赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔹【福岡町向田村】奥州の「後三年の役」で戦った【源義家】(※八幡太郎義家)が開いた【越中国向田村】!!

2021-04-19 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国



■「越中射水氏」の「為康」は都に出て「算博士」の「三善家」の養子に成り「三善為康」と名乗る。鎌倉時代に三善一族は評定衆にも成り、幕府の中枢にも入っている。「三善為康」は「朝野群載」と言う著作を発表して、【源氏の棟梁の「八幡太郎 源義家」が越中国に転勤したい】との希望をした事を記載している。康平七年三月(1064年)、源義家は越中守と成る。(※「本朝通鑑」砺波誌)

【康平期の出来事 ;1062年(康平5)9月 ⇒源頼義(義家の父、陸奥守)、「安倍貞任」を衣川・鳥海・厨川柵で破り、貞任を殺し、宗任を降伏させ、「前九年の役」終わる。】

■「源義家」は源氏の中では軍神とされ、清和源氏の一族は義家を「八幡太郎」と呼び、「八幡社」を信仰している。「木曽義仲」が「倶利伽羅山の戦い」の前に小矢部市の「埴生護国八幡宮」に戦勝祈願の願文を納めたのも、越中国が元々、「八幡太郎義家」の所縁の地で在った事も在ったからだと見られる。
⇒【八幡太郎義家】は「清和源氏」で、「木曽義仲」の先祖に当たる!!



▼『源義家』;平安時代後期の武将で河内源氏の祖。生誕 長暦3年(1039年)~死没 嘉承元年7月4日(1106年8月4日)。陸奥守、鎮守府将軍。主君は藤原道長と源倫子(源雅信の娘)の長男で宇治平等院を建てた「藤原頼通」、「白河法皇」。氏族 河内源氏、石川源氏。
父:源頼義、母:平直方の娘。
比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して「後三年の役」を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。一方、平清盛は実は白河上皇と白拍子との間に生まれたとも言われ、その後は清盛が平家の養子に成って「保元・平治の乱」を経て平家全盛の時代を迎える。
(※「百錬抄」)

■「白河上皇」の時に「越中吉岡庄」は「白河上皇」により京都の「下鴨神社」の庄園として寄進されていたと言う。これは、藤原氏への寄進系庄園が増える事を規制する為の「白河上皇」の政策で在ったと云い、その後は再び藤原氏の勢力が強く成り、「藤原頼長」の時には「頼長の個人庄園」に成っている。「白河上皇」の時に白河院の警護で働きを見せた「源義家」は奥州の政争でまずいことが在った為か、「越中国守」に成りたいと申請する文書を遺している。(※「国史体系29 朝野群裁」)

「朝夜群載」








■実際に平家が越中を統治する前に、「源義家」が越中国守に任じられた時の発給文書は見られないが、奥州の清原氏の統治に失敗した「義家」が主君の藤原頼通の影響が強かった「越中」への任官を希望した様だ。
越中には現在も圧倒的に各地に「八幡宮」が鎮座しており、源氏が信仰した「八幡宮」が各地に祀られた可能性が在る。
又、越中には東大寺庄園の三割が在ったとされるが、東大寺大仏造営の時に聖武天皇は宇佐八幡宮を東大寺に勧請されたと言われ、元、東大寺庄園が在ったとされる地域には「八幡宮」が鎮座している様で、東大寺庄園跡地以外にも「八幡宮」が多く、何らかの「源氏」の信仰を反映していると見られる。
「延喜式内社赤丸浅井神社」の神域とされた「五位庄53ケ村」の中にも「赤丸舞谷八幡宮」、「三日市八幡宮」、「鳥倉八幡宮」、「沢川八幡宮」、「向田八幡宮」、「上渡八幡宮」、「東石堤八幡宮」が在り、赤丸舞谷八幡宮から向田八幡宮には東大寺庄園の記録が無い。この延長線には倶利伽羅谷の源平合戦に臨んで「木曽義仲」が源氏の氏神として戦勝の願文を納めた小矢部市の「埴生護国八幡宮」も在る。



■「福岡町史」には、富山県西部の「五位庄」(※南北朝時代末期以前は「吉岡庄」と呼ばれた。)の「高岡市福岡町向田(村)は康平7年 (1064年) に「源義家」が越中守の時、 家臣の向田行光に命じて開拓した場所】と記載され、越中国は源氏の棟梁として「八幡太郎義家」が越中守として統治していたとの記載が在る。
福岡町歴史民俗資料館には「向田遺跡」から発掘された奥州と繋がりがあると見られる「清原たけすえ」の署名が在る、「埋経」に使用した「経筒」が保管されている。
「源義家」が奥州統治に関わった事と奥州に栄えた清原氏の遺品が五位庄で発掘されている事は興味深い。




🔴🐎共通の歴史【越中吉岡庄】と【奥州平泉】⇒【保元の乱】で殺害された 藤原摂関家長者「藤原頼長」の29ケ所の庄園に含まれた「越中吉岡庄」・「能登一青庄」と奥州の「陸奥の二庄園」・「出羽の三庄園」!!

2021-04-18 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
《富山県高岡市福岡町赤丸の歴史》
🔻【保元の乱と越中吉岡庄(赤丸村)】
「崇徳上皇」と「後白河天皇」が争った「保元の乱」で、崇徳上皇側の「藤原頼長」は敗れて奥州五庄を含む藤原頼長領で在った庄園29庄が「後白河天皇」が譲位後の「後院領」等に組み込まれた。




🔽「崇徳上皇」側で「後白河上皇」と争った「越中吉岡庄」、「能登一青庄」、「奥州五庄」等の庄園を全国で所有した【藤原頼長。
【藤原頼長」(※「天子・摂関御影」)】














■「人車記」として「近衛家文書」に保存されている写真版を見ると、「陸奥国二ケ所」・「出羽国三ケ所」 を保有していた事が解る。
「陸奥国」では「本吉庄」・「高幡庄」、「出羽国」では「大曽根庄」・「遊佐庄」・「屋代庄」と成っているが、室町時代には越中の守護代として「遊佐氏」や氷見市の藤原氏祈願寺「東福寺」の庄園を管理していた「屋代(八代)氏」等が越中に見られ、高岡市には「大曽根地区」が残っている事から、この奥州にいた藤原氏が後に越中に動いた可能性が在る。



🔻【平治の乱】
「保元の乱」の後に、「後白河上皇側」で内紛が在り、「源義朝」・「高階通憲≪信西≫」が「藤原信頼」・「平清盛」に討たれた。(※「平治の乱」で、「信西」は逃げ惑って穴に隠れていたところを討たれ、「源義朝」は「後白河上皇」の館を先制攻撃して「平清盛」に討たれた。)





🔻【義経記】
「義経記」では、「源頼朝」に追われて奥州に落ち延びた「源義経」は「後白河上皇」の「後院領」で在った「越中吉岡庄」(※鎌倉時代には「吉岡庄」、南北朝末期から「五位庄」)を経由している。「吉岡庄」の「延喜式内社赤丸浅井神社」の前の「二位の渡し」での【弁慶の義経打擲事件】は、やがて「歌舞伎」や「能」の【勧進帳】のモデルに成った。













🔻室町時代には越中国の「利波郡」に「守護代」の「遊佐氏」が、「射水郡」の氷見市郊外には「八代氏」が見られる。(※「八代氏」は織田信長書状に「屋代」と見られる。)


(※「能登畠山文書」)

■藤原氏の英雄「藤原利仁将軍」の末裔とされる加賀の林氏は越中の石黒氏とも縁組して、分家として富樫氏や石浦氏を輩出し、「越中石黒系図」にはこの「石浦氏」が石黒氏の系図に見られる事から「林氏」との縁組や「石浦氏」との縁組で、「越中石黒氏」と「加賀林氏」の同盟が成り立っていたものと見られる。
「加賀林氏」(※石川県つるぎ町の郷土史家著作で、北国新聞発行)には、「加賀林氏は白山山伏と揉めて、白山山伏が比叡山に訴えた為に、林氏の棟梁は捕縛されて都に送られたが、当時、権力をほしいままにしていた左大臣の藤原摂関家長者藤原頼長の尽力で林氏は解放された」と記されており、その謝礼に能登「一青庄」や越中「吉岡庄」の庄園を「藤原頼長」に寄進した可能性が高い。「保元の乱」の後に藤原氏から没収されたのは藤原頼長の固有の庄園だけで在り、その他は頼長の兄の藤原摂関家藤原忠実に引き継がれている。

🔴🗾「藤原氏系図」と富山県高岡市福岡町「越中吉岡庄」の3つの「藤原氏系統」!!

2021-04-18 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
●「越中吉岡庄」は元々、「能登一青庄」と共に、藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園で在った。「左大臣頼長」は藤原氏の長者として奥州にも庄園を持ち、奥州他に29ケ所の個人庄園を持ち、各々を奥州藤原氏や全国の藤原氏に管理させて収穫物を送らせていたと云う。奥州には「藤原秀郷」が、加賀には「加賀林氏」が、越中には「越中石黒氏」等の藤原氏がおり、各地の藤原氏は絶対的な権力を持ち、「悪左夫=辛辣な左大臣の藤原頼長」と恐れられた頼長の庇護を求めたと言う。
「越中吉岡庄」は「保元の乱」で「藤原頼長」が敗れると、「後白河上皇」の庄園の「後院領」に組み込まれた。(※「保元記」・「兵範記」)








きき

















■「藤原氏と吉岡庄」


「藤原不比等」の子孫の藤原氏長者「北家 房前系」の『左京大夫川原左京(藤原道長)』は一条天皇の時に「延喜式内社赤丸浅井神社」へ勅使として遣わされたと「浅井神社縁起」には伝えられる。道長の子孫の「藤原頼長」は「越中吉岡庄」の領主だったが「保元の乱」に敗れて、庄園は「後白河上皇」の「後院領」に成った。
「赤丸浅井城」を居城とした「越中石黒氏」の「石黒光景」は藤原利仁将軍の末裔で、加賀の林氏・富樫氏の親族と云われ、「石堤村 西光寺」の開基の「井口氏」は近江を本拠とした「藤原藤太(藤原秀郷)」の子孫だと云う。高岡市の二上山には「竜神伝説」が在り、「赤丸浅井神社」には、「毘沙門天」の化身の「ムカデ」が後醍醐天皇皇子宗良親王の杯に落ちたと云う伝説が伝わり、その為に「川人山鞍馬寺とには「毘沙門天」が祀られたと云う。これ等の「竜神伝説」や「大ムカデ退治」の伝説は、近江の田原に住して奥州の遠征で貢献した「俵(田原)藤太」に由来するもので、「俵藤太」と同族の「藤原北家流」の「摂関家長者藤原頼長」 が嘗て、「越中吉岡庄」を領していた事とも関係が深いと見られる。又、「赤丸浅井城」には、「藤原利仁の末裔」の加賀林氏・加賀富樫氏と同族で「越中吉岡庄」の地頭をしていた「越中石黒氏」が入っていたと云う「富山県西砺波紀要」の記載も在り、「越中吉岡庄」には、「藤原秀郷系」やち「藤原利仁系」の人物や、「藤原不比等」直系の「藤原道長」や「藤原頼長」等の名前が登場する所から、「藤原一族」と「越中吉岡庄」は相当緊密な関係で在ったと思われる。

・「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺「川人山鞍馬寺」は、藤原南家で参議・藤原巨勢麻呂の七男「藤原伊勢人」が個人的に創建した京都の「鞍馬寺」を勘請したもので、「後白河上皇」の皇子が初代門跡になられた「本山派山伏聖護院派」の有力寺院で在った。
「藤原伊勢人」は「桓武天皇」から「造東寺長官」に任ぜられ、この「東寺」は後に真言宗の開祖「空海」に与えられた。「東寺」に残る膨大な古文書には、南北朝から室町時代の「五位庄」の記録が残されている。
高岡市国吉に在ったとされる「東大寺庄園須加庄」は「桓武天皇」の姪の「五百井女王」の庄園で在ったが、「大伴家持」も連座した「藤原種継暗殺事件」で、兄の「早良親王」が犯人とされて讃岐に送られ憤死された後、「東大寺華厳院」( 宇治華厳院[東大寺の子院] )に寄進されたと云う。この時期に「桓武天皇」「五百井女王」を通じて、越中にも藤原南家「藤原伊勢人」の信仰が伝えられたものか?
(※「寧楽遺文」)









■「大鏡」の「藤原氏物語」の項に、「藤原不比等」は「中大兄皇子=天智天皇」が側女に孕ませた子供で在ったが、その側女が「壬申の乱」で「蘇我入鹿・蝦夷」を滅ぼした恩賞として「中臣鎌足」に与えられた為、その子は「藤原不比等」と名乗り後の「藤原氏」の祖に成ったと云う。又、後の「文武天皇」は令を発して「藤原は不比等の子孫だけが使用し、元々の中臣氏は本姓に復して神道祭祀に専従すべし」と命じられたと云う。従って、後々に登場する「藤原氏」と「中臣氏」は全く別系統で在る。

【続日本紀】文武天皇2年(698年)8月19日の詔
「藤原朝臣賜はりし姓は,その子不比等をして承けしむべし。但し意美麻呂らは,神事に供れるに縁りて,旧の姓に復すべし。」
⇒「中臣の意美麻呂」は大津皇子事件に連座した為に、藤原氏は「藤原不比等の子孫」に限定して、「中臣氏は元の姓の中臣氏に復して、神事のみに奉仕して政治に関与してはならない」との勅令が発しられた。

【大津皇子】「天武天皇」の皇子。母は「天智天皇」の皇女「大田皇女」。686年(朱鳥元年)9月に父の「天武天皇」が崩御すると、同年10月2日に親友の「川島皇子」の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(イワレ)にある訳語田(オサダ)の自邸にて自害したと云う。(※享年24才)


🔴📜 【令義解レイノギゲ】と【赤丸浅井神社創建の元正天皇二宮の事】⇒ 「延喜式内社赤丸浅井神社」に伝わる【阿光ヶ渕】(※「吾子ヶ渕」)の事!!

2021-04-16 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国


●「延喜式内社赤丸浅井神社」は「元正天皇の養老年間に二宮が中興された」と社伝に記載される。この人物は、「系図」では、「文武天皇」の皇子で、「元正天皇」は「文武天皇」の姉で在ったが、「聖武天皇」と腹違いの弟の「石川朝臣広成」が若年の時に「文武天皇」が崩御された為に、当初は祖母の「元明天皇」が即位されて親代わりに成られたが、次いで叔母に当たる「元正天皇」が即位されて親代わりを務められた。「元正天皇」は、「聖武天皇」が即位された時の「宣命」の中で「吾子アコ 美麻斯王ミマシオウ」と「聖武天皇」の事を呼ばれている。
古代には、「延喜式内社赤丸浅井神社」の前で「小矢部川」と「庄川」が合流しており、その水郷は「阿光渕アコガフチ」と呼ばれた。この名前は、「元正天皇」が宣命の中で呼ばれた「吾子 アコ」に由来する。とすると、この水郷の名前は「ニ宮」の「石川朝臣広成」に由来したと見られる。「赤丸浅井神社」の前には、現在も「阿古下 アコシタ」という一族が住まいしている。この一族は、「赤丸浅井神社」の「奥宮」の玉垣を寄進する等、「赤丸浅井神社」とは密接な一族で在ったと見られる。又、神社の門前には「神代 ジンダイ」と呼ぶ一族が住まいしているが、これは神社の田圃を管理していた一族で在ったと神社に伝わる。

「元正天皇」の養老年間、天皇は岐阜に「行宮」を設けられ、度々、行幸された。岐阜県に在る【養老の滝】は元正天皇の命名とも伝わる。天皇は大宝律令以来の「律・令」を改訂し新な「養老律令」の編纂を目指され、その解説書は「令義解レイノギゲ」と言う。



■この時期には、文武天皇の「妃」で「首皇子オビトオウジ」を生んだ「宮子」の父の「藤原不比等」が権勢を奮った時期でも在り、若くして亡くなられた文武天皇の二人の「嬪ビン」を不貞を理由に宮中から追放した事件が起こっている。(※「続日本紀」)
この追放された「嬪」の「石川刀自娘」には皇子が在ったが、宮中を追放されて母方の「蘇我石川麿」の系統の「石川家」に戻ったとされる。無位の皇子を思ってか、「元正天皇」は【令義解】の中に「継嗣令」を発し、「全て天皇の子供は親王とする。女帝の子供も又、同じ」として、臣籍に成った親王を保証されている。その後、「石川刀自娘」の子供は正式に「石川朝臣広成」と賜姓されて天皇近臣の「内舎人」に任じられ、後には「高円朝臣タカマドノアソン広世」と賜姓されて官僚として生涯を過ごしている。
「石川広成」は「恭仁京」で、「大伴家持」と同じ「内舎人」に任じられて「大伴家持」が編纂した「万葉集」には「歌三首」が掲載されている。「赤丸浅井神社」はこの「石川朝臣広成」が創建したと伝えられ、「大伴家持」が【越中国司】として着任していた時に「延喜式内社赤丸浅井神社」には現在の庄川町に在った「東大寺庄園石粟庄」から「神田一段」が寄進され、「越中国司大伴家持」は「延喜式内国幣小社赤丸浅井神社」に勅使代参として毎年、「幣帛」を納める為に参拝していた。
(※「延喜式」では「国幣小社」には「国司が代参する事が定められている。又、「赤丸浅井神社」には古くからの御神体で大河を鎮める出雲系の「八河江比売神」が祭られ、相殿には皇室八神の一つので【大伴家持の氏神】の「高皇産霊神」が祭られていた。)
(※「越中川人山鞍馬寺三社記」に記載される「二宮」はこの人物を指している。)









■「川人山鞍馬寺三社記」(※部分)




🔷🔹【越中で対決した二人の宇多源氏】「豊臣秀吉」と「佐々成政」⇒【宇多源氏佐々木氏流】の同族と伝える二人の武将!!

2021-04-16 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
●【豊臣秀吉】が越中に侵攻して富山の呉羽山に着陣すると、越中の領主【佐々成政】は戦わずして僧形に成って自ら秀吉の軍営に赴いた。秀吉は自ら降伏した成政に対して、越中国の内新川郡のみを与えて、他は「前田利家」に与えた。

■豊臣秀吉の死後、前田利家の屋敷で秀吉の遺品の分配が行われたと【甫菴太平記】は伝える。
その中に記載される【豊臣秀吉遺品帳】には越中の刀工「宇多刀」も多く遺されていた事が記載されている。






■【宇多源氏佐々木氏流】の系図を見ると、「豊臣秀吉」と「佐々成政」は何れも近江をルーツとして「宇多天皇」の末裔として近江に繁栄した「宇多源氏」、「近江源氏」の同族で在り、「越中吉岡庄」で作刀した刀鍛冶の「宇多一派」も同族に当たる。「宇多刀工」は、近江国甲賀郡を発祥として 南朝の武将として「太平記」にも登場する。しかし、南朝軍の「桃井直常」が敗れると、「宇多一族」は武将として登場しなくなる。恐らくこの後に宇多一族は「宇多国光」と共に北上して、加賀から越中に入ったとみられる。
越中に入り、倶利伽羅山を越えて越中に入ると 、小矢部川沿いに「後醍醐天皇」の庄園の【越中吉岡庄】が広がっている。
「越中吉岡庄」の郷社の【延喜式内社赤丸浅井神社】の由緒には、「小矢市石動の宮島郷から赤丸村、国吉郷迄の53ケ村」をその神領として「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」が「毎年、各戸から米一升を徴収した」と云う。
(※「赤丸浅井神社由緒」富山県立公文書館)



























とすれば、「宇多一族」は「越中吉岡庄」に入ると、「吉岡庄」の地頭の館が在った東・西砦の周辺の赤丸城ケ平山の麓の「下加茂神社」の近接地で、小矢部川沿いの山林に鍛冶屋の工房を構えたと見られる。
「越中吉岡庄」の赤丸村の旧地は、南朝の「桃井直常」が最終決戦の「五位庄の戦い」(※「花営三代記」群書類従) に臨んだ場所で在る。「清和源氏」の「桃井直常」が行方不明に成った後には、後醍醐天皇の皇子「宗良親王」が吉岡庄に入られ、南朝軍を鼓舞されたと云う。
(※「宇多源氏」は歴史的に、「征夷大将軍」となる「清和源氏」の下で戦っている。)

■「太平記」の「神内合戦」に見られる南朝側の「宇多河氏」(※「宇田川」)と「宇多氏」!!

⇒「宇多氏」の一族郎党はこの戦いで全滅したとされる。
1351年(正平6年/観応2年)「観応の擾乱」で北朝は足利尊氏派と弟の足利直義派に分裂して激しい戦いを繰り返し、南朝側に付いた足利直義の養子足利直冬は父の足利直義が尊氏に殺害された後に中国地方に勢力を広げていたが、1354年(正平9年/文和3年)山名時氏、桃井直常、斯波高経等の旧直義派武将、南朝方の楠木正儀と共に上京作戦を開始した。足利尊氏は京都での戦いを不利と判断して北朝の後光厳天皇を伴って近江国武佐寺へ退去し、翌1355年(正平10年/文和4年)1月に足利直冬は桃井直常、斯波高経等の北国勢を伴って入京した。足利尊氏の子の足利義詮は当初播磨国で戦って山崎の西、神南の峰に布陣した。これに対し足利直冬方の山名時氏・山名師義等が攻撃を行なったものの佐々木道誉、赤松則祐らの奮戦により山名勢は敗退した。その後、足利直冬は京都の東寺に入り戦闘を継続したものの足利尊氏・義詮軍に敗退して、3月には直冬方は京都から撤退した。この後、越中を拠点とした桃井直常は彼の有名な「五位庄の戦い」(※「花営三代記」群書類従 塙保己一編)で敗れ、行方不明に成ったとされる。「五位庄」の赤丸村舞谷の麻畑島には桃井直常の三男が創建した「西大寺」が在ったが、現在は高岡市木町に移り「光釜山西大寺」と成っている。







■敗走した「宇多 一族」は、本拠地の大和国宇陀郡から南朝の牙城の赤丸村に移り住むと、軍備を整える任務として「刀」の製作に励んだものと見られる。当時、宇陀郡は南朝軍で伊勢国司「北畠親房」の配下に在り、「北畠親房」は「宗良親王」と呼応して中部から東北方面の鎮圧に動いていた。

🔴🐎🔹 【門跡寺院 聖護院と川人山鞍馬寺・延喜式内社赤丸浅井神社】⇒「江戸時代の天皇行幸」と貴族の乗物「與車 ヨシヤ」(※「牛車」)!!

2021-04-14 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
●「保元の乱」の後に「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の庄園(※「後院領」)と成り、南北朝時代末期迄、「上皇」・「天皇」の庄園として続き、「室町幕府三代将軍足利義満」がこの庄園を室の「業子 ナリコ」の菩提を弔う為に「相国寺」に寄進した頃は「五位庄」に成った。加賀藩記録「宝永誌」では、南北朝時代末期に後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」が「赤丸浅井城」に入られた時に「吉岡庄」を「五位庄」に改名されたと云う。(※「宝永誌」加賀藩記録)





・「越中吉岡庄」(※国立歴史民俗博物館庄園データーベース)


・「越中五位庄」(※国立歴史民俗博物館庄園データーベース)



■天皇の「行幸」では、天皇の身の廻りの世話や警護を行った「舎人 トネリ」・「内舎人 ウドネリ」の先導で行列が進んだ。越中国司を勤めた「大伴家持」や「赤丸浅井神社」を中興されたと云う「元正天皇二宮」(※石川朝臣広成)も、若い時に「恭仁京」に「内舎人」として赴任していたと云う。(※「万葉集」)

「醍醐天皇」の時に制定された「延喜式」には、各部署に配置された「内舎人」の人数等も定められていた。



■寛政2年の御遷幸
天明8年(1788年)正月晦日、御所の南東の鴨川の東宮川町団栗図子の空き家から出火した火事は御所など京の町の過半を焼き尽くしてしまった。
「光格天皇」は『聖護院』を仮御所とされた。そして「松平定信」を御所造営総奉行に任命し再興が始まった。




「足利義満」は「越中五位庄」を「相国寺」の庄園として寄進した。「相国寺塔供養記」には「聖護院」が招かれていた事が見える。



■『聖護院』は「聖体護持」を表し、「天皇を護る」の意で在り、初代門跡は「越中吉岡庄」(※赤丸浅井神社を郷社とした庄園)の庄園領主で在った「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」で在った。
「赤丸浅井神社」の神域には京都の「鞍馬寺 クラマデラ」が勘請されて「川人山鞍馬寺」と称し、両部神道 本山派修験道「聖護院」の末寺で在った。
この寺院の跡は現在も「鞍馬寺 アンバイジ」と呼ばれて赤丸浅井神社前に残っている。
















🔴🔨 室町時代の「越中五位庄」に工房を構えた「鋳物師 盛阿弥」と函館市文化財「平氏盛阿弥作 鰐口」!!

2021-04-10 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
●「越中川人山鞍馬寺」の宝物『鰐口』と永享年中(室町時代)の鰐口鋳物師「盛阿弥」!!

■「後白河上皇」の時代に全国の鋳物師に諸国通行自由、諸税免除の決定が為されて鋳物師は全国に拡がったと云う。「後白河上皇」の庄園で在った「越中吉岡庄」にも南北朝時代には刀鍛冶の「宇多刀工」が工房を構え、室町時代には鋳物師の「盛阿弥」が工房を構えた時と云う。又、同名の「盛阿弥作 鰐口」が函館市文化財として遺されている。
「●●阿弥」は鎌倉時代から室町時代に越中にも多く信者がいた「時宗宗徒」の法名で、鎌倉時代の慶波仏師「運慶」の弟子の「快慶」は「アンアミ」の異名で良く知られる。また、時宗は越中の小矢部川沿い、特に小矢部川上流の利波郡福光町の吉江集落に多くの信者が居たとされ、元々赤丸村に在った「総持寺」(※高岡市関町)の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の胎内にも「金剛位理卿 本願聖人」と記載される【後鳥羽上皇の法名】を中心に胎内一面に「●●阿弥」の「時宗門徒」の法名が墨書されている。南北朝時代に越中へ入られた後醍醐天皇の王子「宗良親王」が比叡山座主を退任された後、時宗に傾倒された時期も在ると云われる。

🔽[総持寺千手観音座像の多くの胎内名]







「時宗門徒」は「●●阿弥」「●阿」と記載される。

■「仁安の御綸旨」と言われる「後白河院庁」が発布した【河内国鋳物師の諸国通行を許可した文書】➡「延喜式内社赤丸浅井神社」を中心とした国吉郷(高岡市)から赤丸村(高岡市)、宮嶋郷(小矢部市)等を包含したと云う【越中吉岡庄】は「後白河上皇」の庄園の「後院領吉岡庄」と呼ばれ、院直属の「院庁」・「院司」が統治した。

➡【古くからの「五位庄53ヶ村惣社赤丸浅井神社」の神域を記載しており、これが奈良時代から南北朝時代迄続いた天皇家、藤原家の庄園「越中吉岡庄」の範囲と見られる。室町時代からは「五位庄」と改名されて室町幕府直属の御料所となり足利家菩提寺の「相国寺」、「等持院」、「等持寺」、「下鴨神社」の庄園として寄進された。(🔽「惣社」は代表する神社の意ー古くは国司が天皇に代わって幣帛を納めた神社)】
(※「延喜式内社赤丸浅井神社縁起」皆月家文書、富山県立公文書館)












■「越中吉岡庄」に大和国宇陀郡から移り住んだ「宇多刀工」の祖の「宇多国光」の太刀!!



■「川人山鞍馬寺」の宝物の「鰐口」


■「延宝六年(1678年)」の記名が有る「旧越中五位庄」の「赤丸浅井神社宝物」の「鰐口」と、「浅井神社縁起」(赤丸古代帳)に記載される「永享年中に赤丸の鍛冶屋町島に盛阿弥と言う鍛冶が工房を構えた」とする記載の検討。

「赤丸古代帳」の記載(部分)
▼「浅井神社寶物目録」
1.寄進状 壱通 宝永十七年九月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
2.書状 弐通 寛永十六年三月及五月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
3.書状 弐通 慶長十年九月及元和八年五月第三世利常ヨリノ書
4.御員筆額 一面 明治十一年正三位前田齋泰ノ書
5.古額 壱面 丈二尺 五寸 巾一尺四寸二分 但シ文字不明
6.古鏡 三面 一ハ直径三寸六分 一ハ直径三寸三分 一ハ直径三寸 右ハ往古神祇官ヨリ御下賜ノモノト言傳フ
7.太刀 一腰 丈一尺六寸 村正ノ作ト言傳フ
8.刀 一腰 丈一尺二寸四分 無銘白鞘
9.刀 一腰 丈二尺一寸五里 銘アルモ不分明
10.古鏡 一面 直径七寸壱分 藤原丈長ノ作
11.大鰐口 壱個 延寶六年八月吉日ト記セリ 目方約八貫目アリ
12.古記録 参拾弐冊 慶長以降天保ニテ古文書一冊ノ半数約百枚アリ
13.古画 壱軸 兆殿司ノ筆(二王像)
14.古画 壱軸 高祖神変大師ノ御影 大師ハ泰澄大師ナリ
▼「盛阿弥」盛阿弥ハ刀鍛冶ニシテ永享年中赤丸村ニ住セリ 鍛冶ノ跡アリ(中越史料雑纂)現今鍛冶屋町島ト小字残レリ ( ※ ⇒永享年中に鰐口等の制作で文化財に残る「平氏盛阿弥」の事か?)

■「越中吉岡庄」(※南北朝時代末期から「五位庄」)の「鍛冶屋町島」には南北朝時代に「宇多刀工」が大和国宇陀郡から移り住んだと伝わる。「鍛冶屋」と言う言葉は元々、「鋳物師らをも含む金属加工者」を指し、「製鉄」に従事するものを「大鍛冶」というのに対し、「刀鍛冶」を「小鍛冶」と称している。



■函館市の文化財に「永享十一年(1439年)三月 平氏盛阿弥作」の「鰐口」が有る。この一族は源実朝の時に奥州を追放された一族では無いかとされている。「函館市史」には以下の記載が有る。
【かの永享十一(一四三九)年の紀年をもつ「鰐口」にかかわっての仮説である。「奉寄進夷嶋脇澤山神御寳前 施主平氏盛阿弥敬白 永享十一年三月日」と刻まれているこの「鰐口」から、「脇澤」とは石崎の「宮の沢」を指すので、「澤山神」なる神社が石崎に存在していたことは間違いない。「平氏盛阿弥」を特定視することは容易ではないが、「阿弥」という「阿号」を名乗っていることから、念仏系信者であろう。推測をたくましくすれば、永享十一年以前のある時期、「平氏盛阿弥」を中心とする「渡党」たちが、昆布漁や鍛冶業などの順調なる生業を祈念して、石崎の「脇澤」の地に「山神社」を勧請したのではなかろうか。】

永享と言う室町時代に「越中五位庄」に「盛阿弥」と言う「鍛冶」が住み、この同時代には函館市の脇沢の「沢山神」に「平氏盛阿弥」が「鰐口」を奉納している。
「●●阿弥」と言う称号は越中の小矢部市川流域の福光から海岸一帯に栄えたと言う「時宗」の出家者が用い、南北朝時代の興国三年に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が越中に入られて「時宗」に改宗されて、富山県西部には「時宗」が一挙に拡がったと云う。元々、赤丸村に在った高岡市の総持寺の「木造千手観音座像」の胎内にも時宗の信者の「●●阿弥陀佛」と言う記名が多い。
福光町の記録に「時宗という宗教は、開祖一遍上人(知真)で弘安二年の秋越中をとおり、その二世他阿(たあ)が砺波郡吉江道場の盧阿を教化し、医王山麓に念仏湧躍歓喜の声が起こりはじめた。」とされ、福光の吉江は時宗の越中の本山として機能してきたと云う。

■越中は日本海交易で北海道とも交流が在ったと云われ、平安時代に「越中吉岡庄」は藤原摂関家「藤原頼長」の庄園で在り、奥州平泉の周辺の出羽国、陸奥国にも庄園を持ち、奥州藤原氏に庄園の管理をさせていた事から、「奥州」は「越中吉岡庄」と文化的に密接で在った。奥州藤原氏は蝦夷に向き合い、文化的にも交流が深く、奥州の馬、金、布等を庄園主の藤原頼長に送っていたと云う。又、奥州藤原氏は越前の白山山伏の信仰「平泉寺」を信仰して、「鐘」を寄進している。
藤原氏の庄園の産物は海路、舟で能登や越中伏木の港を経由して越前敦賀港から都へ送られており、越中と北海道との交流も相当深かった筈で在り、函館市に越中産の鋳物製鰐口が伝えられた可能性が高い。



■五位庄の鍛冶屋町島に工房を構えた「宇多刀工」は江戸時代初期迄続いたとされ、「延宝六年」の記載が有る赤丸浅井神社宝物の「鰐口」もこの五位庄に栄えた鍛冶屋の制作かも知れない。

🔴🌸 「越中五位庄鍛冶屋町島」の鍛冶屋の歴史⇒「川人山鞍馬寺」(※延喜式内社赤丸浅井神社の別当)に伝わる「鰐口」と函館市文化財「平氏盛阿弥作 鰐口」!!

2021-02-12 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
●「延宝六年(1678年)」の記名が有る「旧越中五位庄」の「赤丸浅井神社宝物」の「鰐口」と、「川人山鞍馬寺(※赤丸浅井神社)」の記録「赤丸古代帳」に記載される「永享年中に赤丸の鍛冶屋町島に盛阿弥と言う鍛冶が工房を構えた」とする記載の検討。



■「赤丸古代帳」
●「浅井神社寶物目録」
1.寄進状 壱通 宝永十七年九月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
2.書状 弐通 寛永十六年三月及五月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
3.書状 弐通 慶長十年九月及元和八年五月第三世利常ヨリノ書
4.御員筆額 一面 明治十一年正三位前田齋泰ノ書
5.古額 壱面 丈二尺 五寸 巾一尺四寸二分 但シ文字不明
6.古鏡 三面 一ハ直径三寸六分 一ハ直径三寸三分 一ハ直径三寸 右ハ往古神祇官ヨリ御下賜ノモノト言傳フ
7.太刀 一腰 丈一尺六寸 村正ノ作ト言傳フ
8.刀 一腰 丈一尺二寸四分 無銘白鞘
9.刀 一腰 丈二尺一寸五里 銘アルモ不分明
10.古鏡 一面 直径七寸壱分 藤原丈長ノ作
11.大鰐口 壱個 延寶六年八月吉日ト記セリ 目方約八貫目アリ
12.古記録 参拾弐冊 慶長以降天保ニテ古文書一冊ノ半数約百枚アリ
13.古画 壱軸 兆殿司ノ筆(二王像)
14.古画 壱軸 高祖神変大師ノ御影 大師ハ泰澄大師ナリ

●「盛阿弥」盛阿弥ハ刀鍛冶ニシテ永享年中赤丸村ニ住セリ 鍛冶ノ跡アリ(中越史料雑纂)現今鍛冶屋町島ト小字残レリ ( ※ ⇒永享年中に鰐口等の制作で文化財に残る「平氏盛阿弥」の事か?)













■「越中吉岡庄」(※南北朝時代末期から「五位庄」)の「鍛冶屋町島」(※高岡市福岡町赤丸)には南北朝時代に「宇多刀工」が大和国宇陀郡から移り住んだと伝わる。「鍛冶屋」と言う言葉は元々、「鋳物師らをも含む金属加工者」を指し、「製鉄」に従事するものを「大鍛冶」というのに対し、「刀鍛冶」を「小鍛冶」と称している。
「越中吉岡庄」が「後白河上皇」の庄園で在った時の仁安二年(1167年)、『後白河上皇』は「河内国日置庄」の鋳物師に全国を自由に通行する特権を与え、越中には「鋳物師」や「刀鍛冶」が移り住んだと言う。
(※高岡市では「仁安の御綸旨」と云う。高岡市には同内容の文書が在る。)







■「高岡市鋳物資料館」に展示される「仁安の綸旨」(※コピー)



■「宇多刀工初代 宇多国光作 太刀」








■「宇多刀工」の氏神『槌の宮』(※高岡市関町)


■函館市の文化財に「永享十一年(1439年)三月 平氏盛阿弥作」の「鰐口」が有る。この一族は源実朝の時に奥州を追放された一族では無いかとされている。「函館市史」には以下の記載が有る。
【かの永享十一年(一四三九年)の紀年をもつ「鰐口」に関わっての仮説である。「奉寄進夷嶋脇澤山神御寳前 施主平氏盛阿弥敬白 永享十一年三月日」と刻まれているこの「鰐口」から、「脇澤」とは石崎の「宮の沢」を指すので、「澤山神」なる神社が石崎に存在していたことは間違いない。「平氏盛阿弥」を特定視することは容易ではないが、「阿弥」という「阿号」を名乗っていることから、念仏系信者であろう。推測をたくましくすれば、永享十一年以前のある時期、「平氏盛阿弥」を中心とする「渡党」たちが、昆布漁や鍛冶業などの順調なる生業を祈念して、石崎の「脇澤」の地に「山神社」を勧請したのではなかろうか。】

永享と言う室町時代に「越中五位庄」に「盛阿弥」と言う「鍛冶」が住み、この同時代には函館市の脇沢の「沢山神」に「平氏盛阿弥」が「鰐口」を奉納している。
「●●阿弥」と言う称号は越中の小矢部市川流域の福光から海岸一帯に栄えたと言う「時宗」の出家者が用い、南北朝時代の興国三年に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が越中に入られて「時宗」に改宗されて、富山県西部には「時宗」が一挙に拡がったと云う。元々、赤丸村に在った高岡市の総持寺の「木造千手観音座像」の胎内にも時宗の信者の「●●阿弥陀佛」と言う記名が多い。
福光町の記録に「時宗という宗教は、開祖一遍上人(知真)で弘安二年の秋越中をとおり、その二世他阿(たあ)が砺波郡吉江道場の盧阿を教化し、医王山麓に念仏湧躍歓喜の声が起こりはじめた。」とされ、福光の吉江は時宗の越中の本山として機能してきたと云う。

▼「室町時代初期の越中国図」(※「畠山文書」羽曳野叢書)
室町時代には「越中利波郡」の殆どが「五位庄」に組み込まれ、「五位の西庄」・「五位の東庄」に分かれており、「五位の東庄の一部」は「徳大寺家庄園般若野庄」に含まれていたとされる。(※「東寺百合文書」)




■越中は日本海交易で北海道とも交流が在ったと云われ、平安時代に「越中吉岡庄」は藤原摂関家「藤原頼長」の庄園で在り、奥州平泉の周辺の出羽国、陸奥国にも庄園を持ち、奥州藤原氏に庄園の管理をさせていた事から、「奥州」は「越中吉岡庄」と文化的に密接で在った。奥州藤原氏は蝦夷に向き合い、文化的にも交流が深く、奥州の馬、金、布等を庄園主の藤原頼長に送っていたと云う。又、奥州藤原氏は越前の白山山伏の信仰「平泉寺」を信仰して、「鐘」を寄進している。
藤原氏の庄園の産物は海路、舟で能登や越中伏木の港を経由して越前敦賀港から都へ送られており、越中と北海道との交流も相当深かった筈で在り、函館市に越中産の鋳物製鰐口が伝えられた可能性が高い。



■五位庄の鍛冶屋町島に工房を構えた「宇多刀工」は江戸時代初期迄続いたとされ、「延宝六年」の記載が有る赤丸浅井神社宝物の「鰐口」もこの五位庄に栄えた鍛冶屋の制作かも知れない。