】の言葉を頂いた。人間は不安に駈られて知らぬ間に様々の【妄想】に駈られて、いたずらに恐れや、不安に駈られて必要以上に緊張し、バタバタする。特に経営者や営業職は毎日、想定しない対人関係をその都度処理しなくてはならず、成績にも左右される。日々、知らない間に緊張を持続しており、これでは正確な判断力を欠く場合が在る。時には【一杯のお茶】に集中して煩悩を去る事が必要で在り、特に人前で緊張して上手く話せない人達には、【自分が思っている程、他人は自分に注目していない。】と思えば、緊張から解放される。「全ては過剰な自信に基づく」もので、一個のあるがままの自分で在れば様々な煩悩を払う事ができると云う教えだ。
又、リタイアする時には【白雲抱幽石 ハクウンハユウセキヲダク】の書を頂いた。「高い山の石は泰然として雲に囲まれても動じない」と云う中国の漢詩の一節だ。今迄、時間に追われていた者が、突然、時間が余るとその時間が余る事に不安を感じて、それが悩みになる。先輩の話を聞くと、ゴルフに毎日没頭したり、犬の散歩を一日に四回もしたり、山々を放浪して時間を潰していると云う。健康管理以前に生きる根拠を見失った為にバタバタしていると云う。この言葉は、「小人閑居して不善を為す」の言葉通り、「迷い」からあらぬ方向に生活が流される事を戒められた言葉だ。

これ等は、形ばかりの信仰に流され、日々、様々な煩悩に流される人間は、特に禅僧の様に特殊な修行や学問が無くても、幾つかの真理に気付くだけで、高僧の座禅にも匹敵する効果が在るとの教えで在った。【合掌】






●●千万円?の襖絵


🔴【越中吉岡庄】に伝えられた高岡市関町「衆徳山総持寺」の【国指定重要文化財木造千手観音座像】 !!

2021-02-14 | 観光地


高岡市関町(あいの風鉄道高岡駅南)の「総持寺」の千手観音像の胎内には、河内金剛寺を皇居として利用された南朝の「後村上天皇」(※後醍醐天皇の皇子 )の護持僧とされる「禅恵」と「摩尼徳丸」等が記載される部分がある。「禅恵」が南朝所縁の高僧という事から、この千手観音像は昭和12年に「国宝」に指定された。「禅恵」については、著名な僧という事から多くの学者が研究されているが、他の胎内名は殆ど解明されていない。 ここに記載される「摩尼徳丸」とは「金剛寺摩尼院」に奉仕した「徳人」と当時呼ばれていた者で、金銭を管理したり、神仏にお供えをしたりする職業人の事と思われ、「丸」とはポニーテールの髪型をした童形の人を指した。織田信長の小姓森蘭丸も名前には「森蘭」と記載されており、童形の小姓として「丸」を付けた様だ。
(「日本の歴史を読みなおす」、「異形の王権」※網野善彦著 網野善彦著 参照)

この他にも、この千手観音像の胎内には多くの時宗の僧や「石熊」等の白拍子の頭と推定できる署名もあり、「金剛位理卿」(後鳥羽上皇の法名と推定!)等の高位の人や最下層の人達迄の署名がビッシリと記載されている。


(※「一遍聖絵」に見られるポニーテールの童子姿の者は、「○○丸」と呼ばれた。寺院で仏のお供えや花を準備したり、お賽銭や寄進物を管理する等、金銭面を扱った為に賎しい仕事とされて「」とされたが、実際にはお寺の財政を握った為、後には商人につながって行ったと云う。後醍醐天皇は「建武の中興」の時にこれ等の財政力のある商人を頼り、悪人と呼ばれた国人領主、法師、僧兵等と共に革命の主力にされたと云う。 )





あいのかぜ鉄道(元JR北陸線)高岡駅南に有る「衆徳山総持寺」は、日本の仏像史でも著名な「国指定重要文化財 木造千手観音坐像」を安置している古刹でもある。又、著名な「三遊亭圓朝」はこの総持寺を舞台にした人情話の「札所の霊験」を演じていた。このCDは今や入手困難だが、インターネットの「青空文庫」で読む事ができ、若手の落語家でも時々、演じられるとも聞く。高岡駅南の大通りより少し入った高岡瑞龍寺の裏にたくさんの苔むした石仏に囲まれた古刹がある。現在、この寺は高野山真言宗の寺院だが、この千手観音像は南北朝時代に南朝の後村上天皇や北朝の皇室の方々が行宮とされた「女人高野」とも呼ばれた大阪河内の名刹「天野山金剛寺」から伝わったとされて昭和十二年には国宝に指定されている。胎内には「金剛位理卿 本願聖人」「仏所 幸賀 大仏師」と共に当時の「天野山金剛寺」の学頭「禅恵」と見られる署名が有り、「正平八年御入り」とも記載されている。この仏像は沢山の胎内銘があるにも関わらず、当時もその後も国、県、市共にこの胎内名の正確な解読に手を付けておらず、昭和39年に解体修理をした時の記録だけが残されている。正平八年は、正平九年に南北朝の戦乱の中で南朝の天皇が「金剛寺摩尼院」に逃げ込んだ前年に当たり、一時期は南朝側が北朝の天皇を拉致してこの金剛寺に連れてきていた時もある。この観音像が伝わったとされる年は、正に危機が目前に迫っていた時期と思われる。
この観音像が果たして「天野山金剛寺」から伝わったのか、禅恵は当時70歳であり、この禅恵についても学者には異論がある。この観音像は正平八年に造られたと文化庁は主張するが、この観音像の胎内仏は既に鎌倉時代の作と鑑定されており、胎内名の殆どは鎌倉時代に実在した著名な人物が多い。又、「仏所 幸賀 大仏師」についても京都の七條に工房を構えた慶派仏師と見られており、興福寺の仏像修理にこの仏師の名前があるもののこれも解明されていない。製作年代、胎内名の解読、胎内に記載されている「奉納 仏舎利 *2か所」の記載も解読されていない。学者の間では、要は何も解明されていない謎の千手観音像となってしまっている。国は重要文化財を指定するが、政教分離を建前に文化財の中身はどうでも良いらしい。何の為の文化財指定なのか頭を傾げたくなる。これが現実の官僚の世界なのか?日本人の精神構造の中に長く埋め込まれてきた神仏との関わりの歴史を全く排除して文化財行政に何の意味が有ると云うのか?