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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷💠🔹 【信長記】丹羽長秀の家臣「太田牛一」が書いた「織田信長の記録」⇒石川県松任市、加賀藩に所縁の「太田家」!!

2021-04-15 | 富山県高岡市


●【織田信長と高岡市】
「織田信長」の妹は、高岡市の「守山城城主神保氏張」の妻と成り、二人の男子をもうけている。又、高岡市の瑞龍寺には「織田信長の分骨墓」が在る。
富山県砺波市と高岡市には、「織田信長」の発給文書が残り、一向一揆の監視の為に、岐阜県根尾谷(薄墨桜は根尾氏の墓標と云われる。)の根尾氏を越中に潜ませていた事が記されている。
更に、赤丸村鍛治屋町島に南北朝時代から江戸時代迄続いた【宇多派刀工】の菩提寺「三光寺」(※高岡市柴野)は、加賀藩時代に織田信長の四女で前田利長の正室となった「永姫」(※「玉泉院」)が再建した曹洞宗寺院である。

■織田信長の生涯を記した【太田牛一】の著作、【信長記】(※【信長公記】)
【太田牛一】は石川県松任市に丹羽氏の家臣として住んだ事もある。
「太田和泉守牛一」は「織田信長」の近習書記となり、後には信長の城の安土城下で屋敷を持った。永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけて丹羽長秀の与力として仕え、京の寺社との調整を担当する。【本能寺の変】の後に「丹羽長秀」に2,000石で仕え、「柴田勝家」と戦う為に坂本城へ参陣した。天正13年(1585年)「丹羽長秀」の没後、長秀の嫡男の「丹羽長重」に従って【加賀国松任城】に在城し、一時期松任で隠居した。
・その後、復活して「豊臣秀吉」、「秀頼」に仕え、関ケ原戦後には「徳川家康」に仕えた。子息の「太田小又助」は丹羽家、織田信雄、豊臣秀吉に仕え、その孫の「太田宗古」が浪人後、寛永18年(1641年)から「前田利常」に仕えて以来、家系は加賀藩士として続いた。

■【信長記】に記載される【織田信長の越中諸將の殺害】









元々、高岡守山城城主「神保氏張」と共に動いていた「木舟城」の「石黒氏」は『上杉謙信と内通している』と疑われて、「織田信長」に呼び出され、城主の「石黒左近」以下32名が近江佐和山に来た時に、「丹羽長秀」に襲われて十五名が暗殺されたと云う。次いで、越中の国人「寺崎民部左衛門」の親子も佐和山むへ呼ばれて丹羽長秀に預けられていたが、間も無く切腹させられた。






🌄🏯 氷見の阿尾城主菊池氏の末裔「菊池大学」(加賀藩士)からの赤丸村舞谷の『山崎久兵衛宛』の『西田国泰寺托鉢許可』の書状!!

2021-04-15 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
赤丸村古地図に残る
「赤丸村舞谷の山崎久兵衛屋敷」



「越中志徴」には、曾て赤丸村が「菊池氏の所領なりしと聞こゆ」と有り、氷見市森寺城主が「五位庄の土地と交換して森寺に西念寺を誘致する為に敷地を寄進した」とされる文書が氷見市の文化財に遺されている。
阿尾城主菊池氏は前田利家に通じて佐々軍から離脱し、その子大学は加賀藩に士官した。この菊池大学は八尾の城尾城の斎藤氏の子供で、その妻が氷見市の菊池氏に再嫁した時に既にその腹にいた子供だったが、利家は菊池家の後継として大学を認めた。
(肥後菊池一門には「山崎」の名前も見られる→「菊池市史」)
(氷見市北部を統治した能登畠山氏の重臣「八代氏」も藤原氏で菊池氏と同じく東福寺門徒で東福寺庄園の地頭をした家系。織田信長から菊池氏、屋代氏連名宛の文書が氷見市に残っており、この両者は一門と見られている。)



この加賀藩士「菊池大学」(元氷見市阿尾城城主)から正徳五年九月廿六日付けの高岡市の「本保才三郎」と赤丸村舞谷の「山崎久兵衛」宛の「西田国泰寺托鉢勝手次第の旨通知」が高岡市中央図書館の図書に遺されている。この文書には僧が托鉢する為に宿泊する事も認めており、一般的には「村人以外に宿を貸す事は【所払いの罪】に該当」していた為に、この許可は特別のもので在った。

( ※「菊池大学」は齋藤氏からの養子で藤原氏⇒石黒氏同族? 加賀藩は斎藤氏末裔を菊池家の跡継ぎにして、織田家所縁の八尾の城尾城主斎藤氏[→美濃斎藤系?]の子供を後継とし、実質的には菊池家の廃絶を狙ったものか?
阿尾城の菊池家は肥後の名門菊池氏の末裔で、「元寇」の時に活躍し、南北朝争乱の時には南朝を支援した藤原一門。近年、漸く、越中菊池氏の系図が明らかになった。)
■「越中国射水郡浅井郷二口村真宗西派仏谷山誓光寺住職菊池襲世之由緒」・「探究 菊池一族」渋谷龍 著






🔴【光釜山西大寺】「観応の擾乱」で「吉岡庄(後に五位庄)」で散った南朝の武将「桃井直常」の三男が赤丸村に高岡市木町の「西大寺」を開いた !!

2021-04-15 | 富山県高岡市福岡町赤丸村





●後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」に従った「桃井直常」は「太平記」・「花営三代記」に拠ると、観応元年(1350年)10月、越中守護であったが、同族の足利尊氏と敵対した弟の直義派に加わり尊氏方と戦った「観応の擾乱」が起きる。応安4年7月28日、足利尊氏方の斯波氏・能登の吉見勢との「後い庄(五位庄)の激戦で直常は敗れた」(越中志徴)が、桃井直常の首を取られるのを恐れた家臣は遺体を富山市の興国寺に埋葬したと云う。長男の直和は松根城等を拠点としたが長沢の戦いで敗れた。直和の子の幸若丸は越前朝日町に生まれ、後に幸若舞を創始したと云う。直常には9人の子が有ったと云われ、次男は砺波市秋元の光福寺を、三男の直弘は元赤丸村舞谷に在った高岡市木町の西大寺を、妙寿寺は五男の開いた寺と云われ、それぞれ「二羽の雁」「三羽の雁」「五羽の雁」を寺の紋としている。又、本門法華宗の流祖日隆は桃井直和の子で大門町浅井城城主桃井尚儀と斯波義将の娘益子との間にでき、1429年に京都の本能寺を開いたが、本能寺はその後数回の建替えを経て、当時は織田信長の京都での宿舎として要塞化し、織田信長の鉄砲入手も裏で支援していたと云う。織田氏も元々は斯波氏の被官であり、信長は幸若舞をこよなく愛して本能寺で光秀に殺される前にも幸若舞を舞ったと伝承される。富山県には直常の弟の直信が立山の芦峅寺衆に協力を求めた書状が残る。系図に見られる弟の直弘は元々直常の3男だが弟にしたと伝わる。

◆応安四年(1371年)、「観応の擾乱」で足利尊氏の弟「足利直義党」の中心として活躍した「越中国前守護桃井直常」が兵を挙げた。「飛騨国司姉小路家綱」は「桃井直常」を支援するために越中に出兵したが、「越中守護斯波義将軍」との【越中後い庄(※後院領から五位庄に転化したと見られる)の戦い】で大敗し、飛騨国司姉小路家綱の舎弟らが降参あるいは生け捕られた。その後の桃井直常は飛騨へ落ち延びた共、越中で討ち死にした共言われ、飛騨国司姉小路家綱の動向は詳らかではない。(※「花営三代記 群書類従」、「飛騨国治乱記」)





飛騨国の戦記には、「飛騨国治乱記」が在り、「姉小路家」の動静が載る。


■元赤丸村舞谷の清水山の麓の麻畑地内に在ったという西大寺は、その後、高岡市一之瀬の近く佐野地内の紅屋という場所に移り、更に高岡開町の時前田利長より寺地1500坪を現在地の木町に賜わった。寺の伝承では、西大寺の開基は南北朝期に南朝の側で戦い、五位庄の戦い以後所在不明になった足利一門の名将桃井直常の幼い3男が、直常敗走と知り奈良の西大寺に預けられたが、成長して一人前の僧になり、西大寺よりその寺号を頂いて、父直常の縁の越中に赴き、初めは倶利伽羅山の越中側に寺を建立したと云う。その後、寺は舞谷村に動き、更に高岡市の紅屋という場所に動いたが、その地に「光釜」という泉が有り、その池の中の沈んだ釜に蛇が絡んでいた事から「光釜の伝説」が有った。その為、この寺は「光釜山西大寺」と名付けられて、前田利長が高岡を開町した今から400年程前に、前田家に呼ばれて現在地に動いたと云う。現在地は小矢部川沿いにあり、伏木と高岡の間に有り、小矢部川と千保川の合流点の木町は前田家の防衛拠点としての意義も有った様だ。西大寺の門徒に赤丸村舞谷に古くから多くの門徒がおり、越後から南朝の後醍醐天皇第八の皇子の宗良親王に従って吉岡庄(後の五位庄)に入り、後には「下加茂社」の神官を務め、長く「越後どん・越後さん」と呼ばれてきた名家の越後家(本家は北海道に移転)等舞谷村20軒中12軒がこの寺の門徒であり、今も麻畑地内の奥山には約15,000坪の山林が有り、此の山からは長い間、西大寺の燃料や正月の松飾り等が賄われていたと云う。西大寺は今も、住職が「桃井」を名乗る。
(※「高岡市史」は創建を高岡市佐野としている。この歴史的経過は実際に西大寺、門徒衆にヒアリング調査し西大寺山の登記関係も調査したものである。)

■「西大寺」の末寺の【越中国分寺】と越中の「西大寺」の創建
【丹後、尾張、加賀、越中、因幡、伯耆、周防、長門、讃岐、伊予、奥州の各国分寺が室町時代には西大寺末寺と成っている。】(※「西大寺末寺帳」→羽曳野市史第一巻本文編)に見られる様に、南北朝時代には至近距離の高岡市伏木に在った「越中国分寺」が、西大寺末寺と成っていた事も在って、室町時代には「利波郡」に属した二上山に在った「越中国分寺」の末寺として赤丸村の舞谷村に現在の「光釜山西大寺」が創建されたと見られる。







■「赤丸村の史跡」





■「西大寺」は赤丸村舞谷の永賢寺後ろの麻畠島に在ったと伝わる。
■この跡には一時期、現在高岡市瑞穂町の「聖安寺」が在った事が「由緒」から解る。
【石川県七尾市湯川西得寺境内聖安寺旧跡地碑】
『南無阿弥陀佛
天正九年利家公の命に召されて河北郡北中條大坪村より当地に移住す、後石動山兵乱の節兵火の為め党宇を亡し慶長十四年利家公の誘引に任せて越中砺波、舞の谷、中谷内、富山を経て高岡に至る。 昭和五十二年春建之』
⇒「越中砺波郡舞の谷」は高岡市福岡町赤丸村舞谷の事で、「中谷内」とは「赤丸村寺谷内」の事の様だ。「聖安寺」は石川県河北郡大坪村に創建され、七尾市に動き、更に赤丸村に動いて、後に高岡市瑞穂町に動いた。

🌸🌿 室町時代の越中鋳物師に対する処置を指示する京都の『東寺百合文書』に残る書状 ⇒ 室町幕府二代将軍足利義詮の祈願寺「妙興寺」(※愛知県一宮市)に納められた高岡鋳物会社製作の『梵鍾』!!

2021-04-15 | 富山県高岡市













■『東寺百合文書』は、加賀藩の第5代藩主『前田綱紀』が百個の桐箱を文書の保存容器として東寺に寄附した事に由来し、その後はこの箱に納められて伝えられてきたことから、「東寺百合文書」と呼ばれるようになった。この文書の中には、足利幕府の尾張守護の『斯波義将から二宮信濃入道に宛てた越中砺波郡、射水郡の鋳物師に対する処置を指示する文書』が遺されたいる。鋳物師は通行や移動の自由等を保証されて、幕府からの庇護を受けた。高岡市では、鋳物師を保護、育成したのは加賀藩前田家のお陰だと伝えるが、何と、越中鋳物師は室町時代から越中に栄えた産業で在った事がこの文書から推察できる。

■尾張国(愛知県一宮市)に、室町幕府二代将軍足利義詮から六代足利義教に庇護され、女子を拐ってこの寺の本堂に立て籠った悪党を素手で捕らえて『無刀取り』をあみ出した剣聖『上泉伊勢守信綱』が修行したとして有名な臨済宗別格本山『妙興寺』(※「妙興報恩禅寺」)が在る。この寺には、元、『鎌倉建長寺の本尊』と言われる仏像や『足利義教肖像』(※越中吉岡庄を相国寺庄園として寄進した三代将軍足利義満の五男)等、数々の宝物を所有して、敷地内には『一宮市博物館』も在る。ここであみ出された『無刀取り』は「活人剣」として「柳生宗矩」に伝えられ、『柳生流無刀取り』として引き継がれた。
この寺院の鐘楼や勅使門、三門等は多くが文化財指定を受ける古刹で在る。又、昔は『妙興寺蕎麦』をあみ出した寺としても有名で、それまでは『蕎麦がき』として蕎麦粉にお湯を入れてかき混ぜて団子状にして食べていたのを、長い麺の形にして振るまい、有名に成ったと云う。
この足利家と密接なこの寺院の梵鍾も当然の様に文化財になっているが、この梵鍾が古い為に代替の鐘を製作される事に成った。
この時に、この寺の最高位の『老師』や執事に当たる『知客寮 シカリョウ』からは、当然の如くに高岡銅器の採用が持ち出されて、その有名さに驚いたものだった。梵鍾では安芸国(広島県)の銅器も有名の様だが、尾張国と越中国の繋がりの深さに驚かされた。
考えてみれば、室町時代は、尾張守護の斯波氏が越中に出張っており、上記の「東寺百合文書」に見られる『二宮信濃入道』も尾張斯波氏の家老格で在ったと言うから、中世には『尾張、美濃、信州、飛騨、越中、越前、加賀』は一体の経済圏で在った。(※「二宮円阿軍忠状」)

近年は、鉄道網で高山線の本数も減ったり、新幹線も小浜ルートが検討され、富山県と愛知県のコミュウター航空の路線も廃止され、一時期、愛知県の世界的な企業のトヨタの副社長が三名も富山県から出ていながら、トヨタ直営工場が未だに一ヵ所も富山県には進出していないと言う情けない状況に在る。これ等は、富山県の経済界の情報音痴と、歴史感の偏向に在る。富山県人は高い山に囲まれて、情報も遮られているのか?
歴史を学び、世界的視野を持たないと明日の富山県は無くなる。政界、財界は僅かな目先の利益に惑わされず、大きな視野で物事を判断すべきだ。因みに金沢市は「世界都市金沢」を標榜している。

🔴🔹【延喜式 50巻】⇒伊勢神宮外宮神官家[度合延経]の【神名帳考証】に見える「延喜式内社赤丸浅井神社」と愛知県中嶋郡に鎮座する二ヵ所の「延喜式内社浅井神社」!!

2021-04-15 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●【五位庄53ケ村惣社 延喜式内赤丸浅井神社】





■【浅井神社】は全国に数ヵ所、同名の神社が在る。
【延喜式 50巻】を調べると「延喜式神名帳」には三ケ所の「浅井神社」が在り、その内の二社は「尾張国中嶋郡」の愛知県一宮市浅井町、愛知県稲沢市浅井町に在る。






■「赤丸浅井神社」の祭神は、近江国浅井郡の「矢合神社」に祀られる「大河に祀られる水の江の神」の「八河江比売」だが、愛知県の二ヵ所の「延喜式内社浅井神社」の祭神は、「赤丸浅井神社」の摂社の「石堤浅井神社」や福岡町木舟の「貴船神社」の祭神と同じく、農耕地に張り巡らされた「水路の神」の「水波之女命 ミズハノメノミコト」で在る。(※この神のミズハとは、小便が飛び散る様を表すと云う。)

「古事記」



■「延喜式内社赤丸浅井神社」には、この他の主祭神として、天皇家が祀る「皇室八神」の内の【高御産霊神タカミウブスナノカミ(※高木神)】を祀る。この「高木神」は、国産みの時に神々を地上に派遣された「指令神」で在り、この時に「天孫降臨」が行われた、



■「伊勢神宮外宮」の神官家の「度会延経」は、その著作の「神名帳考証」で、「延喜式内社赤丸浅井神社」を取り上げ、「浅井とは浅井神社在れば成り」として、元々、この神社は赤丸村の「浅井谷」に祀られた近江の古代氏族「浅井氏」の神を祀ったものだろうと指摘している。
元々、越中利波(砺波)郡の郡司一族の「利波臣」は、その先祖を福井県敦賀市の「敦賀臣」と同族とされており、「赤丸浅井神社」の祭神で在る、出雲の「大国主命」の息子の嫁に当たる「八河江比売神」は、福井県敦賀市等の福井県嶺南地方から近江の琵琶湖周辺に栄えた古代氏族「浅井氏」と密接な神で在ったと見られる。






■では何故、尾張国一宮や稲沢に「浅井神社」が祀られたかを検証すると、愛知県のこの二社は愛知県の大河の「木曽川」、「長良川」、「揖斐川」の木曽三川 の地域に祀られ、その上流は飛騨高山を分水嶺として、越中の小矢部川、庄川とも源流を同じくしており、「赤丸浅井神社」の近くの小矢部川と庄川の合流地点に在ったと云う「阿古ケ淵、阿光ケ淵(吾子ケ淵)」と言う水郷には、水の神の「龍神伝説」が在り、一方、尾張国の「浅井神社」の祭神は一般的には「龍神」が祭神で在ると言われていたと云う。



■「古事記」では「八俣遠呂智」と言う八頭八尾の大蛇は「高志国」に住んだとされる。







■又、「延喜式内社赤丸浅井神社」を中興された聖武天皇の義弟の「石川朝臣広成」は、母代わりの「元正天皇」の命により「親王任国制度に基ずいて西国33ケ国を統治された」事が「赤丸浅井神社由緒」に記載される。元正天皇は歴代天皇とは異なり、美濃国に行宮を設けて、全国の国司や郡司を集めた祭祀を執り行われたとも伝わり、越中の郡司達も飛騨街道から美濃に赴いたと見られる。
この当時は、政治の中心が伊勢神宮にも近い美濃国に在った様で、「元正天皇」が美濃に入られた時に観光地にもなっている「養老滝」を命名されたと云う。
「浅井神社」の信仰は、この様な「水神」、「龍神」に対する信仰として、小矢部川から長良川の水系に拡がったものと見られる。
《※【親王任国制度】役職が少ない時に、「全ての天皇の子は親王とする」(※大宝律令・養老律令解釈「令義解 レイノギゲ」)として、国司の上に多数の国を統治する「太宰府 ダザイフ」を設けて、その責任者に任命した。》


📚📘【高岡市立野の東大寺庄園】「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」と「利波臣志留志・石黒氏」⇒「越中五位庄」の古代!!

2021-04-15 | 富山県高岡市


■「東大寺庄園杵名蛭庄」※越中国礪波郡
⇒「杵名蛭庄地参拾柒町柒段玖拾捌歩. 見開参拾柒町柒段玖拾捌歩. 神分壱段. 荒壱拾弐町伍段弐伯陸拾陸歩. 全佃弐拾伍町壱伯玖拾弐歩 」
(杵名蛭庄37町7段94歩、未開地37町7段94歩、神田1段、荒地12町5段266歩、佃25町192歩)

⇒総合計75町4段252歩で、内37町7段94歩は東大寺庄園だったが未だ未開地で在った。 又、神社に奉納される田は一段歩、荒地は12町5段266歩、「佃」と呼ばれる荘官・地頭の直営田は25町192歩で在った。 この「佃」とされるのは「杵名蛭庄図」に記載される「石黒上里」・「石黒中里」等と記載される住民が住んでいた部分と見られる。荒地は敷地内の沼地等を指すか?
🔽「佃」;佃(ツクダ)は、中世日本の荘園公領制において、荘園領主や荘官・地頭らによる直営田をいう。年貢や公事の賦課が免除され、収穫物をすべて領主が収取した。正作・用作・手作・門田とも。本家・領家など上級領主による直営田を佃とし、荘官・地頭など下級領主によるものを正作・用作として区分することもあるが、中世当時は必ずしも明確に区分されていたわけではなかった。(ウイキペディア参照)

■「平安遺文」古文書編東南院文書 に、東大寺文書として、「大和国十市庄 越中国礪波郡杵名蛭庄長 船木弟虫 給付状」が有り、『杵名蛭庄の庄官は船木弟虫』で在った事が記される。
『船木氏』は伊勢を拠点としたらしい。
[神八井耳命(カムヤイミミノミコト)]神武天皇の次男を祖とする。
「日本書紀」には意富(多 オオ)氏の祖。
⇒ [多(意富、大生 オオ)氏]の同族
《古事記》: 意富臣、小子部連、坂井部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊予国造、科野国造、陸奥の石城国造、常道(ヒタチ)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣ら19氏。














🔽「延喜式神名帳」には「射水郡 速川神社」が記載されており、「速川」(ソフ川⇒祖父川 と変化)の下流の高岡市早川地内には現在も【延喜式内社速川神社】が鎮座する。「東大寺庄園図杵名蛭庄園図」には「利波郡」と成っているが、恐らくはこの庄園から流れ出る「杵名蛭川」(※後の千保川)や「速川(祖父川)」がその下流地域で度々氾濫した為に「速川神社」が祭られたものと見られる。










■「東大寺越中杵名蛭村墾田地」について、平成29年、「国立歴史民俗博物館」は「庄園データーベース」の記載に「富山県高岡市立野」を推定位置として加えた!!







「小矢部川流域図」(※富山県立図書館蔵)











■「延喜式神名帳」とは、延長5年(927年)制定の『 延喜式』の巻九・十に記載される当時の「官社」とされていた全国の神社の一覧である。

「延喜式神名帳」記載の「越中砺波郡 七社」(※国幣小社は国司から幣帛を受ける国幣社)
・高瀬神社 タカセノ 国幣小社
(富山県南砺市高瀬 越中国一宮)
・長岡神社 ナカヲカノ 国幣小社
・林神社 ハヤシノ 国幣小社
・荊波神社 ウハラノ ヤフナミ 国幣小社
・比売神社 ヒメノ 国幣小社
・雄神神社 ヲカミノ 国幣小社
・浅井神社 アサヰノ 国幣小社
(富山県高岡市福岡町赤丸)
(※越中にはこの他に、射水郡十三社、婦負郡七社、新川郡七社が在る。)
(※「延喜式」皇典講究所、全国神職会 校訂 国立国会図書館近代デジタルライブラリー)

▼「延喜式神名帳 巻十」(利波郡・射水郡)




■「能越道高岡インター」を出るとすぐに高岡市和田地区が在る。江戸時代の記録では、「和田、是迄礪波郡なり、是より射水郡なり。」と記載され、和田迄が礪波郡であった。ここは往古、庄園「福田荘」(現在は「和田」という。)と呼ばれた。この地域の神社の「延喜式内社荊波神社」については「高岡市史」は「式内社を称するのはいささか疑わしい」と根拠も説明も無く否定している。地元では「延喜式内社荊波神社(ウバラジンジャ)」として信仰している神社について「高岡市史」は「十禪師社という比叡山山王七社の一つの神社」と主張しているが、地元の和田地区では、「延喜式内社荊波神社」は「天台宗妙法院領」になってから神仏混淆の「十禪師大明神」になったとし、現在は「延喜式内社荊波神社」と唱えている。

■最澄は797年,十禪師の一人として內供奉に任命されている。宮中で天皇の安穏を祈る事を職務とし天皇の病気平癒を祈り正月の御斎会で読師を勤めた。原則として地位は終身で、後に空海の甥の円珍も就任している。

■「荊波神社」は延喜式諸本で「宇波良」と有り、カナは「ウハラノヤフナミ」となっている。「荊波」と書いて「ウバラ」と呼ぶのは何故か? カナの通りに考えれば、「ウバラの里に在ったヤブナミ神社」となる。
⇒日吉山王七社権現の一つの「十禅師」とは、「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を権現とし、国常立尊(クニノトコタチノミコト)から数えて第10の神であり、「地蔵菩薩」の垂迹神(スイジャクシン)とされている。両部神道で「垂迹」とは、本地垂迹説(本地仏・垂迹神)に基づき人々の救済のために仮に神の姿をして現れた仏・菩薩とされ、本地仏も神の本来の姿の仏・菩薩をいう。比叡山の山王七社の一つ。
「延喜式内社荊波神社」について県内では争論が在るのは事実だが、「高岡市史」はその根拠も示さない。「延喜式内社荊波神社」については富山県福光町岩木、砺波市にも有り、この神社は石黒氏の祖の「越中利波臣の先祖」の「日子刺肩別命」を祭神にしている。浄土真宗大谷派金色山慶誓寺の近くには「荊波神社」が鎮座し、昔は山伏「石黒山寛勝寺」が別当を勤め、この神社後方の山中には福光町指定史跡の「志留志塚」(利波臣志留志の墓)が在り、宝歴二年から大正八年迄の167年間、石黒氏が石動山修験道の山伏として別当を勤めた神社である。1653年(承応二年)「越中国式内等旧記」に「岩木富士神社 同郷(石黒郷)岩木村鎮座、称富士権現 旧社地」と有り、当初は「富士権現」(※富士山本宮浅間大社の事で本地仏は大日如来)と呼ばれたこの神社は、「1759年(宝歴九年)神社改書上帳」にはじめて寛勝寺と共に「荊波神社」として記されたと云う。加賀藩士森田柿園はその著作「越中志徴の岩木富士社」の項で、「荊波はヤブナミと呼び地元にウバ桜と云う巨木が在り、この桜から誤って荊波神社(ウバラジンジャ)と言った事著明也」と記載してこの縁起に疑問を示し、本来「ヤブナミ」と呼ぶのが正しいと云う。大正時代に寛勝寺が無くなり、宮司が城端町北野の利波氏が宮司となり、宮内省諸陵寮が「記塚経塚」(志留志塚)を調査して「利波臣志留志」の塚と認定されると、一躍、この神社に「延喜式内社荊波神社」としての認定運動が起ったと云う。この神社も当初は「富士権現」と呼ばれたが、大正になって一躍、「延喜式内社」とされた神社で有り、この神社にも明確な資料は無い様だ。しかし、福光町岩木の「荊波神社」の祭神が一時期、「富士権現」とされた事については、氏神としていた石黒氏が一向一揆に破れて福光町を追われた為に一向一揆の勢力により「日子刺肩別命」が排除されていたのではないかとする意見も有り、興味深い。しかし、利波臣志留志が荊波神社の祭神とは何にも記載されていない。(※「砺波散村地域研究所研究紀要第18号 」尾田武雄氏論考、「越中志徴」 参照)
安栄四年(1775年)三月の高山彦九郎の「乙未 イッピ の春旅」に拠れば、倶利伽羅山から越中側に降りた際に「松長よりこなたに巴と山吹が塚とて二ツ有。天池より下がる。となみ山、関の清水、ぐみの木林、卯の花山、山吹塚、塚の東に蓮沼あり。ー町の右に八幡の社あり。」と記載されている。ここで注目するのは「ぐみの木」の林が砺波山に在った事だ。「ぐみの木」は富山県内の各所に野性のものが自生しているが、この木には沢山の「荊 トゲ」が生えており、赤い小さな食用の実を付け、群生して一面が緑色の野原になる。砺波山の山並みは福光に連なり、江戸時代には正にこの山並みに「荊波」が在ったらしいのだ。(※「越中、能登と北陸街道」深井甚三著)

■「荊」は明治時代に発行された漢字辞書によれば、フリガナには「スハエ、オドロ、スハブキ、ハマバエ」と記載され、オドロ(棘)とは[蕀や雑草が生い茂った]、スハブキとは[ツワブキという黄色い花が咲き葉の表面が光っている草花]、ハマバエとは[海岸の生物の死骸等に発生する蠅]、スハエとは広辞苑によると[すわえ【楚・杪】スハエ(古く「すはゑ」とも表記)
①木の枝や幹から細く長くのびた若い小枝。しもと。
【枕草子】に
[名おそろしきもの]
名おそろしきもの。青淵。谷の洞。鰭板(はたいた)。鉄(くろがね)。土塊(つちくれ)。雷(いかづち)は名のみにもあらず、いみじうおそろし。疾風(はやち)。不祥雲。矛星(ほこぼし)。肘笠雨。荒野(あらの)ら。 強盗(がうだう)、またよろづにおそろし。らんそう、おほかたおそろし。かなもち、またよろづにおそろし。生霊(いきすだま)。蛇(くちなわ)いちご。鬼わらび。鬼ところ。荊(むばら)。枳殻(からたち)。炒炭(いりずみ)。牛鬼。碇(いかり)、名よりも見るはおそろし。
②刑罰の具。杖じようやむちの類。笞しもと。
宇津保物語蔵開下「百荊してよく打たばや」]
となっており、近年考えられていた「棘のある植物、蕀」とは少し異なり、雑草、雑木、ツワブキ等の草花等を指していた様だ。又、古代の(記紀ー古事記、続日本紀)によると[荊(シバ) (紀・欽明天皇・岩波大系)]と読んでおり、雑木を指したようだ。

■奈良東大寺正倉院に「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」が在る。この場所は独立行政法人国立文化財機構監修の「日本の美術NO521」に拠ると、「高岡市戸出伊勢領、狼、市野瀬、市野瀬新付近に比定される」としている。(※「東大寺の越中国内の庄園位地推定図」に詳しいー富山歴史館 富山新聞発行 参照)
「越中国三郡墾田野地図」には「伊加留伎村図」の左手に記載されている。図面には、東杵名蛭川、西石黒川と記載され、庄園内には「石黒川」と「速川」が走り、「石黒川」は敷地内で「速川」と分岐している。神護景雲元年の墾田地図では伍拾捌町伍段伍拾陸歩(58町5段56歩)であり、図面の南側境界線の中央部に[廿二條石黒上里]、図面中心部に「石黒中里」、左端には[廿三條荊原上里]と記載されており、この庄園は「石黒の里」を中心に開発され、東側に「荊原里」が在った。この庄園には神社が三ヵ所在った事も記載されている。高岡市内には「早川」という地区が在り、石黒氏の居城の木舟城の近くには「黒石川」が在る。これがそれぞれ「速川」「石黒川」の転化したものなら、この庄園「杵名蛭村」の位置はもう少し小矢部川沿いの立野、高田嶋地区に在った可能性がある。小矢部川が西山の麓を走っていた頃は小矢部川の対岸に在った現在の赤丸村向野新村辺り迄「杵名蛭村」は広がっていたと考えられる。小矢部市保管の古図「越中四郡絵図」と照合するとその位置関係が推定できる。天皇家の庄園「越中吉岡庄」は赤丸村から西五位を含み、後の五位庄の内「東五位」と呼ばれた地域はこの「杵名蛭庄」の地域と重なる事が考えられる。福光町吉江村自治振興会発行の「吉江の昔と今」に、「木舟城城主石黒左近の家臣高田孫兵衛は(高岡市の)高田嶋地区に住まいした。」と記されている。この様にこの地域も石黒氏の所領だったと云う。小矢部川を挟んだ「赤丸村」の対岸に在る「高田嶋」は加賀藩時代は「赤丸村領高田嶋」で五位庄の一部で有り、ここには聖武天皇の祈願社と伝わる「五位庄神社」 が今も鎮座し、赤丸浅井神社の神官が奉仕されている。赤丸村の「浅井城」は石黒氏の居城であったと云う。
(※【五位庄は、加越能三州地理志稿には東福田郷、西能登羽咋郡南庄、糸岡郷、北射水郡の間に展開せる五十六ケ村の地域を称し、以前は吉岡の庄を指称するものにして、後鳥羽院の後院から五位庄と転化したものである。】「宗良親王」越中宮奉讃会編 富山県立図書館蔵書 参照)



■この図面には「利波臣志留志」が立ち会った署名が在る。利波臣は石黒氏の祖と云われるが、この時に既にこの庄園図に「石黒の里」「石黒川」の記載が在り、同図に「利波臣志留志」の署名が在った事はどのように考えれば良いのだろうか? 福光町の「石黒庄」が「石黒氏の発祥の地」とされている事との関連性はどうか? 又、新しい歴史の謎が現れた。
(※「石黒荘」は「黒い石」が在った事から「石黒荘」になり、利波臣は石黒氏を名乗ったと云う伝承がある。「速川」は「早川」とも考えられる。)
中世の福光、福野町地域には「石黒庄」と呼ばれる広大な庄園があったという。当初は、後三条天皇の祈願寺の円宗寺領であったが、鎌倉期には[山田郷・弘瀬郷]、[石黒上郷・中郷・下郷]、[吉江郷・太海郷・院林郷・直海郷・大光寺郷]の三荘に分かれていた。石黒庄は利波臣の子孫の石黒光弘等の石黒氏の本貫地とされている。石黒系図の中の「石黒信家」の一族が「石黒下郷」を根本の所領地としていたと云う。元々、武内宿彌の子孫(古事記では同族とされる。)の利波臣は蘇我氏と同族だが、藤原利仁の子孫の加賀の林氏と婚姻して、林氏の名跡を継いで以後、林氏の「藤原氏」を名乗る様になる。十三世紀半ばにはこの石黒庄弘瀬郷に「藤原定朝」と言う地頭が登場する。この一族は元々この地の開発領主だったが、円宗寺家人となり下司職に任じられていたが、木曽義仲の進出の時には所領を安堵され、鎌倉幕府では後家人となり、弘瀬郷の地頭職に任じられていた。その後は、地頭として勢力を拡げ当初は弘瀬郷41町歩強の中に地頭給田一町と一町の「重松名」を得ていたが、十三世紀半ばには十三町歩に迄し、税も二割から三割に引き上げて私腹を肥やす様になる。「領家」と呼ばれた庄園の所有者の京都仁和寺菩提院も藤原定朝の不法を幕府に訴えるが地頭は越中守護名越氏と組んで領家を圧迫したと云う。(※「改定郷土史事典 富山県」広瀬誠著)
しかし、これ等の事から見ると、年代は異なるものの、福光、福野の辺りには[石黒上郷・中郷・下郷]が在り、東大寺庄園杵名蛭庄の中には「石黒上里・中里・下里」が在った事になる。

■延喜式内社のフリカナから推定すると、「荊波神社」と「延喜式内社荊波神社」は元々、別のものであり、和田の「荊波神社」は「杵名蛭村」の東側の「荊原里 ウバラノサト」、後の「福田荘」に在った神社で、福光の「荊波神社 ヤブナミジンジャ?」は福光町の石黒荘の「利波臣」の氏神であった可能性が高い。どちらも「石黒」所縁の土地と考えられ、明治以降に廃仏毀釈と国家神道の影響が強くなった為、「延喜式内社」の認定と神社の昇格運動が活発になった背景がある。「延喜式神名帳」の古記註記に「ウハラノヤフナミ」とフリガナが有るものが有り、その為に論議を呼んでいる。この註記に拠ると[「荊波神社」は「荊原」に有る。]となる。この註記に拠れば荊原里(後の福田郷)に在った荊波神社が「延喜式神名帳」記載の神社になる。高岡市の和田地区は暴れ川の庄川と小矢部川に挟まれた下流域にある。「荊」はトゲのある野バラ等の植物を指し、山野には「野バラ・野イチゴ」等が繁茂している。和田地区では、大伴家持の歌が残る「夜夫奈美能佐刀」は福田庄の「延喜式内社荊波神社」が在った地域だとしている。「杵名蛭村墾田地図」を調べるとこの庄園の中は「足原田」(葦が生えている。)、「柴田」(山野に生える小さな雑木や雑草を芝草と云う。)、「野」「未開地」となっており、農作物や、屋根材、雨具の簔等に用いた「葦」と、「燃料にする雑木」・「肥料にする雑草」を生産していた事が判る。何れも当時としては生活上の必須の資材で有り、寺社も専用の畑や山林を所有していたと云う。
【※「足原田(葦原田)」については、和田地区の「荊波神社」(高岡市和田954番地)の祭神が「瓊瓊杵尊ニニギノミコト」で有り、この神は「日本神話で、天照大神の孫で天忍穂耳尊の子。天照大神の命令で「葦原の中つ国」を統治する為に高天原から日向高千穂峰に天降ったとされる。木花開耶姫を妻として彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)=(若狭彦神社祭神)を生んだとされる。「足原」は「稲」を指すとも思われる。「葦原中国」とは日本神話においては天上の「高天原」と地下の「黄泉の国」の間にあるとされる世界ですなわち日本の国土の事であると言う。「瓊瓊杵尊」は富山県では「二上神」とされる「二上射水神社」の祭神でもある。「若狭彦神社祭神」は福井県若狭地方:小浜市所縁の神で有り、石黒氏の祖の利波臣志留志は「角鹿臣 ツヌガノオミ=敦賀」を祖とすると云われる。(古事記では両者は兄弟とされる。)高岡市和田の「荊波神社」、「二上射水神社」には「彦火火出見尊」の父の「瓊瓊杵尊」を祭神としている事から一族の「利波臣」「射水臣」の影響が窺われる。[※若狭彦神社祭神(若狭国一宮)の「彦火火出見尊」は「海幸彦・山幸彦」の物語の「山幸彦」の事。】

(※「角川日本地名大辞典」には【立野村は礪波郡五位庄のうち。特産品は菅笠。立野村の隣接地に高田嶋村、渡り村、樋詰村、下開発村の他に「柴野内島」が有った。】と記載される。菅は沼地・河川に繁茂した「菅」を加工して傘にしたもの。昔は野山の雑草を腐らせて肥料にしたらしく、加賀藩の時代も「小矢部川対岸の石堤、麻生谷、柴野地区から山の柴草を運んでいた」記録がある。ここで云う柴草は山野や河川敷の雑草や山合いに流れていた「谷内川」の周辺の「葦」等も含まれていたと見られる。「葦」は同じ環境に育つ川辺の雑草の「菅」を指したかも知れない。谷内川には「赤丸清水山」から流れ出ていた京都の清水山に因んだ「愛宕の滝」が流れ込んでおり、相当な水量があって観光地ともなっていた。その谷合には観光客、保養客目当ての「谷内の湯」が開かれ、著名な温泉地で在った。従って、谷合には広大な山野草が自生していた沼地も広がっていた様だ。)

(※高岡市博労町の「安養山極楽寺由緒」に「五位庄に二百数十年在った」事が記載されており、「後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が創建され、その時に地元の郷士の柴田、柴、本間氏等がお仕えした」と記載される。「越中宮極楽寺」は「越中吉岡庄」の赤丸城ヶ平山の「極楽谷」に創建されたと伝わり、現在も高岡地方法務局には「極楽谷」の古い絵図が遺されている。赤丸浅井城の周辺地域には古くから「柴田」、「柴」等と名乗る一族が繁栄し、現在も高岡市赤丸村、石堤周辺に柴田という一族が多く、加賀藩の時代には豪農一族がおり、村役を努めていたと云う。)

▼(※石黒氏は木舟城に「貴船神社」を祀ったとされているが、京都の貴船神社の祭神は水神である「淤加美神、または、たかおかみ神タカオカミノカミ」を祀り「たかおかみ」(※文字化けの為ひらがな記載)は「雨の下に龍」を書き、龍神を祀っている。しかし、木舟城の「貴布禰社」の祭神は水神の[罔象女命(みつはのめのみこと)]で有り、「大伴家持の後胤大伴右京持定の勘請なり」と言う由緒を持つ。この神社の神官は福岡町の佐伯神官で有り、大伴氏の一族である。石黒氏の氏神は福光町岩木の荊波神社の祭神の「利波臣志留志」の祖先神「彦刺方別命ヒコサシカタワケノミコト」とも云われている。石黒氏の後の木船城城主佐々成政を追いやり城主となった加賀藩前田家は貴布禰社の祭神を犬に繋いで近くの川に流して何れが助かるか競わせたと云う逸話がある。この城の近くには物流を担った河川が在ったと云う。貴布禰社は石黒氏の祭神と言うより赤丸浅井神社の脇社の石堤浅井神社と同じ祭神を祀っている。
「越中石黒系図」に拠れば「赤丸浅井城」の「石黒光景」は「木船城」の「石黒光弘」の父親で在り、山城の「赤丸浅井城」の出城として築かれたのが、「平城」の「木船城」で在ったと見られ、京都から勧請された赤丸村の「川人山鞍馬寺」の持ち宮として「木船城」に「貴船神社」が祭られた事は容易に推測できる。「赤丸浅井神社」には「大伴氏の祖先神」で「皇室八神の一柱」の「高御産霊神」を祭神として祭り、「貴船神社」の神官は「大伴氏」が勤めていたという伝承にも合致する。「吉岡庄の地頭成佐」が木舟城の周辺の「大瀧(大竹)地区」を開発したと言う伝承から、赤丸と加茂集落の間に在った吉岡谷の吉岡氏が勘請したものであったのかも知れない。)

🔽「蓑のしずく」(福岡町 中川幸作著)に記載される「赤丸浅井城」と「木船城」の位置図と近くを流れていた小矢部川支流の「唐又川」


「貴船神社」の御神体「大彦命」が記載される。


🔽「元々赤丸村」に在った「総持寺」(※高岡市関町)から最近発見された福岡町の「貴船神社」の御神体「大彦命」の石像⇒「天正元年」の記載が在る。天正十三年には「飛越大地震」により「木船城」は前田一族、家臣諸共、土中に埋没して全滅し、生き残った木船城下の住民は高岡城城下に移り「木船町」に住んだ。


🔽「赤丸村柴田彦四郎寄贈の赤丸浅井神社の大鏡」img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/8d/efc60643a8e1efc79301ccabb546edb8.jpg" border="0">


■五位庄立野村周辺には「柴野内島村」、小矢部川対岸には石堤村の隣地に「柴野村」が有り、古代荘園図の呼び名「柴田」の名残りを残している。推定される高岡市立野、高田嶋地区の域内には現在も三ケ所の古い神社が在り、「荊波神社」の在った和田地区の西に位置する立野地区に「福田神社」、上渡りに「八幡宮」、高田嶋地区には「五位庄神社」が在り、この周辺には60町歩位の農地は在ったであろう。(明治4年の立野村には畑2町歩、田62町歩が有ったという。未開地が多い古代にはもっと広範囲の庄園で有ったと思われる。この荘庄園図には但し書きに、「未開田地42町1段234歩(荒地19町6段60歩、定地22町5段174歩)、未開16町3段182歩」と記載される。)高岡市立野の鎮守「福田神社」は元「八幡宮」で八幡神を祭神とし、上渡りの「八幡宮」も現在は天照皇大神を祭神としているが八幡宮を名乗っている。高田嶋地区には「五位庄神社」が有り、「聖武天皇の御宇勅使門部連某卿が社殿を建てられ規模宏大」とする由緒を持ち、祭神は伊勢の「天照皇大神」と境内末社として諏訪神社の祭神「建御名方神」を祭る。この三社は何れも聖武天皇、東大寺との繋がりを持ち、併せて高田島地区は東大寺大仏建立に貢献した利波臣志留志の後裔の石黒氏の所領であった。この地域を開発したと推定される国人領主の池田氏は木曽義仲を埴生護国八幡宮に案内した「池田次郎忠康」の末裔と考えられており、木曽義仲は各地に諏訪大社を勘請している。この池田氏は小矢部市今石動(旧名は池田)、赤丸城ケ平山の麓一帯の「池田島」、氷見市の池田、高岡インター近くの池田地区等に名を残し、赤丸の総持寺旧地の周辺の池田島地区の開発を行い、高岡総持寺の敷地も寄進したとされている。この池田家には古く「イバラノ宮」と呼ぶ持ち宮が在ったが、今は旧地も農地に変わっている。この「イバラの宮」の場所は高岡インター周辺の池田地区周辺と推定され、今も高岡市細池の自宅の庭にこの神社に在ったと云う「地蔵菩薩の板光背」と「旧地の写真」が残されている。(※「池田家」には高岡市の総持寺に祀られている国指定文化財木造千手観音座像の鎌倉時代の「僧型の胎内仏」(※千体地蔵か?)と、加賀藩八家の奥村家から池田与三吉に嫁いだ姫が持参した「奥村家の兜仏ー観音像」と「懐剣」も伝わっていたと云う。)

【※高岡市柴野内島の隣接地の東石堤地内に八幡社の小さい社と小さな森が在り、古老に聞くと、昔は集落の墓地になっていたと云う。この森には鬱蒼と野イバラが繁茂し、池田家に残るイバラの宮の写真と酷似している。この隣接地は池田家が開発した高岡市池田地区である。】
この石造の「光背」とされるものは中央に円が有り「徳明」と彫られる。両部神道では「瓊瓊杵尊」の本地仏は「地蔵菩薩」である所から、元は仏像の「板光背」と見られ、一部に「バラ?」の花の模様が刻まれている。「十禪師大明神」の本地仏が「地蔵菩薩」で有り、神道では「瓊瓊杵尊」を御神体とする事から、和田地区の人達の伝承が正解で有り、「高岡市史」の編集者には両部神道への理解も無かった様だ。場所的にもこの池田地区は和田地区の隣接地で在り、旧地が不明とされている和田の「荊波神社」の旧地がこの池田家の持ち宮の「イバラノ宮」と推定される。
(※和田の「荊波神社」の由緒に「福田庄10ケ村総社」とされており、古の福田庄は、現在の和田から福田六家、立野地区迄を含んでいたと思われる。)
この池田家が高岡市関町の「総持寺」の敷地を寄進したと伝わり、高岡市郊外の鴨島地区の一帯が古くは石黒一族の「鴨島七郎」の領地で在った事から、池田家は石黒氏との親族関係とも推定される。武内宿祢の系統図からすると石黒氏の祖の利波臣志留志は池田氏の祖の紀氏等と同じ「武内宿祢」を祖とする。又、木曽義仲に従った越中の国人は石黒氏の他、鴨島、向田、池田、福田等とし小矢部市から高岡市に至る国人領主が総て義仲軍に参戦していた様だ。
小矢部市の「今石動』もその昔は「池田」という地名で有ったと云う。
(※「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著参照、「源平盛衰記」、「池田市衛門家伝承・写真・石碑」参照)

【※「八幡宮」は応神天皇(誉田別命)の神霊で神功皇后、玉依姫を祀り、元々は「東大寺の鎮守」で有り、大仏の傍らに祀られていたと云う。東大寺大仏造営の時に九州の「宇佐八幡宮」が聖武天皇に全面協力を申し入れた為に、天皇は感謝の意を示して宇佐八幡宮に庄園を献じて東大寺大仏の鎮守社にしたとされる。高岡市福田周辺には八幡神を祭神とする神社が多い。東大寺庄園に東大寺鎮守の八幡宮を祀ったと見られる。(※「故事類苑 神祇部一」参照)→平家が東大寺を焼いたのは源氏が八幡太郎義家にちなんで八幡神を氏神とした為か?】

又、この地域には石黒氏の居城の在った福岡町「木舟」付近を通過する「黒石川」と、礪波、庄川近くから流れてくる「祖父川」が流れ、この川の下流域の小矢部川河口の高岡市内には「早川地区」が在る。「祖父川」は古い絵図(小矢部市史参照)には「ソフ川」と表示されており、明らかに「早川」⇒「速川」から読み名が変化したものである。この辺りは小矢部川が氾濫して河川敷だった事もある。この地域こそ「東大寺庄園杵名蛭村墾田地」の絵図にほぼ条件が当てはまる様に思われる。小矢部市の江戸時代初期の「越中四郡絵図」に拠ると、木舟城の至近距離を流れていた川が「黒石川」と見られ、古い時代には現在と流れが相当異なっていた事が判る。ただ古の小矢部川は西山の麓を流れていたと浅井神社由緒に記載されており、庄園の範囲や川の位置が大きく変わっていた可能性がある。(※「越中四郡絵図」小矢部市図書館蔵 参照)
又、「祖父川」と「庄川」の間には、後に高岡城の水利となった「千保川」が流れているが、位置的にこの川の事を「杵名蛭川」と呼んでいる様だ。この河川も時代により蛇行を繰り返したとすれば、現在の「荊波神社」の周辺には水郷、河川敷が広がっていた事も想定されるのだ。

▼この現地の状況を「国立歴史民俗博物館」に連絡した所、「庄園データーベース」の「東大寺庄園杵名蛭庄」の比定地に「高岡市立野」が加えられた。

・【東大寺庄園杵名蛭庄】
(※「庄園データーベース」)

(※「国立歴史民俗博物館」のHpで閲覧可能)



小矢部川沿いの「高岡市上渡り地区」には「五位の渡し場の石仏」と「神社跡」が残っている。







■「小矢部川沿いに開発された直後の赤丸村向野新村絵図」(※「杉野家文書」福岡町歴史民俗資料館蔵)当時の河川敷は混沌としていた様子が判る。

🏯🔹【越中石黒氏】と【木舟城】⇒郷土の歴史書【蓑のしずく】!!

2021-04-15 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


◎越中の古代氏族「利波臣」の末裔⇒「越中石黒氏」
(このHpからの複製、二次利用は禁止されています。)


■『加賀藩参勤交代道中懐中絵図』に見られる『赤丸村』と『木舟村』。赤丸村には「赤丸浅井城」、木舟村には「木舟城」が有り、長く石黒氏の居城となっていた。



■平成30年に発見された加賀藩初期の軍学者が書いた「国主城郭絵図」(7.2mの巻物)には、「能登末森城」、「高岡城」、「能登棚木城」等と共に「木舟城」と見られる「彩色絵図」が書かれている。

・「高岡城」


・「木舟城」



■越中には東大寺大仏の造営の時に「米五千石」を寄進して一躍、聖武天皇の信任を得て、外従五位下となり、767年には「利波臣志留志」は「越中員外介」として国司に任じられた。
この古代氏族は越中西部に繁栄し、子孫とされる「石黒氏」は富山県福光町、福岡町、赤丸村等に居城を構えたとされ、孝霊天皇の子孫として、藤原一門、蘇我氏の武内宿弥の子孫の射水臣、利波臣一門等の先頭に立ち常に「国」を愁え、「越中」を愁え、国の危機に立ち上がってきた。富山県の利波郡(砺波郡)、射水郡や石川県の石川郡や江沼郡等を造り上げた各氏族の一門のリーダーとして、常に「承久の乱」や「後醍醐天皇」の「建武親政」等でもいつも天皇側で戦い天皇の忠臣とされた天皇の子孫を唱える一族である。又、この石黒氏は一族の越中の宮崎氏、井口氏、加賀の林氏一門の冨樫氏、石浦氏等の藤原一門と連携して、古くは「源平盛衰記」、「平家物語」にも登場した古代氏族の名門であり、先祖とされる「利波臣」は、東大寺庄園の30%近くもあった越中の東大寺庄園の開発に貢献して、越中の開発にも関わって来ている。この一族は関東から進出した源氏一門の与力として活躍したが、常に「国人」として動いた為、やがて北条一門や足利一門、畠山一門等の臣下に置かれて、上杉謙信、織田信長、佐々成政、前田利家等の戦国武将の下に置かれた為、元々の「石黒氏一門の国の越中国」の歴史はやがて消え去ろうとしている。
(※金沢の著名な繁華街に『武蔵ケ辻』と云う町がある。これは前田利家の金沢入城の時からついてきた石黒一族が長を勤め、石黒権兵衛の屋敷が在ったと言う。→「金沢古跡史」)

■歴史は常に占領した者の都合の良い歴史となり、不都合な勢力の歴史は徹底的に消されてきた。しかし、「越中の歴史」を考える場合には、これ等の消え去った歴史が検証できる県内の古文書や史跡の調査や保全が必要である。

■「木舟城城主石黒光弘」の父の「石黒光景」の居城とされる「赤丸浅井城」(※「越中石黒系図」)






■石黒氏は富山県福岡町木舟と言う所に平城の「木舟城」を構え、城内に「貴船社」を勘請した。この神社は大伴家持の末裔と言う大伴氏と密接であったと云う。この神社の祭神のスケッチが残されており、姿は大伴家持を思わせる。しかし、この神社の祭神は実は「農耕の水利の神」の「罔象女神 ミズハノメノカミ」である。
又、この「貴船社」と関係が深い「下鴨社」や「鞍馬寺」を勘請した「越中吉岡庄」とは一本の河川で繋がっていた。この「吉岡庄」(後の赤丸村他)には「延喜式内社浅井神社」が立地し、初期には京都「上賀茂神社」の庄園となり、南北朝末期には「下鴨神社」庄園になったと言う。この「吉岡庄」には石黒氏が居城とした「赤丸浅井城」があり、その鬼門に在った中心寺院の「川人山鞍馬寺」は「浅井神社」・「石堤浅井神社」・「舞谷八幡宮」の三社と七坊を構えた「三社権現形式」の神仏集合寺院で在った。「上杉謙信」に焼かれた後も、「門跡寺院聖護院派」の「川人山鞍馬寺」 を構成した「七坊」を加えると、全体では「48坊」の寺院が立地して繁栄していたと云う。
「赤丸浅井城」は「赤丸浅井神社」創建の「元正天皇二宮」(聖武天皇の弟)が在城された(※「肯構泉達録」)と云う古い城で「赤丸浅井神社」は養老年間の717年の創建と伝わる。
(※由緒では、「浅井神社」自体の創建はもっと古い時代に創建され、赤丸村の清水山から下流の谷間に女性のシンボルとして創建された事が始まりであると云う。当初は二本の大木が谷間の入り口に立てられて、これが後の「鳥居」の原点になったと地元の古老は伝えている。浅井神社の前で越中の大河の小矢部川と庄川が合流していた事から、浅井神社には「女神で河の江の神」の「八河枝比売神」が大河の守護神として祀られた。赤丸浅井神社には、古くは「一条天皇」が「蝗害除去祈願」の勅使として「川原左京」を遣わされ、白河天皇の時には京都の「上賀茂神社の庄園の越中吉岡庄」になったとされる。その後、「越中吉岡庄」は藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園となり、「保元の乱」の後に「後白河上皇」の「後院領」となり、「後鳥羽上皇」以降も「後醍醐天皇」迄皇室庄園で在った。
(※「越中吉岡庄」は「川人山三社記」等にも記載されたが、学会や東京大学資料編纂所等は、その場所は「富山市吉岡」としてきた為に認知されなかったが、国立歴史民俗博物館学芸員の御協力で、平成26年に国立歴史民俗博物館の「庄園データーベース」に「高岡市福岡町」と確定して掲載された。)

■【「浅井城」と呼ばれた城は富山県に2ヶ所在る。富山県高岡市の旧赤丸村に山城の「浅井城跡」があり、もう1ケ所、富山県射水市島にも「浅井城」と呼ばれた舘跡がある。この城は、桃井氏所縁の城で、越中守護「桃井直常、直和親子」は南北朝の争乱で南朝方として同族の北朝方「斯波義将」と度々争った。建徳元年(1370年)に息子の「桃井直和」が長沢の戦いで討死した後に斯波氏と桃井氏は和議を結んで、桃井直和の子直儀に斯波義将の娘の益子を嫁せて浅井郷を与え、「浅井城」を建てたと言う。しかし、応永2年(1395年)に二代目の城主桃井直之が家臣に殺害された為、直之の弟は兄の菩提を弔って出家してこの城跡に寺院を建立した。この城は平城で舘程度のものだったらしい。この寺は現在は「誕生寺」と呼ばれる。嘗て、赤丸村舞谷(現在は福岡町舞谷)には桃井直常の三男が建てた「西大寺」(現在は高岡市木町)があり、赤丸村には明治初め迄「幸若舞」の舞手の舞々人が住んでいたと云う。
織田信長が好んだとされる「幸若舞」を創始したのは桃井直常の孫の「幸若丸」で、斯波氏の所領の福井県越前町(朝日町)に住んで考案したと云う。(「織田氏」発祥の「織田町剣神社」は朝日町の隣にある。)】

■立地や形状からすると恐らく、平城の「木舟城」は当初、山城の「赤丸浅井城」を補完する形で平野部の地盤の悪い地域に建設され、「鞍馬寺」と関係が深い「貴船社」を守護神としたと見られる。(※「赤丸浅井城」の鬼門には「延喜式内社赤丸浅井神社」が在り、城の反対の地の舞谷村には武神の「舞谷八幡社」が在る。)
この「木舟城」は石黒氏⇒上杉謙信⇒佐々成政⇒前田秀継と城主が変わったが、1585年11月(天正13年)の飛騨を震源とする「飛越地震」の時に城主諸共に地中に埋もれたとされ、この城下から小矢部市、高岡市街地に動いて開いた町が高岡市木舟町である。
この地域の隣地「大滝村」は「吉岡庄」の地頭「吉岡成佐」が開発したと伝わる。この事からしても庄川支流の下流の赤丸村と上流の大滝村は古くから一体であった事が窺われる。
「簑のしずく」に拠れば、福岡町の蓑島地区には古くは「延喜式内社長岡神社」や「延喜式内社比売神社」があり、又、後に木舟城城下に移った「宝性寺」も在ったと云う。⇒(これ等は現在、小矢部市に立地している。)
この辺りに触れた「郷土史」が無かっただけに、この「蓑のしずく」と言う郷土史は貴重だが、残念ながら私製本として発行されたらしく、一部の方しかこの書を知らないのは残念な事だ。この書は「福岡町史」の編纂委員もされた『中川幸作氏』が昭和35年7月に喜寿の記念に編纂された。特に石黒氏と所縁が深い小矢部市岡村の「宝性寺」とその開基とされる能登の「武将長谷部信連」の子孫の系譜にも詳しく触れられ、地域の社寺の詳細にも触れられている。
この度、子孫の方が倉庫を探した所、その原本が発見された。以下は掲載されている絵図等の一部である。
















🎌🔴【高岡市史】の欺瞞 ⇒【延喜式内社赤丸浅井神社】に祭られる神々と【後醍醐天皇第八皇子宗良親王】!!

2021-04-15 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

■『越中の平安時代の藤原氏の庄園』


■『後白河上皇の庄園と成った越中吉岡庄』の記載
⇒【兵範記】(※以下は、別名「人車記」と言われる近衛家陽明文庫保管の原本の陰影版)






■赤丸浅井神社由緒(部分)




■赤丸村は南北朝期迄「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室領で在った事は、国立歴史民俗博物館のデータベースを調べても判る。その中心は高岡市石堤の「長光寺」の敷地に在った「総持寺」で在ったと「高岡市史」は主張したい様である。長光寺の敷地に総持寺が在ったという事実は聞いた事が無い。一方、赤丸村では古地図に在った赤丸の「観音堂遺跡」が総持寺の旧地で、総持寺は元々、両部神道「川人山鞍馬寺」の48坊の一つとしている。総持寺の過去帳には赤丸浅井神社の別当の西宝院の法名が残り、総持寺の持宮の「熊野社」は現在赤丸浅井神社に合祀されている。(「※越中古文抄」高岡市中央図書館蔵)
「高岡市史」は、高岡市の「福田荘」こそ「天台宗妙法院領」で在り、宗良親王が越中に入られた興国三年頃は持妙院統の「北朝」の亮性法親王が座主で在ったから、天台座主もされた「南朝」の宗良親王(大覚寺統)は当然、福田荘を頼りにされたと云う。??

■以下の歌は「赤丸浅井神社」では宗良親王が「赤丸浅井城」に入られ、城ケ平の親王屋敷に入られた時の歌としているが、「高岡市史」はこれを全否定して「これは妙法院領の福田庄で歌われたもの」としている。
「李花集」宗良親王の御歌
興国三年越中国にすみ侍りし頃、羇中百首よみ侍ける歌の中に神祗を
【かそふれば七とせもへぬ頼みこしななの社のかけを離れて】

■「高岡市史」では、赤丸浅井神社に伝わる宗良親王の「七の社のかけを離れて」の御歌は実は、「福田庄」で歌われたものだとして、赤丸の浅井城の話しは「勝手に改変される伝説で史料的価値は認められない」と否定している。しかし、この時の妙法院座主は次の資料を参照すると持妙院統の北朝初代光厳天皇の時代で有り、大覚寺統で、南朝の為に越中に入られた宗良親王が敵側の福田庄を頼られたというのは信じ難い。又、その福田庄で地元民が「延喜式内社荊波神社」と唱えている事についても「高岡市史」では「式内社を称するのはいささか疑わしい」と資料も示さず根拠も無く否定している。地元で「延喜式内社荊波神社」として信仰している神社も実は「十禪師社」という神社で天台宗の比叡山七社の一つの神社と主張している。地元の福田地区では、当初は「延喜式内社荊波神社」であったが妙法院領になってから神仏混淆の「十禪師大明神」になったとし、現在は「延喜式内社荊波神社」と称して高岡市の観光コースにも入っている。しかし、これも「高岡市史」は地元民の信仰を否定して、その史実も否定しているのだ。ある人にとってはその「神」は至上のもので、信仰の自由は根拠無く否定されてはならない。否定するなら根拠資料をキチンと示して、「史実」を明らかにして、後に混乱が生じない様にするべきだろう。

■一説に、宗良親王は「佐野に入られた。」とする説がある。高岡市佐野は古くは現在の越中宮極楽寺の敷地の裏の段差部分迄が「佐野」で在ったと地元の古老は言う。(佐野台地)
とすれば、後に極楽寺が守山から現在地に動いたのは、元々、宗良親王の御所が在った地域に動いたのだろうか?

(※「歴代妙法院座主」・部分
●尊澄法親王(宗良親王) (南朝:大覚寺統) 後醍醐院皇子。母藤原為世女贈従三位為子。還俗宗良。二品〔諸門跡譜作一品〕。天台座主。護持僧。【1325年(正中2年)妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。】
🔹宗良親王が越中に入られたのは興国三年だから、北朝の光明天皇(北朝)の時代である。この時期には妙法院領福田庄も北朝の影響下に在ったものと考えられる。
●亮性法親王(1318-1363) (北朝:持明院統) 後伏見院皇子。天台座主。護持僧。
●堯仁法親王(北朝) 後光厳院皇子。母勘解由小路兼綱女仲子(崇賢門院。実石清水八幡宮祠官紀〔善法寺〕通清女。号梅町殿)。一品。天台座主。護持僧。
●堯性法親王 (北朝) 後光厳院皇子。応安4/建徳2(1371)年生。嘉慶2/元中5年正月26日(1388年3月5日)自害。
◎亮性法親王(リョウショウ)(1318年-1363年 鎌倉-南北朝時代,北朝後伏見天皇の第9皇子)は康永3年(南朝 興国5年)近江守護佐々木高氏父子が妙法院を焼き討ちして寺領券が消失した為に官符により証明を求め、天台座主慈円⇒後鳥羽上皇皇子朝仁親王⇒妙法院領として伝領し、妙法院では円実法眼の私領⇒浄仁比丘尼⇒公性僧正⇒尊教僧正(父は太政大臣西園寺公相)⇒実静僧正(西園寺公基の子)⇒亮性法親王に伝領した事の経緯を述べている。(※「妙法院文書、大日本資料6/8」)(【角川日本地名大辞典16富山県】参照)
この経緯を見ると、尊教僧正は正和3年(1314年)4月妙法院門跡及び荘園・坊舎などを西園寺実兼の子の権僧正性守に譲与した経緯が抜けているものの、この中に宗良親王の所有については出ていない。宗良親王は妙法院に入り1325年(正中2年)に妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられた。宗良親王の弟子として亮性法親王の名が見られる。

★光厳天皇(北朝1代目:1331年10月22日-1364年7月7日 (正和2年7月9日<1313年8月1日>- 正平19年7月7日<1364年8月5日>)
★光明天皇(北朝2代目):1336年9月20日(建武3年<延元元年>8月15日)- 1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日)
★崇光天皇(北朝3代目):1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日) - 1351年11月26日(観応2年<正平6年>11月7日)
★ 後光厳天皇(北朝4代目):1352年9月25日(文和元年<正平8年>8月17日) - 1371年4月9日(応安4年<建徳2年>3月23日)

興国 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年
西暦 1340年 1341年 1342年 1343年 1344年 1345年 1346年
北朝 暦応3年 暦応4年 康永元年 康永2年 康永3年 貞和元年 貞和2年
干支 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌

【参考】(妙法院の歴代住職の流れ)【出典:安藤希章著『神殿大観』】
1最澄:日本天台宗開祖。伝教大師。延暦寺浄土院に墓。
2円仁:天台宗山門派開祖。慈覚大師。比叡山に墓。
3恵亮:内供奉十禅師。西塔宝幢院検校。大楽大師
4常済:西塔院院主。
5延昌:法性寺座主。天台座主。慈念とも。
6陽生:竹林院に住す。天台座主。
7教円:天台座主。
8勝範:天台座主。定慶
10源暹
11相命
12快実
13快修:天台座主。この頃から妙法院と号したらしい。
14後白河法皇(行真)蓮花王院三十三間堂建立、越中吉岡庄を蓮花王院に寄進。
15昌雲:新日吉神社検校
16実全:天台座主。綾小路座主と呼ばれた。
17尊性法親王:守貞親王(後高倉院)の第1王子。天台座主。四天王寺別当。綾小路宮。
18尊恵
19俊円
20尊守法親王:土御門天皇の第2皇子。高橋宮。
21性恵法親王:亀山天皇の皇子。綾小路宮。
22尊教
23性守
24尊澄法親王(宗良親王):後醍醐天皇(南朝)の皇子。天台座主。井伊谷宮祭神。宗良親王墓。⇒亮性法親王の師に当たる。
25亮性法親王:後伏見天皇(北朝)の第9皇子。日厳院住職。天台座主。⇒以降は北朝の親王に受け継がれるが、数度に亘り『宗良親王』が妙法院院主に再任されたと云う。
26亮仁:後光厳天皇の第2皇子。
27尭仁法親王:後光厳天皇の第7皇子。天台座主。四天王寺別当。
28尭性法親王:後光厳天皇の皇子。
29明仁法親王:木寺宮出身。
30教覚:天台座主。
31覚胤法親王:伏見宮貞常親王の王子。日厳院住職。天台座主。
32尭尊法親王:伏見宮貞敦親王の王子。天台座主。
33常胤法親王:伏見宮邦輔親王の第5王子。天台座主。『方広寺別当』(聖護院)。妙法院宮墓地。
34尭然法親王:後陽成天皇の第6皇子。天台座主。妙法院宮墓地。
35堯性法親王 ;(北朝) 後光厳院皇子。応安4/建徳2(1371)年生。嘉慶2/元中5年正月26日(1388年3月5日)自害。 (以下省略)

🔻「門跡寺院聖護院」と「赤丸浅井神社」の関係
門跡寺院とは歴代の天皇の皇子が入寺された皇室ゆかりの寺院で在った。京都大仏で有名だった『方広寺』は、この時期には「聖護院派」に属し、聖護院別院の扱いを受けていたと云う。「赤丸浅井神社」は聖護院派(本山派山伏)で在った為に徳川家康が豊臣恩顧の宗教として弾圧し、関ヶ原の戦い後、聖護院別当は江戸に呼ばれて暗殺されたと云う。

🌸「豊臣秀吉」、「豊臣秀頼」が情熱を注いだ「方広寺」と『京都大仏』
数回の火災、震災等で倒壊したと云う。






■【「高岡市史」は高岡市福田の「荊波神社」に「式内社」としての疑議をはさみ、この「福田庄は妙法院領で在った」からだとしている。その為に「砺波市」や「福光町」の「延喜式内社荊波神社」と称する神社を取り上げてその反証を試みているが、他の神社は何れも越中石黒氏の祖先神を祀っており、「延喜式神名帳」に記載される当時の国家指定の神社としてはその要件を満たしていない。
因みに、「延喜式内社荊波神社」は富山県福光町岩木にも有り、ここは石黒氏の祖の越中利波臣の先祖の「日子刺肩別命」を祭神にしている。岩木集落の浄土真宗大谷派金色山慶誓寺が在り、神社には「荊波神社」が鎮座する。昔は近くに在った山伏石黒山寛勝寺が別当で、この神社後方の山中には福光町指定史跡の「志留志塚」(利波臣志留志の墓とされる)が在る。この別当は宝歴二年から大正八年迄の167年間、石黒氏が石動山修験道の山伏として別当を勤めたが、明治に入り修験道を真言宗か天台宗に改宗させる動きになって横浜に移住して火災で亡くなり途絶えたと云う。1653年(承応二年)「越中国式内等旧記」に「岩木富士神社 同郷(石黒郷)岩木村鎮座、称富士権現 旧社地」と有り、当初は富士権現と呼ばれたこの神社は、「1759年(宝歴九年)神社改書上帳」にはじめて寛勝寺と共に「荊波神社」として記されたと云う。大正時代に寛勝寺が無くなり、宮司が城端町北野の利波氏が宮司となり、宮内省諸陵寮が「記塚経塚」(志留志塚)を調査して「利波臣志留志」の塚と認定されると、一躍、この神社に「延喜式内社荊波神社」としての認定運動が起こったと云う。この神社も当初は「富士権現」と呼ばれたが、大正になって一躍、「延喜式内社」とされた神社で有り、この神社にも明確な資料は無い様だ。しかし、歴史に触れるなら、少なくとも何に基づいて判断したか記載すべきで、感情や推測だけで公的な歴史書を作成してはいけない。それでは私小説と何ら変わりが無い。(※「砺波地区散居村地域研究所研究紀要第18号」尾田武雄氏論考 参照)

■「高岡市史」は「赤丸浅井城」に宗良親王が入られたと言う事を否定している。
「高岡市史」は「吉岡庄」については触れていても、その歴史や「赤丸浅井神社」が「越中吉岡庄」という「後醍醐天皇の庄園」(※「日本庄園史大辞典」、「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」)の中心施設で在ったという事も調べていないらしい。






何故、赤丸浅井城に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が滞在されたのか、牧野に滞在されたのか? その何れもが赤丸浅井城城主石黒氏が地頭で在ったからに他ならない。「射水郡史」に拠れば「牧野」の地頭は(赤丸浅井城)の石黒氏の「牧野太郎二」で在ったとしている。「高岡市史」は「福田荊波神社」や「赤丸浅井神社」、「浅井城」の歴史を否定している。歴史を批判し、否定するなら詳細の調査をしてからにすべきで、特に公的な刊行物で「個人の信仰、思想、信条」に触れる場合は、「信教の自由」を尊重して、「事実を示さず個人的な意思だけで安易な否定」はすべきでは無い。場合によっては何万人もの市民の信仰の否定につながる大罪を犯す事になる。まず初歩的な間違いは「神社を検証するのにその神社の祭神すら調べていない」事だろう!】

■後醍醐天皇第八皇子宗良親王は元は天台座主もされたが、天台宗から還俗されて越中では時宗に改宗されて極楽寺を各地に創建されたと云う。赤丸城ケ平の「親王屋敷跡」の後ろには高岡市の「極楽寺由緒に記載される極楽谷」が在る。(※「越中宮極楽寺由緒」)
この様に資料も示さず、宗良親王が元天台座主だから比叡山系妙法院領の福田荘を頼ったと結論付けても良いのだろうか? ここは「高岡市史編集者和田一郎氏の独断場?」である。
「七の社のかけを離れて」とは、「比叡山(日枝山)の日枝信仰から離れて、保護から離れて」とは解釈できないだろうか? 赤丸浅井神社では「七の社」とは比叡山山王七社では無く、「後醍醐天皇が頼りにされた両部神道の山伏の信仰の神々を宗良親王は信仰されて勧請された」としている。赤丸浅井神社の神々の内容と浅井神社合祀の神社を見れば如何に多くの神社を赤丸浅井神社が御守りしていたかが判る。一方、福田庄には「七つの神社」は無い。又、赤丸浅井神社の宮司が、加賀藩の時代にも小矢部市から国吉村、立野村、福岡町迄の広範囲の神社の宮司をしていた事は「小矢部市史」や「福岡町史」にも掲載されている。「赤丸浅井神社」は「五位庄郷社」で有り、その祭神の格式を見れば、「石堤浅井神社」が「郷社」と称して単一の神を祀っていた事と比べても何れが郷社であるかも歴然としている。この実態を見れば、「石堤浅井神社」や「舞谷八幡宮」を吉田神道が必死になって赤丸浅井神社から分離するべく画策した実態も自ずから明らかになる。かくのごとき「赤丸浅井神社」を否定しようとするデマは全て徳川幕府と組んでいた「吉田神道」の影響のせいである。これ等は全て、伝統有る「皇室庄園越中吉岡庄」の歴史を知らない無知な人達が吉田神道の宣伝に惑わされてでっち上げた「ウソ」で有る。【「延喜式内社浅井神社」には「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」と言う「論社」が有る。】と高岡市は吹聴しているが、「延喜式内社浅井神社」は皇室の神「正一位 高皇産霊神」(※「文徳実録」)を祀っている「赤丸浅井神社」以外にはあり得ない。

🔻「赤丸浅井神社の七の社の伝承」は「赤丸浅井神社」が以下に示す数多くの祭神を祀っている事から来ている。
《主祭神》[八河江比売神] [高皇産霊神]

「赤丸浅井神社祝詞と赤丸の管理神社」は以下の祝詞にも記載されている。「赤丸浅井神社」ではこの長い祝詞を毎朝神前で読み上げていた記録も遺されている。



◆「赤丸浅井神社祝詞」
掛巻毛畏支比乃御社尓添弖(そえて)齋比奉利座寸奉畄。神皇産霊(かむみむすびの)大神。八幡(やはたの)大神。相(あへ)殿(どの)尓(に)座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。熊野(くまのの)大神。
八幡(やはたの)大神。天満(てま)大神。八幡(やはたの)大神。諏訪(すわの)大神等(たち)。日吉(ひよしの)大神等(たち)。愛宕(あたごの)大神。白山(しらやまの)大神。富士大神。庚能(かなへの)大神。
赤丸舞谷(まへのや)入會(いりあへ)尓座(ま)寸(す)。清水(きよみづの)大神。向野新(むかへのしん)尓座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。石名田尓座(いしなだにま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。麻生谷(あそや)尓座(ま)寸(す)。熊野(くまのの)大神。少名彦(すくなひこの)大神。諏訪(すわの)大神。八幡(やはたの)大神。西廣谷(にしひろたに)尓(に)座(ま)寸(す)。
白山(しらやまの)大神。天照(あまてらすの)大神。諏訪(すわの)大神。沢川尓座(そうごうにま)寸(す)。愛宕(あたごの)大神。東石堤尓座(ひがしいしづつみにま)寸(す)。八幡(やはたの)大神。笹川尓座(ささがわにま)寸(す)。丹生川(にふかわ)大神。熊野(くまのの)大神。高田島尓座(たかたじまにま)寸(す)。五位庄(ごいのしょうの)大神等乃(たちの)。御前乎遥尓(はるかに)拝美奉利弖。畏美々々毛白左久。敷座畄氏子等乎。守利恵美給倍止稱言竟(おえ)奉良久止白寸。
■赤丸浅井神社管理の宮
・愛宕社 祭神 軻愚突智命
赤丸村古谷五四〇二(古村)
・清水社 祭神 大巳貴命  清水山鎮座
赤丸村古谷五三六三(古村)
■赤丸浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 祭神 天照大御神
赤丸村向野新村字石名田八一八番(向野新村)
・神明社  祭神 天照大御神
赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
・八幡社 祭神 誉田別尊
赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
・熊野社 祭神 伊弉諾命
赤丸村古谷五〇三一(古村)
・天満社 祭神 菅原道真
赤丸村子吉三八七三(古村)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村縄田二五一七(川原)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山彦命
赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山媛命
赤丸村古谷五二七五(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村勝負田一四五四(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村山王四三九八(古村)
・富士社 祭神 木花咲夜比売命
赤丸村山王四五〇六(古村)
・白山社 祭神 白山媛命
赤丸村古谷四八三八(古村)
■「赤丸浅井神社由緒」





■「赤丸浅井神社」は「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園を経て「後白河上皇」の「後院領」になった「越中吉岡庄」と「赤丸浅井城」の鎮守社で有る。(※「兵範記」、「人車記」)
「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」が聖護院(総本山三井寺園城寺ー天台宗寺門派本山)に入り聖護院は門跡寺院となったが、赤丸浅井神社の別当寺の「川人山鞍馬寺」は聖護院派(本山派)の両部神道である。「聖護院増誉」は「白河法王」が熊野行幸の時に先導した為、【熊野三山検校】に補されて修験道の統轄を許され、「聖護院」を勅旨により建立した。「白河法王」の時に「越中吉岡庄」は【京都上鴨神社】の社領として寄進されている。「後白河上皇」は【三井寺】で出家し、強大になった比叡山延暦寺を牽制されたと云う。「後白河上皇」は度々熊野三山に行幸されたと言われ、「赤丸浅井神社」の奥山にも「総持寺」の持宮の「熊野社」が勧請されている。「越中吉岡庄」の「赤丸浅井神社」は【元正天皇の二宮御創建】と言われ、「一条天皇」の時には勅願所になり、「後白河上皇」の時には「蓮花王院、三十三間堂」の庄園として、後は「後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄伝領した」皇室領で在り、時の幕府とは常に対立してきたが、「足利義満」の時には義満創建の京都の「相国寺(金閣寺)」の庄園になり、以後、足利氏菩提寺の「等持寺」、「等持院」領になった。
唯一神道を唱えた「吉田神道」はこれに対して時の幕府に近づき、徳川家康の久能山での葬儀は吉田神道で行われた。その後、天海僧正により改めて日光東照宮に改葬され、「東照大権現」とされた。前田家は当初 南光坊(倶利伽羅長楽寺の住職?)と言う僧で「瑞龍寺」の地鎮祭を行ったが、改めて「まつ」の提言により吉田神道により行われたと云う。 「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」は、両部神道山伏の「赤丸浅井神社」と吉田神道「石堤浅井神社」の争いとなったが、前田家は徳川牽制の背景から、天皇家所縁で両部神道の「赤丸浅井神社」の立場を尊重した。これは前田家が菅原道真(神道)の末裔として梅鉢紋を使用した事もあったと思われ、今も尚、旧加賀藩領内には正月に菅原道真像の軸を床の間に掛けて「学業成就」を祈る習慣が続いている。赤丸浅井神社には「菅原道真」が御神体として合祀されている。


🔴【吉田神道高岡関野神社】が創作した偽の【高岡御車山祭り由緒】!!

2021-04-15 | 富山県高岡市


■「吉田神道高岡関野神社」は、「前田利長」を祭る神社として、数々の神社の簒奪を試み、元々は、「越中宮極楽寺」が祭る「後醍醐天皇王子宗良親王」の信仰を伝える「熊野社」の祭礼を簒奪した。
かつて、「高岡関野神社」は高岡市熊野町の「先宮熊野社」や「赤丸浅井神社」の末社の「石堤浅井神社」を簒奪せんとして動いたが、いずれも氏子衆の猛反発に会い、神社簒奪の試みは失敗した。
しかし、明治維新で「両部神道廃止令」が出されると、「高岡関野神社」はかつての加賀藩前田家の権威を利用して、両部神道の神社由緒を関野神社の由緒に組み込み、デタラメの「神社由緒」、「寺社由緒」を吹聴して、「数々の悪業」を重ねている。







■【高岡市史】はこの「吉田神道史観」に基づき一人の編集者が偽造した「大作」で在る。
数々の「高岡市史」の根拠は、「高岡関野神社神官関氏」が作文した「誠しやかな作り事」を根拠に書かれており、現在の「高岡市」、「高岡市教育委員会」の教育・観光のアピールの根幹になっている。
かつて、「吉田神道」が天皇の権威に反抗して徳川幕府と組み、勝手に伊勢白川神道の「神祇官」を詐称して、勝手に「神祇管領長上」等の官位を詐称して、「白川神道」に対抗した。
全国の神道研究者は、「吉田神道」が歴史を歪曲して数々の悪業を行った事は周知の事実で在る。
しかし、「偽前田教」の新興宗教に毒された「高岡市」では、「高岡市に1600年以前の歴史は無い」等と教育委員会幹部が喚くほど、「加賀藩本藩」に伝えられる歴史すら信用せずに、誠しやかな「作文」を唱え続けている。高岡市では「偽歴史書」の「高岡市史」を【信仰】しているが、根拠となる「古文書」等の資料は、高岡町人や関野神社関係の者達が唱えて作文した資料ばかりで在る。
その為に、「高岡市史」では「資料編」が存在せず、さすがに作文したものを「資料」として刊行する度胸迄は無かったものと見える。
しかし、この「吉田神道」の毒素は、現在の近代的な高岡市に於いても、密かに市民生活に浸透して、信じがたい歴史を行政、マスコミも吹聴し続けている。
「高岡市」は、正に「歴史創造都市」を標榜して、ひたすら、「フイクション」に基づき町作りを推進して、惜しみなく「町衆」を自認していた高岡市旧家や前田家恩顧の寺社に税金を投入して、その為に多額の負債を作り、財政は破綻した。近年盛んに行われている市街地再開発の補助金や寺社の改修も、国1/2,県市の補助金が1/2となっており、巨額の税金が投入される事によって財政危機をもたらしている。
問題は税金投入のみならず、投入の効果測定も公表されていない。
国の税金投入では、投入金額を遥かに上回る「効果」が無ければならず、これは「B/C」という規準で算定され、税金投入は「B/C」=1.0以上になっている。(※BENEFIT/COST)
効果の無い再開発に税金を投入するのは、正に「ドブに税金を捨てる行為」で在り、議会は厳重に監視すべきだ。
公費を使用して、「加賀藩の殿様」にでもなったかの様に、温泉で傍らに女性を侍らせてジビエ料理を堪能するだけが議会の仕事では無い。寧ろ、議会にこそ獅子身中の虫が巣くっている。
これが加賀藩の悪習慣で在る「料亭文化」だと勘違いして、「加賀藩」を標榜して税金を浪費する者達は先ず議会に辞表を提出すべきだ。

■「吉田神道」の【高岡関野神社由緒】(※貞享二年寺社由緒書上げ)


🔴🏯 🔹徳川家康の旗本となった富山県高岡市の守山城城主「神保氏張」系図 ❗❗

2021-04-15 | 富山県高岡市








■高岡市の守山城城主「神保氏張」は、能登畠山氏から神保家に養子に入り、織田信長の妹を妻として上杉謙信と戦ったが敗れて上杉謙信家中となる。その時に信長の妹とは離縁させられ、信長の妹は再婚している。その後、織田信長軍が越中に攻め込み、再び信長幕下の佐々成政に従う。信長亡き後、佐々成政と共に、木舟城の佐々平左衛門、柴野城の寺島牛介・小島甚助兄弟、牛介の甥の中山直治等と共に富山県と石川県境の西山を越えて末森城に向かい、能登末森城で戦った。しかし、末森に向かう途中で、五位庄沢川村の土豪の田畑兵衛が前田利家に内通して、道案内と称してわざと山中を引き回して末森城への参陣を遅らせた為、その間に、前田利家が応援に駆け付けて、佐々陣営は奮闘空しく撤退した。その後、前田利家の通報で、豊臣秀吉が呉羽山に押し寄せると、佐々成政は恭順の意向を示して降伏し、成政は秀吉から一端、新川郡を知行されたものの、再び九州肥後に転封される。神保氏張は佐々成政と共に肥後に移ったが、成政の検地に怒った農民の一揆に手こずり、秀吉から切腹を命じられた。その為、神保氏張は再び流浪して、徳川家康に仕官して旗本として家康に仕えた。


■この時に、寺島牛介・小島甚助兄弟は末森の戦いでの鉄砲の腕を買われて前田利家に仕官して、高岡市伏木の勝興寺の一画に屋敷を構えた。後に寺島牛介家に原家から養子に入った「寺島蔵人」は加賀藩で高岡町奉行、算用場奉行等を歴任して、藩の財政改革に貢献したが、耳障りな意見書や大きくなった蔵人の勢力を警戒した第十三代加賀藩主前田斉泰によって能登島に流罪となり、そこで生涯を終えた。現在も「寺島蔵人邸」は金沢の観光地として残されている。


■畠山氏張が養子に入った「神保家」は、系図に拠ると、先祖は秩父平氏の中村、土屋、二宮を名乗り、氏張の数代前から「神保」を名乗って「守山城城主」となっている ❗❗

■【越中の『神保氏』には系図に拠ると、能登畠山氏家臣の[平姓良文系]と[惟宗姓系]の系統が在る。
・元々の越中守山城の神保氏は、系図に因ると、上総一族の千葉一族で有数の大族であり、千葉介常胤の叔父にあたる常康が印旛郡臼井庄(千葉県佐倉市臼井)に移住して臼井と称した。上総一族の臼井常康の子の常員が「臼井庄神保郷」(船橋市神保町から八千代市)を領して神保を称した。千葉氏は平安京時代の桓武天皇の血を引き「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた。平安時代末期、千葉氏の惣領であった「千葉介」は、下総国(千葉県北部から茨城県の一部)の在庁(国府に出仕する地方官僚)としての「介」を称し、千葉庄を本拠とする地方豪族で平家に敗れた「源頼朝」を同族の「上総権介広常」と共に、挙兵から一貫して協力して「源頼朝」の信頼を得て鎌倉幕府の成立後には東北から鹿児島に至る全国各地に領地を与えられた。承久3年(1221年)の「承久の乱」で宇治川の戦いで神保氏の一族が幕府側で活躍している。(※「吾妻鏡」)⇒「神保氏張系」
・鎌倉幕府御家人、六波羅探題評定衆の大内氏に仕えた神保氏の一流は、「臼井常俊」が嘉暦3年(1328年)越中国守山庄神保に移住して神保を称したとされる。臼井常俊の7代孫の神保時綱(左近将監)の次男の「神保尹胤」は延徳元(1489)年 延徳元年(1489年)に足利義尹(足利10代将軍)に仕え、義尹は義材と改めたが、明応2年(1493年)に管領の細川政元により京都を追放されて越中に逃れた。その翌年の明応3年(1494年)9月に、足利義材は細川政元追討の為に越中で挙兵し、細川政元も新将軍足利義高(義澄)を奉じて義材討伐軍を起こした。足利義材は近江・河内の戦いで連敗し、周防・長門守護の大内義興を頼って落ちて行った。神保尹胤もこれに供奉して大内氏の重臣となった。この系統は富山城や放生津城の「神保長職」の系統とされる。この系統は九州の島津氏と同じ「惟宗姓」とされる。

■東京神田の神田神保町は、徳川家臣名簿に在る「惟宗系 神保長職」の系統の屋敷跡で在る ❗】

■守山城の「神保氏張」の系統は、先祖を「良文系平家」として、中村、土屋、二宮、神保と改姓しており、この一族は「守山城」に入城した時に「神保」を名乗った様だ。
・桓武平氏の「千葉氏」は、「千葉宗家」「千葉六党」「良文流」「千葉一族」等の大族で、「神保氏張」が養子に入った神保氏の「良文流」でも、平良文の末裔、三浦党、三浦惣領家、岡崎氏、和田氏、蘆名氏、正木氏、秩父党、秩父氏、河越氏、畠山・小山田氏、江戸氏、渋谷氏、鎌倉党、鎌倉氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏、中村党、中村氏、土肥氏、小早川氏、土屋氏、二宮氏、平良文の兄・平国香の子孫、平良文の兄・平良兼の子孫、安達氏他の氏系統を持つ。
(※「千葉一族」http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/index.htm 参照)

■(※「改選諸家系図」徳川家臣系図)







🔘 三人の刀工「国光」と越中刀工「郷義弘」⇒徳川美術館所蔵「名物五月雨郷 ・・ 無名 郷義弘作 」と宇多刀工!!

2021-04-15 | 富山県


■2017.7.7~8.20の間、富山県水墨美術館で「尾張徳川家」と銘打って「徳川美術館展」が開催された。「徳川美術館」は曾て現役の時に勤務していた会社が「徳川美術館建設」を担当しておりそのグループの一人として何回も徳川美術館を訪れた事が在る。その時に、膨大な美術品や古文書等の中には織田信長の「天下布武」の大きな朱印や黒印の印鑑がズラリと並び目を奪われた思い出が在る。正に徳川美術館は時代を超えた「バンドラの箱」で在り、何が飛び出すのか何時もハラハラして観覧した覚えが在る。
今回の目玉は何と言っても加賀藩から伝来したと記録される「郷義弘作の国重要文化財 名物 五月雨郷 サミダレゴウ」や「正宗」等の超一級品とされる徳川家所蔵の刀剣類で在った。
(※この他にも加賀藩には、別に国宝に成っている「郷義弘」が在り、之は一般的に「前田郷」と呼ばれると言う。)

■越中刀工系図



🔻しかし、「郷義弘」と近世の鑑定家が言う「郷」は「松倉郷」に住む「義弘」を指すが、江戸時代の鑑定書には「江」と記載され「江」は「大江氏」の事で、鎌倉時代の「巴御前」の一族の「中原氏」や鎌倉時代の「大江広元」の一族で、後の「毛利氏」が名乗ったとされ、現に「江義弘」と記銘された刀剣も確認している。この記銘の刀も多くは無いようだが、記録に拠ると「大江氏」が越中国の内島村(現在の高岡市内島村)を所領にしていた事が角川日本地名大辞典に記載されている。
【wikipedia;大江 広元(旧字体:廣元)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。】  👇大江氏は今上天皇の直系祖先に当たると言う。





「毛利家文書」【貞和五年八月(1349年)】に記録に拠れば、「越中国内島村」は鎌倉時代に「毛利家家臣」の「長井道可」から嫡子「貞頼」に譲られ、「次女 ねす御前」に譲られている。(「萩藩閥閲」)➡(「角川日本地名大辞典」)














■越中の名刀として諸大名が欲しがった「郷義弘作」の刀は、作刀の時に殆ど銘を刻まなかった事から「郷とお化けは見た事が無い」と云われ、残存する「郷義弘」は全て刀剣鑑定家本阿弥の鑑定に依るもので専門家の中でも在銘の現物を見た人は居ないと云われる。近年、入手した江戸初期の鑑定家の所持した「刀剣鑑定書」には「越中刀工宇多派」の系図や押し型と併せて「郷義弘の押し型」が載っている。

この鑑定家のレベルは知り得ないが、江戸期を通じて一族で四代の鑑定家が居た様だ。
この鑑定書に掲載の「郷義弘」の押し型は今日拝見した徳川美術館所蔵の刀剣とは随分違う様に感じた。徳川家所蔵の物は無銘乍らスッキリと明るい地肌で在り、永年の刀剣管理の為に研ぎあげられている様だ。

■「郷義弘」は相模、又は鎌倉刀工の「新藤五国光の弟子 正宗」の弟子十哲の一人とされ、或いは系図では越中富山の呉羽山の麓の呉服郷(富山市五福)に工房を構えた佐伯則重の弟子ともされている。「則重」は近年、新藤五国光の弟子で正宗の兄弟子だったともされていると言う。本日の美術展には「正宗」や「則重」も展示される等、刀剣愛好家には垂涎の的の御宝ばかりだったが、これ等の刀工系図に付いては専門家にも異論が在り、「相州伝」・「鎌倉伝導」とされる「則重」や「義弘」にも「大和伝」や「城州(山城)伝」の景色が見られると鑑定されており、真の弟子系統には異論が在る様だ。

■「三人の刀工国光」の様々な意見
「国光」には前出の「新藤五国光」①、京都(山城国)「來国光」②、越中国吉岡庄(赤丸村領)三日市に大和国宇陀郡から移住した「宇多国光」③がおり、偶々、「則重」や「義弘」が「大和伝」、「城州伝」の特徴も見られると鑑定される事から、本来は「則重」・「義弘」との関係からこの「国光」は「新藤五国光」の事に成るのだが、鑑定家の中には「來国光」としたり「宇多国光」と記載されたりしているケースも在る様だ。
時代的には何れも鎌倉から室町時代の「古刀」と云われる時代で在る事から、銘の無い物は特に後から銘を打ち込んだり、鑑定で「鞘書き」と言って「鞘」に刀工銘を墨書して流通させていた為に中々、真贋を見分けるのは中々に難しい。近年は刀剣鑑定の団体が鑑定書を発行して流通しているが、中には鑑定書だけの売買も在る様で、刀装をしたものでは刀の現物を見ないと偽物に鑑定書が付けられているケースも在る。又、「古刀」は元々、長尺のものだったが、戦が地上戦から馬上戦に変わって来ると、「摺り上げ」と言って刀剣の束の部分を削って短くする様になった為に、束の部分に在った「銘」が消えてしまう。その為に古刀には銘の無い物は多くなる。又、昔は御客からの注文で作刀する時には「銘」を入れなかったとも云われ、在銘の刀剣を元々の長さで拝見する事は中々に難しい様だ。又、「刀身」自体が永年維持の為に繰返し研きあげられた為に表の鋼鉄部分が磨り減って芯の部分が露出して来ると言う。
専門的な「波紋」や刀身の柾目、木目紋等の奥深い部分を極めて、「刀剣観賞」を行う事は中々難しいらしい。又、維持する為には相当の維持費が掛かり、文化財でも在る刀剣を伝承するのは中々に難しい様だ。予算の無い博物館等では刀剣の寄附が有っても断る所も出ていると聞く。これからは専門的に刀剣を維持保存する「刀剣博物館」は必要で在り、最近、富山市内に開館した「森記念秋水美術館」は正に時宜を得た施設だ。この刀剣美術館には越中吉岡庄に栄えた「宇多刀工」の刀剣も収集している事から、「観光施設」としても公的な助成が在っても良いのでは無いか? 越中には著名な「宇多刀工」や「郷義弘」、「佐伯則重」等の有名な刀工が栄えた事から、寧ろ、この様な施設は富山県や高岡市等が設置すべき施設だろう。
特に「前田家の文化を引き継ぐと自負する高岡市」なら、観光誘致の為にも開設すべき施設だろう ❗

■「越中吉岡庄」(高岡市福岡町赤丸)に栄えた「宇多刀工」










🔷🏯室町幕府政所執事「伊勢氏」と政所代「越中蜷川氏」の繁栄と砺波郡、射水郡、新川郡の統治。

2021-04-15 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●足利一族の『越中蜷川氏』と伊勢平氏「伊勢氏」の室町幕府での繁栄 ⇒ 「蜷川氏」は室町幕府三代将軍足利義満の母の「月海夫人」を輩出し、名門の伊勢平氏「伊勢氏」とも縁組して室町幕府の要職「政所代」を歴任している。蜷川氏は越中の「砺波郡」、「射水郡」を統治した。(※「蜷川の郷土史」には越中二郡を統治したとされ、それを新川郡と砺波郡」としているが、実際に「蜷川家文書」(※東京大学資料編纂所)には「射水郡」の統治資料が多く残り、蜷川氏が統治したのは近代の「射水郡」と「新川郡」、「砺波郡」だったと思われる。室町時代には「五位庄」が国吉郷から南砺市福野の野尻郷迄の砺波郡の大半を含んでいたが、この「五位庄」は「足利義満」が室の業子の追善供養の為に「相国寺」(※金閣寺)に寄進した庄園で在った。


























■伊勢平氏の「伊勢氏」は、源氏の棟梁足利氏の歴代将軍の養育係を勤め、「政所執事」を歴任した。その縁者の「蜷川氏 」は「政所代」を勤め、この二氏は室町幕府の要職を歴任している。応仁の乱が起こった頃、「伊勢貞親」は「足利義政」(※慈照院殿・銀閣寺を創建)の養育係、政所執事として活躍して、その子「伊勢貞国の室」には「蜷川新右衛門の妹」が嫁いでいる。蜷川氏は旧の富山藩域に相当する「太田保」を領し、その中の「蜷川郷」に『蜷川館』を築いていた。この場所は富山インターチェンジの南方に在る蜷川氏菩提寺の「最勝寺」の一帯だったと云う。
「蜷川新右衛門」は 、幕府の要職を勤める傍ら、「宗祇」の高弟として連歌に通じ多くの歌を残し、退任後には臨済宗の高僧の「一休宗純」との親交を深めたと言う。
「越中五位庄」は、南北朝の合一が成った後、「室町幕府三代将軍足利義満」の時に、義満の室の追膳料として義満が創建した「相国寺」(※金閣寺)に寄進され、引続きその後も足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園として続いた。蜷川新右衛門と親交が在った連歌の師の「宗祇」は、この時に五位庄に滞在して歌を残している。連歌の宗祇を慕った五位庄の地元民はその後も「宗祇塚」を作り、現在も尚、「舞句」と言う名前でその文化を伝えている。



■徳川時代の文政五年に発行された「足利武鑑」には、諸大名として、「越中守護 斯波高経」や、「高師直」、「畠山基国」、「越前 桃井」、「駿河 今川」、「播磨 赤松」、「肥後 菊池武光」、「薩摩 島津」、「加賀 富樫介高家」 等の諸将が記載され、 管領には「畠山持国」、「畠山政長」等、「奉行」、「神社家奉行」、「評定衆」、「四職」、「御相伴衆」、「御供衆」、「御番衆」等が列記されている。

(※「伊勢平氏」からは「北条」、「熊谷」、「織田」等が出ている。)

【室町時代の越中国】越中守護畠山持国の「赤丸城」と室町幕府御粮所「越中五位庄」に在る「西光寺」!!

2021-04-15 | 富山県高岡市福岡町
■【室町時代の越中国】
越中利波郡の西部に在った室町幕府御料所【越中五位庄】。
五位庄赤丸村の「赤丸城」には、「越中守護畠山持国」の名前が在る。
(※大阪府羽曳野市資料叢書「畠山文書」)


●「五位庄石堤村」の『西光寺縁起』に見られる藤原氏の「越中井口氏」と「足利幕府将軍足利義材」の越中中郡放生津での滞在記録。(※「足利末世記」、「畠山家記」)





[赤丸村隣地の高岡市石堤に在る「西光寺縁起」に、井口氏と越中吉岡庄地域との関わりを示す痕跡が見受けられる。「西光寺」は赤丸浅井神社の至近距離に在る。]

◎「西光寺縁起」
応安元年了順の開基にして初め天台宗なりしが明応年中真宗に帰し今は本派に属す。廣谷山と号し西光寺の名を綽如上人より賜る。了順の俗姓は鎮守府将軍藤原秀郷五世の孫光義 康平七年三月越中守源義家に従ひて當國に下り礪波郡井口郷に住し井口三郎光義と稱す 光義五世の孫光成は俵藤太(※「藤原秀郷」:田原に住み、大ムカデ退治の武勇伝が在る。)を縁り養藤蔵人と號す 光成九世の孫光高後に蔵人成綱と改め井口城に據る  元弘二年名越時兼に攻められ戦死す 年三十九 嫡子倉之助逃れて隠處を求め礪波郡山川村 石堤村山川村也 の開祖となる 倉之助の無常を悟り剃髪染衣して応安元年天台宗に帰依し法名を了順と改め草庵を結びて出家す。 大骨、四辻 山川地内、と轉遷して後ち廣谷 石堤村西廣谷瑞京寺干場 に一宇を建立せり。亨徳二年麻生谷 石堤村麻生谷現境内 へ移転したり、明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材 義植と改 再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 了秀の世延寶八歳秋十五日、十日市九郎兵衛の寄進せる鉅鐘成る 工人加州金澤住人河江長兵衛作 元禄十三年六月八日堂宇類焼に際し鉅鐘敗れたり 了淳元禄十五年に堂宇 今の本堂 再建せり 了照 現住 明治四十五年庫裏を改築せり
一説 鎮守府将軍藤原利仁の後裔井口三郎ともあり
累世左の如く養藤の姓を冒し檀家三百有餘あり
定紋 圓に三俵は秀郷百足退治の功により龍宮より賜はりたる大豆栗米(永世祿)の三俵に縁りて票示せりと傳ふ
 以下省略  (※「石堤村史」参照)

【※「応安年間」は南北朝時代の元号の一つで北朝方にて使用された。1368年から1374年迄。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。足利義満により越中吉岡庄は京都の相国寺(金閣寺)に寄進されている。西光寺は当初、南朝側として戦ったが、足利氏が支配するに及び北朝側になったと云う。足利義満が将軍となり越中国を管領畠山満家に委ねた時に、越中国は八郡に改編され、「越中国利波郡五位庄赤丸城」には満家の子供の畠山持国が越中守護として在城した。➡常時は羽曳野市に在住。】










📙📃 富山県高岡市立野周辺(※五位庄)の【東大寺庄園杵名蛭庄】と 聖武天皇の勅願社【五位庄神社】!!

2021-04-15 | 富山県高岡市
●「延喜式内社福田荊波神社」と【東大寺庄園杵名蛭庄】⇒高岡市立野周辺の東大寺庄園と多くの神社の立地 !!










高岡市校外の能越道高岡インター近くの福田地区に「荊波神社」と書いて「ウバラジンジャ」と呼ぶ「延喜式内社」が在り、富山県には同名の神社が他にも数社在る。福田の神社は神社庁の資料に拠ると、二上射水神社と同じ「ニニギノミコト」を祭神としている。しかし、砺波他の同名の神社はその祭神は「利波臣志留志」の先祖とされる『彦刺方別命』を祭神としている。云う迄も無く、延喜式内社は「延喜式神名帳」に記された国家の神々で有り、天皇でも「神代」の人物が「祭神」となっており、福田以外の神社は「延喜式内社」としての性格から外れている。
(※「福田神社」と言う神社はどういう訳か、隣地の立野地区に在る。)
「東大寺庄園杵名蛭庄」の図面を検証すると、この『庄園の隣地』には「荊原里」が記載されている。この読み方は正に「ウバラ」である。又、「石黒上里」、「石黒中里」の表示も有り、「速川」の表示もある。現在、立野周辺を流れる「祖父川」は古い図面では「ソフ川」と記載されており、祖父川の下流の高岡市には「早川」地域もある。
※(「速川」⇒「ソフ川」⇒「祖父川」⇒「早川」)
古地図に在るこの地域の他の河川も現在の河川と良く似た位置に在り、この庄園は、高岡市立野周辺に在った庄園と推定できる。高岡市高田島地区の【五位庄神社】は「聖武天皇勅願社」とされており、東大寺大仏の発願をされた聖武天皇が関係している。(※「富山県神社誌」)

■高岡市のインター周辺の池田地区を開発した高岡市細池の「池田家」には、その領内に在ったと言う「イバラの宮」の旧地の写真と、「徳明」と彫られた仏像の板後背が保管されている。この板後背は、明らかに「地蔵菩薩」のものであるが、仏像本体は何処へ移されたかは不明と云う。福田の「荊波神社」は「ウハラノヤブナミ」とフリガナのある古い神名帳も有り、「ウハラ」地区の「ヤブナミ」神社と解説しているものも在る。又、この神社は、「福田庄」が「後白河上皇」や「後醍醐天皇皇子宗良親王」とも関係が深い「妙法院領」になった時に、比叡山に祭られている「十禅師社」が祭られていたと云い、この神社は「両部神道」では本地仏を「地蔵菩薩」としている。池田家は源平の昔から続く旧家と推定(※「治承・寿永の内乱論序説」朝香年木)されており、その領地は氷見の池田地区から小矢部市迄の広範囲の地域に展開していたと推定されており、この池田家には高岡市総持寺の「胎内仏」が祀られている。この古い氏族が、「イバラの宮」を自らの庄園の中に祀っており、その祭神(※地蔵菩薩)は「何れかに移された」と云い、反面、福田の「荊原神社」は何処から移転して来たとしており、「旧地は分からない」とされている事から、この神社が池田家の「イバラの宮」と推定される。高岡市池田地区の隣接地区の「東石堤」には、池田家に保管されている「イバラの宮」の旧地の写真と良く似た「野イバラが繁茂した小さい森」と「八幡宮」が在り、この敷地が「イバラの宮」⇒「荊波神社」の旧地と推定される。

■東大寺の大仏造営の時に「宇佐八幡宮」が同意した事に感謝した「聖武天皇」が、東大寺大仏の守護神として、東大寺に「宇佐八幡宮」を勘請された事から、東大寺庄園と八幡宮は非常に密接で在ったと見ている。県内の東大寺庄園跡には八幡宮や、仏教の「法輪」を神社の建物に付けた「十二町町島神明宮」や「宮川神社」等が在り、元々の由緒が窺い知られる神社もある。

※高岡市渡地区の「五位橋」の近くの堤防下には、「義経記」に登場する「二位の渡し」の後継とされる『五位の渡し』に在った「地蔵堂」が在る。

🔴【義経記】「越中吉岡庄」の「二宮(二位の宮)」伝承と【二位の渡し】での弁慶の打擲シーン!!

2021-04-15 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




🔽「後白河上皇」の庄園【越中吉岡庄】!!




●「延喜式内社赤丸浅井神社」に伝わる【阿光渕】(吾子渕)の由来!!
➡赤丸村に遺る「阿古下一族」と【二宮伝承】









■「阿古ケ淵」(「阿古=我が子=吾子」)は「元正天皇二宮創建の、又は住まいした赤丸浅井神社の前の大きな淵」を意味したものと考えられる。赤丸浅井神社の神域には神官の人家と石川家の古い墓だけが今も残されている。近くには「親王塚」と伝わる遺跡も残されている。「阿古ケ淵」は小矢部川、庄川が合流し、流域の東大寺荘園の米が神域の前を通過する地点であり、東大寺を建立した聖武天皇の弟ゆかりの宮「赤丸浅井神社」は特別な神社で有ったものと考えられる。(✳「阿古ケ淵」は「悪王ケ淵」とも呼ばれ龍神伝説にも繋がった様だ。)「赤丸浅井神社」に伝わる所では神社前では身分に関わらず必ず「下馬」して拝礼して通過したものだと云う。この「延喜式内社 五位庄53村総社赤丸浅井神社」は、東大寺大仏造営の際に米5000石(セキ)を寄進した「利波臣志留志」の末裔の石黒氏が居城とした「赤丸浅井城」の鎮守社で有り、「赤丸浅井城にはその昔、元正天皇の皇子が居城された」と富山県の「肯構泉達録」という古書にも記載されている。「元正天皇」は女帝で在り、実際には「文武天皇」の第二子の「石川朝臣広成」にとっては叔母に当たる。「文武天皇」は子供が幼い時に亡くなられた為、一時期はその母親の「元明天皇」が即位されていたが、その次には「文武天皇」の姉の「元正天皇」が即位して、幼い「首皇子(後の聖武天皇)」と「石川朝臣広成」の親代わりになった。当時は天皇に即位する年齢が30歳前後と遅かったらしい。
(※「続日本紀」)

🔽「続日本紀」には「聖武天皇」即位の時の「元正天皇」の「詔」が記載されており、その中で「聖武天皇」の事を「吾子」(我が子の・・・)と読まれている。




■「元正天皇の二宮」とは? 
 ➡【文武天皇の二宮の事】「赤丸村の二位の渡し」
【義経記】では、「五位庄二位の渡しより舟に乗らんとして関守の疑念を晴らす為に弁慶は主人の義経を扇子で打擲した」として記載され、このシーンが「勧進帳」の「安宅の関」の場面に取り入れられている。
(※実際の「義経記」では、「富樫館」に出向いた弁慶が東大寺大仏復興の為と称して「勧進帳」を読み上げるが、義経を打擲するシーンは無い。)







鎌倉時代初期のこの時期は、「後白河上皇の庄園の越中吉岡庄」に在った「赤丸浅井城」(守護の館が近ければ・・・として記載される。)の前のこの渡し場が登場する。又、鎌倉幕府の正史ともされる「吾妻鏡」には、「源頼朝」が「義経」の探索の為に「吉岡庄」に配置した「地頭の成佐」が不法を働いたとして「後白河上皇」は頼朝に対して勅書を下して成佐の交替を命じた事が記載されている。




■【元正天皇】は、「聖武天皇」が即位される時の「宣命」で、「聖武天皇」を【吾子美麻斯王】(※我が子の美麻斯王)と呼ばれている。
(※「続日本紀 巻九」)




🔽「延喜式内社赤丸浅井神社」の前にかつて拡がっていた「小矢部川」と「庄川」の合流点は【吾子渕】(※「阿古ヶ渕」、「悪王ケ渕」、「阿光ケ渕」)









■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「元正天皇の養老年間に二宮が中興された」と社伝に記載される。この人物は、「系図」では、「文武天皇」の皇子で、「元正天皇」は「文武天皇」の姉で在ったが、「聖武天皇」と腹違いの弟の「石川朝臣広成」が若年の時に「文武天皇」が崩御された為に、当初は祖母の「元明天皇」が即位されて親代わりに成られたが、次いで叔母に当たる「元正天皇」が即位されて親代わりを務められた。「元正天皇」は、「聖武天皇」が即位された時の「宣命」の中で「吾子アコ 美麻斯王ミマシオウ」と「聖武天皇」の事を呼ばれている。
古代には、「延喜式内社赤丸浅井神社」の前で「小矢部川」と「庄川」が合流しており、その水郷は「阿光渕アコガフチ」と呼ばれた。この名前は、「元正天皇」が宣命の中で呼ばれた「吾子 アコ」に由来する。とすると、この水郷の名前は「ニ宮」の「石川朝臣広成」に由来したと見られる。「赤丸浅井神社」の前には、現在も「阿古下 アコシタ」という一族が住まいしている。この一族は、「赤丸浅井神社」の「奥宮」の玉垣を寄進する等、「赤丸浅井神社」とは密接な一族で在ったと見られる。又、神社の門前には「神代 ジンダイ」と呼ぶ一族が住まいしているが、これは神社の田圃を管理していた一族で在ったと神社に伝わる。