●上皇の庄園【後院領】とは?
「後院領」が「後い庄」、「おいのしゃう」等と転じて【五位庄】と変化した様子が「東寺百合文書」等から知られる。
■[後院領の始まり]
承和2年(835年)仁明天皇(深草帝、嵯峨天皇第二皇子)の時、淳和院[父桓武天皇、先代嵯峨天皇、譲位後の在所であった淳和院(現在の京都市右京区西院)の別名から西院帝(さいいんのみかど)の異称がある。]の荘園として百町歩を「後院勅旨田」とした。
(※「類聚国史 百五十九 田地」)⇒ これが「後院領」の先駆けではないかとされる。
「六国史 日本三代実録 巻49」には[光孝天皇 仁和二年八月十六日に、丹後国丹波と竹野両郡に後院田を定めた]事が記されている。
■「後院」は元々太上天皇(天皇を譲位された後の呼び名)の宮殿を指し、初めは皇太后、太皇太后の住まいも指していた。当初は垣で囲まれた簡素な住まいであった。しかし、後には天皇を譲位された後の住まいを指し、「天皇退位の際に予め準備しておく宮殿」を指す様になる。嵯峨院の時、安倍安仁を院の別当とし、院務を担当させた。これが「院司」の初めと云う。その後、村上天皇の時、朱雀上皇の為に「判官代、主典代、仕所、御随身」等の職を設けた。又、蔵人、召次所、武者所等が有り、五位の蔵人を侍者とし、六位の蔵人を判官代、その他を院の蔵人とした。出納を主典代、瀧口を武者所とした。随身には左右将曹、左右番長、左右近衛を充て、院庁の役人には公文、院掌等が有り、記録所に準じた文官を置いた。後三条天皇が白河天皇に譲位し、院司をおき、院政を執ろうとしたが半年位で亡くなった為に、実質的には白河上皇の時に体制ができた様だ。白河上皇の時、北面の武士を置き、諸国の武士をこれに任じたが、後鳥羽上皇の時には更に西面の武士を置いた。後白河上皇の時には初めて院伝奏を置き臣下の奏上を取り次がせた。又、評定衆や参衆が有り、これ等は院庁の政の参与となった。これ等は初期には「院司」と呼ばれたが、後に「後院」の勢力が拡大し「院庁」が実権を持ち始めると、これ等の役人も「後院司」と呼ばれている。
(※「古事類苑 官位部1 神宮司廰編」参照)
又、「院庁」には独自の行政組織が在り、後院領には守護の権限が及ばず、後白河上皇の時に、源頼朝が義経探索を名目に全国に地頭を配置した時には「後院領」の「越中吉岡庄」には「地頭 吉岡成佐」の名前が見られる。
「後院領」が「後い庄」、「おいのしゃう」等と転じて【五位庄】と変化した様子が「東寺百合文書」等から知られる。
■[後院領の始まり]
承和2年(835年)仁明天皇(深草帝、嵯峨天皇第二皇子)の時、淳和院[父桓武天皇、先代嵯峨天皇、譲位後の在所であった淳和院(現在の京都市右京区西院)の別名から西院帝(さいいんのみかど)の異称がある。]の荘園として百町歩を「後院勅旨田」とした。
(※「類聚国史 百五十九 田地」)⇒ これが「後院領」の先駆けではないかとされる。
「六国史 日本三代実録 巻49」には[光孝天皇 仁和二年八月十六日に、丹後国丹波と竹野両郡に後院田を定めた]事が記されている。
■「後院」は元々太上天皇(天皇を譲位された後の呼び名)の宮殿を指し、初めは皇太后、太皇太后の住まいも指していた。当初は垣で囲まれた簡素な住まいであった。しかし、後には天皇を譲位された後の住まいを指し、「天皇退位の際に予め準備しておく宮殿」を指す様になる。嵯峨院の時、安倍安仁を院の別当とし、院務を担当させた。これが「院司」の初めと云う。その後、村上天皇の時、朱雀上皇の為に「判官代、主典代、仕所、御随身」等の職を設けた。又、蔵人、召次所、武者所等が有り、五位の蔵人を侍者とし、六位の蔵人を判官代、その他を院の蔵人とした。出納を主典代、瀧口を武者所とした。随身には左右将曹、左右番長、左右近衛を充て、院庁の役人には公文、院掌等が有り、記録所に準じた文官を置いた。後三条天皇が白河天皇に譲位し、院司をおき、院政を執ろうとしたが半年位で亡くなった為に、実質的には白河上皇の時に体制ができた様だ。白河上皇の時、北面の武士を置き、諸国の武士をこれに任じたが、後鳥羽上皇の時には更に西面の武士を置いた。後白河上皇の時には初めて院伝奏を置き臣下の奏上を取り次がせた。又、評定衆や参衆が有り、これ等は院庁の政の参与となった。これ等は初期には「院司」と呼ばれたが、後に「後院」の勢力が拡大し「院庁」が実権を持ち始めると、これ等の役人も「後院司」と呼ばれている。
(※「古事類苑 官位部1 神宮司廰編」参照)
又、「院庁」には独自の行政組織が在り、後院領には守護の権限が及ばず、後白河上皇の時に、源頼朝が義経探索を名目に全国に地頭を配置した時には「後院領」の「越中吉岡庄」には「地頭 吉岡成佐」の名前が見られる。