赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📕📃🐎 『源頼朝の御下文』が残る越中・加賀境の「倶利伽羅不動寺」 ! ?

2018-12-16 | 富山県小矢部市











■「義経記」によると、源義経が奥州下向の時に「礪波山の手向けの神」に詣でたと記載されているが、その「手向け神社」は現在、富山県と石川県境の倶利伽羅山山頂に建つ「倶利伽羅不動尊」(長楽寺)境内に鎮座している。倶利伽羅不動寺は「倶利伽羅紋」で有名な古刹である。この寺の創建の由緒にも赤丸浅井神社創建の由緒と同じ「元正天皇」が登場する。古くはこの寺の住職が加賀藩の崇敬を受け、高岡総持寺、富山寺等の真言宗寺院の住職を兼ねたと伝わる。この寺院は毎月8の日の御縁日が有り、山頂には古い本堂があり、倶利伽羅不動尊が祀られているが、現在は山裾の津幡町にも壮大な寺院を構えている。この寺院は有名な「源平古戦場」の中に立地し、眼下には平家が火牛に追われて谷に落ち、谷が死体で埋まったと伝わる深い谷が広がっている。この寺院には加賀藩代々の領主からの安堵状等数多くの古文書が残る。
その中に「建久七年将軍源頼朝御下文」という安堵状が残っている。この書状は倶利伽羅不動寺の前身の「長楽寺」の住職が前田家の祈願寺の時、この書状を前田家に見せて寺の復興への協力を依頼したものだと云う。

(✳「長楽寺」は明治の廃仏毀釈の時、寺宝や建物が小矢部市内の木舟城、前田家所縁の寺の「真言宗観音寺」に移設されたと云う。「観音寺」の観音堂は神仏分離で廃された倶利伽羅の長楽寺から移築されたものと云う。その後、この寺は真言宗倶利伽羅不動寺として復興して、倶利伽羅山上に山上本堂を復活させ、津幡町には近年壮大な別院も完成している。)

■建久七年は「建久七年の政変」があった年である。建久三年(1192年)3月13日後白河法皇が崩御され、関白九条(藤原)兼実は幼年の後鳥羽天皇を擁して実権を掌握し、源頼朝に征夷大将軍を宣下し、弟の慈円(※「愚管抄」著者)を天台座主として延暦寺を統制した。九条兼実は「治承・寿永の乱」で荒廃した藤原氏の寺の興福寺・東大寺を復興し、文治六年(1190年)後鳥羽天皇の元服に伴い昇子内親王(異母弟順徳帝の准母皇后・春華門院)を生んだ九条任子(宣秋門院)を入内させ、中宮となる。しかし、男子が誕生せず、兼実と対立していた土御門通親の幼女の在子(実父能円は平時子の異父弟。母の範子は後に土御門*源 通親と再婚。後鳥羽天皇の乳母)が後の順徳天皇を生む。土御門*源 通親はその為に後鳥羽帝の乳母父の立場となり、権力を持ち始める。建久六年源頼朝は娘の大姫の入内を画策するが建久8年には死去している。後白河上皇は末娘の宣陽門院を溺愛し、後院領の長講堂領(※富山県と石川県境の「石動山天平寺」も長講堂領で在った。)を継がせた。宣陽門院の生母の丹後局と宣陽門院執事別当の土御門通親が組んで所領の拡大を画策したが、摂関家の九条兼実は院近臣に反感を持ちこの動きを封じた。その為、この両者は後鳥羽院の後継を巡って対立する。文治三年(1187年)後白河上皇の後院領越中吉岡庄について源頼朝が後白河上皇に差し出した文書(「吾妻鑑」)によるとその時に後白河上皇の院近親を務めたのは勧修寺流の吉田経房であったが、吉田経房もこの時、兼実から昇進を見送られている。吉田経房は源頼朝が娘の大姫を入内させたがっている事を知り頼朝に接近し、頼朝はその意向を受けて長講堂の拡大を兼実に申し入れる。兼実は孤立し、建久七年(1196年)11月25日突然に関白を罷免され、慈円も天台座主を辞任し、土御門通親は兼実を流罪にせよと申し入れるが、後鳥羽天皇は其処までの罪は無いとしてお構い無しになったと云う。この政変で男子が生めなかった兼実の娘の後鳥羽天皇中宮任子は内裏から退出した。1207年に兼実が死去。1211年昇子内親王死去。任子は1212年には院号・年官・年爵を辞し、承久3年(1221年)には夫の後鳥羽上皇が承久の乱の責めを負って隠岐の島に配流となり、暦仁元年(1238年)に不遇の内に崩御した。

■「後鳥羽上皇」は隠岐に流される時に法名「金剛理良然」となり、延応元年(1239年)2月20日 隠岐の島で崩御。(※「長慶天皇」の法名は「金剛位理覚理」)
《✳この年には高岡の総持寺の千手観音の胎内に「大旦那」として名前が記載されている鎌倉幕府評定衆の「藤原浄円」も亡くなっている。又、この千手観音の胎内には後鳥羽上皇の法名の「金剛位理」が「本願聖人」として記載されている。》
隠岐の島に流された後鳥羽上皇は「隠岐院」とも呼ばれたが、1239年5月には、「顕徳院」と諡号が贈られた。しかし、怨霊を恐れた朝廷は「徳」の字が「崇徳上皇・安徳天皇・順徳天皇」と代々に恨みを残して哀れな末路を辿った天皇と通ずる事から、後嵯峨天皇(土御門院皇子)即位の仁治3年(1242年)7月に改めて院号「後鳥羽院」が贈られた。

■この頃、歴代の天皇は平家、源氏の武家政権に翻弄され、悲惨な最期を遂げている。後の後醍醐天皇は武家の鎌倉幕府による朝廷の軽視を嫌い、後鳥羽上皇の時代の天皇の権勢を取り戻す事を目指している。建武の新政で武家政権から天皇の政治に戻ったのも束の間で、直ぐに源氏の足利幕府が開かれ、幕府に担がれた北朝は長く武家に蹂躙され続ける。明治維新は根本的に後鳥羽、後醍醐の時代の天皇新政、王政復古を目指すもので、明治に入り「南朝を正当とする決議」が国会で決議され、唯一神道を信奉する「廃仏毀釈運動」により、仏教寺院の廃絶、仏像の廃棄が行われた。しかし、「信教の自由」「政教分離」を原則とする現在の憲法下において、仏教の再興は道徳・道義の乱れた今こそ必要である。中世の越中は戦乱に明け暮れ、今は遺跡も残されていないが、地域の歴史を発掘・検証し、今こそ次世代に地域の歴史を伝承する事も必要である。

➕ 富山県小矢部市の古代史跡→【古代の鎧】が発掘された谷内古墳群、若宮古墳(利波臣の時代)❗ ❗

2018-12-05 | 富山県小矢部市










■「小矢部ふるさと歴史館」には、近年、国道8号線の工事に伴って発掘された「桜谷古墳」出土の日本で最古の古代の木組構造物や、前方後円墳で知られる「若宮古墳」、古代の鎧(短甲)や鉄刀、鉄剣、各種の装飾物が発掘された「谷内古墳群」が展示されている。
どれも一級の発掘物だが、特筆すべき発掘物として、古代5~7世紀頃の古代の「鎧」が、レプリカではなく現物が発掘されて陳列されている。各地では剣や人骨は発掘されるが、この頃の「鉄製の鎧」がほぼ完全な形で発掘されて小矢部市の「ふるさと歴史館」に陳列されている事は県内でも知る人は少ない。この史跡からは鉄製の大刀や、小刀、鉄製の剣、矢じりや、剣を飾ったと見られる管等も発掘されている。この葬られた人骨は、小矢部市では時代的に「利波臣」の一族と見られている。発掘場所は何れも「源平盛衰記」で有名な「埴生護国八幡宮」の周辺である。
「大伴家持」が越中国司の頃、「利波臣志留志」は東大寺庄園の開発に当たり、自らは「米3000石と庄園100町」を大仏造営の為に寄進している。「利波臣」は「利波評」を授けられて「利波臣」を名乗ったと言い伝えられ、小矢部市ではこの古墳の主は「利波臣」の先祖と推定されている。この「埴生護国八幡宮」の周辺に大伴家持の時代の鎧を納めた古墳があるのは、大伴氏が「大和朝廷」の蝦夷鎮圧を担当する軍人であった事から、倶利伽羅山の麓を守った軍人の集団がここに駐屯していた為だろうか?
これ等の古代の発掘物は全国でも屈指の貴重な発掘物であり、一度は訪れて見る価値が高い。

◎「利波臣」
「継体天皇の時に利波評を賜り、その曾孫が斉明天皇の時に利波評督となり、その子が利波臣姓を賜った」










「古事記」

■「日子刺肩別命」
・孝霊天皇と意富夜麻登久邇阿礼比売命の子
・高志之利波臣、豊国之国前臣、五百原君、角鹿海直(敦賀)の祖とされる。
【越中の「日子刺肩別命」 を祭神とする神社。】
荊波神社 富山県砺波市池原南山601
荊波神社 富山県南砺市岩木5024
臼谷八幡宮 富山県小矢部市臼谷6967

■小矢部市周辺には初代天皇の神武天皇の父を祀る神社が集中している ❗
【富山県で神武天皇の父の鵜葺草葺不合命 を祀る神社】
長岡神社 富山県小矢部市七社84
糸岡神社 富山県小矢部市五社3080
比賣神社 富山県砺波市柳瀬2238
臼谷八幡宮 富山県小矢部市臼谷6967

■臼谷八幡宮(小矢部市臼谷6967)は、八幡宮の主宰神の「譽田別命」(※応神天皇)、「古事記」で「利波臣の祖」とされる「日子刺肩別命」 、神武天皇の父の「鵜葺草葺不合命 」の三神を祀り、徃古は「延喜式内社 荊原神社」と主張して来たと云う。




■「埴生護国八幡宮」

「埴生護国八幡宮」の祭神は「譽田別命 ホンダワケノミコト」とも呼ばれる「応神天皇」で、「八幡神」と呼ばれる。この神社は奈良時代の養老年間(元正天皇の時)に豊前国(大分県)の宇佐八幡宮を勧請したものと伝わる。天平年間、越中国司「大伴家持」はこの神社に国家安寧、五穀豊穣を祈ったと伝わり、寿永二年五月、「木曽義仲」は平家との戦の戦勝を祈願して願文を奉じている。その後も幾多の武将が戦の神の八幡神として戦勝を祈願している。



■富山県西部の「天皇の軍隊」の遺跡 ❗

富山県の西山一帯にはこの頃の横穴古墳や遺跡が多く、赤丸城ケ平の横穴古墳群からも貴人か軍の統率者が所持したと見られる剣の柄頭に銀製で象篏細工をした「頭椎 カブツチ の太刀」の柄頭が発掘されている。富山県内では呉羽にも出土したらしいが失われて記録もない。城ケ平の発掘物も時の「帝室博物館」(※現在の国立博物館)に持ち去られたまま、行方不明と云う。小矢部市の様に現地に現物が保管され続けている事がいかに貴重な事かを感じさせられる。「歴史遺産」が熱意の無い官僚や、発表するだけの学者の手にかかると、その時が過ぎれば恰も「ゴミ、芥 アクタ」の様に扱われている事がこの事例で分かる。




■【古代の甲冑と剣のイメージ】




▽(参考)「銀で象篏された城ケ平古墳群(赤丸、馬場地内)出土の頭椎の剣の柄頭」
神武天皇の軍隊は、柄頭が環になった「頭椎の太刀」を使用したと云う。(※「日本書紀の暗号」林 青梧)













■「小矢部ふるさと歴史館」の位置







■「古代の鎧」※小矢部市の「谷内古墳群」出土



「鎧」の胴部分⇒前後に分かれている。


鎧の部品が溶接されている。→所々に溶接した膨らみが見られる❗



「短甲」と呼ばれた上半身の古代鎧の復元模型(黒く漆が塗られている ❗ )


「古代鎧の頸甲・肩甲」と、下は復元模型(黒)※首・肩の鎧




「皮草摺 カワクサズリ」※腰と大腿部の防具→腐食して炭化


埋葬状況→長い穴に副葬品の刀、槍、飾り等のと共に埋葬された。



「鉄刀」と「鉄剣」→柄には玉石や菅玉、金具の装飾がつけられたものも発掘されている。
(☆歴史館の許可で撮影。)

■[小矢部市内史跡位置]


📙📘 加賀藩の記録 ⇒加賀藩の奉行が遺した地誌録に残る「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」、「吉岡庄」、「五位庄」 。

2018-11-25 | 富山県小矢部市
●「宝永誌」(※砺波郡・射水郡編)


・富山県の古記録「喚起泉達録」と「肯搆泉達録」



■加賀藩の奉行の報告書「宝永誌」に加賀、能登、越中(砺波・射水編、新川編)の各編の存在が分かった。しかし、富山県内には南砺市に砺波・射水編の写ししか無く、富山県立図書館にも一部の写しが在ると言う。
「宝永誌」に拠ると、「越中吉岡庄」は宗良親王が「五位庄」と改名され、赤丸村の「川人山鞍馬寺七坊」・「赤丸浅井神社」が「三社権現」で在った事、赤丸村に「浅井城」が在り、「昔、元正天皇の皇子が在城され、その後、一向一揆の大将の下間和泉が在城した」と言う。
(※「肯搆泉達録」にも「赤丸浅井城に元正天皇の二宮が在城された」と記されている。)

ここに記載される「元正天皇二宮」とは、文武天皇の二宮で在り、母の石川刀自娘(イシカワノトジノイラツメ)が藤原不比等により廃妃されて、母と共に臣籍に降下させられた「石川朝臣広成」の事で、大伴家持と同じ舎人と成って恭仁京に赴任し、万葉集に歌を三首遺している。義兄は聖武天皇で、元正天皇は勅令を出して「天皇の子は全て親王とする」として広成の身分を保証して、後には「高円朝臣広世」と賜姓されている実在の人物だ。(※「続日本紀」)


🐎🐎 『寿永の乱』の史跡【倶利伽羅古戦場】 ⇒「源平盛衰記」と「砺波山」の戦い!!

2018-11-23 | 富山県小矢部市
■【源平古戦場地図】
(※「砺波山古戦場誌」埴生小学校校長平野良作 著)



■「喜多川歌麿作」の浮世絵には木曽義仲軍の「石黒光広」の姿が記載される。


●木曽義仲軍に取り囲まれた平家軍の陣営を見ると、「火牛の計」を用いられなくても平家が慌てた事は理解できる。狭い間道に500頭もの牛を走らせると言う戦略は実際には不可能だ。義仲軍は地元に精通した「石黒」「樋口」「林」「富樫」「宮崎」「向田」「高楯」「蟹谷」等が中心で在り、この布陣を見ると、平家軍は逃れられない袋小路に自ら入り込んでいた事が判る。この布陣では平家軍が逃げる場所は背後の地獄谷しか無かった。そこは獣も通れない険しい谷であり、この谷は平家の遺骸で埋まり、谷川は朱に染まったと云う。現在は戦場で散った武将達を弔うかの様に『純白のこぶしの花』が谷のあちこちに咲いている。この花は辺りに芳しい薫りを振り撒いている。








🔷🔹「蜷川家文書」に見られる『越中蜷川氏』と『斎藤利三』・『春日局』!! ⇒室町時代に室町幕府政所代「蜷川新右衛門親当」を輩出した「越中蜷川氏」の末裔達。(※「物部氏系宮道氏」)

2018-11-17 | 富山県小矢部市













■「越中蜷川氏」は越中に在っては、新川郡と砺波郡の二郡を統治したと伝わるが、「蜷川家文書」に拠れば、「射水郡」の統治に関する書類が多く残されており、室町幕府政所代として相当の権力を持ち、越中全体に影響力を持っていたと見られる。系図に拠れば、一族は大きくは越中、丹波に分かれる。越中蜷川氏は神保氏との抗争に敗れたとされる。
(※「蜷川の郷土史」)

■今昔物語に登場する『藤原利仁将軍』の末裔で「斎宮守」に成った系統は「斎藤」と名乗り、その系譜は加賀に在っては「加藤」に成ったと言う。越中石黒氏、越中井口氏、加賀林氏も「藤原利仁将軍」を先祖にすると伝える。美濃の斎藤氏もこの「藤原氏」とされる。




■「織田信長」を本能寺で襲った「明智光秀」の家臣『斎藤利三』の母は「越中蜷川氏」末裔の丹波系「蜷川親俊」の娘。妻は斎藤道三の娘。
⇒「斎藤利三」の娘は春日局「※お福」!!
『本能寺の変』(※「明智光秀の反乱」)には「斎藤利三」と共に越中蜷川氏の子孫の丹波系「蜷川貞周」、「蜷川貞房」が従軍していたと云う。斎藤利三の娘の「お福」は『徳川家康』から『徳川家光』の乳母に取り立てられ「大奥」を作り上げる等、権勢を奮った。

🔘🍁 「越中砺波山の源平の戦い」を記す『源平盛衰記』(※巻29「般若野軍の事」~「平家落上所々戦事」)⇒「越中石黒氏」等の越中木曽義仲軍諸将の活躍で平家は「倶利伽羅谷」の露と消えた!!

2018-11-13 | 富山県小矢部市
■北陸の源平の戦いで「木曽義仲軍」は高岡市伏木の「古国府」に入り、石川県境の「砺波山」へ「後白河上皇」の「後院領」で在った「越中吉岡庄」を大きく迂回して庄川沿いの「般若野庄」を経由し、「砺波山」へ向かって進撃した。その時に木曽義仲軍には、越中の国人「池田次郎忠康」・「石黒光弘」・「宮崎」・「向田」・「水巻」・「南保・「高楯」・「福田」・「賀茂嶋」や加賀の国人「林」・「富樫」・「下田」・「倉光」等が従軍した。




■「喜多川歌麿」の版画「木曽義仲群将図」には高岡市福岡町木舟に在った「木舟城城主 石黒光弘」が載っている。(※東京都立中央図書館所蔵)


■源平の激戦場に成った「砺波山」、「倶利伽羅谷」の戦場には名刹の「倶利伽羅不動寺」が建つ。









■【源平盛衰記】
(※江戸時代写本「巻第二十九」)












































💥🐎 寿永二年五月「源平倶利伽羅谷の戦い」!! (※「源平盛衰紀」、「礪波山古戦場誌」平野良作著)

2018-11-01 | 富山県小矢部市



■越中木舟城城主『石黒光弘』が描かれた浮世絵「木曽義仲軍将』(※喜多川歌麿作)
(※「源平盛衰記」には、「石黒光弘」の父の赤丸浅井城城主「石黒光景」の記載も在る。)









■平維盛軍一万八千(総勢十万)と木曾義仲軍一万四千(総勢五万)は寿永二年五月十一日(※1183年)、越中と加賀の境に在る倶利伽羅山(礪波山)で激突した。
平家軍は平維盛(重盛の子)、平通盛(清盛の弟敦盛の子)、平行盛(重盛の弟基盛の子)、平知度(重盛の弟)、平経正(清盛の弟経盛の子)、平清房(知度の弟)を主将として、越中前司平盛俊が五月八日に先遣隊として倶利伽羅山から般若野に進むが、九日午前六時から般若野の戦いが始まり、平家は押されて倶利伽羅峠から加賀に後退。

■木曾義仲軍は五月五日、越後から越中に進み五月九日伏木古国府に入る。
義仲軍は「般若野の戦い」の後、十一日朝、本隊は般若野を発ち倶利伽羅山に進発する。支隊は能登の志雄から西山を越えて越中に進む平家軍に対応して能登の志雄路を攻める。十一日十時頃、小矢部市蓮沼村に到達した義仲は遥かに八幡宮を見て越中の住人(吉岡庄ー赤丸村鞍馬寺)池田次郎忠康の案内で埴生護国八幡宮に参拝して願文を納める。

■「寿永の内乱論序説」朝香年木著 に拠ると、小矢部市今石動は古くは「池田」と呼ばれ、この池田氏の所領で在ったとされる。又、赤丸村には池田島、氷見市に池田、高岡市インター周辺にも池田地区が在る。池田家は延喜式内社赤丸浅井神社の境内地先に館を構え、高岡市関町の総持寺等の敷地はこの池田氏の寄進に拠るものと伝えられる。古くからの有力な国人領主と見られる。
(※「長慶天皇の五位庄に於ける御事跡」川人貞良著 高岡市中央図書館蔵書 参照)

■義仲軍は樋口支隊樋口兼光、余田次郎を初め林光明、富樫泰家、宮崎太郎、向田次郎兄弟等の兵六千、根井支隊根井小弥太は蟹谷次郎他の兵二千、義仲の愛妾巴午前を初め水巻安高、安経兄弟等の兵七千、今井支隊今井兼平を初め石黒光弘、高楯光延他の兵六千、本隊源義仲を初め兵二万が倶利伽羅山に陣取った平家軍を四方から包囲して対峙した。
午後十時頃、 先ず樋口隊が太鼓、法螺貝を吹き鳴らして倶利伽羅西側より攻撃を開始して夜襲が始まる。疲れきった平家軍は鎧を脱ぎ油断していた処を攻め込まれて慌てふためいて我先に逃げようとするが、真っ暗な山中で道は狭く周辺は切り立った崖ばかり。一方、源氏側は石黒、蟹谷、向田等の越中諸将は地元の住人で在り、山道も熟知していた。一方、平家側の先遣隊越中次郎兵衛盛俊は元、吉岡庄国吉名に館を構え能登、越中を支配した平家の有力武将で在ったが(※「国吉小史」)、突然の夜襲に慌てふためいている平家軍を静める事もできずに、平家の軍兵一万八千は深い倶利伽羅谷に落ちて死骸は谷を埋め尽くしたと言う。






■石川県津幡町「道の駅」には「砺波山合戦」に関する様々な展示がされる。

💠🔹 【倶利伽羅不動寺御開山1300年記念事業】「本尊特別御開帳」と「刀剣展覧会」 !!

2018-10-31 | 富山県小矢部市


(※Hpは以下をクリック)
「倶利伽羅不動寺開山1300年記念行事」の【刀剣展覧会】開催中!!









■刀剣展覧会開催中!!
刀剣女子達の行列が続いています。
入場料 1300円
場所 倶利伽羅不動寺の会館

■本尊【倶利伽羅不動剣】の御開帳!!
日常は奥殿に安置されて見られない倶利伽羅不動寺の本尊【倶利伽羅不動剣】が直ぐ目の前で拝観できる。
拝観料 1000円~
場所 倶利伽羅不動寺本堂へ入り、拝観希望の旨、申込する。

■通常は倶利伽羅山の奥の院に祭られている「空海作」と言われる「不動明王像」は津幡町の別院で御開帳中!!

🔷この刀剣展覧会では越中の刀剣も展示されており、高岡市福岡町赤丸に栄えた「宇多刀工」の中では「宇多国宗」が展示されている。尚、この倶利伽羅山の山並である高岡市福岡町西明寺の「高岡市福岡歴史民俗資料館」では、富山県文化財を含む「宇多刀」の展覧会が開催されており、富山県の西山は「刀剣ブーム」に沸いている。(※「宇多刀工」は高岡市福岡町赤丸を発祥として、福野町、小矢部市等の小矢部川水系や富山市太田、舟橋村等に展開した南北朝から江戸時代迄続いた。その作品は膨大で富山県文化財には多くの「宇多刀」が在る。⇒2018.10.13~2018.12.2)






💠💠富山県と石川県の県境に在る「源平盛衰記」の古戦場⇒「木曽義仲」と倶利伽羅古戦場!!

2018-10-31 | 富山県小矢部市
■「源平盛衰記」に登場する「木曽義仲」と「平家」の古戦場「倶利伽羅山」(砺波山・利波山)



■「平家物語」では、「巻七 火打合戦」、「願書」、「倶利伽羅落」に記載されるが、鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」では「木曽義仲」の功績を消す為か「寿永二年」の項目がスッポリ抜かれている。



・越中の石黒、宮崎、入善等と共に、加賀林一族の林六郎、富樫等の名前が見られる。(※「平家物語」寿永二年四~五月)




■石川県津幡町の「道の駅」の敷地の近くには温泉施設、土産物売場、倶利伽羅不動寺別院が在る。富山県側の木曽義仲の本陣が在った埴生護国神社の前に在る「道の駅」には木曽義仲が願文を納めた埴生護国神社の資料等が展示されている。
高岡市の総持寺の千手観音像が伝わった『河内金剛寺』を創建した『源貞弘』は、平清盛配下として参戦したが、この地で戦死している。
































🌸🌸🌸🌸「源平盛衰記」の倶利伽羅山の戦いの戦場「地獄谷」を望む「佐々成政」の古城跡の「源氏ケ峯城跡」!!

2018-10-15 | 富山県小矢部市
源氏ケ峯の尾根はハイキングコースに成っている。







■倶利伽羅山は毎年、春になると「八重桜祭り」が行われる。倶利伽羅不動寺に拠れば、この桜は高木さんと云う夫婦が曾て、二人で4千数百本を植えたが現在は三千数百本に減っている。砺波山全山の道沿いに植えられ、全山をピンクに染めている。
「源氏ケ峯城」の展望台から地獄谷を望むと、鮮やかな周辺の桜や緑が巨大な霊場に捧げられた花々の様に見える。
倶利伽羅不動寺の「八の日」と呼ばれる縁日で、八重桜と同じ「赤い餅」が不動尊の前庭で信徒が搗いて不動尊に捧げられる。





■源氏ケ峯から「源平盛衰記」で平家の将兵が転がり落ちて行った「地獄谷」を望む。













🌸🍁 越中と加賀の境に在る「源平の古戦場 倶利伽羅谷」⇒「倶利伽羅不動尊」の古文書展示!!

2018-05-24 | 富山県小矢部市
🍁秋雨に煙る源平古戦場に建つ「倶利伽羅不動尊」









●小矢部市と津幡町の境界に建つ真言宗「倶利伽羅不動尊」の秋 !!
⇒津幡町重要文化財「源頼朝下文」、「前田利長文書」等が公開中です。


▼木曽義仲や越中石黒氏等が平家軍が激戦を交わした「源平利波山の戦い」では多くの源平の軍勢が亡くなった。南朝の行宮として有名な「河内国金剛寺」は「後白河上皇」が創建されたが、この寺院に「寺領」を寄進した源氏の武将「三善貞弘」はこの「倶利伽羅谷の戦い」で平清盛輩下として戦死しており、この「金剛寺」から高岡市関町の「国指定重要文化財木造千手観音座像」が「越中吉岡庄」に伝来している。

◆現在、「倶利伽羅不動尊」では古文書「頼朝下文(くだしふみ)」等が展示中です。






(※津幡町の説明文)
【1965(昭和40)年11月1日 津幡町文化財(古文書)指定
1183年(寿永2年)年の源平合戦で焼失した「長楽寺」の要請により、1196年(建久7年)10月9日の日付をもって源頼朝は遠江守重頼(とおとうみのかみしげより)にこの文書を与えて当地に派遣し、堂塔伽藍(どうとうがらん)を再建し、寺領を寄進し、将軍家の祈檮所としたといわれています。
 源氏の総領である頼朝からの寄進状は、徳川家(新田源氏)と姻戚関係になった前田家には効果があったようで、加賀藩3代藩主前田利常が不動堂、二王堂の建立を発願する際に、この下文が長楽寺を庇護する拠りどころとなったものと考えられます。書体等から見て、この下文は江戸時代のものと思われますが、荒れ果てた当時の長楽寺の再建を語る資料として貴重なものです。】


「前田利長文書」


■「倶利伽羅不動尊」二つの本尊「不動尊」!!
①本堂には「空海作」と云われる不動尊が在り、毎月の一日、第一日曜日、28日に開帳される。普段はお前立ちの不動尊が祀られている。



②「施無畏堂」には「施無畏三蔵法師作」の不動尊が祀られており、30年に一度、御開帳される。


→「倶利伽羅不動尊」は砺波市の「千光寺」、小松市の「那谷寺」の兄弟寺とされる。この寺の文化財は嘗て、津幡町や有志の歴史家が調査した事があるが、未々、未解明の史料も多いと云われる。

🔳🔲 『越中吉岡庄』、『越中五位庄』は何故「富山県史」から消されたのか?

2018-05-24 | 富山県小矢部市



■「平成26年」になってから初めて「国立歴史民俗博物館」は「庄園データーベース」に【越中吉岡庄は高岡市福岡町周辺】と確定した。



■「保元の乱」の後に「後白河上皇」の「後院領」と成り、上皇は自ら創建した「蓮華王院 ※三十三間堂」の庄園とされた。



■「白河天皇」の時に「上賀茂神社」の庄園と成り、その後、「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園になって歴史上誰もが知る「保元の乱」で「後白河上皇」の「後院領 」になった『越中吉岡庄』は、その後、「後鳥羽上皇」以後、「後醍醐天皇」迄皇室庄園として続いた。その庄園の地域神が「延喜式内社赤丸浅井神社」で在る。「赤丸浅井神社」の祭神は天皇家の神の「正一位 高皇産霊神」を祀っており、「文徳実録」等に拠ると、天皇家の神として天皇祭祀が行われた宮中の神殿の分院的な扱いで在り、越中の式内社が社格や位階を与えられた時にも、この神社だけは別格の神社として扱われ、神社前を通過する者は必ず「下馬して拝礼する定め」で在ったと云う。(※「赤丸浅井神社由緒」)
南北朝争乱の記録の「花栄三代記」にはこれも又、有名な「桃井直常の五位庄の戦い」が記載されて、後には能登畠山氏が守護と成り「足利義満」の時代には「金閣寺」で知られる著名な「相国寺」の庄園になって、その後も足利将軍家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園になっている。歴史書でも「平範記」や「東寺百合文書」等にも登場している「越中吉岡庄」、後の「五位庄」が何故、富山県の歴史から抹殺され、学者すら「富山県史」にも記載しない状況になったのか?
その「富山県史」すら「越中吉岡庄」は富山市吉岡村等も挙げた上で「恐らく富山県福岡町の吉岡が越中吉岡庄の可能性が高い」と言う表現に止まり、断定はしていない。「東京大学資料編纂所」のデーターベースでも「越中吉岡庄」は「砺波郡」では無く、「射水郡」と但し書きが付けられている。富山県内の歴史家でも「越中吉岡庄」を「富山県福岡町赤丸周辺」として著作に記載している方は非常に少ない。
高岡市は、「義経記」の「五位庄二位の渡し」で弁慶が義経を打擲する場面で「守護の舘が近ければ」と記載される事から、この「二位の渡し」は守山近くの守護町に守護がいたからこの「二位の渡し」は「守山城近くの六渡寺の渡し」だとして、当時の高岡市長が大きい看板を書いて 、この小矢部川河口に巨大な「義経と弁慶像」を造って「ここが勧進帳の原点」として宣伝している。少し歴史を知った方だったら御存じだが、元々放生津に在った守護所は桃井直常との戦乱の後に斯波氏が越中守護となった時に僅かの間だけ守山に守護所が設けられた。「義経記」は南北朝時代頃に記載されたと云われる事から、「守護の舘が近ければ」と書いたのかも知れないが、「義経記」ではわざわざ「五位庄に至り」としてこの事件は「五位庄の出来事」であると断っている。ここで、「義経記」には誤りが有り、義経が「五位庄」を通過した時期には「五位庄」では無く後白河上皇の「後院領」の「吉岡庄」と呼んでいた。しかも、「吉岡庄」には源頼朝配下の地頭「吉岡成佐」が配置されていた事が「吾妻鏡」に記載が有り、「吉岡庄」には「地頭」だけが配置されていたのだ。そもそも、富山県の歴史家は赤丸村周辺が天皇を退位された上皇の庄園の「後院領」で在った事すら知らず、この「後院領」は「後院庁」と云う上皇直属の役所が管理しており、守護の不入地域で在り、専任の「後院司」が政務を行っていた事も御存じ無い。この「後院領」に地頭が配置されたのは「義経の探索の為」として頼朝が配置したものだが、実際には地頭は収穫物から院庁へ税を納める役割だけで守護の様に裁判権等は無かった。この地域は「後鳥羽上皇」の時には「石動山」も「後院領」で在ったと「日本庄園史大辞典」には載っており、全体が皇室や貴族の庄園が広がっていた様だ。
「越中吉岡庄」は平成24年に『国立歴史民俗博物館』のデーターベースで「高岡市福岡町」周辺の吉岡庄として確定して頂き、「五位庄」についても、平成28年に「東寺百合文書」に見られる「おいの庄」=「五位庄」であると確定して頂いたが、何故、富山県では敢えてこの有名な庄園を歴史的に無視してきたのか?
これは単にこの地域で主張する歴史家が居なかったと云う事も有るかも知れないが、この地域の独特の歴史も近寄りがたい原因だったと思われる。元々、「藤原氏長者藤原頼長」の庄園だったが「後白河上皇」に逆らって殺され、その後の「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」は王政復古を目指して倒幕を進めて島流しになった。その後、「日本国王」を名乗った「足利義満」はこの庄園を室の供養の為に「相国寺」(※金閣寺)に寄進して、その後も足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園として続いた。長く続いた室町幕府の足利将軍が「織田信長」に廃位させられ、その織田信長が越中に侵攻してその配下の「佐々成政」は豊臣秀吉に自害させられ、その後越中を治めた「前田利家」は「佐々成政」を「小百合伝説」等で悪逆非道の武将と印象付けて、佐々勢に味方した「五位庄」地域に徹底的に酷税をかけて報復している。前田家の治世では、触れてはならない「タブーとされた地域」の印象が強かったものか?
兎に角、この様に最近迄「越中吉岡庄」、「越中五位庄」については長く天皇家の庄園だったにも関わらず歴史家すら興味も示さず放置されてきた地域だ。しかし、地域の歴史資料を掘り下げれば他地域に劣らず豊富な歴史資料が埋もれており、非常に興味深い地域である。惜しむらくは、この地域に残される明らかな史跡が「延喜式内社赤丸浅井神社」しか遺されていない事だ。しかも、度重なる戦禍で施設が度々焼き付くされ、古文書も金沢市図書館や石川県立図書館、国会図書館等の県外施設にしか遺されていない。その為に富山県内の歴史には登場する事も少なく、「高岡市史」の様に偏見に満ちた史料もこの事に拍車をかけている。
福岡町が高岡市と合併して十年以上にもなるが、「高岡市」の偏見に満ちた歴史を変えようと云う機運も生まれないのは残念な事だ。