赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🌄 【室町幕府将軍足利義勝と高岡大仏】⇒高岡市指定文化財【高岡大仏】と五位庄赤丸村極楽谷創建の【高岡越中宮極楽寺】!!

2022-01-26 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

(室町幕府第六代将軍足利義教ヨシノリ)


🔻「高岡大仏」は「多田(源)義勝」が造営したとされる。これは、「足利義教」が恐怖政治を行った為に、家臣の「播磨国赤松満祐」に暗殺され、その為に赤松氏は滅ぼされた。その後、赤松一族の残党が「南朝」の末裔の皇子を殺害して「三種の神器」を奪い、それを幕府に提出した。「赤松満祐」の子の「赤松政則」は、その恩賞として「加賀国半国(石川郡・河北郡)」を与えられて「赤松家」の再興を認められた。



■現在、高岡市には「博労町極楽寺」と「坂下町極楽寺」の2ケ所の【極楽寺】がある。博労町極楽寺は「五位庄極楽谷(赤丸村)」(※南北朝時代迄は「越中吉岡庄」)に「後醍醐天皇八宮宗良親王」が創建されたと伝わる。「博労町極楽寺」の「越中宮極楽寺由緒」には【赤丸村に240年近く在った】のだと云う。(※牧野に在ったと云う説もある。しかし、「射水郡史」に拠れば、当時、高岡市の牧野地区を治めていたのは、「赤丸浅井城」の「越中石黒氏」の一族の「牧野太郎二」で在ったと言う。)

■「坂下町極楽寺」は「博労町極楽寺」の末寺である。極楽寺は「五位庄極楽谷(赤丸村)」に創建され、その後高岡市の守山に移ったとも伝わる。【室町時代に「五位庄」が「足利義満」によって「臨済宗相国寺」に寄進されて、その時、越中守護の城の「赤丸浅井城」周辺から、「臨済宗」以外の寺院は立ち退きを命ぜられた】と現在も「柴野三光寺」等の臨済宗寺院では語り伝えている。
現在の高岡大仏は、【およそ800年前、摂津の国多田(兵庫県)に住む源(多田)義勝が「承久の乱」[承久3年(1221年)]を避け、入道して越中に移り、二上山麓で護持してきた丈 8寸の金銅仏を腹中に納めた一丈六尺の木造大仏を造営したのが高岡大仏の始まりと伝わる】と言う。「清和源氏」の系図では、この「源義勝」は、【かつて「赤丸浅井城」に在城した「越中守護畠山持国」が「室町幕府管領」に昇格して「烏帽子親」と成り、「足利義勝」を室町幕府第七代将軍に推戴した】と言う。

🔽その後、330年を経た天文弘治の頃、「神保安芸守氏張」が「守山城」を築き、この大仏を【鎮守仏】として崇めたとされる。
★高岡市国吉の【柴野城】には、上杉謙信から五位庄安堵状を受け「守山城城主神保氏張」と行動を共にした【寺島牛介】が、赤丸浅井城には氏張の甥の【中山直治】が入城していた。(現在の高岡「大仏寺」境内の鐘楼には、「柴野城城主寺島牛介」の子孫で加賀藩高岡町奉行であった「寺島蔵人」が鋳造寄進した高岡町の時鐘《※現存の物は再製造した物》が掛けられている。)

■大仏は慶長14年(1609年)「前田利長」が高岡城築城の時に現在地の大手町に移された。その後150年を経て荒廃した為、坂下町極楽寺第15世等誉上人はこれを憂え、弟子の良歓を勧進職として延享2年(1745年)9月に再建された。
以来、高岡市民に親しまれたが、文政4年(1821年)6月の大火で類焼したが腹中の金銅仏のみが焼失を免れた。その後、極楽寺第26世譲誉上人が発願し、田中、津幡屋、桶屋等の信徒が再建に奔走して天保12年(1841年)木造一丈六尺の座像が建てられた。光背の舟御光の頂上に三重の宝塔を据え、この中に火中出現の金銅仏を安置、火中出現仏の左右に十二光仏を並べ、更に全面に千体仏が配された。
しかし、明治33年(1900年)6月の高岡大火で再び焼失した。信徒の世話頭松木宗左衛門は大仏の復元を一生の悲願とし、極楽寺第31世良禅上人と共に不燃の大仏の鋳造を発願、荻布宗四郎らの協力により昭和7年(1932年)12月に完成、翌年5月に開眼式が盛大に挙行された。
その後、昭和56年、平成19年に部分的な改修が行われて、今日、高岡市の観光名所となっている。
(概要)
総高 18m85cm 座高 7m43cm 総重量 65t
特徴 鎌倉大仏には無い外径4m54cmの円光背を背負っている。
(※「極楽寺資料」参照)




■「源義勝」を調べると
【源義勝】;室町幕府第七代将軍足利義勝。永享6年2月9日(1434年3月19日)に第六代将軍足利義教の嫡男として生まれた。六代将軍の足利義教が嘉吉の乱(1441年)で暗殺された為に、わずか9才で将軍職を継いだ。しかし、足利義勝は、将軍職を継いでからわずか8ヶ月で、病死したと伝えられる。⇒義勝が若くして亡くなった事と年代の相違から同名異人だろうか? 考えられるのは、烏帽子親とり、「赤丸浅井城」に在城した「越中守護畠山持国」が手配をして高岡市守山に建てたか、神保氏を頼って越中に逃れ、「越中射水郡放生津城」で臨時政権を立てた「第10代将軍足利義材」が先祖供養の為に建てたかで在る。「足利義材」は越中利波郡の石堤村西光寺に度々、訪問して寺領を寄進したと伝わる等、越中臨時政権の期間に越中西部での統治を行っていた記録が在る。(※「西光寺縁起」高岡市石堤)
【注意】高岡市の歴史では「前田利家」が居城にした「高岡市守山」に様々な記録を作り替えた歴史が喧伝されている様で、この「高岡大仏」の元々在ったのは、「高岡市守山」では無く、「後醍醐天皇第八皇子宗良親王」が後醍醐天皇の庄園で在った「越中吉岡庄極楽谷(赤丸村)」に「越中宮極楽寺」を建立された時に、この時から既に本尊として「越中宮極楽寺」に安置されていたと考えるのが筋が通る。「越中宮極楽寺」は「越中宮極楽寺由緒」では「赤丸村に二百数十年間在った」としながらも、加賀藩に対しては「守山に在った」と加賀藩に媚びる報告書を提出している。(※「高岡史料」高岡市役所編纂)
全員の住民の首を撥ねたり(※「荒山戦記」)、釡煎り、張り付け等の残虐な殺戮を繰り返して恐怖政治を行っていた「前田利家」(※「能登、武生での虐殺」)や「前田利常」(※「利常夜話」)の事蹟に逆らわ無い様に各寺社は細心の注意や作文で対応していた事が、「加賀藩の歴史」やその後継の「高岡市の歴史」では頻繁に現れる。








▼【※第7代将軍足利義勝(父:足利義教、母:日野重子 )
生誕 永享6年2月9日(1434年3月19日)-死没 嘉吉3年7月21日(1443年8月16日)  享年10歳(満9歳) 
墓所は安国寺慶雲院にあったが、焼失して現存せず遺骨等も所在不明になっていると言う。木像は足利家菩提寺等持院に現存している。応永22年(1415年)越中五位庄の半分が足利義持により足利家菩提寺等持院に寄進される。下地は守護畠山満家に預け置きになった。
(※「足利義持御判御教書案」)】
⇒「源義勝」の年代は「承久の乱」では無く、この年代では嘉吉元年(1441年)に【嘉吉の乱】が起こり、父・義教が「赤松満祐」に暗殺されたため室町殿へ移され、翌嘉吉2年(1442年)に管領「畠山持国」・「細川持之」ら等に擁されて9歳で将軍職を継ぎ、第7代将軍となった。





▼この由緒からすると、嘉吉元年(1441年)に「嘉吉の乱」で「将軍足利義教」が暗殺され、混乱の中で足利家菩提寺等持院の庄園の五位庄近くの越中守山に逃れたその子の「足利義勝」は、父の「足利義教」の供養の為にこの大仏を造った事になる。しかし、義勝の越中在住の記録は無い。

📌しかし、「足利義教」を【烏帽子親】として元服した足利一族の「畠山満家」の子供の「畠山持国」は、「羽曳野資料叢書」の「越中絵図」に拠れば、越中利波郡の「赤丸浅井城」に居城を構えて、「将軍足利義教」を烏帽子親として元服して、その子の「畠山義勝」の将軍推戴を進めている。この関係からすれば、「将軍足利義教」が赤松満祐に暗殺されて後に将軍の座に就いた「足利義勝」が、亡父の供養の為に「守山に寺を建てて大仏を造営した」事は在りうる事で在り、その実務は、「越中守護畠山持国」が執り行った可能性が大きい。室町時代の「五位庄」は、「越中絵図」に拠れば、富山湾の「伏木港」や「守山」から「福野町」迄を含んでおり、その「五位庄」は父親の「畠山満家」以来、「守護畠山氏」の支配地で在った。従って、「高岡大仏由緒」に記載される「源義勝」は先ず、「足利義勝」とみて差し支えない様だ。




🔻室町時代の「越中絵図」(※「畠山家文書」羽曳野資料叢書)


🔻「延喜式内社五位庄53ヶ村惣社 赤丸浅井神社」を鎮守とした【赤丸浅井城】には「畠山持国」の記載が在る。(※「越中絵図」畠山文書)







🔻「岩松畠山氏系図」(「越中守護畠山氏」、「室町幕府管領畠山氏」)


🔻越中守護から室町幕府管領になった「畠山持国」は、「将軍足利義教」を烏帽子親として元服して、その子の「義勝」を将軍に迎えている。


🔻「源(足利)義勝」は管領「畠山持国」が将軍の座に迎えている。


出典「続群書類従 第五編 系図部」



▼「越中五位庄」は「足利義満」が「相国寺」(塔頭寺院は金閣寺)の庄園として以来、足利家とは密接な関係にあり、石堤村西光寺縁起に「明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材(義植と改)再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 」として、「足利義材が越中に逃れた時に石堤西光寺を本陣として戦い、後に寺領の寄進を受けた」として足利家と五位庄の歴史を記載している。又、富山市の「蜷川の郷土史」に拠ると、室町時代には足利義満の近臣の蜷川新右衛門の一族「越中蜷川氏」が新川郡、利波郡を統治していたとされ、足利義満の母はこの越中蜷川氏で在ったと記載されている事から、当然、砺波郡の「五位庄」と幕府は最も近い関係に在ったと見られる。



●「源義勝」となっている部分は年代が「足利義勝」の年代では無く、「承久の乱の時」とされており、「北条義時」の年代になる。高岡大仏の由緒では「越中宮守山極楽寺の住職が残した由緒」に記載される「源(多田)義勝の建造」とされる由緒だけが残され、摂津源氏が創建した事になっているが、その人物は特定されていない !!

🔽先ず、先の検証から「源義勝」は、「足利義勝」の事と考えられるが、能登の「鳳至郡誌」には、【摂津多田源氏の末裔が加賀に逃れ、後に前田家に仕官していたが、後に帰農して十村役を勤め、一時期には「原家」を名乗ったとされる一族が在る】とされる。この系統は「鹿ヶ谷の変」で後白河上皇の動きを平清盛に通報したが、後に源氏側から「多田庄」を没収されて追放された「摂津源氏多田行綱」の末裔で、その子の「基綱」は旧領回復を目指して「承久の乱」に参戦して後鳥羽上皇側で戦った。しかし、破れて「基綱」が処刑された事が「吾妻鏡」に載せられている。
「基綱」の子供は伯父の養子になり、子孫は存続した様で、その子孫が加賀に落ち延びて、加賀藩に仕官した様だ。しかし、この系図でも「義勝」は見られ無い。





■「越中国」と「源氏」の因縁
越中の【長沢氏】は「源頼光」の子孫で越中長沢に土着して【長沢】を名乗ったと云う。

【長沢氏の出自】
長沢氏は越中国の国人で鎌倉時代に越中に土着した清和源氏の一族とされ、婦負郡長沢の地から姓を「長沢」として、南北朝時代には南朝軍の「桃井直常」に従っている。「越中守護桃井直常」は「高岡守山城」や砺波市の「増山城」、福光の「松根城」等を居城として戦っている。長沢氏の一部は、その後、室町幕府奉公衆に転じた。戦国期の長沢氏は氷見地方にも勢力を持ち、氷見市の「海老瀬城主長沢善慶」の名前が伝えられ、氷見市の「真言宗上日寺」には、その一族と見られる「長沢光国」が元亀3年(1572年)に寄進した石仏群が遺されている。長沢氏は後に「狩野」と名を変えて室町時代には越中に「狩野氏」が配置されていた事が「畠山文書」の「越中絵図」に記されている。

(※「越中絵図」には、「赤丸浅井城」に「越中守護畠山持国」の記載が在る。)


🔽「福岡町史」には富山県西部の五位庄の高岡市福岡町の【向田(村)は康平7年 (1064年) に「源義家」が越中守の時、 家臣の向田行光に命じて開拓した場所】と記載され、越中国は源氏の棟梁として「八幡太郎義家」が越中守として統治していたとの記載が在る。(※「朝野群載」)
「源頼光」の父は摂津源氏の「源(多田)満仲」。高岡市の【高岡大仏】は「当初、多田義勝が守山に建てた寺院の仏像」に由来するとされ、「高岡大仏の胎内」には大きな木製の仏頭だけが遺されている。
(※「源頼光」⇒子孫の「源義家」は越中に赴任している。その後、源平の騒乱を経て、越中は「源頼朝」の統治と成り、「越中国吉岡庄(赤丸村)」には頼朝直轄の越中守護「成佐」が配置されていた事が「吾妻鏡」に見られる。室町時代になると第三代足利(源)義満は越中国五位庄を室町幕府直轄の御粮所にしている。)

「朝野群載」







■徳川家臣となった越中守山城の神保氏張の系図を調べると、先祖は秩父平家としながらも、先祖は土屋、中村、二宮、神保と名乗って姓を代えている。神保氏は古くからの畠山氏の家臣だったが、氏張が養子に入った神保氏の先祖は代々「神保」を名乗り、高岡市の守山城を居城としていたとされる。(※越中の神保氏に二系統が在り、徳川家臣名簿では三系統見られる。)高岡大仏は守山に創建された寺に祀られたと伝わり、少なからず神保氏との関係が推測される。能登畠山氏は平家の畠山重実が北条氏に殺害された後に足利氏が重実の妻(北条の娘)と婚姻して源氏系畠山氏となっており、承久の乱の時には源氏の足利一門となっていた。従って、能登畠山氏から養子に入った神保氏張は実は源氏の血を継いでいた人物だ。この「足利義勝」で調べると、室町幕府第七代将軍の「足利義勝」が出てくる。これだけの巨大な木造大仏を造る財力を持った者は「承久の乱」の頃なら、北条氏、北条一門の名越氏、畠山氏、又は源氏の足利氏、代々守山城を居城とした神保氏が想定される。しかし、この大仏の由緒では、「承久の乱の時」となっており、「承久の乱」は「後鳥羽上皇」が北条一門に対して仕掛けた乱であり、時代は鎌倉時代である。この時に赤丸村周辺の「越中吉岡庄」(※後の五位庄)は、後鳥羽上皇の「後院領」であり、続く石動山は天皇の勅願所であり、守山周辺は後鳥羽上皇と繋がりの深い地域だった。「承久の乱」では、越中の天皇家末裔の石黒一門や、縁者の宮崎一門が中心となり、越中の国人が後鳥羽上皇の御味方となって戦い、石川県でも藤原氏の名門の加賀林一門も上皇の御味方をした。しかし、圧倒的な北条一門の力に北陸勢は敗れて降伏した。降伏した武将は幕府により処罰され、下級武士は百姓の身分に落ちとされたと云う。承久の乱では、越中も戦場となり、多くの死亡者を出したと云う。この時に、源氏の足利一門は鎌倉幕府側であり、「源(多田)義勝」が高岡二上山の守山に来て、大仏造営を祈願した事になる。
鎌倉幕府北条一門の「名越朝時」は「承久の乱」の時(1221年5月19日 )に北陸道大将軍となり、勝利して力を持ったが、台頭してきた足利氏と対立して足利氏よりも立場が低くなり、源頼朝の縁者で藤原摂関家から鎌倉幕府将軍となった「九条頼経」に接近する。守護として加賀守護・能登守護・越中守護・越後守護となり、越中では富山県西部の放生津に拠点を構えて(鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中国守護所の後に放生津城となる。)勢力を持ったが、名越時有の時に越中に流されていた後醍醐天皇の皇子「恒性皇子」を殺害し、遂には南北朝の戦いで一族は海に追われて全滅した。従って、「承久の乱」の後に「二上庄」を制圧していたのは名越氏だが、この時期に二上庄で勢力を持ったのは「神保氏」と見られる。しかし、名越氏にしても、神保氏にしても、「承久の乱」の時には何れもが「平家」であった。「承久の乱」は将軍源実朝が暗殺されて源氏の直系が絶えた時に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に仕掛けた戦いであり、何故、この時期に「源義勝」が守山の地に来て大仏造営を祈願したかは謎である。「承久の乱」では、摂津国守護の大内惟信や同族の「多田基綱」他の畿内の武士の多くは「後鳥羽上皇」方に属して敗れたが、一族の能勢氏は幕府方に属したとされる。多田源氏は、平安末期の「源(多田)蔵人頼憲」(源頼光の五世孫)が従六位で昇殿を許された事が『本朝世紀』(久安三年六月)に見え、ついで「保元の乱」では「崇徳上皇・藤原頼長(越中吉岡庄領主)」に味方して、その子の「多田盛綱」と共に斬られた。この乱の時に、兄の「多田頼盛」は「後白河上皇」方についたとされる。(※越中吉岡庄はこの乱の後に「後白河上皇」の「後院領」になった。)
その子の「多田蔵人行綱」は、治承元年(1177年)に、平清盛打倒を図る「鹿ヶ谷事件」に加わったが後白河院近臣の仲間を密告して自身は罪を免れた。次いで、「源三位源頼政」が平氏打倒の兵をあげる時に、頼政が各地の源氏の名をあげた時に、多田行綱に続けて、多田次郎朝実、手島冠者隆頼(能瀬三郎高頼)の三兄弟が『平家物語』の「源氏揃え」に見える。「多田行綱」は「寿永の乱」では反平家の軍事活動をし、また文治元年(1185)に頼朝に追われた義経一行を摂津河尻で豊島(手島)冠者とともに襲撃し、その前途を妨げた行動もとった。多田行綱の行動は鎌倉の源頼朝に疎まれ、多田荘は多田氏の手から没収され、頼朝一族の大内惟義の支配となった。しかし、その地に多田氏は残り、多田行綱の子の「多田蔵人基綱」は、「承久の乱」に際して、その子「多田重綱」と共に「後鳥羽上皇」方に参加し、破れて斬首された。(※『吾妻鑑』(承久三年六月条)「承久の乱」の後、多田荘は北条得宗家の所領となり、当地の多田一族は次第に衰えた。
(※「古樹紀之房間」古代氏族研究会公認HP 等参照)



●加賀、能登、越前で勢力を持ち、「真宗の国、門徒の持てる国」と云われた「一向一揆」の時に本願寺坊官として戦闘を指揮した「下間氏」がいる。その時に一揆の勢力が「五位庄」に集結して、「赤丸浅井城」には「下間和泉」が入城したと「越中史徴」は伝え、富山県公文書館には「下間頼龍の赤丸門徒からの志納銀受取状」が残されている。下間氏の初代源宗重は源頼政の玄孫で摂津源氏の流れの美濃の「多田氏」であり、「本姓は源」を名乗っている。承久元年(1219年)に同族の源頼茂(頼政の孫)が後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」で鎌倉幕府打倒を企てたとして討たれ、多田宗重も連座して処刑される事となった。この時にたまたま通りかかった親鸞が処刑する事の非を説き、親鸞が宗重を出家させる事を条件に助命された。宗重は親鸞に帰依して東国での伝道に随従した。親鸞が常陸国下妻(現在の茨城県下妻市)に庵を構えた時に宗重は「下妻」を名乗り、これが「下間」になったと云われる。この「多田氏」系の「下間氏」は後に徳川に仕え、「池田」と名乗っている。
親鸞が後鳥羽上皇の怒りに触れて佐渡に流された。親鸞はこの時に北陸道を越後に向かって下ったと言われ、北陸道沿いには浄土真宗の信仰が根強く残る。親鸞は藤原氏の日野家の出自であり、京都の法界寺の南東に隣接する日野誕生院は、浄土真宗開祖・親鸞(1173年-1263年)の生誕地といわれており、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の別院、飛地境内となっている。本堂に本尊の阿弥陀如来像の両脇には親鸞幼童の御影像と親鸞の父の日野有範の木像が祀られている。日野家は源氏の足利義政の妻の日野富子を輩出し、応仁の乱の元凶とされる。この日野家の菩提寺もこの法界寺である。⇒「赤丸浅井神社」を中心とした「越中吉岡庄」もこの足利、日野共密接な庄園で在った。

●加賀の「多田氏」
多田源氏の「多田蔵人行綱」は「源頼朝」に勘当されて領地は一族の「大内氏」に与えられた。その後、「多田蔵人行綱」は放浪して加賀に至り、加賀にはその末裔が残ったと云う。
【油屋多田氏系図】
多田満仲ー頼光ー頼国ー明国・・行綱・・多田五郎政明(河合藤左衛門宣久・朝倉家ニ仕、後ニ河合村に住ス、蓮如ヲ支持、後ニ討死)ー河合藤左衛門虎春ー藤左衛門才覚ー藤左衛門満春ー坪野屋源六頼久ー坪野屋藤左衛門仲政ー油屋与助信光ー油屋九郎右衛門満久ー油屋九郎右衛門頼晴・・・

・「加賀多田家初代五郎政春は室町時代の応仁の乱の時期に摂津国にいて、一向宗の蓮如に協力していた。蓮如が比叡山の宗徒に追われて越前国朝倉氏の協力で越前国吉崎に道場を開いた頃に、五郎政春は越前朝倉氏に仕えたが、何故か朝倉氏の禄を辞して、加賀国能美郡河合村に来て、河合藤左衛門宣久と名乗り、子の右京介虎春と住むようになった。」
(※野村昭子氏著『五葉松が語る多田家五百年の歴史』)

・石川県鳳至郡の多田源氏末裔;【多田家 鵜川の多田家は蔵人源行綱の末裔と伝ふ。其祖前田氏に仕へ、二代利長の越中に隠棲するや、之に随ひて亦越中にあり。偶々君側の奸を除かんと欲し、他の十七人と党を結びて之を殺害し、為に罪を獲て浪人となり、同國に於いて帰農す。寛文中その裔綱村の時に至り鵜川に移る。これを鵜川多田の第一とす。然れども前田氏を憚り、一時故らに原氏を冐ししことありといふ。爾来十村役、扶持人十村役等勤めしが、第五世範村に至り、自ら十村役を辞し、書を送りて荻生徂徠の門に入り、又金沢に行きて勉学し、後子弟を集めて教授せり。】⇒加賀の多田氏や越中吉岡庄の歴史から、浄土真宗の開祖親鸞と繋がる日野家や、多田家が浄土真宗の北陸の拠点とした加賀吉崎の地頭であった朝倉氏家臣とされる事から、浄土真宗との強い関係が推定される。
(以上「北摂多田の歴史」参照http://hokusetsuhist.sakura.ne.jp/newpage1tada.html)

・摂津国多田荘を拠点とした多田源氏がある。この系統は摂津源氏とされ、その子孫は多田源氏を名乗った。多田源氏の子孫で「塩川氏」を名乗った一族には、後に「神保」を名乗っている人物がいる。塩川伯耆守の曾孫神保元仲の手紙が摂津中村城城代の中村家文書に残ると云う。


●南北朝の頃、越中長沢に拠り「長沢氏」を名乗った一族は、多田源氏の一族とされる。

●清和源氏で能登畠山氏に従った「長谷部信連」の祖の源満慶は「多田氏」を名乗っている。
後に、この一族は加賀藩重臣となり、「長家」と呼ばれる。この一族は「承久の乱」の時には鎌倉幕府側の九条頼経将軍、北条氏、能登畠山氏に従って戦っており、長谷部氏が能登、越中守護畠山氏の有力武将で在った事から、この源義勝(多田義勝)も長谷部氏の一族の可能性もある。


●高岡市守山城「神保氏張系図」(※「静岡県立図書館」)





「室町幕府第七代将軍足利義勝像」(※京都の足利家菩提寺「等持院」所蔵)
※「赤丸浅井神社」を中心とした「越中吉岡庄」は、足利義満により相国寺(金閣寺)の庄園とされ、その後も足利家菩提寺の等持寺、等持院の庄園となっていた。








●「足利家」・「日野家」と「越中吉岡庄」
「赤丸浅井神社由緒」に拠ると、「延喜式内社53ケ村総社赤丸浅井神社」の神領の旧の「越中吉岡庄」は高岡市守山近くの「国吉郷24ケ村」「宮島郷2ケ村」「後の赤丸村他27ケ村」を含む「53ケ村」だった様だ。「越中吉岡庄」は南北朝の時に「五位庄」になったと「宝永誌」は伝える。(※加賀藩時代は五位庄56又は57ケ村とされる。藩政時代には赤丸村に向野新村や石堤池田島等が開発されたと云う。)
応永12年(1405年)足利義満により五位庄の半分を室日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として京都相国寺に寄進される。
足利義満は「日本国王」と名乗り、その妻日野業子は天皇の准母(名目上の母)となり、義光の子義嗣は親王と同等の格式を許されたと云う。 金閣寺は相国寺の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為「鹿苑寺」は「金閣寺」と呼ばれている。
応永22年(1415年)足利義持により五位庄の半分が足利氏菩提寺の等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた。(※「福岡町史」)
又、「濱惣持寺」(赤丸村に在った総持寺ー現在は高岡市?)では、畠山満家の三回忌法要で舞樂が奉納されたと云う。この主催者は能登・越中越中守護畠山氏か?(※「名古屋大須観音文書」射水市松山学芸員論文参照)
「鎌倉遺文」に拠ると、鎌倉時代末期の「二上庄雑掌」(※地頭?)に、赤丸浅井城、福岡木舟城城主の石黒氏同族石黒弥三郎の名前が見られる。「二上庄」は高岡市中心部を含む射水郡に属した旧高岡市域を含む。
(※後鳥羽上皇の時代に源氏の直系の實朝が暗殺され、上皇は頼朝の血筋で九条家(藤原氏)の九条頼経を将軍として承認した。九条家の初代九条兼實の娘は後鳥羽上皇の中宮で在ったが、男子に恵まれず宮中から退き、兼實は失脚した。北条氏は危機感を募らせ何とか頼朝と九条の血筋を継ぐ九条頼経を摂家将軍として迎えた。赤丸浅井神社の神領[→米一升を各戸から集めた]で在った小矢部市の宮島郷は元々、九条頼経の父の九条道家の庄園であった。⇒「鎌倉遺文」)

越中宮守山極楽寺住職が伝えた「高岡大仏由緒」







●「越中統治絵図」(※「畠山文書」羽曳野叢書)によれば、高岡大仏を建立した「足利義勝」の時代には、越中は八郡と成り、五位庄は「五位の西庄」と「五位の東庄」に分かれ、「西庄」には小矢部市付近の「蓮間郡」が含まれていた。又、現在の高岡市守山は室町時代には二上庄(※鎌倉時代)ではなく、五位庄に含まれていた。高岡大仏が「守山」で創建されたとすれば、「畠山持国」の居城の「赤丸浅井城」が在った五位庄赤丸村に創建された「越中宮極楽寺」も、一時期守山に在ったとされ、現在の「大仏寺」が「越中宮極楽寺」の末寺に当たる事から、本来は「極楽寺」の信仰に由来する大仏ではなかったのか?



伝承の通り「多田義勝」と言う人物が創建したとすれば、南朝所縁の人物で在った可能性も在る。徳川家は「南朝の忠臣の新田氏の流れの世良田氏から出た」として、新田氏が源氏で在った事から【源氏の棟梁の征夷大将軍】の資格が在るとその系図に記載している。又、一方、「摂津源氏の多田満仲」が先祖に当たるとも主張している。高岡大仏の創建に「多田義勝」なる人物が登場するが、その人物が創建した守山の「大仏」を引き継ぐ「高岡大仏」は宗派を同じくする寺院で在ったと見られるが、徳川の由緒に見られる様に、この由緒自体も創作されたとも考えられ、或は、加賀藩の主家に当たる徳川家を慮って改変されたとも考えられる。「足利」も「多田」も源氏だが、「多田」と「義勝」が一緒に成っている所から、この人物の実在については疑いが残る。



■【高岡大仏】を創建した「源義勝」の検討
ここに古い源氏の系図が在る。そこには、「将軍足利義勝」の時に補佐したのは「畠山持国」と記載されている。羽曳野市に残る「畠山文書」の中に当時の「越中統治絵図」が在り、その「赤丸浅井城」の部分には「畠山持国」の記載がある。「畠山持国」は室町幕府管領を勤めた「畠山満家」の子供で在り、「足利義持」が五位庄の半分を足利家菩提寺の等持院へ寄進した時に「五位庄の管理は畠山満家に委ねられた」(※「富山県史」)とされる事から、赤丸村が代々畠山親子に拠って管理され、「赤丸城」は守護畠山氏の居城で在った事は確実だ。「義経記」の「五位庄二位の渡し」(※赤丸浅井神社前の渡し場の事)で弁慶が義経を打擲した時に、「守護の館が近ければ見逃せない」と関守が云う場面が有るが、正に「赤丸浅井城」は「二位の渡しの至近距離に在った」城であり、この城は赤丸浅井神社を創建された「元正天皇の二宮」が居城にされて以来、石黒氏が居城にしてきた。」とされる古城で在った。
(※「肯搆泉達録 コウコウセンタツロク」、「富山県西礪波郡紀要」)

従って、この伝説に伝わる「源義勝」は幼少で亡くなった「足利義勝」で有り、この像を造営したのはその後ろ盾の「室町幕府管領畠山持国」であった可能性が高い。









🔴高岡市守山から続く西山の西方浄土の方向に当たる赤丸村極楽谷には真っ赤な夕陽が沈む。正にこの世の極楽を彷彿とさせる光景が毎日繰り返される。



●赤丸村舞谷に伝わる古図には「極楽寺創建の地、極楽谷」が記載される。(絵図上では左上の赤丸城の奥)



最新の画像もっと見る