赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴「保元の乱」で争った「後白河上皇」、「藤原頼長」の筆跡 ⇒「能登若山庄」他の崇徳院中宮の庄園に対する処分!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸












■『保元の乱』で敗れて讃岐に流された「崇徳院」の中宮「皇嘉門院」(※「九条兼実」の姉)の庄園「能登若山庄」以下十二ケ所と九条家の庄園三十ケ所を藤原良通(※「九条兼実」の長男で「皇嘉門院」の養子の形を取る。妹の「任子」は「後鳥羽院」の中宮。)に譲る様に後白河上皇が処分を下された。
この乱で死亡した元の「越中吉岡庄」の領主の「藤原頼長」の庄園二十九ケ所は官に没収されて、「後白河上皇」の庄園「後院領」に組み込まれたが、藤原摂関家に代々伝わった庄園は「後白河上皇」の側に立った兄の「藤原忠通」に引き継がれた。
争いに敗れた「崇徳院」は、激しい怒りを抱えて讃岐に流され、身は怨霊となって皇室に祟り、その姿は恐ろしい悪鬼の姿と成り、都に異変をもたらした。「後白河上皇」はその「崇徳院」と「藤原頼長」を鎮撫する為に慰霊施設を設け、その後も「崇徳院」の祀られた讃岐金比羅宮には「後鳥羽天皇」も度々、勅使を遣わして「崇徳院」の鎮撫をされた。しかし、歴代の天皇はその後も「崇徳院」の怨霊に怯える事になる。後には「後鳥羽院」も「後醍醐天皇」も天皇親政を目指して幕府と対立し、隠岐島に流される事に成った。


🔴【国指定重要文化財木造千手観音座像】の御開帳⇒赤丸村に在った高岡市関町「総持寺」の檀家総代・古代氏族「池田氏」!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




「後白河上皇、「後鳥羽上皇」から南北朝の「後醍醐天皇」迄続いた「吉岡庄(赤丸村)」









[撮影;総持寺 永田龍祥師]

■現在は高岡駅南に在る「総持寺」の檀家総代を長く勤め、現在も総持寺の千手観音像の胎内仏を所有している池田氏は、浅香年木氏の著作に拠れば、古くは「源平盛衰記」にも登場し、木曽義仲が守山城から決戦場となった倶利伽羅に向かった時、埴生八幡宮を紹介した地元の国人領主の『池田次郎忠康』という武将がいたが、この池田氏は富山県の西部から氷見にかけて勢力を持ち、石黒氏に同調して源氏の勢力として戦ったと云われる池田氏と見られている。赤丸城の山裾一帯には今も「池田島」という地名が残り、能越道高岡インター周辺にも「池田」という地名や「東石堤」という地名が残り(※「石堤村史」)、現在の小矢部市今石動もその昔は「池田」と呼ばれたと云う。浅香年木氏に拠れば、氷見の能登境にも池田氏が勢力を持っていた様で「池田城」が有り、ちなみにここには古くからの要衝「森寺城」も有った。

■【源平盛衰記】
『時に義仲埴生にありて兵を指揮する内北方に当たり、初夏の緑滴る森の木の間より片割りの社壇聳ひ華表高く苔蒸し朱の玉垣見えければ越中の住人池田次郎忠康を呼びて曰く「彼方に見ゆるは如何なる社壇にて何神を祀るや」と尋ぬるに忠康は「八幡大菩薩を祀り埴生八幡宮と称す」と答ひければ義仲大に悦び太夫坊覚明を召して「当国八幡宮の寶前に於て合戦するは味方の戦勝疑なからむ。然れ共其の祈願の為願文を捧げたし。汝宜しきに計へよ。」と申せば覚明下馬の上義仲の馬前に跪き、箙の中より矢立取出し、案にも及ばず古物を写すが如く之を書す。』と告げて「覚明」は「源義仲の先勝祈願の文書」を記して埴生護国八幡宮に奉納した。








■岡山藩家老をしていた建部領主の池田家は代々伊勢国赤堀城主だったが、織田家の家臣から池田恒興の重臣となり7000石を領した。この池田家は「森寺池田家」と呼ばれたと云う。因みに高岡市、氷見市内から山中に入った所に古くからの「森寺城跡」が在り、この森寺に能登から誘致された「西念寺」は「五位庄」の土地と交換した土地に建てられたと言う。
(※「森寺西念寺土地寄進状」氷見市文化財)
織田信長の妹(父は織田信秀)は、高岡に在った守山城城主で能登畠山氏から神保家に養子に入った「神保氏張」の妻で有り、この森寺池田氏が織田家の影響下で勢力を拡大した可能性がある。氷見の森寺城は古くから有る城の様だが、当初、誰が築城したかは明確では無い様だ。

因みに、総持寺の檀家総代を続けていた池田家は元赤丸浅井城近くに有り、何かのトラブルに巻き込まれて所払いとなり、跡を弟の五右衛門に譲ったと云う。前田家は「瑞龍寺」を建てた時に総持寺の山号の「高岡山」を取り上げて瑞龍寺に付け「高岡山瑞龍寺」にしている。寺の敷地も寄進して長く持ち寺の様に庇護してきた池田氏が、この加賀藩の暴挙に異議を申したのは当然考えられる事で、池田家は「好ましく無い意見を云う者」として「所払い」に成った可能性が有る。
この弟の「五右衛門家」については高岡民俗資料館に保管の杉野家文書にも五位庄の肝煎としての記録が残っている。古書「赤丸名勝誌」に拠れば、赤丸浅井城に居た「石黒氏」が北条氏に圧迫されて新川郡に立ち去った後に「中山氏」が入城したとされており、柴野城には神保氏張の家臣で五位庄を上杉謙信から安堵されていた城主「寺嶋牛之助」が居たと云う。高岡徹氏の著作によれば、寺嶋牛之助は赤丸浅井城城主中山氏の叔父で姻戚関係に在ったと云う。従って、赤丸は古くから神保-織田氏の影響も受けて居た様で、「越中志徴」に拠れば、信長が能登を攻めた時には「赤丸の喜田氏(喜多氏?)が信長に通じた」と記載されている。池田家はこの様な歴史的な背景を持つ越中吉岡庄、後の五位庄に勢力を持っていた古い氏族と思われる。古く、藤原頼長から没官されて後白河上皇、後鳥羽上皇と続いた天皇直轄領の「後院領吉岡庄」(後の五位庄53ケ村)や、現在の中能登町の能登の「一青庄」(※ヒトトソウ)から石川と富山の県境の石動山も含めた広大な地域が天皇家の所領「御院領」で有った事から、この池田氏は古くからこの「後院領」と密接な関係に在ったと思われ、池田氏は藤原氏や源氏の一族にも見られ、藤原氏の所領で有った吉岡庄とも密接で、源氏とも密接な一族で有った可能性が高い。(※古代氏族「紀氏」は「蘇我氏末裔石川氏」、「池田氏」の同族とも云う。赤丸浅井神社の創建は聖武天皇の腹違いの弟の「石川朝臣広成」とされる事からこの一族とも考えられる。浅井神社門前には「石川」、「池田」とその一族の「奥田」、「桜木」の一族が多く居住している。)
池田氏の系譜は『寛政重修諸家譜』に拠ると、源三位頼政の弟の泰政が初めて「池田」と名乗ったと云う。摂津池田家の家系は織田家とも密接であったが、その家系は石黒氏と同じ先祖の孝元天皇---武内宿祢を祖先とすると云う。この赤丸に古くからの家系の「池田家」が栄えていたのは、同族の「利波臣志留志」が勢力を誇っていた時からの古代氏族で有ったからかも知れない。
石黒氏居城の赤丸浅井城の山裾に居館を構え、一族が周辺を領有していた池田一族は、時代の移り変わりと共にその時の政権と微妙に折り合い、親戚関係を結んで生き延びた一族と思われる。その背景には、皇族が創建したと伝わり、延喜式にも記載された名門の「浅井神社」の勢力、影響力が大きかったことは否めない。又、現在高岡市街に在る「総持寺」が長く「浅井神社48坊」の一ケ寺として存在した事とも切り離せないと見られる。
この池田家の末裔は現在、高岡市国吉に住み、「総持寺の千手観音像の胎内仏」や、昔、武将が兜に納めて戦った「兜仏」、又、持ち宮の「イバラの宮」の本尊の板光背等の遺跡も保管している。又、赤丸村鞍馬寺、古村地区には一族の末裔の池田、奥田、桜木等の子孫が現在も生活されている。

「赤丸村肝煎五右衛門の記録」(※「杉野家文書」高岡市福岡歴史民俗資料館)






「赤丸浅井神社」と高岡市関町「総持寺」との密接な関係を示す「古文書」。




越中の西山沿いに繁栄したと云う古代豪族についての著作は少なく、未々、研究は進んでおらず、この浅香年木氏の著作「治承、寿永の内乱論序説」がその金字塔になっている。


「富山県の歴史」色川大吉他監修、高瀬保編集 参照
 

🔴🌅 「越中吉岡庄」と「源頼朝」・「義経」・「範頼」⇒「熱田神宮藤原氏」・「藤原北家」 と「河内金剛寺過去帳」!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

■上「源頼朝」 、 下「源義経」




■「能登守平教経」に追われる「源義経」 「越中吉岡庄」(後の「五位庄」)に在る「五位庄五十三ケ村総社延喜式内社赤丸浅井神社」に掲額される「義経・弁慶主従」

現在の「五位の渡し」跡。(「義経記」では「二位の渡し」!)



■「越中吉岡庄」と呼ばれた富山県高岡市福岡町赤丸村は平安~鎌倉期に藤原氏や平家、源氏の諸将が関わった庄園である。「白河天皇」の時に上賀茂神社の庄園となり、次いで藤原北家の「摂関家藤原頼長」の庄園となった。保元の乱の後は「後白河上皇」の庄園となり、その後も「後鳥羽上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室の庄園として続いた。この「越中吉岡庄」に関しては、源頼朝の「地頭吉岡成佐の不法事件に関する書状」が「吾妻鏡」に残され、弟の義経の奥州下りを書いた「義経記」には「五位庄の二位の渡しで弁慶が義経を打擲したいわゆる勧進帳の場面」が記載される。

■「源氏」と因縁の深い熱田大宮司一族の「藤原季範 トシノリ」とその弟の「藤原(高倉)範季」は、源氏の三兄弟にとっては大恩人であった。源義経の異母弟の源範頼も幼年期には彼等に養われたと云う。「藤原範季」は、後白河上皇の時に諸国の受領を歴任して摂政九条(藤原)兼実の家司も務めたが、1179年(治承3年)には平家の反乱で陸奥守を解任され,1186年(文治2年)には源頼朝から源義経を支援していたと嫌疑をかけられて役職を解官されたが、後鳥羽天皇の養父母として養育し、「承久の乱」でこの一族は大きな影響を受けた。

■平安時代に、祖父を敦家,父を敦兼,母方の祖父に顕季等の管弦奏者を排出した家系に藤原季兼と云う人物がいた。季兼は崇徳上皇の時に正四下備後守として昇殿を許され、管弦奏者を勤めた。「保元の乱」の戦後処理が行われた後の保元3年(1158年)正月廿一日、後白河天皇の時に久しく絶えていた仁寿殿での詩歌管弦の宴が開かれ、その時に季兼が「篳篥ヒチリキ」を演奏し、又、鳥羽法王が石清水八幡宮に参詣された時に法王自ら笛を吹かれ、その時に備後前司藤原季兼が「深山には 霜降るらし 外山なる まさきの葛 色づきにけり 色づきにけり」と「神楽歌庭燎(庭火)」を歌った記録が「古今著聞集」に残されている。季兼は後白河天皇が皇子の時から後白河が好んだ「今様」の指導者であったとも云われる。(※「梁塵秘抄口伝集」)
季兼が尾張国の目代をしていた時に代々、熱田神宮の神宮大宮司職を勤めた尾張氏(尾張国造の子孫)の娘の尾張職子を妻としてその子の季範が産まれた。尾張員職の代の永久2年(1114年)に外孫の藤原季範に熱田神宮の神官職場を譲ったが、以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏の世襲になって、本家の尾張氏は副官の権宮司に就いた。
[※名古屋市熱田区の「熱田神宮」の西門前にある浄土宗「誓願寺」(愛知県名古屋市熱田区白鳥2丁目10)には「右大将頼朝公誕生舊地」の碑がある。季範の別邸跡とも云われるが、藤原季範の女の由良御前がここで頼朝を出産したと伝えられる。]

■久安年間(1145年~1150年)に後白河上皇に仕えた源義朝は熱田大宮司「藤原季範」(初代藤姓熱田大宮司)の娘「由良御前」と結婚して 頼朝、希義、坊門姫の三子をもうけた。源頼朝は,1147年(久安3年)に義朝の三男として現在の熱田区旗屋で生まれたと云う。
当時、熱田大宮司家は、男子は後に後白河院の北面武士が多く、女子は後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕えた女房がいた事から、待賢門院や後白河院・上西門院に近い立場に在った様だ。由良御前自身も上西門院の女房であったともされる。
『保元物語』に拠れば、保元の乱 [保元元年(1156年)]においては由良御前の実家熱田大宮司家は義朝の軍勢に兵を送って援護したとされる。平治元年12月9日(1160年1月19日)の平治の乱の9ヶ月前に由良御前は死去した。平治の乱では源義朝が敗死し、頼朝は伊豆国に配流された。一方、義朝と常盤御前の間に生まれた義経は母の常盤と共に敵将の平清盛に引き取られ、常盤は清盛との間に女子(後の廊の方)を産み、常盤はその後、奥州藤原氏の政治顧問をしていた一条(藤原)長成(父は白河院・鳥羽院の近臣であった参議藤原忠能)と再婚し、義経は鞍馬寺に預けられた。平清盛と常盤の間に生まれた妹(廊の方)は後の後醍醐天皇に繋がる先祖となり、その法名は高岡市の衆徳山総持寺の千手観音像が伝来した「女人高野 河内金剛寺」の過去帳に残る。この寺は、越中倶利伽羅谷の木曽義仲と平家との戦いに平家側として戦い戦死した右馬允源(三善)貞弘が創建した寺である。
⇒(※義経は文治5年「1189年」に奥州平泉で頼朝に殺害される。)
又、池田宿(磐田市)の遊女と義朝の子で義経の異母弟の範頼は1150年父を源義朝、母を池田宿の遊女として産まれる。その後、熱田大宮司藤原季範の娘の由良御前(源頼朝の母)に密かに京都で養育された。更にその後、藤原季範の弟の勘解由丞季成(藤原季成)が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村蒲御厨)で養育されて「蒲冠者」と呼ばれた。源範頼は育てられた範季の一字を受けて「範頼」と称したとされるが、その生涯は定かではない様だ。源頼朝の旗揚げに駆けつけ、当初は小山朝光の後陣を勤めたが、やがて兄の義経と共に、木曽義仲との戦いや壇之浦の平家との戦い等で活躍して埼玉県の比企に舘を構えた(埼玉県比企郡吉見町大字御所)とされる。この地は頼朝の乳母の「比企の尼」の所領だったが、比企氏に庇護されてこの地に一族が住んだと吉見町に伝わる。一説には、範頼は1193年に頼朝から謀反の疑いをかけられて伊豆修善寺に幽閉され、やがて侍所所司梶原景時の軍勢に殺害され、比企の尼の取り成しで助けられたその子孫の生き残りが吉見に住み「吉見氏」を名乗ったと吉見町では云われている様だ。
源範頼と吉見氏については具体的な資料を確認していないが「吾妻鏡」に吉見氏が登場する。
(※「吉見氏」は、南北朝の頃に能登で繁栄した「能登吉見氏」との関係は定かではない。又、「吾妻鏡」には畠山重忠の代官が不法を働き、重忠の所領「伊勢神宮沼田御厨」が吉見次郎頼綱に与えられており、源範頼の子孫が「吉見氏」を興したと言うのは別系統と見られる。
【「吾妻鏡」文治三年(1187年)十月大十三日庚辰。依太神宮神人等之訴訟。被召放畠山次郎重忠所領伊勢國沼田御厨。被宛行吉見次郎頼綱。仍於重忠者。雖召禁其身。申不知子細之由。頗有陳謝歟之間。厚免已畢。至當御厨者。賜他人之旨。被仰神宮之上。員部大領家綱所領資財等。任員數可沙汰付本主。雖向後。於彼邊。可停止武士狼藉之趣。令下知山城介久兼給云々。】) ※ 畠山重忠の代官の不法を伝える記事。

■義経の異母弟源範頼は藤原季成に養育され、その娘の藤原成子は後白河上皇に嫁して守覺法親王・以仁王を生む。 源義経が奥州に落ち延びた時に守覺法親王は背後で支援したと云う。親王は福井県の「久河北荘」(※旧吉田郡河合村・森田村→この庄園は九頭竜川以北の大荘園で古代の足羽郡川合郷の名を継いで「河合荘」とも言われた。)を所有していた為に、越前大野の平泉寺に参詣した義経主従にとっては安全な道筋であったのだろう。
[※この庄園は藤原頼長の縁者の仁和寺相応院の僧「隆憲」が仁和寺御室の守覚法親王に寄進した所領がその前身となり建久元年に見作田(現在耕作される田。見=現)60町が二品守覚法親王の「親王家領」となった。]

■熱田大宮司を継いだ「藤原季範」は号を千秋と称し、以後「千秋家」を名乗る。
弟に範季がいる。子に従二位権中納言範光(1155年 - 1213年)や後鳥羽天皇の乳母で権勢を誇った範子・兼子姉妹がいる。叔母(能兼の妹)は源頼政の母。
藤原季範は儒家の家に生まれ、学者として知られたが、父(能兼)が保延5年(1139年)に死去した時に10歳の弟範季を引き取って養子にした。永万元年(1165年)に兄季範が死去すると、残されたその幼い子供達は範季に引き取られて養育された。範季が高倉天皇の第4皇子の尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母父となった事から、藤原範兼(藤原南家貞嗣流、平安後期の歌人、父方の叔母は源頼政の母)の娘の藤原範子・兼子らも乳母として親王に仕え、後鳥羽天皇即位の後には一族は権勢を振るった。藤原範子と法勝寺執行能円の子「在子」は源通親の養女となり、後鳥羽天皇の子(為仁親王、後の土御門天皇)を産んだ。後鳥羽天皇の乳母藤原範子の叔父の「藤原(高倉)範季」(藤原南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。順徳天皇の外祖父。熱田大宮司季範の弟) は後鳥羽天皇の育ての親であり、平教子との間に藤原重子をもうけたが、その藤原重子は後鳥羽天皇との間に、順徳天皇と二人の皇子を産んでいる。
藤原範子の妹の兼子は後鳥羽天皇の摂政九条兼実の妻となり、その娘の藤原任子は後鳥羽天皇の中宮となる。しかし、中宮任子は昇子内親王しか産めず、男児が生まれなかった。「在子」と密通した養父の「源通親」は在子の子の為仁親王(土御門天皇)を即位させようと企み、九条兼実を失脚させ、弟の天台座主の慈円も失脚させた。この事態で、中宮任子も止むを得ず内裏を去った。

■正治2年(1200年)源通親死去。通親が養女の在子と密通した事から後鳥羽天皇の寵愛は失われ、藤原(高倉)範季の娘重子への寵愛が深まったと云われる。
藤原 重子[寿永元年(1182年)]は初め、名を範子と言ったが、建久6年(1195年)頃に女房として内裏に上がる際、後鳥羽天皇の乳母である藤原範子と同名であった為、重子(二条局)と改名した。後鳥羽天皇の寵愛を受け、建久8年(1197年)9月、16歳で第2皇子守成(順徳天皇)を産む。翌建久9年(1198年)12月、従二位に叙せられる。鎌倉時代前期の後鳥羽天皇の寵妃で順徳天皇の母。藤原南家高倉流・藤原(高倉)範季の娘。母は平家一門の平教子。院号は修明門院。後鳥羽天皇の乳母・兼子(卿局)は義理の叔母。元久2年(1205年)5月、父の範季が薨去。正治2年(1200年)9月、卿局(藤原兼子)の邸で雅成親王を出産。後鳥羽天皇の寵愛著しく、後宮で栄華を誇ったが、承久3年(1221年)6月、後鳥羽上皇が順徳上皇と共に鎌倉幕府打倒の兵を挙げた承久の乱が起こる。40歳で好調な人生は暗転する。幕府に敗れた後鳥羽(隠岐配流)・順徳(佐渡配流)両上皇、雅成親王(但馬配流)は配流となり、重子の同母弟の範茂は首謀者として幕府方に処刑された。幼い孫の仲恭天皇は廃帝とされた。坊門信清の娘の「西の御方」は隠岐にも同行したが、重子は女院という身分から上皇に同行する事が許されなかった。1221年同7月、後鳥羽上皇の出家に伴い、重子も上皇と同じ道助法親王(後鳥羽と西の御方の子の長仁親王)の受戒を受けて落飾し、法名を法性尼と称した。
【※「道助法親王」;(建久7年10月16日(1196年11月7日) - 宝治3年1月15日(1249年2月28日)、1206年(建永元年)仁和寺の道法法親王により出家・受戒。1212年(建暦2年)に伝法灌頂を受ける。道法法親王の没後の1214年(建保2年)、仁和寺第8代門跡を継ぐ。父後鳥羽上皇の為、承久の乱の時には祈祷を行い、父の後鳥羽が隠岐に流される事になった時に出家されるに際し、その戒師を勤めた。道助は乱の処罰を免れたが、幕府の意向で後堀河天皇の実兄の道深法親王に仁和寺を譲り、36歳で高野山に入られた。】

■藤原重子はその後、順徳上皇の子供達を養育し、後鳥羽院の母七条院を労った。
延応元年(1239年)に後鳥羽、仁治3年(1242年)に順徳院が崩御。重子は、七条院や兼子(卿局)の荘園や財産を引き継ぎ、朝廷に要請して後鳥羽院の菩提を弔うよう取りはからった。後年、明恵上人に帰依する。

■「越中吉岡庄」は 後白河上皇により蓮華王院に寄進され、正応3年(1290年)には未だ蓮華王院領であった記載が「鎌倉遺文」に残されている。
【(正応3年8月※1290年)8月晦日、濫妨候了、又知行分蓮華王院領越中国吉岡庄役夫工米者、自蓮華王院…】(※鎌倉遺文23━32)(※東大寺文書四ノ十二 相良迎蓮書状)
※正応年間(1288年~1292年)→この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。

■元、越中吉岡庄の赤丸村に在った高岡駅南の「衆徳山総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」が伝わったとされる高野山近くの「河内金剛寺」には皇室関係の多くの法名が残されている。この寺は小矢部市の倶利伽羅谷の源平合戦で平清盛配下として戦って亡くなった源(三善)貞弘が創建した寺であり、元々、越中とは縁の深い寺院である。

■【※「河内国 金剛寺 過去帳」記載の法名 抄】
*鳥羽太上法王、 *美福門院得子(鳥羽中宮)、 *近衛院(上皇)、 *後白河院(上皇)、 *二條院(上皇)、
*八条尼御前;子内親王、鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院(皇后・藤原得子)、近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。以仁王は八条院の猶子、甥の二条天皇准母、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)等を養育、以仁王(後白河皇子)は八条院の猶子、天皇勅願所として栄えた富山県と石川県の県境に位置する「石動山石動寺」は後白河上皇の荘園であり、上皇はこの荘園を邸内に有った「長構堂」という寺の費用を賄う為に寄進しているが、「石動山石動寺」(※復興後は勧修寺派「天平寺」となる。)は興国二年に足利氏により復興される前には河内金剛寺と同じ宗派の「御室仁和寺派」であったと云う。後白河法皇と皇女八条院は、承安元年(1171年)に河内金剛寺の金堂・宝塔・御影堂・鐘楼・食堂・中門等を建立した。越中 高瀬庄は八条女院領となる。 後白河上皇は石動山を長講堂領として所有していたが、その後この地は寵妃の丹後局の子の宣陽門院に譲られ、源通親がその別当に任じられた。(源通親は仁安3年1168年加賀介を兼任。安元3年1177年加賀権介を兼任。正治元年1199年内大臣。--と加賀に関する役職を歴任している。)
*三條宮(高倉宮以仁親王)、 *仁和寺宮(守覚法親王)、*藤原氏北政所(藤原兼子)、 *前関白殿(九条兼実)、 *宣秋門院(任子)、 *右大将家征夷将軍源二位殿(源頼朝、卒53才)、 *尼能登殿(能登守平教経の妻→能登殿は平家物語の有名な義経八艘飛びの場面で義経を追った平家の武将) 、 *女廊御方(平相国女生母常葉女*常盤)、等】

■【※「長講堂」;後白河法皇が六条西洞院にあった法皇の御所の六条殿に寿永2年(1183年)頃に建立した持仏堂が元であったとされる。】





🔴🌸 【拾芥抄】 「延喜式内社赤丸浅井神社」の創建時代の文化⇒「延喜年間」から見られる『掛け算九九』の文化!!

2021-04-13 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●「延喜式内社赤丸浅井神社」は「元正天皇」の時代に古代から在った神社が再興されたと伝わり、古くから「川合郷」、「吉岡庄」、「五位庄」の中核施設として地域の信仰を集めた神社で、中世には霊験あらたかな皇室所縁の神社として「川人大明神」とも呼ばれたと言う。
「明神」とは天皇が発する「宣命」の書き出しに用いられる言葉で、「先祖神に改まって言上する」という意味だが、後には「霊験」の高い皇室所縁の神社が「大明神」と呼ばれて尊崇された様だ。「拾芥抄 シュウカイショウ」と言う古書が在り、この中には赤丸浅井神社の繁栄した「延喜年間」から後醍醐天皇の「南北朝時代」に至る様々な説明が載せられている。


国宝「東大寺庄園越中石粟庄絵図」には、「延喜式内社赤丸浅井神社」に「神田一段」が寄進された記載が在る。



■「拾芥抄」⇒鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている中世の百科辞典。暦応(リャクオウ、レキオウ)は、南北朝時代の元号で北朝方が使用した。後醍醐天皇の親政が成った建武年間の後で康永の前の年代。(1338年~1341年、北朝方は光明天皇、南朝方は後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。この時期に高岡市福岡町赤丸周辺の「越中吉岡庄」は「後醍醐天皇」の庄園で在った。)

江戸時代の写本の「拾芥抄」には、中世の上皇の庄園「後院領」の役職・制度や風俗・習慣も含めて様々な記載が在る。
その中に、「掛け算九九」の記載が在り、古くから高度の計算を行っていた様子も記載されている。





■「掛け算九九」については、「延喜九年」(909年)の記載が在る25点の木簡の一つに「掛け算九九」の練習を記載した木簡が出土した島根県大田市の「白坏遺跡シラツキイセキ」が在り、1988年に出土した。「九九」が記載されたものは平城京遺跡、藤原京遺跡等六ケ所から出土しているが、このケースは律令制下の地方から出土したものとして珍しいと云う。(※「古代史発掘」朝日新聞 1991年)




🔴【東大寺庄園越中杵名蛭庄と東大寺八幡宮領高瀬庄】高岡市立野に比定された越中の古代庄園⇒(国立歴史民俗博物館庄園データーベース)

2021-04-13 | 越中国吉岡庄・五位庄


◆砺波市では、「東大寺庄園杵名蛭庄」は富山県南砺市の高瀬神社周辺に在る古代庄園跡「高瀬庄」で在るとされていたが、近年、この見方は否定されている。

◆東京大学資料編纂所の報告では、越中の東大寺庄園の中では比較的新しく、【足利尊氏】が寄進した庄園で在るとしている。





◆「国立歴史民俗博物館」では、①この庄園の中に記される「速川」と同じ名前の「延喜式内社速川神社」が、高岡市内の「早川地内」に在り、この「速川」は中世には、「ソフ川」と成り、その後「祖父川」となっていた事が古絵図から判明した。②この絵図の「杵名蛭川」は現在の「千保川」に当たると見られる。




◆この絵図の中の「杵名蛭庄」の隣接地に「ウバラの里」が記載される事から、位置的には「福田薮波神社」と接する「高岡市立野辺り」が想定されるとして「日本庄園データーベース」に掲載される事が決定し
た。







◆「東大寺庄園高瀬庄」は、「足利尊氏によって寄進された東大寺八幡宮領」で在った事が古文書から見られ、「東大寺」の中に「聖武天皇」が九州の「宇佐八幡宮」を勧請された事から、八幡宮の庄園とされたものと見られる。
高岡市立野地区に比定される「杵名蛭庄図」には、「三ヶ所」に「神社所在地」が記されており、実際にはその神社はいずれも「八幡社」で在る。
越中の他の「東大寺庄園図」の中にも神社を示す「社地」の表現が在り、その神社はいずれも「八幡社」で在り、東大寺庄園の中に東大寺の守護神の「八幡社」を祭っていたと見られる。
高岡市佐野地区(十二町島~佐野地区)に比定される「東大寺庄園くぼ田庄図」に記される神社も、実際には「社の扉には仏教の法輪」が記されており、元々は「八幡社」で在った事を窺わせている。



🔘越中の畠山氏家臣『神保氏』!! ⇒越中の二人の神保氏!!

2021-04-13 | 富山県高岡市
●富山城を拠点とした『惟宗姓 神保氏』の系統は、高岡守山城を拠点とした『平姓良文流 神保氏』と共に徳川幕府に仕官して旗本として処遇されている。この系統が屋敷にした江戸の旧地は『神田神保町』と呼ばれた様だ。(※「平姓 神保氏」の守山城城主神保氏張の居宅は江戸裏二番町に在った。)


■「惟宗姓神保氏系図」(※静岡県立図書館蔵)

























■静岡県立図書館の「徳川諸家系図」と「大日本人名辞書 明治四十二年版」に拠ると、富山城神保氏の「四代目 相茂 スケモチ」は「本姓は惟宗長三郎」と言い、この一族は「鎌倉に本拠地を持ち、室町幕府管領畠山氏に仕えたが、父の式部少輔春茂の時に豊臣秀吉に仕えて和州(大和国)高市郡に6000石を有したが、慶長五年の関ヶ原の合戦に十九才で徳川軍に参戦して軍効在り、更に1000石を加増されて7000石を有した。しかし、大阪冬の陣で天王寺の地で34才で戦死した。」と云う。この系統は、越中に展開した神保長職、長住等の系統で在り、この一族は守山城の神保一族(当初は中村を名乗る)と共に、主家畠山家から「神保」の姓を授けられて、足利義満の時に越中守護畠山満家に従ったと云う。「相国寺供養記」にはこの二つの神保氏の氏名が載せられている。

🔴🔹 大阪府羽曳野市の 【畠山文書】に見られる【越中絵図】⇒室町幕府【管領畠山持国】の統治下の【赤丸浅井城】と【高岡大仏】の創建!!

2021-04-13 | 富山県高岡市福岡町




■この絵図には、「赤丸浅井城」の記載と「管領 畠山持国の統治地域」の記載が在る。
【源氏系図】には、【「室町幕府第7代将軍足利義勝」は、管領の「畠山持国」、「細川持之」によって第7代将軍に推された。「足利義勝」は8歳にして将軍と成り、十歳で夭折した】と記載される。








⇒【高岡大仏】は、【源義勝】が父の菩提を弔う為に、現在の「高岡市守山」に初め、創建したものだと云う。当時の「守山」は「管領畠山持国」の統治下にあり、「五位の東庄」に含まれて居たと見られる。小矢部川と庄川の間の「福野町野尻」は京都の「東寺百合文書」に記載される所では、「五位の東庄」と呼ばれ、高岡市中田~戸出地区に拡がって居た「徳大寺家庄園」の「般若野庄」は「五位の東庄を含む」と記載されている。











🔴🔘 後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」に勘請された「熊野社」と高岡市の「関野神社」の争い!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●「越中宮極楽寺由緒」に見られる加賀藩時代の「赤丸浅井神社」と「先宮熊野社」!!





■「越中宮極楽寺由緒」には、熊野社を祀る「関野神社」と高岡市熊野町に在る「熊野社」が「先宮 マズノミヤ」の称号を巡って争った事が記載されている。元々、「先宮 熊野社」を名乗っていた両部神道の「熊野社」に対して、吉田神道の「関野神社」がいきなり「先宮」の額を社頭に掲げた為に、「熊野社」の氏子は「関野神社」を襲い額を叩き壊したと言う。「熊野社」は後醍醐天皇の皇子「宗良親王」が「吉岡庄」に創建された「七社の一社」と言われて「先宮熊野社」を唱えていたが、前田家の氏神として吉田神道が祭祀を行った「関野神社」はいきなり「先宮」の称号を奪った為に争いに成ったと言う。





■「越中宮極楽寺」は元々、「後醍醐天皇」の皇子「宗良親王」が、後醍醐天皇庄園の「越中吉岡庄 極楽谷」に創建されたと「赤丸浅井神社」に伝わる。又、「赤丸浅井神社」の背後の「浅井城」から清水観音堂に至る途中に「熊野社」の跡地が在り、高岡法務局にはその絵図が遺されており、神社敷地を示す「社地」と表示されている。現在、施設は無く桧が植林されており、この「熊野社」も「赤丸浅井神社」に合祀されている。「越中宮極楽寺」の本堂にも「宗良親王」が信仰された「熊野社」の逗子が祀られている。この「極楽寺」の由緒に、「元々の先宮」の「熊野社」はこの宗良親王の創建された熊野町の「熊野社」だが、「関野神社」が「先宮熊野社」の称号を奪った為に争いが起こった事が記載されている。








■加賀藩時代に「延喜式内社赤丸浅井神社」の末社の「石堤浅井神社」が吉田神道の影響で「石堤こそ本社で在り、赤丸浅井神社に奉仕している「両部神道西宝院」は「石堤浅井神社の宮掃除をやっているだけの宮掃除人」だと唱えて、「石堤浅井神社は勝手に吉田神道の祭壇を設け、赤丸浅井神社に勅許されていた各戸から米一升を集める権利を横取りして勝手に米を集めた」為に争いに成り、赤丸側は天皇家と密接な門跡寺院「聖護院派」の寺院を挙げて加賀藩に申し立てを行った。その結果、加賀藩は赤丸浅井神社の申し入れを受けて石堤浅井神社に「祭壇の撤去と原状回復」を命じて、赤丸浅井神社の全面勝訴の裁定を下した。
(※この裁判記録は全て「金沢市立図書館 皆月家文書」に保管されている。)
この時に「赤丸浅井神社」が証拠として提出した資料の中に「先宮旧地」の資料が記載されている。
この事から、「先宮熊野社」は宗良親王が勘請された「七社」の内の一社で在り、「川人山鞍馬寺」の塔頭寺院48社の内の「総持寺」の「持宮」で在ったとされる事を証明するものだ。




「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」の持宮争いの時の「赤丸浅井神社側の証拠資料」












【宗良親王の歌】
「かぞふれば 七歳も経ぬ頼みこし 七の社のかけを離れて」


🔨🔪富山県高岡市の「鋳物」文化のルーツ!! ⇒「二宮信濃入道」に対する「斯波義将」からの書状。

2021-04-13 | 富山県高岡市
■高岡市の「鋳物師」のルーツ⇒「越中国」の「二宮信濃入道」(※尾張斯波家家臣)に当てた「越中国の砺波郡、射水郡の鋳物師に対する斯波義将からの文書」


1376年[永和元年(北朝)/天授元年(南朝)] ~1385年[至徳2年(北朝)/元中2年(南朝) ]の書状

■越中の鋳物師の歴史は古く、先祖は河内国から呼び寄せられたと云う。前田利長が高岡を開いた時に砺波郡等から鋳物師を高岡に呼んだのが高岡市の鋳物文化のルーツと云われる。この文書ば1300年頃の越中国の鋳物師に対する処置を示すもので、鋳物師は全国で「居所や移動の自由が認められて、領主からの免状で数々の特権が認められていた」と云う。
この書状は「空海の寺」として名高い京都の東寺(※教王護国寺)の古文書である。

■高岡市の鋳物で作られた「仏具」や「彫像」、「生活用具」等は有名で、全国の寺院の鐘の製造では特に有名で、愛知県一宮市の「妙興寺」等の著名な寺院に納められている。
※妙興寺は、愛知県一宮市にある臨済宗妙心寺派の大寺院で山号は、長嶋山、寺号は妙興報恩禅寺と称する。 新陰流開祖上泉伊勢守信綱が修行し、柳生真蔭流無刀取り発祥の地として名高い。この寺院の鐘も高岡市のメーカーの鋳造で、重要文化財の鐘の代わりに使用されている。








🌸秀吉から「前田利家」に与えられた「聚楽第屋敷」!! ⇒「歴史の真実」廃材は高岡城の建設に利用されたか?

2021-04-13 | 富山県高岡市
■『聚楽第図屏風』には「加賀少将」と表示された「こけら葺きの二棟」が記載されている。
この屋敷は石田治部の提案で、秀吉が国を与えようとしたのを遮って替わりに前田利家に与えられたものだと云う。(※「北陸七国史」)






■金沢市文化財になっている「北方心泉」の「前田利家像と賛」














■「聚楽第屏風」には『加賀少将』と記載された前田利家の屋敷が表示されている。この屋敷が前田利家に与えられた経緯が『北陸七国史(※「北国全太平記」)』に記載されている。(※「早稲田大学デジタルアーカイブス」)
豊臣秀吉は秀頼の誕生を祝い、前田利家の忠勤を愛でて利家に「美濃、尾張、三州、伊賀、伊勢の5か国」を与えようとしたが、石田治部は利家への警戒を進言して、「利家には聚楽第を与える」様に提案した。

■豊臣秀次の反乱に怒った豊臣秀吉は聚楽第を解体した。高岡市では、その廃材は加賀藩が拝領して、高岡城や菩提寺の建設に利用されたと伝わっている。しかし、加賀藩の記録「三壷聞書」には、「この廃材は当初建設した「富山城」に使用されたが、富山城が火災で消滅した為に、次いで高岡の狭野セキノに新な城を築いた」とされており、この廃材は富山城と共に燃え尽きたとされている。
(※「三壷聞書」参照;金沢城郭研究会発行と石川県立図書館協会発行のものが在り、後者は加賀藩記録への追記分も含む。)


「森田柿園」所蔵14巻本を金沢城郭研究会が発行したもの。


前田家に伝わったこの書は、前田利家が織田家家臣の時から、加賀藩の成立、藩主の生い立ち、業績等の詳細、家臣団の名簿等を記載したもので、二十二巻。この書は前田家家臣の「山田四朗衛門」の作とか、「原田又右衛門」の作とか云われて伝わっていると云う。(※日置謙編集、石川県立図書館協会)

▼この絵図とこれ等の指摘は、高岡市の白山神社宮司で神道学博士だった故高尾哲史氏の博士論文にも記載されている。(※「国学院大学神道学博士論文」)

🔴📃「越中砺波郡頭川村村御印」と加賀藩の政治!! ⇒幕末迄続いた殺戮と収奪の過酷な仕置き。

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■最近入手した『頭川村村御印』(※書体から手控えと見られる。)








■「頭川村村御印」(※解読→高岡市立博物館仁ケ竹学芸員)




■加賀藩は各村に「村御印」と云う納税通知書を発行し、十村役、肝煎、組合頭に納税必達を指示した。全ての責任はこの三役に課せられ、果たせない場合は、役替え、所払い、追放等の厳しい仕置きが課せられ、届け出と違う作付けは「隠し田」として摘発された。赤丸村住民を動かして村が興された高岡市の「和田新村」の和田佐吉は「磔」の極刑となった。当時は連座制だった為、一族も死罪、財産没収、所払い等の刑が課せられた。
赤丸村の肝煎「五衛門」はこの再発行される事の無い「村御印」を紛失して「手鎖、入牢」の上、厳しい取り調べを受けて遂には亡くなっている。(※「杉野家文書」福岡歴史民俗資料館)








■前田氏は天正十三年以降、越中の検地を行った。慶長二年以降にも検地が続いたが、その時の年貢は100俵につき何俵と言う考え方で「物成◯◯俵」とされ、越中では地域によって25俵程度の地域と60俵程度の高税率納地域が在った。慶長三年の検地の時には税率が「免二十八」等と税率で表示されている。但し、新しく荒れ地を開発した時は軽減されたらしい。しかし、実際には免二つ(20%)位が限度で、苦しい農民は「退転」とされて入れ換えされた。これは田畑であったが、山野については別で、五位庄十六村では慶長十七年、利常は「三貫三百文」の年貢を倍に上げ、利長は同年に小矢部川から川西地区の土屋、向田、西明寺村について更に吊り上げて「十貫文」に決めている。又、当初は集落毎に「せり」を行い、「せり免」と言われる税制も行われた。当初、徴収する税は豪農の倉に納められていたが、後には小矢部、三日市等の地域に「御蔵」が建てられ、収納された。家臣の知行米等の「預り米」もこれ等の「御蔵」に収納された。税の取立てが厳重に行われた為に百姓は地域の取りまとめをした十村役や、知行地としていた「給人」から米や銀を借りて二割の利子をつけて返済した。不作の為に年貢が納められない者や遅れた者は「女子供牛馬家屋下女によらず御取下されたく…」との借用書により借金せざるを得なかった。年貢が不足すると、翌年の種籾も二割の利子で借りる事になり、百姓は次々に借金を背負う事になる。当初、加賀藩では給人(家臣の知行地域)が年貢を徴収し、役人は藩の直営地の税だけの徴収をしていたらしいが、次第に給人が百姓を個人的に使役したり、勝手に税を取立てて百姓が逃げ出すケースが出た為に、税の徴収は郡役人が各地の十村役、肝煎、組合頭に命じて徴収を行い、給人が直接百姓から徴収する事を禁止した。十村役には「村御印」と呼ばれた税の納付指示書が発行され、十村役の責任を追及した。徴収した米は「蔵入地」「知行地」共に一貫して徴収され、「蔵入地」については「代官」が支配した。利長は代官に対して、人馬の不当使役や百姓の「糠、藁、薪等」に至る迄、物資の収奪を禁止し、百姓の中に介入しない様に定めたが、実際には逆にこれ等の不法が頻繁に行われていたらしい。しかし、それでも続いた不法に対して、慶長十二年には改めて給人、代官に通達して「走百姓の調査」(※逃げた百姓の調査)や「給人、代官の不法禁止」を命じて、水争い等に介入して利得を得る事を禁止して、百姓間の事は十村役や肝煎に任せる様に指示している。この事で加賀藩は「百姓の処罰は藩の目安場で裁定する事」、「年貢の未納の代償に恣意的に百姓の不利益を生じさせない事」を改めて再確認した。ここでは、「公領」と「給人地」の区分を明確にして、「公領⇒代官」、「給人地⇒郡奉行・十村」の系統を分けたと言える。
(※赤丸村は長九郎佐衛門に知行されている。⇒十村役「大滝村 杉野家」、肝煎「赤丸村 奥田家」、組合頭「赤丸村 皆月家」)
(代官は当初、公領、給人地の全てについて責任を持ったが、給人地については次第に郡奉行が采配したらしい。)
しかし、十村、肝煎の責任は大きく、藩は、この制度下で逃げ出す百姓(走百姓)を調査させ、その百姓は「死罪」、その田畑の耕作はその十村組の責任とされた。
(この場合に、死罪になった百姓の借金、未納の年貢の納入も十村の責任とされた。)
反面、郡奉行と十村役からの圧力が加わる百姓には、「十村、肝煎が組の百姓を直接雇い入れない事。」、「頼母子の働き掛けの禁止」(※相互に無償で働かせる事)、「自分銀米の高利貸付の禁止」、「百姓から十村への礼物の禁止」を命じて百姓の保護を命じている。
元和6~7年頃から平均免、銀納が決まってきたが、承応2年の「改作雑集録」では「平均免」について触れ、「能登、越中は三つ九歩(39%)、加州三つ五歩(35%)、小松三つ六歩(36%)」と平均の税率が定められたとしている。(※四公六民の制度)
一方、この平均免に対して、越中砺波郡の内で小矢部川西部については、かつて、【能登末森城の戦い】で佐々成政に味方して、前田利家に対抗した地域として懲罰的な60~75%云う高率の税率をかけた。又、かつて、一向一揆で反抗した子孫にも代々に亘り厳しく対処したと云う。特に赤丸村の「赤丸浅井城」の麓の【舞谷村】や【鳥倉村】等には75%もの超高率な税率をかけている。
加賀藩は年貢の増収を目指して非生産的な百姓を追放した。怠惰な百姓と認定されると、村役は私財没収の上、単なる水飲み百姓に降格され、一般の百姓は「耳、鼻をかき、身体に印を付けて元々の地の耕作者の下人とし、妻子も下人にする」とされ、「打ち殺しても苦しからず」として、「御折檻百姓」と呼ばれた。この百姓は「持高、家、諸道具等」の全財産を没収され、「追放」されてその財産は後継の百姓に与えられたと云う。又、納税が果たせない時は婦女子を売らせ、男は下人として奉公させた。当初、女は加賀藩士が内職で行う女郎屋で働かされ、役に立たなくなると豪農等に売り飛ばされて、能登では売られた女は女郎として村に与えられて、終生、村の共有奴隷として働かせた記録が有ると云う。(※「加賀藩の光と影」浅香年木著)
明暦元年には利波郡の麻生谷村(高岡市)、淵ケ谷村(高岡市福岡町)等の六カ村で700石を超える草高について大規模な百姓の入れ換えが行われている。この時、蓑谷村(城端町)、麻生谷村(高岡市麻生谷)、十年明村(砺波市油田)の追放された百姓の跡地は戸出(高岡市)、宮丸(砺波市)、田中村(福光町)の十村役に任されてその管内の百姓に宛がわれた。
寛文六年七月に園田佐七等六人の改作奉行が御扶持人十村・十村に出した四ケ条の指示書には、「利常の定めた改作法の厳守、給人の威光を借りて働かない者等を追放、入れ換えし、時には殺害しても構わないから、真面目に取り組む百姓に替える様に」と記載され、「殺害しても」との強硬な指示が出されている。
加賀藩はかつて敵対した勢力や一向一揆に関わった者の子孫を代々に亘り十村役に監視させ、何か有れば、死罪、追放等の厳しい仕置きをした。又、禁断のキリスト信奉者も代々監視され、全ての生活に宗門改め役の目が光っていた。又、これ等の死亡の時には、遺体を塩漬けにして葬儀を許さない等の嫌がらせで、キリシタンの末裔に対しても報復した。
「高岡史料」には「罪を得る者枚挙に暇なし」として加賀藩の残虐、非道の政治を記載している。しかし、これ等の政治の「陰」を知らない歴史家や高岡市は無批判に前田家の治世を讚美している。前田家の治世を継承する高岡市にとっては、これが「絶賛」する加賀藩前田家の農業政策だったと云う事も知るべきだろう ❗
(※「加賀藩改作法の研究」坂井誠一 著 参照)

■「高岡市」の古参の役人は、現在も尚、「高岡市には1600年以前の歴史は無い!」と市民や職員を恫喝して、「加賀藩政」の正当性を主張して、現在の高岡市政を「加賀藩史観」で運営して、【加賀藩ゆかりの施設には「歴史創造都市」と称して莫大な投資】を行い、市民への福祉予算・施設を削減して、藩政時代の子孫や施設を殊更に重視して財政を破綻に追い込んでいる。



■殺戮と圧政を続けた尾張国から来た侵略者、第三代加賀藩主「前田利常」が「前田利長」の為に、贅を尽くして建てた越中農民達の墓標「瑞龍寺」。

■「高岡市」が信奉し英雄視する封建領主「加賀藩三代前田利常」の統治思想と実体。
🔽【殺戮と搾取を続けた加賀藩政】
◆加賀藩は主に越中からその財を搾り取った。(※「加賀藩史稿」)
その越中農民達の血と汗、涙の結晶の莫大な財は藩主一族の華美な生活に惜しみなく投ぜられ、その為に、幾多の農民は家族を売り、又は近くの河川等に身を投げたと伝えられ、遺骸の処理負担を恐れた集落では当番を河川に立てて、上流から流れて来る遺骸を長い竹竿で下流へそっと押し流していたと古老は語り伝えている。

▼【百姓というものは鷹の様なものである。鷹は食べ物を与えすぎて肉付きがよくなると鳥をとらえなくなる。百姓も同様で、肥えすぎると農業を疎むようにななる。しかし、鷹の肉付きが弱く成りすぎると鳥を取り逃がす。と同様に百姓も疲れすぎると田畑の耕作ができなくなる。】
⇒「百姓とゴマの油はしぼればしぼる程出る。」、「百姓は死なぬ様に、生きぬ様に」との農業政策を「前田利常」が採っていたのは有名でこの言葉は前田利常の統治思想としてよく引用される。
(※「加賀藩・富山藩の社会経済史研究」水島茂著→富山県史・福岡町史の編集委員)


「加賀藩史話 微妙公夜話」(若林喜三郎著)


📚📃 「浄土真宗」と「豊臣秀吉」の越中攻略の陰謀 !!

2021-04-13 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

「真宗大谷派井波別院 瑞泉寺誌」「年表でみる井波瑞泉寺」 参照


■織田信長が一向宗と対立し、一向宗を殺戮したと云われる。織田信長は先祖が福井県織田庄の剣神社の神官の末裔で、室町幕府の斯波氏の守護代として尾張で勢力を伸ばしたと云われる。同じく足利将軍家に仕えた越前の朝倉義景は織田氏の発祥の地の織田庄を含む越前を領して、越前と加賀の境界に在り興福寺大乗院の最大の荘園で有った河口荘(吉崎周辺)の統治を興福寺から依頼されていた。興福寺は「法相宗」大本山で、南都七大寺の一つであり、藤原氏の祖の藤原鎌足とその子の藤原不比等所縁の藤原氏の氏寺である。吉崎は興福寺の荘園で有ったが年貢が思う様に上がらず、興福寺は朝倉氏に統治を求めていたが、蓮如と興福寺の大乗院前門跡経覚が縁者で有り、師弟の関係で有った事から、蓮如は経覚の配慮から興福寺の荘園内で寺院を建立して布教する事を許されていた。
※経覚の母方が本願寺大谷家の出であり、経覚と蓮如の父とは従兄弟と云われている。
本来なら浄土信仰を力で抑える側の旧勢力の法相宗寺院の荘園内で新興の浄土真宗の布教所を造る事は相当困難な筈だが、八代目本願寺蓮如は、海陸交通の要地でもある加賀(現・石川県南部)と越前(現・福井県東部)との国境の海岸沿いの吉崎を選び、文明三年(一四七一年)七月にはここを北陸での浄土真宗門徒の布教の拠点と定めた。吉崎は越前本願寺の中心的位置にあった本覚寺の積極的な招致などによって選ばれたものと云われているが、これが後の「吉崎御坊」である。 背景には、当時の越前国の守護代であった朝倉氏と菊池一門の甲斐氏の争いの影響で両氏による荘園の横領が続いていて、蓮如には河口庄での荘園からの収入を確保して欲しいという興福寺側としての要望があったらしい。この大乗院を管理していた中に尋尊大僧正がいたがこの者と蓮如は昵懇の仲であり、後には金銭の貸借を行うなど、親戚付き合いをしていたともされる。この尋尊大僧正が記載していた「大乗院寺社雑事記」には「文明十五年十一月十五日」「一 河州右衞門佐之息修羅御曹司入滅之由雑説在之、且如何、然者彼三百貫文事不審不審事也、分明ニ入滅云々」と記載され、足利氏一門で室町幕府の三管領の一つで有る畠山一族で河内・紀伊・山城・越中守護の畠山義就(はたけやまよしなり)の子の修羅法師を興福寺で預かっていたが十六歳で亡くなった事が記載されており、元々、興福寺と畠山氏が密接であり、蓮如は興福寺と畠山氏を背景として北陸の布教を進めたものと見られる。蓮如はこの様な背景が有った為、当初は真宗門徒に自重を求め、一揆に走らないように教書も出している。しかし、真宗勢力は当時、覇を競った戦国武将達に利用され、次第に戦線の第一線に駆り立てられて行った。

■本願寺11世の顕如は1559年正親町天皇の即位に貢献した事から門跡寺院(皇族を受け入れ守護不入権を持つ)の当主となったが、三河の一揆以降の1565年に武田信玄と同盟し、朝倉義景の娘を嫡男教如の室として迎えて織田・徳川陣に対抗した。織田信長が1568年に上洛する際、矢銭5000貫(8000石)を本願寺に要求した事から顕如は信長に対抗した。武田信玄は、当初上杉方で有った越中の椎名氏を武田・本願寺勢力に寝返らせ、上杉・織田の連携に対抗した。1560年武田信玄は井波瑞泉寺に対して越中守護代神保長職と共に長尾景虎が留守にしていた越後を攻めるように要請した。この時、瑞泉寺は出陣しなかった様だが、武田信玄の調略は続いた。

■1570年本願寺顕如は門徒に挙兵を促し、9月12日信長陣営を攻撃する。
1572年一向宗門徒が加州から越中五位庄に着陣した。
※五位庄は、応永十二年(一四〇五年)足利義満が室の追善料として京都相国寺に寄贈。応永十九年斯波家領。応永二十三年半分を足利義持が京都等持院に寄進し畠山満家に預け置かれた。その後一向一揆勢が支配。天正四年に上杉は一向宗と和睦し、国人領主の寺嶋牛之介に「五位庄」を安堵した。寺嶋牛之助(柴野城)は佐々成政に従い甥の朝日城(浅井城?)の中山直治と能登末森城で戦っている。江戸期に赤丸は加賀藩の長九郎佐衞門(三万三千石)、寛政十二年には前田典膳(三千五百石)の知行となる。「小矢部市史 上」

■1573年将軍足利義昭は信長に攻められて滅亡。同年、信長が加賀二郡の一向一揆と和解し、上杉謙信に越中平定を要請する。1580年信長と石山本願寺の仲介に天皇の勅書が出され、本願寺顕如は信長と講和し誓詞を交わした。同年、石山本願寺が焼失。教如は下間頼龍を通じて城端別院善徳寺配下からの青銅200疋の懇志に謝礼を述べている。
※「越中誌徴」に拠ると赤丸浅井城に下間頼龍が居城したと記載され、富山県立公文書館には下間頼龍からの赤丸村門徒への志納金受取状が残されている。



※下間頼龍(一五五二~一六〇九年): 石山合戦で信長と戦う。本願寺教如に従い慶長七年(一六〇二年)本願寺分裂に伴い東本願寺の坊官となる。一六〇三年徳川家康が江戸幕府を開くと子孫は池田氏と改名し幕臣となる。

■天正9年(1581年)佐々成政は信長の命により井波瑞泉寺を焼き討ちし、瑞泉寺は五箇山を経て北山に逃れている。
1582年3月柴田勝家、佐々成政、前田利家が一揆軍の籠る富山城を攻める。同年4月上杉景勝は城端別院善徳寺に対して柴田勝家に対抗する様に求めている。
同年(天正10年)6月2日明智光秀は本能寺の変を起こし、織田信長は死亡した。


■天正11年(1583年)4月3日豊臣秀吉は井波瑞泉寺と安養寺(勝興寺)に一向一揆を起こす様に要請。秀吉はこの文書により、柴田勝家、佐々成政を牽制し、天正9年に成政が瑞泉寺を焼き討ちした事に対抗するよう促し、自分の意図を汲んで一向一揆を起せば以前通りの本領を安堵する旨約束している。同年4月秀吉は同じ鉄砲奉行として活躍した前田と佐々の離反を画策し、前田利家には加賀2郡を与えて懐柔している。この年に柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ、福井の北庄城で自刃した。
天正12年(1584年)9月前田利家は瑞泉寺7世顕秀に佐々成政が豊臣秀吉に対して謀反を企てている旨伝え、帰国して味方するように要請している。前田利家は真宗門徒の間に「佐々成政の秀吉に対する謀反」の情報を流布するように狙ったと考えられる。天正13年(1585年)豊臣秀吉は織田方の佐々成政を裏切り、北山に逃れていた瑞泉寺に対して「禁制」を交付して保護を図り、瑞泉寺が佐々成政と敵対する様に画策をしている。
1585年8月豊臣秀吉は越中に侵攻し、越中の利波、射水、婦負の3郡を前田利家に与え、降伏した佐々成政には越中一郡(新川郡)を与えている。豊臣秀吉と前田利家の諜報作戦が成功した結果である。

■以上の経過を見ると、浄土真宗顕如は朝倉義景と縁組して同盟を結んだ為、織田信長に攻められて三重長島や石山本願寺の戦いでは壊滅的な打撃を受け、上杉謙信と武田信玄の思惑と戦略で利用され、豊臣秀吉の戦略に利用されて、遂には前田利家に懐柔されている。佐々成政と柴田勝家は主家の織田信長に忠実に従った為に豊臣秀吉と前田利家に裏切られる。前田家は従った勝興寺には姫を嫁がせ姻戚となって浄土真宗をコントロールした。井波瑞泉寺はこれに反発し、西本願寺から東本願寺に宗派を変更している。勝興寺は余りにも前田家の権力を誇示した為、真宗派内部での波乱が有った様だ。
暴力的な封建領主により、何時の世も無知な農民は利用され、多数が虐殺された。ただ、単に戦国武将を英雄視する現代の人達にはこの視点が欠けている。いつも歴史は暴力と流血で綴られてきた事を忘れてはならない。

🔴🔹【 国指定重要文化財木造千手観音座像 】河内長野市『金剛寺』から【越中吉岡庄】に伝わった「総持寺千手観音像」⇒南朝の牙城の『河内国』と『越中吉岡庄』(赤丸村)!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●大阪府河内長野市『金剛寺』から伝えられたとされる高岡市の「総持寺千手観音像」の胎内には『奉納 仏舎利』の記載が二ヵ所に在る!!



















■高岡市関町『総持寺』の『国指定重要文化財木造千手観音座像』 の胎内の顔から首にかけて、二ヵ所に『奉納 仏舎利』の記載が見られる。一ヶ所は観音像の額にある「白毫」の内側、もう一ヶ所は観音像の口の部分の内側に記載されている。東寺の仏像はその『白毫の下』に空海が唐から持ち帰った『仏舎利』が金の小箱に納められて埋め込まれていると云い、重要な仏像の口の奥には仏舎利塔に納められた『仏舎利』や『胎内仏』、『重要なお経等』が納められていると云う。これは『白毫』が仏像の「第三の眼」とされ、口からは直接仏法が説かれる最も重要な部分とされるからだ。
河内金剛寺には「後醍醐天皇」と「東寺長者文観」が其々、二粒、三粒(合計五粒)の東寺保管の仏舎利を施入した事を示す「施入状」が残されており、金剛寺研究者に問い合わせると、金剛寺の仏像にはこの仏像に該当する仏像が無いと云う。

■河内金剛寺は、『空海』が発願し、『後白河上皇』が創建され、「三善(源)貞弘」が用地を寄進した寺院で、興福寺と仁和寺から住職が送り込まれて、天皇家や公卿が信仰した。特に高野山は女人禁制と云う事から、その山裾の金剛寺は「女人高野」と呼ばれて、天皇家の中宮や女院等が信仰された。南北朝の頃は、南朝の天皇が御所として使用し、一時期は南朝が北朝の天皇等を拉致してこの金剛寺に住まわせた為に、その時に両朝の天皇が御所とされた稀有な寺院である。総持寺の千手観音像の胎内には「禅惠」と言う正学頭の署名が在った事から、この千手観音像は昭和12年に「南朝顕彰」の時代背景も在って、『国宝概説』には、胎内の「禅惠の胎内名」をもって『元後醍醐天皇の庄園吉岡庄赤丸村に在った総持寺に金剛寺から移された』とされて『国宝』に指定された。

■通常、仏像に東寺伝来の仏舎利が五粒も施入される事は無いとされ、その点でこの総持寺仏像は、その造像の背景や胎内名に「後鳥羽上皇」の法名等がある事から、現在は国指定重要文化財となっているが、間違い無く、日本の歴史を伝える重要な観音像として『国宝』に指定されるべき重要な観音像だと思われる。「後白河上皇」や「後鳥羽上皇」、「後醍醐天皇」が庄園とされていた『越中吉岡庄』の歴史と南北朝時代の政情を示す我が国の最も重要な観音像の一つだと思われる。

🔴🔹 赤丸村と「武内宿祢」の末裔と伝わる越中【利波臣志留志】⇒「越中石黒氏の祖」とされる !!

2021-04-13 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■石黒氏の祖とされる「利波臣」は「武内宿弥」を祖先に持つとする説と「日子刺方別命」を祖先に持つとする説が有り、又、石黒氏が藤原氏の藤原利仁将軍の末裔とする説等がある。




■越中の西部に古くから栄え、東大寺の大仏造営の時に米3000石(セキ)[✳「碩セキ」については末部の備考参照][※ 東大寺要録では5000石(碩)]を寄進し、後に荘園100町(井山庄)を聖武天皇の為に寄進したと伝わる越中の「利波臣志留志」とはどういう一族だったのだろうか? 富山県では後に「西砺波郡」「東砺波郡」として地名にも残り、同族の「射水臣」も「射水郡」「射水市」として地名にも残っているが、富山県内に30%近くも有ったという東大寺の荘園の開発にも携わり、聖武天皇の東大寺大仏の造営の際にも献身的に寄付をして支援し続けたのは何故だろうか? 南砺市の福野には聖武天皇の勅願所の弥勒山安居寺が有り、「利波臣志留志」の末裔の「石黒氏」は福光を本拠として福岡町木船城、赤丸村浅井城等の居城を構えていたと伝わる。又、高岡市の牧野地区や高岡市中心部の鴨嶋地内の地頭でも有り、一族の鴨嶋氏が鴨島地内を治めていたと伝わる。高岡市の高田島地内も石黒氏家臣の高田一族が治めたという。
(✳「越中吉岡庄」後の「五位庄」に鎮座の「五位庄神社」も聖武天皇の勅願所と伝わる。)
「越中吉岡庄」として長く藤原摂関家の藤原氏長者藤原頼長や後白河上皇、後鳥羽上皇~後醍醐天皇と伝領された赤丸浅井城、赤丸浅井神社を中心として栄えた後の越中吉岡庄(室町期以後五位庄になったと伝わる)53ケ村は石黒氏が長く統治し、北条氏が統治した時には赤丸を去り、代わって浅井城には秩父平氏の中山氏が入城したと伝わる。
赤丸浅井神社の祭神は古来からの大国主系の水の神「八河江比賈」(やがわえひめ)と、神々の司令塔の「高皇産霊神」(たかみうぶすなのかみ)を祀っている。又、三社権現の舞谷村の八幡社には「応神天皇」(誉田別尊 ほむたわけのみこと)を祀り、石堤の浅井神社には「罔象波乃売命」(みづはのめのみこと)を祀っている。
しかし、「八河江比賈」は大国主系の神と云われるが系図で見られるように赤丸浅井神社を創建したとも伝わる行基と同族の和邇氏にも応神天皇の妃の「宮主矢河枝比賈」がおり、武内宿祢の一族の神として祀られた可能性もある。この神は近江の琵琶湖周辺にも祀られている神でもあり、近江の古代史族の浅井氏の所縁の神として祀られ「浅井神社」となったものだろうか? 「越中志徴」では「浅井とは浅井神社有れば也」と記載しており、元々、応神天皇や武内宿祢の出自とも関わる琵琶湖周辺の神の「八河江比賈」を祀ったものだろうか? 応神天皇と武内宿祢は連れだって琵琶湖から敦賀の気比神宮迄行幸したと伝わり、敦賀の気比神宮は応神天皇を祭神としている。
又、一説に「高皇産霊神」とは「武内宿祢」と同じ意味だとする説がある。沖縄語で読むとタケウチスクネになると云う。何れにしろ赤丸浅井神社の主祭神の二柱は何れも武内宿祢と関係の有る神を祀っていたものと考えられる。
更に、舞谷八幡社の祭神は「応神天皇」(誉田別尊 ほむたわけのみこと)となっているが、通常は八幡社には八幡三神として応神天皇(誉田別尊)、仲哀天皇又はその妃の神功皇后(息長帯比売命※応神天皇の母)、武内宿祢(御食津大神 みけつのおおかみ)の三神を祀るといわれるから、実際にはこの神社も「応神天皇」と「武内宿祢」を祀っていると考えられる。すると、赤丸浅井神社の祭神は何れも武内宿祢--利波臣--石黒氏と連なる神々で有り、石黒氏の居城の赤丸浅井城を中心として四神相応の地として赤丸浅井神社が創建されたものと考えられる。越中石黒氏にとっては、福光町、福岡町木舟と並んで越中吉岡庄の中心地としての赤丸村が能登方面、日本海方面を睨んだ重要な戦略拠点で有った事が窺がわれる。
石堤浅井神社の祭神は用水・灌漑の神の「罔象波乃売命」だが、石黒氏が南北朝の戦いで足利氏に敗れて一族の一部は東北から名古屋に逃れて長谷川大炊助重行と名乗り、尾張の如意郷に住して如意城の城主となっているが(浪合記)、そこの大井神社には塩釜神社を勧請すると共に「罔象波乃売命」を祭神として祀っている事からして、石黒氏の神は「罔象波乃売命」で有ったのではないかと考えられる。ちなみに、「古事記」に拠れば赤丸浅井神社の神「高御産巣日神」(高皇産霊神)は「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、此の三柱の神は、並独神と成り坐して、身を隠したまひき。」と有り、高天の原の最高神で姿を表さない神とされる。これ等の神は皇室の主要神で有り、「高御産巣日神」(高皇産霊神)は大伴氏の氏神でもあると云う。
一方、「罔象波乃売命」は 伊邪那岐命、伊邪那美命が国産み、神産みの時に「尿 ユマリに成れる神の名は彌都波能賣神 ミツハノメノカミ」とし、伊邪那美命が尿をした時に産まれた神とされる。従って、この神は細い水が流れる事を象徴する神で水田の水利の神とされた。石堤浅井神社の前には谷内川という川が西山の谷合から流れ出ていた。この川は加賀藩時代の資料に因ると「赤丸川」と記載されている。又、「赤丸浅井神社」にはもう一柱の祭神が有り、「八河江比賣神」という神で、大河が合流している場所に宿る神である。赤丸浅井神社の前には小矢部川と庄川、谷内川と云う大河が合流し、そこに宿る神を指していると云う。赤丸浅井神社の祭神は「阿古ケ淵」というこれらの大河の合流地点から上がった祭神とされている。どの祭神にしても赤丸浅井神社の祭神が当時の法律とされる延喜式にも掲載される国家管理の神とされた最高神で在った事が解る。




■「大伴家持」は天平十八年(746年)越中の国司に任じられ、天平十九年(747年)九月には「利波臣志留志」が東大寺へ大仏造営の為に米5000石(セキ)を寄進したと云う。これは現在の数量では180トン、5トン積みトラックで36台分という。当時の収穫量からしてこの米は凡そ120ヘクタール(1ha=10反)の収穫量に匹敵すると云う。奈良国立文化財研究所の試算では、現在価格にすると凡そ3億1千400万円にも匹敵すると云う。

■【米沢康氏著作の「北陸古代の政治と社会」に当時の収穫量について検討されている。「米三千碩」は現在量では約1200石(コク)に当たり、之は稲束にして6万束(ソク)に当たり、之は上田で120町歩、中田で150町歩、下田で200町歩、下々田で400町歩にも当たると云う。
延喜主税式の記載で検討すると当時の越中の収穫は米60万束、一段当たり五束で検討すると60万束は12000町歩に相当する。実際の誤差を入れても当時の越中国の生産農地は10000町歩を越えたと推定されると云う。】

▼【※「東大寺要録」では「米五千石」とされているが、「続日本紀」では「米三千石(碩)」とされており、後に寄進した井山庄100町(※実は未開地も含め120町)の収穫を合わせて「米五千石」とされている様だ。東大寺の記録には「五千斛サカ」とされる記録も在り、「石」・「碩」・「斛」は時代により同じ単位として認識されていたと見られる。
(参考;本来、中国では「碩 セキ」は重量の単位であり、碩=31キログラムであったと云う。】
▼米1石(コク)=10斗=100升=1000合、1石=150kgであり、米1石の収穫が得られる田の面積は1反であった。明治迄は4斗~5斗が1俵とされていたが、明治になって4斗=1俵になり、1石(コク)=2.5俵となった。

▼人一人1日3合の米を食べるとして年間約1石(コク)(1000合)とし、1石は成人一人の年間の米消費量として計算されていた。武士の扶持米も凡そこの方法で計算されたが、中には粗悪な土地も有り、実際の収量はこれよりも少なかった。実際に百姓が税として米を納める場合は加賀藩では一般的には4公6民から6.5公3.5.民の税制で、これに集荷手数料が加算されていたと云う。





💥💥【加賀藩】の光と影⇒加賀藩の過酷な改作制度と封権領主の実際の姿 ❗ ❗

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■砺波郡の小矢部川西部は、かつて、能登末森城で前田利家と戦った守山城神保氏張、柴野城寺島牛介、赤丸城中山直治の統治したエリアで有り、加賀藩はこの地域に75%近くの高い税率をかけて報復した。
又、赤丸村の西山近くの住民は高岡市の和田新村の開発の為に移動させられ、水飲み百姓として極貧生活を強いられ、村立てをした和田佐助も磔の刑で死罪となった。








■前田利家(将棋の標)と佐々成政(三階菅笠の標)の二人は「長篠合戦」の時に織田信長軍の鉄砲奉行として戦い、後には「能登末森城」でお互いに戦った。





■前田氏は天正十三年以降、越中の検地を行った。慶長二年以降にも検地が続いたが、その時の年貢は100俵につき何俵と言う考え方で「物成◯◯俵」とされ、越中では地域によって25俵程度の地域と60俵程度の高税率納地域が在った。慶長三年の検地の時には税率が「免二十八」等と税率で表示されている。(その後には免6つ(60%)~7つ(70%)と表示された。)しかし、新規に農地を開発した時には免二つ(20%)位に減免された。苦しい農民は「退転」とされて入れ換えされた。これは田畑であったが、山野については別で、五位庄十六村では慶長十七年に利常は「三貫三百文」の年貢を倍に上げ、利長は同年に小矢部川から川西地区の土屋、向田、西明寺村について更に吊り上げて「十貫文」に決めている。又、当初は集落毎に「せり」を行い、「せり免」と言われる税制も行われた。当初、徴収する税は豪農の倉に納められていたが、後には小矢部、三日市等の地域に「御蔵」が建てられ、収納された。家臣の知行米等の「預り米」もこれ等の「御蔵」に収納された。税の取立てが厳重に行われた為に百姓は地域の取りまとめをした十村役や、知行地としていた「給人」から米や銀を借りて二割の利子をつけて返済した。不作の為に年貢が納められない者や遅れた者は「女子供牛馬家屋下女によらず御取下されたく…」との借用書により借金せざるを得なかった。年貢が不足すると、翌年の種籾も二割の利子で借りる事になり、百姓は次々に借金を背負う事になる。当初、加賀藩では給人(家臣の知行地域)が年貢を徴収し、役人は藩の直営地の税だけの徴収をしていたらしいが、次第に給人が百姓を個人的に使役したり、勝手に税を取立てて百姓が逃げ出すケースが出た為に、税の徴収は郡役人が各地の十村役、肝煎、組合頭に命じて徴収を行い、給人が直接百姓から徴収する事を禁止した。十村役には「村御印」と呼ばれた税の納付指示書が発行され、十村役の責任を追及した。徴収した米は「蔵入地」「知行地」共に一貫して徴収され、「蔵入地」については「代官」が支配した。利長は代官に対して、人馬の不当使役や百姓の「糠、藁、薪等」に至る迄、物資の収奪を禁止し、百姓の中に介入しない様に定めたが、実際には逆にこれ等の不法が頻繁に行われていたらしい。しかし、それでも続いた不法に対して、慶長十二年には改めて給人、代官に通達して「走百姓の調査」(※逃げた百姓の調査)や「給人、代官の不法禁止」を命じて、水争い等に介入して利得を得る事を禁止して、百姓間の事は十村役や肝煎に任せる様に指示している。この事で加賀藩は「百姓の処罰は藩の目安場で裁定する事」、「年貢の未納の代償に恣意的に百姓の不利益を生じさせない事」を改めて再確認した。ここでは、「公領」と「給人地」の区分を明確にして、「公領⇒代官」、「給人地⇒郡奉行・十村」の系統を分けたと言える。
(代官は当初、公領、給人地の全てについて責任を持ったが、給人地については次第に郡奉行が采配したらしい。)
しかし、十村、肝煎の責任は大きく、藩は、この制度下で逃げ出す百姓(走百姓)を調査させ、その百姓は「死罪」、その田畑の耕作はその十村組の責任とされた。
(この場合に、死罪になった百姓の借金、未納の年貢の納入も十村の責任とされた。)
反面、郡奉行と十村役からの圧力が加わる百姓には、「十村、肝煎が組の百姓を直接雇い入れない事。」、「頼母子の働き掛けの禁止」(※相互に無償で働かせる事)、「自分銀米の高利貸付の禁止」、「百姓から十村への礼物の禁止」を命じて百姓の保護を命じている。
元和6~7年頃から平均免、銀納が決まってきたが、承応2年の「改作雑集録」では「平均免」について触れ、「能登、越中は三つ九歩(39%)、加州三つ五歩(35%)、小松三つ六歩(36%)」と平均の税率が定められたとしている。(※四公六民の制度)
一方、この平均免に対して、越中砺波郡の内で小矢部川西部については、かつて、前田家に「能登末森の戦い」で刃向かった地域として懲罰的な60~75%云う高率の税率をかけた。又、かつて、一向一揆で反抗した子孫にも代々に亘り厳しく対処したと云う。
加賀藩は年貢の増収を目指して非生産的な百姓を追放した。怠惰な百姓と認定されると、村役は私財没収の上、単なる水飲み百姓に降格され、一般の百姓は「耳、鼻をかき、身体に印を付けて元々の地の耕作者の下人とし、妻子も下人にする」とされ、「打ち殺しても苦しからず」として、「御折檻百姓」と呼ばれた。この百姓は「持高、家、諸道具等」の全財産を没収され、「追放」されてその財産は後継の百姓に与えられたと云う。
明暦元年には利波郡の麻生谷村、淵ケ谷村等の六カ村で700石を超える草高について大規模な百姓の入れ換えが行われている。この時、蓑谷村、麻生谷村、十年明村の追放された百姓の跡地は戸出、宮丸、田中村の十村役に任されてその管内の百姓に宛がわれた。
寛文六年七月に園田佐七等六人の改作奉行が御扶持人十村・十村に出した四ケ条の指示書には、「利常の定めた改作法の厳守、給人の威光を借りて働かない者等を追放、入れ換えし、時には殺害しても構わないから、真面目に取り組む百姓に替える様に」と記載され、「殺害しても」との強硬な指示が出されている。
加賀藩はかつて敵対した勢力や一向一揆に関わった者の子孫を代々に亘り十村役に監視させ、何か有れば、死罪、追放等の厳しい仕置きをした。又、禁断のキリスト信奉者も代々監視され、全ての生活に宗門改め役の目が光っていた。又、これ等の死亡の時には、遺体を塩漬けにして葬儀を許さない等の嫌がらせで、キリシタンの末裔に対しても報復した。
「高岡史料」には「罪を得る者枚挙に暇なし」として加賀藩の残虐、非道の政治を記載している。しかし、これ等の政治の「陰」を知らない歴史家や高岡市は無批判に前田家の治世を讚美している。【前田家の治世】を継承する「高岡市」にとっては、これが高岡市が信奉して止まない、「絶賛?」する加賀藩前田家の真実の農業政策だったと云う事を知るべきだろう ❗
(※「加賀藩改作法の研究」坂井誠一 著 参照)