■富山県高岡市福岡町赤丸村の周辺には浄土真宗「連如」ゆかりの「土山御坊跡」(*福光町)や素晴らしい庭園の「光久寺」(*氷見市)が在り、又、富山県の名勝地「宮島峡」(*小矢部市)等の史跡や名勝地が在る。
■「土山御坊」は「連如」が白山麓で浄土真宗を布教する為に建立した深い山中にししあるお寺の跡。
「光久寺」は「連如」が氷見市周辺の布教に使ったお寺で、古い庭園が有名。近くには江戸時代の剣豪「斉藤弥九郎」の出生地がある。
「宮島峡」は小矢部川の支流の上流にあり、近くには加賀藩前田家の墓所もある。
一帯には古墳が散在し、古代から文化が栄えた。越中は「大伴家持」が国司をしており、周辺には「太平記」にも記載されている「五位庄」(前身は皇室庄園「吉岡庄」)があり、南北朝時代の史跡も点在する。「後白河上皇」・「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」、奈良の公家や豪族、奈良の東大寺の荘園等もあり、古くからの米の産地、集積地だった様だ。福光町は富山県西部の古代豪族「利波臣」の発祥地と云われ、小矢部市には著名な「倶利伽羅古戦場」が有り、次いで「義経記」にも登場する「五位庄」、国吉村の「東大寺庄園須加庄」、氷見から日本海沿岸一帯は「東福寺庄園」が広がり、古代から越中の政治、文化の中心地で在った。小矢部川下流の「越中の国府」から「五位庄」の赤丸村地内~「小矢部市」~「福光町」は古代道の「駅」で繋がる米の交易の一大ルートだった。小矢部川には米俵を積んだ船が行き交い、越中国司「大伴家持」は、
「朝床に聞けばはるけし射水川 朝漕ぎしつつ唄う船人」とその様子を詠んでいる。
「吉岡庄」(赤丸村)に在った「川人山鞍馬寺」は京都の鞍馬寺が勘請されたものと伝わり、その本尊の阿弥陀如来立像は各所を流転して、現在は井波町の名刹「瑞泉寺」の客仏として宝蔵に祀られている。
■小矢部市の「宮島保」は鎌倉時代の「吾妻鏡」に、摂家将軍「藤原頼経」の父の「藤原道家」の庄園として登場している。
〇東福寺を創建した「九条道家」の越中の庄園「宮島保」についての「吾妻鏡」の記載。
〇[越中の東福寺庄園の事]→ 越中國東條。河口。曾祢。八代保。 東福寺庄園は門徒の氷見の八代氏が地頭となり管理した。氷見阿尾城の菊池氏も八代氏の同族らしく、東福寺の檀家であった。
(※「戦国・氷見」氷見市)
【吾妻鏡】
「延應元年(1239)七月大廿五日壬辰。越中國東條。河口。曾祢。八代等保事。爲請所。以京定米百斛。可備進之旨。地頭等去年十一月献連署状於禪定殿下〔道家〕。仍可停止國使入部并勅院事以下國役之由。同十二月國司加廳宣。就之。去正月任國司廳宣。地頭等寄進状。爲東福寺領。停止并勅院事國役等。爲地頭請所。可令備進年貢百石。兼又當國宮嶋保雖爲當家領。被糺返國領之由。被下禪定殿下政所御下文。是爲寄附彼寺。所被相傳也。仍被申其趣於將軍家之間。可存其旨之由。今日被奉御返事云々。」
【7月25日 壬辰
越中の国東條・河口・曽祢・八代等の保の事、請所として、京定米百斛を以て備進すべきの旨、地頭等去年十一月連署状を禅定殿下(藤原道家)に献る。仍って国使の入部並びに勅院の事以下の国役を停止すべきの由、同十二月国司の廰宣に加う。これに就いて去る正月国司の廰宣・地頭等の寄進状に任せ、東福寺領として勅院の事以下の国役等を停止し、地頭の請所として年貢百石を備進せしむべし。兼ねてまた当国宮嶋保は当家領と雖も、国領に糺返せらるるの由、禅定殿下政所の御下文を下さる。これ彼の寺に寄付せんが為相伝せらるる所なり。仍ってその趣を将軍家に申さるるの間、その旨を存ずべきの由、今日御返事を奉らると。】
⇒【解説】( 越中國の東條保。河口保。曾祢保。八代等保 は藤原道家が寄進し東福寺領と成り、小矢部市の宮嶋保は国庫に返還された。 東條・河口・曽祢・八代等の保は 米100石で地頭が管理する事で地頭が連名で藤原道家に請状を提出した。)
●九条道家の子の九条(藤原)頼経(九条頼経)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍で藤原摂関家から迎えられた摂家将軍。両親ともに源頼朝の同母妹「坊門姫」の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係で妻は源頼家の娘竹御所。竹御所は難産の末、母子共に亡くなり源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された。(宮騒動)
この時に源義経の弟の範頼を育てた熱田神宮神官は追放される頼経を送り届ける役であったと云う。