赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🏯 越中西部の名勝地⇒ 《藤原摂関家九条道家庄園》【小矢部市 宮島峡】と 【連如】の「土山御坊」、「光久寺」!!

2021-04-20 | 富山県小矢部市



■富山県高岡市福岡町赤丸村の周辺には浄土真宗「連如」ゆかりの「土山御坊跡」(*福光町)や素晴らしい庭園の「光久寺」(*氷見市)が在り、又、富山県の名勝地「宮島峡」(*小矢部市)等の史跡や名勝地が在る。

「土山御坊」は「連如」が白山麓で浄土真宗を布教する為に建立した深い山中にししあるお寺の跡。


「光久寺」は「連如」が氷見市周辺の布教に使ったお寺で、古い庭園が有名。近くには江戸時代の剣豪「斉藤弥九郎」の出生地がある。


「宮島峡」は小矢部川の支流の上流にあり、近くには加賀藩前田家の墓所もある。


一帯には古墳が散在し、古代から文化が栄えた。越中は「大伴家持」が国司をしており、周辺には「太平記」にも記載されている「五位庄」(前身は皇室庄園「吉岡庄」)があり、南北朝時代の史跡も点在する。「後白河上皇」・「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」、奈良の公家や豪族、奈良の東大寺の荘園等もあり、古くからの米の産地、集積地だった様だ。福光町は富山県西部の古代豪族「利波臣」の発祥地と云われ、小矢部市には著名な「倶利伽羅古戦場」が有り、次いで「義経記」にも登場する「五位庄」、国吉村の「東大寺庄園須加庄」、氷見から日本海沿岸一帯は「東福寺庄園」が広がり、古代から越中の政治、文化の中心地で在った。小矢部川下流の「越中の国府」から「五位庄」の赤丸村地内「小矢部市」「福光町」古代道の「駅」で繋がる米の交易の一大ルートだった。小矢部川には米俵を積んだ船が行き交い、越中国司「大伴家持」は、
「朝床に聞けばはるけし射水川 朝漕ぎしつつ唄う船人」とその様子を詠んでいる。






「吉岡庄」(赤丸村)に在った「川人山鞍馬寺」は京都の鞍馬寺が勘請されたものと伝わり、その本尊の阿弥陀如来立像は各所を流転して、現在は井波町の名刹「瑞泉寺」の客仏として宝蔵に祀られている。

■小矢部市の「宮島保」は鎌倉時代の「吾妻鏡」に、摂家将軍「藤原頼経」の父の「藤原道家」の庄園として登場している。
〇東福寺を創建した「九条道家」の越中の庄園「宮島保」についての「吾妻鏡」の記載。
〇[越中の東福寺庄園の事]→ 越中國東條。河口。曾祢。八代保。 東福寺庄園は門徒の氷見の八代氏が地頭となり管理した。氷見阿尾城の菊池氏も八代氏の同族らしく、東福寺の檀家であった。
(※「戦国・氷見」氷見市)







【吾妻鏡】
「延應元年(1239)七月大廿五日壬辰。越中國東條。河口。曾祢。八代等保事。爲請所。以京定米百斛。可備進之旨。地頭等去年十一月献連署状於禪定殿下〔道家〕。仍可停止國使入部并勅院事以下國役之由。同十二月國司加廳宣。就之。去正月任國司廳宣。地頭等寄進状。爲東福寺領。停止并勅院事國役等。爲地頭請所。可令備進年貢百石。兼又當國宮嶋保雖爲當家領。被糺返國領之由。被下禪定殿下政所御下文。是爲寄附彼寺。所被相傳也。仍被申其趣於將軍家之間。可存其旨之由。今日被奉御返事云々。」

【7月25日 壬辰
越中の国東條・河口・曽祢・八代等の保の事、請所として、京定米百斛を以て備進すべきの旨、地頭等去年十一月連署状を禅定殿下(藤原道家)に献る。仍って国使の入部並びに勅院の事以下の国役を停止すべきの由、同十二月国司の廰宣に加う。これに就いて去る正月国司の廰宣・地頭等の寄進状に任せ、東福寺領として勅院の事以下の国役等を停止し、地頭の請所として年貢百石を備進せしむべし。兼ねてまた当国宮嶋保は当家領と雖も、国領に糺返せらるるの由、禅定殿下政所の御下文を下さる。これ彼の寺に寄付せんが為相伝せらるる所なり。仍ってその趣を将軍家に申さるるの間、その旨を存ずべきの由、今日御返事を奉らると。】

⇒【解説】( 越中國の東條保。河口保。曾祢保。八代等保 は藤原道家が寄進し東福寺領と成り、小矢部市の宮嶋保は国庫に返還された。 東條・河口・曽祢・八代等の保は 米100石で地頭が管理する事で地頭が連名で藤原道家に請状を提出した。)

●九条道家の子の九条(藤原)頼経(九条頼経)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍で藤原摂関家から迎えられた摂家将軍。両親ともに源頼朝の同母妹「坊門姫」の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係で妻は源頼家の娘竹御所。竹御所は難産の末、母子共に亡くなり源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された。(宮騒動)
この時に源義経の弟の範頼を育てた熱田神宮神官は追放される頼経を送り届ける役であったと云う。






🌸🌸「源平盛衰記」の倶利伽羅山の戦いの戦場「地獄谷」を望む「佐々成政」の古城跡の「源氏ケ峯城跡」!!

2021-04-20 | 富山県小矢部市
■源氏ケ峯の尾根はハイキングコースに成っている。







■倶利伽羅山は毎年、春になると「八重桜祭り」が行われる。倶利伽羅不動寺に拠れば、この桜は高木さんと云う夫婦が曾て、二人で4千数百本を植えたが現在は三千数百本に減っている。砺波山全山の道沿いに植えられ、全山をピンクに染めている。
「源氏ケ峯城」の展望台から地獄谷を望むと、鮮やかな周辺の桜や緑が巨大な霊場に捧げられた花々の様に見える。
倶利伽羅不動寺の「八の日」と呼ばれる縁日で、八重桜と同じ「赤い餅」が不動尊の前庭で信徒が搗いて不動尊に捧げられる。





■源氏ケ峯から「源平盛衰記」で平家の将兵が転がり落ちて行った「地獄谷」を望む。













🐎🐎 『寿永の乱』の史跡【倶利伽羅古戦場】 ⇒「源平盛衰記」と「砺波山」の戦い!!

2021-04-20 | 富山県小矢部市


■【木曾義仲は倶利伽羅谷の戦いに臨んで源氏の祖先の八幡太郎義家が信仰した埴生護国八幡宮に戦勝祈願の願文を納めた。この一帯は、かつて、越中守を勤めた「源義家」が開発し、近くには「福岡町向田」が在る。源氏累代の家臣と見られる向田氏もこの倶利伽羅谷の戦いに木曾義仲軍として参戦していた。】(※「福岡町史」)















■【源平古戦場地図】




(※「砺波山古戦場誌」埴生小学校校長平野良作 著)



■「喜多川歌麿作」の浮世絵には木曽義仲軍の「石黒光弘」の姿が記載される。


●木曽義仲軍に取り囲まれた平家軍の陣営を見ると、「火牛の計」を用いられなくても平家が慌てた事は理解できる。狭い間道に500頭もの牛を走らせると言う戦略は実際には不可能だ。義仲軍は地元に精通した「石黒」、「樋口」、「林」、「富樫」、「宮崎」、「向田」、「高楯」、「蟹谷」等が中心で在り、この布陣を見ると、平家軍は逃れられない袋小路に自ら入り込んでいた事が判る。この布陣では平家軍が逃げる場所は背後の地獄谷しか無かった。そこは獣も通れない険しい谷であり、この谷は平家の遺骸で埋まり、谷川は朱に染まったと云う。現在は戦場で散った武将達を弔うかの様に『純白のこぶしの花』が谷のあちこちに咲いている。この花は辺りに芳しい薫りを振り撒いている。








📙📘 【宝永誌】 加賀藩の記録 ⇒加賀藩の奉行が遺した地誌録に残る「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」、「吉岡庄」、「五位庄」 。

2021-04-20 | 富山県小矢部市
●「宝永誌」(※砺波郡・射水郡編)


・富山県の古記録「喚起泉達録」と「肯搆泉達録」



■加賀藩の奉行の報告書「宝永誌」に加賀、能登、越中(砺波・射水編、新川編)の各編の存在が分かった。しかし、富山県内には南砺市に砺波・射水編の写ししか無く、富山県立図書館にも一部の写しが在ると言う。
「宝永誌」に拠ると、「越中吉岡庄」は宗良親王が「五位庄」と改名され、赤丸村の「川人山鞍馬寺七坊」・「赤丸浅井神社」が「三社権現」で在った事、赤丸村に「浅井城」が在り、「昔、元正天皇の皇子が在城され、その後、一向一揆の大将の下間和泉が在城した」と言う。
(※「肯搆泉達録」にも「赤丸浅井城に元正天皇の二宮が在城された」と記されている。)

ここに記載される「元正天皇二宮」とは、文武天皇の二宮で在り、母の石川刀自娘(イシカワノトジノイラツメ)が藤原不比等により廃妃されて、母と共に臣籍に降下させられた「石川朝臣広成」の事で、大伴家持と同じ舎人と成って恭仁京に赴任し、万葉集に歌を三首遺している。義兄は聖武天皇で、元正天皇は勅令を出して「天皇の子は全て親王とする」として広成の身分を保証して、後には「高円朝臣広世」と賜姓されている実在の人物だ。(※「続日本紀」)


💥🐎【越中の古戦場】 寿永二年五月「源平倶利伽羅谷の戦い」!! (※「源平盛衰紀」、「礪波山古戦場誌」平野良作著)

2021-04-19 | 富山県小矢部市


▼越中木舟城城主『石黒光弘』が描かれた浮世絵「木曽義仲軍将図」(※喜多川歌麿作)


【🔽「源平盛衰記」には、「石黒光弘」の父の赤丸浅井城城主「石黒光景(六道太郎光景)」の記載も在る。小矢部川の上流には庄川との合流地点に「赤丸浅井城」が在り、庄川を遡ると「木船城」が在り、小矢部川を下ると小矢部川河口には「六渡寺村」が在る。かつて、小矢部川と庄川の合流地点から小矢部川河口の六渡寺村迄は川幅も広かった。
「大伴家持」は、この赤丸浅井城前から六渡寺村迄の間は「射水川」(※六渡寺川)、「如意の渡し」(※六渡寺川舟下り)と呼んだが、ここの大河で《朝、船頭が歌を歌って舟を漕ぐ》様を歌にしている。
又、「木曾義仲」は軍が集結した六渡寺村から「後白河上皇の庄園」の「越中吉岡庄」を避けて迂回して、般若野を過ぎて倶利伽羅山へと向かっている。
この「如意の渡しルート」の、「赤丸浅井神社」の前に在った「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」の舟乗り場の「二位の渡し」では、後に「義経記」にも取り入れられた「弁慶の義経打擲シーン」が展開された。】

















《倶利伽羅古戦場》




■平維盛軍一万八千(総勢十万)と木曾義仲軍一万四千(総勢五万)は寿永二年五月十一日(※1183年)、越中と加賀の境に在る倶利伽羅山(礪波山)で激突した。
平家軍は平維盛(重盛の子)、平通盛(清盛の弟敦盛の子)、平行盛(重盛の弟基盛の子)、平知度(重盛の弟)、平経正(清盛の弟経盛の子)、平清房(知度の弟)を主将として、越中前司平盛俊が五月八日に先遣隊として倶利伽羅山から般若野に進むが、九日午前六時から般若野の戦いが始まり、平家は押されて倶利伽羅峠から加賀に後退。

■木曾義仲軍は五月五日、越後から越中に進み五月九日伏木古国府に入る。
義仲軍は「般若野の戦い」の後、十一日朝、本隊は般若野を発ち倶利伽羅山に進発する。支隊は能登の志雄から西山を越えて越中に進む平家軍に対応して能登の志雄路を攻める。十一日十時頃、小矢部市蓮沼村に到達した義仲は遥かに八幡宮を見て越中の住人(吉岡庄ー赤丸村鞍馬寺)池田次郎忠康の案内で埴生護国八幡宮に参拝して願文を納める。



■「寿永の内乱論序説」朝香年木著 に拠ると、小矢部市今石動は古くは「池田」と呼ばれ、この池田氏の所領で在ったとされる。又、赤丸村には池田島、氷見市に池田、高岡市インター周辺にも池田地区が在る。池田家は延喜式内社赤丸浅井神社の境内地先に館を構え、高岡市関町の総持寺等の敷地はこの池田氏の寄進に拠るものと伝えられる。古くからの有力な国人領主と見られる。
(※「長慶天皇の五位庄に於ける御事跡」川人貞良著 高岡市中央図書館蔵書 参照)

■義仲軍は樋口支隊樋口兼光、余田次郎を初め林光明、富樫泰家、宮崎太郎、向田次郎兄弟等の兵六千、根井支隊根井小弥太は蟹谷次郎他の兵二千、義仲の愛妾巴午前を初め水巻安高、安経兄弟等の兵七千、今井支隊今井兼平を初め石黒光弘、高楯光延他の兵六千、本隊源義仲を初め兵二万が倶利伽羅山に陣取った平家軍を四方から包囲して対峙した。
午後十時頃、 先ず樋口隊が太鼓、法螺貝を吹き鳴らして倶利伽羅西側より攻撃を開始して夜襲が始まる。疲れきった平家軍は鎧を脱ぎ油断していた処を攻め込まれて慌てふためいて我先に逃げようとするが、真っ暗な山中で道は狭く周辺は切り立った崖ばかり。一方、源氏側は石黒、蟹谷、向田等の越中諸将は地元の住人で在り、山道も熟知していた。一方、平家側の先遣隊越中次郎兵衛盛俊は元、吉岡庄国吉名に館を構え能登、越中を支配した平家の有力武将で在ったが(※「国吉小史」)、突然の夜襲に慌てふためいている平家軍を静める事もできずに、平家の軍兵一万八千は深い倶利伽羅谷に落ちて死骸は谷を埋め尽くしたと言う。






🔽石川県津幡町「道の駅」には「砺波山合戦」に関する様々な展示がされる。

🔴【源平盛衰記】≪「利波山の戦い」(倶利伽羅谷の戦い)≫⇒【木曽義仲の埴生八幡宮への戦勝祈願】!!

2021-04-19 | 富山県小矢部市





■「木曾義仲」は小矢部市の[埴生護国八幡宮]に源氏の戦勝を祈って願文を納めた。








■「喜多川歌麿」の版画「木曽義仲群将図」には高岡市福岡町木舟に在った「木舟城城主 石黒光弘」が載っている。(※東京都立中央図書館所蔵)


🔷🔹【蜷川家文書】『越中蜷川氏』と『斎藤利三』・『春日局』!! ⇒室町時代に室町幕府政所代「蜷川新右衛門親当」を輩出した「越中蜷川氏」の末裔達。(※「物部氏系宮道氏」)

2021-04-17 | 富山県小矢部市











■「越中蜷川氏」は越中に在っては、「新川郡」と「砺波郡」の二郡を統治したと伝わるが、「蜷川家文書」に拠れば、「射水郡」の統治に関する書類が多く残されており、室町幕府政所代として相当の権力を持ち、越中全体に影響力を持っていたと見られる。系図に拠れば、一族は大きくは越中、丹波に分かれる。越中蜷川氏は神保氏との抗争に敗れたとされる。
(※「蜷川の郷土史」)

■今昔物語に登場する『藤原利仁将軍』の末裔で「斎宮守」に成った系統は「斎藤」と名乗り、その系譜は加賀に在っては「加藤」に成ったと言う。越中石黒氏、越中井口氏、加賀林氏も「藤原利仁将軍」を先祖にすると伝える。美濃の斎藤氏もこの「藤原氏」とされる。




■「織田信長」を本能寺で襲った「明智光秀」の家臣『斎藤利三』の母は「越中蜷川氏」末裔の丹波系「蜷川親俊」の娘。妻は斎藤道三の娘。
⇒「斎藤利三」の娘は春日局「※お福」!!
『本能寺の変』(※「明智光秀の反乱」)には「斎藤利三」と共に越中蜷川氏の子孫の丹波系「蜷川貞周」、「蜷川貞房」が従軍していたと云う。斎藤利三の娘の「お福」は『徳川家康』から『徳川家光』の乳母に取り立てられ「大奥」を作り上げる等、権勢を奮った。

💠💠富山県と石川県の県境に在る「源平盛衰記」の古戦場⇒「木曽義仲」と倶利伽羅古戦場!!

2021-04-13 | 富山県小矢部市
■「源平盛衰記」に登場する「木曽義仲」と「平家」の古戦場「倶利伽羅山」(砺波山・利波山)



■「平家物語」では、「巻七 火打合戦」、「願書」、「倶利伽羅落」に記載されるが、鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」では「木曽義仲」の功績を消す為か「寿永二年」の項目がスッポリ抜かれている。



・越中の石黒、宮崎、入善等と共に、加賀林一族の林六郎、富樫等の名前が見られる。(※「平家物語」寿永二年四~五月)




■石川県津幡町の「道の駅」の敷地の近くには温泉施設、土産物売場、倶利伽羅不動寺別院が在る。富山県側の木曽義仲の本陣が在った埴生護国神社の前に在る「道の駅」には木曽義仲が願文を納めた埴生護国神社の資料等が展示されている。
高岡市の総持寺の千手観音像が伝わった『河内金剛寺』を創建した『源貞弘』は、平清盛配下として参戦したが、この地で戦死している。


































🔘🍁 「越中砺波山の源平の戦い」を記す『源平盛衰記』(※巻29「般若野軍の事」~「平家落上所々戦事」)⇒「越中石黒氏」等の越中木曽義仲軍諸将の活躍で平家は「倶利伽羅谷」の露と消えた!!

2021-04-13 | 富山県小矢部市
■北陸の源平の戦いで「木曽義仲軍」は高岡市伏木の「古国府」に入り、石川県境の「砺波山」へ「後白河上皇」の「後院領」で在った「越中吉岡庄」を大きく迂回して庄川沿いの「般若野庄」を経由し、「砺波山」へ向かって進撃した。その時に木曽義仲軍には、越中の国人「池田次郎忠康」・「石黒光弘」・「宮崎」・「向田」・「水巻」・「南保・「高楯」・「福田」・「賀茂嶋」や加賀の国人「林」・「富樫」・「下田」・「倉光」等が従軍した。




■「喜多川歌麿」の版画「木曽義仲群将図」には高岡市福岡町木舟に在った「木舟城城主 石黒光弘」が載っている。(※東京都立中央図書館所蔵)


■源平の激戦場に成った「砺波山」、「倶利伽羅谷」の戦場には名刹の「倶利伽羅不動寺」が建つ。








■【源平盛衰記】
(※江戸時代写本「巻第二十九」)












































📕📃🐎 『源頼朝の御下文』!?が残る越中・加賀の境の「倶利伽羅不動寺」 !!

2021-02-17 | 富山県小矢部市











■「義経記」によると、源義経が奥州下向の時に「礪波山の手向けの神」に詣でたと記載されているが、その「手向け神社」は現在、富山県と石川県境の倶利伽羅山山頂に建つ「倶利伽羅不動尊」(長楽寺)境内に鎮座している。倶利伽羅不動寺は「倶利伽羅紋」で有名な古刹である。この寺の創建の由緒にも赤丸浅井神社創建の由緒と同じ「元正天皇」が登場する。古くはこの寺の住職が加賀藩の崇敬を受け、高岡総持寺、富山寺等の真言宗寺院の住職を兼ねたと伝わる。この寺院は毎月8の日の御縁日が有り、山頂には古い本堂があり、倶利伽羅不動尊が祀られているが、現在は山裾の津幡町にも壮大な寺院を構えている。この寺院は有名な「源平古戦場」の中に立地し、眼下には平家が火牛に追われて谷に落ち、谷が死体で埋まったと伝わる深い谷が広がっている。この寺院には加賀藩代々の領主からの安堵状等数多くの古文書が残る。
その中に「建久七年将軍源頼朝御下文」という安堵状が残っている。この書状は倶利伽羅不動寺の前身の「長楽寺」の住職が前田家の祈願寺の時、この書状を前田家に見せて寺の復興への協力を依頼したものだと云う。

(✳「長楽寺」は明治の廃仏毀釈の時、寺宝や建物が小矢部市内の木舟城、前田家所縁の寺の「真言宗観音寺」に移設されたと云う。「観音寺」の観音堂は神仏分離で廃された倶利伽羅の長楽寺から移築されたものと云う。その後、この寺は真言宗倶利伽羅不動寺として復興して、倶利伽羅山上に山上本堂を復活させ、津幡町には近年壮大な別院も完成している。)

■建久七年は「建久七年の政変」があった年である。建久三年(1192年)3月13日後白河法皇が崩御され、関白九条(藤原)兼実は幼年の後鳥羽天皇を擁して実権を掌握し、源頼朝に征夷大将軍を宣下し、弟の慈円(※「愚管抄」著者)を天台座主として延暦寺を統制した。九条兼実は「治承・寿永の乱」で荒廃した藤原氏の寺の興福寺・東大寺を復興し、文治六年(1190年)後鳥羽天皇の元服に伴い昇子内親王(異母弟順徳帝の准母皇后・春華門院)を生んだ九条任子(宣秋門院)を入内させ、中宮となる。しかし、男子が誕生せず、兼実と対立していた土御門通親の幼女の在子(実父能円は平時子の異父弟。母の範子は後に土御門*源 通親と再婚。後鳥羽天皇の乳母)が後の順徳天皇を生む。土御門*源 通親はその為に後鳥羽帝の乳母父の立場となり、権力を持ち始める。建久六年源頼朝は娘の大姫の入内を画策するが建久8年には死去している。後白河上皇は末娘の宣陽門院を溺愛し、後院領の長講堂領(※富山県と石川県境の「石動山天平寺」も長講堂領で在った。)を継がせた。宣陽門院の生母の丹後局と宣陽門院執事別当の土御門通親が組んで所領の拡大を画策したが、摂関家の九条兼実は院近臣に反感を持ちこの動きを封じた。その為、この両者は後鳥羽院の後継を巡って対立する。文治三年(1187年)後白河上皇の後院領越中吉岡庄について源頼朝が後白河上皇に差し出した文書(※「吾妻鑑」)によるとその時に後白河上皇の院近臣を務めたのは勧修寺流の吉田経房であったが、吉田経房もこの時、兼実から昇進を見送られている。吉田経房は源頼朝が娘の大姫を入内させたがっている事を知り頼朝に接近し、頼朝はその意向を受けて長講堂の拡大を兼実に申し入れる。兼実は孤立し、建久七年(1196年)11月25日突然に関白を罷免され、慈円も天台座主を辞任し、土御門通親は兼実を流罪にせよと申し入れるが、後鳥羽天皇は其処までの罪は無いとしてお構い無しになったと云う。この政変で男子が生めなかった兼実の娘の後鳥羽天皇中宮任子は内裏から退出した。1207年に兼実が死去。1211年昇子内親王死去。任子は1212年には院号・年官・年爵を辞し、承久3年(1221年)には夫の後鳥羽上皇が承久の乱の責めを負って隠岐の島に配流となり、暦仁元年(1238年)に不遇の内に崩御した。

■「後鳥羽上皇」は隠岐に流される時に法名「金剛位理(良然)」となり、延応元年(1239年)2月20日 隠岐の島で崩御。
(※南朝三代目「長慶天皇」の法名は「金剛理(覚理)」)
《✳この年には高岡の総持寺の千手観音の胎内に「大檀那」として名前が記載されている鎌倉幕府評定衆の「藤原浄円」も亡くなっている。又、この千手観音の胎内には「後鳥羽上皇」の法名の「金剛位理」が「本願聖人」として記載されている。》
隠岐の島に流された後鳥羽上皇は「隠岐院」とも呼ばれたが、1239年5月には、「顕徳院」と諡号が贈られた。しかし、怨霊を恐れた朝廷は「徳」の字が「崇徳上皇・安徳天皇・順徳天皇」と代々に恨みを残して哀れな末路を辿った天皇と通ずる事から、後嵯峨天皇(土御門院皇子)即位の仁治3年(1242年)7月に改めて院号「後鳥羽院」が贈られた。

■この頃、歴代の天皇は平家、源氏の武家政権に翻弄され、悲惨な最期を遂げている。後の後醍醐天皇は武家の鎌倉幕府による朝廷の軽視を嫌い、後鳥羽上皇の時代の天皇の権勢を取り戻す事を目指している。建武の新政で武家政権から天皇の政治に戻ったのも束の間で、直ぐに源氏の足利幕府が開かれ、幕府に担がれた北朝は長く武家に蹂躙され続ける。明治維新は根本的に後鳥羽、後醍醐の時代の天皇新政、王政復古を目指すもので、明治に入り「南朝を正当とする決議」が国会で決議され、唯一神道を信奉する「廃仏毀釈運動」により、仏教寺院の廃絶、仏像の廃棄が行われた。しかし、「信教の自由」「政教分離」を原則とする現在の憲法下において、仏教の再興は道徳・道義の乱れた今こそ必要である。中世の越中は戦乱に明け暮れ、今は遺跡も残されていないが、地域の歴史を発掘・検証し、今こそ次世代に地域の歴史を伝承する事も必要である。

💠🔹 《 源平盛衰記》【倶利伽羅不動寺の桜見時期の記念事業】と「刀剣展覧会」 !!

2021-02-14 | 富山県小矢部市




■【源平盛衰記】で名高い越中と加賀の境に建つ「倶利伽羅古戦場」の【倶利伽羅不動尊】は古くから「身替わり不動」として全国から「厄除け」、「安全祈願」等で参詣する信者が絶えない。特に「災害」でお札が身替わりになった等として、重篤な持病の持ち主や無事に危機を脱した人達の御礼参り等や進学、就職、良縁祈願等、毎月8日、18日、28日の「八の日」の縁日には、信者の列が絶えない。
又、「倶利伽羅山」は桜の名所としても知られ、桜見のシーズンには多くの見学者を集め、この時期には「倶利伽羅不動寺」では様々な行事も行われる。

🔻2020年も様々な行事が開催。
🌸2020年の【刀剣展示会】予定。
http://www.nihontou.or.jp/





🔻過去の【刀剣展示会】

2018年「倶利伽羅不動寺開山1300年記念行事」の【刀剣展覧会】!!





■刀剣展覧会開催された!!
刀剣女子達の行列ができた。
入場料 1300円
場所 倶利伽羅不動寺の会館

■本尊【倶利伽羅不動剣】の御開帳!!
日常は奥殿に安置されて見られない倶利伽羅不動寺の本尊【倶利伽羅不動剣】が直ぐ目の前で拝観できた。
拝観料 1000円~
場所 倶利伽羅不動寺本堂へ入り、拝観希望、申込により本尊の「倶利伽羅剣」を眼前に拝観できた。

■通常は倶利伽羅山の奥の院に祭られている「空海作」と言われる「不動明王像」は津幡町の別院で御開帳された!!

🔷この刀剣展覧会では越中の刀剣も展示され、高岡市福岡町赤丸に栄えた「宇多刀工」の中では「宇多国宗」が展示された。尚、この倶利伽羅山の山並である高岡市福岡町西明寺の「高岡市福岡歴史民俗資料館」では、富山県文化財を含む「宇多刀」の展覧会が開催され、富山県の西山は「刀剣ブーム」に沸いた。
(※「宇多刀工」は高岡市福岡町赤丸を発祥として、福野町、小矢部市等の小矢部川水系や富山市太田、舟橋村等に展開した南北朝から江戸時代迄続いた。その作品は膨大で富山県文化財には多くの「宇多刀」が在る。⇒2018.10.13~2018.12.2)






🌸🍁 越中と加賀の境に在る「源平の古戦場 倶利伽羅谷」⇒「倶利伽羅不動尊」の古文書展示!!

2021-02-09 | 富山県小矢部市
🍁秋雨に煙る源平古戦場に建つ「倶利伽羅不動尊」








●小矢部市と津幡町の境界に建つ真言宗「倶利伽羅不動尊」の秋 !!
⇒津幡町重要文化財「源頼朝下文」、「前田利長文書」等が保管されている。


▼木曽義仲や越中石黒氏等が平家軍が激戦を交わした「源平利波山の戦い」では多くの源平の軍勢が亡くなった。南朝の行宮として有名な「河内国金剛寺」は「後白河上皇」が創建されたが、この寺院に「寺領」を寄進した源氏の武将「三善貞弘」はこの「倶利伽羅谷の戦い」で平清盛輩下として戦死しており、この「金剛寺」から高岡市関町の「国指定重要文化財木造千手観音座像」が「越中吉岡庄」に伝来している。

◆現在、「倶利伽羅不動尊」では古文書「頼朝下文(くだしふみ)」等が展示中です。






(※津幡町の説明文)
【1965(昭和40)年11月1日 津幡町文化財(古文書)指定
1183年(寿永2年)年の源平合戦で焼失した「長楽寺」の要請により、1196年(建久7年)10月9日の日付をもって源頼朝は遠江守重頼(とおとうみのかみしげより)にこの文書を与えて当地に派遣し、堂塔伽藍(どうとうがらん)を再建し、寺領を寄進し、将軍家の祈檮所としたといわれています。
 源氏の総領である頼朝からの寄進状は、徳川家(新田源氏)と姻戚関係になった前田家には効果があったようで、加賀藩3代藩主前田利常が不動堂、二王堂の建立を発願する際に、この下文が長楽寺を庇護する拠りどころとなったものと考えられます。書体等から見て、この下文は江戸時代のものと思われますが、荒れ果てた当時の長楽寺の再建を語る資料として貴重なものです。】


「前田利長文書」


■「倶利伽羅不動尊」二つの本尊「不動尊」!!
①本堂には「空海作」と云われる不動尊が在り、毎月の一日、第一日曜日、28日に開帳される。普段はお前立ちの不動尊が祀られている。



②「施無畏堂」には「施無畏三蔵法師作」の不動尊が祀られており、30年に一度、御開帳される。


→「倶利伽羅不動尊」は砺波市の「千光寺」、小松市の「那谷寺」の兄弟寺とされる。この寺の文化財は嘗て、津幡町や有志の歴史家が調査した事があるが、未々、未解明の史料も多いと云われる。