■『保元の乱』で敗れて讃岐に流された「崇徳院」の中宮「皇嘉門院」(※「九条兼実」の姉)の庄園「能登若山庄」以下十二ケ所と九条家の庄園三十ケ所を藤原良通(※「九条兼実」の長男で「皇嘉門院」の養子の形を取る。妹の「任子」は「後鳥羽院」の中宮。)に譲る様に後白河上皇が処分を下された。
この乱で死亡した元の「越中吉岡庄」の領主の「藤原頼長」の庄園二十九ケ所は官に没収されて、「後白河上皇」の庄園「後院領」に組み込まれたが、藤原摂関家に代々伝わった庄園は「後白河上皇」の側に立った兄の「藤原忠通」に引き継がれた。
争いに敗れた「崇徳院」は、激しい怒りを抱えて讃岐に流され、身は怨霊となって皇室に祟り、その姿は恐ろしい悪鬼の姿と成り、都に異変をもたらした。「後白河上皇」はその「崇徳院」と「藤原頼長」を鎮撫する為に慰霊施設を設け、その後も「崇徳院」の祀られた讃岐金比羅宮には「後鳥羽天皇」も度々、勅使を遣わして「崇徳院」の鎮撫をされた。しかし、歴代の天皇はその後も「崇徳院」の怨霊に怯える事になる。後には「後鳥羽院」も「後醍醐天皇」も天皇親政を目指して幕府と対立し、隠岐島に流される事に成った。